瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

ビートたけし『たけしくん、ハイ!』(54)

 その後並製本の五十版を見た。既に見ている七四版との異同は奥付の「初版発行」に次の行が「五十版発行――――一九八五年八月三日」となっていること。この日付は銀河テレビ小説たけしくんハイ!」最終回放送の翌日である。そして「七四版発行」が「一九八五年九月二七日」だから放送終了後8週間で25版を重ねたことになる。
 そうすると、放送中何版を重ねたのかも気になる。今後も探索を続けたい。
 それはともかく、以下各篇について、2月28日付(51)に列挙した諸本を対照させて置こう。仮に番号を附した。①②には本全体にルビがない。③はルビを附しており、各篇の題にもルビがある(目次にはない)。④は児童向けなのでルビが多い(目次にも同じルビ)。①②の頁に添えた〈数字〉は、前回注意した題と本文の1行めの間の空白(行数分)。
【1】ペンキ屋の手伝い(①②4~7頁〈6〉③8~12頁④5~10頁)
    挿絵(①②5頁③11頁④8頁)
【2】兄きと俺の勉強*1(①②8~11頁〈3〉③13~17頁④11~16頁)
    挿絵(①②9頁③15頁④13頁)
【3】身体検査とおんな色*2(①②12~15頁〈4〉③18~22頁④17~22頁)
    挿絵(①②13頁③21頁④19頁)
【4】はじめての海と神様(①②16~19頁〈8〉③23~27頁④23~27頁)
    挿絵(①②17頁③25頁④26頁)
【5】送って当るパラシュートロケット(①②20~23頁〈5〉③28~32頁④28~33頁)
    挿絵(①②21頁③29頁④31頁)
【6】インチキな沖縄カラテ*3(①②24~27頁〈4〉③33~37頁④34~39頁)
    挿絵(①②25頁③35頁④35頁)
【7】燃えた電気機関車*4(①②28~31頁〈4〉③38~42頁④40~45頁)
    挿絵(①②29頁③39頁④43頁)
【8】楽しい銭湯*5(①②32~35頁〈1〉③43~47頁④46~51頁)
    挿絵(①②33頁③46頁④49頁)
【9】紙芝居と三角アメ*6(①②36~39頁〈7〉③48~52頁④52~57頁)
    挿絵(①②37頁③51頁④53頁)
【10】職人のおやじ*7(①②40~43頁〈7〉③53~57頁④58~63頁)
    挿絵(①②41頁③55頁④61頁)
【11】夏休みの想い出*8(①②44~47頁〈5〉③58~62頁④64~69頁)
    挿絵(①②45頁③59頁④65頁)
【12】ベーゴマ友だち(①②48~51頁〈7〉③63~67頁④70~75頁)
    挿絵(①②49頁③65頁④73頁)
【13】はじめてやった弓スキー(①②52~55頁〈8〉③68~72頁④76~81頁)
    挿絵(①②53頁③69頁④77頁)
【14】ビニールの定期入れ(①②56~59頁〈7〉③73~77頁④82~87頁)
    挿絵(①②57頁③76頁④85頁)
【15】欲しかったグローブ*9(①②60~63頁〈4〉③78~82頁④88~93頁)
    挿絵(①②61頁③81頁④89頁)
【16】信濃屋に迎えに*10(①②64~67頁〈4〉③83~87頁④94~99頁)
    挿絵(①②65頁③85頁④97頁)
【17】オニヤンマと川遊び(①②68~71頁〈4〉③88~92頁④100~105頁)
    挿絵(①②69頁③89頁④101頁)
【18】俺んちより貧乏だった友だち*11(①②72~75頁〈8〉③93~97頁④106~111頁)
    挿絵(①②73頁③96頁④109頁)
【19】台風とマッカチン(①②76~79頁〈4〉③98~102頁④112~117頁)
    挿絵(①②77頁③101頁④115頁)
【20】くやしかった運動会(①②80~83頁〈3〉③103~107頁④118~123頁)
    挿絵(①②81頁③105頁④122頁)
【21】とうちゃんとのキャッチボール(①②84~87頁〈5〉③108~112頁④124~129頁)
    挿絵(①②85頁③109頁④127頁)
【22】紙袋に入ってたクリスマスセット*12(①②88~91頁〈7〉③113~117頁④130~135頁)
    挿絵(①②89頁③115頁④133頁)
【23】お年玉と新聞紙だこ(①②92~95頁〈4〉③118~122頁④136~141頁)
    挿絵(①②93頁③119頁④137頁)
【24】ヘラブナ釣り*13(①②96~99頁〈3〉③123~127頁④142~147頁)
    挿絵(①②97頁③126頁④146頁)
【25】おやじの形見*14(①②100~103頁〈4〉③128~132頁④148~153頁)
    挿絵(①②101頁③131頁④151頁)
【 】あとがき/――いつまでもガキの感性をもって――*15(①②104~106頁③133~135頁④154~156頁)
 なお、③④の挿絵頁には頁付がない。――次回、③④について若干補足をして置こう。(以下続稿)

*1:ルビ④「おれ」。

*2:ルビ④「けん さ 」。

*3:ルビ④「おきなわ」。

*4:ルビ④「も」。

*5:ルビ④「せんとう」。

*6:ルビ④「かみしば い 」。

*7:ルビ④「しょくにん」。

*8:ルビ③④「おも」。

*9:ルビ④「ほ」。

*10:ルビ③「しなの や 」④「しな の や ・むか」。

*11:ルビ④「おれ・びんぼう」。

*12:ルビ④「かみぶくろ」。

*13:ルビ③④「づ」。

*14:ルビ④「かた み 」。

*15:ルビ④「かんせい」。

ビートたけし『たけしくん、ハイ!』(53)

・①並製本と②上製本太田出版・B6判)
 ②は「愛蔵版」と銘打っているように、①をハードカバーにしたものである。しかしそのままではない。以下、2月28日付(51)にメモしたカバーに続いて、本体の異同をメモして置く。
 見返し(遊紙)の用紙は①淡い灰色、②茶色。
 次いで②にのみ和紙風の扉、表は濃い桃色で石畳と云うかタイル風の模様が刷ってある。すなわち、継ぎ目が濃い。20~23頁「送って当るパラシュートロケット」の21頁挿絵をその上に白で刷って、上部のパラシュートのついたロケットと、下部のパチンコを持って見上げる男児の間に、楷書体縦組みで2行弱ずつ行間を空けてやや大きく「たけしくん、/ハイ北野武」と、やはり白で刷る。最下部中央に明朝体横組みでごく小さく版元名がやはり白。裏は何も刷られていないが、表の模様が裏写りして、継ぎ目のところが白く、模様が左右対称であることが良く分かる。私は印刷技法には全く詳しくないが、全面に桃色を刷る前に継ぎ目のところに白を置いて、それで継ぎ目が盛り上がって色が濃く見えるようにしたのであろう。タイル風のところは色が染み、さらに標題・著者名・版元名の白も少し染みているのが分かる。
 1頁(頁付なし)扉から本文共紙。①は縦組みで中央に大きく1行「たけしくん、 ハイ 北野 武」標題は明朝体、著者名はゴシック体。②は上部中央に明朝体の標題のみ、縮小して入れている。
 なお、本の厚さは表紙(カバー)込みで①1.2cm、②1.5cm だが、②は表紙の厚みが 0.3cm あるので本文の厚みは 0.9cm 弱である。①は表紙の厚みは 0.1cm くらいで本文の厚みは 1.0cm 強、①の方が本文は 0.2cm ほど厚い。そのためか、私の手許にある①七四版は本文用紙に黄ばみが認められず白いままであるのに対し、②第一刷は全体的に黄ばみ、天地と小口から 1.0cm ほどが特に甚だしいように見える。
 2~3頁(頁付なし)目次はそれぞれ13項ずつ、楷書体の題と算用数字の頁の間を「……」で繋いでいる。内容は同じだが①は11.3×9.8cm(2頁の印刷面の寸法)と大きく刷られていたのが、②は10.1×8.7cmに縮小され 、①には殆どなかった小口の余白が広くなっている(①1.4cm→②2.7cm)。そして3頁の小口側の余白に明朝体で濃く「絵と文・北野武」とあるのは同じ(②は縮小)だが、①は「あとがき」の頁「104」の左上にあったのが、②は頁の左上隅にある。
 4~106頁は同じ。1頁18行、1行35字、活版印刷に風にかすれたり濃くなったり潰れたりしている楷書体。
 全部で25篇、体裁は全て同じで4頁、2頁めが挿絵(頁付あり)3~4頁めは本文で4頁は18行め、最後まで文字が詰まっている。それでは25篇全て同じ行数で書かれているのかと云うとそうではなく、1頁め、1行めに字下げなしで入っている題から2行め(本文1行め)までの間で調整しているのである。1篇め(4頁)は6行分だが2篇め(8頁)は3行分、4篇め(16頁)と18篇め(72頁)は8行分、8篇め(32頁)は1行分しか空いていない。これについては諸本対照で一覧にして示す際に註記して置こう。
 どうも、雑誌の連載だったように見えるのだが、ネットを検索した限りではそのような情報に行き当たらなかった。
 104頁は1行め「あとがき」2行分空けて「――いつまでもガキの感性をもって――」2行分空けて本文。106頁5行めまでで以下余白。
 奥付、①は明朝体、②は本文と同じ楷書体で、下部中央に縦組み。①は、

たけしくん、ハイ
定価―――――――八八〇円
初版発行―――――一九八四年五月一日
七四版発行――――一九八五年九月二七日
絵・文――――――北野 武
発行者――――――宮本 純男
発行所――――――太田出版
         〒一六〇 東京都新宿区四谷三-一三*1
         ☎三五九―六二六二
印刷 ――――――株式会社サンニチ印刷
乱丁・落丁本はおとりかえします*2
ISBN4-900416-01-0 C-0076 ¥880E
1985 Printed in Japan © TAKESHI KITANO*3

とあった。②は、

愛蔵版 たけしくん、ハイ!
 
