瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(133)

・青木純二の経歴(2)
 先行研究で、青木氏の経歴について最も充実した調査結果を示しているのは、10月15日付(132)に触れた、牧野陽子(1953生)の論文によって批判された、遠田勝(1955生)の次の本である。
・遠田勝『〈転生〉する物語――小泉八雲「怪談」の世界2011年6月30日初版第1刷発行・定価2600円・新曜社・266頁・四六判上製本

〈転生〉する物語―小泉八雲「怪談」の世界

〈転生〉する物語―小泉八雲「怪談」の世界

15~129頁「第一部 旅するモチーフ」は、15頁(頁付なし)扉を除いて、16~129頁「小泉八雲と日本の民話――「雪女」を中心に」と題する長い1篇で、257~259頁「あとがき」を見るに、258頁3行め「書き下ろし」である。なお、237~256頁「注」の、237頁2行め~245頁15行めが「小泉八雲と日本の民話」で(74)項ある。
 この「雪女」の話に青木純二『山の傳説』も、杉村顕『信州の口碑と傳説』も絡んで来るので、本筋の方にも触れるつもりだけれども、差当り青木氏の経歴に触れた部分を見て置くことにしよう。すなわち、16頁2行め~47頁6行め「一 白馬岳の雪女伝説」の7節め、32頁11行め「いたずら者の青木記者」と題して、まづ以下のように前置きしている。32頁12~15行め、

 青木純二の経歴については、これに触れた文献が一点しかなく(16)、それを読んでも不明な点が多い/のだが、青木の二冊の単行本の序文や、大正末から昭和初期にかけての『新聞及新聞記者』『日本/新聞年鑑』などの年鑑類の、該当年度の記載事項をもう一度調べなおしてみると(17)、おおよそ以下の/ようなことがわかる。


 注はそれぞれ読点の前の字の右にルビと同じように附されているが、再現出来ないので当該文字の次にやや小さくして添えた。
 遠田氏が気付いた「一点しかな」い先行研究については次回触れることにして、今は32頁16行め~33頁8行め、遠田氏が知り得た経歴を見て置くこととしよう。

 青木は、一八九五年六月十日、福岡市外千代町に生まれた。学歴としては「高等商業学校3年ま【32】で」としか書かれていない。その後、各地で新聞記者をしているのだが、勤務した社名を各年度ば/らばらに報告しているので、いつ、どこで、どの新聞社に勤めたのか、正確な年度や順番がわから/ない。しかし、おそらくは福岡、北海道、新潟の順に任地をかえ、福岡毎夕、函館日日、高田新聞、/新潟毎日、新佐渡主筆などを勤めたのだろうと思われる。一九二二年度の記載には、高田新聞社会/部に在籍とあり、一九一九年十一月に入社とある。一九二四年度の記載からは東京朝日新聞記者高/田支局主任となり、ほぼそのままで、一九二九年度版(一九二八年発行)までつづき、それ以降、/記者名鑑に名前が見えなくなる。したがって一九三〇年の『山の伝説』出版前後にはすでに新聞記/者をやめていた可能性もある。


 そして以下しばらく、改名や著述について若干の補足がある。これらも次回以降検討することとしよう。
 さて「福岡市外千代町」は、青木氏が生まれた明治28年(1895)当時は福岡縣那珂郡千代村、御笠川の対岸が博多(福岡市)である。大正元年(1912)10月に町制施行して筑紫郡千代町となり、昭和3年(1928)5月に福岡市に編入されている。ほぼ、現在の福岡県福岡市博多区千代である。
 これ以降の足取りはつかめなかったようだが、年鑑に名前が出なくなったのは退社したからではなく、東京朝日新聞には戦時中まで勤務していたことが確認出来る。或いは戦後の定年まで勤務していたかも知れない。それほど明確に出来ている訳ではないが、私は今のところ、昭和30年(1955)までの動向を確認している。(以下続稿)

須川池(5)

 私が編纂物としての伝説集を好ましく思えない理由は、異説をさらに積み重ねるだけでしかないからである。典拠が示してあれば、何に拠って書いたか、と云うストレス(?)は低減されるが、それならわざわざ書き替える必要はなかったのではないか、と思ってしまう。
・和田登 編著『信州の民話伝説集成【東信編】
 9月26日付「青木純二『山の傳説』(02)」に触れたように、『北信編』『中信編』『南信編』と合わせて、信濃国(長野県)の伝説を網羅している。

信州の民話伝説集成 (北信編)

信州の民話伝説集成 (北信編)

信州の民話伝説集成 (中信編)

信州の民話伝説集成 (中信編)

 現在『南信編』の書影は貼付出来ない。
 それはともかく、だから信州の伝説を通覧するには便利だけれども、やはり使いづらいのである。そのことを須川池の伝説を例に取って、余り良い例でないかも知れぬが、述べて見よう。
 15~177頁「上田地域」、44~83頁「上田市」19話中6番め、58~59頁に「国分寺の鐘*1」と、2字下げで大きく楷書体、ルビも楷書体で熟語には均等割付。本文は明朝体、58頁2~13行め、

 むかし、神川村に最初の国分寺があったころ、この寺の鐘を盗みだした盗賊が/おったそうな。盗賊は鐘を背負って、小牧山のあたりまでやってきたものの、あ/まりにも疲れたので、鐘をおろして一休みしていると、あれまあ、鐘がひとりで/に鳴りだした。*2
国分寺恋しや、ぼぼぼ、ぼうん……」*3
 と、いっている。
 盗賊がびっくりして、見ているうちに、今度は動き出して、かってにぼぼぼぼ/転がっていき、須川の池の中へ転げ落ちてしまった。*4
 こんなことがあってから、この池に落ちておぼれそうになった人は、
国分寺に行くんだ。助けてくれーっ」
 というと、むかし落ちた鐘が助けてくれるという。なんでも、いまでは鐘は龍/に変身しているんだそうな。*5


 大体、10月14日付(3)に見た日本傳説叢書『信濃の卷』以来の型を踏襲しているが、一致しない。434~438頁【参考資料・文献一覧】には日本傳説叢書『信濃の卷』は出ていないが9月26日付「青木純二『山の傳説』(02)」に指摘したように『信州の口碑と傳説』は載っている。しかし10月16日付(4)に見たように『信州の口碑と傳説』の「須川の池」には、鐘が龍などに化身したことは見えない。【参考資料・文献一覧】に多数挙がっている、別の文献に拠ったことになりそうだが、依拠した文献を各話に添記していないので、大正期以来多くの文献に採録されていそうなこの「須川池の沈鐘伝説」の場合、極端な話、採録していそうな文献を一々見て行かないといけない。いや、文献の採録数が少ない話であっても結局、きちんと検証しようとすれば同じ手間が掛かることになる。――9月22日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(125)」に取り上げた、丸山政也・一銀海生『長野の怖い話 亡霊たちは善光寺に現る巻末の「参考文献・出典・初出・引用」は全部で28点、この程度であれば大体の見当が付けられるから、却って使い勝手が良いのである*6
 伝説集に載る伝説は、口承ではなく先行する伝説集から採られることが多く、同じような話が複数の伝説集に出ているので、正直、どの本に拠ったかは確かに示しにくい。しかし、いや、だからこそ、5頁にわたる文献一覧を示すのであれば、その中でどこまでその話が遡れるのか、示すべきなのではないだろうか。これだけ集めたのにそれをしないのは、如何にも勿体ない。――或いは、複数の文献を綜合して「伝説」の定本を作ろうとしたのかも知れない。しかしそれでは、2015年9月10日付「山本禾太郎『小笛事件』(3)」に述べた、A説とB説を折衷したC説みたいなもので、ある意味、それまで存在しなかった鵺みたいな説を拵えてしまうことになるやも知れぬのである。埋もれた伝承を新たに発掘する等ということも期待出来ない現代にあって、新たな伝説集を従来通りの手法で作成し続けるのは、単に伝説の異説異本を、大した根拠もなく執筆者の感覚で作り出すようなものである*7。そんなことは好い加減止しにして、もうそろそろ戦線拡大ではなく縮小整理、例えば伝説集単位での依拠関係など、伝説の系譜を確認するべき時期に来ているのではないだろうか。いや、疾うからそういう風にして置くべきだった、と私などは思っているのである。
 59頁は殆ど余白で、右側下寄りに明朝体で小さく、以下の註記がある。

信濃国分寺は、上田市八日堂にある。初めは現在の国分寺史跡公/ 園になっているところにあったが、後にいまのところに移った。/ 須川の池というのは、上田市南四キロメートルほどのところにあ/ り、どんな日照りのときでも、乾いたことがないといわれている。*8


