瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(54)

 赤堀又次郎の経歴を調べていて鹿島大宮司家の則文や則泰、そして何より「桜山文庫」の名を久し振りに目にしたとき、私はまづ深沢氏のことを思い出した。
 しかしそのとき、鹿島家ではなく子息の赤堀秀雅から父の赤堀象万侶へと進む方針で、さらに『書物通の書目随筆』解題の検証へと移って手一杯だったので後回しになって、溜まっていた資料を何となく決めて置いた順序にこなした上で、今月に入って漸く「深沢秋男雑録」や「深沢秋男の窓」を眺めたのである。そして『文明六年本節用集』の伝来、赤堀氏の夫人の名前と生年月日、さらに従来知られていなかった鹿島桜巷の生年月日まで明らかにすることが出来たのである。
 それもこれも、深沢氏が鹿島家との縁を大切にして、得られた資料を積極的に公開していたお陰である。
 改めて、深沢氏の学恩に深く感じ入っている。
 ただ、このことについては「深沢秋男雑録」にも漏らしていたように思うが、とやかく言う人がいた。私も(あまり直截的な言い方ではなかったが)聞いたことがある。――そこには、もともと出版社の社員で「近世初期文芸研究会」の人であった深沢氏が、鹿島家の信頼を得て桜山文庫の貴重書を活用、それを足掛りに元来が専門外であった江戸時代後期の『春雨物語』や『井関隆子日記』等を出版して出世したかに見えることに対する、やっかみのようなものがあるように感じられた。
 そこで、改めて思い出すのは、私が論文をなかなか書かないことに対して、深沢氏は論文を書くよう「不完全であっても先に書いた者の物になる」と云った按配のことまで言って再三再四勧めたことである。それに対して私は、まだまだ調べが足りないので、そんな不完全なものを垂れ流すことが如何に害悪となり得るかを述べて、従わなかった。しかし「深沢秋男雑録」等に述べているように、深沢氏が様々な機縁を捉えて見出し、翻刻・複製したことで明らかになったこと、明らかになる端緒を与えられたことは実に多い。当人に十分な価値の査定が出来ていないとしても「書いて、出しておけばきっと誰かの、何かの役に立つ」だから自ら知っているだけではいけない、だから「近世初期文芸」を出し「芸文稿」を出したのだ、と云ったようなことも言っていた。しかし私はどうしても尻込みしてしまうのであるが。
 しかし、こうして赤堀氏の伝記調査に深沢氏の紹介・公開した資料を活用することになって、改めて(自説を枉げるつもりもないのだが)深沢氏の意見の正しさを実感している。――普通に書物だけを調べておれば、川瀬一馬『古辞書の研究』から深沢氏による鹿島敏夫『先考略年譜稿』と鹿島則幸『桜山文庫目録 和書之部』の紹介に進んで、まづ赤堀氏の妻のことが(恐らく同じくらいの時日を掛けて)明らかにされるべきであった。それが国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索により順序が転倒して、従来ほぼ見ようとも思わなかったであろう資料を見て後の、最後になってしまった。しかしこれで、赤堀氏の父・母・妹・妹婿・甥・姪・息子、そして妻とその兄弟の名前を明らかにすることが出来た。やはり国立国会図書館デジタルコレクションだけではいけないので、深沢氏が「近世初期文芸」に発表し、それを自らネット上でも公開していたからこそ、最後まで分からなかった妻の名前を明らかにすることが出来たのである。
 しかしながら、当記事「赤堀又次郎伝記考証」は殆ど閲覧されていないようだ。どうも「出して置けば」と云う訳にも、行かぬようだ。
 そうすると、良くない事態を懸念せざるを得ない。――やはり堪えるのが、苦労して書いた記事が参照されず(もしくは十分に尊重されずに)似たような記事を出されて、どうもそちらの方が本家のようになってしまうことである。
