瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(099)

 昨日の続き。
・三浦秀夫『妖怪変化譚』(4)
 さて、白馬岳の雪女は、遠田勝『〈転生〉する物語』にて、東京朝日新聞の記者であった青木純二が昭和5年(1930)に、その著書『山の傳説 日本アルプス』に高濱長江訳『怪談』を下敷きにして捏造したものであることが明らかにされた、はずだった。
 ところが、本書が紹介する昭和3年(1928)刊『信越の土俗』はこれよりも早い。
 しかし、この『信越の土俗』と云う本が、本書に紹介されているばかりで他に見たと云う人もいない(らしい)。国立国会図書館はもちろん、白馬岳周辺の長野県、新潟県富山県の図書館にも所蔵されていない。国立国会図書館サーチに所蔵情報が引っ掛からないような施設に所蔵されていて、実は閲覧出来るようになっているかも知れないが、目下、全くのお手上げである。宮坂幸造と云う人のことも、皆目、分からない。
 だから、何処かに間違いがあるかも知れない。書名か、刊年か、編者名か。しかし、何処が間違っているのかも見当が付かない。よって、ここでは仮に、本書の記述に間違いがない、と云う前提で、考えてみることとしよう。
 すなわち、白馬岳の雪女を捏造した誰か、と云う問題に『信越の土俗』を介在させることによって、2通りの可能性が生じることになると思うのだ。
 ここでポイントになるのは『信越の土俗』が「宮坂幸造他編」となっていることである。
 すなわち、雪女について書いたのが誰だか、分からない、と云うことになる。
 そうすると、可能性としては『信越の土俗』の執筆陣に青木純二が加わっていて、主人公の職業や子供の数が Lafcadio Hearn に近い雪女を書き、そのとき為された指摘を参考に、2年後の『山の傳説』に、職業を木樵から猟師に変え、子供の数を半減させ、母親の存在や命を取らなかった理由を Hearn に遡って復活させた、改訂稿を載せたと云うことになる。
 これは、有り得ない話ではない。
 2019年8月11日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(098)」以降に述べたように、『山の傳説』に載る「晩秋の山の宿」は昭和3年(1928)夏に「サンデー毎日」の「一頁古今事実怪談」懸賞募集の入選作「深夜の客」と殆ど同文で、筆名で投稿されているが2019年8月10日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(097)」に述べたように、当時新潟県高田市在住だった青木純二の作品だと思われる。
 青木氏は2019年10月21日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(136)」に引いた、大正13年(1924)刊『アイヌの傳説と其情話』の「はしがき」に「大部分は『婦人公論』『淑女畫報』『大阪朝日』その他の諸新聞雜誌に發表したもの」と説明しているように、職業柄もあってか新聞雑誌に発表することが多かったようだ。ただその実態を調査しようと思っていた矢先に色々と不自由になってしまったために、この「はしがき」の記述の裏付けは、2020年1月25日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(146)」に見た、「雪の中に咲く百合(の)花」くらいしか出来ていないのだけれども。
 とにかく、昭和3年(1928)に地元で『信越の土俗』編纂の話が持ち上がり、東京朝日新聞高田支局在勤で『アイヌの傳説と其情話』の著書、そして雑誌に「日本アルプスの傳説」を発表していた青木氏にも執筆の話があり、そこで雪女を、白馬岳を舞台にして書いてみた。それをさらに、昭和5年の自分の著書『山の傳説』にも取り込んだ、と云ったことは、如何にもありそうではある。『山の傳説』収録に際して、『信越の土俗』では切り詰めてしまった母親の存在や、最後に主人公を殺さなかった理由を復活させたのだと。さらに、多過ぎるように思われた、子供の数を10人から5人に減らし、木樵ではなく猟師にしたのだ、と。
 もちろん、『信越の土俗』に雪女を執筆、と云うか捏造したのが青木氏ではなかった可能性も、考えられる。この場合『山の傳説』を纏める準備をしていた青木氏が『信越の土俗』を見て白馬岳に雪女の話があることを知り、自著に取り込んだ、と云うことになる。母親や主人公を最後に殺さなかった理由の復活は、高濱長江訳『怪談』を持っていた青木氏は『信越の土俗』の雪女が Lafcadio Hearn の「雪女」と同じである(何故同じなのか疑ったかどうか)ことに気付き、その不足する部分を補い、そしてより白馬岳らしくなるよう主人公の職業を変更し、子供の数も減らしたのだ、と*1
 しかし、2021年9月21日付(054)等に触れたように、青木氏は既に『アイヌの傳説と其情話』に2話、Lafcadio Hearn「雪女」の翻案を行っていたことを遠田氏が指摘している。してみると『信越の土俗』に白馬岳の雪女を捏造して載せたのも青木氏らしく思われるのである。
 しかしながら、そんな見当を付けて見ても『信越の土俗』の所在が分からない限り、どこまでも想像を逞しくするばかりである。――もし『信越の土俗』の所在を知っている方、そして『妖怪変化譚』の著者、三浦氏の消息を御存知の方がいらっしゃいましたら、コメント欄までご一報下さい。(以下続稿)

*1:この、白馬岳の雪女に不足する部分を Lafcadio Hearn「雪女」に遡って復原した、と云う作業については、遠田勝が松谷みよ子の雪女について指摘していた。

白馬岳の雪女(098)

 昨日の続き。
・三浦秀夫『妖怪変化譚』(3)
 さて、本書の「雪おんなの子別れ」は、非常に扱いづらい。
 まづ「昭和三年刊の宮坂幸造他編『信越の土俗』」と云うのが分からない。
 昭和3年(1928)と云えば、昭和5年(1930)7月刊『山の傳説 日本アルプス』の2年ほど前である。
 すなわち、青木純二『山の傳説』に先行する白馬岳の雪女の文献と云うことになる。
 是非とも閲覧したいところだが、宮坂幸造が何者だか分からない。それから『信越の土俗』と云う本が分からない。国立国会図書館サーチで検索してもヒットしない。長野県立図書館や新潟県立図書館の横断検索や雑誌記事データベースなどで検索してもヒットしない。
 それこそ、三浦氏に直接問合せる他はなさそうだ。しかし、三浦氏には本書しか著書がない。三浦秀夫で検索すると同名異人と一緒になって雑誌記事がヒットするが「歴史関係の著作」は秋田書店の雑誌「歴史と旅」に、昭和53年(1978)と昭和61年(1986)に幾つか寄稿したのがヒットするくらいである。ちなみに本書の元になった連載が国立国会図書館サーチ等でヒットしないところからして、この他の、データが採録されていない雑誌に「多」々書いていた可能性が考えられるけれども、どうも分からない。とにかく本書の「あとがき」以降の消息が分からない。しかしそれからもう18年余が過ぎている*1。仮に三浦氏が健在だとしても蔵書がそのままかどうか、健在でなくて蔵書がそのままだとして、すぐに取り出せるかどうか。いや、出版物であれば同じ物が何処かにあるはずなのだが、どうにも、よく分からない。
 前回挙げた、【A】Lafcadio Hearn の「雪女」と、白馬岳の雪女の原典(!)だと思われている【B】青木純二『山の傳説』の「雪女(白馬岳)」との異同についてだが、まづ話の舞台が白馬岳である(らしい)ことが【B】に同じである。しかしながら①主人公親子が木樵であるのに対し【B】は猟師の親子と云うことになっている。【A】の Mosaku と Minokichi は親子ではないが木樵である。②雪女との間に生まれた子供の数については、遠田勝が2021年11月1日付(075)に引いた箇所などで注意しているように、Hearn の「雪女」が土着したと見られる日本各地の例では5人以下になっている。その嚆矢と目されている白馬岳の雪女の文献では【B】を始めとして、と云うか、【B】を踏襲して子供の数は5人と云うことに、大体はなっている(この点については遠からず一覧表に整理して見るつもりである)。ところが『信越の土俗』は10人で【A】と一致するのである。③主人公の母親は【A】にも【B】にも登場するが、白馬岳の雪女の長野県側の文献には登場しなくなっているのだが、【B】に先行する『信越の土俗』が既に脱落させていたことになる。④「喋れば必ず命をもらう」と釘を刺しながら、【A】と【B】では子供がいることを理由に、その養育を頼んで命を取らずに消え去ってしまうのだが、これも白馬岳の雪女の長野県側の文献にはそういう理由なしに命を取らずに消えてしまう例が幾つかある。「脱落」としか思えないのだが、やはり『信越の土俗』が既に脱落させた形で白馬岳の雪女を掲載していたらしいのである。
 こうして見ると、【B】に近いのは白馬岳を舞台とすることくらいで、①②は【A】に近く、③④の恐らく「脱落」は【B】からの書承で白馬岳の雪女を収録した長野県側の文献に近いことになる。③④からすると新しいようであり、しかし①②は【B】よりも古いことを跡付けているようでもある。――いよいよ『信越の土俗』の原本が見たいところだけれども、どうすれば見ることが出来るのか、見当も付かない。
 しかし差当り、一応の見当は示して置こうと思う。次回、2つの可能性――「白馬岳の雪女」を捏造したのは青木純二か否か、と云う点について考えられ得る可能性を述べて、今後の『信越の土俗』発掘までの作業仮説として置きたい。(以下続稿)