 本文にある「神川村」は明治22年(1889)の町村制施行から昭和31年(1956)に上田市に併合されるまで村名で、神川村があった時分の文献ならともかく、神川村廃止から50年以上を経て(仮に地元で慣用で使用しているとしても)使用するべきではないだろう。それにこの話は「神川村」発足よりも余程昔のはずである。そして註に見える「八日堂」は信濃国分寺の縁日に基づく別称で地名ではないらしい。すなわち所在地は「上田市国分」とすべきである。また「南四キロメートル」も基準は市役所らしいが分かりにくい。距離ではなく位置関係で説明するべきではないだろうか。(以下続稿)

*1:ルビ「こくぶんじ・かね」。

*2:ルビ「かんがわ・こくぶんじ・かね・とうぞく/こまき//」。

*3:ルビ「こい」。

*4:ルビ「/すがわ」。

*5:ルビ「りゅう/」。

*6:長野に行かないと閲覧困難と云う資料も使用されていない。しかし、追跡調査はやりやすいが、地元在住の丸山氏にはもう少し地元資料の掘り下げをお願いしたいように思ってしまう。

*7:資料としてもそのままでは使えない。厳密な検討をしようと云う場合、結局これら編纂物については、典拠を突き止めてそちらに依拠せざるを得ない。だからせめて、主として依拠した文献名くらいは添えて欲しいのである。

*8:ルビ「ひで」。

須川池(4)

・杉村顕『信州の口碑と傳説』
 この興味深い伝説は、もちろん杉村顕も取り上げている。8月26日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(5)」に取り上げた「北信地方」に、これまでの要領に従えば、
・小縣郡【7】須 川 の 池(163頁3行め~164頁)
と云う示し方になる。郡は目次の部立にはあるが本文にはない。番号も郡ごとに仮に打った。本文には4行取り5字半下げ、明朝体で大きく「須 川 の 池」と題して、163頁4行めから本文、

 小縣郡小牧山の頂に、須川の池と云つて、周圍二十丁餘りの池があり/此の池の主は釣鐘であると云はれ、どんなに烈しい旱魃の折でも、未だ/曾て水の涸れた試しがない。*1
 昔、未だ神川村に國分寺のあつた頃、一人の盗賊が、何とかして其の/釣鐘を盗み度いものと思ひ、隙を覗ひ、仲間を語らつて、とうとう須川/の池の畔まで盗み出して來た。*2【163】
 此處まで逃げればしめたもの、よもや追手も來られまいと、盗賊達は/釣鐘を中に一憩みした。すると不思議や此の時、突然に釣鐘が物を云ひ/出した。*3
  國分寺戀しや、ぼぼらぼうん*4
  國分寺戀しや、ぼぼらぼうん*5
 さうして盗賊達が喫驚仰天してゐる間に、釣鐘は自然に動き出してや/がて須川の池の中に落ち込んでしまつた。*6
 それ以來、釣鐘は池の主となり、今に至るも尚國分寺を戀ひ慕つてゐ/ると見え、偶々此の池に墜ち込んで溺れさうになつた者があつても、「國/分寺に行くんだ。助けて呉れ。」と一言云へば、主は必ず無事に岸邊に寄/せてくれるさうだ。*7

とあって、164頁の最後、1行分空白。
 さて、一読、10月14日付(3)に取り上げた藤澤衞彦編著、日本傳説叢書『信濃の卷』の「(一五二)須川の池」に類似していることが察せられるが、主が「鏡の化身である龍」なのか「落ち込んだ儘の國分寺の鐘」なのか曖昧であったのを「釣鐘は池の主となり」と明瞭にしている。蛇や大鯉・龍になったりしていない。
 地名の読み(神川村)がおかしいのは、杉村氏が長野県出身者でなく、余り地理に明るくなったことに起因していよう。
 それから注意されるのは、盗賊の描写がやや詳しくなっていることである。梵鐘の重さは大きさによってまちまちで、数十 kg の何とか1人で運べなくないものから、何十トンもするものまであって、国家事業として建立された「昔の国分寺」の鐘だとすると、1人で運べるほど軽いものではなかったろうと思われるので、ここで「仲間を語らって」としているのは合理的な解釈と云えるが、これも一つ間違えば賢しらである。
 また、10月12日付(1)に取り上げた現地案内板にある「追っ手」が問題になっていることにも一応注意して置きたい。
 それはともかく、杉村顕が日本傳説叢書『信濃の卷』を利用していることは、何度か触れては来たがまだ総点検を行っていない。そろそろ『信州の口碑と傳説』の典拠を総浚えする作業に着手しようかと思っている。(以下続稿)

*1:ルビ「ちいさがたごほりこ まきやま・いたゞき・す がは・いけ・しうゐ・ちやうあま・いけ/ぬし・つりがね・い・はげ・かんばつ・をり・いま/かつ・みづ・か・ため」。

*2:ルビ「むかし・ま・かみがはむら・こくぶんじ・ころ・ひとり・とうぞく・なん・そ/つりがね・ぬす・すき・ねら・なかま・かつ・す がは/いけ・ほ り・ぬす。だ」。

*3:ルビ「こ こ・に・おつて・こ・とうぞくたち/つりがね・なか・ひとやす・ふ し ぎ・こ・とき・とつぜん・つりがね・もの/だ」。

*4:ルビ「こくぶんじ こひ」。

*5:ルビ「こくぶんじ こひ」。

*6:ルビ「とうぞくたち・びつくりぎやうてん・あひだ・つりがね・し ぜん・うご/す がは・いけ・なか・お・こ」。

*7:ルビ「い らい・つりがね・いけ・ぬし・いま・いた・なほこくぶんじ・こ・した・み・たま/\こ・いけ・お・おぼ・もの・こく/ぶんじ・ゆ・たす・く・ひとことい・ぬし・ぶ じ・きしべ・よ/」。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(132)

