瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

生歿年

津留宏『一少女の成長』(6)

私が本書を手にしたのは、本書が研究資料として活用している「一少女」の日記に、2021年3月23日付「赤いマント(315)」に見たように赤マント流言の記述があるからであった。 しかし、当時はこの「一少女」が何者であるか突き止められなかった。 津留氏は『…

赤堀又次郎伝記考証(061)

・鹿島則泰の歿年(2) 昨日の続き。――無位無冠布衣の者がいきなり問合せたところで、普通まづ相手にしてもらえない。そのために肩書きがあるのである。 世の中には大した業績でもないのに飛んでもなく脚光を浴びて上り詰めてしまったような人もいるし、特に…

赤堀又次郎伝記考証(060)

・鹿島則泰の歿年(1) 鹿島則泰と云う名は別の調べ物の機会にも度々目にしたことがあったはずなのだが、特に注意を払うこともなく過ごしてしまったのだが、川瀬一馬が赤堀氏は鹿島則文の女婿と指摘しているのを見て初めて、5月10日付(050)に述べたように…

大和田刑場跡(15)

取っ組み合いの喧嘩などもう40年くらいしていないと思うが、私は大抵相手の後ろに回り込んで両腕ごと胴を絞めて身動き出来なくした上で、膝で尻を蹴ると云う戦法で、尻をドンコドンコ蹴りながら、飽くまでも言葉で相手の非を認めさせた上で降参させていた。…

佐藤健二『浅草公園 凌雲閣十二階』(3)

一昨日の続き。 9月17日付(1)に引いた「あとがき」に、佐藤氏本人が述べているように「いささか風変わり」で「すこし破格」な本書は、すんなり計画が進んで刊行された訳ではないらしい。410頁8~11行め、 この本はすでに暗示しているように、いくつかの出…

祖母の遺品(11)

・若山家の関東大震災(10)佐藤歯科医院③明治 9月9日付(09)の続き。 当ブログは翌日の記事を投稿するくらいまで、特に断らずに加筆修正している。投稿後に眺めると編集画面では気付かなかったアラが目に付く。かつ、ここまで書いて置こうと思っても入力し…

祖母の遺品(09)

・若山家の関東大震災(8)佐藤歯科医院②昭和 昨日の記事に追加しようかと思ったのだが、かなり長くなりそうなので別に投稿することにする。9月6日付(06)に紹介した、祖母の母方の叔父・竹内久雄が当時勤務していた「福島県桑折町/佐藤歯科」の考証だが…

赤堀又次郎伝記考証(52)

深沢秋男は筆まめな人で、重友毅門下生で近世初期文芸研究会を結成し、年刊で「近世初期文芸」を刊行、晩年には同じ体裁で「芸文稿」と云う同人誌を刊行していた。その旁らネットでの情報発信も活発にしていた。最晩年には「近世初期文芸」「芸文稿」とも引…

赤堀又次郎伝記考証(51)

・鹿島家との関係(2) 鹿島家櫻山文庫については、鹿島家の信頼を得て国文学関係の書物を勤務校の昭和女子大学図書館に収めるのに尽力した深沢秋男(1935.11~2021.1.15)が、その蔵書の影印・翻刻、そしてその蒐集者である鹿島則文の伝記を発表している。…

赤堀又次郎伝記考証(48)

・赤堀又次郎の歿年(3) 森銑三は赤堀氏の最晩年の消息を知らなかったようだ。しかし、昭和20年(1945)まで生きていたことは、知っていたはずである。 ・『森銑三著作集』別巻(昭和四十七年八月 十 五 日印刷・昭和四十七年八月二十五日發行・定價三五〇…

赤堀又次郎伝記考証(46)

・赤堀又次郎の歿年(1) 前回、赤堀氏が昭和20年(1945)1月号まで雑誌2誌で言論活動を行っていたことを指摘した。 ・月刊「日本及日本人」第四百三十九號(昭和二十年一月號)(昭和二十年一月五日印刷納本・昭和二十年一月八日發行・定價五拾錢・政教社…

赤堀又次郎伝記考証(43)

・反町茂雄「辞書のはなし」(1) 村嶋英治「最初のタイ留学日本人織田得能(生田得能)と近代化途上のタイ仏教」が赤堀氏の生歿年を「赤堀又次郎(1866‒1943?)」としている理由の1つは、前回検討したHN「書物蔵」のブログ「書物蔵 古本オモシロガリズム…

赤堀又次郎伝記考証(42)

さて、赤堀氏の伝記的な研究としては4月20日付(30)に列挙したブログ記事のうち【⑨書物蔵】が引用する石井敦 編著『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』の「赤堀又次郎」項が簡略ながら先駆的なもので、次いで2011年にブログ記事【⑦書物蔵】2011-06-30「赤堀…

赤堀又次郎伝記考証(28)

・石井敦 編著『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』(2) さて、私は取り上げた資料は一通りどのような素姓のものであるか、眺めて置くことにしている。大して分からずに(まぁ調べ方が悪くて、だけれども)誤魔化していることも少なくないが、今回もまづは…

赤堀又次郎伝記考証(24)

・赤堀象万侶⑨赤堀佐渡子・中島セキ 昨日は「群馬県立歴史博物館紀要」第20号掲載「秀郷流赤堀氏の伝承と資料の調査」の、簗瀬大輔が担当した「二 赤堀鉊三郎の記録 ―近世の赤堀氏―」の「(二)今井赤堀氏の系譜」に「前述」されている【赤堀瀬兵衛】に関す…

赤堀又次郎伝記考証(22)

