瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山田野理夫『アルプスの民話』(5)

 昨日は前回分を途中で投稿することになってしまった。2019年10月に礎稿を作成した際にざっと「目次」を眺めて見当を付けて置いたのだけれども、改めて対照させてみると題名からは察しの付かなかったものが多々あり、他にも前半或いは後半に『山の傳説』に由来しない話を抱き合わせてあったり、思いの外確認が面倒で時間が掛かってしまった。
 しかし「はてなダイアリー」のときと違って「はてなブログ」では、分割してしまうと検索に不便だと思われるので、残りの分も前回の記事に追加して置いた。
 「←」とした話は山田氏が青木純二『山の傳説 日本アルプスの、通俗小説じみた表現をあっさりと書き直した話、「≒」は、山田氏が別に得た知識を加えたり、一部を拡大したりして書き直した話、くらいに考えて分けて見た。厳密な検討を経たものではないので、今後、判断を変更するかも知れない。しかしそれもこれも書き換えの程度の問題で、いづれにせよ青木純二『山の傳説 日本アルプスに取材したものであることに変わりはないと思う。
 『山の傳説 日本アルプスに収録された話は、その後、当ブログで検証したように杉村顕『信州の口碑と傳説』にその多くが採られ、『山の傳説』から直接、或いは『信州の口碑と傳説』やその影響を受けた本から間接的に再利用されて現在に至っているので、本当に『山の傳説』に拠ったのか、検討の余地があるのだけれども、本書に関しては簡単に識別することが可能である。すなわち、信州(長野県)だけでなく、立山黒部峡谷など、越中富山県)の話が含まれておれば、『山の傳説』に拠ったと見て間違いない。越後(新潟県)の蓮華温泉の話を恐らく地理不案内から採ってしまった『信州の口碑と傳説』だけれども、流石に黒部や立山の話は除外している。
 ところで「日本アルプス」ではない(白山)や(白峰山)とする話が幾つか混ざっているが、これは7月24日付(2)に注意した、本書の仮題が「日本の山の民話」だったらしいことと関係していよう。当初『海と湖の民話』と対になる『日本の山の民話』として準備していたが、出来上がったものは『山の傳説 日本アルプスの書き換えが主になってしまい、これに若干の中部地方の話を足しただけのものとなってしまった。地域に偏りがあるのに「日本の山の民話」と名乗らせるのは如何か、と云うことになって最終段階で標題を『アルプスの民話』と変更したものの、その際、若干混入させていた日本アルプス以外の話はそのままにしたのであろう。
 この加賀(石川県)の話の典拠の見当も付いているのだけれども、準備が必要なので来月以降に報告することとしよう。『山の傳説 日本アルプスに依拠していない(伊 那)や(大無間山)の話についてはもう少し時間が掛かるかも知れない。
 それから、どうも山田氏が日本アルプスとは無関係な地域に伝わっている話を、『山の傳説 日本アルプスと同じ地域に差し込んだ(つまり、でっち上げた)ケースも幾つか見られるようだ。先行する話が存在しないことを証明しないといけないので、飽くまでも私の見当だけれども、【13】【17】【26】【32】【34】【35】【41】前半、【56】【64】【87】辺りはちょっと注意して置きたい。そして【25】後半は前半の話の印象を薄めるために創作したように思われるのである。
 「はしがき」に、7月25日付(3)に注意したように「この民話の意味は広義に解釈して収録してみました」とあるが、これは『山の傳説 日本アルプスの内容の然らしむるところで、約2/3を『山の傳説』に負っている。「はしがき」に「山里で民話のきき書きをはじめて七カ年ほどになります。‥‥。日本アルプスから更に、いまわたしは日本の山々へ民話を求めて旅を続けています。」と述べているのは虚誕――詩人として評価するのであれば、自分が美しく再話(リライト)した民話の世界に読者を引き込むための一種の詐術、と断じて差し支えなかろう。それにしても、7月24日付(2)に見た「はしがき」の追記「新書のことば」にて、このリライトを主とする本を「自選の著作三冊」のうちに「挙げ」たと云っているのは、私なぞからすると如何かと思ってしまうのだけれども、余程この語り直しに自信を持っていたのであろう。(以下続稿)

山田野理夫『アルプスの民話』(4)

 昨日の続き。
 「目 次」7頁3行め「雪 お ん な」を「六四」とするが66頁からである。
 11頁(頁付なし)長野県の略地図があって、郡の境界線と河川、山と主要都市を示す。しかし中央アルプスの山が全く記入されていない。
 以下、各話に仮に番号を附し、末尾にある地名を題に添えて、見て置こう。これに『山の傳説』をそのまま、小説じみた表現を民話風に簡略にするなどして採ったものを「←」、少々『山の傳説』にない話題が追加されているものを「≒」として、ざっと依拠関係を見て置く。厳密な比較を経たものではないので、今後判断を変更することがあるだろうことを先にお断りして置く。
【1】狼の話(伊 那) 13~14頁
【2】上人の話(槍が岳) 15頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【64】播 隆 上 人槍ヶ岳)180~182頁4行め
 ←『山の傳説』北アルプス篇【65】二子岩の假小屋槍ヶ岳)182頁5行め~183頁7行め
180頁、182頁
【3】百 田(伊 那) 16~18頁
【4】大男の話(唐松岳) 19~20頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【66】巨 人 の 足 跡唐松岳)183頁8行め~185頁
【5】高い話(有明山) 21頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【40】脊  の  び有明山)114頁4~8行め
【6】はじめのひと(剣 山) 22頁
 末尾に(剣 山)とあるが本文は2・4行め「剣岳」である。
 ←『山の傳説』北アルプス篇【14】永 久 の 謎(劒 山)33頁6行め~34頁9行め
 本文7・11行め「劍岳*1」――山田氏の敷き写しは明らか。
【7】上高地上高地) 23頁
 ≒『山の傳説』北アルプス篇【52】上  高  地上高地)150頁5行め~151頁5行め
【8】さくらのひと(上高地) 24~26頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【53】櫻  の  精上高地)151頁6行め~154頁5行め
【9】穂高の僧(穂高岳) 27~28頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【58】公 安 さ ま(穗高岳)165~167頁9行め
【10】貝鞍の池(伊 那) 29~30頁
【11】ものぐさ太郎(穂高岳) 31~44頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【60】若 宮 明 神(穗高岳)170頁4行め~175頁8行め
【12】太郎の話(穂高岳) 45~48頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【57】穗 高 神 社(穗高岳)162頁7行め~164頁
【13】若返りの水(御 岳) 49~51頁
【14】羽(御 岳) 52~53頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【71】雷     鳥(御 嶽)192~193頁1行め
【15】樹木のうらみ(黒部峡谷) 54~55頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【19】十 六 人 谷(黑部峽谷)
【16】女 神(八ツ岳) 56~58頁
 ≒『山の傳説』南アルプス篇【26】背 く ら べ八ヶ岳)297頁11行め~299頁9行め
【17】握飯と笠(立 山) 59~60頁
【18】小石の高さ(立 山) 61頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【13】小 石 を 積 む(立 山)32頁9行め~33頁5行め
【19】化石の道(立 山) 62頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【3】材  木  坂(立 山)10頁10行め~11頁8行め
【20】鷹と熊(立 山) 63~65頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【1】白     鷹(立 山)3~5頁
【21】雪おんな(白馬岳) 66~71頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【36】雪     女(白馬岳)95頁11行め~99頁
【22】化 身 (赤石岳)72~74頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【5】山  椒  魚赤石岳)245頁8行め~246頁
【23】白馬岳(白馬岳) 75頁
【24】花物語(白馬岳) 76~79頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【29】大  櫻  草(白馬岳)76頁10行め~79頁10行め
【25】山男の話(白馬岳) 80~83頁
 (前半)←『山の傳説』北アルプス篇【30】山  之  坊(白馬岳)79頁11行め~83頁
 (後半)
【26】八千八声(白馬岳) 84頁
 郭公の由来
【27】赤石岳と猿(赤石岳) 85~88頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【3】猿      赤石岳)243頁3行め~245頁1行め
【28】入道の話(黒部溪谷) 89頁
 ≒『山の傳説』北アルプス篇【23】鐘 釣 溫 泉(黑部峽谷)64頁1~8行め
【29】天空の馬(駒が岳) 90~93頁
 ←『山の傳説』中央アルプス篇【1】天 津 速 駒駒ヶ岳)215頁2行め~217頁
【30】早太郎の話(西駒が岳) 94~96頁
 ←『山の傳説』中央アルプス篇【3】義  犬  塚(西駒ヶ岳)220頁10行め~226頁2行め
【31】火口湖(焼 岳) 97頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【62】山 上 の 池(燒 岳)177頁6行め~178頁10行め
【32】ねぎと木(上高地) 98~101頁
【33】さかさ銀杏(塩見岳) 102頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【13】逆  銀  杏(鹿盬浴場)276頁3~8行め
【34】猿と着物(赤石岳) 103~106頁
【35】斧の話(黒部溪谷) 107~111頁
【36】雪溪と花畑(立 山) 112~113頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【6】千 蛇 が 池(立 山)16頁3行め~17頁
【37】山鳥の矢(有明山) 114~119頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【41】山 鳥 の 征 矢有明山)114頁9行め~118頁2行め
【38】天狗岩(有明山) 120~121頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【44】信  の  宮有明山)121頁6行め~123頁6行め
【39】乳の木(有明山) 122頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【39】タ ラ の 木 樣有明山)113頁~114頁3行め
【40】農牛(鳳凰山) 123頁
 ≒『山の傳説』南アルプス篇【20】大  日  岩鳳凰山)287頁
【41】寝覚の床(御 岳) 124~128頁
 (前半)
 (後半)←『山の傳説』北アルプス篇【77】寝 覺 の 床(御 嶽)202頁9行め~210頁4行め
【42】冠(冠着山) 129~130頁
 ≒『山の傳説』南アルプス篇【25】手 力 男 命冠着山)296頁2行め~297頁10行め
【43】のうが池(駒が岳) 131~133頁
 ≒『山の傳説』中央アルプス篇【2】濃  ヶ  池駒ヶ岳218~220頁9行め
【44】姫 川(白馬岳)134~135頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【32】姫 川 傳 説(白馬岳)87頁6行め~89頁2行め
【45】猫又の話(猫又山) 136頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【27】猫  又  山(黑部峽谷)71~75頁6行め
【46】棲替え(八ツ岳) 137頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【28】大 蛇 昇 天八ヶ岳)302頁9行め~304頁2行め
【47】たのしい爺さま(白 山) 138~141頁
【48】経 机(白峰山) 142~143頁
【49】河 童(白峰山) 144頁
【50】清 水(立 山) 145頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【3】弘 法 清 水(立 山)11頁9行め~12頁7行め
【51】白 雉(白 山) 146~147頁
【52】竜の嫁女(黒部溪谷) 148~149頁
 ≒『山の傳説』北アルプス篇【17】黑 部 川 の 主(黑部峽谷)48頁7行め~50頁1行め
【53】二つの谷(黒部溪谷) 150~151頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【18】祖父谷、祖母谷(黑部峽谷)50頁2行め~55頁
【54】二つの顔(黒部溪谷) 152頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【21】黑 薙 川 傳 説(一)(黑部峽谷)58頁10行め~60頁
【55】仏石(黒部溪谷) 153
 ←『山の傳説』北アルプス篇【26】佛 石 の 茶 屋(一)(黑部峽谷)69頁5行め~70頁
【56】笛(黒部溪谷) 154頁
【57】こがね湯(白馬岳) 155頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【33】蓮華溫泉縁起(白馬岳)89頁3行め~91頁7行め
【58】姫 川(白馬岳) 156頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【34】姫 川 由 來(白馬岳)91頁8行め~93頁
【59】夫恋し(佐々良峠) 157~158頁
 ≒『山の傳説』北アルプス篇【38】里 人 の 古 説(佐々良峠)111頁4行め~112頁
【60】秀綱(徳本峠) 159~160頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【48】秀 綱 の 死(德本峠)141~143頁1行め
【61】狐(徳本峠) 161~162頁
 ≒『山の傳説』北アルプス篇【49】旅 人 と 小 狐(德本峠)143頁2行め~146頁5行め
【62】髪(三 岳) 163~164頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【17】蛇  ケ  淵(三 岳)282頁
【63】地蔵峠(御 岳) 165頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【75】縁 結 び の 木(御 嶽)199頁~200頁10行め
【64】娘の笛(徳本峠) 166~167頁
【65】神坂峠(神坂峠) 168~170頁
【66】仙丈岳仙丈岳) 171頁
【67】荒 川(赤石岳) 172頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【2】大 小 寺 平赤石岳)242頁3行め~243頁2行め
【68】大聖寺平(赤石岳) 173頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【2】大 小 寺 平赤石岳)242頁3行め~243頁2行め
【69】太子のはしご(駒が岳) 174頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【8】蹄  の  跡(東駒ヶ岳)267頁3行め~270頁1行め
 ←『山の傳説』南アルプス篇【9】大 御 鞍 石(東駒ヶ岳)270頁2行め~272頁5行め
【70】塩(塩見岳) 177頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【10】諏 訪 明 神(盬見岳)272頁6行め~273頁8行め
【71】クハジヤ(塩見岳) 178頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【12】虚 空 藏 山(盬見岳)275~276頁2行め
【72】鴛鴦(高鳥谷岳) 179~181頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【6】眞 菰 ヶ 池(高鳥谷岳)247~252頁9行め
【73】河 童(伊 那) 182~183頁
【74】大男の生涯(伊 那) 184~186頁
【75】朱 椀(駒が岳) 187~188頁
 ←『山の傳説』中央アルプス篇【4】駒  ヶ  池(西駒ヶ岳226頁3~227頁6行め
【76】梅の木(八ツ岳) 189頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【27】南  の  家八ヶ岳)299頁10行め~302頁8行め
【77】山 姥(伊 那) 190~192頁
【78】姫の湯(八ツ岳) 193~194頁
 ←『山の傳説』南アルプス篇【31】姫     湯八ヶ岳)307頁5行め~309頁
【79】鹿の角(大無間山) 195頁
【80】熊の皮(大無間山) 196~197頁
【81】昼神の里(伊 那) 198~199頁
【82】鹿の仔(大井川奥) 200~201頁
【83】少年(天竜川) 202頁
【84】静(大 町) 203~204頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【51】刈 馬 村 の 櫻(大 町)147頁3行め~150頁4行め
【85】白狐(御 嶽) 205~207頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【73】興禅寺の檀家(御 嶽)194頁4行め~197頁
【86】つばめの死(燕 岳) 208~210頁
 ←『山の傳説』北アルプス篇【69】燕  の  糸(燕 岳)188~189頁4行め
【87】山猫の話(燕 岳) 211~213頁
【88】うばすて(伊 那) 214~216頁
【89】投草履(松本平・安曇) 217頁
【90】デーランボウ(伊 那) 218
 『山の傳説』以外の典拠も、幾つか見当が付いている。遠からずここに補うか、別に記事にしようと思っている。(以下続稿)