一九九一年十一月二十五日印刷
一九九一年十二月一日第一刷発行
著者(絵・文) 北野武
発行者   高瀬幸途
発行所   株式会社太田出版
      東京都新宿区新宿二-十五-二十四
      電話〇三-三三五九-六二六二
      振賛東京二-一六二一六六
印刷製本  株式会社サンニチ印刷
 
乱丁・落丁本はお取り替えいたします。
本書の無断複写・複製・転載・引用を禁じます。
 
©1991. Takeshi Kitano Printed in Japan
ISBN4-87233-048-X C0095*4

とあって、電話番号は同じだが所在地は移転している。
 裏は白。(以下続稿)

*1:郵便番号の漢数字は半角。

*2:この行の前後はやや広く空ける。

*3:この2行は横転、行間詰まる。

*4:この2行は横転。

ビートたけし『たけしくん、ハイ!』(52)

 2月28日付(51)の続きで、③文庫版について。
新潮文庫5441(1)
 初刷と六刷を並べて見た。異同のみメモして置く。
 カバーは表紙のみ一致。①②84~87頁「とうちゃんとのキャッチボール」の85頁挿絵を人物間を詰めて使用。
 カバー背表紙、最下部が初刷「520」に太い下線、六刷「¥552」。
 カバー裏表紙、バーコード1つめは同じ、2つめ初刷「1910195005201」六刷「1920195005521」、初刷「定価520円(本体505円)」六刷「定価:本体552円(税別)」、ISBNコードは同じ、その下、初刷「C0195 P520E」六刷「C0195 ¥552E」。
 カバー表紙折返し、最上部の著者名(英字)と顔写真、右下の「カバー装画 ビートたけし」は同じ。横組みの紹介文、初刷は、

1947(昭和22)年、東京足立区生れ。/明治大学中退。浅草フランス座で芸/人修業後、「ツービート」を結成。漫/才ブームで一躍人気者に。その後、/コンビを解散。ソロになってからも、/テレビ、ラジオを始め、映画、出版/など幅広い分野で八面六臂の活躍を/続ける。映画監督としても世界的に/高い評価を受けている。主著に『み/んな自分がわからない』『落選確実/選挙演説』『顔面麻痺』などがある。

であったが、六刷は、

1947(昭和22)年、東京足立区生れ。/浅草フランス座で芸人修業中に知り/合ったきよしと漫才コンビを結成。/「ツービート」として、漫才ブームで/一躍人気者となる。その後もソロと/して、テレビやラジオの出演、映画/や出版の世界などで困民的な活躍を/続けている。映画監督・北野武とし/ても世界的な名声を博す。”97年には/「HANA-BI」でベネチア国際映画祭/グランプリを受賞した。著書に『私は/世界で嫌われる』など多数。

と書き換えられている。
 但し、私の見た初刷のカバーは、少し経ってから掛け替えられたものらしい。と云うのは、カバー裏表紙折返し、上部に「――――新潮文庫――――/ ビートたけしの本 」として9点挙がるが本書は7点めで、8点めに「みんな自分がわからない」9点めに「落選確実選挙演説」がある。

落選確実選挙演説

落選確実選挙演説

 2つとも初刷より前に単行本が出ているのでカバー表紙折返しの紹介文にあってもおかしくないが、新潮文庫に収録されたのは後のことである。そうすると私の見た初刷に掛かっているカバーは、1年ほど後のものと云うことになりそうである。
 六刷は10~12点め「たけしの死ぬための生き方/たけしの20世紀日本史/草野球の神様」の3点が追加されているが、これらは六刷より前の刊行である。
 本体、1頁6点の目録が4頁、1頁めは同じでカバー裏表紙折返しの1~6点めまで。2頁め初刷は1~3点め「〈小沢昭一/宮腰太郎〉著」の「旅ゆけば 小沢昭一的こころ/〈滋養豊富/元気の素〉小沢昭一的こころ/旅まくら 小沢昭一的こころ」に4点め「小沢昭一 美人諸国ばなし」、5~6点め「中上健次著」であったが、六刷は1~3点めが「ビートたけし著」でカバー裏表紙折返しの8~10点めまで、小沢昭一の本は4点めに「旅まくら 小沢昭一的こころ」のみ、5~6点めは同じ。3頁め、初刷は小林信彦著、景山民夫著、桂 文珍著が2点ずつであったが、六刷は小林信彦著が4点、1点め「日本の喜劇人/芸術選奨受賞」のみ同じ、2点め「小説世界のロビンソン」は「喜劇人に花束を」に差し替えられ、3~4点めは「ドリーム・ハウス/怪物がめざめる夜」。5~6点めは同じ。4頁め、原田宗典著、群 ようこ著、山田詠美著2点ずつは同じ。
 次いで「新潮文庫最新刊」が3頁。初刷の2頁め2点めが本書で、紹介文に、

ガキの頃の感性を大切にしていきたい――。/気弱で酒好きのおやじ、教育熱心なおふくろ。/遊びの天才だった少年時代を絵と文で綴る。

とある。六刷は2頁め1点めに「北野武 コ マ ネ チ!/ビートたけし全記録―」。
 奥付、六刷はその発行日の1行を追加、他に「発行者」が初刷「佐藤亮一」が六刷「佐藤隆信」。郵便番号が初刷3桁、六刷7桁。(以下続稿)

宮田登『ヒメの民俗学』(1)

 書影のみ2月12日付「赤いマント(312)」に貼付したが、その後、初刊本と新装版を並べて見たのでメモして置く。
・初刊本(一九八七年七月一〇日印刷・一九八七年七月三〇日発行・定価1600円・青土社・280頁・四六判上製本
・新装版(1993年5月1日 第1刷印刷・1993年5月25日 第1刷発行・定価2136円・青土社・283頁・四六判上製本
 大きな違いは281~283頁「新装版へのあとがき」の追加である。
 当ブログには貼付出来なかった初刊本の書影だが、「松岡正剛の千夜千冊」歴象編0537夜「『ヒメの民俗学』宮田登」(2002年05月15日)にて見ることが出来る。松岡氏の文章の冒頭も抜いて置こう。

 この本のタイトルはぼくがつけた。それというのも、同名の連載を『遊』に頼んだときに、「ヒメの民俗学でどうですか」と言ったら、宮田さんが「はい、それはおもしろいかもしれません。ぼくもそういうものをまとめて書きたかった」と了承されたからだ。
 連載は『遊』が休刊してしまったので、1年ちょっとで終わったが、宮田さんはその直後に『女の霊力と家の神』(人文書院)をまとめ、さらに別のところに書いた同主題のものを組み合わせて、この一冊にした。


 本書に松岡氏の名前は出ていない(ようだ)。――「遊」は、松岡正剛(1944.1.25生)らが設立した工作舎が出していた雑誌(1971.9~1982.10)で、その末期に宮田氏は「ヒメの民俗学」を連載していたようだ。松岡氏の文章からもう少し抜いて置く。

 宮田さんにそうしたヒメを民俗学してもらいたかった。「あとがき」にもあるように、その試みはまだ志が半ばのままで、いずれ全面展開の計画にもしたいという気持ちをもたれてもいたようだが、その前後から宮田さんは日本民俗学界のトップとしての仕事が多忙になり、その多忙のなかで倒れてしまった。


 275頁(頁付なし)は「あとがき」の扉で、276~280頁がその本文、本編は1行44字だが「あとがき」は1行33字で下に余白。1頁16行は同じ。276頁は初め5行分空白。280頁は8行めまで、初刊本は1行分空けて3字下げでやや小さく「昭和六二年六月」、次の行は25字半下げて「宮田 登」とあったが、新装版は8行めに下詰めで小さく「(昭和六二年六月)」と添える。
 ここでは松岡氏が言及している箇所、最後の部分を抜いて置こう。279頁6行め~280頁8行め、

 本書に『ヒメの民俗学』と銘うったのは、ヒメが女性に対する尊称であり、/男性一般からみて女性に対する「恐怖」の裏がえしに、ある種の尊敬の念が/こめられているからなのである。しかしこうした問題を見究めていく視点は、/依然柳田民俗学の開拓した荒野を漫然と展望しているというだけに止ってお/り、それ以上深化させるのは、余りにも未知のことが多過ぎる。強いていう/ならば男性が女性一般にいだく「恐怖」の根源の本体をとらえようと、あえ/て両義的な境界領域に横たわる女性民俗の諸相に限定して、若干手探りして/みたという痕跡が本書の行間に示されているならば、本書の目的の一つが果/たされたということになるだろうか。
 実はここ数年来、「都市民俗学」の領域に関心をもち、その手がかりとして/「現代の妖怪」論を考えていくうちに、必然的に「女性民俗」に及んだとい/【279】う民俗的思考のプロセスがあり、それに一区切りをつける意味で、本書はま/とめられた。先に『女の霊力と家の神』(人文書院、昭和五八年)を公刊した/が、それ以外に問題を拡大させていた部分が『遊』(昭和五五年一〇月号~五七年一〇+一一月号)と『現代思想(昭和六一年五月号~一二月号)掲載のエッセ/ーにあり、さらに関連した論文をアレンジして再構成した次第である。その/ため全面的に改稿した部分もあることをお断りしておきたい。
 このところ公務多忙となり、青土社の清水康雄社長、編集部水木康文氏に/は大変ご迷惑をおかけしたことをお詫びするとともに、出版に際しご尽力い/ただいたことに心より謝意を表したい。


 松岡氏も書いているが、宮田氏は50歳になる頃から公務多忙で、2月12日付「赤いマント(312)」の前半に述べたように、啓蒙的な、繰り返し・使い回しの多い、十分な論証を経ない文章が多くなってしまったようである。
 松岡氏は「遊」の連載は「1年ちょっとで終わった」とするが、「あとがき」を見るに2年間である。
 初刊本は280頁の次、新装版は1頁白紙を挟んで頁付なしで「初 出 覚 書」がある(裏は白紙、次いで奥付。奥付の裏は白紙)。これを眺めるに全28編のうち「遊」掲載が16編、最も早いのが「`80. 11」の「池袋の女」であり、全体の中でも最も早い。宮田氏は「昭和五五年一〇月号」としているが「`80. 10」は見当たらない。
 それはともかく、或いは当初「ヒメの民俗学」と題さずに何度か寄稿し、そのうち連載化が決まって「ヒメの民俗学」になったのか、とも思ったのだが、「遊」は国立国会図書館サーチ等で細目が表示されないので俄に確認出来ない。そこで念のため検索してみるに、岡山の古書店「古本斑猫軒」HP「object magagine 遊 1980年11月号 特集:舞う 工作舎」に示される細目に「ヒメの民俗学(1) (宮田登)」と見える。そうすると「池袋の女」は「ヒメの民俗学」の記念すべき第1回で、その初出を2月12日付「赤いマント(312)」の後半に検討したように『宮田 登 日本を語る』が間違えて、本来収録すべきでなかったものを入れてしまったと云うのは、やはり甚だ宜しくないと思うのである。(以下続稿)

ビートたけし『たけしくん、ハイ!』(51)

 記事の題、文庫版及び2018年7月9日付(01)に見た、銀河テレビ小説布勢博一『シナリオ・たけしくん、ハイ 』が「ビートたけし 原案」としているのに引き摺られて、著者名を「ビートたけし」にしてしまったのだが、単行本(太田出版)は「北野武」名義、銀河テレビ小説のクレジットも「北野 武 /「たけしくんハイより」であった。しかし、今から「北野武」に直すのは止めにして置く。
並製本『たけしくん、ハイ太田出版・B6判

たけしくん、ハイ!