*1:執筆からだともう43年である。

白馬岳の雪女(097)

・三浦秀夫『妖怪変化譚』(2)
 本書の内容を確認したのは2年半ほど前(2019年8月)だが、当時は、いづれ白馬岳の雪女も取り上げるつもりだったけれどもまだ資料を借りては眺めている段階であった。昨年7月に漸く取り掛かったものの、本書に触れる機会がなかなか作れなかった。理由は2つある。1つは、当時たまに出掛けていた、本書を所蔵する都内の図書館から足が遠退いていること。2つ目は、これから述べるように、ちょっと扱いに困るような内容なのである。
 雪女を取り上げているのはもちろん【2】15~19頁「雪おんなの子別れ」である。掲載順に収録しているとすれば「歴史と人物」昭和54年2月号に掲載されたはずである。未見だが「日本妖怪変化譚」と題する連載だったようだ。
 さて「雪おんなの子別れ」はまづ15頁2行め「 山ぐにの吹雪はすさまじい。」と書き始めて、吹雪の夜に感じる気配に触れ、16頁1行め「 古老のはなしだと、雪おんなはそんな夜にあらわれたものらしい。」として、会津に伝わる、吹雪の夜に老夫婦の家に来た娘を風呂に入れたら消えてしまったと云う話を紹介し、さらに新潟に伝わる話ではひとり者の男の家に居着いてそのまま男の嫁になるが同じ結末になっている、として、17~18頁8行め、

 嫁になれるくらいだから、当然母親になる雪おんなもいる。
 昭和三年刊の宮坂幸造他編『信越の土俗』には、十人もの子を産んだ雪おんなのこと/が出ている。
 白馬村の麓の村に樵*1の親子が住んでいた。ある日、森からの帰り猛吹雪に遭い、山小/屋に泊った。その夜中、雪女が山小屋にあらわれ、眠っている父親に冷たい息を吹きか/けたあと、目覚めているが身動きできないでいる伜にも近づいてくる。その顔はぞっと/するほど美しかった。
 雪女は伜の顔をじっと見ると、「お前はまだ若いから可哀そう」と言って息をかける/のをやめ、「そのかわり今夜のことは決して誰にも喋るでない、喋れば必ず命をもらう」/と言いおいて立ち去る。朝みると父親は冷たくなっていた。
 その後ひとりで森へ通っていた伜は、翌年の冬の暮方、山道で旅の娘と道連れになり、/つよく惹かれて家へ誘った。娘はそのまま嫁になった。嫁は伜との間に十人もの子を産/んだが、初めて家へ来たときと少しも変わらぬ若々しさだったので、村人はみな不思議/だと噂し合った。
 ある夜、眠った子供たちの枕元で針仕事をしている嫁の横顔を眺めていた伜は、若い/【17】ときお前とそっくりの雪女に出会ったことがあると、山小屋の夜のできごとを話し始め/た。それを聞くうち、嫁の形相はみるみる変わっていき、「それはわたしじゃ!」と叫/んだ。
 そう叫ぶうちにも嫁のからだは白い雪煙となって戸の隙間から出て行き、二度と嫁の/姿を見ることはなかった――。


 三浦氏は Lafcadio Hearn の「雪女」に全く触れていない。しかしここに示された粗筋はほぼ「雪女」に同じである。そして「白馬村」と云うからにはこれも白馬岳の雪女の1例なのであろう。
 しかしながら、2021年9月21日付(54)1月9日付「長沢武『北アルプス白馬連峰』(2)」に見たように「白馬村」は昭和31年(1956)に長野県北安曇郡北城村・神城村が合併して発足したので、昭和3年(1928)にはなかったはずである。初出では「白馬山」だったらしい。何故「白馬岳」ではなく「白馬村」と改めたのかは、よく分からない。
 注目すべき点としては①主人公父子が木樵であること、②子供が10人、③主人公の母親が登場しないこと、④雪女が主人公を殺さなかった理由の説明がないこと、が挙げられよう。
 次回、出典の問題や内容について、余り突っ込んだ検討は出来ないが、簡単に見て置くこととしよう。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 じきに日本では検査希望者が検査数を上回って感染者数の勘定も出来なくなるだろうと思っていたが、日本より人口の少ない西欧諸国で出来ていることが出来ないのは、もう2年になろうと云うのに、やる気がないからである。都知事は第5波のときには野戦病院を作るとか云っていたが、減って来たら立ち消えになった。野戦病院はもう作らなくても良いのかも知れないが、しかしどうしてこうも実態把握に努めようとしないのか、理解に苦しむ。実態が分からないと対策を立てられないはずである。要するに今、政府にくっついて対策を立てている連中は科学者ではないのである。
 昨夏、ワクチン供給が滞ったとき、私の住む市の集団接種会場にワクチンが回って来なくなりそうになったのを、自民党の議員が掛け合って確保した、と云うことを衆院選のときに盛んに宣伝して回っていた。――本当にうんざりした。そういう、利益誘導出来ますみたいな政治しかしないから、GoToとか18歳以下バラ撒きばかり素早くて毎度感染拡大で検査能力が追い付かないとか云った按配になってるんだろうが。連中に俯瞰的総合的判断など全く期待出来ない。しかし、そういう政治家や政党に投票してしまうのだから、そして今更「こんなに急に感染者が増えると思わなかった」などと臆面もなく言う専門家が未だに馘首もされないのだから、日本はまた御目出度く敗け続けそうだ。

*1:ルビ「きこり」。

白馬岳の雪女(096)

・三浦秀夫『妖怪変化譚 日本の異界へ2003年 9月30日初版第1刷印刷・2003年10月10日初版第1刷発行・定価1500円・鳥影社・165頁・四六判並製本

 カバー表紙折返し、右下にゴシック体縦組みで小さく「装丁 有賀眞澄」とある。また4頁(頁付なし)にも下部中央に小さく「装画・装丁 有賀眞澄」とある。本文中の挿絵(8図)も有賀氏のものらしい。有賀眞澄(1950生)は本書刊行の前年に鳥影社から次の本を出していた。 見返し(遊紙)は白緑の、石目調のエンボスの用紙。扉は白い厚紙で、表は全面に有賀氏の幻想的な絵、文字は明朝体横組み白抜きで、標題は縦長の太字で大きく、その下にやはり縦長太字の副題を添える。下部にやや大きく著者名。裏は白紙。
 1頁(頁付なし)は上部中央に明朝体縦組みで「妖怪変化譚――日本の異界へ 目次」の扉、2頁(頁付なし)に13題。3頁(頁付なし)に11題とあとがき、解説。
 5頁(頁付なし)は中央上部に明朝体太字縦組みで「妖 怪 変 化 譚――日本の異界へ」、裏は白紙。
 7頁から本文。仮に番号を打って項目を見て置こう。
【1】訴える骸骨/――小野小町と長者の娘――(7~14頁) 11頁6行め~
 11頁6行め、2行分空けて3字下げで「」とあって、下寄せで「執筆・工藤 健一」とある。以下1行分ずつ空けてまづ2字下げで明朝体太字で歴史的人物(3人)や古典籍(2点)をルビ付きで挙げ、以下冒頭1字下げでかなり長い解説。工藤氏は解説も担当している。なお、以下の項にも、歴史的人物や古典籍等に「註」が付けてあるが工藤氏の名前はない。
【2】雪おんなの子別れ(15~19頁)
【3】鬼に戻った老婆/――オニの素顔――(21~29頁) 25頁3行め~
【4】ダイダラボッチの山運び(31~36頁)挿絵33頁  36頁
【5】人に懸想する木(37~44頁) 41頁5行め~
【6】狐族の言いぶん(45~50頁) 49頁~
【7】今も生きている?常陸海尊(51~58頁)挿絵53頁  56頁~
【8】河童のいたずら(59~63頁)
【9】飴を買う女幽霊(65~70頁)挿絵67頁
【10】怨みの蛇息子(71~76頁) 75頁2行め~
【11】婆に化けた飼猫(77~82頁)挿絵79頁
【12】座敷童子の引越し(83~86頁)
【13】ろくろっ首の住みか(87~91頁) 91頁
【14】深山の天狗たち(93~98頁)挿絵95頁
【15】嫉妬する絵馬のおんな(99~103頁)
【16】人の顔をもつ瘡(105~109頁)挿絵107頁
【17】古でらの大蜘蛛(111~115頁) 115頁
【18】石に化ける龍(117~122頁)挿絵119頁  122頁
【19】網地島の山猫(123~126頁)
【20】夜啼きする石(127~131頁)
【21】群蝶の怪と怨み螢(133~138頁)挿絵136頁
【22】僧形の魚(139~143頁)
【23】狸の呼びかけ(145~148頁)
【24】蜂の援軍(149~153頁) 153頁4行め~
 奥付の前の頁、165頁の裏に、中央にやや小さく「本稿は月刊「歴史と人物」昭和五十四年一月~五十五年十二月号に掲載されたものです。」とある。
 24章を収録していて、確かに月刊誌2年分である。
 155~157頁「あとがき」の、最後の成立刊行の事情を説明した箇所を抜いて置こう。157頁7~12行め

