・『学海日録』に見る依田学海と鹿島家の交際(明治32年)前置き③
やはり今日も前置き。
明治32年3月12日条(78頁8~14行め)前夜に雪が庭に白く積もる。午前、晴れる。清宮卓爾を訪ねるが来客が会って会えず、2月22、23日頃から佐倉に滞在している画師栗本鴻堂(1830生)の寓居を訪ねる。浄土寺の垂糸梅を見る。縑浦(蓑輪芳三郎)が同行していたようだ。13~14行め「‥‥ ◯夜、この家に寓する鶴松老人のむかしがたりをきく。/詳なる事は余が記事の文にのせたればこゝにいはず。‥‥」
13日条(15行め~79頁6行め)「十三日。晴。寒甚し。手水鉢の水氷れり*1。大根邨の*2清左衛門といふ老人*3来る。これは香取郡の博/徒の親方にして、子分二、三千人もありしものなり。‥‥」その用件は、79頁2~4行め「‥‥。今は心を改めて博奕をやめたるが、もとの子分/等これが為に碑文を建むとの事にて、余にその碑字と文をのぞまれしが、此日召きてその物語を/きゝしなり。‥‥」
このときの見聞が「こゝろの華」第六卷第貳(明治三十六年二月四日印刷・明治三十六年二月五日發行・定價一部金郵稅共拾六錢・大日本歌學會・八+九十六頁)五十九頁下段~六十一頁下段5行め、學海居士*4「俠民淸左衛門(上)」及び「こゝろの華」第六卷第三號(明治三十六年三月八日印刷・明治三十六年三月九日發行・定價一部金郵稅共拾六錢・大日本歌學會・四+口絵+七十頁)四十四~四十九頁、學海居士*5「佐原漫筆」の前半、四十四頁上段3行め~四十六頁上段15行め「俠民淸左衛門(下)」にこのときの見聞が纏められている*6。但し(下)の四十六頁上段4~6行め「‥‥。明治/卅二年三月十二日、余が佐原に至りし時、蓑輪篁雨を/价として、始終終を物語れり。‥‥」とあって、日記とは1日ズレている。
この日は並木栗水の門人・石井宗太郎(鼇山)と栗水の第二子・並木誠之助(正誠)が来訪している。
14日条(79頁7行め~80頁8行め)「十四日。晴。春色やうやくよろし。此楼は東南に向ひたれば日光よく透り、頗る暖気なり。きの/ふはいと寒かりつるが、けふは暖なるべし。◯余が家に召仕ふ沢の祖母来りて鶏卵多くおくられた/り。◯‥‥」
この日は新島村扇島の高塚子之助(楫浦)に七言古詩の添削を乞われている。また栗本鴻堂の来訪、高城清左衛門の子分・牧野村の吉沢貞助に、村の「源二の宮」の「文を請」われている。この文は次の本に収録されているようだ。
15日条(9行め~81頁9行め)午後、鶴松老人と法界寺の山を見て諏訪神社に参詣、本宿の八木慶太郎(方山)を尋ねるが不在、81頁5~9行め、
‥‥。田中とい/ふ所におもむき、余が家に召し仕ふ沢女の家を訪ふ。紺搔をもて業とす。/主人*7、手を藍にして出で迎へ、その妻・その子も出来りてもてなす。主人の/母はいと男まさりの婦人にて、よく我を待遇せり。主人はものかずいはず質/朴の男なりき。茶を喫し、しばし物語してかへりぬ。
16日条(10~13行め)、
十六日。朝より雨ふり出ゝ甚寒し。けふは大根邨にゆくべき約ありしかど、/雨なればゆかず。書を揮ふ事八、九枚。方元鵾が七律指南を読む。終日やま/ず夜に入る。午餐・晩餐ともに鶏卵蒸を供せらる。今日は鷄肉をそのうち加/られたり。毎朝牛乳をとりてのむ。雨、ひねもす降て、日くれぬ。
明治28年の訪問時には、揮毫の依頼が少ないことを日記に書いていた依田氏であったが、今回は蓑輪氏の事前の宣伝があったものか、訪ねて来る者もあり揮毫の依頼もあったようだ。「鶏卵」は14日に沢の祖母が持って来たものであろうが、鶏肉と牛乳は蓑輪芳三郎の配慮であったろう。
17日条(14行め~82頁6行め)「十七日。雨やみ、やがて日出たり。午後またくもる。寒し。沢婢の父、鯉/魚壱尾をおくられたり。重七百目あるべしといふ。頗尤物なり。金鱗發潑刺、/その味の美なることしるべし。装潢師浪華堂来れり。高塚楫浦の事をかたる。/【81】楫浦、妓楼を潮来に開き扇洲楼と名づく。余、鹿島に遊ぶべきよしをいひしかば、さら序に立よろ/給へといひき。‥‥」
18日条(7行め~83頁13行め)大根村の高城清左衛門の招に応じて「清左衛門の大碑を書してあたへつ」。この碑は現存していないらしいが、〈御成婚/記 念〉千葉縣圖書館 編輯、千葉縣圖書館叢書第五輯『〈千葉/縣内〉碑石一覽』(昭和九年四月一日印刷・昭和九年四月五日發行・非賣品・〈御成婚/記 念〉千葉縣圖書館・前付+一四四頁)六六頁5行めに「|俠民淸左衛門碑|同 村大根 | |依 田 百 川|南 芳治郎|明治三十二年/三月| |」と見えている。前付の「凡 例」に「一、本調査は昭和四年十二月現在に依る。」とあるから昭和初年には存在していたことは確かである。表の記載事項は「凡 例」の最後「五、本調査は碑石研究者に其の研究の端緒だけを與へることを目的とした爲、記述は碑名、所在地/撰文者、書者、刻者、建碑年月日、備考等の要項だけに止めた。」とあり、俠民淸左衛門碑は撰文者と備考が空欄になっているが、依田氏の名は書者だけでなく撰文者にも入るべきこと明らかである。明治32年3月は依田氏の撰文の年記であって実際に建てられたのはもう少し後であろう。
帰りに牧野の観福寺を見ている。午後、潮来の詩人田原遼鶴が来訪。(以下続稿)
