瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

閉じ込められた女子学生(23)

・「不思議な世界を考える会会報」(3)
 さて、④の本文については、4~12頁(頁付なし)「目次」に次いで、1頁分白紙を挟んで14頁(頁付なし)に凡例に当たる箇条書きがあります。このシリーズ全体の編集方針でもありましょうから、今後の検討に参照するためにも全文を抜いて置きましょう。言及の際の便宜に、各条に番号を附して置きました。

【1】一、転載にさいし、原話の資料性と語りの味わいを損なわない範囲で、適宜改行および行詰めし、また読点/を付け加えた場合がある。また、現今ではなじみのうすい用字については、ひらがなに改めた。
【2】一、原話で使用されている文中の実在の市町村名、個人名、学校名などについて、内容によって編者の判断/でアルファベットに置き換えたり、都道府県名を補ったりした場合がある。
【3】一、各原話の表記を尊重し、あえて全体の用語統一ははからず、最小限の統一にとどめた。また、原話の明/らかな誤記は改めたが、特記はしなかった。
【4】一、原話の注記は( )で示し、新たに補足した注記は〔 〕でくくって割注とし、区別した。
【5】一、原話の語注には*で、新たな語注には無印に番号を付し、各話末にまとめた。
【6】一、低年齢層の読解を容易にするため、できるかぎり漢字には新たにルビを付した。新規のルビは[ ]で/くくり、原話のルビと区別した。
【7】一、一部に現在から見ると差別語にあたるものも見られるが、本書の学術的資料性に鑑み、あえて原話のま/まとした。
【8】一、各話のタイトル下の地名については、話の舞台となった地名を記した。舞台となる場所が複数になるも/の、不明なものについては記していない。
【9】一、各話末には、話の話者またはアンケートなどの報告者を記した。話者と報告者がちがう話の場合には、/両者を記したものもある。また、雑誌などの投稿については、ペンネームをそのまま記した、なお、各話の/出典ならびに詳しい出自については、巻末に記した。


 さらに最後に1行、3字半下げで小さく「*収録作品のうち、著作権者及び著作権継承者の連絡先不明のものがあります。お気づきの方は小社編集部までご一方下さい。」と添えている。
 さて、本シリーズは【1】に「原話の資料性」、【7】に「原話の学術的資料性」とあるように、学術資料として使用されることも考えているようで、表記替えも【1】や【3】などに見えるように最小限に止めているようです。【2】の固有名詞の扱いは、現在では仕方のないことなのでしょう。【8】の地名は都道府県止まりで、より細かい地名は、【2】の「編者の判断」に引っ掛からなかったものは本文に記載されています。【6】のルビについては、かつての『日本古典文学大系』かと思いました。【9】の「巻末」とは、前回の最後に触れた、227~235頁「話名および出典」ですが、これは一覧表で、そんなに「詳しい出自」ではありません。
 それはともかく、③と④、特に④は、①の本文をほぼそのまま掲出していることになります。そして②は「もとの資料になかった」要素を追加するような書き換えはしていないものの「資料をそのまま再録したものではなく、読みやすさを考えて文章に多少手を加え」たことを認めています。すなわち③④と比較することで、②がどの程度、原型を止めているのか、査定する手懸りにもなるでしょう。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 感染確認の人数ではなく陽性率と重症者数を見るべきだ、と言い出した。しかし、現在の陽性率が低いのは、比較の対象になっている3月4月にあれほど検査を渋っていたのだから当たり前である。そして若年層の感染確認が多いのだから、無症状か軽症で済む人が多くなる理屈である。だからそこが大丈夫なのだと強弁されても、今更らしくて説得力を覚えない。
 首都圏では学校の教員にも感染者が出始めている。若年層は重症化しないから学校は平気だ、などと寝惚けたことを言っていた人がいるが、全国一斉休校のおかげで問題の顕在化が遅くなっただけなのである。4月には富山県富山市で登校日クラスターが発生している(クラスター対策班は否定)。2020年6月27日付「祖母の思ひ出(03)」の前置きに書いたように、教員には50代、私学だと60代、定年後の再任用だと60代後半の人もいる。そして、核家族が殆どだろうけれども、高校生ならば親は40代50代である。
 都道府県を跨ぐ移動自粛の解除(←長いな)後に、地方から都会に遊びに来て感染したり、半年ぶりに帰省して田舎の家族を感染させた人がいる。どうして、こんな、明確な根拠に基づいて判断されている訳でもないのに、国が言ったから「待ってました」とばかりに移動する人が多いのか、分からない。――両親と、4月頭に、私の同僚だった人が郊外の住宅地で始めた店で会食予定であったのをキャンセルしたのだが、先月電話で母と話したら「7月になったら、あの店に行きましょう」と呑気に言うので吃驚した。まだコロナウィルスは収まっていないと云う認識はあって「秋冬にまたぶり返すみたいだからそれまでに」と言うのである。遠慮気味に「諸外国の様子を見るに、気温や湿度は関係ないらしいけど」と言うのは、水を差すようで妙な気分であった。でも息子としては呑気なことを言っていられない。
 しかし父は、昭和20年代の少年期、活字と地図くらいしか娯楽のない田舎で育ったのにその後、高度経済成長期とバブル期にすっかり繁華街で遊ぶ癖が付いてしまって、これまで絵画教室とか教養講座とか短歌・作文教室とか、映画や展覧会、会食など遊び歩いていたのが、この4ヶ月足止めを喰らって、――もう自粛に飽きた、早く長野県にでも旅行に行きたい、と言い出した。80代ながら元気だから我慢が利かないのである。私が反対することが分かっていながら、メールにそんなことをわざと書いて来たので、呆れて、と云うかこれはもう確信犯だな、そういう宣言なのだ、と思って、――もう好きにさせてやれば良いじゃないか、と云う気もしたのだけれども、父1人の問題ではない。しかし、直ちに反対しても世間全般の箍の外れ具合からして父のような人に効き目があるとも思えない。これは、しばらく待った方が良さそうだ、と思っているうちに、案の定、感染確認数が増え始めた。――もうそろそろ、軽挙妄動を慎むよう、不肖の息子として申し上げるつもりである。

閉じ込められた女子学生(22)

・「不思議な世界を考える会会報」(2)
 さて、昨日挙げたのうち、②③④いづれ①「不思議な世界を考える会会報」20号を典拠としているので、検討のための資料としてはを参照出来ればそれが最善なのですが、大学図書館や博物館なども含め「不思議な世界を考える会会報」が閲覧出来る施設は存在しないらしいのです。そこで次善の策として、②③④のどれかを使用することになりますが、ちょっと気になる異同があるのです。
 ②『夢で田中にふりむくな』③ 日本の現代伝説『走るお婆さん』については、2016年12月19日付「『夢で田中にふりむくな』(1)」及び2017年2月12日付「『夢で田中にふりむくな』(3)」に刊年や章立てなどを紹介しました。②の本文については岩倉千春「あとがき」の236頁2〜15行めに、後者に引いたような説明がありました。③の本文については、『走るお婆さん』189〜201頁、大島広志「解説・現代伝説の分析」の、198頁8行め~201頁、当初3冊で完結予定だったらしい「日本の現代伝説」シリーズ全体の纏めになっている「四 現代伝説のアンソロジーの成果」に、以下のような説明があります。199頁14行め~200頁4行め、

 本書を初めて手にする人のために、全体構成を説明する。ひとまとまりのハナシのグループとみな/される中で、メインテクストを「例話」として各冒頭にかかげ、これと共通する要素をもつ他のハナ/シは「類話」とした。かなり古いハナシや文芸作品等は「参考」とした。刊行物からとった資料はそ/のソースを示した。また、明らかな誤字をのぞいて、表記は原則的にいじらないことにした。したが【199】って、ハナシにより文字遣いが異なる場合もある。インフォーマントは、直接に語った人を「話者」、/アンケートなどの回答者を「報告者」とし、テープに集録したハナシを翻字したのを「録音記録」、/筆録したハナシを「記録」と表記して区別してある。これらは、類似のアンソロジーとの大きな違い/であり、本書の特色といえる。


 冒頭の「本書」は「本シリーズ」とするべきでしょう。「閉じ込められた女子学生」の話は11〜54頁「Ⅰ 新たな恐怖」に出ており、担当しているのは渡辺節子です。
いまに語りつぐ 日本民話集 伝説・現代民話⑪学校の怪談2003年4月10日初版第一刷発行・作品社・235頁・A5判上製本

 監修/野村純一・松谷みよ子『日本民話集』は、第一集(2001)全15巻、第二集(2002)全15巻、第三集(2003)全15巻で全45巻、以前、某図書館の書棚に並んでいるのを見ましたが、今、ちょっと行ける状態になく、行ったとしても45冊見て行くだけの滞在時間を、多分図書館側が認めていません(大抵30分以内で、と云うことになっています)から、全体の構成については機会があれば確認する機会を作ることとしましょう。第三集のうち①~⑨が「伝説」で、⑩~⑮の6冊が「現代民話」に充てられています。まづはこの6冊の構成や出典について、遠からず記事にすることを約束して置きましょう。
 さて「第三集」=「伝説・現代民話」の⑪『学校の怪談』は、2~3頁「はじめに」の最後に(岩倉千春)とあり、奥付にも「監修:野村純一・松谷みよ子」の次の行に「編集:岩倉千春」とあって、③で「閉じ込められた女子学生」の話を収録する章を担当している渡辺氏と共に、②の編著者として名を連ねていた人物なのです。すなわち本書も(出典が①「不思議な世界を考える会会報」であるところから容易に見当が付くでしょうけれども)227~235頁「話名および出典」を見るに、やはり渡辺氏が主宰する「不思議な世界を考える会」の会報から、その多くを得ているのでした*1。(以下続稿)