 この稿を書くことがなければ、私はおそらく一生、妖怪の世界に接することなく過ご/したことでしょう。その意味で、この奥深い世界を垣間見る機会を与えて下さった、当/時「歴史と人物」編集部におられた倉澤爾朗氏に深い感謝の念をささげます。
 また、このたび一冊にまとめるにあたってご尽力をいただいた鳥影社の窪田尚氏に謝/意を表するしだいです。
 
  二〇〇三年秋                        三浦 秀夫


 特に民俗学専門の書き手ではなかったようだ。
 158~165頁、工藤健一「解説 遥かなる妖怪たちへ」、末尾(165頁10行め)に下寄せで小さく「(青山学院大学兼任講師)」。
 奥付は横組みで上部に〈著者紹介〉がある。2行め、明朝体太字「三浦 秀夫(みうら ひでお)」として3~8行め、

一九三三年 秋田県生まれ。
早稲田大学文学部在学中の56年第6回「文藝」/全国学生小説コンクール入選。
64年第1回「時」新人賞。フリーライターを/へて65年出版社員となり94年定年退職。歴 /史関係の著作多。

とある。しかし著書は本書のみのようだ。なお「時」新人賞の方はよく分からなかったが「文藝」の方は、川口則弘サイト「文学賞の世界」にて「「文藝」全国学生小説コンクール受賞作・候補作一覧」の第6回を見るに、入選1点、佳作2点のうち佳作の1点めに「三浦秀夫|「変質の時」|〔23歳・早稲田大学文学部〕」が見える。昭和31年(1956)8月15日締切で9月22日決定、入選作のみ「文藝」昭和31年11月号に掲載。
 裏は横組みの「鳥影社の本」の目録で5点。(以下続稿)

湯口康雄『黒部奥山史談』(1)

・湯口康雄『黒部奥山史談』一九九二年十一月二十日発行・定価三、〇〇〇円・桂書房・257頁・A4判上製本
 著者の湯口康雄(1936~2013.11)については、奥付の上にある「著者略歴」に、

湯口康雄*1
昭和十一年  富山県に生まれる
昭和三十二年 富山大学教育学部修了
サンナビキ谷、餓鬼谷等、主に黒部の山と/谷に足跡を印す。
主  著   『黒部雑記』(昭和四十八年)
現  在   日本山岳会会員
住  所   富山県下新川郡朝日町殿町/‥‥


 最後の1行は番地なので省略した。人となりについては「公益社団法人日本山岳会 富山支部会報」第95号平成26年1月30日・16頁)14~15頁に寄せられている2つの追悼文が参考になる。15頁4行めまでが藤條好夫「湯口康雄さんを偲ぶ」、残りが佐伯郁夫「追悼」である。佐伯氏の追悼文は公益社団法人日本山岳会機関誌「山岳」第百九年(通巻一六七号。二〇一四年八月十五日発行・価三五〇〇円・日本山岳会・470+A24頁)329~367頁「追悼」に、一部改稿して349頁下段4行め~351頁上段「湯口 康雄さん」として掲載されている。
 昭和11年(1936)の早生まれで昭和32年(1957)に大学を卒業、まづ魚津市立片貝小学校(富山県魚津市島尻818番地)に赴任、最後は小中学校の校長を歴任した。
 以下、富山県立図書館郷土資料情報総合データベースや国立国会図書館サーチ等によって、著述目録を示して置こう。殆どが未見、飽くまでも手控えとしての作成である。本書に収録されているものは頭に〇を打った。
〇「僧ヶ岳の入道――農事のこよみ――」「北日本新聞」1961年5月17日夕刊
〇「立山トンネルを夢見た男」「北日本新聞」1961年6月12日朝刊、5頁
・「毛勝岳北面 東又本谷・滝倉谷 一九六一年七~九月の記録」「岳人」171号(1962年7月・東京中日新聞社)89~91頁
〇「黒部の古道」「岳人」182号(1963年6月・東京中日新聞社)136~138頁
・「朝日岳より姫川へ 1963年4月の記録」「岳人」190号(1964年1月・東京中日新聞社)67~69頁
・「積雪期毛勝山西面 東又谷・南又谷ベースとして」「岳人」202号(1965年1月・東京中日新聞社)66~69頁
〇「越中駒ケ岳の雪形」「岳人」205号(1965年4月・東京中日新聞社)62~63頁
・「白馬岳横断 黒部から清水岳を経て」「岳人」220号(1966年5月・東京中日新聞社)69~71頁
・「黒部・餓鬼谷 1964年7月-8月」『岳人講座 3 夏山』(1966年6月・東京中日新聞出版局)348~353頁
・「片貝川南又谷支流小沢 1961年11月の記録」「岳人」225号(1966年9月・東京中日新聞社)73~75頁
・「厳冬期毛勝山西北尾根」「岳人」229号(1966年12月・東京中日新聞社)128~130頁
・「黒部・黒薙川周辺 白馬以北の西面について」「岳人」246号(1968年3月・東京中日新聞社)25~28頁
〇「黒部側より白馬岳へ 一八九五年八月の記録からの考察」「岳人」263号(1969年6月・東京中日新聞社)66~69頁
・「野坊瀬谷のことなど」「岳人」266号(1969年8月・東京中日新聞社)46~48頁
〇「ふたりの源次郎 源次郎尾根のこと」「岳人」272号(1970年2月・東京中日新聞社)104~105頁
・「毛勝山の雪渓」「岳人」275号(1970年5月・東京中日新聞社)44~47頁
〇「蛇石について」「岳人」278号(1970年8月・東京中日新聞社)102~105頁
・「剣岳北方稜線 厳冬期の縦走をめぐって」「岳人」282号(1970年12月・東京中日新聞社)22~24頁
〇「黒部の漁師助七 音沢村の人びと」「岳人」282号(1970年12月・東京中日新聞社)106~109頁
〇「薬師岳をめぐって 登山史の一ページ」「岳人」287号(1971年5月・東京中日新聞社)140~143頁
〇「黒部雑記(1)(古い山みちをめぐって)」「岳人」298号(1972年4月・東京中日新聞社)177~181頁
〇「黒部雑記(2)(古い山みちをめぐって)」「岳人」299号(1972年5月・東京中日新聞社)196~199頁
〇「黒部雑記(3)(古い山みちをめぐって)」「岳人」300号(1972年6月・東京中日新聞社)276~279頁
・『黒部雑記』(1973年7月・北日本出版社)

〇「山廻り足軽竹内家の人びと(黒部溪谷)」「岳人」314号(1973年8月・東京中日新聞社)82~83頁
〇「黒部懐古 河東碧梧桐の書簡」「岳人」326号(1974年8月・東京中日新聞社)198~200頁
〇「黒部の山案内人-下立村の人びと-」「山岳」第69年(1975年4月・日本山岳会)133~140頁
〇「「枕雲嗽雪」の扁額――露伴漱石――」「北日本新聞」1975年5月27日夕刊
〇「ザラ峠のウェストン」「岳人」336号(1975年6月・東京中日新聞社)202~203頁
〇「古地図瑣談 白山・立山・剣・黒部への推理」「岳人」344号(1976年2月・東京中日新聞社)198~200頁
・「境川」「笹小俣谷」富山県教職員山岳研究会・富山県高等学校体育連盟山岳部 編『とやま百川』(1976年3月・北日本新聞社
〇「「劔の大瀑行」余聞」「山 日本山岳会会報」第372号(1976年6月)2~3頁
〇「「立山新道」のこと 明治初年の開通社」「岳人」350号(1976年8月・東京中日新聞社)202~203頁
〇「唐松・白馬・犬ヶ岳――ありし日の山名考――」「岳人」363号(1977年9月・東京中日新聞社
〇「ある山村 「有峰村絵図」をめぐって」「岳人」364号(1977年10月・東京中日新聞社)206~207頁
〇「黒部の山案内人 瀬川栄吉と石部夫妻の交流-昭和初期の剣・黒部を舞台にして-」「岳人」387号(1979年9月・東京中日新聞社)184~187頁
〇「釜谷山の命名者・田部重治」「岳人」470号(1986年8月・東京中日新聞社)49頁
〇「『猫又退治之次第』をめぐって 黒部・猫又伝説遺聞」「岳人」523号(1991年1月・東京中日新聞社)170~174頁
〇「ダム湖は二つ計画されていた!(ある黒部開拓史)」「岳人」525号(1991年3月・東京中日新聞社)144~148頁
〇「黒部奥山廻り役の遺墨をめぐって 西鐘釣温泉界隈:」「岳人」536号(1992年2月・東京中日新聞社)150~152頁
〇「黎明期の剱岳 三ノ窓をめぐる人々-山田珠樹のことなど-」「岳人」537号(1992年3月・東京中日新聞社)154~158頁
・『黒部奥山史談』(1992年11月・桂書房・257頁)
・「八千八谷といわれる黒部・黒薙川の開拓者塚本繁松素描」「岳人」556号(1993年10月)135~138頁
越中の廃村 探訪編3「朝日町棚山」「北日本新聞」1994年3月1日朝刊14頁
越中の廃村 探訪編25「朝日町池ノ原」「北日本新聞」1994年9月11日朝刊15頁
・新刊紹介「廣瀬誠著『立山のいぶき――万葉集から近代登山事始めまで』」「山岳」第89年(1994年12月・日本山岳会)190~192頁上5行め
・「奥石谷」山村調査グループ 編『村の記憶』(1995年3月・桂書房)10~11頁
・「〔日本古書通信〕八〇〇号記念募集随筆古書通信と私(1)」「日本古書通信」61巻3号(1996年3月・日本古書通信社
・「〔富山県〕 16-2 生き生きと活動する生徒の育成」文部科学省教育課程課・幼児教育課 編「初等教育資料」650号(1996年5月・東洋館出版社)84~85頁
・「幕末の”黒部山岳警備隊”の新事実 池田屋騒動以後の黒部奥山廻の厳戒体制」「岳人」604号(1997年10月)162~166頁
・「鏡面の岩壁が太陽反射 初雪山の別称 大平集落からは「光山」」「北日本新聞」2000年11月9日朝刊25頁
・「武田久吉の書簡をめぐって――吉澤庄作との交流――」「山岳」第108年(2013年8月・日本山岳会)148~154頁