*1:ルビ「つるぎだけ」。

山田野理夫『アルプスの民話』(3)

 それでは、内容について①上製本に拠りつつ見て置こう。
・「はしがき」
 1~4頁「は し が き」の1段落め、1頁2~9行め

 わたしが山へ惹かれたのは蔵王山からです。暮しのため仙台を去り、東京に棲むように/なってからは日本アルプスの山々です。山里で民話のきき書きをはじめて七カ年ほどにな/ります。わたしの父の書棚に、青木純というひとの「山の伝説」という本がありました。/わたしの愛読したひとつです。わたしはこのような本をまとめてみたいと思っていまし/た。倖、小島正氏のすすめで、その機会を得ることができたのです。山については時折、/雑誌に雑文をしるしたほか、登山家長尾宏也氏の手助けをして「日本山岳風土記」(八/巻)の編集をしたことがあります。この民話の意味は広義に解釈して収録してみました。/日本アルプスから更に、いまわたしは日本の山々へ民話を求めて旅を続けています。


 何故か青木純二の名を間違えている。以下、収録されている話を見る限り青木純二『山の傳説 日本アルプスを参照していることは明らかだから、わざと(種本を突き止められてただの書き換えじゃないかと思われないよう)間違えているとしか思えない。しかしながら読者の多くは「山里で民話のきき書きをはじめて七カ年ほど」だの「日本の山々へ民話を求めて旅を続けてい」るだのとあるので、本書は山田氏が「日本アルプス」の麓で聞き集めた話を「まとめ」たものだと思うことだろう。
 長尾宏也(1904.1.10~1994.8.21)編『日本山岳風土記』は、登山家や文学者の山に関する文章を地域別に纏めたアンソロジー

 続く2段落めを見て置こう。10~12行め、

 わたしの愛読するもうひとつの本に小島鳥水の「氷河の万年雪の山」があります。その/一節を引用してむすびとします。三十年前のものですが日本アルプスを短文でよく表現し/ているからです。【1】


 これも、まづ小島烏水(1873.12.29~1948.12.13)の号を間違えているし、書名も『氷河と万年雪の山』である。この本は復刻版もあるが、現在では国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る。

 小島烏水『氷河と萬年雪の山』(昭和七年六月一日印 刷・昭和七年六月十日發 行・定價貳圓七拾錢・梓書房・二二+四〇六頁)から引用した一節とは、末尾(二〇六頁13行め)に「(昭和六年八月)」とある一八一~二〇六頁「日本アルプス縱橫」と云う日本アルプスの概略を述べた文章の冒頭、一八一頁2行め~一八四頁2行め「 日本アルプスとは何ういふところか」である。常用漢字・現代仮名遣いに改めているが拗音・促音が小さくなっていない。また一部の漢字の読みを振仮名ではなく後に( )に平仮名で示しているが、これは一々註記しなかった。
 2頁1行めから8行め「/とは何か。」までが一八一頁3~9行めの段落、引用全体を「 」で括り字下げはない。異同は一八一頁3行め「未だ」が2頁1行め「末だ」、一八一頁7行め「初める」が2頁5行め「始める」になっている。『氷河と萬年雪の山』はここで段落を改めているが本書はそのまま続けている。
 2頁8行め「私は思う。‥‥」から3頁6行め「‥‥いるのである。」までが一八一頁10行め~一八二頁11行めの段落。異同は『氷河と萬年雪の山』は段落末のみ句点で他は全て読点にしているのを、適宜(6箇所)句点に改めていることである。
 3頁6行め「更にそれを‥‥」から14行め「‥‥、物が物だからである。」までが一八二頁12行め~一八三頁6行めの段落。3頁10行め「フレッシュフィールドは上高地をズエルマツトの」は一八三頁2~3行め「フレツシユフイールドは上高地を/ヅエルマツトの」で何故かこの Douglas William Freshfield(1845.4.27~1934.2.9)の名前のみ、拗促音が小さくなっている。
 4頁1行めは「(中略)」一八三頁7~13行めの段落が省略されている。
 4頁2~3行めが一八四頁1~2行め。
 4頁4行め以下の、⑤潮文社新書新装版との異同は前回確認して置いた。(以下続稿)

山田野理夫『アルプスの民話』(2)

 昨日の記事、諸版については③1965年版と⑥1976年版を追補した。番号もずらしたが過疎ブログのこと故(笑)影響はないであろう。
 それはともかくとして、私が見た①上製本と⑤潮文社新書新装版の内容について見て置こう。但し手許にあるのは①のみで、⑤はこの1年余見る機会を得られない(と云うか都内に出ることを控えている)。
 ①と⑤の本文は同版。従って②~⑥の潮文社新書版も変わりないと思う。①は余白が広く取ってあった。
 異同は1~4頁「はしがき」の最後、4頁4行めから抜いて置こう。①上製本は、

 山の音楽とともに、民話が語り伝えられるよう願っています。

     一九六二年四月

                            山 田 野 理 夫


 年月の前後は1行弱空ける。著者名はやや大きい。以下7行分は余白。
 ⑤新書新装版は、

 山の音楽とともに、民話が語り伝えられるよう願っています。(一九六二・四)


   新書のことば

 昨年、日本ペンクラブより英文名簿作成するにつき、自選の著作三冊を挙げてほしいと/いってきた。わたしは共著を除き著作十三冊より、ただちに脳裡に泛んだのは、「南部牛/追唄」「魯迅伝」とともに「アルプスの民話」である。この著も小島正氏のご好意により/前記二冊の仲間入りして、潮文社新書に加えられることになつたのを非常によろこぶ。ア/ルプスの山もその民話も、すべてあなたがたのものである。ご愛読を祈つている。
     一九四〇年一月一四日
                             山 田 野 理 夫

と余白を埋める追加があるのだが「一九四〇年」は「昭和四〇年」の誤りだろうか。⑤は8月発行だから1月付「新書のことば」はそれより前の、新書に収まったときのものと見たいのだが、②昭和38年版は11月発行だからやはり時期が合わない。「日本の古本屋」で検索するとヒットする(従って未見)昭和40年(1965)新装版がこれに当たるようだ。いづれにせよ奇怪な誤りで、それが数年後の増刷⑤昭和47年(1972)版でも放置されていたことになる。
 奥付の文字は全て明朝体、①上製本は縦組みで、中央に上下2段、上段にはまづ大きく標題、1行分空けて「協定により検印廃止」、1行分空けて著者名があって、続けて4~9行めに小さく、

東北大学国史を専攻後、宮城県史編纂委員/現在、郷土資料調査所員・作家・第六回農民/文学賞受賞・主著「宮城の民話」、「日本の山/の民話」、「海と湖の民話」、「南部牛追唄」、/「魯迅伝」など。(号・魯斎)
   住所・東京都世田谷区世田谷四の六五〇