*1:出典の詳細については、前記の通り『日本民話集』第三集の「現代民話」全6冊を一括して検討することとします。

閉じ込められた女子学生(21)

 2017年2月6日付(04)の続き。
 6月13日付「阿知波五郎「墓」(15)」に書いたように、その後、女子美術大学の実話について、これも多摩美術大学では都市伝説化している校舎屋上の焼身自殺と絡めて確認して行きましたので、なかなか当初予定に戻って来る(?)ことが出来ませんでした。
 そして、私が筋が引けないかと考えた、この話が阿知波五郎「墓」に由来すると云う想像ですが、多分無理です。昭和26年(1951)12月刊行の初出誌に由来する可能性は皆無とは言えませんが、平成4年(1992)刊『こんな探偵小説が読みたい』に由来すると云う想定は時期的に無理なのです。何となれば、昭和61年(1986)にこの話が既に短大のレポートとして報告されている(らしい)からです。市販の書籍に載ったのは平成8年(1996)以降なのですけれども。
 初出は2016年12月20日付「『夢で田中にふりむくな』(2)」に苦情を述べた、「不思議な世界を考える会会報」なのですが、どうも、おかしいところがあって、少々細かく確認する必要があるのです。尤も、私が細かく確認して疑問点を提示した書籍や作品について、感謝の言葉(!)や回答を寄せてくれた人は、これまでほぼ皆無に近いのですけれども。――まぁ、嫌がられてもやりましょう。
・「不思議な世界を考える会会報」(1)
 この「不思議な世界を考える会会報」は、現在もやはり何処にも閲覧可能な場所がないままのようです。それでいて研究者が絡んでいて、児童書など複数の本に同じ話を使い回しているのですから、ちょっと、問題なしとしないように思われます。
 かつ、この「閉じ込められた女子学生」の例として使い回されている話については、これまた色々と問題があって、どうも、原本を見られない身としては(微妙な問題ではあるのですが)扱いに困るのです。これだけ諸方で素材として喧伝している以上、もうそろそろ会員の方々も高齢になっている(であろう)ことですし、コロナウィルスがどうなるかも分からない状況下でもありますから、公開について検討する時期に来ているのではないか、と、余所ながら意見申し上げたい気分です。これまでこういうことを書いても、気付かれていないのか何の反応もないのですが、宜しければ誰か取り次いで、検討をお願い出来ないものかと考えております。
①「不思議な世界を考える会会報」20(1990)
②『夢で田中にふりむくな』(1996)
③ 日本の現代伝説『走るお婆さん』(1996)
いまに語りつぐ 日本民話集 伝説・現代民話⑪学校の怪談』(2003)

 まだ他の本にも使い回されているかも知れませんが、差し当たりこの4つ、もちろん「不思議な世界を考える会会報」は未見ですが、②③④はいづれもこの号を出典としていますので、①として敢えて挙げて置きました。
 では、次回から②③④の本文及び典拠について、検討を加えて行くこととします。(以下続稿)

図書館派の生活(9)

 今日は職場でくしゃみが出て困った。左の鼻に何かがあって、むずむずする。そこで、明日の勤め帰りに耳鼻科の予約を入れた。いや、今年は花粉症の時期が終わっても、2週間に1度、耳鼻科に通っているので、別に今日のくしゃみのせいだけで入れたのではないのだけれども。――もともと鼻炎持ちなので花粉症の時期が終わったら、これまでは多少具合が悪くても病院になど通わなかったのだが、今年はそうも行かない。副鼻腔炎だか蓄膿症だか知らないが、もう2ヶ月になるから、以前から言われていたがCTを撮って、次の段階に進むことになりそうだ。
 月曜と今日は出勤前に早起きをして洗濯機を回した。例年よりも洗濯物が多くなっている。
 帰りの電車では別にくしゃみも出ない。与党系宗教団体の雑誌の中吊り広告に「アフター・コロナ」の特集があったのだが「アフター」とは誠に気が早いことである。
 先日、不在者投票を済ませた家人に言われて不在者投票に行く。普通に近所の小学校の投票所に行くつもりだったけれども、投票所は混みそうだから空いている不在者投票にするべきだと言われて、行ってみたら確かに空いていたが案内や立会人の人数が多くて少々腰が引けた。日曜は、分散登校ならぬ分散投票をするべきじゃないか。
 小学校の脇を通り掛かると、校庭で2クラス分くらいの低学年の児童がマスクもせずに密集して遊んでいた。
 今は分散登校もしていないようだ。中学生も普通に、マスクはしているが集団で、喋りながら登下校している。
 緊急事態宣言が5月中旬に地方で解除された際に、随分慎重に学校を再開したのをテレビのニュースで見て、これでは都内の学校は再開出来ないのではないか、と思ったのだが、全く気にしていないかのようである。
 しかし、今日の掌返しのような報道はどうだ。6月27日付「祖母の思ひ出(03)」から何日も経っていない。
 もちろん、私が自粛生活でも困らないから、と云うか元から自粛生活みたいな暮し振りだったから、こんなことを言っていられるのだ、と云うのも、その通りなのである。
 思えば、バブル期の大阪で毎晩タクシーで深夜に帰って来る父を、そんなに飲み食いしたいものなのか、と、眺めていた。
 もともと父は内陸の出身だけれども、いや内陸だったからなのか、魚が好きなのだけれども接待での飲み食いは肉が中心で、それで家では肉を食べたくないとのことで、魚中心、肉も鶏肉か豚肉ばかりで牛肉は(父が自費で部下を飲みに連れて行ったりするために節約する必要があったからであろうが)食べた記憶がない。それでも母が料理上手なので何の不満もなく、別に牛肉を食べたいとも思わなくなった。
 高校は徒歩通学で、昼は弁当だったから現金を持ち歩いて使うこともなく、小遣いも山岳部の山行費用に回していたから、高校時代、財布を持ち歩いていたかどうかさえ疑わしい。土曜は学食でカレーライスを食べていたが、生徒手帳に小銭を挟んでいたように思う。
 それで、どうも、酒を飲もうと云う気になれなかった。父が毎夜酔っ払って帰って来るのだが、もともと強い人ではないので、大変だなぁと云う感想しか持ち得なかった。浪人時代は予備校の構内や都内なら駅や路傍に多々ある立食い蕎麦で済ませて、もっと美味いものを食べたいとも思わなかった。
 だから、大学では専ら学食で、学外で食べるときは立食い蕎麦で、サークルでも酒を飲まない私は誘われなかったから、夜は家で食べていた。
 院生時代でも変わらなかった。修士課程の頃に大学院の移転があって、それまで本棚に余裕があったので預かっていたOBの千冊を超える*1文庫本を処分することになって、大手出版社の校閲部に勤めているOBに土曜だかに来てもらって、たまたま居合わせた私や、そのOBを知っている、修士課程で一度止めて、しばらく社会人として過ごしてから博士課程に進んだと云う、かなり年上の先輩などが片付けを手伝ったのだが、昼、私らの労をねぎらって有名なカレー屋で奢ってくれたのである。
 結構な値段のカレーをおずおずと頼むと、先輩が「君たちはこの店に来たことがないのか」と言うので、初めてだと答えると、先輩たちは近所の他の有名店の名前を挙げて行ったことがあるかと問う。どこにも行ったことがない、と答えると「じゃあいつもどこで食べているんだ」と聞くので、なんでそんなことを聞くのかと思いながら堂々と「学食です」と答えると、眼を丸くして「あんな不味いところで喰ってるのか」と、少々馬鹿にするように言うのである。大きなお世話だと思い、やはりバブル期以前の大学院生は違うわい、と思ったことであった。
 当時、ちょっと付き合いのあった地方の大学の助教授も、私の大学の近所の、私の知らない、知っていても入ったことのない店を知っていて、向こうは当然私も知っているつもりで、話を合わせようとしてそれらの店名を持ち出すのだが、こちらは全く応じられない。いや、何軒かは1度か2度、入ったことがあるのだけれども、しかし、その人の出身大学から近くもない場所の店をこれだけ知っているとは、当時どれだけ美味しい思いをして来たのだろう、と感心しつつも、特に羨ましいとも思わなかったのであった。
 何故なら、文学研究では金持ちになれないと思っていたからで、研究者の身分がなくても研究を続けるためには、まづ無駄な出費を抑えないといけないと思っていたからであった。しかし、それなのに先輩たちの余計な配慮で、以前も書いたが独立行政法人の大学院に転学してしまったことで、私は研究職はもちろん学界での活動を完全に断念することになった。すなわち予算制度にどっぷり浸っている官僚や教授たちは、学生が欲していない予算を取って来て、無理矢理消化させるための無駄な業務に駆り出すのである。そして、とにかく使い切れ(無駄遣いしろ)とプレッシャーを掛けて来る。ない智恵を絞って漸く有効な使い道を思い付いても「それではあかんのや」と言われる。じゃあもともと必要としてないのだから返納して下さい、と言っても「使い切れ」と言われる。しかし、結局使い切らなかった。しかし、小役人と予算制度にどっぷり浸った教授たちは折角取った予算を減らさないために誤魔化したはずである。今から予算の不正使用で告発したいくらいだ。とにかく、それまで学部生時代以来、図書館派で本も殆ど買わずに続けて来た私には、とても堪えられる環境ではなかったのである。(以下続稿)

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 過去の記事と重複する内容がありそうだが、確認している余裕がないのでしばらくそのままにして置く。

*1:投稿当初「数千冊の」としていたが、流石に多過ぎると思って改めた。

祖母の思ひ出(06)

