瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(183)

田辺聖子『私の大阪八景』(2)
 『田辺聖子全集』を以前見たとき、エッセイで赤マントに言及していたのを見たが、僅かな記述で、どのように位置付けて良いか、記事にするには工夫が必要だったので保留にしていたことを忘れていた。しかし本作での記述を引けば、そうした作業を別にする必要もなくなるので、はてなダイアリーから移行したときに別に保存して置いたエッセイに関する「下書き記事」はしばらく探さないで置く(件数が多いので探すのが大変なのである)。
 『全集』第一巻の奥付の裏にある目録「田辺聖子全集 全24巻 別巻1」の最後、25冊めの1行は「別巻1 年譜/作品解説/田辺聖子論/索引」とあるのだが、『全集』別巻1では、奥付からメモ欄を4頁を挟んで同題の目録があるが、25冊めは「別巻1 年譜/対談/田辺聖子論/初出一覧」に代わっている。この当初予定されていた索引があれば、総索引ではないだろうけれども、事項索引を(たとえ「赤マント」が拾われていなくとも)辿って当たりを付けて行くことは出来ただろうに。そもそも、別巻は1冊だけなのに「別巻1」となっているのも妙である。もっと前の段階では複数の別巻が計画されていたのであろうか。今からでも「索引」を「別巻2」として、人名・書名・事項について付けてもらえないものか。「作品解説」は、各巻の「解題」や「解説」があるから割愛されても仕方がないと思う。しかしどのような解説をまとめて付けるつもりだったのだろうか。
 ところで『全集』別巻1に入った「対談」は、『全集』第一巻の目録では「24 対談/随筆/単行本未収録作品(新編集)」に入っていた。『全集』別巻1の目録では「24 随筆Ⅱ/単行本未収録作品(新編集)」となっている。
 ついでにその他の異同も拾って置くと、第一巻「20 道頓堀の雨に別れて以来なり[下]/猫なで日記|22 姥ざかりの花の旅笠/文車日記 ほか|23 随筆(新編集)」の3点が、別巻1「20 道頓堀の雨に別れて以来なり[下]|22 姥ざかりの花の旅笠/文車日記|23 随筆Ⅰ(新編集)」と変わっている。「猫なで日記」や第二十二巻の「ほか」の分は何処に行ったのか。細目の入った内容見本を「田辺聖子全集月報」別巻1(二〇〇六年八月・8頁・B6判折本)5~7頁「『田辺聖子全集』目録」と比べれば分かるだろうけれども。
 さて、話を『私の大阪八景』に戻そう。――赤マントが持ち出されるのは1作め「民のカマド」である。今、私の手許には『田辺聖子全集』第一巻と岩波現代文庫、角川文庫20485(改版初版)の3冊がある。全体の詳しい比較は別に記事にすることにして、差当り「民のカマド」のみ、比較して置こう。
・『全集』第一巻その一 民のカマド〈福島界隈〉」9~40頁。題は5行取りでさらに1行分空けて本文。
岩波現代文庫その一 民のカマド〈福島界隈〉」1~47頁。題は1頁(頁付なし)扉の左に3行取り、右側は広く余白。2頁は冒頭3行分空けてから本文。
・角川文庫20485「民のカマド/ 〈私の大阪八景〉 その一 福島界隈」5~50頁。5頁(頁付なし)扉の上部中央に2行に題と副題。6頁は冒頭3行分空けてから本文。
 ところで底本については、岩波現代文庫は268頁の次・白紙1頁を挟んで奥付の2頁前(頁付なし)に下部中央、明朝体縦組みで小さく「本書は一九六五年、文藝春秋新社より刊行された。」とある。角川文庫20485は奥付の前の頁(頁付なし)に明朝体縦組みで中央下寄せで「差別語」等の扱いについての(編集部)の断り書があり、1行分空けてその左下に「本書は、一九七四年十一月刊行の/角川文庫を改版したものです。 」とある。『全集』第一巻553頁の2頁後・奥付の2頁前(頁付なし)に中央下寄せで明朝体縦組みで小さく示される「編集の基本方針」、*で5項目あるうち2項めに「* 底本には、原則として現時点での著者の最終仕上げ本〔最新版〕を用い、初/  出誌紙や各種異本も参照した。」とあるから、前回引いた「解題」の〔収録〕の最後に挙がっていた岩波現代文庫と、題・副題等一致する理屈である。
 それでは、まづ作中の時期について見て置こう。冒頭の段落、改行位置は全集「/」岩波現代文庫「|」角川文庫「\」で示した。

 来年は女学校へはいらなければならない。いつもそのことが頭の上にかぶさってい\て、|トキコはゆううつ/になる。そやから六年生になるなんて、イヤやというのだ。


 『全集』別巻1の「年譜」を参照するに、田辺氏は昭和3年(1928)3月27日生、早生れで昭和9年(1934)4月条「大阪市立上福島尋常高等小学校に入学」している。――本作の主人公「トキコ」が作者の分身であるとするならば、「来年は女学校へ」進学する6年生は昭和14年度と云うことになる。「年譜」を見るに、田辺氏はその年度末、昭和15年(1940)3月条「上福島尋常高等小学校を卒業」しているのであるが、作中の時間はこの6年生の1年間にほぼ終始し、最後に卒業・進学後のことが少し描写されている。そしてこの間のこととして、赤マントも扱われているはずなのだが、どうも従来これを読んだ人たちは、そうは思わなかったらしい。だからこの田辺氏の小説で取り上げられていることが特に注意されることなく来ていたらしいのである。(以下続稿)

赤いマント(182)

田辺聖子『私の大阪八景』(1)
 昨日の続き。
 田辺氏が赤マントを持ち出した小説は、30代で書いた自伝風の連作『私の大阪八景』であった。
 しかるに、人気作家の作品でありながら「赤マント 田辺聖子」で普通に検索してもヒットしない。すなわちネット上では田辺氏が赤マントを小説に取り上げていることが全く話題になっていないのである。
田辺聖子全集』第一巻(二〇〇四年九月十日第一刷発行・集英社・口絵+553頁・A5判上製本

 549~553頁、浦西和彦「解題」の、549頁4行め~552頁8行め「私の大阪八景」の項、549頁5~11行め〔初出〕と549頁12~16行め〔収録〕を見て置こう。書影を示せるものは〔収録〕に挿入して置いた。

〔初出〕
 「のおと」昭和三十六年十二月一日発行 第八号(表題「民のカマド 私の大阪八景 その一 福島界隈」)
 「大阪文学」昭和三十七年九月二十日発行 №9(「のおと」を誌名改題。表題「陛下と豆の木 私の大阪八/  その二 淀川」)
 「大阪文学」昭和三十八年七月一日発行 №10(表題「神々のしっぽ 私の大阪八景 その三 番場町・教育塔」)
 「文學界」昭和四十年九月一日発行 第十九巻九号(表題「われら御楯」)
  *最終章「その五 文明開化〈梅田新道〉」は、昭和四十年の初単行本化の際、書き下ろされた。
〔収録〕
 『私の大阪八景』昭和四十年十一月一日発行 文藝春秋新社

私の大阪八景 (1965年)

私の大阪八景 (1965年)

 『私の大阪八景』〈角川文庫〉昭和四十九年十一月二十日発行 角川書店  『私の大阪八景』昭和五十年四月五日発行 文藝春秋
私の大阪八景 (1975年)

私の大阪八景 (1975年)

 『田辺聖子長篇全集 1』昭和五十六年十月一日発行 文藝春秋
 『私の大阪八景』〈岩波現代文庫〉平成十二年十二月十五日発行 岩波書店
私の大阪八景 (岩波現代文庫)

私の大阪八景 (岩波現代文庫)


 その後、角川文庫は改版されている。
・角川文庫20485

私の大阪八景 (角川文庫)

私の大阪八景 (角川文庫)

・昭和49年11月20日初版発行・平成29年8月25日改版初版発行(278頁)定価760円
 今回は、前置きに大阪育ちの母のこと、しかし息子の私は大阪にあまり馴染みがあるとは言い難いことを述べ、さらに何故、本書の赤マントが従来注目されて来なかったのか、その見当まで述べるつもりであったが、作成途中でフリーズしてしまい、その分を破棄せざるを得なくなったので、次回以降に回す。――Windows 7 のサポートも終了し、バッテリはもう消耗して殆ど充電出来なくなっているから、もうそろそろ買い替えないといけない。(以下続稿)