との紹介がある。『宮城の民話』は未来社「日本の民話」シリーズの1冊で昭和34年(1959)刊、『海と湖の民話』は本書と同年の刊行だが『日本の山の民話』が分からない。『南部牛追唄』は昭和36年(1961)刊で昭和37年(1962)の第六回農民文学賞を受賞している。川口則弘サイト「文学賞の世界」の「農民文学賞受賞作候補作一覧」に、第6回について「=[ 媒体 ] 『農民文学』29号[昭和37年/1962年8月]発表」とあって本書よりも後に刊行された、主催の日本農民文学会の機関誌「農民文学」第29号(昭和37年8月)に、60~62頁「第六回農民文学賞発表」として出ている。少々奇妙だが、当時の「農民文学」は不定期刊行で、第28号(昭和36年12月)から間が空いたので誌面で初めて発表する、と云うことにならなかったようで、ネット検索情報だが昭和37年4月13日に東京市ヶ谷の私学会館で「山田野理夫農民文学賞受賞祝賀会」が開かれており、それより前に別の媒体で発表されていたようだ。『魯迅伝』も昭和39年(1964)潮文社が初刊で、それ以前には『魯迅』と云う著書があるのみ、これを改稿して『魯迅伝』と題して潮文社から刊行する予定が、既にあったのだろうか。
 その、オークションサイトに上がっている潮文社新書『魯迅伝』(昭和39年 4 月20日発行 ©・¥  250)の奥付を見るに、横組みで、

東北大学国史を専攻後,宮城県史編纂委員,現在 郷土資料調査所員/作家・第六回農民文学賞受賞・主著「宮城の民話」,「アルプスの民話」/「海と湖の民話」,「南部牛追唄」,など。(号・魯斎)
 現住所・東京都世田谷区世田谷 4 の 650

とある。『魯迅伝』の奥付だから「魯迅伝」が省略されているのは当然だが、もう1箇所異なるのは「日本の山の民話」だったところが「アルプスの民話」になっていることである。――当初、本書は「海と湖の民話」と対になる「(日本の)山の民話」として構想され、そして最終段階で「アルプスの民話」に変更されたのであろう。「アルプスの民話」と云うと普通は『アルプスの少女ハイジ』ではないがヨーロッパのアルプスのことと思う*1。実際、そう思って買ってしまった人もいたのではないか。少々、いや、相当詐術めいた標題である。そして、本書の奥付では、題が違っているのでうっかり「日本の山の民話」と云う別の本のように思って見落としたのであろう。校正時、本人もうっかり見落としたのか、それとも本当に最終段階での改題だったのか。
 下段はまづ発行日、2行めは下寄りに定価、以下「編 者   山 田 野 理 夫/発行者   小  島  米  雄/印刷者   磯  貝  兌  雄/発行所   潮  文  社」版元名のみ大きく、その左にごく小さく「東京都新宿区市谷田町三ノ二一/振替口座 東京 六九一〇七番」とある。前回注意したように最初の2行を除いて②潮文社新書版も同じ。
 ⑤新書新装版は横組みで上部中央に標題、その絵に検印紙(縦2.2cm×上辺2.3cm下辺2.2cm)黄色で「潮文/社印」と刷った上に楕円朱文印「山田」。その下に「山田野理夫」の紹介、

大正11年,仙台に生まる。東北大学文学部史学科卒。/宮城県史編纂委員。第六回農民文学賞受賞。日本文/芸家協会員。日本ペンクラブ会員。著書に「奥羽の/幕末」「ふるさとの民話」「日本妖怪集」「日本怪/談集」「海と湖の民話」その他がある。
東京都狛江市和泉511―18

とあって太線(7.3cm)、次の太線(5.5cm)との間(3.0cm)に「昭和47年 8 月30日発行     © 新装版 ¥ 380」とあり、続いて右詰めで「編著者    山 田 野 理 夫/発行者    小  島  米  雄/印刷所    赤城印刷株式会社」とあって、その下の太線と最下部の太線(7.3cm)までの間(1.2cm)に「発行所」その右に4行でごく小さく「〒160/東京都新宿区坂町 23 番地/電話 東京 3573261(代表)/振  替・東 京 6 9 1 0 7」そして大きく「〈株式/会社〉 潮 文 社」とある。最下部の太線の下、左寄りに小さく「落丁本・乱丁本はおとりかえします」右寄りにごく小さく「(千代田製本)」その下に「0293―0016―4664」とある。
 ②~⑥の潮文社新書は、増刷に際し初版発行日を示していないようだ。「新装版」とあれば以前の版があることは察せられるけれども。
 奥付裏からそれぞれ目録があるが、長くなったので別の機会に取り上げることとしよう。(以下続稿)

*1:「新書のことば」に見える、日本ペンクラブの英文名簿では「Alps」ではなく「Japanese Alps」としたであろうか。

山田野理夫『アルプスの民話』(1)

 私が見たのは上製本⑤潮文社新書新装版で、2019年9月中旬に借りて比較し、10月11日に当記事の礎稿を作った。新書新装版は第1回の緊急事態のときにも借りていたのだが、そのときには他の資料が揃えられなかったので記事を仕上げられなかった。その後も借りに行くことが出来ないままである。
上製本(昭和三十七年五月二十五日発行©・定価 三〇〇円・潮文社・218頁・B6判上製本
 私は2つの図書館で本書を借りて見たが、ともにカバーなどは保存されてなかった。しかし5~10頁(頁付なし)「目 次」の最後、10頁16~17行め、前後1行分ずつ空けて、

カバー絵  名 村 定 志
カ ッ ト  松川八洲雄

とあるからカバーがあったはずである。2年前に準備したときにはネット上でも拾えなかったが、今回、画像検索するに、全面が雪山を描いた洋画で、上部に銀色(もしくは灰色)の横書きで標題、その「ス」から「話」の下に同じ色のゴシック体横組みで「山田野理夫編」とある。
 本体の表紙は横縞を透かした白い紙を張り、上部左寄りに緑色で横書きの標題、カバー表紙と同じではないけれども同一人の筆蹟。カバー背表紙、緑色の明朝体で上部に標題、中央に「山田野理夫編」、下部に版元名が同じ大きさで。他に文字はない。
 見返しは小豆色で、遊紙の内側は白紙。
 表紙は黄色がかった和紙風の用紙で、文字は灰色で上部左寄りに本体表紙と同じ標題、「アルプス」の下に明朝体で「山田野理夫編」、中央やや下、左に「潮 文 社 版」。
 なお、以下の新書版は名村定志(1902~1989.1)の絵を使用していないので「目 次」の1行は削除されているものと思うが、チェックするのを忘れていた。
②潮文社新書(昭和三十八年十一月二十五日発行©・定価 二五〇円)
 未見。今回、画像検索して①単行本のカバー画像とともにオークションサイトにて閲覧。④とほぼ同じレイアウトだが人形の写真が異なっており、紺色単色で、幼児の人形を連れた、赤ん坊を背負った子守の女児の人形の写真。著者名が横長でなく「山田野理夫編」とある。奥付は①にほぼ同じで発行日の1行が異なり、定価は縦長の長方形に切った紙「二五〇円」を貼付。
③潮文社新書(昭和40年)
 「はしがき」に追加された「新書のことば」及び「日本の古本屋」サイトから推定。
④潮文社新書(新装版)

 未見。Amazon詳細ページには「1962年」とあるが、これは上製本の刊年なので新書版の書影を示すのは適当ではない。星野五彦が参照した昭和42年(1967)4月刊の『アルプスの民話』がこれなのだろう。もちろん、この改装は③の時点で為されていた可能性もあるけれども。カバー表紙には最上部に明朝体で標題、人形のカラー写真の上辺右寄りに横長の明朝体で「山 田 野 理 夫」、右辺下寄りに「潮文社新書」下辺右寄りに「CHOBUNSHA」とある。
⑤潮文社新書(新装版)昭和47年8月30日発行・218頁・定価380円 どうやらカバー装を廃したものらしい。私が見た本は図書館蔵書なので帯は保存されていない。表紙には書影に見える文字の他、潮文社新書のロゴマークが右下にあるらしいがバーコード貼付のためはっきり見えない。背表紙は白地で、明朝体で最上部に大きく「 アルプスの民話」下部にやや大きく「山田野理夫」とあるがその下に分類票が貼付されているので「編」の文字の有無は不明。最下部に褪色した桃色のゴシック体横並びで「潮文社」とある。上にロゴマークがあるようだがこれも分類票のためはっきり見えない。裏表紙は中央から右下に、表紙ほど面積が広くないが、フリーハンドで引いた桃色のサインペンの横線の柄があって、天(上辺)とノド(左辺)に近い部分は白地。文字は全てゴシック体横組みで、右上に帆船のロゴマーク、上に横長の「現代人の詩と叡智」、下に「アルプスの民話 潮文社新書」とある。最下部右寄りに「0293―0016―4664 定価380円」とある。
 見返し遊紙と扉は本文共紙、扉には左側に明朝体縦組みでやや大きく、上部に標題、下寄りに「山田野理夫編」とある。
⑥潮文社新書(新装版)昭和56年・218頁・定価580円
 未見。国立国会図書館サーチに拠る。①⑤⑥は国立国会図書館所蔵。
(以下続稿)

白馬岳の雪女(03)

 さて、国文学者の星野五彦が昭和57年(1982)と云う早い時期に、白馬岳の雪女を取り上げていた、と昨日書いたけれども、これには若干註釈が必要である。
 星野氏の「綺堂と八雲――伝説と創作を通して――」の趣旨については、2013年7月2日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(21)」に紹介した。そこに星野氏による岡本綺堂「木曾の旅人」の梗概、そして2013年7月3日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(22)」に『信州百物語(信濃怪奇伝説集)』の「蓮華温泉の怪話」の梗概を引き、その問題点を指摘して置いた。それから、星野氏の分析の前提となっている、伝説から創作へ、との思い込みについて、2018年7月4日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(23)」に私見を示して置いた。
 これと抱き合わされている小泉八雲の「雪女」だが、分量(222頁8行め~226頁5行め)も少なく、分析もあっさりしている。まづ星野氏による「雪女」の梗概を示して置こう。222頁13行め~223頁15行め(全て1字下げで2行めはさらに2字下げだが詰めた)、