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 最後に書評など紹介記事と、上に挙げた以外の追悼記事を挙げて置く。
・「光放つ案内人たちの記録 湯口康雄著「黒部奥山史談」を読む」「北日本新聞」1993年1月19日朝刊9頁
・どんな本だな「日本山岳会会員 湯口康雄(朝日町)黒部関連の古資料」「北日本新聞」1995年10月9日朝刊6頁
追想 ありし日「元小中学校長 湯口康雄(朝日町殿町)」「北日本新聞」2014年7月21日朝刊9頁
・「湯口康雄氏」「日本山岳会富山支部創立70周年記念誌」(2018年3月・日本山岳会富山支部)169~170頁
 今後、気付いたものも、ここに追加して行くこととする。(以下続稿)

*1:ルビ「 ゆ ぐちやす お 」。

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(9)

・新版と定本の比較⑤
 昨日の続きで、②新版と③定本の最後の頁、【風の盆案内】と奥付の異同を見て置こう。
 ②は2段めの最後、1行分空けて、3段め1~3行めに7項め「●八尾名物土産」があって5点列挙される。③では8項め(3段め4~7行め)で7点、4点めと5点め「時/代火鉢・象嵌細工・」が追加され、また最後の「など。」の前(6行め末)に半角の読点が打たれている。
 ②8項め、4~8行め「●八尾の食べ物」は10点挙げてあったが③9項め(8~12行め)は9点、②の9点めの「きなこ餅・」が削られ、最後に「、など。」が追加されている。
 ②9項め、9~26行め「●参考文献」は③では10項め(13~25行め)で、最初の3行(②10~12行め③14~16行め)に、

 本書をつくるにあたって参照させ/てい|ただいた文献、および関連する/ものの主な|ものをあげておきます。*1

として、②は7点、③は6点を挙げる。②は1点ごとに改行して『書名』監修者もしくは編者 刊年 出版者を列挙するが、③は『書名』(監修者もしくは編者、刊年、出版者)として、改行なしに6点を詰めている。削られたのは①初版刊行後に刊行された②の最後の「『おわら風の盆写真集』平成六年 / 北日本新聞社」である。

 他の6点は同じ、異同は最初の2点『八尾町史』『続八尾町史』では出版者が「八尾町役場」から「八尾町」になっていること、『八尾史談』『越中おわら節』『林秋路版画集 越中おわら風の盆』は同じ、5点めは1月16日付(5)に新装版(1998年9月・173頁)の書影を貼付したが、その前に初版(1979年9月・199頁)と普及版(1981年3月・172頁)があるようだ。 これは普及版のカバーらしいが初版もこれと同じらしい。
 他に未来社の〈新社屋落成/創業30周年〉記念版(1982年4月)があるようだ。これは或いは普及版のカバーだけ取り替えたものかも知れない。
 6点めの『越中おわら社会学』には③は「北日本新聞社編集局編」との編者名が追加されている。
 次に縦線があって1月15日付(4)に引いた②謝辞③断り書きがある。
 横線で仕切られた下の4段めは編者と写真家の紹介と奥付で、まづ②1~8行め③1~9行め「■成瀬昌示」、4行めの途中までは一致。②は、

‥‥、八尾町文化財調/査保護委員長を最後に、公職を引退。共/同執筆に『八尾町史』『角川地名辞典』/『日本文化史体系』『越中八尾細杷』など/がある。

とあるが③は、

‥‥、八尾町文化財保/護委員長を最後に公職を引退。著書に、/『越中八尾細杷』(一九九三年、言叢社、/非売品)、共同執筆に『八尾町史』『角川/地名辞典』『日本文化誌体系』などがある。

となっている。次に②9~12行め③10~13行め「■里見文明」は組み方が少し異なるが同文。
 その左に枠(②4.9×7.4cm③5.0×6.6cm)があって奥付、枠は③が太い。
 まづゴシック体で標題②「新版 風の盆おわら案内記」③「定本 風の盆おわら案内記」とあって発行日、次いで②にのみ下寄せで「定価二〇〇〇円/(本体一九四二)」、そして「編 者」と「写 真」、③は続いて「発行所」だが②は「印 刷」と「製 本」が挟まる。版元名に②は「〒一〇一東京都千代田区西神田二-四-一/東方学会本館」と添える(郵便番号の漢数字は半角)が、③は「東京都千代田区西神田二-四-一/東方学会本館    〒 101-0065」とある(算用数字は横転)。
 ②の残り3行は上寄せで全て横転していて、まづ☎番号とFAX番号で1行、次いで「Printed in Japan, 1995©」、最後にカバー裏表紙下部と同じISBNコード等で1行。③は下寄せで1行めTEL.番号とFAX.番号で番号は②に同じ、2行めは縦組みで小さく「印刷・製本 陽光社印刷株式会社」これは②の「印 刷」を担当していたところで②は「製 本 大口製本株式会社」だった。3行めは「©2004 Printed in Japan」4行めはカバー裏表紙と同じISBNコードとCコード。定価に関連する記載は枠内にはない。(以下続稿)

*1:③には読点がない。

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(8)

・新版と定本の比較④
 1月15日付(4)に【風の盆案内】の組み方と、3段め最後の②新版は謝辞、③定本は改訂についての断り書きを抜いて置いたが、もう少し細かく見て置こう。
 1段め、まづやや大きく【風の盆案内】とあるが、②は3行取り2字下げであったのが③は2行取り字下げなしになっている。
 1項めは1段め2~13行め、②の8行めの途中まで抜いて置こう。

●祭り日
 毎年九月一・二・三日の三日間行/われる。曜日によって異なるが、近/年は一日~三日とも観光客で混雑す/るから、見学時間を考えて、宿泊先/など早めに予定を組むと良い。
 前夜祭として、‥‥


 2段落めは②と③で同文、組み方が若干異なる。③の見出しと1段落めは次のように変わっている。

●祭りの日
 毎年九月一・二・三日の三日間。一/日・二日は午後三時から一一時ま/で、三日は午後七時から一一時まで/催される。雨が降ると、野外の演舞/流しは中止となる。


 2項め「●祭り場」は1段め14行めから②は2段め3行め、③は2行めまで。1段落めは②は1段め15~20行め、③15~23行め。②の17行めの途中までを抜いて見よう。

 本番の三日間、一一町の大通りを/中心に午後から深夜まで練り踊りや/輪踊り、流しが行われるが、‥‥


 同じところが③では20行めまで、

 本番の三日間、一一町の通りを中/心に午後一一時まで輪踊りや流しが/行われる。時刻がくると各町会所に/町衆がつどい、輪踊りがはじまり、/町内流しから、やがて旧町の大通り/をまわる遠出の流しへと移ってゆく。/‥‥


 段落の残りは一致。
 ②の2段落めは観光客向けの踊りや催しについて述べるが、③はこれを2つの段落に分けている。
 3項め「●交通規制」は②は2段め4~8行め、③は3~7行め。②は3日とも5~6行め「午後三時か/ら翌朝午前一時まで」で③は終了時間は同じだが4行め「一日・二日の午後三時から」5行め「三日は午後六時から」と開始時間が異なっている。なお②は8行め「/(詳しくは駅等でチラシ案内を参照)」とあったが③にはない。当時はまだ駅に伝言板があったような時代だから、富山駅などに案内のチラシがあったのであろう。しかし、自家用車で来るような人が駅に寄るとも思えないから、このように断る意味は余りないような気がする。③がこれを削ったのは、別の理由もあるかも知れないが。
 4項め「●夜の流しでの心得」は2段め②9~13行め③8~12行め、同文で異同は最後が②「‥‥を謹みたい。」となっていたのが③「‥‥を慎みたい。」と訂正されていること。
 5項め「●交通」は2段め②14~20行め③13~20行め、富山駅からの[JR高山線]、富山駅前からの[富山地鉄バス]、そして②19~20行め、

