瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

上方落語「三年酒」の原話(18)

桂米朝『四集・上方落語ノート』(2)
 昨日の続きで、まづ本書の内容を最後まで眺めて置くこととする。
 85~113頁「考証断片・その四」も6項、85頁2行め~88頁「「風の神送り」補足」は『三集・上方落語ノート』の「風の神送り考」の補足、末尾に(平成四年五月)。89~96頁「親は無いか」は江戸時代に行われた褒め言葉の考証、末尾に(平成六年七月)。97~103頁4行め「ちょっとした訂正」は露の五郎著『上方落語のはなし』46頁の写真の説明の訂正と、227頁の写真の説明の補足で、末尾に(平成六年七月)。103頁5行め~109頁「てんのじ村」は、てんのォじ村と発音することや、その住人について、末尾に(平成九年十二月)。108~112頁「火吹きダルマ」は落語「稽古屋」に出て来る火を熾す道具について、末尾に(平成四年八月)。113頁「瓢箪看板灸点」は落語資料研究家前田憲司からの教示、末尾に(平成九年九月)。

上方落語のはなし

上方落語のはなし

てんのじ村―長編小説 (1984年)

てんのじ村―長編小説 (1984年)

てんのじ村―長編小説

てんのじ村―長編小説

てんのじ村 (文春文庫)

てんのじ村 (文春文庫)

 114~124頁「ざつろく」は5項、114頁2行め~116頁3行め「八代目柳枝」は『古今東西落語家事典』の、美談のようになっている六代目春風亭柳枝の襲名について、正岡容から聞いた実のところと、八代目柳枝の襲名時期の訂正。ついでとして『古今東西落語家事典』橘ノ圓都の項の「加賀の千代」の作者とされていることについての訂正もしている。末尾に(平成六年七月)。116頁4行め~118頁10行め「竹川森太郎」は二代目旭堂南陵から聞いた、講釈場の席亭になっていた本人の前で、知らずにやって許可を得たと云うある講釈師の話、これに邑井貞吉十八番「中江兆民」の、中江氏本人の貧民救済によって立ち直った人物が邑井氏に名乗り出たと云う話を添える。これも末尾に(平成六年七月)。118頁11行め~119頁「巴家寅子」は今喜多代(巴家寅の子)の師匠(男性)について、戦時中に東京の寄席で見た記憶を述べる。末尾に(平成九年九月)。120~122頁「演題ちがい」は演題を間違えた実話の列挙で、女子高の講師をしていた私などからすると定期考査の答案に生徒たちが書いた微妙に違っている答えが思い出される。末尾に(平成六年七月)。123~124頁「西洋床」は西洋を冠して呼ばれていたものの列挙。末尾に(平成九年十二月)。
 125~223頁「風流昔噺」は三一書房版『日本庶民文化史料集成*1』第八巻に書き下ろした万延二年(1861)の上方落語のネタ帳の翻刻・註釈の、訂正・補筆。私は以前、『日本庶民文化史料集成』の複写を取って参照していたと思うが、今どこにあるか分からない*2。本書を読んだ当時、訂正・補筆箇所を確認してみたいと思ったのだけれども。
 224~269頁「橋本鐵彦氏との対談」は吉本興業元社長との平成六年四月二十二日の対談。橋本氏の記憶が鮮明かつ答えも的確なことに驚かされる。なお、Wikipedia「橋本鐵彦」項には持田寿一『大阪お笑い学―笑いとノリに賭けた面々 (なにわ雑楽誌)』を根拠に生年を明治37年(1904)とするが、この対談では冒頭、224頁4行め「米朝 橋本さんは何年のお生まれですか。」との問に、5行め「橋本 明治三十五年(一九〇二)、寅の八白です。あなたより二十三年早いです。*3」と答えている。――この対談は Wikipedia には利用されていない。もちろん記憶をそのまま信じるのは当ブログに繰り返し述べて来たように危険で、裏付けが必要なのだけれども、再検討の資料として活用すべきであろう。
大阪お笑い学―笑いとノリに賭けた面々 (なにわ雑楽誌)

大阪お笑い学―笑いとノリに賭けた面々 (なにわ雑楽誌)

  • 作者:持田 寿一
  • 出版社/メーカー: 新泉社
  • 発売日: 1994/07
  • メディア: 単行本
 白紙が1頁あって、奥付、裏に目録、落語関係の6点9冊。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 「三年酒」については前回見たように「ネタ裏おもて・その四」に取り上げられている。今回そこまで進めるつもりだったのだが、次回に回すこととする。(以下続稿)