1 武蔵国のある村に茂作と雇い人の巳之吉の木樵が住んでいた。茂作は老人、巳之吉は一八歳。
2 渡し守の去った小屋で吹雪の夜を迎える。
3 老人はすぐ眠り込み、少年も又眠り込む。
4 顔に雪がふりかかるので少年が目を覚すとそこに美しい女がいた。
5 老人のようにしようと思ったが、可愛想なのでやめるが、今夜のことを口外するな、と約束/【222】させて、出ていった。
6 茂作に声をかけて、死んでいるのに驚ろく。
7 夜明けて渡し守が来てみると老人は死に若者が気を失っているのでおどろく。
8 白い女のまぼろしについてはその後誰にも口外しなかった。
9 ふたたび薪売の生活が母とはじまった。
10 翌年の冬、帰路、旅の娘に出遭い家につれてくる。
11 江戸に奉公口をさがしに行く途中で、雪という名であり、非常な美女であった。
12 母親も歓迎し、その家の嫁となった。
13 二人の間には一〇人の子供があった。
14 老けないお雪を村人は不思議がる。
15 針仕事をしているお雪に巳之吉は十八の時の不思議なことを語り出す。
16 女房はききたがり、聞き終えるとそれは自分であると名告り、立ちあがる。
17 子供が居なければ殺したところだが、子供たちにとやかく言われるようなことをしたら、相/応なことをするといいのこす。
18 次第に細り、白い霧になって出て行き、二度と姿をみせなかった。


 そして、星野氏は223頁17行め~224頁1行め、

これに対して、各地に伝わる譚はいずれも短かく、長いものでも、八雲の作程、こみ入ってはい/【223】ない。今、長い例を一つとりあげてみると、

として、以下のように梗概を2つ示す。224頁2行め~225頁8行め、

 1 昔むかしのこと。猟師の親子、茂作と箕之吉が住んでいた。
 2 吹雪になって山小屋で休息することにした。
 3 眠ってはいけないという茂作がねてしまい、箕之吉もねはじめた。
 4 起きなさいという女の声で目を覚すと前に一人の女が居た。
 5 女は箕之吉のことを以前から知っていた、それは里の娘に騒がれる程いい男であるから。自/   分も箕之吉が好きなので、死から守ってあげる代りに、会ったことを口外するな、という。
 6 男が約束すると、女は消えていった。
 7 翌年の雪の夜、一夜の宿を乞う女が訪れる。
 8 女の名はこゆき、二人は夫婦になる。
 9 十年が流れ、五人の子供が生まれた。
 10 吹雪の夜、箕之吉はこゆきの顔をみて思い出し十一年前の夜のことを話す。
 11 聞き終えた小雪は、それが自分であることを告げ、子供のことをたのむ。*1
 12 身体が細り、やがて姿を消してしまった。坐っていた辺りがほんのりと濡れていた。
というものである。これは恐らく、八雲作の翻案ではなかったかと思うが、それにしても、八雲作程こみ入ってはい/ない。まして、短かいものとなれば【224】
 1 昔、一人の若者が居た。
 2 吹雪の夜、外で人の気配、開けると若い女が倒れていた。
 3 美しい女なので嫁にし、仲良く暮した。
 4 春になると女は痕せて、元気がなくなって来た。
 5 或る日、男友達が来たので酒を出した。女房を呼ぶが返事がないので、台所に行ってみると、/   へっついの前が濡れて、着物だけが残っていた。
というものである。
 これら以外をみても、大体は右の範疇に属するものである。


 この2つの「譚」の典拠であるが、それぞれの梗概の最後の「た」の右傍に括弧で注番号を添えている。すなわち、226頁6~8行め(3字下げだが詰めた)に小さく、

  注
(1) 山田野理夫編『アルプスの民話』(昭和42年4月・潮文社)六六~七一頁。 
(2) 関敬吾編『桃太郎・舌きり雀・花さか爺』(昭和31年12月・岩波書店)二一八頁

とある。星野氏がどの程度「これら以外」の類話を集めていたのか、「これら」しか示していないので分からない。
 山田野理夫『アルプスの民話』に白馬岳の「雪おんな」の話が載っていることは、遠田勝『〈転生〉する物語――小泉八雲「怪談」の世界も注意しているが、星野氏は遠田氏よりも約30年早く、このことを指摘していたのである。
 それはともかくとして、「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」のところでも注意したように、番号を打っていてもそれを比較に活用していないので余り意味がないものとなっている。梗概を見る限りで小泉八雲『怪談』と山田野理夫『アルプスの民話』の大きな違いは、茂作と巳之吉(箕之吉)の関係と生業、雪女に襲われた小屋の位置、巳之吉の母、子供の数が10人か5人か、といったところなのだが、もっと大きな違いは『怪談』の舞台が「武蔵国」であるのに対し、『アルプスの民話』は「白馬岳」であることである。ところが、星野氏の梗概は地名を落としてしまっているので「白馬岳」であることが分からない。実は綺堂作「木曾の旅人」と伝説(と星野氏は見做している)の「蓮華温泉の怪話」を比較したところでは、221頁9~12行め、

 先の梗概をみていると、場面設定の効果的なことにも気がつく。それは伝説では「白馬岳の麓」で/あるのに対して、綺堂作では「木曽山中」であり、他方が「宿屋」に対し此方は「杣小屋」である。/自ずから読者はそこに鮮明な印象の相違を心に描く。少なくともその字面からは、伝説より明るい/場面を想定することはあるまい。

と、場所の設定も非常に重視していたのである。標高2932mの白馬岳の山中と、武蔵国の、渡し守がいるような、幅のある川縁の小屋とでは、同じ吹雪の夜でも相当に「相違」があると思うのだが、何故か「雪女」に関してはその点に留意していない。いや、折角「白馬岳の麓*2」が舞台の「蓮華温泉の怪話」を綺堂に関連して取り上げていたのだから、「雪女」も白馬岳の話として伝わっていると関連付けても良さそうなものだ。
 そして、これは全くの偶然だと思うのだけれども、『信州百物語』の「蓮華温泉の怪話」も『アルプスの民話』の「雪おんな」も、ともに青木純二『山の傳説 日本アルプス』が白馬岳のこととしてでっち上げた話を、前者は杉村顕、後者は山田野理夫と云う、少々特徴のある作家が書き換えたものであることが興味深い。星野氏は多くの類例の中から、わざわざ青木純二に淵源する2例を選び出してこの小論に取り上げているのである。
 しかしながら、星野氏は白馬岳の雪女について、場所の明示もせず、せいぜい「これは恐らく、八雲作の翻案ではなかったかと思うが」と云う、「蓮華温泉の怪話」とは反対の印象を述べるに止めている。――もう少々白馬岳附近の伝説を集めた本を渉猟して『山の傳説 日本アルプス』に逢着しておれば、そしてそこに『信州百物語(信濃怪奇伝説集)』に先行する「蓮華温泉の怪話」を見出しておれば、その後も展開も変わったかも知れないと思うのだが、残念ながらそれ以上の探索はなされず、星野氏の発見自体が埋もれてしまうこととなったのである。
 ついでだから、民話と小泉八雲「雪女」を比較しての、星野氏の簡単な評も抜いて置こう。225頁9~17行め、

 こうした双者の対比を通してみる時、誰でも気のつくことは、八雲作に形容語の多いことである。/これは、右の梗概には見えないが、少しく八雲作にあたると、気のつくことである。それは又、こ/の作品『怪談』の発刊された、明治三七年代の当時の文芸思潮から照合した場合にも、多い、とい/うことで特異な表現の一つであったといえるものである。
 その他としては、民話に較べて詳細であることは当り前として、会話の部分が多く、重要な要素/になっているのに対して、民話の方は先の綺堂の項でふれたように、筋の展開に重点が置かれてい/る、ということでの相違がみられることである。このことは、同一の民話にあって、会話を除去し/ても左程内容に変化をきたさないのに対して、八雲作ではその逆の性格をもっということである。
 ここに、綺堂の戯曲的な指向に対する八雲の小説的指向をみるのである。‥‥


 この評からも察せられる通り、青木純二に淵源する話が再利用されているのを(偶然)見付け出した以上の価値は、星野氏の小論には認められないように思う。――「梗概」では分からない「形容語の多」さを唐突に持ち出されても困るので、もっと長い文章で丁寧に指摘するべきだったろう。それから「明治三七年代」と云うのも妙だが、「当時の文芸思潮」と云って、何と比較しているのであろうか。国内の作家・文壇とであれば、英語で著述した小泉八雲(Lafcadio Hearn)がそれに従っていないのは当然だろう。
 ただ、分かりにくい形ではあるが小泉八雲「雪女」の土着(?)の例を早期に指摘したものとしての評価は出来るであろう。尤も『アルプスの民話』の「雪おんな」は、遠田勝が指摘しているように青木純二『山の傳説 日本アルプス』の「雪女」を書き換えただけの代物で、所謂「民話」ではあっても伝承されているものを採集した訳ではない。――遠田氏は労を厭ったのか他の話には触れていないが、かなりの部分を『山の傳説 日本アルプス』から採っている。次に、山田氏の『山の傳説 日本アルプス』利用の実態を確認したいと思う。(以下続稿)

*1:ルビ「こ ゆき」。

*2:正しくは中腹。

白馬岳の雪女(02)

 この問題に関しては、遠田氏もしくは牧野氏の論文を辿りながら確認して行くのが良さそうだけれども、その前に幾つか、手許にある資料を片付けて置こう。
 さて、昨日「「雪女」にそっくりな話が、白馬岳にも伝わっている(?)ことは、昭和50年代から問題になっていた」と書いたけれども、牧野氏が取り上げている1つは今野圓輔『日本怪談集 妖怪篇』で昭和56年(1981)刊、それからもう1つが中田賢次「「雪女」小考」である。中田氏の論考は、今の私には直ちに見ることが出来そうにないので、ここに書誌データだけ牧野氏の紹介よりも若干詳しく、富山大学附属図書館 編纂『富山大学ヘルン文庫所蔵小泉八雲関係文献目録*1』改訂版(1959(昭和34年)10月25日初版発行・1998(平成10年) 2月19日改訂版発行・非売品・富山大学附属図書館・x+182+A-91+T-92+M-06+N-03)*2によってメモして置こう。
・中田賢次「「雪女」小考」(「へるん」第19号・昭和57年6月・八雲会(松江)・46頁)
・中田賢次「「雪女」小考(つづき)付マルチニーク旅詠」(「へるん」第20号記念特別号・昭和58年7月・八雲会(松江)・55頁)
 なお、中田氏は昭和57年(1982)及び昭和58年(1983)の「小考」より前、昭和51年(1976)にも雪女を扱った論文を発表している。
・中田賢次「Lafcadio Hearn論考:怪談:YUKI-ONNA の成立をめぐって」(「茨城工業高等専門学校研究彙報」第11号9~30頁・昭和51年3月・茨城工業高等専門学校(勝田))
 これには牧野氏や遠田氏は触れていない。地方の高専の研究紀要で参照しづらかったため(存在にも気付かずに)見落としたのか、「小考」とは違いこの時点では白馬岳の雪女には触れていなかったのか。確かめたいところだけれども、都内の図書館には所蔵がないらしく、あったとしても中々出掛けられない。
 中田氏は「毎日新聞」2019年11月3日付の地方版(茨城)の記事「秋の叙勲 県内の受章者 /茨城」に「瑞宝小綬章(18人)」の1人として「海生正雄(中田賢次)80茨城工業高専名誉教授=ひたちなか」と見えている。海生正雄は筆名らしい。昭和14年(1939)生であろう。永年の Lafcadio Hearn 研究を1冊に纏める計画はないのであろうか。
 それはともかく、私はこれに、1つ補足しようと思っている。2013年7月1日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(20)」に取り上げた星野五彦『近代文学とその源流―民話・民俗学との接点―(以文選書20)で、昭和57年(1982)7月刊である。その「第三部 近代編」の213〜226頁「3 綺堂と八雲――伝説と創作を通して――」の岡本綺堂「木曾の旅人」に関連する箇所は既に検討したように「余り緻密なものではない」が、ある意味先駆的な業績であった。そして小泉八雲に関する箇所も、2019年9月15日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(118)」に触れたように、やはり「後に多くの研究者が取り上げることになるテーマを先取りしたもの」で、白馬岳の雪女について取り上げたものだったのである。(以下続稿)

