瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(24)

・赤堀象万侶⑨赤堀佐渡子・中島セキ
 昨日は群馬県立歴史博物館紀要」第20号掲載「秀郷流赤堀氏の伝承と資料の調査」の、簗瀬大輔が担当した「二 赤堀鉊三郎の記録 ―近世の赤堀氏―」の「(二)今井赤堀氏の系譜」に「前述」されている【赤堀瀬兵衛】に関する記述を簡単に紹介して一旦この問題から離れるつもりであった。
 しかしながらこの尾張藩附家老成瀬氏に従って西遷したとする説は『犬山里語記』巻の二「一、神主赤堀家の事」に見える、針綱神社神官赤堀家の由来と異なっている。しかしそれは赤堀象万侶の伝記からは離れるので、赤堀象万侶についての資料を先に片付けてしまってから取り上げることとしよう。
 3月27日付(06)に取り上げた、明治17年(1884)刊〈明 治/十七年〉御會始歌集』であるが、上卷四十七丁表3行めに、

大空のみゆる限りは雲もなし聲ものとかに田豆鳴わたる  〈稻置   / 象萬侶妻〉 赤 堀 佐 渡 子

とある。稲置は4月10日付(20)に見たように当時の犬山の呼称。――そうすると象万侶の妻は犬山にいて、夫が単身赴任のような按配で武儀郡関にいたのだろうか。
・『法人個人職業別調査録』第拾版(昭和參年拾貳月貳拾五日 第壹版發行・昭和五年參月貳拾日 第貳版發行・昭和五年拾貳月拾五日 第參版發行・昭和七年參月拾五日 第四版發行・昭和八年六月參拾日 第五版發行・昭和拾年七月參拾日 第六版發行・昭和拾壹年拾貳月貳拾參日 第七版發行・昭和拾參年五月貳拾八日 第八版發行・昭和拾四年拾貳月拾五日 第九版發行・昭和拾六年六月五日 第拾版印刷・昭和拾六年六月貳拾日 第拾版發行・豫約/定価 金四拾圓・國際探偵社)
 四三「銀行員及會社員」六一一頁のうち、四三ノ三九一頁3段め(4段組)6~16行め、[趣味]等は黒に白抜きだが再現出来ないので仮にこのようにした。

中 島 治 郞 吉
近藤辰次商店(株)取締役 故東九郞ノ三/男明治四年十一月廿一日岐阜縣ニ出/生同廿七年近藤利兵衞商店ニ勤務同/四十年辭ス大正九年近藤辰次商店ニ/入リ昭和十四年六月組織變更現社設/立ト共ニ現職ニ就ク[趣味]骨董[家庭]妻/セキ(明十一、愛知縣赤堀又二郞妹)/長男弘太郞(同四十、豐山中學卒)長/女佐美子(同四三)[住]豐島區雜司ケ谷/一ノ三〇二


・第十四版『大衆人事録』東京篇(大正十四年十二月五日 第一版發行・昭和二年十月廿日 第二版發行・昭和五年七月廿二日 第三版發行・昭和七年六月十五日 第五版發行・昭和九年十一月十五日 第十版發行・昭和十年十二月十五日 第十一版發行・昭和十二年十一月十七日 第十二版發行・昭和十四年十一月廿三日第十三版発行・昭和十七年十月一日 第十四版印刷・昭和十七年十月五日 第十四版發行・全四卷定價金百圓/各卷定價貳拾五圓・帝国秘密探偵社・九四+二+四+一一二四頁)では六九四頁3段め(6段組)41~48行め、冒頭2行取りで「中島 治郎吉」とあって、その下から、

近藤辰次商店(株)取締/豊島區雜司ケ谷一ノ/三〇二 [閲歴]岐阜縣九郞の三男明治四年/十一月廿一日生る近藤利兵衞商店勤務を/經て大正九年現商店に入り昭和十四年六/月改組と共に現職 趣味骨董 [家庭]妻セ/キ(明一一)愛知縣赤堀又二郞妹 長男弘太郞/(明四〇)豊山中卒 長女佐美子(明四三)

とある。法人個人職業別調査録』第拾版の内容を粗雜に簡略化したようである。
 近藤辰次商店は現在のコンタツ株式会社(東京都中央区八重洲1丁目1番8号)で、大正13年(1924)2月に現本店所在地に和洋酒缶詰問屋・近藤辰次商店として創業、昭和14年(1939)3月に法人組織とし、株式会社近藤辰次商店となる。昭和29年(1954)7月に株式会社近辰商店と改称、昭和46年(1971)2月にコンタツ株式会社と改称している。現在の事業内容は酒類・食料品総合卸である。
 それはともかくとして、中島治郎吉(1871.十一.二十一生)の妻は「愛知県赤堀又二郎妹」である。――明治11年(1878)生とすると赤堀氏の一回り下、赤堀象万侶が岐阜県武儀郡で関を拠点に複数の神社の神職を兼ねていた時期である。よって「セキ」と命名したのではないかと思われるのである。
 佐渡子は赤堀氏の実母なのか、セキは同母妹なのか、これだけでは断定は出来ないが、とにかく赤堀又次郎の父は赤堀象万侶、母が赤堀佐渡子、妹が中島セキであることには違いない。ただ兄の名前はやはり分からないままである。(以下続稿)