瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(51)

・鹿島家との関係(2)
 鹿島家櫻山文庫については、鹿島家の信頼を得て国文学関係の書物を勤務校の昭和女子大学図書館に収めるのに尽力した深沢秋男(1935.11~2021.1.15)が、その蔵書の影印・翻刻、そしてその蒐集者である鹿島則文の伝記を発表している。
 深沢氏はネットでの情報公開に積極的で「近世初期文芸研究会」等に多数の資料・論文を公開していた。


 「近世初期文芸研究会」を閉鎖する前からブログ「老人雑録」、そして2016年10月29日にサイト「深沢秋男の窓」を開設して、回想やかつて「近世初期文芸研究会」に掲載していた論文・資料を再掲載するなどしていた。2016年1月18日開設の「老人雑録」はその後改題されて「深沢秋男雑録」として「深沢秋男の窓」ともども現存している。
 鹿島則文の伝記資料としては次男の鹿島敏夫が著した『先考略年譜稿』があり、「深沢秋男雑録」の2016.12.24「『井関隆子日記』 中巻 と 鹿島則文」及び「深沢秋男の窓」の2016年10月31日「鹿島則文(かしま のりぶみ)略伝」にその全文が紹介されている。後者には表記替えがあるが、前者は『井関隆子日記(中)』(昭和55年8月30日発行・4500円・勉誠社)巻末に附載した「鹿島則文桜山文庫」に収録したものをそのまま転載しているらしい。ここでは前者に拠って、その妻子について見て置こう。母校の大学図書館の卒業生の利用が再開されたら、原本でも確認して置きたいと思う。
・「文久元年〔辛酉 廿三歳〕十二月十一日下総佐倉藩植松求馬永躬長女鉉子ヲ妻ル〔十八歳〕」鉉子(1844生)
・慶応「三年〔丁卯 廿九歳〕十二月七日則泰出生幼字太郎」長男則泰(1867.十二.七生)は則文が流されていた八丈島で生れている。遠島には家族は伴えなかったはずで、島の女性との間の子と云うことになりそうである。
・明治「四年〔辛未 丗三歳〕‥‥十月廿六日后三時敏夫出生」次男敏夫(1871.十.二十六~1926.12.11)は則泰に次いで鹿島神宮宮司となった。
・明治「九年〔丙子 丗八歳〕 一月十四日前三時三子出生九月七日父則孝君隠居則文家督相続」長女三子(1876.1.14生)が赤堀氏の妻で、反町茂雄が初めて会ったとき満58歳、そして最後に会ったとき満70歳であった。
・明治「十一年〔戊寅 四十歳〕二月六日兼補権中教正六月廿六日前六時淑男出生‥‥」三男淑男(1878.6.26~1920.9.15)は「櫻巷」と号し報知新聞記者、明治大正期の流行作家であった。鹿島桜巷については別に記事にしようと思っている。
・明治「十四年[辛巳 四十三歳]‥‥二月九日后五時丗分五止子出生」
・明治「十七年〔甲申 四十六歳〕四月二日神宮々司任命五月八日家ヲ擕テ赴任」
・明治「十八年〔乙酉 四十七歳〕四月廿一日叙従六位七月家族卜尾濃ニ遊ブ七月五日二女いと子死ス宇治今北山ニ葬ル」
 次女五止子(1881.2.9~1885.7.5)の読みは歿時の記事で「いと子」と分かる。第三子「三子」が第五子「五止子」だから第四子は「四止男」と云うことであったろうか。(以下続稿)