たけしくん、ハイ!

・一九八四年五月一日初版発行(106頁)
・一九八五年九月二七日七四版発行・定価八八〇円
上製本『愛蔵版 たけしくん、ハイ太田出版・B6判
たけしくん、ハイ!

たけしくん、ハイ!

  • メディア: 単行本
・一九九一年十一月二十五日印刷・一九九一年十二月一日第一刷発行(106頁)定価1165円
新潮文庫5441『たけしくん、ハイ
たけしくん、ハイ! (新潮文庫)

たけしくん、ハイ! (新潮文庫)

・平成七年五月一日発行(135頁)定価505円
・平成十一年六月五日六刷・定価552円
ビートたけし傑作集 少年編❶『たけしくん、ハイ金の星社・四六判上製本・2010年11月初版発行(156頁)定価1,600円
 ①②は「著者(絵・文) 北野武」で③④は「著 者 ビートたけし」。
 ②は奥付の標題のみ「愛蔵版」を冠しているが、絵と文は①と同じ、若干拡大されている。
 装幀はかなり異なっている。但し装幀者の名は見当たらない。
 ①の地色は布目で、カバー背表紙はカバー表紙の著者名と同じゴシック体で上部に標題、下部に著者名、最下部に横並びでごく小さく版元名。カバー裏表紙、中央に白い地色の長方形の枠(6.0×5.0cm)に、4~7頁「ペンキ屋の手伝い」の5頁挿絵を縮小して収める。この枠の上に横組みゴシック体太字で標題(読点は半角)、枠の下に小さくゴシック体中央揃えで「北野 武」2行め「太田出版/定価880円」。最下部中央揃えで「ISBN4-900416-01-0 C-0076 ¥880E」。カバー折返しは布目のみ。
 ②の地色は和紙のような柄で、カバー背表紙はカバー表紙と同じ楷書体で上部に1行に標題(読点は半角)、その下、中央に20~23頁「送って当るパラシュートロケット」の21頁挿絵、下部のパチンコを持った子供を縮小してカットに使用している。その下に著者名、以下暫く空白で最下部にごく小さくゴシック体横並びで版元名。カバー裏表紙は表紙と同じ4~7頁「ペンキ屋の手伝い」の5頁挿絵を同じ大きさでやや下寄りに収め、刷毛まで上(天)からやや撓った黄土色の太線を描いている。最下部に「ISBN4-87233-048-X C0095 P1200E 定価1200円 (本体1165円)」。カバー折返しも和紙風の地色で、表紙折返しは上部に44~47頁「夏休みの想い出」の45頁挿絵、蜂と紋白蝶を縮小してカットに使用。裏表紙折返しは下部に68~71頁「オニヤンマと川遊び」の69頁挿絵の左下、オニヤンマの絵をカットに使用している。
 ③文庫版の装幀は別記する。
 ④は地色は白、カバー表紙のカットは①②36~39頁「紙芝居と三角アメ」の37頁挿絵を描く出して使用している。カバー背表紙は上部にシリーズ名、中央やや下に大きく標題(読点は半角)、少し空けて最下部に版元名を、カバー表紙と同じ字体で標題のみ縮小して収める。カバー裏表紙は中央やや下に①②4~7頁「ペンキ屋の手伝い」の5頁挿絵をやや拡大して使用、左上にバーコード2つ「9784323061412/1928393016004」その右にゴシック体で「ISBN978-4-323-06141-2/C8393 ¥1600E」1行と半分空けて横長のゴシック体で「定価(本体1,600円+税)」2行分空けて表紙と同じ版元名。その右は余白。カバー表紙折返し、右下にゴシック体縦組みで小さく「装画 ビートたけし/装丁 南 伸坊」。カバー裏表紙折返し、上寄りにゴシック体横組みで「ビートたけし傑作集/少年編 全3巻」少し空けて小さく「[ビートたけし・著]」、1行分空けて「❶たけしくん、ハイ/❷少年/❸菊次郎とさき」。(以下続稿)

能美金之助『江戸ッ子百話』(3)

 昨日に続いて『下』の細目を、同じ要領で見て置きましょう。
 昨日注意した、話の番号と題の間に挟まれている顔のカットですが、いづれも男性で〈①〉四角い顔で眉間の上にのみ髪の毛、下り眉、下の輪郭すなわち両耳のから顎の下に掛けて顎髭〈②〉丸顔の子供〈③〉△型の輪郭で鼻と耳はなく口の上に髭の剃り跡〈④〉上顎までは四角く頰がこけて台形の下顎が付く。耳はなく上がり眉で髪の毛は上辺の左右の角にあって天辺は禿げています。
 1頁1行め、1字下げ3行取りでやや大きくゴシック体で「江戸ッ子百話 下目次」とあって、2行分空けて「第五十六話 更に拾った浅草の昔咄……007」第 七 十 話まで。2頁は第七十一話から第 九 十 話、3頁は第九十一話から最後「第 百 話 五万石殿様の江戸ッ子……240」、1行分空けてゴシック体でやや小さく「装幀 高氏雅昭」とあって以下余白。
 5頁(頁付なし)中扉、上部中央にやや大きく「江戸ッ子百話 下」と標題。何故か『上』よりも一回り小さい。
 以下細目を挙げるが「目次」及び『上』の「下巻目次」との異同を註として添えました。「目次」のルビは第八十七話のみ。
第五十六話〈④〉更に拾った浅草の昔咄(7~13頁18行め)昭和38年11月
第五十七話〈①〉明治(大正)のおわいや*1(14~17頁15行め、15頁挿絵)昭和38年11月
第五十八話〈②〉馬鹿にできぬ馬鹿(18~20頁16行め)昭和38年12月
第五十九話〈③〉明治東京の河童と川獺(21~24頁10行め、22頁挿絵)昭和38年12月
第六十話〈④〉神格化せる大偉人/――金儲け会社大株主*2(25~27頁19行め)昭和39年2月
第六十一話〈①〉銘刀の騒動(28~30頁17行め)昭和39年2月
第六十二話〈②〉明治下層民の貧窮(31~42頁5行め、40頁挿絵)昭和39年4月
第六十三話〈③〉東京の洪水(明治時代)*3(43~49頁11行め)昭和39年6月
第六十四話〈④〉賢明なる芸能人/三遊亭円歌*4(50~55頁14行め)昭和39年10月
第六十五話〈①〉小僧物語(56~61頁13行め)昭和39年10月
第六十六話〈②〉明治浅草公園の大火*5(62~65頁13行め)昭和39年12月
第六十七話〈③〉東京市内で駝鳥に襲わる(66~68頁14行め、67頁挿絵)昭和39年12月
第六十八話〈④〉明治の名渓御茶の水(69~72頁6行め)昭和40年3月
第六十九話〈①〉東京で一番道幅の広い往来(73~75頁9行め)昭和40年3月
第七十話〈②〉不可思議の人名(76~81頁11行め)昭和40年5月
第七十一話〈③〉頼もしき青年/現代の東京ッ子にも*6(82~84頁7行め)昭和40年5月
第七十二話〈④〉庚申の夜参り(85~88頁19行め)昭和40年7月
第七十三話〈①〉貧家育ちの恥じらい(89~93頁20行め、92頁挿絵)昭和40年7月
第七十四話〈②〉仁医、現代にもあり(94~97頁17行め)昭和40年9月
第七十五話〈③〉明治の浅草広小路(98~104頁18行め)昭和40年11月
第七十六話〈④〉明治、大正の憧れ/ポンポン蒸気*7105~110頁6行め)昭和41年4月
第七十七話〈①〉明治の円遊の葬式付三筋町(111~116頁14行め)昭和41年7月
第七十八話〈②〉明治の庶民は弱かった(117~120頁14行め)昭和41年7月
第七十九話〈③〉雷お新ちゃん/(スッキリした江戸ッ子娘)*8(121~126頁9行め、123頁挿絵)昭和42年2月
第八十話〈④〉祭りに身命賭けた仕事師(127~131頁17行め)昭和42年4月
第八十一話〈①〉往復三十六里、徒歩で借金取り(132~135頁13行め)昭和42年4月
第八十二話〈②〉彰義隊百年祭(136~140頁20行め)昭和42年7月
第八十三話〈③〉明治の盛業、羅宇屋(141~145頁4行め、142頁挿絵)昭和42年7月
第八十四話〈④〉明治の江戸ッ子は癇癖*9(146~150頁10行め)昭和42年11月
第八十五話〈①〉死別した女房の尊さ――今更に(151~155頁9行め)昭和42年11月
第八十六話〈②〉明治最低の結婚支度の花嫁(156~159頁5行め)昭和43年2月
第八十七話〈③〉鬼神も泣く老女の俠気*10(160~165頁、162頁挿絵)昭和43年2月
第八十八話〈④〉明治の飛鳥山の花見(166~171頁17行め)昭和43年4月
第八十九話〈①〉明治吉原遊廓の大火(172~176頁10行め)昭和43年4月
第九十話〈②〉東京ッ子、大井川昔の川越し(177~181頁10行め)昭和43年7月
第九十一話〈③〉けしからぬ置き逃げ(182~185頁7行め)昭和43年7月
第九十二話〈④〉兎の大流行(186~192頁6行め、188頁挿絵)昭和43年11月
第九十三話〈①〉明治の志る粉屋考*11(193~198頁14行め)昭和44年2月
第九十四話〈②〉政府が懼れた失業知識階級*12(199~206頁4行め、201頁挿絵)昭和44年4月
第九十五話〈③〉児童を護る親子の離別/(小学校集団疎開*13(207~216頁1行め)昭和44年9月
第九十六話〈④〉明治三十年頃の幡随院付近(217~222頁3行め)昭和44年10月
第九十七話〈①〉尾久の奇怪なる連続事件/及び阿部定騒ぎ(223~227頁20行め)昭和44年12月
第九十八話〈②〉小揚げとつばめ(女)/――もったいなかった穀物の散佚*14(228~234頁9行め、231頁挿絵)昭和45年4月
第九十九話〈③〉神仏も運不運(235~239頁16行め)昭和45年6月
第百話〈④〉五万石殿様の江戸ッ子(240~247頁5行め、242頁挿絵)昭和45年9月
 1頁白紙、奥付、裏に横組みの「三一書房」の映画関係の書籍の目録6点7冊。(以下続稿)