 私は4年前に『三田村鳶魚日記』について、大正から戦前に掛けての登場人物の整理を(ある程度ではあるけれども)試みたことがあった。これはその前に調査して一応の結論に到着していた赤マント流言について、私の調査結果と似たような内容の動画を上げる人が現れたためである。私が見落としていたのは『三田村鳶魚日記』くらいで、他は全て当ブログの記事「赤いマント」に紹介済みのものばかりであった。これは当ブログを見ていることが明らかであったので抗議するとともに、三田村氏がこの流言に接した経路を見るべく、以前から気に懸かってはいた『三田村鳶魚日記』に取り組んでみたのであった。そして八重夫人の弟・高松家と妹の嫁いだ皆川家についても確認し、昭和7年(1932)満洲国建国の頃に満洲・朝鮮を回って結婚以来絶縁状態だった皆川豊治と再会、京城では高松家の歓待に気を良くしている。そして帰途に三田村氏の歓迎会を兼ねた神戸陳書会の例会に出席しているのだが、そこに上笙一郎が『覗き眼鏡の口上歌』の著者として注目しながら阪神大震災の影響で十分な調査が出来なかったとしていた河本正義も出席していることを知って、そのことも確認して置いたのである。
 河本氏については、上記国立国会図書館デジタルコレクションの刷新により神戸新聞の河本正義と、教員の河本正義が同一人物であることが分かった。こういうことこそ Twitter で手早く報告して置くべきなのかも知れないが、追って詳細を報告したいと思っている。
 それはともかく、今回、赤堀又次郎を取り上げるに当って改めて『三田村鳶魚日記』に当って見た。三田村氏は『紙魚の跡』の序文で赤堀氏のことを絶讃しているが、当初は『御即位及大嘗祭著作権侵害事件に関して「金ニデモスル積リカ」と書くくらいに疎遠であったのである。しかし私には赤マント流言の一件があったから初めから、切実に赤堀氏の立場で読んでいた。だから力が入ったと云う訳でもないのだが、――そこから『三田村鳶魚日記』にも再び取り組みたいと思っていたところが、はてなブログで先月来、三田村氏の満韓旅行と、神戸陳書会例会参加を取り上げる人が現れた。しかし、当ブログが4年前に一応一通り取り上げていることには気付いていない様子である。それでは深沢氏の云う「出しておけば」にならないと思って、コメントは余りせぬことにしているのだが、神戸陳書会の会誌「陳書」が全冊カラー画像で閲覧出来ることを知らぬ様子なので、当ブログの記事のリンクとともにコメントで知らせて置いた。早速お礼のコメントがあり追記にリンクも示してもらったのだが、それで当ブログの関連記事の閲覧はと云うと、ほぼ、ないのと同じである。Google アナリティクス*1のカウントがおかしいのかも知らぬが。
 尤も、普通に検索すると当ブログは殆どヒットしないので、気付かれなかったのも仕方がないのだが、やはり堪えるのである。赤堀氏のような「著作権侵害事件」ではないのだが、しかし赤堀氏も自分の書いたものと似たようなものが、より影響力のありそうな形で出て来たことで堪えたと云うのは、私にも、かくやと思いやられたのである。いや、私だって Twitter で若干は記事の告知をしているのだが、間違いのなさそうな記事しか取り上げていないし、そもそもそれが記事の閲覧に繋がったケースが殆どないのである。Retweet とか Follow とかをしないとそもそも Tweet 自体閲覧されないらしい。いや、Retweet されて Tweet が閲覧されたとしても、リンクまで踏む人が殆どいない。赤マント流言のときに Twitter を始めたのだが、初期には反応があった。しかし今は殆どない。あれは beginner's luck みたいな仕組みでもあったのだろうか。それで懲りてしまっていたのだが、赤堀又次郎の調査について今回の『三田村鳶魚日記』のようなことがあったら本当に寝込みそうである。