赤いマント(181)

・『田辺聖子全集』別巻1(二〇〇六年八月十日第一刷発行・集英社・口絵+521頁・A5判上製本

 田辺聖子(1928.3.27~2019.6.6)は小学6年生のときに赤マントに接しているはずだと思って、2014年2月4日付(104)に「大阪附近の赤マント」の見出しで11回ほど続けて見た頃に、この『全集』別巻1も覗いて見たし、回想も手に取って見た。
 7~161頁「年譜 田辺聖子で読む昭和史」の、20頁26行め~21頁「昭和 14 年 1939 11」条の、21頁下段15~19行め「  ★ | この年」項の中に「赤マント」が挙がっている(18行め)。
 しかし7頁(頁付なし)扉の裏、8頁(頁付なし)上段、菅 聡子「【作成にあたって】」を見るに、9~17行め、

 この年譜は、作家としての田辺聖子の歩みに加えて、田辺/がどのように社会をとらえたかをひとつの軸として、昭和か/ら平成の時代をともに見つめ直してみよう、という試みのも/とに構成されています。
 上段では、田辺の作家としての日々を、田辺の文章や発言/を引用しながらたどり、その個人史を再構成しました。
 下段では、世界や日本の出来事を記し、人々がどのように/生きてきたのか、何を体験し、何を楽しみ、何を悲しんだの/か、追体験できるようにしました。

とあって、下段にしかないと云うのは、どうやら田辺氏の「個人史」に所属しない事柄らしいのである。
楽天少女 通ります 私の履歴書
・四六判上製本(一九九八年四月十日第一刷・定価1500円・日本経済新聞社・268頁)

・ハルキ文庫
 文庫版は未見。268頁の次(裏は白紙でその次が奥付)に、明朝体太字で小さく中央下寄せ「(日本経済新聞一九九七年五月一日~三十一日連載「私の履歴書」に大幅加筆)」とある。
『田辺写真館が見た ”昭和” 』
・四六判上製本(二〇〇五年五月十五日第一刷発行・定価1857円・文藝春秋・229頁)
田辺写真館が見た”昭和”

田辺写真館が見た”昭和”

・文春文庫
田辺写真館が見た“昭和” (文春文庫)

田辺写真館が見た“昭和” (文春文庫)

 文庫版は未見。229頁の次、奥付の前の頁に明朝体で小さく中央下寄せ「初出 月刊『文藝春秋』二〇〇三年一月~二〇〇四年十月号」とある。
 確かにどちらにも、赤マントに関する記述はないようである。ありそうなところしか見ていないのだけれども。
朝の連続テレビ「芋たこなんきん 2006年10月2日~2007年3月31日放映(全151回)
芋たこなんきん―連続テレビ小説 (NHKドラマ・ガイド)

芋たこなんきん―連続テレビ小説 (NHKドラマ・ガイド)

NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」

NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」

NHK連続テレビ小説『芋たこなんきん』上巻

NHK連続テレビ小説『芋たこなんきん』上巻

NHK連続テレビ小説『芋たこなんきん』下巻

NHK連続テレビ小説『芋たこなんきん』下巻

 毎回見られる環境になかったが、飛び飛びでも面白がって見た記憶がある。その当時『田辺写真館が見た ”昭和” 』を見て、田辺氏の両親の見た目がかなり美化されていることに驚いた記憶もある。しかし、赤マントが作中の話題になっていたような記憶はない。まぁ全部見た訳ではないからノベライズ本で確認する必要がありそうだが。――いや、今度、「ゲゲゲの女房」の次にでも夕方16時20分からの再放送枠で流してくれないだろうか。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 従って、田辺氏は赤マントについて特に何も書いていないのだろう、と思っていたのだが、確かに田辺氏は赤マント流言を体験していて、実はそれを、初期の小説に書いていたのであった。
 なお『全集』年譜作成者の菅聡子(1962.8~2011.5.14)とは、もちろん面識などないのであるが、シンポジウムの司会をしているのを見て、1度だけなのだけれどもその印象が、今でも妙に残っているのである。(以下続稿)

赤いマント(180)

山中恒『戦争の中の子どもたち』(2)
 前回、本書の赤マントに関する記述が延吉実『司馬遼太郎とその時代 戦後篇に引用されているのを見た。そのついでに、2013年12月30日付(70)に若干の補足訂正を加えて置くこととしたい。
 その前にまづ、2013年12月30日付(70)に貼付出来なかった書影を示して置こう。

山中恒『ボクラ少国民
・四六判上製本(辺境社)
ボクラ少国民 (1974年)

ボクラ少国民 (1974年)

・一九七四年一一月二〇日 初 版 発 行/一九八〇年 七 月二〇日 初版七刷発行・定価1800円・378頁
講談社文庫
ボクラ少国民 (講談社文庫)

ボクラ少国民 (講談社文庫)

 文庫版は未見。――この本に、平塚に転居した辺りの事情がより詳しく述べてある。単行本1~114頁「Ⅰ 天皇陛下ノ赤子タルコト」の、60頁11~18行め、

 平塚市へ転居したのは一九三九年の三月であった。転居の理由は、男手の無い家族にとって、何か/と労働力を必要とする雪国の北海道よりも、温暖な湘南の小都市の方が暮し易いだろうという判断も/あったが、何よりも北京の父からの郵便物を一日でも早く受け取れるという単純な地理的条件を満す/だけの理由による転居であった。だから、土地柄などについては殆ど調べもしなかった。と言っても/盲滅法に選んだのではなく、ぼくにとって父方の従兄がいたことが唯一の手掛りであった。
 転校したのは、平塚市平塚第二尋常小学校(現・平塚市港小学校)で、須賀という所にあった。実際/に登校して授業を受けるようになったのは四月で、二年男子白組へ編入された。小樽の稲穂小学校と/は違い、全校男女別の学級編成で、それぞれ四〇名見当の男女二組づつ一学年四学級であった。


 『戦争の中の子どもたち』では分からなかったが、山中氏が登校し始めたのは昭和14年(1939)4月、新年度からだから、前回推定した時期よりも後、2年生になってから赤マントの噂を耳にしたことになろう。そうすると、或いはもはや流言ではなく、幾つかの学校で指摘出来るらしい、流行後もそのまま便所に居付いてしまった赤マントだったのかも知れない。
 須賀という土地については86頁2~13行め、

 そのころ、須賀という町は、一般には漁師町といわれており、さびれつつあったが、馬入川(相模/川)口には須賀港があった。さびれた原因は、一九二三年の関東大震災によって、河床が極端に上昇/し、港としての機能が大幅に低下させられてしまったからである。それ以前の馬入川の水量は多く、/須賀港は単に漁港としてばかりではなく、上流の神奈川県中部北部、高座郡、愛甲郡、津久井郡等の/木材を始め、農産物の集散運搬港として、また横浜港への中継港としても、相模湾一帯の中心的役割/を果していた。現在の相模原市の古い写真を見ると、就航する須賀の帆掛船が写っている。そうした/こともあり、ぼくらが転居したころは、まだ地引網漁の収穫もあったし、網元や海産物問屋もそれら/しい構えを張っていた。庭に漁網をテントのように張って干した家や、魚を入れる屋号入りの木箱を/山のように積み上げてある家も珍しくなかった。平塚は東海道線で東京から一時間半ばかりであった/が、苗字より屋号の方が通用する極めて排他的な、地方色の強い漁師町であった。だから、ぼくのよ/うに、町はずれの新開地に越して来たものが余所者としての扱いを受けるのが当然のような土地柄で/あった。

と説明されている。かつて須賀が栄えたについて私に思い合わされるのは、2017年12月14日付「手で書かずに変換する(4)」に述べた、横浜市立中央図書館等にて昔話の文献を渉猟していた頃に閲覧した小島瓔礼『神奈川県昔話集』全2冊や、これを改編した全国昔話資料集成35『武相昔話集』(岩崎美術社)に載っていた「須賀の素っ頓狂」と云う、頓智話と愚か村話の混ざったような笑話である。須賀を中心とする神奈川縣中郡須馬町は昭和4年(1929)に平塚町に併合され、昭和7年(1932)市制施行の平塚市の一部となっていたが、当時は今のように平塚と須賀の市街地が連続しておらず、いづれそこを埋めることになる「町はづれの新開地」が存在した。そして港小学校も、その新開地に校地が造成されたのであった。(以下続稿)