*1:『上』の「下巻目次」は「他」も同じ大きさ。

*2:私の見た本は「主……025」が欠けている。

*3:『上』の「下巻目次」は「(明治時代)」なし。

*4:改行のところ「目次」では読点。

*5:『上』の「下巻目次」は「明治浅草公園大火事」。

*6:改行のところ「目次」では読点。

*7:改行のところ「目次」では読点。『上』の「下巻目次」は「明治大正の憧れ、ポンポン蒸気」。

*8:「目次」は改行のところ「――」として以下( )なしで大きさも同じ。

*9:「癇」は病垂に「間」。

*10:ルビ「おとこぎ」目次も。『上』の「下巻目次」は「おとこ」のみ。

*11:『上』の「下巻目次」は「明治の志るこ屋考」。

*12:ルビ「おそ」。

*13:『上』の「下巻目次」は副題「――小学校集団疎開」。

*14:『上』の「下巻目次」は「げ」なし。

能美金之助『江戸ッ子百話』(2)

 昨日の続きで『上』の細目を見て行くこととします。
 3頁1行め、1字下げ3行取りでやや大きくゴシック体で「江戸ッ子百話 上目次」とあって、2行分空けて「第 一 話 俠気及び幼児の思い出……011」第 十 五 話まで。4頁は第 十 六 話から第三十五話、5頁は第三十六話から最後「第五十五話 明治の人力車……273    (以下下巻)」。
 6頁1行め、3行取りでやや大きく「下巻目次」、2行分空けて第五十六話から第七十話まで、題のみで頁は入っていません。7頁は第七十一話から第九十話、8頁は第九十一話から第百話、1行分空けてゴシック体でやや小さく「装幀 高氏雅昭」とあって以下余白。
 なお、頁付は小口側の下部に斜体で小さく入っており、奇数頁には1頁を除いて「3  目 次」或いは「11 第一話」の如く柱を添えております。
 9頁(頁付なし)中扉及びその裏の前置きについては前回記しておきました。
 本文は1頁20行、1行45字。各話冒頭、1字下げ3行取りでやや大きく「第一話  ★  俠気及び幼児の思い出」仮に★で示したのは4字分取ってここに4種類の顔のイラストを挟んでいるのですが、高氏氏のイラストでしょうから前回見た鶴見氏の序に当たる文章にあった「ガリ版の雑誌」にはなかったはずです。以下、イラストの種類ごとに仮に番号を附して置きました。題は「目次」は全て1行ですが本文では2行になっているものがあり改行位置を「/」で示し「目次」の空白も当該位置に入れて置きました。ルビも「目次」には第八十七話のみ。それから括弧内に頁、これに全頁の挿絵(頁付・柱あり)の位置を添え、最後に下詰めでやや小さく日付が入っているのを註記しました。
第一話〈①〉俠気及び幼児の思い出(11~12頁17行め)昭和31年5月9日
第二話〈②〉お染はこんな家に嫁入りするのであったか(13~14頁18行め)昭和31年5月22日
第三話〈③〉東京名物十二階(15~18頁10行め、17頁挿絵)昭和31年6月
第四話〈④〉下谷の金坊(19~20頁)昭和31年6月
第五話〈①〉一生に一度も立小便せぬ/潔癖の江戸ッ子美男子(21~23頁6行め)昭和31年7月
第六話〈②〉門跡前の大ガマグチ(24~27頁6行め、25頁挿絵)昭和31年7月
第七話〈③〉子供の決闘(28~30頁14行め)昭和31年10月
第八話〈④〉 東京へアト一宿り /新町の安泊り(木賃集合)(31~32頁9行め)昭和31年11月
第九話〈①〉やらずの信吉(33~35頁5行め)昭和31年11月
第十話〈②〉乞食が馬貰ったより困った大名の貰いもの(36~39頁6行め、38頁挿絵)昭和31年11月
第十一話〈③〉奥ゆかしい物貰いと風流な泥棒(40~41頁20行め)昭和31年12月18日
第十二話〈④〉猫に建てて貰った家/――猫六さんの目出たい話(42~43頁20行め)昭和32年1月
第十三話〈①〉生粋の江戸ッ子魂 /清水床屋のおじさん、彰義隊士に末期の水を(44~47頁4行め、46頁挿絵)昭和32年1月
第十四話〈②〉未帰営兵の死を救った/健気の江戸ッ子婆さん*1(48~51頁16行め)昭和32年5月
第十五話〈③〉大石順教尼さん /(旧松川屋妻吉さん=両腕無し芸者)(52~54頁14行め)昭和32年6月9日
第十六話〈④〉学校後援会の劇的場面(55~57頁12行め)昭和32年7月1日
第十七話〈①〉貧者の一燈/――燦爛と光る百円札(58~59頁18行め)昭和32年7月1日
第十八話〈②〉怪談、細長い青い腕(60~63頁9行め、62頁挿絵)昭和32年11月
第十九話〈③〉のんびりもんだよ/尾久の人たち、豪いものだよ(64~67頁14行め)昭和32年11月
第二十話〈④〉高雅な江戸ッ子、克さん(68~70頁20行め)昭和33年元旦
第二十一話〈①〉江戸ッ子児童はこんな社会訓練を受けた(71~74頁6行め)昭和33年2月
第二十二話〈②〉松葉町物語(75~76頁20行め)昭和33年2月
第二十三話〈③〉大寝ぼけ裸のさまよい(77~80頁15行め、78頁挿絵)昭和33年3月3日
第二十四話〈④〉江戸時代よりの名水(81~86頁10行め)昭和33年3月3日
第二十五話〈①〉都々逸一首で有名銀行より/融資を受けた江戸ッ子青年(87~89頁4行め)昭和33年4月15日
第二十六話〈②〉奥山に咲く人の見ぬ桜花/――江戸ッ子戯観(90~91頁8行め)昭和33年4月15日
第二十七話〈③〉無邪気な子どもと無邪気な大人(92~93頁20行め)昭和33年5月15日
第二十八話〈④〉江戸ッ子憧れの/根岸の里、日暮らしの里(94~103頁7行め)昭和33年8月1日
第二十九話〈①〉銭湯と江戸ッ子(104~110頁19行め、109頁挿絵)昭和33年11月
第三十話〈②〉江戸ッ子の親しみ深い/観音堂前の鳩豆売りのお婆さん(111~115頁7行め、113頁挿絵)昭和34年元旦
第三十一話〈③〉上野の宮様を背負うて尾久へ逃れた/江戸ッ子越前屋佐兵衛(116~120頁9行め)昭和34年元旦
第三十二話〈④〉東海道五十三次徒歩旅行・発端(121~126頁7行め)昭和34年4月
第三十三話〈①〉思い出深き浅草(127~133頁13行め)昭和34年8月
第三十四話〈②〉五十三次草鞋の足豆/――東海道五十三次徒歩旅行(2)*2(134~142頁12行め)昭和34年11月
第三十五話〈③〉鼠と遊ぶ要助さん(143~150頁4行め、148頁挿絵)昭和35年1月
第三十六話〈④〉泥棒を抱き寝した親方(151~156頁4行め)昭和35年8月
第三十七話〈①〉狂人物語(157~163頁10行め、161頁挿絵)昭和35年8月
第三十八話〈②〉着物は血が通っている(164~173頁5行め) 昭和35年10月
第三十九話〈③〉憧れの中仙道木曽路の旅衣(174~185頁14行め)昭和36年1月
第四十話〈④〉明治の上野付近(186~196頁17行め)昭和36年6月
第四十一話〈①〉江戸ッ子と犬 / 197~207頁9行め、206頁挿絵)昭和36年6月
第四十二話〈②〉皇太子殿下の御凧にいどむチャメ小僧(208~211頁17行め)昭和37年元旦
第四十三話〈③〉名画の俳優その他二項(212~214頁16行め)昭和37年5月
第四十四話〈④〉明治時代の子供の大喧嘩(215~216頁13行め)昭和37年5月
第四十五話〈①〉根岸日暮らしの里後記(217~219頁17行め)昭和37年5月
第四十六話〈②〉並木から浅草橋通りまでの思い出(220~231頁8行め、230頁挿絵)昭和37年8月
第四十七話〈③〉疑 問(232~237頁18行め)昭和37年11月
第四十八話〈④〉上野の森に群らがる烏(238~240頁8行め)昭和37年11月
第四十九話〈①〉川育ちは川に溺る(241~245頁7行め)昭和37年12月
第五十話〈②〉浅草観音様はチビ助を恵まる――観音利生記(246~251頁8行め)昭和38年1月
第五十一話〈③〉豪勢であった宮戸座(252~257頁19行め)昭和38年3月
第五十二話〈④〉粋*3(258~262頁5行め、261頁挿絵)昭和38年3月
第五十三話〈①〉浅草漫話(263~267頁20行め)昭和38年5月
第五十四話〈②〉賭 博(268~272頁20行め)昭和38年5月
第五十五話〈③〉明治の人力車(273~282頁4行め)昭和38年8月
 282頁5行めに下詰めで「(以下下巻)」とあります。
 次いで奥付、その裏は14点17冊の縦組みの目録。(以下続稿)