*1:223頁5~6行め『日本/庶民文化集成』と誤る。

*2:しかし重たい本なので借りずに済むよう複写したはずである。

*3:ルビ「とら・はっぱく」。

上方落語「三年酒」の原話(17)

 一昨日からの続き。
 古いところでは既に次の本に『博物志』が典拠である旨の記述があった。
桂米朝『四集・上方落語ノート』平成10年1月10日発行・定価2500円・青蛙房・269頁・四六判上製本
 『上方落語ノート』は、卒業論文から大学院の修士課程まで、私は説話の原話研究みたいなことをやっていて、そこで上方落語が説話の宝庫であることに気付いて、ここを押さえることが出来れば日本の説話――笑話の系統について、土台を固めることが出来ると思い、とにかく上方落語を一通り眺めて置こうと思って、録音は当時東京の図書館にも所蔵されていたカセットテープの『桂米朝上方落語大全集』や、続刊中のCD『特選 !! 米朝落語全集』を一通り聞いた。CDでは再生が終わっても電源が切れないので、CDはカセットテープにダビングして再生が終わったら電源が切れるようにして毎晩聞いていた。途中で寝てしまうのである。今は、そんなものを聞かなくても寝てしまうが、就寝時間は余り変わらないのに朝が早いから、これでなかなか寝付かれなかったら死んでしまう。昔は電源が入っているCDラジカセの発する微妙な音で目が覚めてしまうくらい、繊細だったのだけれども(笑)。
 さらに宇井無愁の落語原話研究に進んで、その辺りから、あらぬ方角に進んで戻って来られなくなってしまったのだけれども、私が学部生だった平成初年に刊行された『三集・上方落語ノート』までは今でも何となく覚えているくらい、繰り返し、良く読んだのである。しかしながら、遅れて刊行された『四集・上方落語ノート』は、今、読書記録に当たって見るに、2000年3月2日から14日に掛けて読んでいるのに殆ど印象に残っていなかった。当時、博士課程に進学して、説話からは離れていたので、一応目を通したけれども、それまでになってしまったようだ。いや、この前後の読書記録を事の序でに眺めて見るに、何のために読んだのか、内容も全く覚えていない本が多々挙がっている。どんな本でもとにかく1日1章読むことにしていたため、とにかく色々な本に手を出していたようである。しみじみ、若かったと思う。
 扉に続いてアート紙の口絵8頁(頁付なし)に藝人の集合写真を中心に15枚、その多くに長文のキャプションがある。
 1~2頁、桂米朝「序」は「平成九年十二月」付。
 3頁(頁付なし)は「目 次」の扉で、4~5頁見開きに細目を示す。
 7頁(頁付なし)は中扉で上部中央にやや大きく標題。前後の頁は白紙。
 9~11頁「中国産の落語」は上方落語「骨つり」東京落語「野ざらし」「支那の野ざらし」について、「月刊しにか」平成二年十月号の転載。
 12~15頁「一枚の切符」は大阪万博まで大阪の町に存した切符の立売りと云う商売についてのエッセイで、「季刊おおさかの街路」三〇号(一九九三年三月刊)の転載。切符の立売りには私も出会ったことがあるので、これは別に記事にしよう。
 16~34頁「「算段の平兵衛」考」は、村上浪六『毒舌』から「算段の平兵衛」に関する8節を引用して考察している。『毒舌』の刊年が出ていないが昭和2年(1927)刊。末尾に(平成五年四月)とあるが初出の媒体は出ていない。
 35~42頁「「狸の化寺」の解説」は立風書房版『続米朝上方落語選』の解説の再掲。末尾に(平成四年五月)とある。
 43~58頁「森幸児師のこと」は、小学生の頃から見ていた曲芸師について。末尾に(平成九年九月)とある。
 59~84頁「ネタ裏おもて・その四」は以下の6項、59頁2行め~64頁3行め「ぶらりしゃらり」末尾に(平成五年八月)、昔話の類話について。64頁4行め~68頁6行め「「長名」の原典*1」末尾に(平成四年八月)、『続・上方落語ノート』の「長名について」から「妙法蓮華経陀羅尼品、第二十六」に「陀羅尼神呪」がその原典であるとの教示を得る。67頁13行め『醒酔笑』は『醒睡笑』が正しい。68頁7行め~71頁10行め「「三年酒」の原典」末尾に(平成五年八月)、詳しくは次回確認することとする。71頁11行め~75頁9行め「やえん後家」末尾に(平成九年十二月)、「猿後家」の別名(?)で「サル」が昔は楽屋での忌み言葉であったための言い換え。75頁10行め~81頁6行め「「うちがえ」という意味」末尾に(平成五年八月)、日本ワシタカ研究センター所長中島欣也からの手紙に拠る教示。78頁6行め「小学館の『日本国語辞典』」は『日本国語大辞典』であろう。81頁7行め~84頁10行め「雅興春の行衛」末尾に「これらについては又の機会に書く。」として下寄せで(平成六年十一月)と添える。寛政八年(一七九六)刊行、五冊組みの小咄本の紹介だが、続稿はあったのだろうか。(以下続稿)