・青木純二の経歴(1)
 これは2ヶ月前の8月16日に、8月17日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(104)」として書き掛けていた草稿を基にしている。ネット検索のみでもある程度明らかに出来るようなので、取り敢えずその分だけでも纏めてしまおうと、当初は思っていたのである。
 すなわち、青木氏について、8月10日「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(097)」の②の最後、そして8月16日付「蓮華温泉の怪話」拾遺(103)」の付け足りに述べたように、青木純二『山の傳説』に気付いたその日の晩に行った若干の検索作業で、2ch(現・5ch)や blog、twitter がヒットし、そこからアイヌ伝承の研究者・阿部敏夫の講演筆記を閲覧したことで、大体のところがつかめたような気がしたのである。
 しかし、差当り岡本綺堂「木曾の旅人」の原話のような扱いをされて来た、杉村顕『信州百物語』の「蓮華温泉の怪話」が、青木純二『山の傳説』の「晩秋の山の宿」を下敷きにしていることをはっきりさせるため、まづその本文を提示することを優先させたので、青木氏について判明していることを整理するのは後回しにした。そして8月15日にその作業を終えて、16日に改めて検索して見るに、7日には何故か気付かなかった tonmanaangler のブログ「国家鮟鱇」の2017-08-22「「アイヌ伝説が実は創作だった」件について」に始まる一連の記事がヒットした。2017-08-24「「アイヌ伝説が実は創作だった」件について(その2)」には、恋マリモ伝説を青木氏の創作とする前記・阿部氏の研究が紹介され、2017-08-24「「アイヌ伝説が実は創作だった」件について(その3)マリモ伝説と雪女」に、白馬岳の話として民話集に記録されているラフカディオ・ハーンにそっくりの「雪女」の話が、青木純二『山の傳説』の「雪女」に由来すること、2017-08-25「「アイヌ伝説が実は創作だった」件について(その4)」に阿部氏の調査から青木氏の経歴に関する箇所が引用され、次いで白馬岳の雪女について遠田勝の研究を批判した牧野陽子の論文が紹介されている*1
 そこで8月16日付(103)には、8月7日時点で検索したサイトなどを挙げてなお調査が必要である旨の見通しを示し、以後、8月18日付(105)に青木純二『山の傳説』が杉村顕『信州百物語』の典拠の1つとして利用されていること、そして8月22日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(1)」から暫く、姉妹篇の杉村顕『信州の口碑と傳説』と青木純二『山の傳説』の関係に及び、さらに9月1日付(106)には『信州百物語』に戻ってそのほぼ全ての典拠を明らかにし、『信州百物語』の成立過程もほぼ明らかにしたのである。
 その間、ブログ「国家鮟鱇」に紹介されていた牧野陽子「「雪女」の "伝承" をめぐって――口碑と文学作品――」(「成城大學經濟研究」第201号118~92頁・2013年7月)を読んだ。同じ論文は北山研二 編、Seijo CGS Working Paper Series No.8『文化表象のグローカル研究―研究成果中間報告―』(2013年3月29日・成城大学研究機構グローカル研究センター・219頁)165~218頁「Ⅲ.文学/文化とグローカル」の1つめ(167~179頁)にも掲載されている。
 『文化表象のグローカル研究』は「ノセールの吸血鬼解説ブロマガ」の「ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第13話後半 参考文献一覧」で知った。
 さて、tonmanaangler 氏もノセール氏も、牧野氏が批判している遠田氏の研究について、牧野氏の紹介の範囲での検討、或いは感想を述べるに止まっており、遠田氏の本を参照していない。――私が最近気になるのは、本に纏められた研究を参照せずに、ネットで読める雑誌や報告書を参照することで満足して、そこに言及されている先行研究まで見ようとしない人が多いらしいことである。いや、私もそうだがブログ記事だから差当りそこまでで済ませているので、研究論文となればもっとしっかり調査するであろう。‥‥と言いたいところなのだが、以前も述べたようにネットで読める雑誌や報告書を見て、同じ研究者が後に自らの論文集に増補改訂版を収録していることに気付いていなかったり、と云ったことが研究論文にもあるから困るのである。
 それはともかく、牧野氏の論文を読んで、これは遠田氏の研究を検討しないことには先に進められない、と思ったのであるが、遠田氏の著書にも先行研究の見落としがあり、どうも、改めて先行研究を整理するところから始めないといけないと思って、しかしそれが、なかなか順調に進められない。国会図書館で10時間くらい調査をしないといけないのだが、行く余裕のないままである。しかも、台風は大したことなくやり過ごしたが、翌日少々暑かったのが昨日からやたらと涼しくなってどうも身体の具合が悪い。それはともかく、私は図書館の本を使ってコピーも殆ど取らずに調査検討しているので、ある程度の見当でも始めてしまわないと、もう何冊か同じ本を何度も借りては、何もせずに返している。このままではこれまで中絶した記事と同じように、ぐずぐずしているうちに何もしないままになってしまいそうだと思って、一寸甘えるようであるが先刻書いたように、まぁ「ブログ記事だから」初めはかっちりしていなくても構わないだろう、と思って、読みにくかろうがまづ、青木純二についての先行研究を紹介しつつ私が新たに調べ得たことを追加し、それから先行研究で問題になっている「雪女」について、新たな筋を引いて見たいと、こう思ったのである。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 やはりTVのニュースを見ていたら、高校の体育館に避難して、家では家電などの家財が水に浸かってしまい、家では暮らせないが体育館が寒くて仕方がない、と云った按配であった。昨日の繰り返しになるが、家財は2階に避難させて、2階でしばらく暮らすべきである。レベル5相当とか全員避難とか漠然としながら過剰に煽るようなことを云う前に、ここなら浸水しないとか、どんなに浸水しても2階には達しないとか、そういう知識を町会ごとに共有するべきだろう。
 しかし、増水や決壊の情報が周知されていなかったらしい。家財を避難させるにしてもそこが分かっていないといけない。しかし、これほどの氾濫が起こったのに対して警戒せずに寝ていた、と言っている人が多いのはどうしたことだ。それこそ、半鐘を鳴らして知らせる、みたいな、原始的な、地域をごく限定した広報手段を考えるべきかも知れない。
10月16日追記いわき市は内陸にサイレンがなかったそうだ。これでは火の見櫓を復活させて半鐘を鳴らした方が良さそうだ。監視カメラで氾濫が記録されていても、知らせる術がなければ何の意味もない。かつ、余程の低地でもなければ(住宅地化する前に泥田・深田であった場所でもなければ)2階に家財と共に避難するべきである。道路が浸水してから家の外に出るのは(1本道で山に上がれるならともかく)危険過ぎる。

*1:2017-08-25「「アイヌ伝説が実は創作だった」件について(その5)」は、恋マリモ伝説の典拠『山の伝説と情話』の細目が示されている。

須川池(3)

・藤澤衞彦編著、日本傳説叢書『信濃の卷』
 大正6年(1917)7月に刊行された本書については、9月1日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(106)」に紹介した。昨日取り上げた高木敏雄『日本傳説集』の4年後で、当然参照しているのだろうと思うのだが、10月12日付(1)に触れた通り、典拠を(口碑)としていて『日本傳説集』を挙げていない。
 326頁10行め「須川の池 (小縣郡城下村大字小牧)*1」と題して、11行め~327頁9行め、

 上田町の南一里ばかり、小牧山の 頂 に、どんな旱にも乾いた事のないといふ須川池があ*2【326】る。周圍二十丁あまり、池の主は鏡の化身の龍であるといふことである*3
 昔、神川村に、昔の國分寺のあつた時分、此寺の釣鐘を盗み出して、此小牧山のあたりに/來かかつた盗賊があつた。だいぶ疲れたので、釣鐘を小牧山まで運ぶと、まづ、そこで一休/みしてゐた。すると、不思議にも、今持つて來た釣鐘が、自然に鳴り出したのである。*4
  國分寺戀しや、ぼゝゝぼうんゥ。*5
 盗賊が、驚いて見てゐるうちに、釣鐘は、忽ち動き出して、勝手に、須川の池の中に落ち/込んでしまふ。で、偶、此池に墜ち込む者で、『國分寺へ行くんだ、助けてくれ。』といふと、/今でも落ち込んだ儘の國分寺の鐘は、きつと溺れ死なうとしてゐる人を助けてくれるといふ/ことである。(口碑)*6

とある。『日本傳説集』と非常に似たところもあるが、異同も多い。特に注意されるのは、『日本傳説集』では「鐘が蛇身に変じた」或いは「蛇ではなく、大鯉に化っている」と云うことになっていたのが、本書では「池の主は鏡の化身の龍である」となっている。附訓活字の「鏡」は「鐘」の誤植ではないか、と思われるのだが「今でも落ち込んだ侭の国分寺の鐘」ともあって、鐘が龍になったかどうか、はっきりしない。
 ともかく10月12日付(1)に見た「上田市」Webサイトの「須川公園」にあるような、鐘の音に魅せられて盗んだ、と云うことにはなっていない。しかし「自分の家にほど近い寺にこの鐘をおいて朝な夕なに鐘の音を聞きたいと思っ」た、と云うのだが、そもそも1人でどうやって運んだのであろう。近所の寺も国分寺の銘の入った鐘を平気で釣り下げるものだろうか。
 本書や『日本傳説集』は盗んだ理由を説明しない。当然、鋳潰して売り払うつもりだったのだろう。しかし、「自分の家」の方角なのか、川(千曲川)を越したのはともかく、わざわざ山(小牧山)を越そうとしたのは何故なのだろう。人目に付きにくい経路なのだろうか。菰を掛けて舟で千曲川を下った方が簡単で確実だと思うのだけれども。でもそうしなければ国分寺の鐘が須川池に沈むことにならない。
 しかし「須川」はいつ「須川」に出世、いや昇格したのだろう。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 先刻、TVのニュースを見ていたら、県営住宅の自治会長だったかが胸まで水に浸かりながら避難を呼び掛けた、と言うのだが、やることが違うだろう、と思わざるを得ない。その4階か5階建の県営住宅では1階の住人が、家財が皆水に浸かって途方に暮れていた。鉄筋で流される不安はないのだから、やるべきだったのは避難ではなく1階の住人の家財を、上層階の住人たちが手分けして自分の家か、階段の踊り場など、とにかく水に浸からないような処置をしてやるべきだったのである。場所にも拠るが、2018年7月6日付「高濱虚子「杏の落ちる音」(1)」に触れた「杏の落ちる音」に、当時の東京市が大水に浸かったとき、簞笥や火鉢を2階に上げる場面がある。2階に家財を持ち上げて水が引くのを2階で待つのである。水流が直接ぶつかるような場所でなければ、避難するのではなく2階に家財を持ち上げて、仮に簞笥を持ち上げるのが無理としても中身は持って上がれるだろう。2階まで水が来たらそれはもう仕方がない。とにかく出来る限り上層階に物を持って待機する。1階がただ水に浸かっているだけで食料や水が確保出来ているなら強いて避難する必要はない。いや「杏の落ちる音」を読む以前に、2015年9月14日付「断片と偏り」に指摘していた。しかし私の僻見ではない。明治の人間がやっていたことなのである。

*1:ルビ「す かは・いけ」。なお須川池(須川湖)の所在地は上田市大字諏訪形字須川で「大字小牧」は誤り。

*2:ルビ(一部附訓活字)は「うへ だ まち・みなみ・り・ こ まきやま・いたゞき・ひでり・かわ・こと・すかはのいけ」。

*3:ルビ「まはり・ちやう・いけ・ぬし・かゞみ・け しん・りう」。

*4:ルビ「むかし・かんがはむら・むかし・こくぶ じ・ じ ぶん・このてら・つりがね・ぬす・で・この こ まきやま/き・たうぞく・つか・つりがね・ こ まきやま・はこ・やす/ふ  し ぎ・いま も ・ き ・つりがね・ひとりで・な ・だ 」。