 家人から、祖母の「帰りたい」について補足があった。
 泊まり込んだ翌朝、出勤のため一旦帰宅しようと「帰ります」と挨拶すると、「私も一緒に帰るわ」と言い、「あなた、学校?」と尋ねたそうだ。家人が学校と縁が切れてから既に10年余、学生であったのは20年近く前のことになってしまうが「今も可愛いわよ」で見た目が変わらないから、家人の場合は私と違って、問題なかったのである。
 それから、私たちが会った年末は機嫌が良かったが、年明けに、施設で、入所者皆で初詣とて神社の拵え物に参拝しておみくじを引いて、祖母は大吉だったそうだが、集団行動が嫌いな人なので機嫌が悪くて、義父の帽子を取って投げようとしたらしい。やはり一面しか見えていない。複数の視点からの検証が必要である。しかし、別に歴史上に名を止める事績がある訳でもない祖母について、そこまで掘り下げる必要もないのである。当ブログにはただ、私の眼から見えたものを書いて置けば、それで良いと思う。
 ただ、次回から書くつもりの祖母の回想は、歴史的な事件とも関わって来るので、これまでの私の与太記憶話とは違って、正確を期し(家人に指摘を受ければ元記事を書き直し)さらに考証を加えるつもりである。いや、祖母の父が Wikipedia にも立項されている人物なので、当初、祖母の名前は伏せようと思っていたのだが、記述の都合上(と云うか、調べれば分かってしまうので)明らかにせざるを得ない。その意味でも、これまでの私の記憶は、敢えて事実に正確に書かない(つまり、あやふやな記憶に基づいていると割り引いて読んでもらう)必要があったのである。(以下続稿)

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 6月29日付(04)の後半の補足。
 母方の祖母の見舞いに行くに際して、母に病院への行き方を聞いていると、父が「お母さんが間違いを教えたから酷い目に遭った」と言う。――駅の階段を下りて、大きな通りを右にしばらく進むと、通りの左側に見える、と云うのでその通りにしたのに、行き着かない。そこで、どんな方法だったか覚えていないが、とにかく現在地を確かめてみると、病院とは反対の方向に進んでいることが分かった。すなわち、本当は階段を下りて左に行くべきところを、右だと母が間違って教えたせいだ、と云うのである。
 何のことやら分からぬので、地図を書いてもらったりしながら2人の話を聞いて見ると、その駅の階段を南向きに下ると、東西に通じる大通りがある。そこで右、つまり西に向かうと、しばらく行って通りの左側、すなわち南側にその病院が見える、と云うので、母の説明で間違いないのだった。
 では、何故父が逆方向に進んだのかと云うと、少年時代から地図マニアだった父は、常に北が上に来る地図に直して地理を把握する癖が付いていて、母の云う「右」を、勝手に地図上での右である「東」に変換して、階段を下りて左に行ってしまったのである。
 父はこう力説して、自分の薫陶により地図好きになった私なら分かるだろう*1、と云わんばかりに自己の正当性を訴えるのであったが、高校時代山岳部の副部長で先頭を任されていた私には、やはり父の、勝手に左右を東西に変換する姿勢は危険だとしか思えなかったので、却下した。
 現地では、南向きの階段を下りて、右に折れて、程なく病院に着いたのであった。

*1:兄は地図に趣味を有さない。その代わりに鉄道好きであった。

祖母の思ひ出(05)

 昨日書いた内容について、家人からクレームが付いた。そして「あなたは他人の記憶をあげつらっているのに、自分は記憶のまま確認せずに書いていて良いのか」と言うのである。
 確かにその通りなのだけれども、敢えてやっているので、取り敢えず今、私の記憶している通りを書いて、家人に訂正してもらえば良いと思ったのである。そして改めて、記憶なぞと云うものは当てにならないと思うのである。その当時聞いた話を、隅々まで正確に覚えてなどいられないので、何処かしらに穴が生ずる。その穴を、勝手に補修してしまうのである。
 私は、この、記憶の合理化に興味がある。と云って、何か法則を見付けようと云うのではない。そんな学問めいたものにする気はさらさらなくて、ただ道楽として興味があるのである。
 別に、捻じ曲げられた記憶を排除しようと云うのではない。しかし、――事実を出来るだけ正確に把握するためには、当時の資料、新聞・雑誌・日記に拠るべきで、もちろんそれらも記録された背景を押さえて使用する必要がある。直後に記録されたからと云って、事実を正確に記述しているとは限らない。その次に、後年書かれた回想・小説そして談話を、同時代資料と突き合わせながら使用するべきなのである。
 私が、怪異談の古い時期の資料に拘泥するのは、このような理由からである。世間には後年のヴァリエイションを、発生当時から行われていたかのように扱う無神経な怪談愛好家が後を絶たない。ヴァリエイションは、飽くまでもそういうものとして、その発生時期・発生理由を考慮に入れて扱うべきなので、これを大元の話にまで遡らせて論じてしまったようなものは空論、いや、徒に混乱を招くばかりと云う点では、存在しない方がマシだと云わざるを得ない。
 こう書くと私をヴァリエイションを憎む者と勘違いする人がいるかも知れない。しかしそれは誤解で、当ブログに示した幾つかの面倒臭い検証を読めば諒承してもらえると思うが、私は、ヴァリエイションの発生と展開には大いに興味を抱いているのであって、私が憎むのは不注意に妙な論を立てたがる人なのである。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 さて、昨日書いたことに対する家人の訂正だが、まづ「馬鹿野郎」と云って息子を蹴ったのは、まだ救急病院にいた時分のことであったそうだ。
 夜中、10分おきに看護婦を呼ぶ。看護婦が来ると便所に行きたいと云う。もちろん、そんな頻繁に用便する必要はない。救急病院はこのような老人の扱いに慣れておらず、困ったらしい。そこで、義理の両親が泊まり込むことにして、便所に行きたがるごとに宥めたり賺したりしていたのだが、そんな中で、行きたがって「馬鹿野郎」と言ったので、別にマンションに帰りたがってのことではない、と云うのである。それに、頭を蹴った訳でもない、と。
 しかし、帰りたがった、と云うことと、頭を蹴った、と云うのは、確かに聞いたように思うのである。
 しかし、結局私はそういったややこしい現場に行ったところで何の役にも立たないと分かっていたので、救急病院にも次の転院先にも、そして数ヶ月入居した都下の特別養護老人ホームにも行かなかった。そこはやはり、肉親とは一線を画するところがあった、と云うことなのであろう。
 義理の両親は地方と都下を往復して、こちらにいるときは祖母のマンションに泊まり込んで施設に通っていたのだが、健康状態は安定していて長期に入所することになりそうだと分かると、祖母を自分たちの住む地方の施設に移すことにした。自分たちも後期高齢者で、自宅で面倒を見ることは難しい。地方と都下を往復する二重生活の負担も大きい。
 地方に連れて行き、新しい施設に入居させるときに、抵抗を示すのではないか、と懸念していた(スタッフの話す方言のアクセントから、妙なところに連れて来られた、と不安に思うのではないか、と考えたのである。――或いはこれが「帰せ」と言ったと云う記憶に繋がったのかも知れない)が、幸いそのようなことは全くなく、2階の角部屋に落ち着いて、ここで満100歳を迎えた。そして大嫌いな岸信介の孫の名で、100歳の祝いの銀杯(この年まで純銀製)をもらうことになった。達者だったら「岸の孫からの祝いなど、受け取りません!」と突き返していただろう、と義父は言っていたが、当時の祖母にはそのような激しさは全くなくなって、何を聞かされても、分かっているのかいないのか、そうですか、と云った按配だった。いや、話の内容を深く理解することは出来なくなっていたみたいだけれども、陸軍中将の娘として育ったらしく上品な言葉遣いで、相手に合わせて普通に受け答えすることは最晩年まで出来ていた。
 初めて夫婦で見舞いに行ったとき、もう祖母は家人のことも分かっているのかどうか、と云った風であったが、ちょうどお八つの時間でスタッフの若い女性が、蜜柑のゼリーを持って来たのである。祖母はそれを食べて「美味しいわね」と言っていたが、ふと、スタッフの方を振り返って「この方たちにもお出しして」と言ったのである。――スタッフのことを、昔、実家にいた時分の姐や(下女)だと思っていて、そして、お客さんに菓子を出さずに自分だけが食べているのはおかしい、と思ったらしいのである。それを見て、私は祖母がこの部屋を自分の家だと思っていて、不足も不安も感じていないのだと安心したものであった。
 以後、私は年末に、家人はそれ以外にも時間を作って帰省していた。もう自由に歩くことは出来なくなっていたが、完全に寝たきりになることはなく、ずっと施設の最高齢だったが、漢字テストをやると「青梗菜」の読み以外全問正解(もちろん断トツの成績)、祖母の若い時分には青梗菜などなかったはずだから当然である。しかしもう本は読めなくなっていて、手にしても眺めているだけで読んではいない、と云うのが義父の観察であった。
 最後に見舞ったのは昨年の末で、下の妹とその小学校低学年の息子、それから義理の両親と6人で出掛けた。曾孫には何かと云うと「お利口さんね」と言うのであった。そして義母が、家人のことを「▼▼も子供の頃随分可愛がってもらって」と言うと、「今でも可愛いわよ」と吃驚するようなことを言うので、私などは祖母の育ちの良さ、最後まで残った、その地金とも云うべき部分が、満104歳になって猶しっかり光を放っているのを目の当たりにするような気がして、ほとほと感心してしまったのである。(以下続稿)

祖母の思ひ出(04)