*1:「目次」は「原点」と誤る。

上方落語「三年酒」の原話(16)

 それでは昨日述べたように、当ブログよりも4ヶ月前に上方落語「三年酒」の典拠として『博物志』『搜神記』を挙げていた、paxchina のブログ「paxchinaのブログ」の記事、2017/9/7「千日酒(せんじつしゅ)」を、このままでは15日のYahoo!ブログ サービス終了により16日から閲覧出来なくなってしまうので、緊急避難的措置として全文転載して置くことにする。

 先日、「ツクツク法師の声」と題した記事の中で、「千日紅」の/花言葉が「色褪せぬ愛」・「不朽」だとお話ししたとき、いつの日/にか、「千日酒(せんじつしゅ)」も話題にしたいな~!と考えていま/した。
 ということで、今日は、その「千日酒(せんじつしゅ)」です。
 3世紀に中国で書かれた「博物志(はくぶつし)」に、こんなお話し/があるのです。
 昔、酒が無類に好きな劉玄石(りゅうげんせき)は中山(ちゅうざん)で/うまい酒を造る酒屋があると聞きつけて、早速に出かけて行き、酒/を求めた。酒屋は、彼に「千日酒(せんじつしゅ)」を売り与えた。と/ころが、彼にその飲み方について言い忘れた。飲み方を教えられな/かった劉玄石さん、その酒を飲んで家に帰るやバタンキュー。家人/は彼が酔いに当たってひっくり返っているんだとは知らず、ピクリ/とも動かぬ彼のことを死んでしまったと思ってお弔いを出し、土葬/にしちゃった。玄石に酒を売った酒屋は、以前、彼に千日酒を売っ/たときに飲み方を教えなかったことを思い出して、ちょうど千日が経ったからというのでそろそろ目が覚める頃だろうから出かけて行/ってみると、玄石(げんせき)の家では葬式を出して三年が過ぎたと/ころ。目が覚める頃だと家人に告げて棺を掘り出して棺の蓋を開け/たところ、玄石がちょうど眠りから覚めたところだった。このお話、/俗には「玄石飲酒、一酔千日(玄石 酒を飲み、一たび酔うこと千日)」と言われたという。


 『博物志』の原文は2018年1月31日付(13)に引いた。書下し文は2018年2月1日付(14)に示した。
 ここで1行空けて、以下はコメント。

 「博物志」から少し遅れて世に出た「捜神記(そうしんき)」には、更に話は装飾的になり、整理された話に書き換えられているものの、/まぁ、素朴な形でのお話しが宜しかろうということで、ここでは、「博物志」からのご紹介となりました。
 ところで、この話、なんか聞いたことあるような?って思われた/のでは。そうなんですよ。噺家桂米朝の「三年酒(さんねんざけ)」っ/て落語をお聞きになったことはございません。そのお話のもとにな/ったのが、この「千日酒」なんですよ。
 「千日紅」と来たから、「千日酒」を連想いたしましたが、「日○」といえば、「千日手」とか「千日講」・「千日籠(ごも・り)」/「千日参(まい・り)」だなんて、色々な言葉、まだまだありそうでご/ざいますヨ。ハイ。