*1:ルビ「ラフカディオ・ハーン」。

*2:正誤表は1枚で僅か。カラー口絵1頁。ローマ数字は前付10頁、A「著者・編者・訳者索引及びその文献」、T「書名・文献名索引 (ハーンの著書含む )」、M「問題索引」、N「小泉八雲年表」。

白馬岳の雪女(01)

 しばらく遠ざかっているうちに色々と忘れてしまった。――女子高の講師をしていたときには生徒の顔と名前を大体すぐに覚えてしまったのに、その後、花粉症を発症して、そのせいか鼻中隔彎曲症の影響も顕在化してからは、人の顔と名前が覚えられなくなった。それでも、従前通り記憶力の良いつもりでいたせいで、色々と間違いを犯した。しかしそれも昔の話で、今はもう覚えられない前提である。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 小泉八雲(Lafcadio Hearn)の『怪談』に収められる「雪女」にそっくりな話が、白馬岳にも伝わっている(?)ことは、昭和50年代から問題になっていたらしい。
 そのことは2019年10月15日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(132)」に触れた牧野陽子「「雪女」の "伝承" をめぐって――口碑と文学作品――」に、遠田勝『<転生>する物語』を批判する形で紹介されていた。
 牧野氏のこの論文は、その後、牧野氏のラフカディオ・ハーンを主題とする論文集の「三作目」に再録されている。
・牧野陽子『ラフカディオ・ハーンと日本の近代 日本人の〈心〉をみつめて2020年12月15日 初版第1刷発行・定価3600円・新曜社・390頁・四六判上製本

 159~274頁「Ⅱ それぞれのハーン――日本近代の思考の形」に5章収められるうちの最後、248~274頁に「第九章 「雪女」の〝伝承〟をめぐって――口碑と文学作品」。
 青木純二のアイヌ伝説及び「白馬岳の雪女」捏造に関しては、これを批判した遠田氏の著書から検討するべきだのに、遠田氏の本の内容がネット上ではほぼ牧野氏が遠田氏を批判したこの論文でしか知られていないせいか、やや偏った議論がなされて来たように思う。牧野氏は遠田氏が立てた、ハーンが先か、白馬岳が先かという「「雪女」論争」がある、とする前提を批判するのだが、そのついでに遠田氏の指弾する青木氏の悪行(?)も、それほどのことではないかのように印象付けようとしている。そして、遠田氏の著書にも取り上げられていた旧稿「ラフカディオ・ハーン『雪女』について*1」で述べていた、旧制中学の英語教材から土着したとする見解を再び持ち出すのである。
 もちろん「「雪女」論争」については牧野氏の云う通りだろう。しかし、遠田氏も結論は「ハーンが先」なのだけれども当初「白馬岳が先」のように思っていた、と云うのは、そう通りなのだろう。実際のところ、牧野氏の云うように「論争」など起こっていないのだが、この問題はそう単純に片付けられない。地元では「論争」なしに「白馬岳が先」と思い込んでいる人が相当数いるらしい。遠田氏だって諸資料を検討するまでは「白馬岳が先」のような印象を持っていたから、わざわざ半年の研究休暇(Sabbatical)の課題に選んだ訳だし。それから、何と云っても青木氏の役割軽視は全くいただけない。やはり青木氏がでっち上げたことで「白馬岳」に「雪女」伝承が定着(?)してしまったことはほぼ間違いないと思う。
 当ブログではこれからしばらく、遠田氏よりも前(!)にこの問題に取り組んでいた民俗学者の論文も参照しつつ、「白馬岳の雪女」伝承(?)が、同じく青木氏の捏造と思われる「蓮華温泉の怪話」以上に広く文献に取り込まれ、既成事実化していった過程を、確認しようと思う。ただ、前置きに書いたように最近物忘れが激しいので、準備に手間取っているうちに色々なことを忘れてしまった。手間取ったのは関係する本が多くて中々手許に揃えられないからで、ある程度の見通しは一昨年の時点で立てていたのだが、中々着手出来ないでいるうちにまた色々忘れてしまった。そこでぼちぼち思い出しつつ、多種の本を少しづつ借りながらメモを取っていくので、先に書いた結論めいたことの輪郭が見えて来るまで時間が掛かることと思う。論文化する機会でもあれば、思い切って一気に進めてしまうのだけれども、――宜しければどなたか(私に書かせてみては)如何でしょうか。(以下続稿)

*1:この論文の改題・再録については別に述べる予定なので今は初出の題のみ示して置く。

芥川龍之介「尾生の信」(12)

 さて、7月14日付(11)までの『荘子』に続いて『戦国策』『史記』『淮南子』を見て、それから「微生高」について確認するつもりだったのだけれども、借りていた本を返却してしまって、今、こういう時世なので続けて借りることが出来ない。前回の緊急事態(何度もある緊急事態と云うのも妙だけれども)のときは、幾つかの公立図書館で緊急事態が解除されるまで貸出期間が延長されたのだが、今回は65歳以上の半分がコロナのワクチンの2回接種を済ませているせいか、貸出期間の延長はしないようだ。
 いや、通勤電車も混んでいる。緊急事態でなかった時期よりも混んでいる。先々週の土曜、勤めの帰りの昼の電車が、遊びに出掛けるような連中で混んでいた。緊急事態が月曜からなのは飲食店の仕入れや営業方針を決める余裕のためで、その前だから遊んで良いという基準ではないはずなのだが。そして、冬の寒い中でも開いていた窓が、今は閉まっている。最近のJRの客車の窓は重くて体重を掛けないと下がらない。雨の日と暑い日は開かなくなった。マスクをせずに歩いていて、人と擦れ違うときに口にだけ掛ける人がいる。鼻を出して、閉じた口をマスクで隠したところで意味がないだろう。文句を言われないために仕方なしにしているだけで、どうせ罹らないと思っているのである。そして、私のような花粉症の人間からすると、これだから花粉症の苦しみを知らぬ人間はマスクも満足に出来ないのだと思う。もう都下は、マスクだけ申し訳にして、後はコロナ蔓延前と何ら変わりない。都内はもっと緩んでいるのであろうか。
 私らの世代にもワクチンの予約が始まったので、初日に予約を入れた。家人は開始直後にネットで予約を入れようとしたら、すぐに開業医の枠は一杯になってしまい、電話も通じない、と云うので大規模接種会場の予約をした。私は昼前に掛り付け医に電話をして、あっさり予約が取れた。ネットの枠は少なく設定してあって、電話が通じれば取れるだろうと思って、混雑が収まる頃を見計らって掛けたのである。私の方が4日早く接種することになった。
 新聞は、6月12日付「新聞解約の辯」に述べたように、今月から取っていない。大して困らない。テレビは、昨年何事もなく開催出来ていたら、今頃お祭り騒ぎをしていただろうと思うが、大して盛り上がっていない。しかし、流石に今月になって、目に付くようになってきた。だから見ないようにしている。YouTube で The 18th International Fryderyk Chopin Piano Competition (preliminary round) の LIVE 配信など見ているから退屈しない。開催反対の署名にも2箇所参加した。かつての教え子に、オリンピックを目指している生徒もいないではないのだが、しかしこのオリンピックは開催した方がスポーツ界にとって痛手になると考えるので反対を表明して置いた。反対するのは反日だとか、頭の悪い連中向けの単純化に付き合っていられない。いや、反対している反日(!)に「負け」たくないから中止にしなかったように見えるのは、私が総理の総合的俯瞰的判断とやらのレベルを低く見積もり過ぎているからであろうか。――頑張っている選手たちのことを思えとか言う人がいるが、私は選手たちの今後に禍根を残さぬよう、今回この状況下での開催は回避するべきだと考えるのである。
 そう云えば、今月上旬に夫婦揃って2回めのワクチン接種を終える両親に、私らも予約を入れたことを報告旁々、「後はオリンピック中止の発表を待つばかりです」と書いたメールを送ったら、返信が来ない。どうも、私が状況の悪化を願っていると取られたらしい。そんなものは願っていないが、政府の緩い感染対策とオリンピック強行を掛け合わせれば状況の悪化は目に見えているので、そこで考え得る最善策を書いたまでである。私は現実主義者なので願望を書いたりしない。知識と理解力に限りがあるから、徹底的に分かった上で判断する訳ではないが、一応学問をしていた人間として、文系研究者が自分の読みに合うように材料を配置し理屈を捏ね上げて論文を書いているのに辟易していた口なのだ。それが昨年来、理系も大して変わらないことが明らかになってきた。日本の大学がいよいよ衰退する訳だ。それはともかく、――しかし、私の母などは「(中継を)見ていると(阪神が)負けるので見ないようにしている」と言うので、別に母が見ていなくても負けるときは負けるので、別に母が気を揉んでいることでその不安の念が選手たちに送られてどうかする訳でもあるまいに、と思っていたのだが、どうも、こういう言魂めいた発想が日本の上層部に蔓延していて、それが対応の硬直化を招き、或いは批判封じにも活用されていることに、呆れる他ないのであった。まぁしかし、ここまで対案を否定するような空気を作り上げている政府・与党が、野党に「対案を出せ」なんてよく言えたものだ。狙いは明らかだろう。ジャーナリストならその卑劣さを衝くべきなのに、それをしないからいよいよ付け上がってやりたい放題である。
 前置きが長くなったが、「尾生の信」の検討を再開するのはしばらく先のことになるが、今「尾生の信」を取り上げたことの意味を説明して置かないことには、何のことだか分らなくなると思うので、ここで一応のけりを付けて置こう。まぁ、当ブログには肝腎な点を説明せず、ある程度の見通しがついたところで「中島京子『小さいおうち』」のように書きさしにしている記事が多々あるので、結論など書かなくても良いような気もするのだけれども。
 だから、簡単に済ませよう。7月9日付(06)の最後に述べた通りである。国際的公約だろうが「安心安全」が全く実現出来そうにない以上、その「信」を守らないことは仕方のないことである。「義」によって中止にするべきである。しかしそれが出来ない。これまで何度も中止にする機会があったのに、悉くそれを潰して来た。
 これで損害が出るとして、それはオリンピック強行に加担したスポンサー企業に出資していただきたい。間違っても、世論調査などの機会を捉えて反対を表明して来た国民に被せないでいただきたい。いや、東京大会は準備が整っているとIOC会長が絶賛しているそうだから、何かあったときの責任及び金銭の負担はIOCの会長や幹部にお願いしたい。これでも強行したのは貴方たちなのだから。来日した各国の選手・関係者、ここまでぐだぐだだと思わなかっただろうが、それは情報収集が足りない。来てから文句を言うくらいなら、もっと情報収集して開催に反対すべきだった。IOCと日本政府に騙されたのには少々同情するが、連中のこれまでのふざけた対応を見れば、判りそうなものだ。それから、チケットの払い戻しだが、既に2020年3月10日付「図書館派の生活(4)」及び2020年3月19日付「冲方丁『光圀伝』(1)」にて、昨年の分について反対を表明した。しかし払い戻すことになってしまった。ただ、昨年は急にこんなことになったのだから払い戻すのも仕方がないと言える。しかし、今年のチケットを持っているような人は、見通しが甘い、脳天気としか云いようがない訳で、その分を我等反対を訴えて来た貧民に押っ被せるようなことは、慎んでいただきたい。本当に、昨年延期などせずに、2020年3月26日付「飯盒池(6)」の付足り等で訴えたように中止しておれば、感染者も死者も少なく済み、感染対策ももう少しマシになっただろう。‥‥いや、政権が同じなら別件で何かやらかしたか。前総理の頃からずっとやらかし続けているのに未だに支持率がトップなのだから、今後も平気でやらかし続けるだろう。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 日本国民の半数以上がオリンピック開催に反対している、との報道に対して、当の日本人が何回もあった選挙の度にこの政権を選び続けているじゃないか、との批判が海外からなされていた。しかし、これには理由があると思う。――コロナ前のことだが、私の父が会社のOB会で(前)総理や与党を批判するような発言を、父の世代は大学生の頃に60年安保があって多少なりとも政治に熱を上げた世代だから、昨今の出鱈目な自民党政治を当然批判的に眺めているだろうとの予測から、したのだけれども、全く賛同が得られない。驚いて問い質すと、皆、自民党支持だと言うのである。
 しかし、私にはこれが分かるのである。前総理は政権復帰直後に株主(資産家)優遇の株価高値安定政策を打ち出した。それまで、バブル崩壊リーマンショックで資産を減らした層にとって、これほど安心なことはない。かつ、年金の原資を株式市場に投入した。年金を減らさないためにも株価は高値で維持してもらわないことに困る。そしてこれは、株など持っていない、年金に頼らざるを得ない層にも大いにアピールした。株価が下がると困るのである。自分たちの資産、老後の安定を人質に取られているから、この政策を放棄する可能性のある野党には絶対に任せられないのである。そして、弱者であっても、年金を身代金みたいにされているから、実は貧困層に余り旨味はないのに、株価が下がったら困る、と云う強迫観念に捉われている。その間政府は、例えば China や Korea に対抗しうる産業や学術の競争力を養成するような方策を採って来なかった。今、ワクチンしか選択肢がないのと同じで、株価しかないのである。日本社会の凋落・先細りは目に見えている。そんな中で、実際には大した成長もしていないのに株価だけを維持する政策に、夢を見たいのである。しかし、まぁ私の父の世代はそれで逃げ切れるかも知れないが、それ以下の世代が同じ夢を見ようとしても地獄が待っているだけだろう。しかし、社会が閉塞して別の選択肢がない。いや、痛みを伴う選択肢しかない。だから前総理の甘言に易々と踊らされてしまう。まぁチョロいものである。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 私はオリンピックには初めから反対である。IOCのような汚れた組織は解体するべきだろう。それから、日本の予算制度は何とかしないといけない。十全に開催出来る見込みがないのに、一度予算が通ると執行を止めることが出来ないのだ。民主党政権の躓きはここにもあったと思う。震災復興予算として、随分無駄で奇怪な要求がありながら、それを通してしまった。弾くべきだったし、通してからも審査して止めるべきだった。それはともかく、最近の不景気で、予算がかなり絞られている。渋くなっている。しかし、大規模イヴェントに関連すると、額も大きく、通りやすくなるのである。震災復興のように、少しかすっている程度の案件でも通ってしまう。官僚は予算獲得が手柄になるから、大規模イヴェントが大好物である。名目さえあれば無駄使いに歯止めが掛からない。むしろ巨額の予算を動かせて大手柄になる。だから、やりたがった。そして、関係先に金をばらまいた。納税者の敵としか言い様がないが、官僚の世界では安泰だろう。この状況下で恩を売った先に天下りも出来るだろう。
 無駄になることが分かっている予算の執行を止める制度が出来ない限り、税金の無駄使いは今後も延々続く。見通しが悪くなった時点で、中止出来るようにしないと今後も本土決戦みたいなことが繰り返されるだろう。そして、その政治家や官僚の失策が、結局国民の負担にされる。それだのに、現状維持の選択しか出来なくなっているとは、全く哀れな状態としか云いようがない。
 こうなってはオリンピック強行が現状打破の突破口になることに期待するしかないのであろうか。――まだ女を待ち続けた尾生の方が幸せだったように思えて来た。(以下続稿)