 結局、祖母は最後には救急車で病院に運ばれ、そしてそのままマンションに戻ることはなかったのである。
 しかし、私は6月26日付(02)の後半に書いたような事情で立ち会っていないので、話は聞いたけれども、正確なところを再現出来ない。
 ただ、祖母の死を承けて家人が妹たちと電話で話すのを聞いていると、衰弱して意識も朦朧としているような祖母が、集まった孫たちに「△△ちゃん、あなたは▽▽だったわね」と、遺言のように語り掛けていたのだが、バイオ関係の研究をしていた上の妹がその様子を見ていて「救急車を呼んだ方がええ」と判断して、それで119番に掛けて救急車を呼んで、救急病院に搬送されることになったのである。しかし、家人はもう最期なのだと覚悟して、救急車は思いもよらず涙目になっていたそうだ。
 しかし、コロナウィルスで移動自粛を強制(?)され、東京にいる私ら孫とその連れ合い、甥や姪たち、養女に出した北海道の娘とその家族が葬儀に参列出来なかった今になって振り返ると、あのまま救急車を呼ばなかったら、皆、葬儀に集まって盛大に見送ることが出来たのに、と、別に責める訳ではないのだが、ちょっと心残りになっているようだ。
 さて、搬送されて診断を受けるに、命に別状はなく、脱水症状で、それから認知症が出ているとのことだった。――どうも、スポーツクラブの風呂に通わなくなった頃かららしく、もともと少食になっていたのが、食事も碌々摂らずに、午前中から小さい缶のビールを飲んで、それ以外に水分を摂らず、喉が乾くと午前中に飲んだことを忘れてまたビールを飲んでしまう。それで脱水症状を起こしてしまったらしい。
 やがて義理の両親が上京して、救急病院はじきに出ないといけないから、別の病院に転院する手続きをして、長期入院出来る病院か施設を見付けるまでの繋ぎとして、短期間引き受けてくれる病院に移ったのだが、そこで夜中に「家に帰せ」と暴れて大変だったらしい。自分の家(マンション)ではないことは分かるが、どうして此処にいるのかが分からない。妙なところに連れて来られた不安と恐怖で暴れて、取り押さえようとした義父の頭を「馬鹿野郎!」と言って蹴ったそうだ。
 そこで思い出したのは、二十余年前に死んだ、私の母方の祖母のことである。
 穏やかな仏様のような人で、実際信心深くて毎朝、仏壇の前で領解文(改悔文)*1を唱えて、私も泊まりに行ったときには毎朝一緒に手を合わせていた。私がまだ赤ん坊の頃に死んだ祖父の、月命日に坊さん(と云っても真宗だから有髪)を呼んで経を上げてもらっていた。痩せていて、健康的と云った感じの人ではなかったけれども、80代になっても元気にしていたのだが、ずっと通っていた書道の教室の、親睦旅行で温泉に出掛けた際に、大広間での夕食の際に手洗いに立って、暗いところにあった僅かな段差に躓いて骨折して入院して寝ているうちに、急速に認知症が進行してしまったのである。
 母がほぼ毎週、たまに父も同行して見舞いに行っていた。
 私も一度、出掛けたのである。そして、それが祖母に会った最後になってしまった。
 博士課程の院生だったので、調査旅行を兼ねて出掛けた。それまでなら大阪には青春18きっぷ東海道線の風情を愉しみながら呑気に出掛けるところだったが、秋の半ばで18きっぷの使える時期ではなかったし、祖母の見舞いという用件もあるので新幹線に乗った。新大阪に着くと、今だったら計画運休になっているくらい酷い台風が大阪を直撃していて、大阪駅まで1駅在来線に乗る必要があったのだが、夕方の新大阪駅のホームは人で溢れかえっていた。そこに漸く大阪方面へ行く、西明石行だかが到着したのだが、下車しようとする人に構わずに、ドアが開いた途端にどっと乗り込み出したのである。私もその流れに押されて乗ってしまったのだが(苦笑)下車させてから乗った方が良いに決まっているのに、何を考えているのだろうと呆れ果てた。以来、私は大阪に良い印象を持っていない。落語その他上方藝能の方が、東京のものよりも好きなのだけれども、どうも、あのときの立派ななりをした大人たちが、無言で、下りようとしている乗客に構わず、いや、誰1人下ろすことなく、我先にと押し入った、あの異様さが、今の大阪の本性のように思えてしまうのだ。
 それはともかく、大阪駅で無事乗り換えて、地下鉄で何駅か、母に聞いていた通りの道を辿って、その頃には風雨も収まって来ていたように記憶しているが、病院に着いて、案内を請うて病室を教えられて行って見ると、祖母はベッドで上体を起こしていた。そこで挨拶をして不調法な私のために母が見繕ってくれた見舞いの品を差し出したりしつつ挨拶して、ベッドの脇に椅子を置いて少し話しているうちに、何だか話が噛み合っていないことに気付かされた。どうも、近所の家の倅が来てくれたつもりで話しているらしい。近頃余り会っていないとは云え、まさか愛娘の次男が分からないとは思えなかったので、こちらは誤解を解こうと続柄を説明して見たのだが、それは余り耳に入っていない風で、急に、ベッドの柵をつかんで暴れ出したのである。そんな怪しい者ではない、と言っても一向に通じない。困って看護婦を呼んで、やって来たベテランらしき人に事情を話す。その間も祖母は恐ろしく強い力で柵を握り締めている。一部始終を聞いた看護婦は「あなたがいると落ち着かないから、早く帰って下さい」と冷たく、いや事務的にきっぱりと、私に引導を渡したのである。
 義理の祖母のことを思い合わせると、――近所の▲▲君でないとしたらお前は誰なんだ、と云うことで、限りない恐怖を覚えて必死に身を守ろうとしていたのである。
 祖母の記憶からは最近10年だか20年だか分の記憶が飛んでいて、私の両親なら多少老けたくらいだから良いが、20代の孫は、このときの祖母の頭には存しないのである。だから近所の▲▲君だと思って受け容れようとしたのに、違うと言う。孫だと言う。▲▲君とてもっと年上になっていたろうと思うのだが、そのくらいしか思い浮かばない。時間の経過を考えに入れて、孫がオッサンになっていると云う想像が出来ないのである。いや、傘寿の祝いに一緒に旅行しているから、全く見たことがない訳ではない。しかし、そこの記憶がなくなっているのである。
 今、検索して見ると、私が台風の中、大阪に行ったのは平成10年(1998)9月22日(火)であった。奈良県で玄関のガラス戸が割れて、ガラス片が刺さって動脈を切ったことで女性が2人死亡した、と云うニュースが恐ろしく印象に残っていて、それで検索したらすぐに分かった。うち1人はガラス窓であった。(以下続稿)

*1:当時はこういう名称であることも知らなかったし、もちろん意味もよく分かっていなかったが。

赤いマント(246)

 2月20日付(221)の続き。2月21日付(222)として準備していたが2月21日付(222)に書いたような理由で見送ってそのままになっていた。今、その確認すべきところの『四角い魔術師』の記述を補って、4ヶ月越しに投稿する。
井上雅彦「宵の外套」(2)
 初出『京都宵』には、前回注意したように460頁(頁付なし)に監修者コメントが入っていた。しかし監修者本人が作者だから、本人のようなそうでないような、微妙な書き方になっている。すなわち、中央やや下寄りに、

●『宵の外套』井上雅彦*1
 東京生まれの作者が、不思議な縁で繫がった、この古都を書いたものである。
 書いている間が、文字通り旅だと感じた三十六枚だった。
 虚実入り交じっているのは。確かだが、少なくとも、冒頭に掲げた「都市伝説」と、そ/の「入手経路」「入手状況」に関しては、創作ではなく、ここに書き記したとおりである/ことをお断りしておく。

とあった。
 再録『四角い魔術師』は、255~259頁「あとがき」に、257頁13行め「 本書は、ひたすら、思い入れの深い作品を集めたものとなりました。」とあって、自選作品集なのだが、配列について述べた中に、258頁14~16行め、

 一方、《第一部》には〈昭和もの〉も幾つか入れました。〈昭和もの〉は、今では私の創作/の重要な柱です。《第四部》にも〈昭和もの〉の短篇を入れましたが、「宵の外套」で紹介し/た京都の吸血鬼は、私が子供の頃に、母から聞いた想い出話です。

とある。最後、259頁14行めに「2012年10月31日 万聖節宵祭*2」とある。
 再々録『夜会』では、196~205頁「自作解題」に、まづ196頁2~6行めの前置きの最後、5~6行め「‥‥、これまで創/ってきた作品たちについて、備忘録的に、思うところを書いておくことをお許し戴きたい。」として、以下、1行空けて個別に短いコメントを述べている。本作については、201頁1~6行め、題は明朝体太字で、

●「宵の外套
 京都で育った母から、この「噂」を聞かされたというのは実話である。昭和七年に新京極で/上映されていた映画というのは『魔神ドラキュラ』のこと。ちなみに本作は、病床の母と過ご/した最後の夏に書きあげた。思い入れがあるため、加筆はしていないが、当時、母が父親と食/事をしたという南欧料理店のことを書き入れたい誘惑に駆られている。四条大橋西詰にあり、/現在は中華料理店なのだが、その城館めいた外観は、今でも、ドラキュラ城に見えてしまう。