 江戸時代、『博物志』『搜神記』ともに和刻本が刊行されているが、私は2018年2月1日付(14)にも述べたように『捜神記』が「三年酒」の典拠となったと思っていて、2018年1月30日付(12)に『搜神記』の書下し文を示した際にやや詳しく述べて置いたが「装飾的にな」った部分が落語的な発想に繋がっていると思うのである。『搜神記』の原文は2018年1月27日付(10)に示した。
 しかし、いづれにせよ「paxchinaのブログ」の指摘が当ブログに先行する。或いはもっと前に指摘している人がいたかも知れないけれども。当ブログの手柄としては『博物志』よりも『搜神記』の方が典拠らしいことを強調した点にある訳だが、もちろん確定は出来ない。しかし、その可能性の方が高いと思うのである。
 なお「三年酒」の読みだが、桂米朝は「さんねんしゅ」と言っていた。2018年1月14日付(04)からしばらく取り上げた二代目桂三木助SPレコードもある訳で(私は未だ聞く機会を得ないけれども)やはり読みは「さんねんしゅ」で間違いないと思われる*1。(以下続稿)

*1:この一文、文末が「ございません」となっているが、ここは呼び掛けのはずで、あり得ない表現ではないが「ございませんか」の方がしっくり来るようである。十分校正しないまま(人のことを云えぬが)投稿して、そのままになったのであろう。

上方落語「三年酒」の原話(15)

 さて、昨年の1月から2月に掛けて、こんなこともまだ明らかにされていないのか、と意外に思いつつ『搜神記』と『博物志』に原話が載ることを紹介してみたのだが、やはり既に複数の指摘があった。
 まづ、新しいところで、paxchina のブログ「paxchinaのブログ」の記事、2017/9/7「千日酒(せんじつしゅ)」を挙げて置こう。ここに既に『博物志』と『捜神記』が指摘されていた。――ブログ主は男性で、プロフィールの「自己紹介」に拠ると「定年をとっくに過ぎて、再就職」していたが、最新の記事2019/6/26「中国地方梅雨入り!」のコメント欄に拠ると「この3月いっぱいで、現役から身を退き、/今は、イレギュラーに入ってくる講演と講座の講師と、/新聞のコラムを書くといった仕事(?)をやっております。」とのことである。2019/2/13「岡山・後楽園の恒例の芝焼き」に拠ると岡山市在住。
 ところで、私は最近、他人様のブログをチェックする余裕もないので全く気付いていなかったが、「Yahoo!ブログ サービス終了のお知らせ」に拠ると、Yahoo!ブログは12月15日を以て「ブログの移行、閲覧ともにできなくな」るそうで、既に9月1日を以て「記事、コメント、トラックバックの投稿および編集ができなくな」っているそうだ。そこで、もう8年前の記事になるが、2011年10月21日付「七人坊主(08)」にて参照したTOのブログ「実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話」はどうなったろうかと思って、確認して見るに、「ほんとにあった(と思う)こわい話」と改題して ameblo に移行していた。但し貼付したリンクをクリックすると「ただいま新しいブログに転送中です。/しばらくお待ちください。」とて ameblo に転送されるのだが、全てトップページに飛んでしまう。当時律儀(?)だった私が書き込んだお礼と質問のコメントは消えてしまった(或いは移行されなかった?)ようだ。
 すなわち、「paxchinaのブログ」が未だにYahoo!ブログのままなのは移行作業をしていないからで、Yahoo!ブログ サービス終了に気付いた直後の投稿、2019/3/17「サービスが終わるんですね!」からは、どうもブログ移行に気乗りしない様子が窺われ、そして前述2019/6/26「中国地方梅雨入り!」のコメント欄には「サービスが終了すると聞いて、スッカリやる気が失せて・・・。/そうですね、皆さんそれぞれにあちこち引っ越しをされた/ようですね。小生は、なんだかその気も起こらず、このまま/立ち枯れ・立ち消えになろうか・・・と。/それも又、一興であろうか・・・と。」ともあって、どうやらこの方針のまま、ブログを閉じることにしたようである。
 従って、12月16日には「paxchinaのブログ」は閲覧不能になるので、『搜神記』については私が見付けたような顔をし続けても構わないようなものだけれども、知ってしまった以上知らぬふりをする訳にも行かぬので、2017/9/7「千日酒(せんじつしゅ)」の全文を抜いて置くこととする。全文転載に当っては筆者の承諾が必要であろうが既にコメントも投稿出来なくなっているので、緊急避難的に、無断で引用する。注意があれば削除し抄録して投稿し直すつもりである。
 と書いて見て思うに、――この投稿に気付いたご本人がブログ移行について意欲を持たれ、或いはコメント欄で交流していたお仲間の方から、Yahoo!ブログ サービス終了直前にして、切に移行・継続を慫慂する意見などが伝えられないだろうか、当ブログの記事をその材料に使って‥‥過疎ブログにそんな力はないことは重々承知しつつも、そうなることを期待して、転載は次回に回すことにする。(以下続稿)