*5:ルビ「こくぶ  じ こひ」。

*6:ルビ「たうぞく・おどろ・ み ・つりがね・たちま・うご・だ ・ す かは・いけ・なか・ お / こ ・たま/\・このいけ・お ・ こ ・もの・こくぶ  じ ・ ゆ ・たす/いま・ お ・ こ ・まゝ・こくぶ  じ ・かね・おぼ・ し ・ひと・たす/」。二重鉤括弧は半角。

須川池(2)

高木敏雄『日本傳説集』大正二年八月廿七日印刷・大正二年八月三十日發行・實價金一圓・郷土研究社・三〇七頁
 一〇五~一一九頁「沈鐘傳説第十」一〇五頁2行め~一一四頁4行め「(甲)純粹沈鐘傳説」一一〇頁1行め「(へ)須川池」初版は5字下げ、括弧は左右。
 2011年2月11日付「高木敏雄『日本傳説集』(05)」に取り上げたちくま学芸文庫版では、094~106頁「第十 沈鐘伝説」094頁2行め~102頁3行め「甲 純粋沈鐘伝説」098頁8行め「ヘ 須川」1字下げ。
 本文は一一〇頁2~10行め・ちくま学芸文庫版098頁9行め~099頁1行め、改行位置は初版本を「/」ちくま学芸文庫版を「|」で示した。

 信州上田の南、一里ばかり、小牧山の頂に、周圍二十丁程の須川池がある。昔から唯の|一度も、/此池の水の乾いた事がない。*1
 上田町の東、神川村に國分寺の有つた時分のこと、或曲物*2が此寺の釣鐘を盗出して、小|牧山へ/運んで、須川池の邊に休んでゐると、其鐘が俄かに、
  國分寺戀しや、ボヾンボーン、
と呻つて、池の中へ轉がり込んだ。轉がりこむと直に、其鐘が蛇身に變じた。其蛇が此池|に棲ん/でゐるから、水が乾かぬのである。偶に此池に墜込む者があつても、蛇が助けて呉|れるから、溺/れることはない。其鐘は蛇ではなく、大鯉に化つてゐる、と云ふ者もある。|四五尺に餘る鯉のゐ/ることだけは、眞實らしいやうだ。信濃國小縣郡城下村竹内正吉君)


 報告者の竹内氏の名は、一九四~二一七頁「縁起傳説第十八」一九四頁2行め~二〇五頁7行め「(甲)宗教的縁起傳説」二〇二頁9行め~二〇四頁1行め「(リ)布引山」及び二〇七頁5行め~二一一頁「(丙)湧泉傳説」二〇九頁12行め~二一〇頁6行め「(ニ)鹿教湯」の末尾にも(信州上田在御所竹内正吉君)と見えている。すなわち長野縣小縣郡城下村大字御所の人であるが、長野県や上田市の図書館OPACで検索しても著書等はヒットしない。なお、旧城下村の上田市大字諏訪形の南東端、字須川須川湖(須川池)があり、諏訪形の北西端に台風19号のため今朝落ちた上田電鉄別所線の、大正13年(1924)8月に完成した千曲川鉄橋がある。
 神川村は城下村の東、千曲川右岸にあった村で昭和31年(1956)9月に上田市編入された。国分寺小牧山(771.1m)の対岸にある。
 さて、この話に拠ると須川池(須川湖)の主は国分寺の鐘が変じた蛇、もしくは大鯉である。だとすると、10月5日付「田中貢太郎『新怪談集(実話篇)』(04)」に取り上げた、上田城の濠を脱して須川池(須川湖)に移った赤い牛は、①しばらく留まって余所に移ったか、②須川池の新たな主になった、或いは③蛇もしくは大鯉と同居、と云うことになりそうである。(以下続稿)

*1:ちくま学芸文庫版は半角読点ではなく全角。

*2:ちくま学芸文庫は「曲者」。

須川池(1)

 『怪奇傳説 信州百物語』改め『信州百物語 信濃怪奇傳説集』『山の傳説』の関係から、以前抱いていた伝説への関心が少々復活して来た。私は父が所謂転勤族で、高校までは長いところで4年半、短いと3年で転居を繰り返して来たから、根っからの(?)根無草で、だから伝統的なものに繋がれることが全くなく、ために伝説とか昔話とか云うのは私にとって憧れの存在であったのである。
 それで、いろいろと本も読んだのだが、何せ小学生だったので小難しい理論を十分咀嚼出来るはずもなく、その後も理屈が好きになれなかったので、30年以上前の、中途半端な知識で物を言っている。私の伝説観は今から25年前の大学3年の1月に授業の担当教員に提出した「塩嘗地蔵」のレポートで止まっている。当ブログでも2011年6月13日付「塩嘗地蔵(01)」に始めて、神奈川県の図書館に出掛けて資料漁りをしようと思ったところで滞っているが、――要するに、伝説は、特に名所旧跡(観光地)の場合、江戸時代以来、先行する書物を引き写すことで伝えられ、そこに賢しらで勝手な解釈を加える人が書き足し・書き替えを行うことで変化していく、と云う結論なのである。
 さて、10月5日付「田中貢太郎『新怪談集(実話篇)』(04)」にて、替え乾しされたことで上田城の濠を脱した、濠の主らしき赤い牛が須川池(須川湖)に移った、と云う話を取り上げて、常識的に(?)考えれば須川池の主になったのだろう、との見当を示したのだけれども、名前のあるほどの池なのだから当然須川池にも主はいたのだろうと思って、藤澤衞彦編著、日本傳説叢書『信濃の卷』を見るに、326頁10行め~327頁9行め「(一五二)須川の池(小縣郡城下村大字小牧)」として典拠を(口碑)として出ていた。城下村は大正10年(1921)9月10日に、大正8年(1919)5月に市制施行した上田市編入されている。上田市街の対岸、千曲川の左岸の中之条・御所・諏訪形・小牧が旧城下村である。
 それからちくま学芸文庫版の高木敏雄『日本伝説集』を、日本傳説叢書『信濃の卷』や『信州の口碑と傳説』と同じ話が出ていないかと借りて来ていたのだけれども、これにも「須川池」が出ていたのである。
 ネット上では差当り、Wikipedia「須川湖(長野県)」項を見るに、註[7]に「現地案内板および「上田市役所 - 須川公園」(2010年10月18日閲覧)より。」として、「須川湖の沈み鐘」と云う「伝承」を紹介してあった。

須川湖の底に信濃国分寺の鐘が沈んでいるという民話。国分寺にあった鐘の音色に魅せられた男がその鐘を盗み出したが、追っ手に気づくと鐘を須川湖に投げ捨てて逃げうせた。この鐘が元あった国分寺恋しさのあまり夜ごと鳴り出すという[7]。


 この現地案内板は「しあわせ信州」長野県魅力発信ブログ「じょうしょう気流」の2012.12.24「上田のロケ地を訪ねて~須川湖~」に、写真が掲載されている。それ以後の写真はなく、既にかなり劣化しているから現存していないであろう*1。――「須川湖」と題して3段落、1段め地理について6行、2段めは史跡について3行、そして伝説については3段めに7行、

 昔、国分寺のつり鐘をぬすみ/だした盗人がいた。この須川の/湖までくると後から追手がくる/ので鐘を湖に投げこんで逃げだ/した。鐘は湖底に今も沈んでい/て、夜中「国分寺恋しや」と鳴/りだすという。

とある。すなわち「鐘の音色に魅せられた男」などと云うことにはなっていない。それでは上田市役所の方はどうなっているのかと思ったら、リンク切れになっている。そこで改めて、現在の「上田市」HPを検索して、「須川公園」のページを見るに、

須川湖の沈み鐘>
遠い昔のことでした。信濃国分寺に大変音の良いつり鐘がありました。この鐘の音が大好きな男がいました。この男は自分の家にほど近い寺にこの鐘をおいて朝な夕なに鐘の音を聞きたいと思っていました。ある夜、ついに男はその鐘を盗んでしまいました。やっとの思いで湖の岸にたどりつきました。たどりついたときには、日がのぼりはじめていました。ちょうどそのとき追手がくるのに気がつきました。「せっかく・・・」と思い鐘を湖に投げ込むとドボーンと悲しい音を残して鐘は水底へ・・・。そして、それから人の寝しずまった真夜中に鐘は「国分寺恋しやボンボラボーン」と鳴り出すということです。

と云う、妙に盗人に感情移入したような(映画版『砂の器』みたいな按配の)話が、依拠資料を示さずに記されていた。いつからこんな展開になったのか知らぬが、これも例によって「塩嘗地蔵」に本当に塩を舐めさせてしまった《賢しら》の類いであろう。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 今日は一歩も家から出なかった。いや、朝、朝刊を取りに一足、昼に風に煽られた自転車のカバーを直しに一足、さっき夕刊を取りに一足出た。この記事は万一停電しても構わないように予約投稿にしている。風はそれほど強くないが家は少し揺れているようだ。いや、締め切ると蒸すので吹き込まないよう注意して少し窓を開けているので、風かも知れない。先刻、大した風でもないのに家が軋んで揺れたので、ついにこの家もガタが来たか、と観念したら、地震であった。