[航空]富山空港よりタクシーで15/分。(当日は通常の倍の所要時間)

とあったのが、③18~20行めは、

[空路のばあい]富山飛行場よりタクシ/ーで15分。(ただし、風の盆当日は通常/の二倍ほどの所要時間となる)

となっているが「富山空港」が飛行場になっているのが変だし括弧内の加筆も必要だと思われない。
 6項め、②2段め21~29行め「●宿泊施設」は③21~29行め「●宿泊」となっている。②は旅館やホテルを7つ列挙して電場番号を示しているばかりであったが、③は旧町の中心にある2つの名と、新たに出来た町立の「ゆめの森ゆうゆう館」を挙げ、24~29行め、

‥‥、祭り当日の宿泊予約は/早くから満員、祭りを味わうには旧町で/の宿泊が望ましいが、それには前年から/宿泊先を探しておく工夫が必要となる。/バス旅行では、滞在時間その他、前もっ/て現地事情をよく知っておくとよい。

と断っている。②が出た頃にはまだ泊まれなくもなかったのが、③のときには電話番号を載せる意味もなくなっていたのであろうか。しかし、最後のバス旅行云々は日帰りツアーを指しているのでもなさそうで、少々意図を取りづらい。
 7項め「●ウェブサイト」は③2段め30行め~3段め3行めに新たに追加されている。宿泊施設の電話番号を載せなくなったのも、駅等でチラシを配布していることに触れていないのも、やはりインターネットの普及が理由として考えられるであろう。(以下続稿)

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(7)

 前回、第四章「風の盆のこころ」にある、編者の成瀬氏が何十年(!)も風の盆を見ておらず、住居も富山市に構えていたとの記述を引用した。
 しかし、その後、八尾の実家に戻ったらしい。昨日の引用に続く最後の部分、②新版108頁③定本116頁下段、前を1行分空けて6~23行めに、近況を述べている。12行めまでを抜いて見よう。

 ところがおわらの縁は私の頭におかまいな/しに、まったく面識のない方々との不思議な/出会いをもってきてくれた。
 ヒョンなことから紀野一義先生麾下の面々/のお宿を引き受けることになった。「耄碌爺ィ/婆ァの二人暮らしの陋屋」は、一年一度の風/の盆に、若い命でわきかえることになった。


 この辺りの経緯は紀野一義「風の盆と私」に述べてある。②97頁③105頁上段~下段11行め、

 風の盆と私というより、西新町の成瀬昌示先生と私といったほう/がいいであろう。今から二〇年近くも昔、私は富山県の精神開発室/主催の校長研修会に三年連続で講師に招かれた。その時の世話役が/成瀬先生である。成瀬先生はこの時の講義に感銘して私の本を読む/ようになり、その一冊を松本さなえという女の先生の机の上に置い/たところ、今度は松本先生が私の本の愛読者になられた。この松本/さんが毎年のように私を風の盆に招かれる。五年目にして私はよう/やく八尾を訪れる気になり、昭和六二年の風の盆に初めて私は成瀬/家の客となった。その日、私は初めて成瀬先生に会い、成瀬先生の/祖父の成瀬岩松上等兵が金沢の連隊の銃剣術大会で表彰された額を/見、卒然として少年の日の父の話を思い出した。父は金沢の連隊の/衛生兵として日露戦争に従軍し、重傷の成瀬上等兵を助けた。この/成瀬上等兵の属する日本軍が山の斜面を登って頂上で突如ロシア/軍と衝突し、両軍銃剣を構えたまま石のように動かなくなったとい/う。中隊長が「四天王はおらぬか」と大声で呼び、銃剣術の四天王/【上段】といわれた成瀬上等兵は「ここにおります」と叫ぶなり、スルスル/と進み出てロシア兵を刺した。あとは白兵戦となり日本軍が大勝を/収めた。そのあと成瀬上等兵は瀕死の重傷を負い、父の献身的な看/護で命をとりとめたのである。その話を少年の私は父の口からたび/たび訊いていたので、「もしや成瀬上等兵は四天王と呼ばれていな/かったか」と成瀬先生に訊ねたところ、「そうだ」といわれる。私/は少年の日の父の話を語り、成瀬先生は「その上等兵こそ成瀬岩松/であります」と答えられたので、その話をきいていた人たちは大騒/ぎになった。
 翌年、昭和六三年の風の盆で私は鏡町の踊りの列について歩き、/先頭を行く‥‥


 定年退職後に八尾に戻り、昭和62年(1987)から紀野一義とその教え子たちの宿を引き受けることになったようだ。
 20年近くも前と云うと昭和40年代後半、成瀬氏が50歳くらいの頃であろう。公立学校の教員、そして校長であれば、確かに2学期の頭、9月1日から3日に行われる行事に参加する訳に行かなかったであろう。
 紀野氏は同じときのことを別に書いているが、そこでの書き振りはこことは違っている。但しそちらは原文をまだ見ていないので、追って確認し次第記事にすることとしよう。
 さて、成瀬岩松については2021年11月25日付「日本の民話55『越中の民話』第二集(4)」に見たように、石崎直義 編『越中の民話』第二集に、妻と思しき初枝と連名で9話の「話手」として見えている。石崎氏は明治17年(1884)生の上田はるの話を特筆して扱っているのだが、年齢は日露戦争(1904~1905)に出征している成瀬岩松の方が少し上ではないかと思う。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 感染が拡大すると「予想を超える」とか云う馬鹿な専門家の無責任な言い訳を聞く羽目になるのは、何度目だろう。素人でも欧米を見ておれば予測出来たのに。しかしこうならないようにすると橋下徹やらに口汚く罵られるから失敗しないではいられないのだろう。まぁ英米があの体たらくで、英米のやることは失敗していても真似したがるらしい。とにかく気にしなくなった。――先週の火曜の朝、冷たい雨だったこともあるが満員列車の窓が締め切られていて窓が曇って中が見えないくらいだった。しかし、誰も換気しようとしないのである。これはもう駄目だと思ったら、今日は分かっているだけで3万人である。実際はどれだけいることか。しかしその後、雨の日でなくても、暖かい昼でも窓が閉まっている車輌の方が多い。もうどうでも良くなったかのようである。これまで罹らなかったから同じようにしていれば良いと、すっかり刷り込まれている。
 もう罹っているかも知れない。しかしわざわざ検査を受けようとも思えない。NHKのニュースはこうなった責任を一向に追及しない癖に、国民には少しでもおかしいと思ったら検査を受けろと云う。何処までも自己責任、こちらに丸投げ、しかも東京五輪も国民のせいにし始めた。五輪選手の英雄扱いも徐々に既成事実として行いつつある。五輪なぞもうやらなくて良いだろう。これに懲りないとは、本当に御目出度いと云うか、度し難い。そう云えば都の基準の重症者と云うイカサマ、五輪をやるための目くらましとして始めたはずなのに、未だに放置されている。好い加減に余所との整合性を取らせろ。国がやらないならマスコミが正しい数字で報道すべきだろう。しかしもう権力と癒着して腐り切っているから無理だな。朝日新聞を止めて本当に良かった。

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(6)