*1:ルビ「け な げ」。

*2:ルビ「わ ら じ」。

*3:ルビ「いき」。

能美金之助『江戸ッ子百話』(1)

・『江戸ッ子百話 上』1972年9月30日 第1版第1刷発行・三一書房・282頁・四六判上製本

・『江戸ッ子百話 下』1973年1月15日 第1版第1刷発行・1974年7月31日 第1版第2刷発行・三一書房・247頁・四六判上製本
 2014年2月20日付「赤いマント(120)」にPHP文庫『都市伝説王』の、直接の典拠ではないらしいと断った上で、小沢信男 編『犯罪百話 昭和篇に引用されている、本書の「尾久の奇怪なる連続事件及び阿部定騒ぎ」を引きました。これは、2020年12月21日付「赤いマント(308)」に予告したように、実は『犯罪百話 昭和篇』を、それと断らずに利用した宮田 登 日本を語る 9『都市の民俗学に拠っていたことを、漸く昨日、2月24日付「赤いマント(313)」にて示すことが出来ました。
 それはともかく、2014年2月20日付「赤いマント(120)」に「『江戸ッ子百話』も見ておりますが、別に記述することとしましょう。」と述べて、そのままになっていたのを、この機会に片付けて置きましょう。尤も、今私の手許にあるのは当時、私が見た都内の図書館の本ではなく、都下の某市立中央図書館本です。
 書影は函。図書館蔵書は函を保存しないので見ておりません。
 書影の中央にあったカットは、本体表紙の左上に茶色単色(3.0×3.0cm)で入っております。下のカットは円形(径3.2cm)。
 表紙には他に、丸背の背表紙に、やはり茶色で標題はゴシック体太字で上部に大きく、少し空けて茶色の丸に白抜きゴシック体で「上」、なお『下』は茶色の枠に茶色の「下」。その下、中央やや下に表紙左上のカットと同じ人物の背景を消し縦長に書き直したカット、その下に明朝体でやや大きく「能美 金之助」、最下部にゴシック体横並びで小さく版元名。
 見返し(遊紙)は『上』は緑褐色、『下』は茶色。
 扉は本文用紙より若干厚いが経年劣化で似たような色合いになっています。印刷は茶色で文字は背表紙と同じ字体の横組みで中央揃え、上部に標題、その下に茶色の小さい丸に白抜きで「上」もしくは「下」、その下に著者名。中央に表紙左上にあったイラスト『上』4.2×4.2cm『下』径4.2cm。最下部に版元名。
 本書には『上』9頁(頁付なし)中扉の裏、中央に、

 私、明治十八年東京・京橋に生れ、爾後東京に生活七/十余年。顧みるに明治、大正、昭和と世相の変遷甚だし/く、過去を見返り現代を極視するに、栄枯盛衰猫の目の/如く変り、誠に先人の言われる如く昨日*1の淵は今日の瀬/となるの激変ぶり。其の間、在りし佳話逸話の消え行く/ままに為すは長老者の義務を果さざると思い、此処に江/戸ッ子百話として書き残すことである。

とありますが、これは後述するように執筆を思い立った際の宣言みたいなもので、本書刊行に際しての感慨やら、事情やらを自ら語るような文章は収録されておりません。その辺りのことは『上』1~2頁、鶴見俊輔「『江戸ッ子百話』の読者として」に説明されています。
 すなわち、1頁3~7行め、

 能美金之助さんの『江戸ッ子百話』というガリ版の雑誌をはじめて読んだのは、今から十二年前に/なる。そのころ『思想の科学』を出していた中央公論社の社員だった橋本進氏が、能美さんをたずね/て、『江戸ッ子百話』のそのころまでの全巻そろいを借りてきて、私に読む機会をあたえてくれた。
 それから十年たって、橋本氏が『時代』という雑誌を創刊した時、私ははじめて、能美金之助氏と/会って対談する機会を得た。


 この「時代」と云う雑誌(時代出版社)は、昭和46年(1971)7月創刊で8月に2号で廃刊になっています。国立国会図書館サーチで検索しても、この雑誌以外の刊行物はヒットしません。
 次いで10行め~2頁1行めに、

 はじめて、『江戸ッ子百話』を読んだ時に、能美さんはすでに七十五歳だった。そのころ、『江戸ッ/子百話』は、三十いくつか目になっていたくらいだろうか。はたして、百話まで達するのかどうか、/私にはあやぶまれた。ところが、百話どころか、それを完成したあとも、百話をこえてかたりつがれ/る力には、脱帽する他はない。つづいているというだけでなく、むしろ、百話をこえたあたりのほう/【1】が、私には、おもしろい。

との、注目すべき記述があります。この鶴見氏の文章は末尾、2頁15行めに「‥‥。 1972.8.26」とあって『上』刊行の1ヶ月前に書かれたものですが、次回以降、本書の内容と合わせて、鶴見氏の記述について確認して行くこととしたいと思います。(以下続稿)

*1:ルビ「き の う」。

赤いマント(313)

 2014年2月20日付(120)に取り上げたPHP文庫『都市伝説王』の「赤マント」項の依拠資料について、当時は小沢信男 編『犯罪百話 昭和篇』との類似に気付きつつ、大きな誤解があることから「別の本に拠った可能性」を指摘するに止めていましたが、その後、2020年12月21日付(308)にて漸くそれが宮田登の著述であるとの見当が付き、先月末に『都市伝説王』を借りて、問題(?)はあっさり解決したのでした。
 『都市伝説王』の著者である世界博学倶楽部は、PHP研究所の雑著編集部門か何からしく、1999年1月から2018年5月まで、20冊余りの本を出しています。曲がりなりにも「博学」を称しているだけのことはあって、巻末の見開き「参考文献」は2段組、60冊が列挙されています。
 尤も、松谷みよ子『現代民話考』や白水社版『日本の現代伝説』シリーズ、松山ひろしの『真夜中の都市伝説』など、既に当ブログにて検討済みの本や、ブルンヴァンやブレードニヒなど日本を対象としていない本、魔女や聖書・埋蔵金などのテーマからして赤マントを扱っていないと判断出来る本も少なくないので、その全てを見る必要はないのですが、図書館では購入していても既に廃棄されているであろう雑誌の増刊号や、そもそも当初から購入リストに入りそうにない、少々怪しげな著者や出版社の刊行物など、私のような公立図書館に頼って調査をしている者には中々厄介な本が少なからず含まれているのです。
 いえ、そのような本も一応調査対象には含めるつもりで、若干は古書店で購入しております。しかし内容的に(赤マントに限った話ですが)見るべきものがなく、影響もさして及ぼしていないと思われるので、先週検討した平野威馬雄『お化けについてのマジメな話』くらい色々面白い材料を含んでいれば別ですけれども、なるべくなら一時的に手許に置くくらいで済ませて置きたいのです。
 宮田氏の著書は、以前に比べれば図書館の開架で目にすることが少なくなった気がしますが、上記の俗書(?)と違って廃棄されずに閉架に収まっております。どうも、妖怪やら民俗学やらが好きになれない私は、たまに手に取ることはあっても熟読していなかったために、宮田氏が赤マントについて、やや変わった見解を示していたことを見過ごしておりました。そのために、宮田氏の記述を踏襲している『都市伝説王』の妙な説明について、わざわざ詳しく取り上げたので、先に宮田氏の著書を検討しておったら、――『都市伝説王』133頁「赤マント」項は、前半の奇妙な記述は宮田氏の著書に由来するもので、それは「参考文献」の53点め、見開き2頁めの下段7~8行め(改行位置「|」)に「‥‥/『日本を語る〈9〉都市の民俗学宮田登(吉|川弘文館)/‥‥」とあることから、2020年12月20日付(307)に見た『宮田 登 日本を語る』に再録された、宮田氏が1989年の江戸東京フォーラム(公開研究フォーラム)で発表し、1991年刊『江戸・東京を読む』に寄稿した「都市の語り出す物語」で、『都市伝説王』の最後、214頁「池袋の女」も同様であろう*1として済ませられた訳です。
 とにかく『都市伝説王』は、異説を流布せしめているもの、と云うよりむしろ、宮田氏の誤読の影響として位置付けるべきものなので、正直、当ブログでは真面目に検討しましたが、これを将来『昭和十四年の赤マント』として書籍化する際*2には、詳細は一切省略して1行で片付けることになります。いえ、実はこの1行で片付く類いの本を、他にも幾つか見ているのですが、宮田説を知らずに読んだときの『都市伝説王』ほど目新しい説もなく、しかし何に依拠したかを確認するのはなかなか面倒で、手を着けずに私の頭の中に積み上がったままになっているのです。(以下続稿)

*1:細かく見ると他にも典拠として使用された記述があるかも知れない。

*2:出来れば2年前の今頃に80周年記念で刊行したかったのですが、まだまだ確認すべき資料が多々あり、かつ新聞記事も再点検と校正を要します。とてもでないが80年記念出版など不可能でした。体験者が生存しているうちに出したいと思っているのですけれども。

七人坊主(54)

