瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(37)

・『書物通の書物随筆』第一巻『赤堀又次郎『読史随筆』』(7)
 さて、佐藤哲彦「解題」では一言触れているだけの早稲田大学での講義だが、これには当時学生だった人物の回想があって、どのようなものであったかを窺うことが出来る。
・「國文學研究」第七輯(昭和二十七年十月十五日印刷・昭和二十七年十月二十日発行・定 価 百五十円・早稲田大学国文学会・170頁)
 127~170頁中段、特 輯早稲田学園創立七十周年記念/国文学科の思い出」は、127頁(頁付なし)は扉と細目、128頁(頁付なし)は横組みの「早稲田学園国文学関係諸学科沿革」、以下回想が前半7篇、まづ129~134頁上段、窪田空穂(明治三十七年卒)「明治二十年代の学生生活と、国文科創設当時」があって次に134頁下段~136頁下段11行め、岩本堅一(明治三十七年卒)「国文学科の歴史以前」がある。窪田空穂(1877.6.8~1967.4.12)と岩本素白(1883.8.17~1961.10.2)が同年に卒業しているのは窪田氏が中退してから復学したからで、窪田氏の回想はその中退前の学生時代と、大正8年(1919)の新国文科創立から2年めに早稲田の教員となった事情を語っている。岩本氏はこれに次ぐ明治30年代について書くよう編集部から指定された訳である。冒頭、135頁上段4行めまでを抜いて置こう。

 明治卅三年四月、私は今の早稲田大学の前身、東京専門/学校の予科へ這入りました。当時の予科は四月から七月ま/でで、英語政治といふ科へ進む者と、文科へ行く者とだけ/が履むもので、当時の文科と云ふのは、哲学及英文学科、/国語漢文及英文学科、史学及英文学科の三科に分れ、之を/総称して早稲田の文科と呼んで居ました。印刷物などには/文学部何々科とあり、哲国史に分れない以前の一本立て時/代は文学科と云つた様に覚えます。私は九月から国語漢文/及英文学科と云ふ科に籍を置き卅七年三月に業を卒へまし/たが、その間に東京専門学校が早稲田大学と改称され、新/たに文科が併置されて大学部の文科と云つて居ました。然/し、それは哲学と英文の二科だけで国語漢文を専修する科/は有りませんでした。私共旧文科の方から転入する事も許/されて居て、転じた級友も少くはなかつたのですが、私は/其の儘留まつて居ました。頃日、記念号編輯の方々から、/当時の国語漢文英文学科の教科目、及び講師に就いて書く/やうにとの事でしたが、遠い事で甚だ朧げに成つて居ま/【134】す。誤謬遺漏の点は御許し願ひます。
 思出すまゝに当時の課目と講師とを挙げると、国文学史/を武島又次郎(羽衣)、藤岡作太郎(東圃)、佐々政一(醒/雪)の三先生。‥‥


 そして以下22行めまで、合計33名の講師と担当課目を挙げて行くが、4~5行め「‥‥。言/語学を上田万年先生。国語学史を保科孝一先生。‥‥」が見える。そして8~9行め「‥‥。/祝詞を千秋季隆先生。枕草子を武島又次郎先生。大鏡と有/職故実赤堀又次郎先生。‥‥」と赤堀氏の名が見えている。千秋氏は赤堀氏と共著があるので序でに挙げて置いた。
 23行め~下段3行め、

 古事記平家物語の缺けて居るのを、自分でも思ひ違ひ/では無いかと思ひますが、赤堀先生の平家物語は当時講義/【135上】録の方で読んだ覚えが有り、千秋先生は祝詞だけを講義さ/れた様に覚えて居るのですが、若し間違つて居たら申訳も/ない次第です。‥‥


 そして、赤堀氏のことを特筆している。7~23行め、

 右のうち、国文学史を武島、藤岡、佐々の三先生が受持/たれたのは時代別では無く、共に近世を講ぜられたのです/が、武島先生は御都合の為、藤岡先生は御病気の為辞任せ/られ、佐々先生がお出でになりました。然しさう云ふ事情/で有つた為、特に学生の方から願つて、国文学史といふ名/目では有りましたが歌謡史を講じて頂きました。少し事柄/は違ひますが、赤堀先生の有職故実が、後に横にそれて、/国史国文に関する仏教のお話になつたのも、稍これに類す/るものが有ります。
 赤堀先生は当時極めて学殖の深い特殊の学者として聞え/た方でしたが、横に逸れたその講義は仏教も教理とか歴史/とか云ふ方面では無く、国史国文に関する仏教の実際的方/面の話を詳細に話されました。それを学生が喜んで傾聴し/要求し、先生も亦楽しんで講義される事から自然然う云ふ/事になつたかと思ひます。
 学生が此の様に稍自主的に動く傾向を持つた事は、学生/の年齢や知識が現今の様に略一律一定して居ず、‥‥


 もちろん、他の有名講師には別に回想の文章があるので(例えば上田氏には複数の雑誌が追悼記念号を出しているし保科氏には『ある国語学者の回想』がある)そのような文章のない赤堀氏について書いて置こうと思ったのかも知れない。
 そして、これで見ると、30年余り後に赤堀氏に接した反町茂雄が感じた、話が横に逸れて雑談ばかりになってしまう傾向は、既に30代にして胚胎していたことが分かるのである。
 149~153頁「文学部講義要目」は「凡 例」の1項め、149頁上段3~10行め、

一、本記録は早稲田大学文学部国文学科(大正九年/度ヨリ開設)関係のものを主としているが、それ以/前についても東京専門学校文学科(明治23―34年度/ノ間)、 早稲田大学専門部国語漢文及英文学科(明/治36年度ノミ)、早稲田大学大学部文学科(明治36―/大正9年度㈠ノ間)、早稲田大学大学部文学科和漢文/学科(明治42―大正2年度ノ間)等の各国文学関係講/義は判明する限りこれを収載した。

とあって、中段16行め「明治3033年度 記録ナシ」など脱漏も多いようで、岩本氏の回想にあってここに記載のないものもあれば、食い違うところもあるようだ。その後判明したところもあるだろうが、今はこれに従って赤堀氏の担当科目を抜き出して置こう。中段17行め~下段3行め「明治34・35年度東京專門学校國語漢文及英文学科*1」には50音順に6名、1人め(19~20行め)が、

 赤堀又次郎 平家物語(34・35)増鏡(34)/ 大鏡(35)有職故実(35)

である。岩本氏の回想は明治35年度の講義らしいが、これだとこの年度にも平家物語の講義があったかのようである。下段4~15行め「明治36年專門部國語漢文及英文学科)」に挙がる9人には見当たらない。明治33年度はどうだったのだろうか。(以下続稿)

*1:この行は8字下げ。