折しも、昨年来の祖母の蔵書の整理、冬に部屋に暖房が入らないのと花粉の時期は外出を極力控えているのとで滞っていたのが、ついに祖母宅の売却が現実のこととなりそうなのでこれからしばらくそちらにかかりきりになる。よって赤堀氏の調査は中断せざるを得ない。そこで、黙っていても殆ど閲覧されぬ以上、まだ調査途上なので不安はあるのだけれども、Twitter にて告知して行くことにした。しかし、どうもブログ記事にしても Tweet にしても、検索して記事を探す人は少ないらしい。森銑三方式にたまたま見たものに拠って、そこで触れていなければ存在しないつもりで書いてしまうらしい。正直良くないと思う。せめて一通り検索を掛けて欲しい。しかし、自分で云うのも何だがこれだけ力作(!)を連ねているのに「赤堀又次郎」で検索しても当ブログは上位に上がって来ないのである。本当に、分からない(苦笑)。力作過ぎたのかも知れない(快笑)。そうするとブログのコメント欄や Tweet に返信するような形で告知した方が確実で手っ取り早い訳だが、私は自分がそこまでされたくないので、そんなことはしないつもりである。それがいけないのかも知れないが。
 さて、深沢氏に話を戻すと、――最後に会ったのは女子高に勤めている頃で、以後は年賀状の遣り取りくらいであった。祖母が死んだとき喪中葉書を差し上げると、奥さんを亡くした記憶が新ただったためか、わざわざ返信を寄越された。その折にはまだお元気そうだったのである。そんな訳で、深沢氏が最後に迎えた新年に年賀状を出さなかった。そのため、私は子息の出されたであろう喪中の連絡の対象にならなかった(らしい)のである。
 以前は深沢氏から「近世初期文芸」を頂戴していたのだが、その後、深沢氏から頼まれてか、面識のない元高校教諭だった人から批評を求める手紙を添えて送られてくるようになった。しかし私は学界活動からは退隠していて、性格的にもアラが目に付く方で、通り一遍の、勉強になりましたみたいなことを書く気もないので、返信しなかった。深沢氏の死を知ったのは、その人から深沢氏の逝去を伝える文面とともに深沢氏の遺志を継いで「近世初期文芸」に参加して欲しいという依頼があったからである。
 確かに私くらいしか調べていない書物なども若干あるのだが、今さら学界に関わりたくないと思っているので、やはり返事をしなかった。ただ、何の返事もしないのもどうかと思って、つらつら深沢氏の思い出を書いて、恩顧を謝すとともにもう論文を書くようなこともないので参加は致しかねる、と云う文章を書き始めたのだが、恐ろしく長くなってしまって、これでは読むのが大変だと思ったら筆が滞り、結局出さなかったのである。
 いや、研究らしきことが嫌いな訳ではない。学者や学界が好きになれなかったのである。余りこの人たちと付き合い続けていたくないと思ったのである。尤も、学者以外の付き合いも上手くはないのだけれども。そして、赤堀氏の経歴を調べていて、改めてその感を強くした。
 それはともかく、深沢氏のブログは「fuakiの日記」の頃はよく見ていたのだが、「深沢秋男雑録」は過去に見た、長文の旧稿の再録が多くて、だから余り見なくなっていた。そのため子息の家に身を寄せたことにも、更新が途絶えていることにも気付かなかった。
 成果を刊行せよと云う教訓を活かせていないが、次善策ながら、せっせとブログに出して行くと云うことでは従っていると云えるかも知らぬ*2。今、こうして深沢氏のことを思い出したのも何かの機縁かも知れぬ。少し広報に努めようと思うのである。(以下続稿)

*1:最近再設定するようメッセージが出るのだが、どうも上手く出来ないでいる。気にしないよう、設定せずに止めてしまうべきだろうか。

*2:当ブログのことは、こんなものを読ませては悪いと思って(記事の主題に少しでも関心のある人には読んで欲しいと思っているが)知人には知らせないことにしているので、知らせていない。御存知ではなかったろう。そして今頃になってお目に懸けたい主題で書いていると云った、鶍の嘴の食違いである。