赤いマント(179)

・延吉実『司馬遼太郎とその時代』(4)
 『戦後篇』140~196頁「第4章 難波塩草」、169頁13行め~183頁7行め「3 難波塩草尋常小学校 Ⅰ」の節、赤マントについての記述の今回は後半、174頁12行めから175頁4行めまでを見て置こう。引用は2字下げで前後1行分ずつ空けてある。なお傍点「ヽ」は再現出来ないので仮に傍点を打たれている文字を太字にして示した。

 男児には絶大な人気を誇った紙芝居のヒーロー黄金バットも、剣をふりかざして悪と戦う姿が、女/児には恐ろしく感じられたのだろうか。それとも、正義の味方黄金バットを僭称する男子組の悪童ど/もが、か弱き少女らにセクハラまがいの意地悪行為に及んでいたという話かもしれない。
 筆者は便所の赤マントの話を、義母をはじめ定一と同世代の女性たちから聞いている。山中恒/『〔図説〕戦争の中の子どもたち――昭和少国民文庫コレクション』(河出書房新社、一九八九年)の次【174】の一節を読んで、が解けたような気がした。

 その頃、学校でも、便所に赤マントが出て、女の子をさらうなどという流言があった。内務/省の「特高月報」にも、流言蜚語として、これが登場する。*1
                                     (二三ページ)


 赤マントと黄金バットの関係については、当ブログでも見て来た通り複数の人によって示唆されている。当然何らかの影響を与えていただろうが、昭和14年(1939)と云う時点で赤マント流言を発生させる要因と見做し得るだけの何かインパクトのある動きがあった訳ではなさそうだ。素地となったと云うべきであろう。
 さて、延吉実(本名・藤田佳信)の義母については、104~139頁「第3章 失われた町を求めて」、104頁2行め~113頁2行め「1 赤手拭稲荷から鼬川へ」の、112頁4~7行めに、直前の子守唄の引用(111頁15行め~112頁3行め)に続いて、

 右は、大阪で古くから親しまれた子守歌である。もとは、江戸時代から伝わる木挽き歌の節回しで/歌われたとも聞く。一九九九年(平成十一年)に病没した筆者の義母菅野亮子*2(一九二二年〔大正十一年〕生まれ)は、子どものころに聴いた印象を記憶していた。この子守歌を祖母に低い声で歌われる/と、限りなく物悲しく、それゆえになんとも恐ろしい感じがするものだと、義母は話していた。

とあり、また「第4章 難波塩草」の同じ節、177頁5行めに、

 筆者の義母菅野亮子は、一九三五年(昭和十年)から四〇年まで大正区の泉尾*3女学校に通っていた。/‥‥

とある。すなわち延吉氏の義母は、大阪府立泉尾高等女学校(現・大阪府立泉尾高等学校)の5年生の昭和14年(1939)6~7月に、大阪に広まった赤マント流言に接したのだと思われる。(以下続稿)

*1:ルビ「りゅうげん・ないむ/しょう・とっこうげっぽう・ひご」。

*2:ルビ「すがのあきこ」。

*3:ルビ「いずお」。

赤いマント(178)

・延吉実『司馬遼太郎とその時代』(3)
 赤マントの記述は、『戦後篇』140~196頁「第4章 難波塩草」の、169頁13行め~183頁7行め「3 難波塩草尋常小学校 Ⅰ」の節、司馬氏が入学・卒業した小学校についての司馬遼太郎(本名・福田定一)のエッセイの短い記述に対する、延吉氏の長い注釈に見えている。171頁5行めから抜いて見よう。引用は2字下げで前後を1行分ずつ空けている。

この一帯に小学校が八つばかりあって、私が就学したのはそのうちの難波第五塩草尋常小学校と/いう、レンガ敷きのそれこそ猫のひたいのようにちっぽけな運動場をもつ学校だった。
                  (「年少茫然の頃」『司馬遼太郎の世紀』所収、一〇六ページ)

 難波小学校創立百十周年記念事業委員会『難波 難波小学校百十年の栄光』(大阪市立難波元町小学校、一九八七年)に、右引用文中の八つの小学校の沿革が記録されている(六五―八ページ)。難波の/小学校は、第一から第九まで九校あった。そのうちの難波第八尋常小学校が、一九二一年(大正十年)/に難波高等小学校と改称され、定一の小学生時代には「第八」が抜けて、尋常小学校は八校になって/いたようだ。
 同記念誌によれば、定一の「第五」、難波第五尋常小学校の創立は、一九〇七年(明治四十年)五月/一日。六年生までそろった一〇年(明治四十三年)の三月の時点で、すでに二十学級・生徒数千二百/九十一人であったという。校地坪数は千三百十二坪、校舎坪数は六百三十四坪である。以上は、一三年/(大正二年)発行の「大阪の公人」(大阪府中之島図書館蔵)にもとづくものだ。一三年で児童数が千【171】七百八人だというから、一〇年からかぞえて、わずか三年ばかりで児童数は四百余人増加したことに/なるだろう。
 校名は、定一が生まれる以前の一九二一年(大正十年)に、難波塩草尋常小学校と改称された。し/かし塩草地域では、昭和に入ってからもずっと「第五」と呼びならわされていたようだ。


 172頁4行めまで抜いて見た。なお、この小学校は同じ校地に現存しているが本書刊行当時、大阪市立塩草小学校であった校名は、その後「難波第二尋常小学校」であった大阪市立立葉小学校を統合したことで、大阪市立塩草立葉小学校となっている*1
 続いて173頁12行めまで、「その時代」の象徴として二宮金次郎像について解説がなされている。そして173頁13行めから司馬氏のエッセイに見える「運動場」について、14~15行め「児童らは「遊び場」/と呼んでいたらしい」として、174頁6行めまで『難波小学校百十年の栄光』の座談会「難波小学校を語る」から元教職員や卒業生の発言を引いて「レンガ」について解説している。
 そして174頁7行め~175頁4行めに赤マントに触れているのだが、今回は前半、174頁11行めまでを見て置こう。

「遊び場」の東、雨天体操場の裏に、南北に長い生徒用の便所があった。訓導(教員)用のトイレは、/校舎二棟それぞれの東階段横に設けられていた。生徒用便所は、冬の夕暮れどきなど、「赤マント」/が出現するというので、女生徒たちに随分と恐れられていたのだという。しかしそれが、その年(一九三〇年(昭和五年))の初冬に登場した骸骨男「黄金バット」ならば、児童に恐怖感を与えたのは納/得しにくい。黄金バットは、正義の味方だったからだ。


 この「赤マント」出現の記述は、典拠が示されていない。文脈からして座談会「難波小学校を語る」に、このような卒業生の発言があったのだろうと思われるが『難波小学校百十年の栄光』を見ないことには確定させられない。気になるのは昭和5年(1930)を「その年」と呼んでいることである。
 大阪で赤マント流言が流行った昭和14年(1939)6~7月よりも前に、単発で赤マントの話が発生していた学校があった可能性も否定は出来ない。しかしながらこれは、「その年」昭和5年にこのような話があったのではなくて、173頁6~7行めに「定一が小学校に通うのは、大恐慌の一九三〇年(昭和五年)から、二・二六事件が起こる三六年/(昭和十一年)までの間だ。‥‥」とある、司馬氏の在学期間の1年めに、以前からトイレに棲み付いてずっと出没していた(と延吉氏は思っているらしい)「赤マント」の噂に、司馬氏は初めて遭遇することになったはずだと考えて「その年」と書いたのではないか、と思われるのである。しかしこれも『難波小学校百十年の栄光』を見ないことには単なる憶測にとどまる。
 一度、大阪府兵庫県阪神間及び神戸)そして京都市辺りの図書館で資料を渉猟するべきであろうか。

難波小学校百十年の栄光 大阪市立難波小学校創立百十周年記念誌

難波小学校百十年の栄光 大阪市立難波小学校創立百十周年記念誌

 注文すればすぐに入手出来るのだけれども。(以下続稿)