芥川龍之介旧居跡(21)

 裏のお婆さんが死んだのは、まだ社宅に住んでいた頃のことだったような気もして来た。
 しかし、退去後に取り壊された裏の家に新築された家を見に行き、出ていた表札がうちの苗字と同じだったことを両親に報告したような気もする。20年前の記憶は曖昧だ。当時、私はワープロ感熱紙の裏紙を使って日記を付けていた。10年続かなかったかも知れないが、数年分、紙の2穴バインダーに30冊くらいになっていた。今は実家の物置にある。あれを見れば何処かに載っている。しかし、何時だったか見当が付かないから、何年分か確認しないといけない。俄に探し当てられそうにない。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

・JAPANESE CINEMA MUSIC SERIES『WORKS OF YASUSHI AKUTAGAWASLCS-5085

芥川也寸志の世界

芥川也寸志の世界

  • アーティスト:サントラ
  • 出版社/メーカー: サウンドトラック・リスナーズ・コミュニケーションズ
  • 発売日: 1997/03/21
  • メディア: CD
芥川也寸志の世界

芥川也寸志の世界

 今、私の手許にあるのは1997年盤。以下の引用では改行位置を「|」で示す。
 バックインレイの左側(蓋を開閉する側)には黒地に横組みで、左半分に「SLCS-5085 / 芥川 也寸志の世界」番号は白抜きゴシック体、標題は水色の明朝体。右寄りに「 / オリジナル・サウンドトラック  」と細いゴシック体白抜き。帯(背)は灰色地に縦組みで上半分に明朝体で大きく「芥川也寸志の世界」とあり、その下、中央やや下にゴシック体で「オリジナル・   |サウンドトラック」と割書。最下部に横並びで「¥2,200」とある(この税込定価の上に分類票貼付)。
 ディスクと解説書の表紙には英題しか入っていない。ディスクにはシリーズ名はなく上にごく小さく「Original Soundtrack」と添える。解説書の表紙は最上部2行、にシリーズ名と英題があって、その下に黄土色で大きく「Yasushi」とあってその下に「Original Motion Picture Soundtrack」と添える。
 解説書は横組み、頁付はないが表紙の裏を1頁めとして勘定すると、1~2頁めは収録作品一覧、3~9頁め13行め「<インタビュー/interview>」、9頁め14行め~12頁め「<収録作品について>」、13~17頁め「芥川也寸志〈映画音楽作品〉全リスト」。18頁めに制作者などを列記。裏表紙は白紙。
 18頁めの10~11行めに、

※このCDは、1978年に東宝レコードより発売された「日本の映画音楽/芥川也寸志の世界」に、|「八甲田山」「八つ墓村」「鬼畜」を加え、復刻したものです。

とあって、芥川也寸志(1925.7.12~1989.1.31)生前に発売された、昭和28年(1953)から昭和45年(1970)までの10作品のテーマ曲を集めた選集に、昭和50年代の話題作3作品を追加したものである。バックインレイ及び解説書(2頁め)の収録作品一覧に、昭和50年代の3作品のみ「*」を附し、「*ステレオ収録」と注記してある。「<収録作品について>」はそれぞれの作品に関する作曲家本人のコメントが並ぶが、昭和50年代の3作品を抱き合わせてのCD復刻は芥川氏歿後のことだから作曲家のコメントではなく、昭和45年(1970)結婚の3番目の夫人のコメントを載せている。
 すなわち、11頁めの末尾(29~30行め)に右詰めで「FEB. 1978|(インタビュー構成・貝山知弘)」とあって、3頁めからここまではLPレコード以来のもので、貝山知弘(1933~2018.1.7)は映画プロデューサー、オーディオ・ビジュアル評論家で18頁め5行め「構成」に名前が見えている。12頁めは末尾(28~29行め)に右詰めで「FEB.1997|芥川眞澄 談」とある。
 「芥川也寸志〈映画音楽作品〉全リスト」は芥川氏が音楽を担当した映画の一覧表で、111作品について題名、監督、出演、封切日・製作会社を示す。これはLPレコードにはなかったものであろう。17頁めの下欄外、右寄せで「(平成9年2月現在) ☆印は本CD収録作品|リスト作成/大場正敏(フィルムセンター)協力/大塩一志」とある。歿後作成したリストに(~年~月現在)と云うのは少々妙だが、忘れられていた作品が発掘される可能性が考慮されているのであろう。
 さて、このCDに注目したのは解説書3頁め「<インタビュー/interview>」の冒頭に、旧宅について語っているからである。2~12行め、