 残る大きな異同は最後の頁の【風の盆案内】と奥付だが、これは後回しにして、一通り内容を見て置こう。
 カバー表紙には標題の下に横組みで、明朝体太字にゴシック体を小さく添えて2行「成瀬昌示/里見文明 写真」とあり、その下少し空けてやや小さく「執筆」として、2人ずつ5行「倉嶋 厚 小杉放庵/伯 育男 酒井 博/城岸 徹 長瀬一郎/高橋 治 紀野一義/成瀬昌示 言叢社 」最後の版元名の下に小さく「〈編集部〉」と添える。これは小杉氏と倉嶋氏の順序が入れ替わっている他は掲載順である。①初版②新版刊行当時、NHKのニュース番組の気象情報を担当して抜群の知名度倉嶋厚(1924.1.25~2017.8.3)を目立つように、大物ではあるけれども物故者の小杉放庵(1881.12.30~1964.4.16)よりも先にしたのであろうか。
 カバー背表紙には標題の下、3字分ほど空けて「成瀬昌示編  写真里見文明 執筆 」と1行、続いて割書にして「倉嶋 厚 伯 育男 城岸 徹 高橋 治 成瀬昌示/小杉放庵 酒井 博 長瀬一郎 紀野一義 言叢社〈編集部〉」と2人ずつ揃えて*1並べ、最後だけ左行が突き出る。そして最後にやや太く小さい明朝体で「言叢社」と版元名。
 注意されるのは編者の名前が「執筆」者を列挙した中に入っていることで、最初、私は本文の概説部分は成瀬氏が担当したのかと思っていたのだが、そうではなくて「言叢社〈編集部〉」が、【風の盆案内】の「●参考文献」に列挙した書物を参考に書き上げたものらしい。
 すなわち4~24頁「序章 風の盆の町」、25~40頁「第二章 風の盆の町筋」、41~②98③106頁「第三章 風の盆「おわら」のかたち」、②99~111③107~119頁「第四章 風の盆のこころ」のうち、第四章のみ題下に「成瀬昌示」とあって、書き振りを見ても外部の人間による概論風の第三章までとは、異なっている。
 もちろん、頁数の分だけ編集部による文章がある訳ではなく、各章に、序章には16頁【随筆】小杉放庵「風の盆」、第二章には38~39頁【随筆】倉嶋 厚(理学博士、気象キャスター「「風の盆」の季節―酔芙蓉・二百十日・不吹堂」、第三章には57~59頁【随筆】伯 育男富山県民謡おわら保存会演技指導副部長)「伯兵蔵のこと」、60~61頁【随筆】酒井 博(八尾文化会議委員)「江尻豊治のこと」、69~70頁【随筆】城岸 徹富山県民謡おわら保存会企画部長)「風の盆のおと」、71~72頁【随筆】長瀬一郎富山県民謡おわら保存会顧問)「風の盆に踊る」、84~87頁【随筆】高橋 治(作家)「並みのものじゃない」、②97~98③105~106頁【随筆】紀野一義(宝仙短期大学学長)「風の盆と私」随筆が挟まれ、他に目次では [ ] で括られている囲みの記事が46~47頁「曳山祭り」48~49頁「八尾絵図」52~53頁の中段下段「おわら古謡」62~63頁の中段下段「新作おわら」②100③108頁下段「おわら踊りの原形」②103③111頁中段下段の6行め以降「大面縄の話*2」、それから②109~111③117~119頁「「おわらの踊り方」旧踊り」も同趣の頁と見做して良かろう。この他に写真のみの頁が多いのはもちろんである。
 成瀬氏が本書の編纂を主導していないことは、その執筆にかかる第四章「風の盆のこころ」からも窺われる。②108③116頁中段16行めまで幼児期から昭和21年(1946)までを回想し、1行分空けて17行めから下段5行めに、再び郷里八尾を意識したときのことを、次のように述べている。

 それから三十有余年、県の文化活動の一端/を担うはめになり、あちこち飛び回っている/うちに、すっかり八尾のことにはごぶさたの/形になっていた。住いも富山市に持ち、老後/の生活をと考えていた矢先、再び人生の糸は/八尾にたぐりよせられていた。
 何十年ぶりかで観るおわら踊りは、龍宮の/宴に招かれたようで、ただ呆然と立ち竦むの/【上段】みであった。
 「時代は過ぎた」。町衆を眺めているとな/つかしい姿がチラホラ……いずれも半禿げか、/白髪頭……自分の白髪を忘れ「もう終わった」。/つくづう思い知らされた気がした。


 そもそも本書の企画が何処から持ち上がったものだが、写真を担当している里見文明(1935生)は言叢社が昭和61年(1986)10月に刊行した、昭和59年(1984)と昭和60年(1985)の川越祭り氷川神社神幸祭と山車祭礼を記録した、川越市観光協会川越市文化財保護協会・川越市山車町懇親会・川越市囃子連合会 監修『川越祭り』でも相川忠彦と写真を担当している。版元言叢社HPの「●定本/風の盆 おわら案内記」紹介ページには里見氏について「東京生まれ。父方は富山県出身、幼い頃、八尾町の隣町・大沢野に疎開して育った。日本大学芸術学部写真学科卒。報知新聞でスポーツ写真記者となったのち、家業に従事のかたわら石仏写真に専念。/写真集『石仏遍歴』 『川越祭り』 、共著に『カラー石仏』 『江戸・下町の石仏』 などがある。現在、江戸川石仏の会会長。」と紹介しているが、都内在住で祭礼を取り続けている訳ではなく、国立国会図書館サーチで検索しても石仏の写真を長く取り続けている人のようである。そうすると、公的な出版物と云うべき『川越祭り』の写真を担当するに当たって、言叢社編集部との打合せで風の盆の八尾の近くに縁故疎開していたとの話をしたことから、こうした企画が版元と里見氏双方から醸成されて行った――ように思われるのだがどうだろう。企画立案・編集過程の事情は一切説明されていないので、想像を逞しくするしかない。(以下続稿)

*1:「一」が半角分なので右と揃っている。

*2:ルビ「おおめんじょう」。

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(5)

 題に(1)まで遡って「 編」を補った。
・新版と定本の比較③
 本書は新潮社の「とんぼの本」や、河出書房新社の「ふくろうの本」や「らんぷの本」と同じ作りのビジュアル概説書である。
 前回引いた版元HPの紹介文にあったようにオールカラーではない。カラーのアート紙は③定本で増補された8頁の他に、②新版で1~24頁、73~80頁の合計32頁、③定本では増補があって全40頁になっている。他はマット紙で白黒写真と本文のみの頁が多いが、42~43・46~47・50~51・54~55・81・84~85・92~93・96頁の合計14頁がカラー印刷である。技術的な問題からか、マット紙では両面カラー印刷にしていないようだ。
 以下、ざっと異同を拾って見る。誤植の修正などの細かいところまで確認する余裕がなかった。
・1頁(頁付なし)扉、1月12日付(1)に指摘した、カバー表紙と同じ標題に添えてある②明朝体太字「[新版]」が③明朝体「[定本]」となっていること。
・2~3頁(頁付なし)「目次」は、現在「八尾町民ひろば」になっている畑地の辺りから、今町・西町辺りの石垣の上に続く家並みを写したもので、架け替えられる前の禅寺橋や、紅白の鉄柵の続く禅寺坂が写っている。その空の部分に細目が、縦線(9.8cm)で項目ごとに仕切りながら示されている*1のだが、3頁11行め、10本めと11本めの縦線の間に、②には秀英初号明朝で「付録おわらの踊り方 109 風の盆案内 112」とあったが、③は明朝体太字で「二〇〇三年 風の盆 97」とある。その前の3行の頁が、この増補に合せて8行め②「97」③「105」、9行め②「99」③「107」、10行め②「100」「103」③「108」「111」に変わっている。
 なお、異同ではないが3頁12行め、11本めの縦線の左に添えて明朝体太字で小さく「表見返し 林秋路画カバー・表紙・扉装幀 芦澤泰偉」とある。林秋路は上新町生れの版画家・俳人明治36年(1903)生、歿年はネット上には昭和49年(1974)と昭和48年(1973)とが混在している。

 昨年刊行された、西新町生れの小谷契月(1902~1971)の作品集の装画も、やはり林秋路の絵が使われている。 芦澤泰偉(1948生)は装幀家。(以下続稿)

*1:2頁10本、3頁11本。

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(4)

・新版と定本の比較②
 風の盆についての記憶や知識を辿って行くうちに余計な話で長くなったが、ようやっと1月12日付(1)の続き。
 ③定本は②新版よりも8頁増えているが、120頁【風の盆案内】の最後、3段め25行めの次、1行分使って縦線(4.0cm)で仕切って、26~29行め、

◆「定本」を刊行するにあたって、二〇/〇三年「風の盆」を新撮してカラー八頁/を増補するとともに、初版・新版の誤植/など、若干の訂正をおこないました。


 この増補は③97~104頁(頁付なし)にアート紙・カラーの「二〇〇三年 風の盆」で、②97~111頁=③105~119頁、最後の②112頁③120頁は上3段が【風の盆案内】で横線(12.6cm)で仕切った4段め著者紹介と奥付になっている。上3段が②1段30行・1行16字、③は1段めのみ1段30行・1行16字で、2~3段めは1行18字になっており、内容もかなり異なっている。詳しくは追って検討することとしよう。
 ちなみに②112頁【風の盆案内】の最後、3段め26行めの次、1行分使って縦線(4.0cm)で仕切って、27~29行めに、

■製作にあたって、七年にわたり、/八尾町の沢山の方々にお世話になり/ました。あつく御礼申し上げます。

とあるばかりで、①初版との違いなどを説明した箇所はない。頁は112頁で変わりない。【風の盆案内】を最新の情報に書き換えたのであろう。
「七年」と云うのは、Amazon詳細ページの「商品の説明」に、

富山県八尾町が全国に誇る「風の盆おわら」の全貌と精髄を、1984~90年の7年間にわたり撮影した中から選び抜いた写真と多彩な文章によって伝える案内書。03年の「風の盆」新撮を8頁加えた、95年刊新版の定本。

とあるように、昭和59年(1984)から①初版刊行の前年、平成2年(1990)までの7年で、偶々であろうが1月13日付(2)に見たように撮影を始めた年の風の盆の直前に、高橋治「崖の家の二人」が発表されている。そして撮影を続ける間に昭和60年(1985)4月に『風の盆恋歌』と改題されて書籍として刊行、昭和62年(1987)8月には新潮文庫に入り、平成元年(1989)6月には演歌の「風の盆恋歌」が発売されている。なお、その後、③定本刊行の前年、平成15年(2003)6月に、新装版まで刊行されているのである。

