瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『斎藤隆介全集』月報(13)

 昨日の続き。
 小野寺脩郎(1916.2~1982.11.25)が北海タイムス記者であったことは、次の文献からも確かめられます。
帯広市社会教育叢書 NO・9『吉田巖伝記資料』(昭和三十九年五月二十五日印刷・昭和三十九年五月三十一日発行・非売品・帯広市教育委員会・107頁)
 吉田巖(1882.7.6~1963.6.4)は福島県出身の教育者・アイヌ文化研究家です。なお、扉には「第九巻」そして「小林正雄 編註」とあり、奥付には小林正雄は「著  者」で別に「編 集 者」として「帯広市教育委員会社会教育課」とあります。
 1~38頁「吉 田 巖 年 譜」の22頁下段12~28行め「昭和十六年〈辛/巳〉(六拾歳)」条、17行めに「‥/‥◯五月七日タイムス記者、小野寺脩郎君来宅◯‥‥」とあります。どうも小野寺氏は戦前、そして戦後しばらく帯広にいたらしく、國勢協會『國勢總覽』第四版(昭和二十六年三月二十五日 印 刷・昭和二十六年三月二十八日 発 行・國際連合通信社・二七〇+五〇+六八+六七九頁)の、最後に678頁ある「商工業」の四一六~四四四頁「[新聞・通信]」の四二四頁5段め(5段組)7行め~四二五頁1段め36行め「〈株式/会社〉 北海道新聞」条、四二五頁1段め13~15行め「‥‥▲帶廣支社長/木谷武二、部長―編集小野寺脩郞/營業安齋利三郞▲‥‥」と見えております。
・『広告年鑑』昭和30年(昭和三十年四月二十日発行・定価 金八百円・萬年社(大阪)・前付+671+広告192頁)
 扉には標題の下に「1955」とあり、奥付には標題の上に「昭和30年」とあります。そして目次の題は「昭和三十年度広告年鑑目次」となっております。291~430頁「第 四 編/新    聞」293~400頁「日 刊 新 聞 紙」はまづ「東  京  地  方」、次いで311~322頁「大  阪  地  方」を列挙してから北から南へ、323~328頁「北 海 道 地 方」から挙げて行きますが323頁4段め(4段組)~324頁1段め「函 館 新 聞」は、323頁4段め2行め「凾館タイムス社」とあってこれが社名、そして8行め「役員・幹部」として9~20行めに12名挙がるうち3人め(11行め)が「常務取締役(編集局長)小野寺脩郎」なお16行め「編集局長(兼)   小野寺脩郎」と再度出ていて、他に3人が(兼)となっておりますので8名の名前が見える訳です。ところが『広告年鑑』昭和31年(昭和三十一年三・定価 金八百円・萬年社(大阪)・前付+688+広告210頁)には名前がありません。やはり扉には標題の下に「1956」とあり、奥付には標題の上に「昭和31年」とあります。そして目次の題は「昭和三十一年度広告年鑑目次」となっておるのですが、449~590頁「第 六 編/新    聞」451~559頁「日 刊 新 聞 紙」482~487頁「北 海 道 地 方」482頁3~4段め「函 館 新 聞」3段め2行め「函館タイムス社」となっていますが7行め「役員・幹部」として以下16名(うち4名は(兼)で実際には12名)挙がるのですが小野寺氏の名前はありません。他社に移った訳でもないようです。
 『気仙沼市史』では洋画家と云う扱いの小野寺氏ですが、作品が美術館に収蔵されていたり、美術商が扱っていたり、オークションサイトに出品されていたり、と云ったことはないようです。画像検索しても全くヒットしません。但し著書は1冊、歿後に刊行されております。

 これを見れば経歴についての記述があるかも知れません。国立国会図書館デジタルコレクションでは「館内限定公開」ですので、都下の公立図書館で借りて見て見ることとしましょう。
 小野寺氏について長くなりましたが、ここで斎藤氏に戻って、北海タイムス記者時代の資料を1点、追加して置きましょう。
北海タイムス社調査部 編『北海タイムス年鑑別册北海道樺太人名録』昭和十七年版(昭和十六年十二月五日印刷・昭和十六年十二月十日發行・北海タイムス社・六+二四二頁)
 前付は一頁が扉と凡例、二~六頁が目次です。その「例    凡」の6項中4項め(8~9行め)に「一 八月末現在を以て調査せるも異動は印刷まで可及的に訂正/  せり」とあって、昭和16年(1941)8月現在のものと分ります。一~二〇三頁1段め(4段組)が「北 海 道」、二〇三頁2段め~二四二頁「樺   太」です。二〇七頁4段め~二一〇頁1段め「樺太國民奉公會」の二〇八頁2段め12~21行め「豊原市國民奉公會」に會長1名理事4名幹事9名合計14名が列挙される最後に「齋藤 隆勝」の名があるのです。斎藤氏の本名です。
 9月25日付(02)に引いた斎藤隆介全集』第十一巻「年譜」に拠れば斎藤氏が「北海道新聞樺太支局へ転勤」したのは昭和15年(1940)、そして昭和16年(1941)に「北海道新聞東京支局へ転勤のため帰京」するのですが、それは8月以降のこととなります。繰り返しますが「北海道新聞」は正しくは「北海タイムス社」です。
 なお小野寺脩郎や杉村顕の名も全文検索に掛けてみましたがヒットしませんでした*1。(以下続稿)

*1:11月7日追記】杉村氏は2021年12月13日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(182)」に確認したように昭和12年(1937)8月に樺太から仙台に移っているので昭和十七年版には載っているはずもなかった。昭和十三年度までの版に当って見ることとしよう。