――芥川さんと音楽との出会いというのは、なんと、ストラビンスキーなんですって?――
  “そうなんです。幼稚園の頃だったですね。ぼくの家は、ひじょうに暗い陰惨な家だったんですね。|おやじ(龍之介)が生前、書斎を建て増ししたんです。その建て増しで、わが家の家相がとても悪く|なったっていうんですね。こんな悪い家相の家、見たことないって……書斎を建てた翌年、おやじが|自殺して、その翌年におじいさんが死んだ。ぼくの記憶によれば、一年おきに人が死んだんですよ。|親戚の人が来て、うちで病気になって死んだり……それでいつもぼくはおふくろがもうじき死ぬと思|っておびえていました。例えば、おふくろが火鉢に炭をいれて、ぱちっと火花が散ると、これがおふ|くろが死ぬ前兆でありませんようにと祈ったとかね……、いつもそういう風におびえながら育ちました。
 そんな中で、唯一の救いはレコードだったんです。蓄音機、――ビクトローラってやつですね。手|回しで、ラッパが上についてなくて下の方から音が出てくるタイプです。それにレコードが何枚かあ|ったんです、その中の大半をしめるのがなんとストラビンスキーでね。‥‥


 この辺りの細かいことは、追々、他の人の書いたものを参考にしながら、確認して行くこととしよう。(以下続稿)

芥川龍之介旧居跡(20)