 版元言叢社HPの「●定本/風の盆 おわら案内記」紹介ページに、

§越中八尾町(富山県)が全国に誇る町芸「風の盆おわら」の全貌と精髄を、精選された写真と多彩な文章によって伝える絶好の案内書。
 
収録された写真は、1984-1990年にわたる7年間、1万枚に及ぶフィルムから選び抜き構成。更に今回は2003年の風の盆を新撮したもの8頁を加えて「定本」として刊行。
立春からおこして二百十日の風が吹くころ、毎年9月1日2日3日飛騨の山間にかかる小さな街道町に幻妖な音曲と踊りの祭り、おわら風の盆がくりひろげられる。
神通川の支流・井田川河岸段丘上にできた小さな町筋に、この日ばかりは、全国から30万人という人たちが訪れる。
●現在の祭り現場では、もう本書のような写真はほとんど撮影できず、おわらの真髄を伝える唯一といってよい写真文集となっています。
●カラー70余点、モノクロ80点

とあるが、まさに本書掲載の写真を撮影していた時期が、「本書のような写真」が「ほとんど撮影でき」なくなる、ぎりぎりのタイミングであった訳である。――いよいよ私のような人混みの苦手な人間の行くべきところではなさそうだ。そしていよいよ、1月14日付(3)に触れた、こうなる前の映像――新日本紀行銀河テレビ小説を見たいと云う気持ちが高まって来るのである。(以下続稿)

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(3)

 今回も余談に終始する。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 八尾の人と知り合いになって、風の盆に招待されるようなことがあれば、つまり八尾旧町の民家の二階から眺めていられるのなら行って見たいと思うけれども、観光客の一人として人混みに参加しようとまでは、1月7日付「新聞解約の辯(3)」の中程に述べたように、私は思わないのである。
 私が何度か足を運んだ行事は、九品仏のお面かぶりくらいである。私が行っていた頃には8月16日、私はお盆に帰省する訳でもないので、下駄を突っかけて前日の、他に人気のない境内で橋を組み立てているところや、翌日の橋を解体するところまで眺めたものだった。しかし2017年から5月5日に変更になって2020年は中止。――境内で警備員が射殺される事件が起こって、戸締りが厳重になる前だったからもう20年以上前*1、3年に1度だから2回か、せいぜい3回行ったに過ぎないのだけれども。お面を被るのはそう遠くない時期に極楽往生を願っているような人だから、足取りが覚束ない人が少なくなくて、そうでなくても重そうな、視界の殆どが遮られるお面を被って仮橋を渡るのだから付き添いと共にゆっくり歩く。人によっては殆ど抱えられるようにして歩く。従って、風の盆のような陶酔感はない。ただ、参加するのに幾ら掛かるのか知らないが、お面を被る人たちは品の良い裕福そうな人ばかりなので、孫娘らしい付き添いが吃驚するくらい、私の周囲にはついぞ見たことのないような美女だったりすることがときどきあるくらいである。ただ、混むけれども境内もそれほど広くはないし、人の背丈よりも高い仮橋を渡って行くので、見えづらいと云うことはない。そして私は6ヶ月定期を買って夏休みも大学や都内の図書館に出掛けていたから、途中下車して、今ほど暑くなかった夏の風情を味わっていたのである。
 結局私は、田舎の、村祭りもやらなくなっている農村の次男坊で、高校までで郷里から離れてしまい、そして3年か4年毎に転勤で転居するような者の倅なので、どこにも伝統に繋がる糸口がないのであった。正月や盆に父の郷里に行っても、特に何か特別な行事に立ち会ったと云う記憶はない。母の実家は大阪の新興住宅地で、夏に子供会で地蔵盆をやっているくらいであった。――憧れはあっても、伝統に雁字搦めにされるのも亦大変だ、と思って過ごすばかりである。
 風の盆を扱った小説には、高橋治『風の盆恋歌』より前に脚本家・小説家の西澤裕子(1929生)の『風の盆』があった。

 これは西澤氏が脚本を担当し、昭和56年(1981)3月2日~27日まで20回放送されたNHK銀河テレビ小説「風の盆」の原作である。主演は梶芽衣子(1947.3.24生)で岡本富士太(1946.11.21生)や大門正明(1949.3.10生)が共演、語り手は渡辺美佐子(1932.10.23生)、三枝成章(1942.7.8生)が音楽を担当している。
 もちろん小学3年生だった私が、現在の小学生ならいざ知らず、当時の小学生が21時40分から22時までの銀河テレビ小説を見せてもらえるはずもなかったから、見た記憶はない。銀河テレビ小説は中学に入ってから、丁度風呂から出た時間でちらちら見るようになったように思う。――愛知県蒲郡市宮崎美子が管理人をしている下宿に、何か事情のある青年が住み着いて、他の下宿人たちと心を通わせるうちに、反撥し合っていた宮崎美子とも好き合うようになる、みたいな話を覚えていて、今検索してみるに昭和59年(1984)2月27日から3月23日まで全20回放送された「やどかりは夢をみる」のようだ。これは小学校を卒業した春休みになる頃だから2月28日から3月26日までの平日13時5分から25分の再放送を見たのだろう。このドラマで私は蒲郡と云う海に面した町を知ったので、一度も下車したことはないが東海道本線東海道新幹線で何度も通って、その度に南側が海に面した温暖な、密柑山のあるような場所で穏やかに暮らしたいなどと思ったものだった。
 銀河テレビ小説は、こうした地方で暮らす人々を取り上げるところに特色があったように思う。NHKアーカイブス「NHK人物録」の「宮崎美子」インタビューで、宮崎氏がこのドラマについて語っているが、首都圏でも関西圏でもない地方の風光・文化、人々の生活が見られることが魅力だった。しかしながら、そのNHK名古屋放送局のドラマ制作部門が今年度いっぱいで廃止されるらしい。名古屋のドラマと云えば山田昌(1930.5.12生)が出るぞ、とファンでもないのにワクワクしたものだが、残念なことである。しかし、これからは東京と関西で撮れば全て済むと思っているのだろうか。ならば私は僅かながら中部地方の地方都市で過ごした時期のあったことをせめてもの幸いと思うこととしよう。
 「やどかりは夢をみる」の舞台となったことは蒲郡市にとっては大事件であったらしく、「広報がまごおり」第485号(昭和58年9月15日・愛知県蒲郡市役所・12頁)8頁「蒲郡が銀河テレビ小説の舞台に/九月下旬と十月下旬に現地ロケ」、「広報がまごおり」第487号(昭和58年10月15日・愛知県蒲郡市役所・12頁)1頁「〝NHK銀河テレビ/小説のロケ始まる〟」、「広報がまごおり」第495号(昭和59年2月15日・愛知県蒲郡市役所・12頁)1頁「NHKテレビ/「やどかりは夢を見る」/二月二十七日から放送開始9頁「写真パネル展を開催」によりその盛り上がりを窺うことが出来る。
 実は私の住んでいた町も昭和末、私が高校2年生のときに銀河テレビ小説の舞台になっていて、当時私がうろうろしていた辺りが繰り返し、しっかり写っているのだった。しかし、余りその辺りから来ている生徒がいなかったためか、そして蒲郡と違ってドラマの撮影が余り珍しくなかったらしいこともあってか、蒲郡のように市報で大々的に取り上げるようなこともなく、高校でそのドラマのことが話題に出た記憶がない。ロケの撮影は平日の昼間、人が余り出歩いていない間にやったのだろう、母が買物に出掛ける駅の商業施設も、撮影場所から1駅か2駅のところで、撮影に出くわすようなこともなかったらしい。だからそんなTVドラマがあったことなど全く知らずにいて、何年か前に巨大動画サイトに全20回が全部上がっているのを通覧して初めて知ったのだが、今は削除されてしまって別に投稿されているごく一部しか見ることが出来ない。それでも、その後の再開発等で完全に失われてしまった町が生きた形で記録されていることは有難い。しかしながら、もっと簡単に見ることが出来るようにして欲しい。
 銀河テレビ小説「風の盆」には、歌謡曲でいよいよ有名になって大勢人が押し寄せるようになる前の状況が記録されているであろうか。ならば見てみたいものである。それから1976年(昭和51年)9月27日放送の新日本紀行おわら風の盆富山県八尾町~」*2、恐らくその月の初めの風の盆を記録したものであろう。――古い時期の、映像をもっと見てみたい。(以下続稿)

*1:事件後、行く気を失って以後全くチェックしていなかったので、5月開催に変わっていたことも知らなかった。

*2:NHKアーカイブス「盆の頃」として平成12年(2000)8月6日深夜に西馬音内盆踊りと阿波踊りとともに再放送されている。

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(2)

 私は八尾には行ったことがない。越中の友人の家には3度厄介になって、1度くらい飛驒を越えて高山線で乗り込みたいと思ったのだが、飛越国境を越える列車の本数が少ないので断念した。風の盆を知ったのはもちろん石川さゆりの演歌で、母が演歌好きなので夕食後にNHKの演歌番組を付けていて、それで度々見たのである。
なかにし礼 作詞三木たかし 作曲「風の盆恋歌平成元年(1989)6月18日発売