上田満男『わたしの北海道』(2)

 昨日の続き。
 続いて「第二部 開拓の歴史」の細目を見て行くつもりだったが、それは秋以降、余裕があるときに果たすこととしたい。
 さて、本書に関しては、ネット上には古書店の在庫状況くらいしか情報がない。元の連載についても、何せ北海道版の、40年以上前の連載なので、ネット上には情報が殆どない。昨日見た「序にかえて」にあったように、本書刊行後も連載は続いているのだが、何故か続刊されなかったため、連載が何時まで続いたのかも分からない。
 その、ネット上の僅かな情報が、ブログ「雑多なこころ」の「柴崎重行関連記事「朝日新聞北海道版 わたしの北海道」の要旨と感想」である。本書刊行後の「昭和52年(1977年)9月13日から9月16日までの4日間、朝日新聞北海道版に掲載されたコラム「わたしの北海道 語る人 柴崎重行さん」」を国立国会図書館の新聞資料室のマイクロフィルムで閲覧して、その要旨を紹介、感想を述べている。
 火曜日から金曜日まで4回、それぞれに「睥睨(へいげい)」「異端者」「素材」「作品論」との副題があるとのこと。本書の各篇も4節に分かれているが、掲載時の体裁を襲っているのであろう。「4日間全体の内容は、ほぼ全て柴崎重行氏のインタビュー。但し記者(編集委員 上田満男氏)から柴崎氏への質問は書かれていない。」と云うのも本書の体裁に合う。
 担当は朝日新聞北海道支社の編集委員・上田満男が一手に引き受けていたようだ。しかし上田氏の情報もネット上には乏しく、存命かどうかも分からない。
 僅かな手懸りは、昨日引いた上田賢「序にかえて」の記述と、318頁の次、奥付の上に横組みで、

うえだ・みつお
1930年北海道室蘭市に生まれる。
1953年朝日新聞記者。北海道支社報道/部次長、秋田支局長を経て、現在編集/委員。

とあることくらいである。

 秋田支局長時代のことは、あきた文庫2『花岡事件ノート』の3~6頁、上田満男「序・花岡事件」に、5頁2行め、

 昭和四十九年八月、秋田支局に赴任して、支局の清水弟記者から「花岡事件」を聞き、‥‥

とあって、昭和49年(1974)8月に朝日新聞北海道支社報道部デスクから秋田支局長に転じ、昭和50年(1975)には北海道駐在の編集委員として北海道支社に戻ったようである。『花岡事件ノート』の著者清水弟(1947生)は東京外国語大学フランス語科卒業で、後にパリ支局長などを務めている。
 しかし、色々と検索を掛けてみるうちに、北海道立図書館に「わたしの北海道」の、恐らく切抜きが5冊に整理されて所蔵されていることが分かった。これによると連載時期は昭和51年(1976)1月から10月までと、昭和52年(1977)7月から12月までで、本書は昭和51年分から抜萃されたものと云うことになろう。
 それから上田 満男 著「わたしの北海道 伊藤雪女さん」2枚がヒットするが「朝日新聞記事(昭和52.10.25)」とあって、柴崎重行(1905~1991)の翌月に掲載されたものであることが分かる。伊藤雪女(1898.2.12~1987)は俳人で、伊藤凍魚(1898.7.1~1963.1.22)の妻。
 他に「北の語りべ 戦争とは・・・」山川精 語り、上田満男 聞き手「朝日新聞」北海道版連載(昭和61.8.12〜9.25 20回)記事切り抜き綴が所蔵されている。「北の語りべ 北海道」などで検索を掛けてみると、やはり上田氏のインタビューで昭和61年(1986)1月7日~ 2月27日まで24回連載された「北の語りべ 辺境に求める画人 木村捷司」が、洋画家・木村捷司(1905.9.9~1991.7.16)の資料として取り上げられていた*1。他にも、多々このような企画を実行していたと思われるのだが、書籍に纏められたのが本書のみのため、埋もれてしまっているようだ。北海道在住の篤志家による発掘・整理をお願いしたい。(以下続稿)

*1:北海道新聞」としているものは誤りであろう。

上田満男『わたしの北海道』(1)

・すずさわ叢書14『わたしの北海道アイヌ・開拓史1977年7月25日発行・定価1,200円・すずさわ書店・318頁・四六判並製本

 見返しは表紙・裏表紙とも黄緑色の要旨に緑で北海道の白地図(緑?地図)が見開きに刷られている。
 1頁(頁付なし)扉。
 本書の由来は3~4頁「序にかえて」に、北海道の歴史を語る本が多い中で、3頁5~8行め、

 朝日新聞北海道支社では、五十一年一月から「わたしの北海道」という長期連載企画をはじめま/したが(現在も連載中)、数ある北海道の歴史もののなかに、あえて さらに一つを付け加えよう と/したのは、やはり北海道の自然の美しさのほかに、その開拓の歴史の得意さが書き残すべき価値を/感じさせたのです。

と、昭和51年(1976)11月から始まった連載企画であることが分かる。
 意図と標題については、3頁9行め~4頁1行め、

 北海道に生き、その歴史を自分の手で作り上げてきた証人たち、その人たちのナマの言葉を中心/にして北海道の自然と道民の苦闘の生活を語りながら、同時にその人の生きざまを通じて時代に生/きるとは何か、その人にとって北海道とは何であったかを考えたかったからです。聞き書きの形式/をとり、「わたしの」と名付けたのもその意味です。

とある。そして最後、4頁7~14行め、

 この本は、以上の連載のなかから、とくにアイヌ関係と開拓に関連したものを中心に編集されま/した。北海道の原点は、まさしくそこにあるわけで、こうした形で出版されるのも意義深いことです。
 筆者の上田満男氏は、北海道室蘭市の生まれで、朝日新聞記者として道内各地に勤務し、現在、/編集委員(北海道駐在)として活躍中です。道内の歴史、事情にもくわしく、最適の人を得たと考/えています。
  昭和五十二年七月
                           朝日新聞北海道支社編集総務
                                   上 田   賢