・都内の旧居追懐(5)
 昨日の続き。もう少々、私が21年前まで住んでいた家について回想しよう。
 玄関は洋式で、やや横幅のある茶色く塗装した扉だった。真鍮の丸い把手があって、その下の前方後円墳のような形の鍵穴に、やはり真鍮の先端にM字型の突起の付いた鍵を差し込んで開けた。今思うと針金か何かで簡単に開いてしまいそうだった。何度か鍵を忘れたまま出掛けて閉め出されたことがある。1度は塀などを伝って、2階の私の部屋の窓から侵入した。私は基本暑がりで、窓を開けていることが多かったので夏なら窓から侵入出来たのである。しかし、冬、流石に窓を閉めていた。このとき徒歩5分ほどの図書館に出掛けなかったのは休館日だったからだろうか。貧乏学生だった私は喫茶店など全く利用しないので、そう云うところで粘って時間を潰すと云う発想がなかった。すぐにいたたまれなくなりそうである。いや、おっさんになった今だって、いたたまれない。
 そこで、どうしたかと云うと、裏の老夫婦が住んでいる家を訪ねたのである。裏の家は、私の家の2/5くらいの敷地で、東西に長くて庭は殆どなかった。お婆さんが在宅で、事情を話すと中に入れてくれた。そして2人で炬燵に入りながら、世間話をしたのである。80過ぎだったろうか、小柄で痩せて眼鏡を掛けて、顎関節か或いは入れ歯なのか、始終何かが外れては嵌まるような音をさせていた。閉め出された私に痛く同情して、お茶や蜜柑など勧めてくれた(ように思うのだけれどもよく覚えていない)。これも今からすると、もっと厚かましく度々押し掛けて、色々な話を聞いて置けば良かった、と思う。いや、小学生か中学生だったら、私ももっと遠慮なしにお婆さんに甘えたろうに、それこそ、毎週 ”山吹のおばさん" を訪ねていた吉野朔実のように。――私が昼を食べていないと知ると、手際よく関西風の饂飩を拵えてくれた。温かくて美味しかったことを今でも覚えている。しかし、なんでそんな早い時間に帰って来たものか、どこに出掛けていたのかは、まるで覚えていない。
 関西風の饂飩と云うのは、夫婦とも関西の出身だからで、お爺さんは神戸商船学校の卒業だと母から聞いていた。母はボランティア活動もかなり本格的にしていたが専業主婦で家にいることが多く、かつ大阪出身(その両親は広島県出身)だから同じ関西出身の親しみもあって、普段からいろいろとただの隣人と云う以上のお付き合いがあったらしい。
 結局、私が修士論文を提出した後で、私たち一家は退去することになった。
 売却先は医師で、夫婦で下見に来た。夫人が庭を見て感心した風で、木を少し残したい、みたいなことを言ったのだが、数年後、たまたま通りかかって、文字通り一草一木も残っていないことを知った。単純な私は先の発言に感激していたのだけれども。
 ここでようやく、芥川龍之介旧居跡の話題に戻る。平成2年(1990)8月7日に Lyle Hiroshi Saxon が田端駅周辺を散策して撮影した動画と、Google ストリートビューで見た現状(2019年6月)を比較したときに、まさに、前者が私が住んでいた戦前以来の住宅に同じで、後者はその後、医師が新築した家と同じなのである。
 芥川龍之介旧居跡付近に平成初年頃にあった住宅は、高いブロック塀の中に、鬱蒼と木々が茂っていた。まさに私が住んでいた社宅のように。しかし、今、Google ストリートビューで見るに、塀はなくなって、通りから建物までの少しのスペースをコンクリートで固めている。恐らく相続の問題が発生したとき、やはり私の住んでいた社宅と同じように老朽化の問題もあって、一部或いは全部を売却して、そして跡はマンションや、何軒もの家に分割されて、建て込んでいるのだけれども塀もなく、樹木もないから通りは広く、明るいことは明るい。しかし、乾燥しきったような印象である。潤いがない。
 かつての東京では、吉野朔実の “山吹の家” のような、庭の緑を大切にする人々が暮らしていた。しかし、時代がそれを許さなかった。東京はいよいよ潤いなく乾燥して行く。このような改造が気温上昇に関係ないと言えるだろうか?
 私はこうした戦前以来の住宅地が滅びて行こうとする現場に立ち会えたこと、8年余りもそこで生活することが出来た幸運に感謝すべきなのであろう。
 今、こうして回想して、いよいよ滅多にない貴重な体験をしていたのだとの実感を新たにした。しかし、当時の私はまだそこまで分かっていなかった。無知ほど恐ろしいものはない。見ていても、価値に全く気付かないのだから。そう、同じものを見ても、何も読み取れない人がいる。どうも、そう云った知識に関する辺りが、最近の国語教育では軽視されているように思われてならないのである。無知であることを基本に、無知に開き直っているような‥‥。
 それはともかく、それからしばらくして、裏の家のお婆さんの訃報が届いた。お爺さんは既に死去していたがそれがいつだったか、思い出せない。母のところに連絡が来て、私が一家を代表して御焼香に伺った。桐ヶ谷斎場の、いくつかある小さな式場の1つで、20人ばかりが参列していた。高齢で、かつ生れ故郷から離れているから、若い頃の友人と見える人の参列はなく、ずっと若い人ばかりであった。ご子息と見える人に一礼すると、着席するよう促されたのだが、怱々に辞去してしまった。これも今からすると、最期の様子など少しでも聞いて置けば良かったと思う。
 さっき、小学生か中学生だったら、と書いたけれども、浪人時代に東京に出て来た私には、2014年3月24日付「楠勝平『おせん』(1)」に述べたように地元の知人と云うのが皆無だった。母はそれでも近所付合いをしていて、向いの若奥さんがクッキーを焼いて餞別に持って来てくれたりしたのだが、私にはお婆さんとの、それも僅かな交流があったのみだった。社宅の取り壊しと一草一木余さず滅ぼした新築、そしてお婆さんの死が、私をこの土地から永久に切り離した気がするのである。
 しかし、私が住んでみたい家があるとすれば、やはりあの家なのである。昔のままのあの家、決して戻ることの出来ない、滴るような緑とひんやりと暗いあの庭、賑やかな小鳥たち、家中どこに置いてもボールが転がった古い家、‥‥芥川龍之介旧居跡を撮影していた Lyle Hiroshi Saxon が、実は同じ頃私の家の近所を散策していた。しかし、Saxon 氏は私の家よりも100mくらい東を歩いてしまい、残念ながら私の旧居が撮影されることはなかった。もし通り掛かったなら、あの玄関の照明、門柱、そして井戸など、注目して撮影したに違いない、と思うと返す返すも残念である。そして今や、私の記憶も、間取りなど言葉では説明出来るのだが、映像としては朧になってしまった。(以下続稿)

芥川龍之介旧居跡(19)