*1:私はこの名称を合併させて存続させる方法には賛成しない。書類や学区・生徒は引き継ぐとしても、名前は綺麗に、隣の学校と混ぜたりせずに、歴史上の存在となってしまえば良いではないか。変な形で名前が残るよりも、純潔(?)を保って消えてくれた方が余っ程有難い。(※個人の意見です。)

赤いマント(177)

・延吉実『司馬遼太郎とその時代』(2)
 本書は6月1日付(176)に示したように、全2巻であるが、1冊めの『戦中篇』311~313頁「おわりに」の末尾近く、312頁17行め~313頁1行めに、

司馬遼太郎とその時代』は、戦前・戦中・戦後の三部構成(全三巻)で構想していた。すべて書き/下してからと思っていたが、構想は多少変化し、結果的には「戦中篇」から逐次刊行することになっ【312】た。

とあって、313頁3行め「二〇〇一年十二月」の時点では(全三巻)の予定であった。
 しかし『戦後篇』305~306頁「おわりに」の末尾近く、306頁11~12行め、

司馬遼太郎とその時代』は、当初「戦前篇」を予定していたが、構想は叙述スタイルの都合で多少/変化し、戦前期の記述内容は、「戦中篇」「戦後篇」それぞれに分散したかたちで収まっている。

とあって、14行め「二〇〇三年八月」には全2巻で完成しているのである。
 私は前回書いたように、司馬遼太郎(1923.8.7~1996.2.12)の作品はあまり読んでおらず、伯父が愛読していて、軍隊の宿舎の便所の数まで調べて書いているのを称賛するのを聞いて、それは凄いことなのか、と却って尻込みしてしまい、司馬氏は私の修士課程まで存生していて、雑誌の連載、例えば「週刊朝日」の「街道をゆく」を他の連載を見るついでに眺めたことがあり、また父が「文藝春秋」を買っていたので「この国のかたち」を見ることもあったのだが、毎週・毎月心待ちにして、と云ったことにはならなかった。
 だから『戦中篇』から順に読むようなこともなく『戦後篇』から読んで、ようやく赤マントの記述がある辺りまで来たのだが、――確かに戦前の記述が多い。それは、司馬遼太郎(本名・福田定一)の、生い立ちや作家デビューするまでの経歴を述べたエッセイやインタビューに、矛盾や明らかな虚偽のあることを指摘し、それらが書かれた戦後から戦前に遡って、当時の関係者や地域資料に当たって検証しているからなのである。
 この、複数の証言の矛盾を取っ掛かりにして検証して行く辺りは、非常に興味深く読んでいるのだけれども、しかしそれにしても、私は司馬氏に対する思入れがないことに改めて気付かされたのである。高校・大学と、周囲に司馬氏の作品の愛読者がいたけれども、私は司馬氏のことは彼等に任せて置けば良い、くらいの気分で、自分でも読んで見ようとは思わなかったのである。
 だから司馬氏本人とその作品について、当ブログで取り上げることは今後も多分ありません。赤マントも、司馬氏が赤マントの騒動を回想した文章を書き遺しているとか、インタビューで語っていたとか云うことではなくて、司馬氏の卒業した小学校にも赤マントの話があった、と云うことなので、肝腎の司馬氏やその友人たちが赤マントの流言に遭遇し、どのような対応をしたのか、司馬氏も私立上宮中学校4年生のときにこの流言を耳にしたろうと思われるのだが、そう云う話にはなっていないのである。(以下続稿)

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(94)

・TBSラジオ東京RADIO CLUB 編『東京ミステリーとっておきの怖い話』(4)
 一昨日からの、以下3点の比較の最後。
〔3〕子供の疑問
【A】「民話と文学の会かいほう」No.50(1987.7)大島広志「父の背中」
     →『ピアスの白い糸』(1994.11)167頁3~5行め

・・‥。それから何日か後に、父親と長男が夕飯を食/べているときに、長男がぼそっと言いました。
「お父さん、どうしてお母さんしょってるの?」

【B】講談社KK文庫『学校の怪談2』(1991.8)常光徹「おとうさんの肩」171頁2~5行め

 それから何日かあとのことです。*1
 父親と男の子が、さびしく夕食をたべているとき、男の子が、ぼそっといいまし/た。*2
「おとうさん、どうしておかあさんをしょってるの?」


 170頁の挿絵は手前に男児の後頭部、耳の高さから下を刈り上げたオカッパ頭で、右に右手、左に米飯をよそった茶碗が見える。食卓を挟んで向いに丸眼鏡の神経質そうな30歳くらいの男性、額が秀でて真ん中で分けて撫で付けた頭髪が、左右に幾筋か額に垂れている。左手に米飯を持った茶碗を手に、右手に持った端は焼魚の身を摘まんでいる。残された魚の頭の近くに醤油差しがあある。右手の近くに塗りの汁椀、眉毛は半ば眼鏡に隠れるくらい眉と目の間が狭い。レンズが光っているのか、眼差しは分からない。口は少し開いて歯が覗いている。背景は上と下は黒で、その間に靄のようなものが流れている。ちょうどその中に、男性の右後ろ、右耳に何か囁くかのように髪も瞳も全て白い、線だけで描かれた女性が顔を見せており、口から下は男性の右耳の後ろに隠れている。そして両肩にやはり白い手が掛かっている。ちょっと控え目な負ぶさり方である。
【C】「東京ミステリー」(1992夏)O・Sさん「お父さんの背中」218頁12行め~219頁8行め

 翌日、男の子がキャンプから帰ってきましたが、母親のいないことにも慣れているので/何もいいません。
 父親はいつ子供にお母さんのことを聞かれるかとビクビクしどおしでした。でも二日た/っても、三日たっても、そして一週間たっても子供は何もいいません。
 とうとう父親は良心の呵責に耐えかねて、息子にだけは本当のことを話そうと思いまし【218】た。
「話したいことがあるんだよ……」
 父親は息子にそう声をかけると、息子は、
「ボクもお父さんに聞きたいことがあるよ」
 といいます。
 父親は、もう覚悟を決めました。どちらが先に話をするか、しばらくもめましたが、息/子のほうから聞くことになると、彼ははっきりこういったのです。
「お父さん、どうして、お母さんをずっと背負ってるの?」


 何故、大島氏が【C】【B】の「転用でありながら」と述べたのか分からないが、恐らく不十分なメモのみで【C】を確認することなく書いてしまったとしか思われない。恐らく他にこんなことを確認しようと思う者もいないだろうから、O・Sさんに代わって【C】【B】剽窃ならざること、ここに雪冤を果たして置く次第である。――O・Sさんが大島氏の記述に気付いたかどうかは分からないが、もし気付いたとして、私がO・Sさんだったら、悔しくて一晩は眠れなかっただろうから。
 この【C】の話は、2018年8月19日付(36)に触れた、日本の現代伝説『ピアスの白い糸』の大島広志「Ⅳ 家族」の3節め「父の背中」の、類話として挙げた3話に近い。類話の子供の台詞は、前半に異同があるが後半はいづれも「‥‥お母さんをおんぶしているの?」となっており【C】はここのみ【B】の方に似ている。或いは、この発言のメモのみで「転用」と判断したのだろうか。
 とにかく【C】は大島氏の述べる「一九九〇年代に入り、‥‥、ケンカと父子問答を獲得し、一つの強力な型として定着しつつある」例として位置付けるべきで「おんぶ」の語はないものの【B】の直接の影響は認められない。むしろ責められるべきは、話が新しい段階に進もうとしているところに改めて一段階古い話型を児童書という「強力な」メディアによって投げ込んだ【B】の方だろう。不自然な波紋を起こさせる行為だとしか思われないのである。
 ちなみに、6月7日付「東京RADIO CLUB「東京ミステリー」(4)」に引いた「はじめに」の続き、4頁13~16行めには、

 また、シチュエーションに多少の違いはあるものの、まったくといっていいほどおなじ/話が、全国のかけはなれた地域から寄せられてくることもあります。
 本書に収めた『お父さんの背中』はその好例で、「怪談話」がどんなルートで伝わり拡/がっていくのか、そんなことにも興味をもたされてしまいます。