風の盆恋歌

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 この演歌の元になった小説は、結局読む機会がないままである。
・高橋治『風の盆恋歌
 初出は「小説新潮」昭和59年(1984)6月号・7月号掲載「崖の家の二人」で、翌年『風の盆恋歌』と改題して刊行。
 高橋氏は本書にも寄稿しており、本書の企画・刊行にも『風の盆恋歌』の小説及び歌謡曲の影響があったであろうか。
 今回は、昨日の投稿を見た、当ブログの唯一の顔の見える読者たる家人が、なんで風の盆を取り上げるのかと訊くので、そうじゃないことを説明するために、演歌も好きだと云う訳でないし小説も読もうとも思わなかったことを断って置こうと思ったのである。しかし、では何故知っているのかと云うと、やはり歌謡曲で、歌謡曲の元に、そういう小説があったと云うことから、知っていたのである。(以下続稿)

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(1)

・新版と定本の比較①
 本書には以下の3つの版がある。版元は言叢社(東京)、A5判並製本
①初版(1991年8月・112頁)
②新版(一九九五年八月五日発行・定価1942円・112頁)
③定本(二〇〇四年七月二五日発行・定価2000円・120頁)

 ①初版は未見。今手許に②新版と③定本がある。書影は③定本のもの。「風」の右に明朝体で添えてある③「[定本]」が②ではやや太い明朝体の「[新版]」である他は同じ。なお、カバー表紙のみ「日本の古本屋」に①の鮮明でない写真が掲出されているが「風」の脇に文字がない(だけの違いのようだ)。
 カバー背表紙も標題の下、白抜きで②明朝体太字「[新版]」とあるのが③明朝体「[定本]」に変わっているのみ。
 カバー裏表紙、右上にカバー表紙よりも狭い朱色地に風を表すような放物線を何本か引いて、そこに右上から左下へ明朝体太字の標題、やはり「風」の右脇に②「[新版]」③「[定本]」、そしてゴシック体白抜き横組み「おわら /案内記」はカバー表紙では「盆」の左にあったが、ここでは「の」の左脇にある。「盆」の左下に版元名、その下に②は細いゴシック体「定価――2000円(本体1942円)」とあったのが③はゴシック体と明朝体で「定価(本体2000円+税)」。それ以外のほぼ全面(上端・下端がカバー表紙からカバー背表紙を経て続く白地)が、女性を右肩の後ろから捉えた写真なのであるが、③は左上部、女性の後頭部に肌色の長方形(6.6×5.2cm)を置いて、OCR-Bフォントでバーコード2つ「9784905913955/1920026020006」と「ISBN4-905913-95-0/C0026 ¥2000E」。②はこの肝心な部分を隠すようなことはなく、写真の最下部左寄りにOCR-Bフォントの白抜きで「ISBN4-905913-54-3 C0026 P2000E」とあって、写真の邪魔になっていない。
 カバー折返し、私の見た②は表紙折返しが、③は裏表紙折返しが切除されている。しかし②の表紙折返しに存している、写真の右端が③の写真に一致するようだから、折返しには②③で同じ写真が入っているものと思う。白地で、表紙(裏表紙)から朱色の枠が少し入り込んでいて、その斜め下に、表紙折返し瓢箪の酒を酌み交わす中年男性2人、裏表紙折返しには漆黒の中に浮かび上がる大人4人と子供4人。裏表紙折返しの左下に明朝体縦組みでごく小さく「カバー裏写真 里見奈津子」とあるのは私の見た③にも残存している。
 見返しは淡い桃色の用紙に赤紫色で全面に印刷、すなわちカバー折返しが切除したのはこの印刷を隠さないためであった、私の見た②は裏表紙見返しの左半分が見えなし、③は表紙見返しの右半分が見えない。
 表紙見返しの右側、女性の踊り姿を左後ろから描いた墨絵で、墨書で右上「雪の立山遠くにかすむ/八尾坂道オワラ水の音」右下「秋  路」路に重なるように淡く白文方印「秋」*1。左側には上部に「越中おわら 正調」の詞章が楷書体で題共に16行。
 裏表紙見返しは八尾町中心部の航空写真で、右が北。右側の右下に富山県の地図で八尾町の位置を示す。同じ写真で地図にも変更点はないようだ*2。(以下続稿)

*1:右側の右半分がカバー表紙折返しに隠れるので、私の見た③ではこの墨書の詞章と落款が見えない。

*2:左側の左半分がカバー裏表紙折返しに隠れるので、私の見た②では、図中にゴシック体で入っている地名等のうち「めがね橋 別荘川」「天満町」「久婦須川」「久婦須橋」「杉原橋」そして「高山線」のうち「高山」が隠れて見えない。

長沢武「北アルプスの怪異伝説」(1)

シリーズ 山と民俗6『山の怪奇・百物語』(1)
 記事の題にしたのはこの本に、当ブログで『北アルプス夜話』や『北アルプス白馬連峰』を取り上げた長沢武が寄稿した文章である。この山村民俗の会 編『山の怪奇・百物語』の書影は2018年3月23日付「田中康弘『山怪』(7)」に示した。
 本書と、編者である山村民俗の会が現在も続刊している「あしなか」については、2018年9月7日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(48)」に私見を示した。大して現物を見ていないのに、乱暴な評価だったと少し反省しているが、伝説や習俗について、厳密な報告ではなく随筆・読物として書かれていて、やはり資料としては使いづらいことは確かである。
 例えば、寄稿者であった末広昌雄と云う人物が佐々木喜善『東奥異聞』や青木純二『山の傳説』の話を、ほぼそのまま、しかし出典を伏せて自分が現地で聞いたかのように偽装して、まづ「山と高原」に寄稿し、その後「あしなか」にもほぼそのまま寄稿していたことを、2018年12月19日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(85)」まで縷々半年にわたって検証した。末広氏は本書にも「奥那須安倍ヶ城の怪」を寄せているが2018年9月6日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(47)」に述べたように読物仕立てで、かつ2018年12月3日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(73)」に述べたように「山と高原」掲載の旧稿を使い回したものらしいのである。
 まだ記事にしていないが、2019年10月22日付「胡桃澤友男の著述(1)」に取り上げた胡桃沢友男が「あしなか」に寄稿した文章にも、先行する伝説集に載る話をほぼそのまま再話したものがあって、しかし「あしなか」が民俗学の雑誌として扱われているために、国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」に取り込まれ、そこから検証なしに伝説の資料として活用されるような按配になってしまったものがあるのである。
 その点、長沢氏は地元白馬村の吏員として教育長などを務めた人物で、『北アルプス白馬連峰』を見ても古文書も多く原本で閲覧しており、『北アルプス夜話』を見ても伝説関連の資料にも複数目を通しているらしく、この「北アルプスの怪異伝説」を見ても、典拠をそのまま書き換えただけと云うような、安易な再話にはなっていないようだ。しかし、この、複数の文献を使用して、内容を調整しているらしいことが、少々厄介なのである。
 すなわち、先行する文献をそのまま襲っている場合は、安易ではあるけれども何に拠って書いているか、迷わなくて済む。しかし複数の文献を参照している場合、同じような話を載せている複数の本を見て、どの本に拠っているのか一々検討する必要が生じる。
 私はこの「北アルプスの怪異伝説」に目を通したとき、青木純二『山の傳説 日本アルプス』に拠っているように感じた。細目は以下の通り。仮に【番号】を附した。
【1】女嫌いの山立山141頁3行め~142頁
【2】立山地獄立山143~144頁
【3】十六人谷(黒部谷)145~146頁
【4】猫又(黒部谷)147~148頁
【5】黒部奥山の伐採と神の祟り(黒部谷)149~150頁
【6】雪女(白馬岳)151~155頁12行め
【7】ノースイ鳥悲話乗鞍岳155頁13行め~157頁9行め
【8】山伏の湯の怪乗鞍岳157頁9行め~158頁9行め
 【6】が特に長い他は、【8】が短いのが目立つ程度で、それ以外の6篇は写真や図を添えてきっちり2頁に収まるよう纏められている。その点からも長沢氏の手練れぶりが窺える。富山県側の話が多く、その殆どが『山の傳説』と重なっているのだが、さて、細かに見ていくと、『山の傳説』と範囲は重なるのだけれども、依拠してはいないらしい。では何に拠って書いたか、と云うと、長沢氏は典拠を示しておらず、私の狭い探索では、どうも見当が付けられない。いや、『山の傳説』を見なかったとも言い切れない。複数の文献を見て纏め上げたようであり、その複数の文献を見比べないことにはどうしようもない*1。それで取り上げるのを延び延びにして来たのだが、それでは何時まで経っても埒が明かぬし俎上にも上せられないのでので、分からないなりに取り上げて置こうと思ったのである。
 次回以降、長沢氏の他の著述との関係や、先行する同地域を対象とした『山の傳説』との関係、そして本書に掲載されている似た題の、胡桃沢友男「北アルプス山麓の怪異譚」との関係について、不十分ながら一通り見て行くこととしたい。(以下続稿)

*1:案外あっさり、依拠文献が見付かるかも知れないけれども。