 5頁(頁付なし)は「目次」の扉で、6~8頁(頁付なし)に、最初の「序にかえて」と最後の「あとがき」のみ、間を「…」で繋いで、下部に前者は「上 田  賢」、後者(8頁9行め)は「 309」と頁を示す。6頁2行め「第一部 アイヌのゆくえ」と7頁8行め「第二部 開拓の歴史」には頁が入っていない。第一部には15人、第二部には10人、合計25人が収録されている。
 見本として目次の3人めを見て置こう。

  米村喜男衛 一個の小石――ババーショップ――消えた民族――博物館の建設 35


 2字下げ、「…」の代わりに見出し4つで「あとがき」と同じ高さの頁に繋いでいる。
 9頁(頁付なし)「第一部 アイヌのゆくえ」の扉。
・11頁(頁付なし)1人めの扉、左上にやや大きく「萱 野  茂」、左下に顔写真、その右に12行の紹介文、冒頭はゴシック体で「かやの・しげる 日高支庁平取町生まれ。‥‥」と名前の読みをゴシック体で、次いで出身地を示す。最後は「‥‥、51歳。」と、恐らく取材時の年齢。節の見出しは2行取り3字下げのゴシック体。
 12頁1行め「二風谷■
 14頁7行め「民具収集■
 16頁14行め「昔 話■
 19頁12行め「アイヌ精神■」22頁1行めまで。
 1行空けて5字下げでやや小さく16行めまで<注1>から<注4>。
・2人め、23頁「西村 武重」85歳。
 24頁1行め「ハギの原野■
 26頁7行め「幸太郎■
 28頁14行め「吹 雪■
 31頁3行め「ヒグマ■」33頁13行めまで。
 <注4>まで34頁8行めまで。
・3人め、35頁「米村喜男衛」84歳。
 36頁1行め「一個の小石■
 38頁6行め「ババーショップ■
 40頁12行め「消えた民族■
 43頁1行め「博物館の建設■」45頁15行めまで。
 <注8>まで47頁13行めまで。
・4人め、48頁「大場 利夫」64歳。
 49頁1行め「謎の標本■
 51頁1行め「頭がい骨■
 53頁7行め「オホーツク文化
 55頁10行め「研究施設■」58頁3行めまで。
 <注6>まで59頁11行めまで。
・5人め、60頁「吉田 武三」74歳。
 61頁1行め「大旅行家■
 63頁15行め「第一歩■
 66頁4行め「百印百詩■
 68頁8行め「名付け親■」70頁11行めまで。
 <注4>まで71頁12行めまで。
・6人め、72頁「高倉新一郎」74歳。
 73頁1行め「アイヌ政策史■
 75頁6行め「使命感■
 78頁3行め「北海道史■
 80頁2行め「道政裏面史■」81頁まで。
 <注6>まで83頁12行めまで。
・7人め、84頁「喜多 章明」80歳。
 85頁1行め「地主貧乏■
 87頁1行め「旭明社■
 89頁12行め「保護法■
 91頁13行め「義経譚■」93頁14行めまで。
 <注5>まで94頁17行めまで。
・8人め、95頁「山田 秀三」78歳。
 96頁1行め「エゾッコ■
 98頁6行め「クマの出る峠道■
 100頁5行め「列島の仲間■
 102頁3行め「北海道バカ■*1」104頁11行めまで。
 <注10>まで106頁20行めまで。
・9人め、107頁「渡 辺  茂」70歳。
 108頁1行め「伝 説■
 110頁6行め「方言集■
 112頁11行め「地方史■
 115頁8行め「館 主■」117頁12行めまで。
 <注4>まで118頁12行めまで。
・10人め、119頁「更科 源蔵」73歳。
 120頁1行め「囚人開拓■
 122頁8行め「コタン生物記■
 124頁5行め「地名解■
 126頁1行め「消えた記録■」127頁13行めまで。
 <注8>まで129頁20行めまで。
・11人め、130頁「児玉 マリ」47歳。
 131頁1行め「服飾研究■
 133頁1行め「アツシ織り■
 135頁4行め「オヒョウの木■
 137頁5行め「骨とう品■」139頁13行めまで。
 <注7>まで141頁9行めまで。
・12人め、142頁「越崎 宗一」75歳。(一九七六年死去)
 143頁1行め「小樽往昔■
 145頁1行め「豆選女工
 147頁7行め「運河を守る■
 149頁15行め「アイヌ絵■」152頁1行めまで。
 <注6>まで153頁10行めまで。
・13人め、154頁「犬飼 哲夫」79歳。
 155頁1行め「百年の縮図■
 157頁8行め「タロー■
 159頁13行め「ラクール
 162頁16行め「森林資源■」165頁1行めまで。
 <注8>まで166頁20行めまで。
・14人め、167頁「梅木 通徳」74歳。
 168頁1行め「鉄道百年史■
 170頁1行め「除 雪■
 172頁15行め「資料収集■
 174頁3行め「ハイタク事始め■」177頁3行めまで。
 <注9>まで178頁20行めまで。
・15人め、179頁「小池 喜孝」60歳。
 180頁1行め「鉱毒移民■
 182頁1行め「鎖 塚■
 184頁7行め「タコ労働■
 187頁1行め「民衆史講座■」188頁7行めまで。
 <注8>まで190頁20行めまで。(以下続稿)

*1:字下げなし。

池内紀の中公新書(1)

 5月8日付「池内紀「雑司が谷 わが夢の町」(3)に取り上げた中公新書2023『東京ひとり散歩』は、2007年と2008年の2年間「中央公論」に連載した「足の向くままいちにち散歩」を中心に纏めたものだった。――この頃、池内氏は「中央公論」に持っていた連載を、大体2年ごとに本に纏めていたらしい。
中公新書1742『ひとり旅は楽し』2004年4月25日発行・定価720円・207頁

 206~207頁「あとがき」は、207頁13行め「二〇〇四年三月」付、最後に初出の説明と謝辞がある。207頁8~12行め、

「自由時間――ひとり旅は楽し」と題して『中央公論』に二〇〇二年一月号から二年間にわ/たり連載した。そのかなりをホテルの机や、駅のベンチや、旅先のカフェで書いた。地球の/裏側から送ったこともある。
 連載中は中央公論編集部の藤平歩さん、中公新書に収めるにあたっては並木光晴さんのお/世話になった。とても楽しい仕事になった。

とある。
 内容についてはカバー表紙折返しの右上、2本の子持線(3.7cm)の1本めの上に横組み明朝体太字で標題、2本の間(8.7cm)に縦組みで以下のように紹介されている。

ひとり旅が自由気ままと思うのは早計というもの。ハー/ドな旅の「お伴」は、厳選された品々でなければならな/い。旅の名人はみな、独自のスタイルをもっている。山/下清の下駄や寅さんの革トランクにしても、愛用するに/は立派なワケがあるのだ。疲れにくい歩き方や良い宿を/見つけるコツから、温泉を楽しむ秘訣、さらには土産選/びのヒントまで、達人ならではのノウハウが満載。ここ/ろの準備ができたら、さあ旅に出かけよう。


 他の著作に共通する記述が見られるようだが、池内氏の本を多く見ていない(もちろん持っていない)私には余り多くは分からない。――「あとがき」の書き出し、206頁2~6行め、

 高校二年の夏休みに、列車を乗り継いで本州一周をした。いま思えば幼い旅だったが、記/憶がしばしばそこにもどっていくから、「旅歴」といったものの始まりだったのだろう。わ/が家、わが町を出る。とたんに五感がいきいきしだすことに気がついた。目がこまかく観察/する。耳が声や音を聞き分ける。鼻が匂いをかぎとる。ふだんとちがう自分がいる。「もう/一つの人生」がある。


 この旅行の詳細は『記憶の海辺』や歿後に纏められた『昭和の青春 播磨を想う』に収録された「姫路駅三代」に詳述されている。
 それから私が注目している居住歴では、115~149頁「Ⅳ」章の4節め、142~149頁「身近なところで」に、142頁4行め、

 私は東京の西寄りの一角、地名のおしりに「寺」のつく町にすんでいる。‥‥

とある。国分寺市で、三鷹市に移ったのはこの連載中か後と云うことになる。
 ついでだから中公新書1742『ひとり旅は楽し』中公新書2023『東京ひとり散歩』の間に挟まる1冊も見て置こう。
中公新書1885『異国を楽しむ』2007年2月25日発行・定価720円・198頁

 195~198頁「あとがき」は、198頁8行め「二〇〇七年一月」付、最後に初出の説明と謝辞がある。198頁1~7行め、

 平成十七年(二〇〇五)一月号から二年間にわたり、『中央公論』に連載した。その間、/井之上達矢さんのお世話になった。原稿のうちの三分の一ちかくは旅先から送った覚えがあ/る。ファクシミリ送付をたのんで手書きの原稿を差し出すと、ホテルのフロント係は、フシ/ギな日本語の書き文字をしげしげとながめていた。
 新書にしてくださったのは、中公新書編集部の高橋真理子さん、どうもありがとう。同じ/中公新書の『ドイツ 町から町へ』『ひとり旅は楽し』に『異国を楽しむ』が加わって、気ま/まな旅の三人づれができた。


 「中央公論」への連載は『ひとり旅は楽し』以前から始まっているようだ。そして『東京ひとり散歩』以後も続いたようだ。2004年には連載がなかったのであろうか。――6月26日付「池内紀『記憶の海辺』(6)」の最後に述べたように、池内氏の『全集』は出しようがないし、繰り返しもしくは異文(variant)が多いから網羅しても余り意味がないと思う。だから、早く、誰か、初出・再録まで分かるような、完全な著述目録を作成・公開して欲しいのである。(以下続稿)

小谷野敦の新書(1)

 私は小谷野敦(1962.12.21生)の著書はブログや Twitter の延長のような感じで大体面白く読んでいる。ミステリーファンから酷評されていた『このミステリーがひどい!』も、どうも探偵小説を手にする気になれない(2時間ドラマなど映像化されたものは見ているのだけれども)私には、それほど酷いとは思えなかった。――この書き方だとミステリーに対してなのか、小谷野氏に対してなのかが分からないな。
新潮新書688『本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝2016年10月20日 発行・定価740円・221頁

 小谷野氏は「小谷野敦 公式ウェブサイト「猫を償うに猫をもってせよ」」の「小谷野敦の著書訂正」に、「自著の訂正一覧」を公表している。私は全ての版元・著者がこういう配慮を示すべきだと思っているが殆ど見当たらないので貴重だと思うのだけれども、本書は取り上げられていない。――頭から細かく読んだ訳ではないのだけれども、本書にも幾つか誤りがあったのでここに報告して置く。
・61頁11~12行め「‥‥「バルバロイ(野蛮人)」と読/んで‥‥」は「呼んで」。
中島敦を取り上げた節に、122頁11~15行め、