とある。この点について、当時「強力な型として定着しつつあ」った【C】の話型も多く報告されていたであろうが、その一方【B】の話型がどのくらい報告されたのか、それがどの程度、常光徹学校の怪談2』に載る【B】に近い(それこそ「転用」である)のか、確認出来ておれば本当にさまざまな「メディアの中で増幅され世に広まっている」ことの検証例になったと思うのだが、27年前の投稿はもう残っていないだろうか。しかし、折角このような興味を表明していたラジオ番組のスタッフがいたのだから、民俗学者との協同作業が当時実現しておれば面白かったのに、とつくづく思われるのである。(以下続稿)

*1:ルビ「なんにち」。

*2:ルビ「ちちおや・おとこ・こ・ゆうしよく・おとこ・こ」。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(93)

・TBSラジオ東京RADIO CLUB 編『東京ミステリーとっておきの怖い話』(3)
 昨日からの、以下3点の比較の続き。
〔2〕事件
【A】「民話と文学の会かいほう」No.50(1987.7)大島広志「父の背中」
     →『ピアスの白い糸』(1994.11)167頁2~3行め

・・‥。父親もノイローゼ気味になったとき、/母親を殺して台所の床の下に埋めてしまいました。‥‥

【B】講談社KK文庫『学校の怪談2』(1991.8)常光徹「おとうさんの肩」169頁12行め~171頁1行め

・・‥、とうとう父親までノイローゼぎみになりました。*1
 ひどいつかれと不安がかさなった父親は、ある晩、母親を殺して、台所の床の下【169】にうめてしまいました。*2


 170頁は挿絵で、結末を描いたものなので次回紹介する。
【C】「東京ミステリー」(1992夏)O・Sさん「お父さんの背中」218頁1~11行め

 その夜は、男の子は幼稚園のキャンプで家にいませんでした。
 子供がいないせいもあって、この日の夫婦喧嘩はいつもよりエスカレートしていきまし/た。ふたりは口汚なくののしりあいました。見ると妻は鬼のような形相になって夫に詰め/寄っています。夫はそんな妻を見て、ついカッとして、手にもっていた花瓶を振り下ろし/てしまいました。
「ガツン」
 鈍い音とともに、妻はその場に崩れるように倒れてしまいました。口からは泡のように/血が溢れています。
 夫は慌てて駆け寄りましたが、もう息をしていませんでした。
 しばらく考えこんでいた夫ですが、決心したように死体を運ぶと、その家の床下に埋め/てしまったのです。


 母親を殺したときの状況が細かくなっている。子供の外泊中に喧嘩がエスカレートした、と云う設定は2018年8月22日付(39)の最後に書き添えたテレビ朝日金曜ナイトドラマ「dele」第4話(2018年8月17日放映)が同じで、或いはこの手の話の影響を受けているのではないか、と想像を逞しくしてしまった。(以下続稿)

*1:ルビ「ちちおや」。

*2:ルビ「ふあん・ちちおや・ばん・ははおや・ころ・だいどころ・ゆか・した/」。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(92)

・TBSラジオ東京RADIO CLUB 編『東京ミステリーとっておきの怖い話』(2)
 昨日の続きで、まづ二見WAi WAi文庫『東京ミステリーとっておきの怖い話』について、一昨日までと同じの要領で取り上げる話の題と投稿者を示して置こう。第六章「語りつがれてきた戦慄の怪奇譚」の4話め、217頁6行め~219頁8行め、
【54】お父さんの背中―――O・Sさん(十五歳)
と冒頭の行にある(番号は整理のために仮に付した)。
 これを大島氏が「転用」元とする常光徹学校の怪談2』の4章め、146~179頁「友だちからきいたこわい話」12話中9番め、169頁4行め~171頁5行め「おとうさんの肩」、それから常光氏の「再話」元である、2018年8月19日付(36)に要約等を示した、日本の現代伝説『ピアスの白い糸』155~177頁、大島広志「Ⅳ 家族」の3節め「父の背中」の例話とも比較して見よう。
【A】「民話と文学の会かいほう」No.50(1987.7)大島広志「父の背中」
     →『ピアスの白い糸』(1994.11)166頁15行め~167頁5行め
【B】講談社KK文庫『学校の怪談2』(1991.8)常光徹「おとうさんの肩」169頁5行め~171頁5行め
【C】「東京ミステリー」(1992夏)O・Sさん「お父さんの背中」217頁7行め~219頁8行め
 仮に【A・B・C】とする。【A】の初出誌は2016年12月22日付「大島廣志 編『野村純一 怪異伝承を読み解く』(1)」等に述べたように一般人が目にする機会はないと云って良い。だから【C】の「転用」元はまづ【B】と云うことになるはずである。【C】は書籍の刊年ではなく5月29日付東京RADIO CLUB「東京ミステリー」(2)」に確認したラジオ番組「岸谷五朗の東京RADIO CLUB」に「東京ミステリー」のコーナーがあった時期で、【B】2017年1月23日付「常光徹『学校の怪談』(005)」に見たように、ちょうどその1年前に刊行されており、まさに「時系列の完璧な一致」を見せる。
 それでは以下、話の要素ごとに区切って比較して見よう。
〔1〕家族構成と夫婦が不和になるまで
【A】 166頁15行め~167頁2行め

 あるところに平凡な四人家族が住んでいました。長女は三歳、長男は二歳になったばかりでし/た。ところが、ある日、母親がちょっと目を離したすきに、長女が車にひかれて死んでしまった【166】のです。母親は自分の責任だと思い込んだあまり、ノイローゼになってしまいました。父親は長/男の世話ばかりか、母親の世話までしなければなりません。‥‥

【B】 169頁5~12行め

 あるところに、平凡な生活をおくっている家族がいました。*1
 両親と三歳の女の子、それに二歳になったばかりの男の子の四人ぐらしです。*2
 ある日、買いものにいった帰り、母親がちょっと目をはなしたすきに、女の子が/車にひかれて死んでしまいました。*3
 母親は、自分の責任で娘をなくしてしまったショックでノイローゼになり、ねこ/んでしまいました。*4
 父親は、母親の世話とともに、子どものめんどうまでみなければなりません、そ/のうち、‥‥*5

【C】 217頁7~13行め

 昔、ある夫婦が仲良く暮らしていました。かわいい男の子も生まれて楽しい日々がつづ/いていたのですが、子供が五歳になったころから、夫婦のあいだには少しずつ溝ができて/きました。
 夫はほんの少しのことで妻にあたり、妻の表情もだんだん暗くなってきました。
 男の子もそんな両親の気配を察してか、ひとりで黙って遊ぶことが多くなりました。
 妻は、ときどき友達の家に行ったり、実家に帰ったりすることが増え、そんなときは、/父親と男の子だけが家にいます。【217】


 【B】【A】の再話(と云っても体裁を整えた程度)であることは分かるが【C】はまづ、家族構成が違う。【C】は一人っ子だから子供の死が不和の原因になっていない。とにかく、この導入部だけでも、大島氏の【C】【B】の「転用でありながら」との主張は、何かの間違いとしか思われないのである。(以下続稿)

*1:ルビ「へいぼん・せいかつ・かぞく」。

*2:ルビ「りようしん・さい・おんな・こ・さい・おとこ・こ・にん」。

*3:ルビ「ひ・か・かえ・ははおや・め・おんな・こ」。

*4:ルビ「ははおや。じぶん・せきにん・むすめ/」。

*5:ルビ「ちちおや・ははおや・せわ・こ/」。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(91)

・TBSラジオ東京RADIO CLUB 編『東京ミステリーとっておきの怖い話』(1)
 昨日まで、二見WAi WAi文庫『東京ミステリーとっておきの怖い話』を取り上げて、60話中10話を紹介して見た。
 ここまでは実は、前置きみたいなものである。――私がこの本を確認したいと思ったのは、2018年8月21日付(38)に引いた、日本の現代伝説『ピアスの白い糸』155~177頁、大島広志「Ⅳ 家族」の3節め、166頁14行め~172頁10行め「父の背中」の最後のコメントに言及されていたからである。
 私は、この大島氏の言い分に、少し引っ掛かったのである。該当箇所を再録して置こう。

 「父の背中」の類話は他に、常光徹学校の怪談2』(講談社)、TBSラジオ編『とっておきの怖い話』(二見文庫)にも収められている。『学校の怪談2』の「おとうさんの肩」は例話の再話。『とっておきの怖い話』の「お父さんの背中」は『学校の怪談2』の転用でありながら、「十五歳のO・Sさんの投稿」として収録されている。「父の背中」は、メディアの中で増幅され世に広まっているというのが現状といえよう。