とある。後半は引用しなくても良かったのだが、今後改稿される可能性もあるので、念のため抜いて置いた。四条大橋西詰の中華料理店は東華菜館本店で、「東華菜館」HP「東華菜館の歴史」に拠ると前身は西洋料理店「矢尾政」で戦時中に廃業して東華菜館創業者に譲渡、昭和20年(1945)末に北京料理の店として開業している。「城館めいた」建物は大正15年(1926)落成。
 『京都宵』の書き方でも、母から「噂」=「都市伝説」を聞かされたことは明らかだが、「最後の夏」がいつなのか、分からない。『京都宵』は平成20年(2008)9月20日発行なので、同年の夏の可能性もないではない。締切がいつだったか、しかしそこは監修者だから「京都宵」と云うテーマを設定して、知友の作家たちに告知して、集まってきた作品を見てから書いても良かった訳である。前年かも知れないし、もっと前かも知れない。(以下続稿)

*1:ルビ「いのうえまさひこ」。

*2:ルビ「 ハ ロ ウ ィ ー ン」。

祖母の思ひ出(03)

 あんなに脅していた自粛させていたのに、経済が続かなくなるから緊急事態宣言は解除したのは仕方がないとしても、ここまで緩めさせてはいけなかったのではないか。しかし、世間はすっかり元通りである。電車も、外国人観光客と、部活で集団で移動する連中が乗っていないくらいで、以前と変わらなくなった。窓を開けて換気するよう推奨されているのに、半分も開けていない車輌の方が多い。恐ろしく呑気である。「これまで」大丈夫だったのだから「これまで」通りにしておれば大丈夫だろう、と云う正常性バイアスが掛かっているのだろう。
 1902年のアンティル諸島マルティニーク島のプレー山の噴火の際に、市長選直前だったこともあって市長がサン・ピエール市は安全だと宣伝し、市からの避難者を上回る流入者(周辺の村からの避難者)を受け入れて、結果、5月8日の熱雲で約3万人が数分のうちに死亡することになった。
 1991年の雲仙普賢岳の噴火の際も、「定点」と呼ばれたマスコミ各社が取材拠点としていた場所まで、いづれ火砕流が到達するであろうことは、予測が付いていた。しかしながら、6月3日に43名の犠牲を出す惨事となった。「大火砕流」などと呼ばれているが、実は大した規模ではない。
 いづれも「これまで」大丈夫だったから、「これまで」通りにしておればこれからも大丈夫だろう、と云う根拠なき安心感がもたらした悲劇である。
 もちろん、反対に、大規模噴火が起こると予測して噴火しなかったり、全島民を避難させてその後、大した噴火が起こらなかったり、と云ったケースもある。見極めが難しいことは確かである。
 しかし、コロナウィルスを制圧した訳でもないのに、この「日常が戻った」みたいな浮かれ方はどうしたことだろう。
 確かに、もう緊急事態宣言など出していられないのである。当時、自粛と補償をセットで求める tweet が多々投じられていたが、もう政府は自粛要請しないだろう。諸外国もそうだが、日本の場合特に、補償などしたくないから、罹った奴は何か悪いことをしたからだ、みたいな日本人に染み付いた、2011年9月12日付「美内すずえ『ガラスの仮面』(7)」の後半に述べた、因果応報的な自己責任論で済ませるつもりだろう。
 テレワークも解消に向かっている。感染拡大を防止するためテレワークを継続するよう要請しても良さそうなものなのに、一向に聞こえてこない。マスコミは再開を喜び、日常が戻りつつある、そんなことばかり言っている。たまに登場する感染拡大を懸念する識者との温度差が甚だしい。
 いや、そうやって、都内に出勤してもらわないと困るのだ。休業要請を解除して、営業を再開させたが、これまで通り客を入れられない。都内の飲食店は客の回転をよくすることで儲けを生んできたのに、客が入らなければ儲からない。だから、都内に勤め人を戻して、少しでも飲食店を使ってもらわないと、困るのである*1
 これまで、都内の繁華街にある飲食店であれば、狭くても、地下であっても、空気が澱んでいても、儲けを生んできた。しかし、客が戻らなくて廃業する店舗が増えたら、都内の不動産の価値は大幅に下がるだろう。商売にならないんだから、そんなところを借りようと云う人はいなくなる。しかし、家賃を急に下げられない、固定資産税も掛かる、いや、価値が下がったから家賃や税金を下げろ、となったら、バブル崩壊みたいなことになる。今、何とか株価を誤魔化して、コロナウィルス以前と同じくらいの価値を不当に維持させているが、不動産の価値が半減しようものなら支えられなくなる。
 そこで、倒れない程度に続けさせるために緊急事態宣言も休業要請も解除し、そしてやっぱり出社してハンコをつかないと仕事にならない、と云う頭の固い管理職がテレワークのことを快く思っていないのに乗っかって、出来る限り都内に出勤させようとしているのである。いや、出勤させるだけではいけないので、飲食店に入ってもらわないと駄目だから、とにかく解放ムードを煽って、もう大丈夫だと云う空気を醸成させているのであろう。
 私が懸念しているのは学校である。あんなに思い切りよく全国一斉休校にしたのに、9月入学が立ち消えになって以来、感染が再び拡大したらどうするつもりなのか、その議論も全く見えて来ない。かつて私の勤めていた都内の女子高は、今、分散登校にしていて来週から通常登校に戻すつもりらしい。しかし、今はまだ涼しいから良いが、これから暑くなったらどうするつもりなのか。しかも、上り電車は恐ろしく混んでいた。殆どの生徒が上りで通学しているはずである。窓が開いているかどうかは知らないが、考えるだに恐ろしい。私の世話になった年配の教師は定年退職しているはずだし、当時の講師は全員雇い止めでいなくなったから、そういう心配はしなくても良いが、本当に、夏休み明けまでせめて、電車通学の学校は休校延長、オンライン授業で代替可、と云う風に出来なかったものかと思う。
 初め、学校再開となったとき、徒歩通学の公立小中学校は仕方がないが、電車通学の私立小中学校は再開させないだろうと思っていた。そして、高校は公立・私立とも、通勤電車の混雑を緩和するためにも休校継続、登校させずに何とかする方向に動くだろうと。しかし、全くそういう話にはならず、そして勤め人たちもテレワークから出社に、この7月から、戻されようとしている。せめて、学校だけでもオンライン可能なところは登校させないことに出来ないものか。しかし解放ムードに水を差すことになるから、それこそ猖獗を極めない限り、学校もそのままだろう。これが収まらないまま、夏のうちに第2波みたいになることを覚悟すべきかも知れない。
 オリンピックも中止に決まらない。リニアなんて初めから無駄だと思っていたが、「コロナウィルスとともに」生きる時代に、あんなもの巨費を投じて作ってどうするのだ。しかし、とにかくこれまで通りにしたい、予定通りにしたい、そういう同調圧力が、異様に働いているように思うのである。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 当ブログは昨年まで知友に全く知らせずにやっていて、知らせたのは2人だけ、2人とも会ったこともない。しかし当初から知っているのが1人だけいて、他ならぬ家人である。
 その家人によると、私を誘わなくなったのは、料理屋に行く訳でもなく、ほんの御機嫌伺いだから、と云うこともあったが、2週に1度、土曜と決まっているので祖母の方もそのつもりでいるのだけれども、念のため出発前に「これから伺います」と電話を入れる。すると「あなた1人?」と聞かれて、そうだと答えて行ってみると寝間着のままだったりしたそうだ。そうすると、起きて買物に出掛けて、と云うルーティンが、私の知っている10年ほどのうち、最後の何年かは崩れていたことになる。もともとが寝るのが好きな人で12時間は寝て、買物、風呂、食事、お酒、漢字パズル、そしてじっとしている間は本を読んでいる。TVは大相撲観戦するくらいだったらしい。当時、朝青龍が好きだった。具合が悪いと、とにかく寝て治してしまう。入院したことのないのが自慢だった。ただ80代で1度、入院するよう言われたことがあって、しょんぼりしてしまったが、いよいよ手続きをしようかと云う段階になって、やっぱり入院しなくても良い、と云うことになった途端、めきめきと元気になったそうだ。

 私も病院に送り迎えしたことがある。マンションのエレベーターの近くに段差があるのだが、上に貼付したようなプレートを置いてキャスターが引っ掛からないようにしてあって、祖母も支障なく越えていたのだが、ある日、この段差でバランスを崩して、背中から落ちたのである。
 骨にひびが入ったかも知れない、とて整形外科に連れて行き、レントゲン写真を撮ったのだが、何の異常もなかった。ただ、脊椎が1つか2つ潰れているが、それは昔からで特に支障はない、とのことだった。
 その後、足が腫れて靴が履けず、歩けない、との連絡があって、休日で行きつけの整形外科が閉まっていたので、家人が万一のときのために保管している市報で休日診療している病院を確かめて、夫婦で連れて行ったことがある。近距離だけれどもタクシーを呼んで、そしてまたタクシーを呼んで帰ったのだが、その帰りに(行きをどうしたか覚えていないのだが)何処でタクシーから降ろすかで困ったのである。祖母のマンションは駅の近くのやや広い通りに面しているのだが、その歩道がずっと植込が続いていて、切れ目がないのである。――そこで、とにかくマンションの入口の植込の脇に止めてもらって、私が背負って、植込を跨いで越えることにしたのである。祖母は小さい人なのだけれども、背骨が潰れている分、凝縮されたようにずしりと重くて、思わず仰け反りそうになったがそこは堪えて、歩道の段差と植込、そしてマンション入口の段差を越えて、後は歩いてもらった。
 そして、祖母を背負ったとき、私は、例の、笹川良一が老母を背負って神社の石段を上っている油絵*2を、思い出したのである。(以下続稿)

*1:6月30日追記】昨日の報道ステーションで、早稲田の学生街の飲食店の窮状を取材していた。大学はオンライン授業継続だから、休業要請が解除されても客足は全く戻っていない。――要するに、そういうことなのである。

*2:銅像も複数あるようだ。

祖母の思ひ出(02)