 ほかのシナものも、まあだいたい原典をいじっただけのもので、芥川賞候補になった/「光と風と夢」は、スティーヴンソンがタヒチ島に移住して書いた「ヴァイリマ書簡/集」をもとに書いたものである。中島は、ポナペ島へ教科書編纂官として赴任したが、/ポナペ島は日本統治下にあったミクロネシアの島で、今はポンペイ島というらしい。タ/ヒチはポリネシアで太平洋のずっと東の方である。

とあるのだが、小谷野氏は121頁10~11行め、

 私は『中島敦殺人事件』論創社、二〇〇九)という小説を出して、中島を批判したの/だが、‥‥

とあるように、中島敦については相当調べているはずなので、わざと間違えたのではないか、と思われるくらい奇怪な誤りである。
 スティーヴンソン(1850.11.13~1894.12.3)が晩年移住したのはタヒチ島ではなくサモアウポル島である。それから中島敦(1909.5.5~1942.12.4)が赴任したのはポナペ島ではなく南洋庁が置かれていたパラオのコロールである。
 過去に調べたことでも記憶は捻じ曲がる。記憶に頼って書くのは危うい、と云うことなのであろう。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 小谷野氏の新書は図書館で見掛けると気分転換用に借りているのだが、小説は読んだことがなかった。『中島敦殺人事件』辺りから手を着けてみることにしよう。(以下続稿)

芥川龍之介「尾生の信」(11)

 一昨日からの続き。
・『荘子』雜篇盗跖第二十九(3)
 「盗跖篇」には「孔子と盗跖の問答の他に2話「」子張と満苟得の問答(115~123頁)、「」无足と知和の問答(124~133頁)が収録されている。その「」にも、似たような文脈で尾生が持ち出されているのである。
 岩波文庫荘子 第四冊(雑篇)』116頁2行めの註*1に「 子張――孔子の弟子。道義的な儒家の立場を代表する。」とあって実在の人物(顓孫師)を使っているが、他の3名は架空、満苟得は116頁2~3行めの註に「 満苟得――少しでも獲得して満足すると/いう意味。欲望のまま利に走る立場を代表する。」と解説されている。
 それでは岩波文庫金谷治の校訂した当該箇所の原文を見て置こう。119頁16行め~120頁1行め、

‥‥、比干剖心、子胥抉眼、忠之禍也、直躬証/父、尾生溺死、信之患也、鮑子立乾、申子自埋、廉之害也、孔子不見母、匡子不見父、義之失也、/【119】此上世之所伝、下世之所語、以為士者、正其言、必其行、故服其殃、離其患也、


 金谷氏の書下し文を前回と同様に手を入れて抜いて置こう。120頁15行め~121頁1行め、

 比干は心を剖かれ、子胥は眼を抉らるるは、忠の禍なり。直躬は父を証し、尾生は溺死するは、/信の患ひなり。鮑子は立ちながら乾き、申子は自ら埋まるは、廉の害なり。孔子は母を見ず、匡/子は父を見ざるは、義の失なり。此上世の伝ふる所、下世の語る所、以て士たらんとする者は、/【120】其の言を正し、其の行を必す。故に其の殃に服し、其の患ひに離るなりと。


 最後に「と」とあるのは、ここまでが満苟得の発言だからで、これがこの問答の結論になる。
 金谷氏の現代語訳、121頁11~18行め、〔 〕は半角。

 比干が殷の紂王に心臓をひきさかれ、伍子胥は呉王によって目をえぐりとられたのは、忠を尽/くしたための禍いである。直躬が父の盗みを証明し、尾生高が〔女との約束を守って〕溺れ死んだ/のは、信を守ったための災難である。鮑焦が〔木を抱いて〕立ったままで乾いて死に、申徒狄が/〔石を背負って〕自分で黄河に沈んだのは、廉潔を守ったための弊害である。孔子〔陳仲子?〕が母/に会わず、匡章が父に会わなかったのは、正義を守ったための過失である。これらはみな昔から*2/言い伝えられてきたことで、また後世の話題でもある。士人として認められようとする者は、そ/のことばを厳正にし、その行動を専一にするものだから、〔そのとらわれのために、このように〕/身の禍いをこうむり、害にあうことになるのだ。」


 この現代語訳では「尾生」ではなく「尾生高」となっている。ここには註はないが、前回見た「」に次のような註があった。110頁1~2行め、

 尾生――微生とも書く。名は高。ば/かがたいことを「尾生の信」といって、よくひきあいに出される。


 どこから「高」と云う名が出て来たのか、その説明はないが、ここに7月11日付(08)に見た『日本国語大辞典』の「尾生の信」項の用例『性霊集』と同じ「微生」が出て来る。つまり「微生高」と云う、他のことで知られている人物がいて、それがこの溺れ死んだ「尾生」と同一人物だと云うのである。――7月6日付(03)に見た支那奇談集 第二編は「‥‥。尾生とばかりで其名は伝わらぬが、‥‥」として、尾氏の某の意味で取っているが、実は(?)「尾生」もしくは「微生」と云う、複姓だったのである。(以下続稿)

*1:註番号はゴシック体半角漢数字。投稿当初は省略したが、後々言及する際に使用することもあるかと思って補う。

*2:ルビ「ひ かん・いん・ちゆう・ご し しよ・ご /ちよくきゆう/ほうしよう・かわ・しんと てき//きようしよう」。

芥川龍之介「尾生の信」(10)

 昨日の続き。
・『荘子』雜篇盗跖第二十九(2)
 友人の柳下季の弟・盗跖を正道に戻そうと、柳下季の止めるのも聞かずに顔回と子貢を供に連れて盗跖の許に出向いた孔子が、しょうもないおべんちゃらを言って盗跖を怒らせ、十倍返しくらいの反論を喰らって逃げ帰るという話なのだけれども、その半ばに、高徳とされる君主6名、賢士とされる6名、忠信とされる2名を挙げて批判する件がある。その賢士の中に尾生の名が見える。
 まづ、金谷治(1920.2.20~2006.5.5)の校訂本文を示して置こう。岩波文庫『第四冊』107頁14行め~108頁6行め、灰色太字は先学の説に従って補った字。

世之所高、莫若黄帝黄帝不能全徳、而戦涿鹿之野、流血百里、尭不慈、舜不孝、禹偏枯、湯/放其主、武王伐紂、文王拘羑里、此六子者、世之所高也、孰論之、皆以利惑其真、而強反其情性、/其行乃甚可羞也、世之所謂賢士、莫若伯夷叔斉、伯夷叔斉辞孤竹之君、而餓死於首陽之山、骨肉/【107】不葬、鮑焦飾行非世、抱木而死、申徒狄諌而不聴、負石自投於河、為魚鼈所食、介子推至忠也、/自割其股、以食文公、文公後背之、子推怒而去、抱木而燔死、尾生与女子期於梁下、女子不来、/水至不去、抱梁柱而死、此四子者、无異於磔犬流豕、操瓢而乞者、皆離名軽死、不念本養寿命者/也、世之所謂忠臣者、莫若王子比干伍子胥、子胥沈江、比干剖心、此二子者、世謂忠臣也、然卒/為天下笑、自上観之、至于子胥比干、皆不足貴也、丘之所以説我者、若告我以鬼事、則我不能知/也、若告我以人事、者不過此矣、皆吾所聞知也、


 次に、金谷氏の書下し文を、一部平仮名にしている漢字をそのままとし、現代仮名遣いを歴史的仮名遣いに改め、送り仮名を一部省いて示す。108頁7行め~109頁4行め、

 世の高しとする所は、黄帝に若くは莫きも、黄帝すら尚ほ徳を全うする能はずして、涿鹿の野/に戦ひ、流血百里なりき。尭は不慈、舜は不孝、禹は偏枯、湯は其の主を放ち、武王は紂を伐ち、/文王は羑里に拘はる、此の六子は、世の高しとする所なり。之を孰論するに、皆利を以て/其の真を惑はして、強いて其の情性に反く。其の行乃ち甚だ羞ずべきなり。
 世の所謂賢士は、伯夷・叔斉に若くは莫きも、伯夷・叔斉は孤竹の君を辞して、首陽の山/に餓死し、骨肉葬られず。鮑焦は行を飾り世を非り、木を抱いて死す。申徒狄は諌めて聴かれず、/石を負ひて自ら河に投じ、魚鼈の食らふ所と為る。介子推は至忠なり、自ら其の股を割きて、以/て文公に食らはしむるも、文公後に之に背く。子推怒りて去り、木を抱いて燔死す。尾生は女/子と梁下に期し、女子来らず。水至るも去らず。梁柱を抱いて死す。此の四子は、磔犬流豕、/瓢を操りて乞ふ者に異なる无し。皆名に離り死を軽んじて、本を念ひ寿命を養はざる者なり。
 世の所謂忠臣は、王子比干・伍子胥に若くは莫きも、子胥は江に沈められ、比干は心を剖/【108】かる。此の二子は、世に謂ふ忠臣なり。然れども卒に天下の笑ひと為る。
 上より之を観て、子胥・比干に至るまで、皆貴ぶに足らざるなり。丘の我に説く所以の者、/若し我に告ぐるに鬼事を以てすれば、則ち我は知る能はざるなり。若し我に告ぐるに人事/を以てすれば、者ち此に過ぎず。皆吾が聞知する所なり。


 訳まで全て抜いていては長くなるので、尾生のところと、同類についての盗跖の論評だけを見て置こう。111頁1~5行め、

‥‥。尾生は女と橋の下で会うことを約束し、女が/来ないので水かさが増えてきてもたち去らず、橋脚に抱きついたままで溺れ死んだ。これら〔鮑/焦以下〕の四人は、魔除けにされた張りつけの犬や祭りに使われた水中の豚や、あるいは瓢を手に/して物乞いをする者と、変わりはない。いずれも世間的な名目にとらわれて生命を粗末にし、本/来のあり方をよく考えて寿命を養うことをしなかったものどもだ。*1


 確かに仰有る通りです、と腑に落ちて、どうも私の尾生のイメージは、まだ黄濁した泥水に足許を洗われながら、全身泥に塗れ、流れて来た草が脚や腕に絡まったまま、それでも橋柱に爪を立てて抱きついたまま必死の形相で死んでいる、それを人々が覗き込んで見て、何故あんなところであんな風に死んでいるのだろう、と不審に思いながら話し合っている、と云った按配なのである。
 芥川の小説のように「橋の下の尾生の屍骸を、やさしく海の方へと運んで行つた」りはしない。屍骸が流されたりしようものならそもそも行衛不明になったと云うだけで、ただ相手の女だけが真相を察しつつも黙っている、と云うことになる。こういう相手にのみ秘密を強いて負担を掛ける死に方を、私は好まない。(以下続稿)

*1:ルビ「び せい//よ ・ひさご/ご ・い の ち/」。