 この話については、2016年10月21日付(52)に、松谷みよ子『現代民話考』に収録されていること、2016年10月22日付(53)ちくま文庫版に於ける追加であることを確認して以来、そのままになっていました。
 多分、これらの記事を上げたのと同じ頃だったと思いますが、YouTube に「奇跡体験!アンビリバボー」が上がっているのを見ました。この番組には2011年10月13日付(01)に見たように怪奇探偵・小池壮彦(1963.2.14生)が関わっているはずなのですが、YouTube を見るに内容が小池氏の著書『怪奇探偵の実録事件ファイル2』とまるで違うのです。小池氏はと云えば、わざわざ八丈島まで行きながら、2011年10月20日付(07)に指摘したように碌な証言者に会えなくて、結局、妙な納得の仕方をして帰って来てしまうのですが、YouTube に上がっていたものでは、地元の老人が七人坊主についてTVカメラの前で顔も実名も年齢も晒してペラペラ喋っているのです。小池氏は登場しません。私はこれを見て少なからず仰天しました。いよいよ小池氏の著書の内容が謎だと思ったのですが、赤マントやら青木純二やらにかまけているうちに、削除されてしまいました。Twitter を見るに、2016年1月から2019年8月までは閲覧可能であったようです。3年半、時間があったのにうっかりしておりました。違法動画ではありますが、見られるうちに見て置かなくては、と思った次第です。
 そしてやはり同じ頃、松閣オルタのサイト「オカルトクロニクル」の「八丈島火葬場七体人骨事件 ― 解かれなかったミステリー」に、当ブログが「■参考資料」として上がっているのを見たのです。この記事は「公開日: 2015/09/27 : 最終更新日:2017/09/29」となっております。このサイトはその後、一部の記事(15本。うちサイト未掲載3本、うち書き下ろし1本)が単行本として刊行されております。
・松閣オルタ『オカルト・クロニクル』2018年9月7日初版発行・定価1800円・洋泉社・415頁・A5判並製本
 書影は2019年11月27日付「赤いマント(214)」に示しましたが、そこで触れた「青ゲット殺人事件――都市伝説となった事件」と違って、この記事は291~309頁、12番めに「八丈島火葬場七体人骨事件――未解決に終わった“密室のミステリー”」と副題を少し改めて再録されております。なお「オカルト・クロニクル」と題していますが Amazon レビューにある通り、「オカルト」ではなく未解決事件・未解決騒動検証サイトと云うべきで、「クロニクル」すなわち年代記形式でもありません。
 サイトの記事には、最後に小さく、

■参考資料 ・八丈島の民話 (1965年) (日本の民話〈40〉) ・八丈島流人銘々伝 ・伊豆諸島を知る事典 ・伊豆諸島民俗考 (1980年) ・怪奇探偵の実録事件ファイル〈2〉 ・午後六時ののろい (ほんとうにあったおばけの話) ・現代日本文学大系 (20) ・謎の怪事件ファイルX 日本篇 (二見文庫―二見WAi WAi文庫) ・死・葬送・墓制をめぐる民俗学的研究 – 国会図書館アーカイブ ・ミサキをめぐる考察-DSpace at Waseda University ・日本の改葬習俗と韓国の草墳:PDF ・七人坊主:瑣事加減 ・南海タイムス 1992-1997 ・毎日新聞 1992.11.18/1994.8.24 ・読売新聞 1994.8.24 ・朝日新聞 1994.8.25 ・東京新聞 1994.8.25 ・週刊新潮 1994.9/2010.8 ・週刊現代 1996.1


と添えてあって、転載に際して省略しましたが、当ブログまではリンク(Amazon 等)が貼ってあります。
 単行本では309頁上段6行め【参考資料】として、7行め~下段17行めまで、本に関しては著者・版元・刊年を添えて列挙してあり、当ブログのみ、下段8~9行め、「●「瑣事加減 七人坊主」(http://d.hatena.ne.jp// samatsutei/20111013/1318515117)」と、アドレスが示されています。
 さて、私はサイトの記事も読み流して、と云うのは、松閣氏が代表させて(?)アドレスを示している2011年10月13日付(01)にも書いたように、本題である「八丈島火葬場七体人骨事件」に興味が持てなかったからで、単行本の方も刊行後しばらくしてから書店で見掛けて、やはり当ブログが【参考資料】に挙がっていることにも気付いていたのですが、YouTube 動画をスルーしていたようにそのままにしておりました。いえ、当ブログの記述が十分活かし切れていないような印象は受けたのですが、まぁ、図書館で借りて読む機会を待って検討しようと思っていたのです。(以下続稿)

平野威馬雄『お化けについてのマジメな話』考証(05)

・中村四郎さんの話(5)
 昨日の続き。
【7】わたしが人魂になって飛んでいる(35頁10行め~36頁15行め)
 これは冒頭を確認して置けば良いだろう。35頁11~14行め、

 それから、私は、青春時代……そう、二十三歳のころ、とてもへんてこな夢をみています……。/きのうのことのように、はっきりとおぼえているのです。
 そのころ、わたしは、牛込喜久井町の兄の家に寄寓しておりました。
 そして、それは、冬の夜のことでした。【35】


 中村氏は大正5年(1916)生だから、満23歳の「冬」とすれば、昭和14年(1939)から昭和15年(1940)に掛けてのことになる。この「牛込喜久井町の兄の家」はすなわち、2月20日付(03)に見た【3】に見えた「早稲田の姉の家」であろう。
【8】夢物語?(37頁1行め~41頁2行め)
 これは冒頭から見て置こう。37頁2~5行め、

 これも、おもえば変てこな話ですけれど、決して嘘でもなければ夢物語でもございません。
 それは、昭和四十年の秋のことでした。
 私が夢の中で、広い広い墓地の中を歩いていたのです。
 それは、どうも、堀之内の妙法寺境内に近い、墓所のようでした。


 その夢の中で中村氏は、この世の者とは思われない老僧に追いかけられ、13行め、「待て 寺の物を盗んではいけない。さ、すぐ返しなさい」と怒られる。しかし、自分には6行め「見に覚えのないことで、てんで見当もつかない」。そこでその小言の最後に、38頁3行め「墓のものを持ち出すなんて」と言われたことをヒントに、9行め「妙法寺のすぐちかく」の、7~8行め「兄貴の家のことをいっていたのじゃないかな……と、思いつき、いそいで兄/の家に行ってみる」。14行め「根っからの茶人趣味」の兄は「庭に」も凝っているのだが、12行め「ついぞこれまで見た事もない石灯籠」があるのに気付く。39頁6行め「うちの近くの石屋がもってきたもので、まだ金は払っていない」と言うのを聞いて、8~11行め

「うん……どうもおかしいんだ。これは、妙法寺の墓地にあったものにちがいないよ。お墓が無/縁仏になって、とりはらう時、これも一緒に石屋が持ち出したものにちがいないよ。よく洗っ/て、苔をおとして、知らん顔して売りに来たものにちがいない。こんなものをおくと、病人が出/たり、たたりがあったりして、こまるよ。気をつけないと大変だよ」

と警告すると、姉が兄の眼が急に悪くなって、順天堂の眼科に通っている、と言うので昨夜の夢の話をすると姉は早速石屋に事情を確かめに行く。すると石屋の女将は、40頁6~7行め「奥さんのおっしゃる通りで、これを店においてあった時は、何か気味わるくて、病人は出る/し、いやな夢は見るし……ですから、わるい事ですけれど、お宅に押し付けてしまったのです」云々と平身低頭して謝って、石灯籠を引き取ってお寺に返すことを約束する。41頁1~2行め「兄の眼/は、一ヵ月たたずに直りました」。
 どうも、義兄は戦後、杉並区堀ノ内に移って【4】に推測したように昭和33年(推定)歿の母と同居し、中村氏も【1】昭和23年(1948)に住んでいた仙台から東京に戻って杉並区堀ノ内に住んだようである。そしてそのまま堀ノ内に住んでいるように思われるのだが、【6】に見たように疑問もある。このことについては次の【9】にて確認しよう。
【9】またもや夢の知らせ(42頁3行め~43頁5行め)
 42頁7~10行め、【1】に登場した義父の再登場である。

 仙台の妻の父が亡くなったのは、昭和四十四年の五月のことですが、私が明け方に義父の夢を/はっきりとみたのも、そのときでした。
 わたしが埼玉県新座市に家を買って、ぜひ一度きてくださいと、たよりをして間もなく義父は/病床に臥せるようになったのです。


 妻子は相手にしなかったが、42頁7行め、夢に見てから「三日めの朝、チチキトクのウナ電」を受けて妻を飛行機で仙台に行かせ臨終に立ち会わせ、自分は息子と汽車で駆け付けている。そして義母に12行め「三日前から急に病いが重くなっ/て、意識がもうろうとしてきた」ことを確かめている。43頁2行め「 父は七十二歳で心臓病で亡くなったのです。」――昭和44年(1969)5月に満72歳とすると明治26年(1896)5月から明治27年(1897)5月までの生まれ、【1】の当時には50過ぎであった。
 【6】に平野氏が「その年(昭和四十三年?)」としたのは、ここの記述からして中村氏は昭和44年に新座市に移ったはずなので【6】に昭和43年6月と推定したのである。実際、どうだったのかよく分からないのだが、しかし2020年9月29日付「中学時代のノート(21)」に引いた、この「中村四郎氏の話」を含む「二人の訪問客」の節の前置きに、14頁1行め「杉並に住む中村四郎さん、五十年配の、ほっそりした紳士で」とあって、中村氏は杉並から松戸の平野氏宅を訪ねたことになっている。【6】のマンションの築年月からしても、新座には結局転居しなかったのであろう。ちなみに昭和48年(1973)当時、中村氏は57歳である。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 以上で「中村四郎氏の話」の検討を終える。テープ起こしの際の間違いがあるようで、平野氏には校正刷の点検を中村氏本人に依頼して欲しかったところである。しかしながら、目的とする話だけでなく、条件を同じくする話群も引っくるめて検討することで、遺された疑問箇所を多少なりとも明らかに出来たと思う。特に生年の確定が重要である。――やはり、当該箇所だけを見てはいけないので、他にも材料が得られるのであれば、念のためそこまで見て置くべきなのである。(以下続稿)

平野威馬雄『お化けについてのマジメな話』考証(04)

・中村四郎さんの話(4)
 昨日の続き。
【5】あの老婆は死神か(27頁1行め~31頁8行め)
 この話については2020年9月30日付「中学時代のノート(22)」に検討した。「六年ほど前」と云うので昭和43年(1968)かその前年のことらしいと考えたのだが、これもやはり確証が持てない。と云うのも、次の話の書き出しが妙だからである。
【6】雨の墓地で濡れていた女(31頁9行め~35頁9行め)
 書き出し、と云うか語り出し、31頁10~15行め、