 6月11日付(01)の続き。
 義理の祖母は恐ろしくせっかちで、家人が年末、実家、すなわち祖母の長男の家に帰る際に一緒に連れて行くのだが、昼過ぎの電車で着くように10時半の新幹線に席を取ってあるのに、何故か9時半に東京駅のホームに着いてしまうような時間に出発する。1時間余り、席も殆ど空いていないホームの待合室で、ひたすら待つ。新幹線は、まづ、遅れたりしないから、もっと遅く行けば良さそうなものなのだが、もうこの時間割は祖母と家人の間で決まっていて、後から私が口を挟む余地など存しないのであった。しかし、暖房が効いているとは云え、入口附近は人の出入りがあると忽ち冷気が入って寒い。祖母はなるべく奥に座らせてもらって、家人もその近くに、そして私は出入口の近くで荷物の番をしながら立っている。そうすると、出入りする訳でもないのに、自動扉附近でうろうろして、ドアを開けっ放しにする不届者、と云うか不束者の、迷惑を被ることになるのである。普通なら1人か2人、そういう人に出くわすぐらいで済むのだろうが、1時間も(しかも年末に)いると頻繁に出くわすことになる。その度に冷えてきて、もう少し内側で話せ、と思ったり、出たらもうちょっと離れろや、と思ったり、そこで立ち止まるなよ、と思ったり、気の利かない連中に心がささくれ立って来る。しかし、思うだけで何も言わない。近頃は電車の窓を開けずにマスクをしてゆったりと座っている連中に、似たような感慨を抱いているのだけれども。
 それはともかく、所帯を持った初めの頃、私も月に2回、祖母に会って、1回は行きつけの料理屋で御相伴に与り、もう1回は昼に祖母行きつけのスーパーの1階で寿司を買ってマンションに挨拶に行くのであった。どちらも土曜で、料理屋に行くときは、家人が祖母のマンションまで迎えに行って、店に予約を入れて、少し閑談してから少し暗くなり出した頃に出掛ける。出勤がなければ私も一緒に迎えに行って、お茶と和菓子を出してもらった。出勤があると時間を決めて店で落ち合うようにするのである。たまに先客があって使えないことがあるが、大抵、座敷の決まった席に入れてもらって、日本酒と好きな料理を頼んで上機嫌で、帰りは夫婦でマンションまで送り、そして迎えに行ったときに出してもらった和菓子の残りを、お土産にもらって帰る。
 通い始めた頃はまだ2駅離れたアパートに住んでいたから、私は自転車でマンションに行って、部屋の前に止めて、呼び鈴を鳴らすと先に電車で来ている家人が出て来るから、そこでお茶と和菓子を頂いたのだった。料理屋は祖母のマンションから、祖母の足で4分ほど歩いて線路を越えてさらに1分ほどのところにあって、当時は踏切があって工事をしていた。駅の脇だから、下り電車が入るとすぐに上がるので、開かずの踏切と云う程ではなかったが、それでも少々待たされる。上がってもすぐに警報が鳴り出したりする。家人が横に寄り添って、そして私はすぐ後に付いて見張っているのだけれども、せっかちな祖母は杖を突いてすっすと躓いたりよろけたりすることなく早足で、途中で警報が鳴っても見事に渡りおおせてしまう。いや、私が棹を持ち上げて通したこともあったかも知れない。しかし、そちらの印象は残っていないのだ。とにかく、達者に早足に歩いていた姿が思い浮かぶ。
 何年続いたであろうか、あるときから料理屋に行かなくなった。それは、30年前に祖母が通い始めて以来馴染みの料理人が引退したこと、店は店主の娘婿が継いだのだけれども、家人が言っていたのだが味が濃くなったのを、祖母も感じていたのかも知れない。以後は専ら、家人が一人で寿司を買って通い、私も土曜が休みの日は付いて行ったこともあったが、カッパ巻きの海苔が喉に張り付くのかなかなか飲み込めずに咳き込んだり、恐ろしく少食になっていた。そのうち私は「もう良いから」と言われて滅多に行かなくなって、その後は電球を取り替えるとか、たまに訪ねてはいたが、以前のようにゆっくりお話拝聴と云う機会はなくなってしまった。
 祖母は晩年、施設で過ごすことになってしまったのだが、その異変に最初に気付いたのは、前回の最後に書いたように、銭湯の代わりに利用していたスポーツクラブであった。しかし、それは後で聞いて分かったのである。すなわち、6年前の正月、何の事情であったか忘れたが、帰省しないことになって義理の妹が保育園児の息子を連れて夫婦で上京し、御機嫌伺いすることになった。その日の晩、東京にいる私たち夫婦と上の妹の夫婦、そして上京して来た下の妹一家で会食することになっていた。夕方、私が待ち合わせの、下の妹一家が泊まっている新宿のホテルを訪ねると、時間になっても誰も来ない。おかしいと思って当時携帯電話を持っていなかった私は公衆電話(!)で家人に掛けると、祖母が大変なので病院に行くと言う。携帯電話を持っていなかったので私だけ、連絡が付かなかったのであった。
 それから、義理の両親が上京して、祖母のマンションに泊まり込んで入院の手配やら何やら、大変であった。義理の母によると、11月に上京してマンションに泊まったとき、少しおかしいと思ったと云うのだが、元来がお嬢様育ちの祖母は人にみっともないところを見せないよう振る舞うので、そこまでおかしいとは思わせなかったのである。しかし、後に義理の母がスポーツクラブに解約に行ったとき、スタッフに話を聞くと、9月にぱったり来なくなったので、どうしたのかと思っていたと言う。しかしスポーツクラブの方から確認などはしないので、結局この最初の異変はそれと気付かれないまま、祖母の異常は進行してしまったのであった、(以下続稿)

阿知波五郎「墓」(27)

 さて、当ブログは、飽くまでも確認作業ノートで、普通なら公開しないところまで示して置こうと云う意図でやっておりますので、非常に読みづらく、脇道にも逸れますし(しかしその場で書いて置かないと忘れてしまう)過去記事に書いたことを忘れて繰り返すようなこともあるかも知れません。当方としては、要点を纏めた記事も準備したいと思っておるのですが、そこまでやっては余りに気前が良すぎるような気がして、敢えて手を着けておりません。
 或いは、何かの調べで当ブログに逢着して、当ブログの記事を参考にして、何処かに売り物にする文章を書く人がいるかも知れませんが、その場合、典拠を明示してもらいたいのと、どうせなら、私に書かせて欲しいと思っております。当ブログを始める前ですが、ある小説について、これまで曖昧にされてきた設定を確認する文章を書いて、同人誌に発表し、その筋の専門家に送ったこともあるのですが、基本的なことも知らずにやっているのか、との冷笑(こちらからするとそのまま投げ返してやりたい気分でしたが。あなたたちが好い加減にしているから門外漢の私が確認作業を行って確定案を出したのに、まともに読みもしないで、妙なことを言って来た奴がいる、と云う扱い)か*1、或いは、丁寧な返信をもらって数年後、生誕×××年とかで記念の本が出たのですが、その本に、礼状をくれた人が私が問題にしたのと同じ小説について、私の指摘を援用して執筆時期を推定していたのですが、わざと私の指摘とは12年ずらして論を立てていて、ところがその直後に、その作家に日記が発見されて、その、12年後と云う設定は成り立たない(すなわち私の最初に立てた説のままで良かった)ことが明らかにされたのでした。――これを読んだとき、どうして素直に人の云うことを聞かずに、少し違えてオリジナルのようにしたがるのか、と思ったものでした。私の指摘については一般向け書籍でしたので(そのまま援用してない訳ですし)詳細は省略するが、と云うことで、私の名前も(当然のことながら)挙がっていませんでした。何とももやもやとした、後味の悪さだけが残りました。その後、その人がやはり私の指摘が正しかった、と云うフォローをしてくれたかどうか、分かりません。
 ですから、当ブログではプロフィール欄その他で、既に度々申しておるのですが、中途半端に当ブログを参照して同じ趣旨の文章を準備されるのであれば、折角なら私に書かせて欲しいのです。――これまで依頼は皆無です(苦笑)。このような態度は嫌がられるかも知れません(笑)。しかし、やはり同趣旨、もしくは同趣旨にならないようわざと変なところを変えたりズラしたりしたものを、別に発表されるのは、何ともやり切れないと思うのです。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 さて、ここで再読の切っ掛けとなった、頭木弘樹 @kafka_kashiragi の2014年7月30日20:29 の tweet 及び、ちくま文庫『絶望図書館――立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語の編者・頭木弘樹が「[閉鎖書庫 番外編]」として、記憶に基づいて「入れられなかった幻の絶望短編」と題して書いた、阿知波五郎「墓」の粗筋について、簡単に纏めて置きましょう。
 tweet の最初、呼び掛けの部分は6月8日付(12)に抜いて置きました。今回は残り、本作の粗筋を纏めたところを抜いて置きましょう。 

‥‥ある女性が図書館(?)に閉じ籠もって、自ら餓死しようとします。恋のためで、好きな男性が最初に死体を見つけるはずなのです。でも、実際の飢餓は予想以上に苦しく、激しく後悔します。でも、出られません。


