瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『斎藤隆介全集』月報(16)

 一昨日の前回の続き。
 神沢虎夫は、前回参照した『日本官界名鑑』第十版*1に拠れば昭和2年(1927)に北樺太石油株式会社に入社し、オハにあった北樺太鉱業所で渉外担当として勤務しております。
 このことは神沢利子「個人的まことに個人的な感想ですが」にも「‥‥。秋田は父の故郷、南樺太はわたしの故/郷です。叔父も秋田で育ち、北樺太でその青春を送って/います。」〔六2-2上3~5〕と簡単に触れてありますが、今、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しますと「月刊ロシヤ」8月號/第一卷第二號昭和10年7月15日 印 刷 納 本・昭和10年8月1日 發     行・定價30錢・日蘇通信社・165頁)62~84頁「爽凉線――ロシヤの北方」として4篇の寄稿がある中の3番め、76~81頁下段1行め、神澤虎夫「樺太で逢つた畸人の話」がヒットしました。冒頭部(76頁上段5~12行め)を抜いて置きましょう。

 サガレンの鑛場生活殆ど十年その間には色々な知合が出/來たが何んと言つても赤麿君などは相當以上に風變りな方/だ。始めて彼氏を知つたのは赴任後間もない頃だからザツ/ト八年許り昔である。當時のオハ鑛場と言へば日露人併せ/て約八百、サガレンの林の中にポツンと煙を上げてゐたば/かりであつた。その鑛場の一角に在る薄暗い丸太建の事務/所へ突然六尺近い大男が幅三尺もあらうと言ふ肩に波立た/して怒鳴り込んで來た。‥‥


 この「大男」が「ロシア人ではなくアルメニア生れのアガマロフ(和名赤麿)といふ石油鑛夫」で題にある「畸人」なのですが、ここに「八年許り昔」とあって確かに昭和2年(1927)からと云う勘定になります。なお84頁下段左(6行分)を波線で仕切って横組みで小さく18行、まづ「―― 執筆者紹介 ――」と題してこの「爽凉線」欄の執筆者を紹介しておりますが、3人め(11~14行め)に「☆神澤虎夫氏 北樺太石油/ 會社外國課員、サガレン/ 現場生活の深い體驗の所/ 有者。」とあります。
 その後の経歴について『日本官界名鑑』に戻りますと、昭和11年(1936)に「同所総務課長として対外交渉を担当」とありますから、昭和13年(1938)に財団法人東亜研究所に移るまで、勤務地は相変らずオハであったらしく思われます。平石里子とは昭和12年(1937)までに結婚したはずですが、どうやって知り合ったものか、出張などで本州に出掛けた折にでも見合をして結婚したらしく思われるのですが、とにかく斎藤隆介の大学生時代(1935.4~1938.3)に「共通の友人」がいたと云うのが、そもそも神沢虎夫と斎藤氏の年齢差や、その居住地や立場からしてありそうにないのですが、――斎藤氏から見て「口にもださずじまい」にしても「恋びと」のように思って献身的に「慰め」ていた「共通の友人」の「若く美しい未亡人」を、斎藤氏が「さらって」神沢虎夫を「失恋させた」などと云うことになると、愈々ありそうにないのです。
 ところで神沢利子樺太の縁ですが、幾つかの作品に当時のことを回想しております。
講談社文庫『雪の絵本』昭和54年12月15日第1刷発行・300円・219頁

 212~213頁「あとがき」の冒頭(212頁2行め)に「『雪の絵本』は一九七一年に三笠書房から出版されました。‥‥」とありますが未見。 全5章のうち4章め、文庫版では151~181頁「わたしの雪」の、153~159頁「北国の小学校」と165~175頁「二・二六のころ」に樺太時代の回想があります。なお、この章の他の2篇、160~164頁「金色熊」は昭和15年(1940)の年末に国電の車内で意識を失って急死した父のことなど、176~181頁「凍蝶」は戦時中の回想で、やはり「わたし」神沢利子の伝記資料となりましょう。
・福音館日曜日文庫『流れのほとり』福音館書店・496頁・B6判並製本・一九七六年十一月二十日初版発行・一九八七年 三 月 十 日第 六 刷
・一九七六年十一月二十日初版発行・一九八九年十一月 十 日第 八 刷
 定価は図書館蔵書では保管されない函に記載されているらしく、奥付や表紙を見ても判りませんでした。
 494~496頁「あとがき」に、495頁2~3行め、

 この物語は太平洋戦争によって、樺太がふたたびロシア領土になるまでの、一九三〇年代の敷/香町近くの炭坑村で過ごした子どものころをかいたものです。‥‥*2

とあって、神沢利子樺太時代のことは本作に大体再現されているようです。但し13~14行め「‥‥、事実をもとにしながら構成しましたが、多/少ちがうところもあります。たとえば一九三二年夏の山火事は、‥‥*3」と作者も断っており、その他にも記憶違いや、記憶の曖昧なところを補ったりしたところもありましょう。しかし、そこも留意しながら神沢利子南樺太時代を作品に即して確認していくと愈々長くなってそもそもの松谷みよ子の経歴確認に戻れそうになくなりますので、ここでは「神沢利子年譜」によってざっと確認して置きましょう。これは「神沢利子研究会・三鷹」と云う、首都大学東京みたいな名称ですが神沢利子の居住地である三鷹市の市民が中心となった研究会が2024年1月の「三鷹市 神沢利子さんおめでとう100歳展」のために作成したもので、「神沢利子研究会・三鷹」の HP に公開されております。最初は「Ⅰ期 原点・流れのほとりから 1924-1943」で、まづ「1924〔大正13〕年0歳」条として「●一月二十九日、父神沢正雄(秋田出身・炭鉱技師)、母フミ(福岡出身)の三女/(六人兄弟の五番目)として福岡県に生まれる。本名はトシ。」とあります。以後、東京西大久保、北海道札幌、樺太豊原郡川上炭山と転居し、ここで昭和5年(1930)に小学校に入学しております。敷香郡内路村内川に移ったのは昭和6年(1931)小学2年生の夏で、以後、「1936〔昭和11〕年12歳」条、

●馬橇と汽車に揺られて、樺太庁立豊原高等女学校を受験。帰途、猛吹雪で旅館に/一週間滞在中、ラジオで二・二六事件を聞く。*4
尋常小学校卒業。豊原高等女学校に入学し寄宿生となる。

と、ここまで5年弱、内川で暮しておりました。樺太から東京に移ったのはその翌年の夏、父が満洲に赴任することになったためで、自由学園普通科二年に転入しております。そうすると「叔父」さんの神沢虎夫の北樺太時代とは、時期が重なっております。細かに読んで行けば登場するシーンもあったでしょうか。
 斎藤氏が北海タイムス社の樺太支局にいた時期は、神沢利子とも、神沢虎夫とも、重なっておりません。(以下続稿)
【附記】ここで断って置きますが、私は「氏」は敬称ではなく名を略す場合に使っています。そうすると今回のように神沢氏が2人出て来てしまうとずっとフルネームで書かないといけなくなって、どうも具合が悪いのですけれども。

*1:国立国会図書館デジタルコレクションでは第九版も閲覧出来るが、奥付が剥離していて刊年月日や定価等が確認出来ないので第十版に拠った。

*2:ルビ「からふと・りようど・しす/か ・たんこう・す 」。

*3:ルビ「こうせい/」。

*4:ルビ「うまぞり」。