と云うのだけれども、仮に酷似しているとしても、怪談を(一応『ピアスの白い糸』は研究書っぽい体裁だけれども講談社KK文庫『学校の怪談』は児童書として)商品として扱っている点では選ぶところがないにも拘らず、何でこんな居丈高な言いようをするのだろう、と思ったのである。すなわち、2013年4月12日付「常光徹『学校の怪談』(003)」に引いた、「幻想文学」第60号に掲載された座談会「幻想文学、この七年を振り返る」に於ける、小池壮彦の批判がそっくり当て嵌るケースなのに、と思ったのである。
 2011年5月9日付「岩本由輝『もう一つの遠野物語』(6)」の付け足りにも述べたが、私が院生時代の平成8年(1996)に母校の中学に教育実習に行ったとき、生徒たちの一部は講談社KK文庫『学校の怪談』にどっぷり浸かっているようであった。それから今年1月、久し振りに機会を得て、怪談について高校3年生の女子に、どのような場で怪談を語り、聞き、そして仕入れているのか、2時間弱であったが聞き取り調査することが出来た。詳細は別に報告することにするが、小学校の高学年の頃、毎日昼休みに数人の友人と屋上に通じる階段(もちろん扉は施錠されている)の踊り場に集まって、怪談を語り合っていたと云うのだが、ネタもそんなに続くものでない。そこで、当時、本だけでなくアニメも放映されていて流行っていた『怪談レストラン』*1で覚えた話を使ったこともあったそうだ。友人も、本で仕入れたらしい話をすることがあったそうだ。――昔話の伝承でも、口承だけでなく書承すなわち書物で知った話を語ったものが定着したケースがあることは夙に知られているはずである。
 だから「メディア」の影響力を認めるような書き振りをしながら、「お父さんの背中」については「転用でありながら」と決め付け、「十五歳のO・Sさん」の投稿が剽窃であるかのような書き方をしているのが、どうにも引っ掛かったのである。剽窃ではない可能性も大いにある。すなわち、友人が『学校の怪談』を読んで知った話を典拠を伏せて語り、それを「O・Sさん」が投稿すれば、直接転用していなくてもそっくりになる道理である。いや、仮にO・Sさんが自分の投稿を岸谷五朗に読んでもらいたいと思って、剽窃と云う意識もなく『学校の怪談』から転用してしまったのだとしても、そもそも子供や若者が語っている話を商品にして売っている民俗学者に、そんな批判をする権利があるのか、と思うと、何だか腹立たしくて堪らなくなって来たのである。
 しかし批判をするにしてもとにかく一度、二見WAi WAi文庫『東京ミステリーとっておきの怖い話』を見て置くべきで、これを講談社KK文庫『学校の怪談2』と比較した上で、大島氏の判断の是非を確認しないといけない、と思ったのでした。要らぬ義憤と云うべきですけれども。(以下続稿)

*1:これに常光氏も大島氏も関わっている。

東京RADIO CLUB「東京ミステリー」(09)

 一昨日(及び昨日)の続きで、TBSラジオ東京RADIO CLUB 編『東京ミステリーとっておきの怖い話』二見WAi WAi文庫)について、最後の章からまづ1話、最後を取り上げて見る。
・第六章 語りつがれてきた戦慄の怪奇譚(1)
 「目次」の10頁1~11行め、章題に続いてやはり10題。
 203頁(頁付なし)がこの章の扉。「語りつがれてきた」とあるように、何処の誰の体験とも知れない、何処かで聞いたことのあるような話が7話、本人の体験談と云うことになっているのは1話だけ、他に友人の体験談と云うことになっているもののやはり何処かで聞いたことのある*1話が1話、そしてもう1話は友人の通っている御稽古事の教室で先生が体験したこととしながら現実には絶対にあり得ない話なのである。この、知合いの話2話は、ともにそのまた友人や同じ教室の生徒だった人が行方不明になっている、と云うオチなのだけれども、今だったら個人が端末で写真を持ち歩いているから、行方不明になった子がいるなんて話をされても、写真を見せろ、と突っ込めば良さそうである。しかし当時は、2017年10月16日付「手塚治虫『ブラック・ジャック』(8)」に述べたように写真が手軽ではなかった。カメラは掌サイズの小型のものが増えて「写ルンです」のようなものまで出ていたが、それでも構えて撮るのだから原則として断って撮っていた。だから余程写真好きの友人でもいない限り、旅行や行事など改まった場でしか写真は撮らなかったと思う*2。隠し撮り用のカメラもあったろうとは思うが、仮にそんなもので撮ったとしても現像に出して*3、そこで妙な写真は弾かれてしまう可能性が高い。だからそこをスルー出来る写真部員が、それだけで何だか如何わしく思われていたのである。――今や、誰もが不適切動画を上げられるようになってしまったのだけれども。
【60】見たな……―――H・Aさん(十七歳) 238~242頁
 題を見ただけで「あの話だな」と察せられるが、その通り「あの話」なのである。だから注目すべきは設定と云うことになろう。
 冒頭、238頁2~6行め、

 ある大学に男子寮と女子寮がありました。手前が男子寮、そしてその五百メートルほど/先に女子寮があり、そのままずっと先に進むと山があって、そこには墓地があります。
 その寮に住むH君は、ある日を境に学校に行かなくなってしまいました。おなじ部屋の/J君が心配して、何度も「学校へ行こう」と誘うのに、H君は布団に潜りこんだまま返事/もしません。


 これがただの引籠りではなかった訳なのだけれども、「ある日」に至るまでに何があったのかは、この先を読んでも説明されない。なお、当時はまだ引籠りとは云わずに不登校と云っていた。
 「ある晩」J君は「物音に気づいて目ざめ」「H君が部屋を出ていくのを見てしま」った「が、〈トイレにでも行ったのかな?〉と、そのまま眠ってしま」う。「ところが」それが毎日である。その説明に「つぎの日」が4日出て来るから「さすがに気になったJ君」が「思いきって聞いてみ」たのは6日めの朝と云うことになろう。「別に……」と答える「H君の顔は、まるで何かにとりつかれたように真っ青で、妖気すら漂」わせている様子に「J君は自分の額から脂汗がにじみ、寒気が走るのを感じ」る。
 「その晩」「どうしても納得できないJ君は」「H君のあとをつけ」ると「H君は、脇目もふらず、女子寮のほうに向かって歩いてい」く。ここで「女子寮」の存在が説明されていた理由が分かる。〈なんだ、女に会いにいくのか……〉と一時的に安心させるために。もちろん「女子寮を通りすぎ」てしまうのだが、J君はまだ〈へんだなあ。向こうには墓しかねぇのに……。墓場でデートなんて変わっているよな〉と、最初の思い付きに引き摺られていて、墓地に入って「急に雲が出てあたり」が「暗くな」っても〈くそっ、これからが本番なのに、Hが見えねぇよ〉などと思っているのだ。このHは「H君」のHなのだろうけれども、行為を指すHのようでもあり、ややこしい。或いはそこを狙ってHと云うイニシャルにしたのだとすれば、なかなかのセンスである。
 ところが「墓石を動かしているような音が聴こえはじめ」たかと思うと「今度は」「何かをなめるような音が聞こえて」くる。前者は「ゴォ……、ゴォ……」、後者は「ジュル……ジュルルル……」と云う擬音である。そしてお定まりのシーン、240頁4~10行め、

 その瞬間、月の光がH君の姿を露わにしました。なんと、H君は墓を暴いて、なかの骨/をしゃぶっていたのです。
 それを見たJ君は顔をひきつらせ、その場から逃げようとしました。そして一歩足を踏/み出したとき、足もとの枯れ草が「ガサッ」と音をたててしまいました。H君はビクッと/肩を震わせると、ゆっくり振り向き、J君に向かって、
「見たな……」
といったその声は、とてもこの世のものではありません。‥‥


 241頁の挿絵は闇夜に黒い墓石や卒塔婆が並び、右下に目を剝いて右手につかんだ骨を、しゃぶると云うより噛んでいる男の顔が、月光を浴びて妙にテカッたような按配で描かれる。
 さて、「死にもの狂いで寮に走」って戻ったJ君は「自分の部屋に鍵をかけると、頭から布団をかぶってブルブル震えつづけ」る。「夜が明け、H君が戻ってくる気配もな」いので「ほっとしたJ君は」事情を説明するため「寮長の部屋を訪ねることにし」て、「その前にトイレに行」く。そこで結末、240頁14行め~242頁2行め、