 これは、6月9日付(13)6月12日付(14)6月14日付(16)に引用した、『絶望図書館』の梗概【A】~【J】のうち、前半は主として【B】に重なります。後半は【F】~【H】に重なります。
 少々異なるのは最後の「でも、出られません」です。――私が本作が源流かも知れないと思っている怪異談「閉じ込められた女子学生」では、2016年9月27日付「「ヒカルさん」の絵(06)」や、2016年10月1日付「閉じ込められた女子学生(1)」等、死体発見時に、何とか脱出しようとした跡が見付かることになっているのですが、この書き方ですとそのような努力があったかのような印象を受けます。しかしながら、『絶望図書館』には脱出の努力について述べたところがなく、実際、本作でも6月19日付(21)に見たように、せいぜい2回ほど、鉄扉のところまで行って声を上げ、叩いて見たりしただけで、爪が剥がれるほど扉や壁を叩いたり引っ掻いたりと云ったことはしておりません。そこでやはり、この書庫は何によって建てられているのか、気になってしまうのですけれども。
 しかし、これとても大きな違いではありません。【A】愛情を上回る【G】飢えの苦しみ、と云う基本的な構図は、6月22日付(24)に確認した『絶望図書館』の梗概に同じです。そして、主人公の人物像に厚みを与えている要素――動機が男性の裏切りに対する復讐であったこと、そして主人公が戦後の混乱期に戦災浮浪児を引き受ける保育園の保母として、正義感で解決させようとしたことが思わぬ事態を招き、挫折を味わっていたことなどが抜け落ちていることに気付かされます。頭木氏の記憶する梗概は、忘却によってかなり単純化されており、さらにその単純化された要素を組み直して合理化されていることが分かります*2
 頭木氏の梗概では【B】【C】「強い愛情」に代わって【H】「飢えの苦しみ、叫びがノートに記されてい」くことになっておるのですが、本作の遺書は最初から最後まで「強い愛情」が主で「飢え」は従です。復讐のための遺書なのですから【B】「心を打たれる」【C】「感動する」対象は「男性」ではなく世間の人々なのです。そして、かなり大事なところを忘れていたとは云え、多くの作品に通じている頭木氏に特に印象に残る作品として語らせたところに、――主人公が企図した通りに、主人公の遺書は世人の胸を打って、渋谷に亡き恋人との想い出に生きるよう強制させることに成功した(もちろん渋谷には別の意味での制約も掛かったはずですが)と推察させるに十分です。しま、以て瞑すべし――架空の人物ですけれど。
 本作が、読者の心を揺さぶる力が持っていること――初め懸賞の候補作として雑誌に掲載され、そして中島河太郎鮎川哲也に復刊を企図させ、そして主人公の純粋な動機のみを止めた、偏ったものであったにせよ、こうした非常に印象に残る形での梗概の紹介にまで、繋がっていると思うのです。
 但し、やはり鮎川氏が気付い(て忘れてしまっ)たように、本作は欠陥作です。6月16日付(18)に見た、上高地へ行く約束をしたのかしないのか、6月22日付(24)の最後に見た、日を数えていたのかいないのか、と云った点も気になりますが、やはりなんと言っても、2016年11月1日付(08)に指摘した、閉じ込められる前日に、服毒自殺するつもりで劇薬を持ち出していた、と云う記述が最大の難点です。殆どが地の文ですから主人公の錯乱では済まされません。
 ただ、私は初読の際に、結論として2016年11月2日付(09)に述べたように、当初アンソロジーに掲載しないことにした鮎川氏の判断を支持しましたが、今回再読して見て、きちんと欠陥を指摘した上で文庫本に収録するのも悪くないのではないか、と思うようになりました。頭木氏が本作を読んで、どのように判断されるか、興味のあるところです。

*1:その後、その教授の著作集が出たとき、私も参照した論文(と云うか紹介記事)が再録されていたのですが、初出紙に比較して驚く程簡略になっておりまして、或いは、当方の言い分を認めてこんなことをしたのかと思ったのですが、どうだか分かりません。――この小説については当ブログでも遠からず取り上げたいと思ってはいるのですけれども。

*2:それにしても、2016年10月5日付(02)に引用した『こんな探偵小説が読みたい』カバー表紙折返しの紹介文は奇怪です。まともに読まずに書いてしまったとしか思えない。そしてこれが通ってしまったことが、作品よりも恐ろしいような気がして来るのです。

阿知波五郎「墓」(26)

・「七月二十五日。」条と結末
 438頁12行め~440頁2行め、7日め「七月二十五日。」条、これが最後の日付である。前半、438頁13行めから439頁6行めまでを抜いて置こう。

 いよいよ七日目だ。却ってもう飢を感じない。手も足も水ぶくれになって腫れ上ってくる。しまは、/呼吸するのも大儀だ。本をならべ立てようとあせったが、もうその気力もない。ハンド・バッグから/懐中鏡をとり出してもう一度と自分の顔を覗く。ぞっとするような青さ、眼瞼*1は却ってますます腫れ/上って来て居る。しかし顎がこけて、油気ない頭髪がばさばさと、毛ばだって居る。パフを出しては/たき、ルージュを唇につける。――思わず涙が頰を伝る……もう最後が近い。死ぬまで書かねばなら【438】ない……。
『今日はもう七日目です。指折り数えて七月の二十五日だとわかりました。蟬がないて居るのが、遠/い国から聞えてくるようです。聴力も確に鈍りました。……』
 もう書く元気がない。椅子に埋れて睡る。すしの夢、しるこの夢……夢の中には不思議に渋谷の顔/が出ない。出るものはたべものばかりである。
 目醒めて又ペンを持つ。


 体調の確認と食物の夢は5日め以来の、そして化粧は6日めの繰り返しである。
 十分に時間があったにも関わらず「悲壮美」の構築は結局為されないまま終わってしまった。
 「飢を感じない」けれども夢に見るのは「たべものばかり」で、「渋谷の顔」を夢に見ないのに、遺書には渋谷に対する思いを綿々と、いや、渋谷にだけ伝わるように怨念を込めて書き綴っている。この日の後半、439頁10行めから440頁2行めがその文面(14行)だが、最後の4行は「渋谷さん、」を、最後は書き方を変えながら21回も連呼するのである。
 ここで1行分空けて、440頁3~8行め、数日後(?)の主人公の様子を客観的に描写する。5~6行め「……原稿用紙に向った手にはペンが堅く握られ、復讐にみちみちた虚ろの愛情の文字が羅列し続けられて居る。‥‥」とあるが、前後の描写から既に死亡していて、しかしペンを握った様子に意志が感じられると云う意味で「し続けられて居る」としているのだろう。もし、遺書が本作に引用(?)してある分で(ほぼ)全てだとすると、主人公は渋谷の名を書き続けながら力尽き、ペンだけを握り締めつつ、やがて息絶えたのであろう。
 それと云うのも、前日の6日め「七月二十四日。」条の最後の遺書の引用、438頁3~6行め、

『わたし、間もなく死ぬでしょう。いい想い出をしっかり抱きしめて、事切れることでしょう。死ッ/て案外楽そうよ。わたし、死ぬときはきっと睡るように行って了うのね。そのときあなたのお名をお/呼びするわ。――聞えて。聞えるわ。いつか聞えるわ。このおもい聞えないものですか。そうでしょ/う。……』

の後半に(前半ではなく)対応しているからである。
 そして440頁9~15行め、2016年10月9日付(04)の最後に述べた、題名の由来、太郎が「墓だよ」と主張する場面があって、屍体発見の波紋などは描かれないまま終わっている。(以下続稿)

*1:ルビ「マブタ」。

阿知波五郎「墓」(25)

・「七月二十四日。」条(2)呪いから痩せ我慢へ
 434頁17行め~436頁1行めまで、20行に及ぶ遺書の一節は、

『渋谷さん、今日も一日中あなたのことを思いつめて居るのよ。どんなにおなかが空いて居ても、あ【434】なたのことを思えば不思議にその苦しみがなくなるの。信じるものは幸福だわ。私の痩せてゆく心の/中に、小さい灯が一つ点いて居るの。それは渋谷さんへの愛なの。決して消えないわ。‥‥

と始まっている。全くの偽りとまでは云わないが、これまで確認して来た通り、殆ど嘘である。しかし、これに続く、435頁5~13行め、渋谷との交際が順調だったときの回想は、本当であろう。恋に舞い上がった主人公の幸福感、そして閉館後、書庫を一緒に出て、ある日渋谷に所謂連れ込み宿に連れて行かれて、関係を結んだらしいことが示唆されている(435頁12行め)。渋谷との交際は2016年10月10日付(05)に見た通り、好意を抱いていた渋谷に書庫で強姦されたことが切っ掛けなのだけれども、そこを隠蔽しつつ、2人の関係が清いものではなく、渋谷の主導で最後まで進んでいたことを暴露している。何もなかったのに主人公が勝手に熱を上げて、実は全く相手にしていなかった渋谷に、ありもしない妄想をでっち上げて復讐した、と云う言い逃れは、414頁7~8行め、主人公も「顔見しりの小/使」が大学の側にはいて、そして保育園には6月16日付(18)に確認したように、渋谷が直接「電話」しているくらいだから、もともと成立し難かったのだけれども、これで決定的に成り立たなくなったと云えるだろう。
 そして、回想に続いて、渋谷との実際の関係を知らない第三者には、極限状態にあって渋谷への愛に全てを振り向けざるを得ない状態が書かしめた少々強烈な表現、程度にしか映らないであろうが、渋谷にとっては骨身に沁みるような呪いの文言が記される。13行め~436頁2行め、遺書に続く段落まで抜いて置こう。

‥‥。わたしのような幸福ものないわ。屹度お見すてないでしょう。離/しちゃいや。わたしお離ししないわ。離すものか。こんなに痩せて……仕舞には骨だけになって了う/んだけど、離さないわ。決して離さないわ。わたし灰になっても離さないわ。あなたのおあとから、/いつまでも、いつまでもお守りしててよ。しま! とお呼び下さい。わたし、きっと、そのときはお/側に参りますのよ。姿は見えなくなっても、わたし、すうーッと飛んで行けるの。そして、あなたの/横にぴったりより添って歩くわ。音がなくっても、姿は見えなくってもご心配ないのよ。霊魂なの【435】――私の愛情の晶華なの。霧のように見えなくなっちゃうのね』
 今日は、これだけの文章を何度も何度もかかって書いた。