*1:現存しているとしても、殆どスクラップ状態ではないだろうか。

「足要りますか?」(6)

・永山一郎「配達人No.7に関する日記」(6)
 台風が来るとて、帰りの電車がいつもより若干混んでいた。近所のスーパーの棚からパンが、食パンも菓子パンも消えていた。魚や肉も殆どなくなっていた。明日は休業とのこと。家人は先週満104歳になった祖母を見舞いに実家に帰っている。当初の予定通りなのだが、ちょうど台風をやり過ごして戻って来る勘定だ。明日は私1人で引き籠もる。別に何の対策もしない。今の借家を探したとき、風水害のことは考えた。地震では潰れるかも知れない。これで何かあったらそれはもう仕方がないので、何もしない。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 結末を見て置こう。
 18日め(108頁下段15行め~109頁下段4行め)、待っていた主人公の気持ちを察したのか、喫茶店に現れた配達人No.7に「きみと手を切りたいんだ。これ以上仕事の邪魔をされるのは御免なんだ」と切り出す。別に結託している訳でもないのに、執行委員会に「敵の手先」呼ばわりされたり上司に「変な男とつき合っている」などと言われるうちに、主人公の感覚もおかしくなって来たようだ。109頁上段3~11行め、

「きょう限りで現れないでくれ」
「結構ですね、じゃ請求に応じられるわけなんですね」
 私はそういうかれの言葉を予想していたので、すぐに/言った。
「請求に応じるとどうなんだ、どうなるんだ、ええ」
「どういう意味ですか」
「請求に応じると、右脚一本大腿部から下がなくなるの/かい? それともきみが切り取ってでも行くのかい」
「人によってそれは違いますね」


 どうなるのかは、自分はただの配達人であると言うことで教えてくれない。結局「請求には応じ」ず、「十八枚目のカードを受取」る。配達人No.7との会話が2日め3日めの会話の繰り返しになったことで前日には少しは見せていた余裕も失せ、事態の深刻さに直面せざるを得なくなってしまう。
 19日め(109頁下段5~20行め)、主人公の頭の中は3日め、或いは10日め以上に配達人No.7によって惑乱させられている。「カードはすでに十九枚」で、明日、20日めには14日めに配達人No.7に警告されたように「請求内容」が「増加」するはずで、かつ、17日めに上司に「来月つまり四日後に」は「その男と手を切」っているよう言われていた期限も、やはり明日なのである。
 20日め(110頁上段~111頁上段)、上段左に四隅が繋がっていない枠に、

一、右脚一本(大腿部モ含メルモノトスル)
 右物件受領イタシマシタ
沖 田 滝 男 殿
             配達人No.7

とあるが、この前(110頁上段12行め)後(110頁下段1行め)の本文に噛み合っていない。すなわち、これはレイアウトの都合でここに置かれているので、110頁下段9行めに入るべきかと思う。110頁下段1~8行め、

 と配達人No.7は、右手を上着の内側に入れ
「二十枚目には左脚も加えられていましたが、お渡しし/ませんから、前回の請求分だけで結構だと思います」
 かれの手に乗っているカードは今までのものと違い黒/黒とした枠で縁取られていた。
「それは?」
「受取りです」
 配達人No.7は静かに答え、私はそれを受取った。


 この次で良いと思うのである。この8行は上段の受領証のある位置に収まるので、受領証もこの8行のあった位置に収まる。
 さて、この受領証も「やはり宋朝体で刷られてあった」とのことで、もし再刊もしくはアンソロジーに収録される機会でもあれば、請求カードと受領証は是非とも宋朝体にして欲しいと思う。作者はそこまでしなくても良いと思っていたかも知れないが、一度宋朝体で見てみたいのである。
 そのまま、配達人No.7は何もせずに姿を消してしまう。
 それで主人公の右脚はどうなったかと云うと、帰宅して靴下を脱いだとき、ズボンから先が透明になっていることに気付く。ズボンをまくり上げて「右脚一本(もちろん大腿部も含めて)が完全に透明になっていることを確認」する。ぼんやり「ズボンさえ着けてれば何の異変も認められないんだ」と考え「これでいいのだ」と思いつつ「変に体がけだる」い。そして執行委員会の連中も実は右か左の脚が透明になっているのではないか、と考えたり、配達人No.7が明日から姿を現さないことに気付いたりしつつ、見えない右脚を「撫でている私の両肩から、すうっと力が抜け落ちて行くような感じがした。それが安堵を意味するのか、落胆を意味するのか、そのいずれなのかは私にははっきりしないのだ。」
 これでこの小説はお終いである。(以下続稿)

「足要りますか?」(5)

・永山一郎「配達人No.7に関する日記」(5)
 一昨日からの続きで小説の筋をやや詳しく見ている。所謂ネタバレと云う奴だが当ブログは面白そうな小説を紹介することを目的としていない。書いてある内容の確認と、どう読解すべきかに興味があるので、わざと匂わせたりしていない。いや、匂わせるような書き方をしたところもあるが、それは書くのが面倒になったか、書いてしまうのが味気なくなったか、そんな理由で書かなかっただけなのである。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 16日め(104頁下段5行め~108頁上段10行め)、20日分の日記のうち最も長いが、その殆ど(105頁下段4行め~108頁上段6行め)は、執行委員長の遠藤に借りた「××年度執行委員会議事録」から引用した「××回執行委員会」の議事録の引用である。「出席者」は「遠藤達男執行委員長」そして4人の執行委員、1人めが「栗田甚四郎執行委員」で2人め立川、3人め花田、4人めは「五十嵐順一執行委員」.遠藤が主人公に紹介しなかった五十嵐は発言していないが、末尾(108頁上段5~6行め)に下寄せで「――終了時刻五時四十分―― /速記担当 五十嵐順一㊞  」とある。「議  題」は「一、配達人No.7について(提案栗田委員)/一、その他」で、その他は108頁上段3行め、(意見なし)で済んでいるから殆どが主人公が依頼した議案に費やされたことになるのだが、議事録の筆写の前に、105頁上段17行め~下段3行め、

 今、 “××年度執行委員会議事録” を読み終った。私/の知りたい分の他の頁はホッチキスでとじてあったが、/その理由も、執行委員達の妙な態度の原因も全てははっ/きりした。
 私はこの議事録を写しておかなければならない。私の【上】問題が、私と全く無縁な場でこね廻され、そのこね廻し/方の驚くべき巧妙さと無意味さに、一種の感動すら覚え/た記念として。

と断っているように、議論は提案者の栗田がそれなりに誠実に対応しようとするのを何のかのと批判した挙句「沖田よりも、沖田の背後に存在する敵の目的が重要なのだ」と云う展開になり、結局「傍観することだね。これ以上沖田のことに深入りしないこと」という結論に至る(引用した発言はともに遠藤のもの)。
 そこでようやく、108頁上段7~10行め、

 やはり私は上司に相談すべきであった。 "君は怠慢の/結果を知ってるね" もう遅いかも知れないが、月末まで/はあと三日ある。何とかなるかも知れない。
 請求カードは十六枚になった。

と云うことになる。
 17日め(108頁上段11行め~下段14行め)、上司に相談すると、自分を無視して組合に相談したことに不快感を表明しつつも、108頁下段3~8行め、

「よし、それじゃあ、こうしよう、来月つまり四日後に/なってもまだ君がその配達人No.7とかいう変な男とつき/合っているようだったら、私としてもきっぱりと処置す/る。能率、能率、能率だからね、それからね、それから/君がその男と手を切ったら今まで通り働いてもらう、い/いかね」

との条件を出す。
 そこで配達人No.7と話をしたいと思うが、電車の発車まぎわに外からカードを渡して来たので何も話せない。車窓から見下ろした禿頭が艶を失っているように見えたことに「かれも疲れていたのだろうか」と思いやる余裕が復活している。(以下続稿)

「足要りますか?」(4)

・永山一郎「配達人No.7に関する日記」(4)
 昨日の続きで10日め(96頁下段5行め~97頁上段5行め)、冒頭部を抜いて置こう。96頁下段6~10行め、

 十枚のカード。配達人No.7が三日前呟いたように文面/が変わっている。( )内の文字が “大腿部モ含メルモ/ノトスル” となっているのだ。
 配達人No.7が現れてから十日目、この十日間に私は/仕事上の過ちを十三回重ねてしまった。‥‥


 初めて仕事上の過ちを犯したのは3日めであった、95頁上段15~18行め、

 私ははじめて仕事をしくじった。私の作成した書類に/三枚の符箋がついて戻って来たのである。三枚目の符箋/には赤インクで "君は怠慢のレッテルを求めているの/か" と記入してあった。


