瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(49)

 ここで、反町茂雄が「辞書のはなし」で赤堀氏旧蔵『文明六年本節用集』の信頼すべき評価として引いていた、次の本を見て置こう。
川瀬一馬『古辭書の研究』大日本雄弁会講談社・口絵+四+三二+九五七頁
 国立国会図書館デジタルコレクションでは何故か奥付を撮影していない。しかし検印の朱の跡はある。撮し漏らしたのではなくて、紙片に刷って貼付する形式の奥付だったのが剥がされてしまったようにも思われる。
 川瀬一馬(1906.1.25~1999.2.1)の著書は『古活字版之研究』『日本書誌學之研究』『古辭書の研究』など、必要があって見たことはあるが、とにかく重いので禁帯出ではなかったけれども借りたことはない(と思う)。だからと云う訳ではないが、敬して遠ざけるような按配だった。
川瀬一馬『増訂 古 辭 書 の 研 究』昭和三十年十一月 二十 日 初版・昭和六十年 二 月二十五日 再版・定價 二九〇〇〇圓・雄松堂出版・口絵+四+三四+一〇五五頁
 本文は1頁(頁付なし)扉から九二九頁までは同じ。初版は931頁(頁付なし)「索 引」の扉だが再版は九三一~一〇一二頁「増 補 の 部」があって1013頁(頁付なし)が「索 引」の扉である。細かい比較は母校の大学図書館に出入り出来るようになって、暇があったら果たすこととしたい。初版の奥付だけでも見て、補って置きたい。
 555頁(頁付なし)「第三篇 室町時代に於ける辭書」の扉、この篇は五五七~五六七頁「第一章 室町時代に於ける辭書の槪觀」と五六八~九二四頁「第二章 室町時代における辭書各說」そして九二五~九二九頁「追 補」から成る。
 さて、本書は川瀬氏の博士論文で、その完成・刊行に困難の伴ったことは初版「卷後に」と、更なる内情を明かした再版「増訂再版に際して」に詳しいが、本文自体は、九二五頁2~7行め、末尾に「(昭和三十年十月四日夜記るす)」とある「追 補」の前置きの文(2字下げ)に、2~5行め「跋文にも記るした通り、本文を全部執筆し終つたのは、昭和二十一年の春のことで、滿十年餘の歳月を經過してゐる。そ/の間に長らく原稿が手許になかつたこともあつて、昨年春、いよいよ本書の原稿を印刷に廻すことになつた際に、別に考/へることもあつて、成るべく原の原稿を改めない方針にして、若干の補訂を行つた。いま、校了にあたり自分の手許にあ/つて自由に調査し得た資料だけは追補すべきと思つたので、ここに補記することとした。‥‥」と説明している。
 反町茂雄『一古書肆の思い出3』に拠れば、『文明六年本節用集』は昭和21年(1946)11月15日に反町氏が赤堀未亡人から購入、昭和22年(1947)4月下旬に帝国図書館に収まっている。川瀬氏が見たのは帝国図書館でであろうから、この本については「原の原稿」のままの部分と「若干の補訂」が加えられた部分とがあることになる。
 七六五~八二三頁15行め「第九節 節 用 集」七六五頁2行め~七六六頁16行め「 在來の研究と新出の資料傳本」は、やはり橋本進吉『古本節用集の研究』を基本として、その後追加されたものを挙げ、続けて七六六頁11~14行め

等の十三本及び在來文明六年本と呼ばれて隱れてゐた一本(新たに上野圖書館藏となる。延德二年寫、一冊。)等がある。以上/の諸本中には、傳本の系統を考究する上に參考となるものも少くないが、就中、文明六年本(延德二年寫本)は節用集研究上/最も有益な傳本であつて、その内容性質の解明は、節用集原本の考究に根本的な問題を提供するものとして、極めて重要な意/義を有するものである。

と特筆している。そして七六六頁17行め~七七一頁8行め「 節用集傳本の概觀」に橋本進吉『古本節用集の研究』所収の傳本をその分類とともに川瀬氏による註記を添えながら列挙した最後が七七〇頁15行め~七七一頁8行め「未見の諸本」に触れた箇所になるのだが、その冒頭、七七〇頁15~16行めに、

 なほ古本節用集の研究に於いて、在來の文獻に記載せられてゐるもので、未見としたものに、
 ⑴ 文明六年本(國語學書目解題に見ゆ。筆者推測するに、/或は鹿島氏櫻山文庫の藏本なるべし。  )(追記、昭和二十二年夏古書肆の手に入り/て舊帝國圖書館の藏となる。別記參照。)*1

とある。最初の括弧内の割書が昭和21年春の本書成稿当時の川瀬氏の推測で、2つめの括弧の割書はその後、帝国図書館で原本を調査しての追記と云うことになろう。
 そして七八四頁16行め~八〇五頁12行め「 (追記) 延德二年本節用集(文明六年/本節用集)」との1項を設けて詳述する。まづ七八四頁17行め「(イ) は し が き」として以下のように述べる。18行め~七八五頁8行め、

文明六年本節用集と呼ばれる一本は、嘗て赤堀又次郎氏の國語學書目解題に紹介せられたが、古本節用集の研究には、未見の/諸本の第一に揭げられて、その後何人の目にも觸れなかつたものである。筆者は嘗て、この書を鹿島氏櫻山文庫の藏本ではあ/るまいかと推測しておいたが、それは松井簡治博士手寫の櫻山文庫の目録に「古寫節用一册」といふのが見え、赤堀氏は鹿島/則文の女婿であるから、同氏が閲覽してこれを紹介し、その後、同氏の許に留つてゐたものではあるまいか。そしてそれが、/今度世に出たものであらう。筆者は、前年一旦節用集に就いての所考(本項以外の節用集の條)を纏めたが、新たに本書を舊/帝國圖書館長岡田溫氏の好意に據り、精査の機を與へられたので、茲に追記増訂をする次第である。精査の結果は、在來赤堀/氏に據つて考へられてゐた以上に、節用集の研究の上には實に根本的な重要資料である事が明白となり、且つ先に考究した節/用集の成立に關する筆者の推定の一部が愈〻確められた點等もあつて、原本節用集に關する研究上にも亦、頗る參考となるも/のである事が判然した。(昭和二十三/年夏追記 )


 川瀬氏の理解では昭和22年(1947)夏に古書肆が入手して帝国図書館に収め、最後(3代め)の帝国図書館長であった岡田温(1902.6.2~2001.4.26)の計らいで余り間を置かずに川瀬氏に調査させたように読める。そして昭和23年(1948)夏に纏めたのがこの追記の1項なのである。
 ここに、赤堀氏について「鹿島則文の女婿」とある。赤堀氏の妻の出自については4月1日付(11)に『鹿島町史』に載る墓碑銘「從四位鹿島則文之墓」により確認して置いたが、そこで触れた「研究書」が本書である。
 川瀬氏の推測では赤堀氏は『国語学書目解題』のために義父から『文明六年本節用集』を借りて、そのままにしてしまったかのようである。いや、実情はそう云うことだったのかも知れないが、これは正式に赤堀家に譲渡されたことになっているのである。次回、鹿島氏との関係について若干の補足とともに述べて見たい。(以下続稿)

*1:初版「追」字潰れる。再版ゴシック体で象嵌