瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(47)

赤堀又次郎の歿年(2)
 前回稿の後半の主要部分は2月22日付「赤いマント(357)」と同時に書き上げていた。そのまま投稿しても良かったのだが、2ヶ月半かかってしまった。
 2月下旬は84年前に赤マント流言が東京市を席捲した時期なので、国立国会図書館デジタルコレクションの刷新で新たに閲覧することを得た資料の検討・報告に当てることにしていた。そもそもが「大日」に、回想だけれども赤マント流言の記事があると分かったところから、どのような雑誌であったか確認すべく最終号を見て赤堀又次郎の名があることに気付いたのが切っ掛けだった。
 3月22日付(01)に書いたように赤堀又次郎の名前は知っていた。4月20日付(30)に挙げたブログ記事のうちの幾つかはその当時見ていて、歿年が分かっていないことも知っていた。しかし久しく何の注意も払って来なかった人物だから、とにかく知るところから始めないといけない。そこで【②higo】の紹介する『一古書肆の思い出』を借り、そこには【①空山】が引いている「敗戦決定の二、三年前」と云う歿年に関する記述のないことを知って『反町茂雄文集』を借りた。けれどもこれは5月4日付(44)の【追記】に述べた通り三省堂編修所 編『辞書のはなし』に載っていたので少々無駄足だった。『辞書のはなし』の内容については遠からず別に記事にしたいと思っている。
 そして1ヶ月半かかってやっと核心に至ったのだけれども、国立国会図書館デジタルコレクションがなければこの数倍の時間を掛けて、もっと少ない成果だったろう。いや、ここまで進められなかったろう。誠に恐ろしい世の中になったものである。
 それから、私は気付いたことをそのまま Tweet する等と云う藝当は出来ないと思ったのである。一応 Twitter もやっているけれども、多分間違いがないだろうと自ら思えた記事の告知しかしていない。それでも打ち間違えて、しばしば慌てて削除する始末である。いや、ブログ記事にしても前回稿の後半はうっかり素稿のまま上げてしまい、先刻慌てて修正したような按配である。幸い殆ど閲覧者がないので問題にはなるまいけれども。
 私が戦後の森銑三が苦手なのは、思い付きをそのまま書き散らしているからだろうと云う気がして来た。
 さて、森氏は『明治人物夜話』所収「斎藤精輔氏の自伝」の「六」節で赤堀氏に触れているが、4月29日付(39)の引用は途中を省略していた。今回はまづそこを抜いて置こう。154頁上段11~18行め(『新編』235頁4~9行め、改行位置を「|」で示す)、

‥‥。翁は斎藤氏の歿後も健在で、晴子|未/亡人からこの五十年史の寄贈を受けて、そ\の紹介を雑誌大/日に書いてゐられ|る。その大日の文は、また稲村君に依つ/て切抜かれて、五十年史\に挾まれてゐ|たので、私はそれ/も読むことを得たのであるが、翁は斎藤氏を以て、福島安/正*1将軍と|並ぶべき大辛\棒の人として、辛棒の力で大辞典完/成の大事業を成し遂げたといひ、斎藤|氏が強力で大辞典の/校正に当つたこと\を、「驚くべき辛棒力」と評してゐる。/‥‥


 今回、次の本(585頁5~9行め)も参照し、改行箇所を「\」で示した。
・『森銑三著作集』続編 第五巻(人物篇五)一九九三年六月一〇日初版印刷・一九九三年六月二〇日初版発行・定価6602円・中央公論社・616頁・A5判上製本
 「斎藤精輔氏の自伝」は579~586頁に収録されている。これは振仮名を増やし、書名・誌名を二重鉤括弧で括ってある。4月28日付(38)に挙げた『新編』は、これをさらに現代仮名遣いに改め、振仮名を増やしている。
 それはともかく、ここに雑誌「大日」に赤堀氏が『辞書生活五十年史』の紹介を書いていることが指摘されているのである。
・「大日」第百八十一號(昭和十三年八月十三日 印刷納本・昭和十三年八月十五日 發  行・定價 金參拾錢・大日社・八一頁)
 この頃は「毎月二回一日、十五日發行」であった。国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索を掛けて見るに「森銑三」は執筆していないようである。
 三七~三八頁(2段組)赤堀又次郎利根川の治水」は歴史・地理の知識を盛り込んだ論説文である。そして五六頁は全頁(3段組)が波線囲みで、冒頭2段抜きの上寄りに大きく「『辭 書 生 活 五 十 年 史』」と題し、その左下に「齋  藤  精  輔 氏 著」と添える。執筆者は3段め末に「(赤堀又次郎)」と添えてある。
 これについて森氏は「斎藤精輔氏の自伝」の「七」節冒頭、単行本154頁下段2~7行め(『著作集』585頁13~15行め『新編』235頁14行め~236頁3行め)に、

 赤堀翁が、五十年史の紹介をせられてゐるのは嬉しい/が、それは翁一流の紹介の|仕方で、同書が何人*2に依\つて、/どのような形で版にせられたのか、さやうなことには触|れ/てない。或は翁の紹介を読んで、かやうな書物\が、いつの/間にどこから出版せら|れたのか、訝*3しく思つた人がありは/しなかつたかとも思はれる。

と感想を述べている。確かにその通りなのだが、赤堀氏は次の雑誌にも紹介文を書いていて、こちらもやはり刊行の経緯等は記さないが、愚痴めいたところがなく内容も簡明である。
・「書物展望」第八卷第九號通卷八十七號昭和十三年九月號・昭和十三年 八 月廿八日印刷・昭和十三年 九 月 一 日發行・定價金六十錢・書物展望社・86頁
 40頁の左側3/5が囲み(3段組)赤堀又次郎「辭書生活五十年史」、これは「大日」の紹介文を縮約したのではなく、重なるところもあるが全く別の文章と見るべきもの、斎藤氏の出身も「山口縣人」とのみであったのを「山口縣岩國の人」とむしろ細かく、やや抽象的な「辛棒」と云った語を使わず、具体的な原稿の手配から校正の回数にまで及んでおり、さらに「側近者」から聞いた「晩年」の習慣にも触れていて、短いけれどもむしろこちらを見るべきと思う。森氏は「書物展望」には時々寄稿しているが、この号には書いていないので(そして当時は明治・大正と云った辺りを対象としていなかったこともあって)気付かなかったものと見える。(以下続稿)

*1:『著作集』『新編』ルビ「やすまさ」

*2:『新編』ルビ「なんぴと」。

*3:『新編』ルビ「いぶか」。