瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(22)

赤堀象万侶⑦『赤堀氏旧記』2
 昨日の続きで群馬県立歴史博物館紀要」第20号掲載「秀郷流赤堀氏の伝承と資料の調査」の、簗瀬大輔が担当した「二 赤堀鉊三郎の記録 ―近世の赤堀氏―」の、群馬県佐波郡赤堀村今井(現・伊勢崎市赤堀今井町)の赤堀鉊三郎が纏めた『赤堀氏旧記』にその極一部が引用されている、赤堀象麻侶及び赤堀又二郎の談話や通信について見て置こう。
 前回、その前置きを引いた「(三)県外赤堀氏の系譜に関する記述」の節と、続く158頁上段16行め~159頁下段8行め「(四)藤原秀郷の伝承に関する記述」及び159頁下段9行め~160頁上段14行め「(五)赤堀文書に関する記述」の節に、象麻侶の談話等には(一)節にあった整理記号により[Cイ]、又二郎のそれには[Cウ]を添えて引用してある。
 (四)(五)節の内容にも興味深いものがあるが、長くなるので別の機会に取り上げることとし、今回は(三)節について見て行くこととしたい。
 この節には【名古屋赤堀氏】【犬山赤堀氏】【久居赤堀氏】【姫路赤堀氏】【伊勢赤堀氏】【氷上赤堀氏】【赤土赤堀氏】に関する『赤堀氏旧記』及び『舊事舊事記』の記載を抜いているが、その主要な部分は赤堀象麻侶の談話である。
 まづ簗瀬氏の整理に従って【名古屋赤堀氏】に関する記述から見て置こう。156頁上段22行めから3条、2字下げで間を1行ずつ空けて抄録している。ここでは行間は詰め字下げも略した。下段7行めまで。

「名古屋ニ赤堀秀時ト云フ者アリ、當時名古屋控訴院ノ書記/【上】ヲナシヲレリ、是又瀬兵衛ノ子孫ニシテ當家ト祖先皆兄弟ナ/リシナラン、赤堀秀時ノ祖先上州赤堀ヨリ出テゝ尾州侯ニ仕/フ、成瀬某ノ肝煎ニヨリ治平ノ後ニアツテ名族ト云フヲ以テ/三百石ヲ賜ハル、后チ幼年相続等ノモノアリテ二百石ノ世禄/トナリ、維新前迄扶持セラル」[Cイ]
「秀時氏ハ赤堀惣右衛門ノ家ナリト」[Cイ]
「象麻侶氏来状ニ名古屋門家秀賢氏昨二月六日病死」[Cイ]


 それから【犬山赤堀氏】の3条め(下段13~14行め)もこちらに配置すべきであろう。

「象麻侶氏ハ名古屋赤堀秀時氏トハ懇親ノ間ナリト云フ、今/回来訪ノ事ハ秀時氏ニ傳ヘシトノ事ナリ」[Cイ]


 赤堀秀時(1829.六.十九~1906.3.8)については名古屋市役所 編纂『名古屋市史』人物編第一(昭和九年五月二十五日印刷・昭和九年五月二十八日發行・川瀬書店・前付+一六+四九四頁)四八六~四九〇頁「第十三 雜 技」に8人挙がる中に、四八八頁9行めに4字半下げ漢数字は半角で「七 赤 堀 秀 時」とあり、10~13行め、

 赤堀秀時、通稱は源之進、琴聲と號す。別に棋樂庵·硌甫の號あり。文政十二年六月十九日、江/戸の藩邸に生まる。性質慷慨義を好み、明治維新の際、國事に奔走す。明治三十九年三月八日/殁す。享年七十八。長榮寺〈中區梅/川町、〉に葬る。秀時、平生文事を嗜み、又圍碁を善くす。晩年歌俳を樂み/とし、又圍碁を教授し、專ら風月を友として悠々自適せり。(汲古)

とある(句読点は字間に打つ)。
 そして下段9~12行めに【犬山赤堀氏】について、やはり赤堀象麻侶の談話がある。

「予等ハ赤堀弾正時秀ノ子瀬兵衛ノ子孫ナリ」[Cイ]
「赤堀象万侶祖先上州赤堀ヨリ出テゝ尾州侯ニ仕へシモノゝ/子孫ナリ、成瀬某ノ出テゝ犬山城ニ封セラルゝモノニ従ヒ今/猶犬山ニ」[Cイ]


 赤堀時秀や赤堀瀬兵衛については別に検討することにしたい。今はこの説明が、赤堀象麻侶が著者自筆本を所蔵していた『犬山里語記』に見える針綱神社神官赤堀家の説明と食い違っていることだけ指摘するに止める。
 次いで【久居赤堀家】について、下段16行め~157頁上段1行めに赤堀象麻侶の談話として、

「赤堀又二郎祖先上州赤堀ヨリ出テゝ尾州侯ニ仕へシモノゝ/子孫出テゝ勢州久居(一志郡)藤堂侯ニ仕フ、又二郎其養子/トナレリ、養父ハ藤堂侯ノ家老トナリ先々没ス、養母ハ健在/【156】ナリ」[Cイ]

とある。その後、赤堀氏の原籍が東京市牛込区市谷加賀町二丁目二番地に移ったのは、東京で学究・著述生活を続けて久居に戻るつもりがないところから、自ら希望して久居赤堀家からは除籍となったものであろう。
 久居には現在赤堀家は存しないらしく(大して調べていないが)家老であったと云うのもよく分からない。
芳賀矢一 編『日本人名辭典』大正三年九月二十三日印刷・大正三年九月二十九日發行・正價金三圓・大倉書店・三+二+6+95+83+13+1174頁
芳賀矢一 編『日本人名辭典』大正三年九月二十三日印  刷・大正三年九月二十九日發  行・大正三年十一月 十 日二版發行・大正四年五月 十 五 日三版發行・大正五年二月二十五日四版發行・正價金三圓・大倉書店・二+6+三+95+83+13+1174頁
 国立国会図書館デジタルコレクションでは2つの版が閲覧出来る。編者「凡例」の最後、三頁6行め「‥‥改版毎に訂正増補を怠らぬ積である。」とあり、芳賀矢一「緒言」二頁4行めにも「‥‥年々改版訂正して‥‥」とあるのだが、頁や行がズレるような増補は行われていないようだ。
 858頁下段12~15行め、初版・四版全く同じで、

ヒサヲ 古雄(赤堀) 國學者。通稱新之丞。伊勢久/居の藩士。文政九年本居春庭の門に入る。
ヒサヲ 古雄(上島) 國學者。本居大平の門。通稱/新之丞。伊勢久居の人。

とある。これは『本居全集』首卷(明治三十六年三月廿五日印刷・明治三十六年三月三十日發行・吉川半七・一七九頁)二六~三五頁「春庭門人帳」に、三三頁下段23行め~三四頁上段15行め「文政九戌年」入門者15人のうち6番めに「同(伊勢國)同(久居 家中) 赤 堀 新 之 丞 古雄*1」と見え、三十六~四三頁、小田都子「藤垣内翁畧年譜」すなわち本居大平(1756.二.十七~1833.九.十一)の年譜にこちらは入門順ではなく地域別の、四四~五四頁「附録教子名簿」があるが、四五頁2段め(4段組)19行め伊勢國「久居」は1人だけ「上 島 新 之 丞 古雄」が載る。同じ「久居」で「新之丞」と云う通称と諱「古雄」まで一致するのが気になるので注意して置く。
 この赤堀古雄が、赤堀又次郎の養父の父親くらいに当たるのではないか、と思われるのである。(以下続稿)

*1:ルビ「ヒサヲ」。