 それから、だいぶ月日がとんで、昭和四十年の春……。
 あの有名な霊能者、萩原真氏は、「星は夜しか人の目にうつらないが、昼だって、星は出てい/る」といいましたが……私は、昼日中、二度も幽霊を見ています。
 それは、昭和四十年の春のこと……桜がさいているころでした。
 わたしは、杉並区堀の内に住んでいましたので、高円寺駅に出るたびに、近道をして、堀の内/の火葬場の前を通るのでした。


 杉並区堀ノ内の最寄り駅は営団地下鉄荻窪線(東京メトロ丸ノ内線)の新高円寺駅もしくは方南町駅だが、国鉄JR東日本)中央線を利用する際は高円寺駅を利用して、堀ノ内斎場の前を通っていたようだ。
 ちょっと気になるのは、昭和40年(1965)とすれば「六年ほど前」の【5】よりも前の話のはずだのに「だいぶ月日がとんで」としていることで、これも録音が聞き取りづらくて「六年ほど前」は実は「十六年」だったりしないかと思ったりするのである。
 萩原真については、月刊「ムー」公式サイト「ムーPLUS」に、不二龍彦「千鳥会の霊能者・萩原真と道院・紅卍字会の秘儀」なる記事が2020年9月17日に上がっているが、有料部分は読んでいない。
 煙るように春雨の降る夕方、火葬場の前庭に美しい婦人が立っているのを目撃するのだが、数秒後にもう一度見ると消えていた、と云うもので、似たような話は私も兵庫県立高等学校時代に友人の友人で密教にかぶれていた男に聞いたことがある。いや、私自身も横浜市での中学生時代に覚えがあるのだが、しかし私のは2015年12月28日付「講談社別館の幽霊(3)」の註に述べたように何かの見間違いだろう。
 この美人を目撃した話は33頁4行めまでで、1行分空けて5行めからが「二度」めの目撃例である。11行めまでを抜いて置こう。

 こんなことがあってから、また、数年後のこと、こんどの経験は、妙法寺の墓地での出来事で/す。
 堀の内のお祖師様で有名な妙法寺には、付属の広い広い墓地があります*1
 その墓地をぬけていくと、家へ帰るのに、便利なので、私はいつも、そこを通りぬけていくの/でした。
 その年(昭和四十三年?)の六月で、梅雨どきのこと、雨がしとしと降っておりました。
 やはり、夕方でした。


 このとき会った(?)のは34頁5行め「大そう不機嫌そうな顔」の「七十歳くらいにみえる老人」で、2行め「左手の方、十メートルぐらいのところに……お墓のあいだ」に見え、8行め「五メートルぐらいに縮まったとたん、パッ と」消える。この件には一応落ちがあって、34頁16行め~35頁1行め、

 それからまもなく、墓地の一角は取り払われて、そのあとに八階建のマンションが建ってしま/【34】いました。

と云うのである。これをヒントにすれば、このマンションは容易に特定可能である。住人も位置からして由来が分かっているだろう。だからと云ってネットに名称を書き込む訳には行かないけれども。――今「日本最大級の不動産・住宅情報サイト ライフルホームズ」のサイトで検索するに、「築年月」は「1972年8月」である。そうするとこの話の起きた「その年(昭和四十三年?)」とは、恐らく平野氏に拠る註記とは異なり、昭和47年(1972)8月の前年、昭和46年(1971)と思われる。
 私はこの年代考証(?)で間違いないと思うのだけれども、実は平野氏の註記にも根拠があるので、これについては、次回【9】について確認するとき、述べることとしよう。(以下続稿)

*1:32頁2行め「 そのあたりは寺町で、六軒のお寺があり、墓場がつづいておりました。」とある。北から眞盛寺、妙祝寺、本佛寺、修行寺、福相寺、妙法寺で、堀ノ内斎場はこれらの寺々・墓地の北西にある。妙法寺は落語「堀の内」にも出て来るように創建以来この地にあったが、修行寺・妙祝寺・真盛寺・は大正、福相寺・本佛寺は昭和になってから旧東京市域から移転した。真盛寺を除く5ヶ寺は日蓮宗寺院。

平野威馬雄『お化けについてのマジメな話』考証(03)

 一昨日からの続き。
・中村四郎さんの話(3)
 さて、ここまでは問題はないのであるが、ここから親の年齢が出て来ると忽ち怪しくなって来る。但し前回、中村氏の生年を確定させたことで、平野氏の記述の混乱について、一応訂正案を示すことが出来たように思う。以下、確認して置こう。
【3】正装して現われた父の霊(22頁5行め~24頁9行め)
 この話、書き出しが奇怪である。22頁6~9行め、

 つぎは、大正十二年の十一月の末、秋のおわりのころの出来事でした。
 そのころ、家は、東京の中野坂上にありました。
 わたしの父は、昭和七年の七月三十一日に、六十八歳で死にました。脳溢血で、いわゆる中風/の状態のまま、七年も寝たきりでした。


 最後まで読んで行っても、大正12年(1923)には戻らない。昭和7年(1932)7月31日に、中村氏の父が死んだ日の出来事に、終始している。
 そうすると、初めの1行(22頁6行め)は、「大正十二年の秋」と云う姉の死について述べた【2】の、締め括りの文句だったのではないだろうか。――平野氏は、これらの話を録音したか、それとも速記やメモに拠ったのか、とにかく、元は何と言っていたか分からないが「つぎに」と聞き違えて、うっかり【3】の冒頭に置いてしまったのではなかろうか。
 大正12年当時の中村家が「東京」の何処だったのか、昭和7年当時は「中野坂上」で間違いないようだ。続きを見て行こう。22頁10~15行め、

 家が貧しかったので、私は中学校へも行けず、義兄の家に、写真製版の仕事の見習いに弟子入/りしていました。十五歳のときからです。
 その日は、朝から、やたらに家にかえりたくて、かえりたくてたまらなかったのです。日曜日/ではあるし、姉には母の家にかえるといって、出かけました。
 早稲田の姉の家から都電で新宿に出て、にぎやかな伊勢丹の横の映画館の前で、映画にはいろ/うか、どうしようかと。しばらく、看板をみあげていました。【22】


 確かに、昭和7年7月31日は日曜日である。前回見たように中村氏が大正12年に小学校1年生とすると、昭和4年(1929)に尋常小学校を卒業、旧制中学校には進学出来なかったものの高等小学校に進んで、昭和6年(1931)3月に卒業、その直後、満15歳になる頃から義兄の家に弟子入りしたことになる。
 さて、中村氏の父は文久三年(1863)か文久四年=元治元年(1864)生である。中村氏が生れた大正5年(1916)には満52歳か53歳だった。
 映画よりも先に家に一旦帰ろうと思った中村氏は、23頁2行め「堀の内行のバスにのり」家に帰ると、丁度父が息を引き取るところであった。ところで「正装して現われた」とは12~16行め、

 臨終をしらせる電報でかけつけてきた深川の叔母さんは、
「けさ、きちんと、つむぎのキモノをきて、糸まきの下駄をはいて、すーっと家の中に入ってき/た兄さん(死んだ父)の姿をはっきり見たので……」
 と、いいました。
 父は七代目の江戸ッ子でした。‥‥

と云う、叔母の夢ではなく現実(?)の目撃談に拠る。
【4】死んでも律儀だった母の魂(24頁10行め~26頁15行め)
 書き出し、24頁11~14行め、

 そのころは、杉並区堀之内のお祖師様の近くに住んでおりまして、私の母は昭和十三年一月二/十四日、八十三歳で亡くなりました。私の四十二歳の時でした。風邪がもとで四日間病床にあっ/ただけで、亡くなったのです。風邪がこじれて喘息になり、心臓をやられてなくなったのです。
 亡くなる三日前に、私が見舞いにいきますと、


 堀之内に住んでいたのが中村氏なのか母なのか、或いはともに堀之内に住んでいたのか、とにかく同居はしていないらしい。
 昭和13年(1938)1月に満83歳では安政元年(1854)生になってしまい、夫よりも10歳年上、中村氏を62歳で産んだことになってしまう。すなわち、ここも恐らくテープ起こしに際しての聞き違えで、中村氏の年齢からして昭和33年(1958)であろう。そうすると明治7年(1874)生*1と云うことになり、中村氏を産んだときに満42歳くらいである。
 係累の記述としては、25頁5行め「姉やその他の親戚」、9行め「愛子という‥‥千住で一人で住んでいる母の妹」、26頁13行め「棺をかついでくれた青年たちは、兄の会社の人々で」1行め「新倉さんと、高多さんと鈴木さんと館島さん」が見える。「兄」は【3】に登場した義兄であろうか。どうも、中村氏の母は、この「兄」とその妻である「姉」と同居していたようである。(以下続稿)

*1:明治8年(1875)1月の可能性もある。なお、厳密に云うと、1月では中村氏の誕生日はまだ来ていないので満41歳。或いは、7月(しちがつ)の聞き違えの可能性もあろうか。

平野威馬雄『お化けについてのマジメな話』考証(02)

・中村四郎さんの話(2)
 昨日の続き。
【2】臨終間際の姉が夢枕に立った(19頁14行め~22頁4行め)
 19頁15行め~20頁1行め、

 どうも、わたしの一族は、大なり小なり、なんとなく、幽界との交通に適応した素質をもって/【19】いるようでございます。‥‥

と前置きして、3行め「人の死ぬときの念力の強さ」すなわち、1行め「いわゆる虫のしらせ」について語っている。5~11行め、

 いちばんはじめに、わたしにとって忘れられない事件……それは、姉の死にまつわる話なので/すが……。
 姉はたか子といって、美しい少女でした。が、十四歳で、敗血症のために、医者の誤診もあっ/て、手おくれとなり、一週間病床にあって、あっけなくも死んでしまいました。
 はじめは、チフスかとまちがわれるほどの高熱になやまされて、しきりにアイスクリームが食/べたいといっておりましたが、大正十二年の秋のこととて、当時としては、アイスクリームな/ど、おいそれと手に入れることはできません。わたしは当時七歳で小学校の一年生でした。