 さて「今日は」とあると、もうこの日の遺書はこれでお終いのように読めるが、以後も断続的に3行(437頁9~11行め)、2行(16~17行め)、4行(438頁3~6行め)と書き足されている。ここまでの練りに練った文面とは違って、余裕のない、痩せ我慢のような断章である。
 そして、遺書の書き足しを挟んで、436頁3~18行め、自分が消息を絶って「六日目」、3~4行め「青葉/園の子供たちも屹度うすうす、ことのなりゆきを感知して居るに相違ない」と、また太郎のことを思い出す。そして、6月14日付(16)に見たように、出発に際し、1人だけ主人公の嘘を見破っていたらしい太郎が、園長に、主人公は上高地になど行っていない、大学の図書館に閉じ込められて泣いてるよ、と告げ口することを期待するのである。
 それから437頁1~5行めに( )で括って、園で流感が流行ったときの回想があり、6~8行め・12~14行め、目が覚めて身体の異変に気付き、12行め「ハンド・バッグから懐中鏡をとり出して」顔を見て、泣きながら化粧する。そして、最後には、438頁7~11行め、僅かでも口に出来るものを求めるばかりで、しゃば気・貪らん・欲望が主人公の世界からはなくなってしまったことが語られる。(以下続稿)

阿知波五郎「墓」(24)

・「七月二十四日。」条(1)遺書の意図
 遺書を書き始めるまでの確認が随分長くなってしまったが、ここまで、主人公はまづ、2日めと3日めには里子に出した園児と、その園児を園に戻したことで起こった火災を回想し、それから、空腹は3日めから、4日めには1粒だけ残っていたキャラメルを口にし、5日めには飢えのため錯乱状態になる。稀覯書を床に投げ散らしたりした挙句、生気を失ってしまったことに絶望して火を付けようとするのだが、マッチが見付からなかったことで断念し、そこで初めて遺書に取り掛かるのである。
 この流れを、ちくま文庫『絶望図書館――立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語の、編者・頭木弘樹「入れられなかった幻の絶望短編」に記憶に従って述べてある本作の梗概と比較するに、6月14日付(16)に引いた【F】【G】に相当する内容の方が先に来ており、それから【E】によって絶望(と云うか図書館に閉じ込められた段階から既に絶望的な状況に陥っていた訳だけれども、閉じ込められた当座は、何か、6月9日付(13)に引いた【C】に指摘されるような達成感のようなものがあったのが、飢え死にの悲惨さにリアルに直面させられたことで、いよいよ絶望)したことによって、漸く【B】【C】のような内容の遺書を書こう、と云う段取りになっているので、順番が逆である。いや、6月15日付(17)に引いたように、3日めにも「何か書き残して死に度い欲望にも燃え」ているのだが、この時点では飢えではなく暑さと籔蚊のために実行せずにいた。
 それはともかく、頭木氏の覚えていた【A】愛情が【G】飢えに圧倒される、と云う構図――【J】「生理的苦痛がいかに大きく、絶対的であるかを描ききっている」――は、かなり単純化された上で合理化されている、と云わざるを得ない。その、抜け落ちてしまった要素、すなわち、書庫に自ら閉じ込められた理由が、そもそも【A】のようではなかったので、自分を弄んで裏切った男性に対する復讐から【B】【C】のような遺書を書くのである。もちろん、ここまでするのは主人公の男性に対する愛情が深かったから、と云うことにはなるだろうけれども、純粋な愛情を本心として書いている、と云ったものでは、初めからない。
 5日めに書き始めた遺書について、25行中、昨日改めて確認したように9行めの途中までと、最後の4行をこれまで引用して置いたけれども、その間の12行分は、特に歯の浮くような愛の言葉が書き連ねられているのである*1
 そして6日め「七月二十四日。」条は、まづ冒頭、434頁14~16行め、

 閉されてから六日目、机の端にペンでしるしをつけておく……六日目だ。
 しまの心は、もう渋谷に対する復讐以外にない。完全に生きる望みを絶たれた今、いかに渋谷を苦/しめるかがあるだけだ。

とて、前日と同じような、さらにそれをえげつなくしたような、愛の、取り憑くような愛の文面が綴られて行くのである。
 ところで、上記434頁14行めの書き方だと、日数を毎日「机の端」に「しるしをつけてお」いて「六日目だ」と確認しているかのように読めるが、6月20日付(22)に確認したように、5日めの3段落めに「折角覚えて居た日も記憶の中で戸迷い*2」と云うことになっていたはずである。そして4段落めにも、430頁7~9行め「‥‥。外は深閑とし/て音一つ聞えない。夜かしら……もうこれからは、いつが夜で、いつが昼か見定めがつかぬ。日も判/らぬ……そんなことにかかわりたくない。‥‥」とあった。(以下続稿)

*1:6月24日追記2016年10月11日付(06)の最後に、この箇所を5行ほど引用してある。

*2:読みは「とまどい」であろう。

阿知波五郎「墓」(23)

・「七月二十三日。」条(4)遺書執筆開始
 昨日は、5日め「七月二十三日。」条の3段落めの中盤を確認するだけで終わってしまった。当ブログは結論を述べると云うより確認作業ノートみたいなものだから、往々にして全く進まなくなり、そのうちに飽きるか本の返却期限が来るかして、中絶してしまう。
 3段落めの残り、430頁3~6行めは「山海の珍味をたべる夢」について、「餓鬼のような太郎の正しさ」すなわち「人間は喰べることが第一」で、文字・絵画・小説・歴史なぞは「みんな腹がふくれたときの遊戯」だと毒づいている。
 太郎については6月14日付(16)に触れた。6月17日付(19)の引用にも見えている。学問や芸術を「遊戯」とする考えについては6月18日付(20)に、これまでの記述を纏めて置いた。
 7~11行め、4段落めは、籔蚊で目を覚まし、喉が渇いて水を飲み、――生理的な必要に迫られない限り床で睡り込んで、何をする気力もなくなってしまった主人公が描かれるが、12行め、5段落め、

 夢の中で、この苦しみを一月堪え忍べば蘇生することが出来る――と思う。

との有り得ない希望的観測を挟んで、6段め、13行め~431頁9行め、全体を( )で括って「 」は用いずに、伊豆の里子を、学校にも通わせずに働かせている里親から取り戻したときのことが回想されている。学校に行かず漁船に乗っている方が良いと言う、荒々しく健康的な里子の姿に驚き、里親に喰って掛かると、自分たちはあの子を可愛がっている。学校に行かないのは本人の希望で、小遣いをやって、芝居や活動を見せている。寝る前の歯磨きも朝の顔洗いもしないが、自分たちもそんなことはしない、と、のらりくらりと答える里親に、8行め「通知次第里子を園へ送り返して下さい」と命じると、9行め「はい、そうでごぜェますか、困ったことになり申した。」とあっさり引き下がる。
 この伊豆等に里子に出された旧園児たちについては、6月15日付(17)の後半等に見たように、主人公が外泊する口実になっていた。こうして主人公が主導することになった里子問題は、結果、園を焼く火事の原因にもなってしまった訳だが、ここに来て主人公を徹底的に打ちのめすのである。8段落めの前半まで抜いて置こう。431頁10~17行め、

 困ったことになり申した……しまは今になって、その時のわが身の仕草が腹立たしい。日が暮れた/帰りの川堤で、若い男女が抱きあって居て、しまが、堤の上を通っても離れない。蛇のつるみを見て、/石ぶっつけた幼いときの想い出に、爬虫類のぬめぬめした鱗のない皮膚を想い出し、ペッペッと唾を/吐いて逃げ帰った。
 今、それを静かに嚙みしめて居る。――文化、文明、教養、文学、美術、芸術――そしてそれが一/たび食を絶たれると、染めの悪い布片のように水に漬けた瞬間じ……と溶け出て了う――木綿の生地、/矢張り生物、歯をむいた動物……思わずうなりたくなり、ふらふらと立上ってこの東洋文庫稀覯本/を片端から床上へ投げつける、(略)


 こうなってしまうと、6月15日付(17)の前半の引用、3日め「七月二十一日。」条に想定していたような「悲壮美」も何もあったものではない。
 そして8段落めの後半、431頁17行め~432頁5行め、男女の睦み合いを思い出したところからの連想か、「頭でっかち」で「陰部が目立って小さ」い「渋谷の偽善者」の幻想を見る。
 そこで現実に戻って、6~7行め、9段落め「油気の切れ果てた頭髪が針金/のように立って居る」ことに気付いて、以下は2016年10月11日付(06)に略述したように「もう駄目だ――。」となったところで、10段落め、8~10行め、「遠くの方で消防自動車の警笛が吹奏され」るのを聞いて、本を燃やしてしまうことを思い付く。しかし、11行め、11段落め、

 大急ぎで、抽斗を捜す……マッチはないか、マッチ、マッチ……捜しに捜してもマッチはない。

となって、そこで漸く、12~13行め、12段落め、

 この書庫の中で、飢えた鼠のように死ぬとなれば、最も華々しく死にたい。抽斗から原稿用紙を取/出す、それを展げて白い紙を見る……。

と云うことになり、2016年10月11日付(06)に冒頭を抜き、2016年10月31日付(07)に、この日の執筆分の末尾(と、それに続く地の文)を抜いた、表面的には愛に満ちた遺書を、書き始めるのである。(以下続稿)