赤堀象万侶⑦『赤堀氏旧記』2 昨日の続きで「群馬県立歴史博物館紀要」第20号掲載「秀郷流赤堀氏の伝承と資料の調査」の、簗瀬大輔が担当した「二 赤堀鉊三郎の記録 ―近世の赤堀氏―」の、群馬県佐波郡赤堀村今井(現・伊勢崎市赤堀今井町)の赤堀鉊三郎が纏…

赤堀又次郎伝記考証(20)

・赤堀象万侶⑤水谷眞清・叔彦 赤堀象万侶は神官にして国学者・歌人であったのだがその著作は伝わっていないようだ。 ・『犬山』明治三十八年八月十五日印刷・明治三十八年八月二十日發行・犬山壮年會(東京)・目次+口絵+六十頁 口絵の次にある序に当たる…

赤堀又次郎伝記考証(11)

・反町茂雄『一古書肆の思い出』2 賈を待つ者(3) 少し飛ばして「稀書を、ポツポツと」の項の最後の段落を見て置こう。①121頁1~5行め②127頁1~6行め、要領は一昨日に同じ。 昭和十五年を限りとして、赤堀さんからのハガキは、いつからとはなく届かなくな…

赤堀又次郎伝記考証(03)

・住所と原籍 ところで『御即位及大嘗祭』自跋に明治45年(1912)5月1日に「電車の為に負傷」とあることから、この辺りに絞って国立国会図書館デジタルコレクションを検索して見るに、事故のことは判らなかったが、当時の赤堀氏の住所と生年月日が判明した。…

竹中労の前半生(01)

竹中労の赤マント流言体験を(ごく僅かな記述ですが)取り上げようと思って検討を始めてすぐに、竹中氏の生年月日が明確にされていない、と云う事実に突き当たりました。 私はこういう体験を検討する際には、年齢・学年・場所を押さえて置きたいと思っておる…

赤いマント(352)

・木村聖哉『竹中労・無頼の哀しみ』(7)生年月日⑰ 木村氏は昭和5年(1930)生説を採っているけれども、最後の「第十二章 別れの音楽会」でも、196頁6~7行め、 冒頭にも書いたが、私が竹中労さんと初めて出会ったのが二十五歳の時。その時、竹中さんは/三…

赤いマント(350)

・木村聖哉『竹中労・無頼の哀しみ』(5)生年月日⑮ 大体無計画に(全く無計画と云う訳ではないが)書いているので2月10日付(346)に触れた「青春遊泳ノート」を取り上げるのが遅くなってしまった。 この「漫画アクション」の連載、『青春遊泳ノート』に収…

赤いマント(349)

・木村聖哉『竹中労・無頼の哀しみ』(4)生年月日⑭ 昨日「対決・硬骨の二人」に触れて、竹中英太郎が長男・労が「昭和五年生まれ」と明言するところは引用されていないと述べたが、この対談について述べた箇所には、なかなか興味深い記述がある。167頁9~13…

赤いマント(348)

・木村聖哉『竹中労・無頼の哀しみ』(3)生年月日⑬ 昨日の続きで、木村氏が昭和3年(1928)生説を採用せず、昭和5年(1930)生説に従った理由を見て置こう。 82頁1~2行め「‥‥、初めての訪沖のことは「メモ・沖縄/一九六九」に次のように記されている。」…

赤いマント(347)

・木村聖哉『竹中労・無頼の哀しみ』(2)生年月日⑫ 昨日の続きで、年齢に関する記述を見て置こう。 木村氏は「はじめに」で、7頁3~4行め「‥‥、一九九一年(平成三年)に六十歳でこの世を去った。」とする。8頁2~4行め、 竹中さんの本名は「労」だが、通称…

赤いマント(345)

・鈴木義昭『風のアナキスト 竹中労』(4)生年月日⑪ 昨日の続き。 さて、鈴木氏は続く「レポート1/竹中労のアナキズム」にて、恐らくこの本人による「臍の緒書き」に従って、昭和3年生として竹中氏の年齢を整理する。33頁2~3行め、 三十九歳(六七年)、…

赤いマント(344)

・鈴木義昭『風のアナキスト 竹中労』(3)生年月日⑩ 昨日の続きで、本書から竹中労の生年(月日)に関係する記述を抜いて置こう。 まづ「序 竹中労の語り口」、8頁3~4行めに、 竹中労の演説を初めて聞いたのは、七三年五月の神田共立講堂「大演説会」。お…

先崎昭雄『昭和初期情念史』(2)

自分の人生を、その時代と絡めながら述べるには余りにもその道具立てに乏しい私には、先崎氏の環境が如何にも眩く見える。婦人参政権運動家だった母、その派出婦人会の派出婦たちの見聞、戦前の、寛永寺の鐘や東京音楽学校の歌声が聞こえて来る下谷区上野桜…

柴田隆行『片倉の自然』(4)

柴田氏の出身地は①38頁8~9行め③39頁2~3行め「‥‥、多摩川辺り*1|で子供時代/を過した私にとっては、*2旧知のもので、今でもこの声を聞くと少年の日々を|思い出す。」とあるが、①56頁1~8行め③55頁12行め~56頁5行め、 片倉に越して来てから、夏の楽しみ…

赤いマント(334)

・竹中労の赤マント体験(1) 竹中氏は何処で、何年生のときに赤マント流言に接したのだろうか。 赤マント流言が東京市を席巻したのは、当ブログで縷々述べて来たように昭和14年(1939)2月下旬頃、すなわち昭和13年度の3学期であった。 そこで、竹中氏の生…