 これが10日めの、96頁下段15~19行め、

 これ以上、ミスを重ねることは出来ない。はじめの頃、/誤った箇所に符箋をつけて指摘してくれた上司は、この/頃はもう、書類の一枚目に赤いマジックインクで "君は/怠慢の結果を知ってるね" と書き殴ってよこすだけなの/だ。怠慢の結果、それはもちろん馘首である。

と云った記述に対応しているのである。作者の永山氏は小学校教諭だが主人公は事務職員か何かのようである。
 そこで主人公の沖田滝男は上司が “日常の心得” として “‥‥、困りごとはよろず相談してほしい” と説明していたことを思い出し、上司に相談すべきかと考える。
 しかし、11日め(97頁上段6~19行め)、廊下の組合専用の掲示板に “明後日、月例執行委員会を行ないます。各委員はそれぞれ議題を考えて下さい” と板書されてあったのを見て、上司に相談するのは止めて議題として提案することにして、印刷不鮮明の組合のチラシを苦労して読んでいる遠藤に、誰が執行委員か聞くことにする。
 12日め(97頁下段~99頁上段4行め)、遠藤に紹介してもらった執行委員の栗田氏に相談し「対策はわれわれ執行部で考えますから」と言われて安心したのか、主人公は、配達人No.7に「電車に中で‥‥微笑しながらカードを渡」されても「かれの笑顔はひどく間が抜けたものに見えた。」と余裕が出来ている。
 13日め(99頁上段5行め~100頁上段4行め)、栗田氏の「生け垣に囲まれた洒落た住宅」を、「執行委員会の結果を聞きに」訪ねた主人公に、栗田氏は配達人No.7の存在を疑い「十三枚のカードを出」しても「そんなものは金さえ出せばどこでだって刷ってくれる」等と「吐き出すように言う」。前日の対応との差を指摘すると「昨日? あれは個人的感情だ」と「不快そうに言い捨て」られる。
 14日め(100頁上段5行め~102頁下段7行め)、主人公は遠藤に紹介された別の執行委員・立川行夫に、執行委員会の結論を聞きに行くが、愛人と待ち合わせている立川氏には、適当にあしらわれた上で最後には無視されてしまう。そこに現れた配達人No.7に怒りをぶつけるものの、これまで通りの返答があるばかりで、却って「ま、結構でしょう、でもお断わりしておきますけど、請求カードが十枚溜まるごとに請求物件の内容は増加しますからね、それだけは心得ておいて下さいよ」と釘を刺される始末。
 15日め(102頁下段8行め~104頁下段4行め)、遠藤に花田タマという執行委員を紹介してもらって聞きに行く。花田氏は度の強い眼鏡をかけた小柄な肥った女性で、アパート暮らしだが「そこにはいわゆる電化器具がびっしり並んでい」る。花田氏は、組合の規約に照らして「あなたの当面している状態は、かりにね、かりに事実としても組合全体の問題にはなりませんよ」と言い、結論については「委員長に教えてもらったら、それは」と答える。「じゃ、委員長を紹介して下さい」と言うと、遠藤が委員長だと言うのである。
 この間の抜けたやりとり、要するに「執行委員」を紹介してくれと言われたから、自分が「執行委員長」であることは教えなかった、と云う理屈なのだろう。主人公も遠藤を咎める訳でもなく、むしろそのことを知らずにいた「恥ずかしさに追い立てられるように、花田執行委員の室を飛出」すのである。この辺り、10月6日付(1)に引いた「やたらと組合の「委員会」だの「集会」だのが出てくるところは、実生活が反映されている様子」との北原尚彦のコメントの通り、自分も含めた組合活動の戯画化のようである。(以下続稿)

「足要りますか?」(3)

・永山一郎「配達人No.7に関する日記」(3)
 一昨日からの続き。
 例によって前置きが長くなったが、話の生まれた環境を重視したい私としては、当時永山氏が勤務していた沓喰分校について、やや詳しく確認して置きたいところなのだけれども、それはやはり後回しにして、とにかく本題の方を片付けてしまおう。
 『永山一郎全集』は紺色の布装で丸背の背表紙、上半分に金文字で「永 山 一 郎 全 集」と標題、下部、私の見た本は分類票貼付のため文字の有無不明。見返しはクリーム色、遊紙があって、干からびた泥田の地割れのような模様の青っぽい透かしの入った白いやや光沢のある表紙の中央に紺色で1行「永 山 一 郎 全 集 * 全一巻      冬樹社」*は正確には中央に小さな●があって、そこから八方に花弁のような紡錘形が広がっている。次いでアート紙の口絵、裏は白紙で、表に肩の高さまで生い茂った草の中に立って、煙草を銜えて遠くを見る著者の写真、下に明朝体横組みで小さく「昭和30年 山形・新庄市郊外にて」とのキャプション。この写真は『全集』の函にも使用されているようだが、公立図書館蔵書は函を保存しないので現物を見ていない。しかし、もっとはっきり写った写真はないのか、と思ってしまう。
 1頁は「永山一郎全集 目次」の扉で、2~3頁が昨日触れた2段組の目次。4頁は白紙で5頁「第一部  創  作」の扉。6頁も白紙でここまで頁付なし。7頁から本文で最初に3行取り2段抜きで題、さらに4行2段抜きで空けて、2段組の本文。1行25字、1段21行。
 91~111頁「配達人No.7に関する日記」は6点め。日記形式で、2字下げで「×月×日」として20日分、次の条の間を1行分空ける。休日の分もあるだろうから20日間ではないが、正確に何日間かは分からない。しかし主人公の許に「請求カード」を届けに来る「配達人No.7」から「十九枚」カードを受け取り、最後には「請求に応じて」いるから、「配達人No.7」が訪ねて来た日の分は揃っていることになる。
 1日め(91頁上段~93頁上段15行め)、職場に見知らぬ男が面会に来て「一枚の葉書大の紙」を渡す。「ひどくやせて見える体」の「かなりな禿頭」の男である。「上質の艶紙を用いているその紙片」は、以下のような文面である。92頁下段4~15行め、前後から抜いて置こう。紙片は四隅の繋がっていない枠で表現されている。

 顔を近づけた私の眼に入ったのはまず “請求カード” /という活字であった。それはなぜか宋朝体で刷られてあ/った。

  請 求 カ ー ド
一、右脚一本(膝蓋ヨリ下 即チ大腿部ハ含
  マナイモノトスル)
 
   右物件ヲ納入下サルヨウ通知ノ上請求
  イタシマス
 
  沖 田 滝 男 殿
             配達人No.7

 馬鹿にしてる。私は呟いた。悪質ないやがらせにきま/っている。


 2日め(93頁上段16行め~94頁下段4行め)は翌日で、職場の食堂で昼食中の主人公の前に「帽子をかぶっ」た配達人No.7が現れて「昨日のカードと形も文面も全く同じ」カードを渡す。「何の為にこんなものをよこすんだ」と怒鳴る主人公に対し「私は配達人ですから、ただ配達するだけです」のような答えを返すばかりである。
 3日め(94頁下段5行め~95頁下段1行め)はその翌日で、主人公は「昨晩」用意して置いた「疑問」をまづ「請求される理由は何ですか」と「問いただし」て見るが、配達人No.7は「それはあなた御自身が御存知のはずでしょう、私は知りません」と「答え穏やかな微笑を見せ」る。そして主人公が「請求される理由を想い出し、請求に応じられるまで、私は幾度でも配達しなければならないの」だと説明する。
 4日め(95頁下段2行め~96頁上段6行め)は、「帰宅の途中、行きつけの飲屋で酒を飲んでい」るところに現れる。主人公は「右脚一本ヲ納入シナケレバナラナイ理由などあろうはずがない。あるはずのないことなどどうして想い出すことができるのか」と途方に暮れてしまう。
 続く5日分はいづれも短い。6日め(96頁上段10~11行め)と9日め(96頁上段4~5行め)はカードの累計枚数を記録したのみ、5日め(96頁上段7~9行め)と8日め(96頁上段17行め~下段2行め)はそれに一言書き足す。7日め(96頁上段12~16行め)にのみ配達人No.7の発言を記録する。全文を抜いて置こう。

  ×月×日
 配達人No.7はカードを渡すとき囁いた。*1
「カードが十枚になると右脚一本の請求内容がもっと増/加されますよ」
 くだらないと思う。思いたい。


 そしてその10日めから新たな展開になるのである。(以下続稿)

*1:「囁」の旁は「摂」の旁に同じ。

「足要りますか?」(2)