 ・・‥。そして、トイレのド/アを開けたとたん、
「ギャー」【240】
 J君の悲鳴が寮じゅうに響き渡りました。
 あのH君が、かっと目を見開いたまま、トイレのなかで首を吊って死んでいたのです。

となっている。
 さて、この手の話については2011年8月21日付「明治期の学校の怪談(5)」にて検討したことがある。但し細かい比較検討には及んでいないので、一度「骨しゃぶり」の理由や、結末がこの話のように自殺か、或いは行方不明か、そしてその直前に寮に戻って来た同部屋の者に再度驚かされる場面があるかないか、などについても、一通り見て置きたいと思っている。(以下続稿)

*1:私は聞いたことはないので、あちこちで読んだことがある、とすべきなのだけれども。

*2:私は写真が嫌いで、そのせいか写真写りも酷く悪く、気を付けても目つきや口元がおかしくなってしまうので(しかしそれで写真写りの練習をしようとは思わない)余程強く言われない限り写真には写らなかったから、普段どの程度写真を撮られるような機会があったのだか、よく分からないと云った方が良いのだけれども。

*3:そんなカメラのフィルムは普通には現像出来ないか?

事故車の怪(19)

・TBSラジオ東京RADIO CLUB 編『東京ミステリーとっておきの怖い話』(2)
 昨日の続きだが、6月9日付(18)と同じく事故車の話なので標記の題にした。第五章「日常を切り裂く凶々しき出来事*1」の10話め。
【50】不幸を招き寄せるバイク―――M・Hさん(十七歳) 199~202頁
 冒頭、199頁2~4行め、

 私の通っている塾の先生は女性ですが、とても霊感が強くて、普通の人が見えないもの/を見たり、感じたりすることがたびたびあります。たとえば、心霊写真に何が写っている/かよく見えるし、死亡事故のあった現場を通ると人の声を聞いたりするのです。


 女子高で話を聞いたり、レポートを書かせたりしたとき、霊感が強い友達の話をした生徒が何人かいた。見えたとか、ここヤバイと言われたとか云うのである。しかし、本人が「私霊感あるんですよ」と言うような生徒は1人もいなかった。まぁそんな生徒がいたとして、私がてんで信じていないもんだから話しても仕方がないと思ったのだろう。話そのものを否定するようなことはしなかったつもりだけれども。だって世間にはもっと可笑しな話がいっぱいあるのだから。
 しかし1人だけ、修学旅行の宿で足を見て、しかし同級生たちは全く気付いていないらしい。と、視線に気付いてそちらを見ると、同級生が自分を見ている。部屋に戻るときに近付いて来たその同級生に「あなたも見えるのね」と言われた、とか云ったような体験談を書いた生徒がいた。細かいところは違っているかも知れない。
 しかし私のような考証道楽の人間には、自分には分かっても他人には分からないことには依拠出来ない。自分が分かったことが他人にも分からないと、それは確かなこととはされない。感性の違いなら学習である程度摺り寄せることも出来るかも知れないが、訓練でどうにかなるものではなかろうし、そんな訓練はしたくもない。尤も、私の考証道楽の場合も、読めば分かってもらえると思っていても、そこまで時間を掛けて読んでくれるような人が、多くない。しかし、全くいなかったら霊感云々と同じになってしまうが、そうではない、今すぐに、ではなくともいづれ現れるであろうことを念じて、瑣事をつついているのである。
 それはともかく、話を投稿者の塾の話に戻すと、「ある日」その塾で「授業が終わり、私が帰り支度をしている」ところに「私の高校のA先輩が訪ねて」くる。「塾の生徒では」ないが「先生とは顔見知りで、ときどき相談に乗ってもらっていたらしい」。「この春に学校を卒業したばかり」と云うのだから平成4年(1992)春の卒業で、私より2学年下の昭和48年度生と云うことになろう。大学には進学していないようだ。まぁ「塾の生徒で」もなかった訳だし。
 この日の要件は「友達から安く買った」バイクの写真を見てもらうことで「乗るたびにトラブっ」て「なんでもないカーブでスリップしたり、ブレーキのききが瞬間的に甘くなったり」すると言うのである。それに対して、199頁14行め~200頁5行め、

 写真を受け取った先生は、しばらくのあいだ、じっとその写真を眺めていましたが、ふ【199】ーっと大きく息を吐くと、A先輩に写真を返しました。その写真には750ccの大きなバイク/にまたがったA先輩が写っていました。
「A君、このバイクに乗るのはやめなさい。いつか死ぬよ」
 先生の言葉にびっくりしたようなA君は、それでもとても諦めきれないといったようす/で、‥‥


 こんなところに聞きに来たくらいだから予期していたのだろうが「いいバイク」だし「バイク屋にもっていってきちんと整備してもらったら……」と、何故かここだけ地の文も「A君」になっているA先輩は、食い下がる。しかし、こんなところに来る前にバイク屋に行けと思ってしまうのは私だけだろうか。しかし先生の答えは「このバイク、壊したほうがいい」であった。【200】
 201頁の挿絵は相談に持参した写真を描いたもので、余計な血痕等が描き足されている。
 「一か月ほどたったころ」やはり「塾の後片づけをする時間に」現れたA先輩は「げっそりとやつれ」、先生に「深々と頭を下げ」ると、「先生、助かったよ」と言ってその後起こったことを説明する。「廃車にしようと思っていたら、友達がどうしても譲ってくれって……。頼みこまれて、しょうがないから譲ってやったら、そしたら、そいつ、昨日バイクで事故って、死んじまった……」と言うのである。
 そして、結末。202頁12~16行め、

 ちなみに、死亡事故を起こしたというのに、そのバイクは無傷だったということです。/そして、恐ろしいことに、そのバイクはまたバイクショップで売られることになったとい/うのです。もしかしたら、あなたの近所のバイクショップの店頭にならんでいるかもしれ/ません。バイクに乗っている人、これから中古バイクを購入しようとしている人は、気を/つけてください。


 さて、この話の場合、安く転売されている、と云う要素はあるが、安くなっていた理由が説明されていない。「一か月」後の再訪までに、A先輩は自分に安く売り付けた「友達」に事情を確かめて、先生に後日談とともに報告するべきだったろう。事故を起こしたバイクが「無傷だったという」話は、2017年2月20日付「恠異百物語(5)」に使ったことがある。――「使った」と云うのは、元の「小学4年生の3学期、昭和57年(1982)2月頃に隣のクラスの担任の、まだ20代に見えた女性教師(N先生)から」聞いた話でも、バイクで事故を起こして死んだことにはなっていたと思うのだが、バイクがどうだったかまでの記憶は流石にないので、「無傷」云々はどこかで聞くか読むかして付け足したからである。
 それにしても、一体何に「気をつけ」れば良いのだろうか。(以下続稿)

*1:ルビ「まがまが」。

東京RADIO CLUB「東京ミステリー」(08)

 昨日の続きで、TBSラジオ東京RADIO CLUB 編『東京ミステリーとっておきの怖い話』二見WAi WAi文庫)について。
・第五章 日常を切り裂く凶々しき出来事(1)
 「目次」の9頁5~15行め、章題*1に続いてやはり10題。
 165頁(頁付なし)がこの章の扉*2
【41】天窓に張りつく長い髪の女―――T・Mさん(十七歳) 166~170頁
 冒頭、166頁2~6行め、

 私は二年前にいまの家に引っ越してきました。そのときの話です。
 
「出窓と天窓のある家がいい」
 父の仕事の都合で家を引っ越すことになったとき、私はそういいました。
 私は障子や襖がいっぱいあるようないままでの和風の家ではなく、出窓や天窓があって、/カーテンがフワフワ揺れるような家に住みたかったのです。‥‥