 大正12年(1923)秋に「七歳で小学校の一年生」あるのは、前回の最後に示した【1】の記述に基づく生年の推定、大正5年(1916)をさらに4月から8月までに限定させる根拠になる訳である。
 さて、見出しにある「」に「夢枕に立」たれた人は、16行め「千葉市」在住の「姉の小学校の女の先生で並木先生という人」で、21頁2行め「結婚して、学校の方はとうの昔、おやめになっ」ていた。3行め「お知らせもしていな」い「並木先生」が中村家に現れたのは、6~9行め、先生の言に拠ると、

「たかちゃんが、あけがたの夢にあらわれて、私の病気より弟の腕の怪我の方が大へんだから、/先生、行って、母に教えて下さい……といったかと思うと、すーっと消えてしまったのですけ/ど、あんまりはっきりとした夢なので、何か起こったのではないかと心配になって、すぐ汽車で/東京に来てみたわけなのです」

と云う次第なのであった。13行め「姉の臨終さわぎにおどろいて」中村氏の怪我に構う余裕のない両親や、20頁14行め「親戚の人」や「近所の人」ではなく、遠方の、自分の病気のことも知らない恩師に伝言を頼んだ、と云うことらしい。21頁15行め「そこで、さっそく、叔父がわたしを病院につれて行き、レントゲンで診てもら」ったところ、骨折はしていなかったものの、骨に16行め「九割近くヒビがはいっていたことがわか」る。そして22頁1~3行め、

 姉はその夜死にました。
 四十度以上の高熱で、うわごとをいっていた姉は、別室に寝ていた弟の腕の怪我を知ってい/て、心配していたのでした。

と云う、本当だとしたら4行め「テレパシー」の存在を信じざるを得なくなるのだけれども、残念ながら(?)私にはこんな体験はないし、周囲にもいない(いや、いないこともないのだけれども信じられない)ので、まぁ、ほんまかしらんと思うばかりである。(以下続稿)

平野威馬雄『お化けについてのマジメな話』考証(01)

 2016年8月17日付「淡谷のり子「私の幽霊ブルース」考証(2)」に、本書に載る淡谷のり子(1907.8.12~1999.9.22)の談話を紹介した。淡谷氏はこの話を度々語っているので、比較検討しようと思っていたのだが、当時、幽霊となって現れたとされる人物の子息が存命であったので何となく遠慮しているうちに4年半経ってしまった。いづれ再開したいと思っているのだけれども。
・中村四郎さんの話(1)
 さて、2020年9月29日付「中学時代のノート(21)」に引いた、私が小学5年生のときの担任の■本先生に聞かされた話は、2020年9月30日付「中学時代のノート(22)」に見たように、平野威馬雄が『お化けについてのマジメな話』に書いている、中村四郎の談話に違いないと思うのだけれども、違っているところもある。そこで「この話はそのセールスマンの人の書いた本に載ってた」と■本先生が最後に付け足していたのに従って、念のため、中村四郎と云う人の本を探して見た。以下は2020年11月19日のメモ。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

・ホームライブラリー11『子ども学入門』(1970年3月20日初版発行・定価 330円・国土社・193頁・新書判)
 193頁の裏、奥付の前の頁に、中央やや下に顔写真(3.5×2.5cm)があって右に「中 村 四 郎*1」、上に横組みで「―――――著 者 紹 介―――――」、下に縦組みで、

一九二二年、二月一一日生。
一九四四年、東京帝国大学文学部心/理学科卒。海軍技術研究所実験心理/部勤務。
一九五一年より、秋田大学学芸学部/に勤務。現在、同大学教育学部教授、/秋田県児童福祉審議会委員、秋田県社会福祉審議会委員、秋田県参与。/共著『精神衛生』(啓文社)、『児童心/理学』(共同出版社)、『青年心理学』/(三和書房)、『臨床心理学』(立花書店)、/その他。

とある。「お化けを守る会」で語った中村四郎とは別人のようだ。

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 今、改めて検索して見るに、その後、秋田大学名誉教授となった児童心理学者の中村四郎(1922.2.11~1989.1.3)で、昭和63年(1988)には秋田県文化功労者として表彰されている。
 いや、「お化けを守る会」で体験談を語った中村四郎とは別人であることは『お化けについてのマジメな話』の記述から明らかなのだが、2020年9月29日付「中学時代のノート(21)」に述べたように、平野氏の記述には混乱があって、中村氏の談話全体を眺め直さないと解決出来ない。
 そこで、改めて14頁3行め~43頁5行め「お化けに魅せられた一家/――中村四郎さんの話」を細かく見て行くこととする。無題の冒頭話を【1】、以下見出しごとに仮に番号を附して全9話である。■本先生の話の種本と思われる「あの老婆は死神か」は【5】と云うことになる。
 尤も、私は話の内容には余り興味はない。中村氏とその係累の人々が、このような体験をした(ような気がした)と云うまでで、私としては続柄や時期の確認が目的なのである。
【1】無題(14頁5行め~19頁13行め)
 時期は14頁5行め「昭和二十三年の夏」、場所は「仙台市内山屋敷一九」の、12行め「妻の父の持ち家」の、13行め「古い大きな屋敷」。但し最初に幽霊が現れたのは15頁3行め「わたしの家の左側」に住む「自動車の運転士」の「小林さん」の家で、4行め「奥さんが、旦那様の夜勤の夜にかぎって夢をみては、うなされる」。そこで深夜、妻と小林家を訪ねる。なお、当時、戦災復興も捗々しくなく、1~2行め「大きな家には、三世/帯も四世帯もが同居しておりました。」とあるのだが、9行め「おとなりの玄関にいき」とあるから、同じ家に同居していた訳ではないようである。さて、奥さんに話を聞くと、16行め「男の人の幽霊が立ってい」て「こわくて、身体がうごかなくなりました」と言う。16頁2~3行め「電気を明るく、つけっぱなしにして、おやすみになったらいいでしょう」と助言したが、7行め「そのような夜が、それからつづけざまに、三晩つづ」く。8行め「心に心配事があるのだろう……」と思っていたところが、14行め「仙台では、旧の盆で、にぎわってい」た「八月十四日の夜」に、12行め「同じ幽霊が、こんどは、私の方へもやって」来る。しかし、同じ幽霊だと云う確証は何も示されない。16行め、夜の「十一時すぎ」、17頁3行め「青蚊帳が、風もないのに、フワーフワーと左右にゆれうご」く。それが6行め「はげしくな」り、7行め「電灯の光が、とたんに一段暗く」なる。そして10行め「胸もとがおさえつけられ、息苦しくなってきたのに気がつ」く。11行め「みると、日本のたくましい腕が、わたしの首をしめている」。「体は、金*2しばりにあったよ/うで、まったく動けな」い。18頁3~16行め、この辺りは■本先生の話に影響を与えているかも知れないので、そのまま抜いて置こう。

 わたしは、こわいというより、だんだんと腹が立ってきました。
 相手が死霊なら、こっちは生霊だ 負けてたまるか と、おもいました。
「なんのために、おれにこんなことをするのだ。おれとおまえと何の関係があるんだ バカに/するなッ」と、心の中で、こうさけびますと、相手は早くもわたしの心の中を読んだのでしょ/う。声のない声で、はっきりと……「俺は殺されたんだ」と、いうのです。耳も口もつかわず/に、はっきり、そうきこえたのです。これが、このごろヤカマシクいわれている、テレパシーと/いうものだったのかもしれません。
「おれは、君よりも、仏教にはくわしいんだ。おれのハナシをきいてくれ。般若心経に、色即是/空ということばがある。川の水は流れたら、もとにはもどれない。桜の花は散ったら、枝にはか/えれない。君はもう、死んだのだから、この世には戻れないんだよ。今いる暗い、狭い所から、/ぬけ出して、すこしでも明るいところへ行きなさい。君を呼びにくる神さまがいるにちがいない/からね」と、心の中で語りかけてやりますと、「そうかな……」と、こんどは、耳に、かすかで/すが、そういう声がきこえてきました。
 とたんに、腕の力がゆるみました。


 ■本先生の話にある、死神(幽霊)に負けない、と思って力を振り絞る場面、この辺りを加味しているのではないかと思うのである。19頁6~13行め、

 幽霊がでてきたら、こわがってはだめです。こわがると、なめられてしまいます。それに負け/ないように、強い心が必要です。
 さて、朝になりましたので、さっそくわたしは妻の親父の家にいそぎ、あの家について、いろ/いろと、きいてみました。が、
「とりこわし家屋を安く買ったので、以前のことは、なにもわかっていない」とのことでした。
 しかし、柱とか、天井に、血のような黒いしみが、点々とのこっていました。
 幽霊だって、もとは人間なのですから、こわがる必要はないと思います。これは、わたしが三/十二歳の時の、ほんとうのはなしなのです。


 ここで平野氏に突っ込んで置いてもらいたかった、と思うのは、隣の小林家に出たのと「同じ幽霊」と判断しているところで、小林家では妻が一人の晩に、立っているだけの姿を目撃されているのが、中村家では夫婦で寝ている蚊帳の中で、夫の首を絞めているのである(妻は熟睡)。「血のような黒いしみ」が「殺されたんだ!」に関連するのだとすれば、じゃあ何故初めに小林家に出たのか、と云うことになるはずである。
 どうも、この手の話には飛躍があって、普段から思考にこのような飛躍があって暗示を受け易い人が、幽霊と云う解釈に結び付けてしまうのではないか、と私などには思われるのである。そして、所謂民俗学的な解釈と云うものも、これとは程度の違いでしかないのではないか、と云う気が、私なぞにはするのである。
 さて、昭和23年(1948)8月15日に満年齢で「三十二歳」とすると、大正4年(1915)か大正5年(1916)、これは【2】を参照することで、大正5年4月から8月までと、限定出来そうである。すなわち、秋田大学の中村四郎よりは6歳年上、学年だと5つ上と云うことになる。(以下続稿)

*1:ルビ「なか むら し ろう」。

*2:ルビ「かな」。