・永山一郎「配達人No.7に関する日記」(2)
 昨日の続き。
 北原氏が手にした遺稿集(マンジュウ本)はなかなか手に取る機会がなさそうなので、先々週、某区立図書館の返却期限に合わせて『永山一郎全集』の取り寄せを依頼して、先週、借りて来たのだった。
・『永山一郎全集 全一巻昭和四十五年六月十五日初版第一刷発行・定価二〇〇〇円・冬樹社・547頁・A5判上製本
 遺稿集の帯は野間宏(1915.2.23~1991.1.2)、解説は奥野健男(1926.7.25~1997.11.26)だったが、『全集』の「解説」は桶谷秀昭(1932.2.3生)である。
 細目はブログ「研究余録 ~全集目次総覧~」の、2011/03/12「『永山一郎全集』全1巻」に示されている。震災当日の深夜の投稿である。それはともかく「第一部 創作」として10点収録されるうちの8点めが「皮癬 の唄」と、恐らく入力出来なかった文字が空白になっているが「皮癬蜱の唄」である。この「皮癬蜱の唄」のみ、文庫本で読むことが出来る。

短篇礼讃―忘れかけた名品 (ちくま文庫)

短篇礼讃―忘れかけた名品 (ちくま文庫)

 1~3頁(頁付なし)「目次」にはない、詩集『地の中の異国』の「あとがき………………………………… 261」を追加していることと、やはり「目次」には作成者名が示されていない、最後に附載される「*年譜(尾形尚文)……………………… 537/*解題(高橋徹)………………………… 541」に作成者名を追加しているのは適切な処置である。ただ、各部ごとに空白の行があったのを詰めたり、字下げを原本に従わなかったり、やや見づらい。
 537~540頁「年  譜」には、末尾(540頁上段9行め下寄せ)に(作成・尾形尚文)とある。「配達人No.7に関する日記」に関係する記事を拾うと、最も長い538頁上段19行め~539頁上段1行め「昭和三十六年一九六一) 二十七歳」条、まづ、538頁上段20行め「四月、山形県最上郡戸沢村々立古口小学校沓喰分校に転任。」とあり、下段6~10行め「八月」条に、8~9行め「‥‥。創作「配達人No.7に関する日記」/(四十七枚、筆名、青沢永)の初稿を八月五日脱稿。‥‥」とあり、539頁上段2~12行め「昭和三十七年一九六二) 二十八歳」条、3~5行め、

四月、創作「配達人No.7に関する日記」を回航(五十枚)し/「教育評論」増刊「教師の文芸」第二号に発表。筆名、青沢/永。‥‥

とある。なお539頁下段5~17行め「昭和三十九年一九六四) 二十九歳」条*1、9~11行め、

三月二十六日午後七時頃(推定)、古口小職員離散会を終え、/新庄市本合海福宮地内の国道からモーターバイクのまま転落、/死亡(山形新聞三月二十六日付夕刊による)。

とあるが、3月26日19時頃の事故のことが同日付夕刊に載るとは思えないから、発見が翌27日朝になってからとして、27日付夕刊に出たのではないだろうか。
 541~547頁「解  題」には、末尾(547頁下段4行め下寄せ)に(作成・高橋徹)とある。「年譜」と「解題」を見るに、雑誌に発表された作品で『全集』に収録しなかったものが幾つかあるようだ。「配達人No.7に関する日記」については、542頁下段9~10行め、

 配達人No.7に関する日記 「教師の文芸」一九六二年号に青/沢永の筆名で掲載。のち遺稿集に収録。

とある。遺稿集は前回触れた『永山一郎作品集・出発してしまったA'』。(以下続稿)

*1:満年齢では30歳になる勘定だが、誕生日よりも前に死亡しているので「昭和三十八年一九六三) 二十九歳」条」と年齢が重なる。

「足要りますか?」(1)

・永山一郎「配達人No.7に関する日記」(1)
 敬体ではなく常体で「足要るか」のこともあるらしいが、昭和62年(1987)高校1年生のとき、兵庫県立高校で級友から初めて聞かされたときの台詞に従って置く。
 私がこの話を思い出したのは、9月9日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(112)」に、北原尚彦『SF奇書天外』67~130頁「一九六〇年代」の最後の回、122頁12行め~130頁8行め「マンジュウ本の幻想短篇集『出発してしまったA'』」を取り上げて、一応一通り目を通したからである。この回には12人の作品を取り上げているが、この回の題にも採用しているように1人め、永山一郎(1934.8.11~1964.3.26)について、一番多くの分量(122頁14行め~124頁3行め)を割いて紹介している。
 冒頭、122頁14~17行め、

 聞いたことのないタイトルで、怪しげな本を見かけた時には、必ず手に取ることにしている。その|ようにして、古本市で発見した奇書は幾つもあるが、永山一郎『出発してしまったA'』(永山一郎遺稿刊行会/一九六五年)もその一例である。何だろう、と思って開いてみると、収録されている六短篇|のうち、三篇が幻想的作品だった。

として、123頁1~4行めに表題作、5~8行めに「配達人No.7に関する日記」、9~11行め「夢の男」の粗筋が紹介されているが、私が注目したのは、

「配達人No.7に関する日記」では、主人公のもとに配達人No.7なる人物が訪れる。配達人に渡された|紙は、右脚一本を請求するという書類だった。主人公には何のことやら判らない。会社の組合の執行|委員や、上司に相談するが、うまくいかない。主人公が最終的に請求に応じると、彼の右脚は透明に|なってしまった……。

との段落である。
 私は高校のとき、――道で大きな籠を持った老婆が話し掛けて来る。「足要りますか?」「手ー要りますか?」と身体の各部を訊いて来る。それに「要る」答えんとあかん。「要らん」言うとその分取ってかれる。と云う話を聞いた。
 大きな籠に手や足が入っていて「要るか」と言って無理に押し付けて来るのかと思いの外、「要らない」ならもらって行くための籠だった、と云うオチなので、この小説のように初めから「右脚一本を請求する」ことを明示した「書類」を「渡され」る、と云うのはちょっと違う。しかし、理由もなく脚を取って行こうと言い掛けられる、と云う発想が共通していると思ったのである。
 北原氏はもちろんそんなことは考えないので、123頁12~19行め、

 以上「幻想文学」ではあるが、正確には「幻想的な純文学」であろう。表題作といい「夢の男」|といい、ドッペルゲンガー・テーマがお気に入りのようだ。また、やたらと組合の「委員会」だの|「集会」だのが出てくるところは、実生活が反映されている様子で|ある。
 巻末の年譜によると,著者・永山一郎は、教師をしながら創作活|動をしていた人物だが、本書刊行の前年にバイク事故で死去したの|だそうだ。ちなみに帶の惹句は作家の野間宏、巻末の解説は文芸評|論家の奥野健男である。

と纏めている。1行の字数が途中から減るのは、123頁左上(14~20行め)に書影が掲載されているからである。(以下続稿)

田中貢太郎『新怪談集(実話篇)』(04)

・丸山政也・一銀海生『長野の怖い話 亡霊たちは善光寺に現る』(3)
 昨日の続きで、典拠である河出書房新社版『日本怪談実話〈全〉』と比較しつつ、丸山氏のリライト振りを確認して置く。記事の題は『日本怪談実話〈全〉』の原題である『新怪談集(実話篇)』としてある。要領は同じく『日本怪談実話〈全〉』からの引用を〈 〉で、『長野の怖い話』からの引用を《 》で括った。
二十六 城の堀にいたもの 上田市 108~109頁
 『日本怪談実話〈全〉』【228】赤い牛(344頁)
 まづ《明治初(一八七二)年の初夏のこと。》との書き出しだが、これが一人歩きして明治5年(1872)と書く人が出て来ないとも限らない。「明治初年(一八七〇年頃)のこと」で良いのではないか。なお「頃」とすると「初夏」の据わりが悪いので、典拠〈その日は朝からからっと晴れた好天気で、気候も初夏らしく温い日だったので、‥‥〉の通り、天候を説明するところで持ち出した方が良いと思う。
 典拠には末尾に小さく(植田某氏談)と添えてあるから田中氏が直接取材したもののようで、植田氏は事件を目撃した父の体験談を語っているのである。すなわち、344頁8~11行め、

 その日私の父も、面白半分その手伝いに往っていたが、正午近くなって濠の水が膝の下ぐらいに減っ/た時、父の周囲にいた人びとが異様な声を立てた。見ると父のいる処から三間ばかり前の方に当って、/一ところ水が一間半ばかりの円を描いて渦を巻いていた。
(何だろう)

 

 丸山氏はこの、目撃者個人とその心内語を排除して、次のようにリライトしている。108頁10行め~109頁2行め、

 正午近くになって、堀の水が膝下ほどになったとき、野次馬たちが異様な様子で騒ぎ始【108】めた。すると、堀の一ヵ所の水が、直径三メートルばかりの円を描いて激しく渦を巻いて/いる。