 放送時から遡って2年前は平成2年(1990)――約30年前にはこのような憧れが切実なものとしてあった。しかし、私が10年前に高校生に尋ねたとき、和室のない家で、炬燵も家にないと云う生徒が何人かいた。この状態はさらに進んでいるであろう。今や洋風は当然になり、和風に対する切実な憧れを抱いているような若者は、いても僅かであろう。
 それはともかく「何か月か」後「私の希望通りの洋風」の「新しい家」に引っ越し「しかも、私の部屋は二階のはじっこ」で「天井は斜めになっていて、大きな天窓がついて」いる「自分が思っていたとおりの部屋」。〈夜になれば、星が見える〉と【166】「夜になるのが待ち遠しくて仕方が」ない体験者。
 そして「まだ、誰も入っていない」「新しいお風呂にいちばんに入」るのだが「このお風呂にも出窓がついてい」る。「うれしくてドキドキしながら」お風呂に入る体験者であったが「湯船のなかに長い髪の毛が三、四本絡まるように浮いている」のに気付く。「家族におこんな長い髪の毛の人はい」ないので〈おかしいな〉と「洗面器で、それをすくいあげて流し」「なんとなく気味が悪くなったので、早く出ようと思って、急いで身体を洗いはじめ」て「シャンプーをしているとき、直感的に感じ」る。167頁13行め~168頁4行め、

〈見られてる〉
 パッと顔を上げて、出窓のほうを見ると、誰かが立っている気配がします。出窓の外は/一段低くなっている庭なので、そこに人がいられるはずがありません。塀もちゃんとある/のです。【167】
〈なんだろう〉
 目を凝らしていると、人の気配のするところにぼんやりと白い影が見えはじめました。/外は暗いので、なかなかはっきりしてきませんでしたが、それでも、それが髪の長い女の/人だとわかるのに、そんなに時間はかかりませんでした。


 「怖くなっ」て「お風呂からとびだし、両親を呼」んで見てもらうが「誰もい」ない。「恐怖心と疲れから、私はぐったりしてしまい、早めに眠ることにして、自分の部屋」の「ベッドに横になると、顔の真上に星が見え」る。「そのままうとうと眠ってしま」ったが「なんだか胸が苦しく、身体が熱くなって、目を覚ましてしま」う。「そのとき」「お風呂で感じたような視線をまた感じ」「横を向いていた私」が「ゆっくり視線を天窓」に向けると、「天窓には、あの髪の長い女に人が張りついて、じーっと私を見下ろしている」【168】。
 169頁は斜めの壁に切られた天窓に、黒目のない大きな目の女性がニヤッと笑い、右手を窓に突いている挿絵。窓の割に顔と手が大きい。これは、170頁2~4行めの次の場面、

 恐怖のあまり、声も出ません。いえ、動くことすらできなくなっていたのです。女の人/から目を離すことができないでいると、その人は突然、カッと目を見開いて、「ニヤッ」/と笑いました。


 「全身の力を振り絞って、布団のなかに潜りこみ」「一睡もできないまま朝を迎え」「明るくなっ」てから「恐る恐る天窓を見」たが「もう誰もい」ない。しかし「天窓のガラスにはくっきりと手形が残っていた」。
 両親に「どうしても信じて」もらえず「いまもおなじ家に住んでい」るが「「内側から大きなポスターを張って、天窓を塞いで」いる。だから「あの人」は「今夜もやってきているかもしれません」。
 両親は全く怪異を感じていないらしい。しかし「見下ろ」される心配はなくなったとして、風呂は平気なのだろうか。他の「出窓や天窓」は大丈夫なのだろうか。「新しい家」は中古の、新しく住むことになった家、と云う意味ではなく、文字通り新築の家らしいから、所謂事故物件のような理由がある訳もなく、何ら原因は解明されない。霊能者と云われる人々なら何か尤もらしい説明を思い付くかも知れないが、私はそれを真面目に聞こうと思えない。だからどうも、私はこの手の、体験者が個人的に体験したとされる話(体験談)が苦手なのである。(以下続稿)

*1:ルビ「まがまが」。

*2:ルビ「まがまが」。

東京RADIO CLUB「東京ミステリー」(7)

 昨日の続きで、TBSラジオ東京RADIO CLUB 編『東京ミステリーとっておきの怖い話』二見WAi WAi文庫)について。
・第四章 時空を超えて彷徨う哀しき魂(1)
 「目次」の8頁9行め~9頁4行め、章題*1に続いてやはり10題。
 123頁(頁付なし)がこの章の扉*2
【31】滝を見るたびに痛む足首の謎―――M・Tさん(三十八歳) 124~128頁4行め
 冒頭、124頁2~8行め、

 これは私が本当に体験した話です。もう二十年も前のことなのですが、私にとっては、/いつまでも終わりのない。出口のない出来事……。こうして、私は私の身に起こったこと/を明らかにすることによって、少しでもこの呪縛から解き放たれたい、そんな思いでいる/のです。
 高校三年生の夏休みのことでした。学生時代最後の休みを私は楽しくすごしていました。/その日も、友達と誘い合って、高崎の名店街へ出かけ、映画を見たあと、ウインドショッ/ピングをしていたのです。


 ちょうど20年前とすると昭和47年(1972)夏、体験者は昭和29年(1954)生と云うことになる。群馬県高崎市と云う場所も明示されている。
 さて、そこに「前からどこか見たような子が歩いて」来る。「すぐに中学時代のクラスメートだったS子さんだ、と思い出し」て「おなじクラスでもグループがちが」うので「とくに仲良くしていたわけでもなかった」が「懐かし」く思って「明るく声をかけ」【124】たものの、S子さんは「無表情のまま、軽く会釈をしただけで」通り過ぎてしまう。「無視されたから」ではない、もっと「寒々としていやな予感」を感じたものの、帰宅して「家族と話したり、夕食の手伝いを」するうちに「すっかり忘れしまってい*3」たが「夕食のとき、誰が見るともなくつけていたテレビのニュース」に「S子さん」の「顔写真」が「大きく映し出され」そして「アナウンサーの声」が「S子さんが、日光の華厳の滝で投身自殺した」ことを伝える。しかも「アナウンサーが告げた投身自殺をした時刻」【125】が「私がS子さんとすれちがった時刻だったの」である。
 「何時間」も取り乱してしまった体験者が「やっと自分を取り戻」して両親に事情を説明すると、両親は何かの「間違い」だとなだめる。その「夜を両親の部屋ですごし」朝になって新聞各紙を見てみるが、各紙とも「その時刻」に違いがない。
 そして「何日かあとになって、S子さんの自殺の原因は失恋だったと、中学時代の友人から聞かされ」る【126】。しかし「なぜ私の前に現れたのか、わか」らなかったのだが「何年もたって」から、「中学時代の同級生どうし」で「高校三年生のときからつきあいはじめて」そのまま「恋愛結婚をした主人といっしょに出席し」た「同窓会の集まりのあと」で、「中学時代の友人」から「その理由」を「そっと教え」られる。「S子さんが失恋をした相手」は「私の主人だったので」ある。
 その「原因」を「知らなかったころ、私は何度か華厳の滝へ行った」ことがあり、その「たび、私の右足首にひどい痛みが走ったの」だが、それは、自殺を伝えるニュースと関連付けられるのであった。127頁15行め~128頁4行め、

華厳の滝に落ちて無傷の遺体が発見されるのは少ないのですが、S子さんは右足首に損/傷を負っただけの遺体で収容されました……」【127】
 S子さんの死の原因を知ったとき、私の足首の謎も解けました。けれど、私の心が安ま/る日はありません。何年もたったあと、私の足首に痛みを与えるS子さんの思い……そん/な強い思いがそう簡単に消えるとは思えないからです。もしかしたら、今夜にもドアをノ/ックしてくるかもしれない……。

と、これが結末なのだが、死の直後に見えた他は体験者の許に姿を見せたりしていないみたいだから、わざわざこんなことを書かなくても良さそうなもので、体験者が(自ら採用を狙った文飾として)書いたのでなければ、番組スタッフに妙なことを気にしている人に妙なことを書いてやらないでくれ、と言ってやりたくなる。
 私は日光には1度だけ、横浜の小学校の修学旅行で出掛けたことしかないが、関東北部の人たちはもう少し気軽に出掛けているのであろう。
 ところで、私が高校時代までに聞いた祟りの話では、供養したらそういうことがなくなった、と云う結末になっていることが多かったように思うのだが、この体験者は祟りを信じている割に、宗教に頼ろうと云う発想はないらしいのである。(以下続稿)

*1:ルビ「さまよ」。

*2:ルビ「さまよ」。

*3:125頁11行め、原文のママ。