 客観描写になっている訳だが、典拠の「三間」と云う間近な距離感が失われたのは勿体ないように思う。
 丸山氏の結末部を見て置こう。108頁7~11行め、

‥‥、小牧/山を乗り越え、須川湖に姿を隠してしまったそうだ。
 どこへいってしまったのか、その後、二度とその赤い牛を見る者はいなかったという。
 
 にわかには信じられない話だが、当日は多くのひとびとが目撃しており、昭和初期まで/は「自分もあの日たしかに見た」と証言する者が複数いたそうだ。


 典拠である本書では、次のようになっていた。344頁15~20行め、

‥‥、小牧山を乗り越え、それから須川の池へ身を隠してしまった。
 今でもその替え乾しの時に、現場へ往っていて赤い牛を見たという人がある。私も少年の時によくそ/の話を聞かされたものだが、どうしても信じることができないので、作り話だろうと云って父に叱られ/たことがある、私の父はいいかげんな事を云う人でないから、もしかすると河馬のような水棲動物であ/ったかも判らないと思うが、それにしても河馬が日本にいるという話を聞かないので、どうにも解釈が/つきかねる。(植田某氏談)


 典拠では〈須川の池〉云々は《‥‥たそうだ》などと云う伝聞にしていない。そして次の《どこへいってしまったのか、‥‥》の行は蛇足だろう。
 すなわち、〈赤い牛〉は〈上田城の濠〉の主なのであろう。江戸時代には〈替え乾し〉は行われず、主が姿を見せることもなかったのであろう。しかし〈明治初年〉、上田市ホームページ「上田城の歴史」に拠ると、明治4年(1871)の廃藩置県に伴って上田城は政府に接収され東京鎮台第二分営が置かれるが、明治6年(1873)に分営廃止、明治8年(1875)には土地・建物の払い下げが行われるなど上田城を巡る混乱の中*1、《替え干し作業》が行われたことで、姿を現さざるを得なくなったのであろう。
 さて、この〈濠〉だが、現存する本丸を取り囲む本丸堀ではなく、二の丸を取り囲んでいた百間堀であろう。現在は埋め立てられて陸上競技場や市営野球場になっている。城の南側には堀がないが、千曲川の分流がえぐった尼ヶ淵に面しており、築城当初は急崖、その後江戸時代中期に石垣が築かれている。すなわち、芝生広場の辺りに千曲川の分流があったのである。
 それはともかく、廃藩置県の煽りで安住の地を追われた〈上田城の濠〉の主は〈須川の池〉に移って、常識的に(?)考えればそのままそこの主になった、と見るべきであろう。だから《どこへいってしまったのか》と云えば《須川湖》で、また《替え干し作業》をされない限り〈上田城の濠〉にいた頃と同じく、自分から人に気付かれるようなことはせずに《須川湖》の主として安住しているだろうと思うのだ。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 かかる突っ込みを入れたことに《野暮というものだ》との批判があるかも知れない。売り物として成立しているのだから、それで良いではないか、と云う人もいるかも知れない。いや、余り好きではないと云うだけで、私も仕方がないと思っている。或いは、お前に売り物の文章が書けるのか、と云う人がいるかも知れない。それは書けるつもりで、高校時代に「祖父の記録した怪異談集」なるものを捏造したこともある。これまで私が聞き集めた話のうち古い時期のものを祖父が知人から聞いたことにしたのである。例えば、怪異の正体が分かって、その供養をしている場所に行き合わせて、親しく聞いた因縁談を書き留めた、と云う風に。――懇意にしていた図書館の司書教諭が信じてしまって、ちょっと困った。それは良いとして、既に原本が存するところに再話を市場に出そうと云うのであれば、気付いた範囲ではなく全体に註釈的検討を加える必要があると思う。尤も、私なら註釈的検討を加えた上でリライトするくらいなら、註釈をそのまま示したいと思うけのだれども。(以下続稿)

*1:そうすると〈替え乾し〉が行われたのは明治8年頃と見るべきであろうか。

田中貢太郎『新怪談集(実話篇)』(03)

 話を検討する場合、私は原典に遡って考察しようと思う。なるべく話の発生時期に近いものを探して、妙な賢しらが加えられていないものを見たいと思う。それが出来ない場合、複数の話を並べて原型を追究しようと思う。だから、どうしても再話・リライトを好きになれない。いや、何も考えずに読むだけなら怪異小説よりは抵抗なく読めるが、考察には使いづらいのである。調査と解釈が及ばなかった分だけ、原典から微妙に離れている。いや、そこを別の発想や知識で補ってしまうので、どうしても離れてしまう。そうすると私などには、そもそも書き替えなくても良かったのではないか、いたづらに異説・異版を増やしてしまっただけではないか、と思えて仕方がない。もとより営業妨害をするつもりはない*1。しかしながら、原典から離れた内容の方が流布するのは、やはり宜しくないと思っているので、こうして過疎ブログに検討結果を示して置くくらいは許されよう。
・丸山政也・一銀海生『長野の怖い話 亡霊たちは善光寺に現る』(2)
 昨日の続きで、典拠である河出書房新社版『日本怪談実話〈全〉』と比較しつつ、丸山氏のリライト振りを確認して置く。記事の題は『日本怪談実話〈全〉』の原題である『新怪談集(実話篇)』としてある。要領は同じく『日本怪談実話〈全〉』からの引用を〈 〉で、『長野の怖い話』からの引用を《 》で括った。
五 龍神のお告げ 木曽郡 35~36頁
 9月27日付「青木純二『山の傳説』(03)」に『新怪談集(実話篇)』【168】龍神河出書房新社版『日本怪談実話〈全〉』258頁7行め~259頁1行め)が典拠であることは指摘して置いた。
 まづ冒頭〈大正十二年七月二十四日木曾谷の大洪水に際して、‥‥〉とあるが、これはそもそも田中氏が誤っているので、大正12年(1923)7月18日が正しい。しかし《大正十二(一九二三)年七月二十四日に起きた木曽谷の大洪水の際、‥‥》と、訂正していない。
 特に気になったのは35頁4~5行め、

 洪水が起きる数日前、電気工事のために多くの土工が村に入りこみ、複数の現場にそれ/ぞれ数十人が従事する形で、大掛かりな工事が行われていた。

との段落で、典拠では〈‥‥、その洪水や山崩れの起こる五六日前の十四日の事である。大同電気の工事のために、同村に入りこんでいた多数の朝鮮人は、あちらこちらに群れて工事に従事していたが、‥‥〉となっていた。
 〈二十四日〉の〈五六日前の十四日〉とは妙だから、どちらかが間違いのはずである。
 《電気工事》とは普通、専門業者による「屋内及び家屋の外面における電線の架設や電気機器の設置などの工事」を指すから、屋外で《多くの土工》が《大掛かりな工事》とは何だろうと思っていたのだが、〈大同電気の工事〉を《電気工事》としたらしい。〈大同電気〉は正しくは「大同電力」で、木曾谷の水力を利用した電源開発を行っていた。従ってこの〈工事〉は発電所や送電施設の建設工事なので、所謂《電気工事》ではない。
 それから〈朝鮮人〉であることも伏せられている。昨年10月から今年3月まで放映された連続テレビ小説まんぷく」の主人公の夫が当初、大阪弁を使えないのを気にしている設定だったので、モデルである安藤百福(呉百福。1910.3.5~2007.1.5)と同じく台湾人にするのかと思ったら、兵庫県南西部に親戚がいる日本人と云うことになっていて、しかも大阪弁が不得手な理由、すなわち妻と出会うまで何をしていたかは、最後まで説明されなかった(と思う)。その後の「なつぞら」と、その前の「半分、青い。」が大変な駄作だったから評判が良いようだが、所詮は凡作だった。
 丸山氏は「まえがき」で「県の歴史」を柱の1つとしたことを強調していたが、木曾川電源開発は強調して良い事柄だろうし、そこに朝鮮人が従事させられていたことも伏せるべきではないと思う。――私は「怪談実話」もしくは「実話怪談」と云うジャンルをどうも好きになれないのは、三島由紀夫の「小説とは何か」に於ける『遠野物語』の「炭取」に当たる要素を排除しているからである。つまり、具体的な地名・人名の排除である。実際にあるものとの関連が感得されるから少しは現実味が感じられるので、そこを排除しては何だかぼんやりした印象しか得られない。もちろん、これは昨今の個人情報保護の風潮に従っているので、仕方がないのであろう。Wikipediaでも日本版は個人名が全てABCになっているのに対し、英語版は全て実名だったりする。しかし、現存している人物に絡むのならともかく、歴史上の出来事まで朧化させる必要があるのだろうか。もちろん、それでは固有名詞をぼかしている現代パートとの釣り合いが取れないのだけれども。いや、言い換えるのならきちんと調べて言い換えて欲しいのである。
 『日本怪談実話〈全〉』の最後の段落、258頁18行め~259頁1行め、

 なお、大桑村地籍で、駒ヶ嶽から流下する伊奈川の上流には、今も龍神が棲んでいるが、昔、その龍神/が洪水と共に川を押しくだった際にも、多数の人名を失った事実があると同地の古老は話している。

とあるのを使用していないことも気になる。これも木曾谷で水害が頻発した「歴史」と絡めて、使った方が良かったのではないか。(以下続稿)

*1:むしろ、哀しい哉、相手にされないのは私の方だろう。