 昨日の続き。
・都内の旧居追懐(4)
 家の東側、深夜の侵入者が逃げて行った方には、竹を組んだ垣があって、1人がやっと通れるくらいの隙間があった。その、土を踏み固めた通路を通って家の北側の回ると、コンクリート板を積み上げた塀があって、高さは2m半もあったろうか。この塀と家屋との間は1m半くらいだったろうか。西にはこの通路が見えないように高さ3mはありそうな板塀があって、そこにあるやはり板の扉を出ると、井戸があった。夏でも冷たい。但し、災害時の利用に協力する旨、区に申し出て指定を受けたのだが、そのときの水質検査で微量ながら重金属が検出されたとの結果が出たので、一口も飲まなかった。夏、庭の植木が乾くと、母に言いつかって私が手押しポンプで井戸水を汲んで、ブリキのバケツで庭まで運んで、撒いたものだった。しかし父はそんな面倒なことはしないので、惜しげもなく庭の水道から水道水を撒布していた。
 この井戸の脇に自転車を止めていた。しかし、籠がさびて壊れた跡に、壊れて捨てた洗濯機に附属していた籠を括り付けて乗っていたら何度も職務質問されて、何だか嫌になって来て、結局その自転車が修理不能になった折に、代わりを買うのを止めた。井戸の南側は棕櫚などが生えていたと思う。ところがここに竹が生えて来たのである。母は伐るように言っていたのだが、父が「風情がある」などと言って伐らずにいるうちに、この竹に毛虫が湧いて、井戸に近付けなくなってしまった。近所の人たちにも、何かの折に飛散した毛で被害があったのではないかと思う。
 さて、この家の西側は竹を編んだ垣になっていたと思う。そして、南側は2mほどの大谷石の塀になっていた。表を人が通っても、靴音と話し声が聞こえるばかりで、1階ではもちろん、2階からでも隠れてしまってよく見えなかった。こちらも覗かれる気遣いはない。
 だから、庭は暗かった。古い木が何本も生えていて、その下には落ち葉が散り敷き、日が差さないせいか草も生えないので、静かで暗くてひんやり感じられた。
 南西の応接間の南側は、大谷石の塀まで1m半ほどの幅しかなく、乾いて草も生えなかったのだが、いつしか桑の木が生えてきて、外からも分かるくらいの高さに伸びていた。応接間の東、居間やサンルームの南が、それなりの広さの庭になっていたのである。2mの塀の圧迫感を全く感じないくらいであった*1
 どんな木が植わっていたか、もう忘れてしまったが、立派な樫の木があったように記憶している。とにかく家屋の近くが踏み固められた通路になっていて、その当たりには日が差すので雑草も生えてくるのだが、通路から少し南にずれるともう足を踏み入れるのが憚られるような、静かな植物だけの世界になっていた。実際、そんなに距離がある訳ではないのだが、庭の奥まで踏み入ったことがない。
 しかし、終わりは近付いていた。
 社宅だから、父の退職とともに退去しないといけない。私の一家が退去したら、会社はもう入居者を募集せずに処分する方針である。この家が、静かな庭が、もうじき失われようとしている。しかし、私に何が出来ただろうか?
 そんな折、父が買い取ると言い出した。退職金をはたいても、うちには都内の準高級住宅地の土地家屋を購入するお金なんてないはずである。
 それは、どうも会社からの提案であったらしく、売却するにしてもいろいろと面倒なので、もし希望するなら安く払い下げる、と云うのである。しかし、そうだとしても億単位の金が必要で、父の退職金はとてもでないが億単位にはならない。
 だから、ローンを組むと云う。再就職も口もあって、まだまだ働けるから、しばらく稼いでローンを払う。もちろん、こんな老朽家屋をそのままにして置けないから、近所の家がそうであるように、一部を賃貸にして建て替える。そうすれば、お前(つまり私)は都内で大家さんになれるぞ、と云うのである。
 今からすると、乗っても良かったような気がしないでもない。しかし、そのためには、兄は北海道で就職して帰って来るつもりはないとのことだから、一家3人、1階の何部屋かに住んで、2階をアパートのようにして貸すとして、庭は潰さざるを得ない。家をそのままにして置けないのは、仕方がない。しかし、庭をそのままにして置けないのは堪えられなかった。売却後、新たな持ち主がどうかするのは、仕方がない。しかし、私がこの木々を切り倒すことに加担するのは、日々水を撒き、親しく接して来て、家族のような親しみを覚えているのに、堪え難いことであった。
 それに、当時の私は自他共に認める(?)優秀な院生だけれども、将来金持ちになる見込みは持っていなかった。国文学界は滅ぶと云う予感しかなかった。――現在、センター試験の後継の筆記テストの導入が回避されて首の皮一枚繋がったような按配であるが、疑問なのは現役の高校生の反対活動で覆りそうになっていることで、筆記試験導入の計画を進めた官僚や教育者(この辺りの責任がどうも曖昧なのも気になる)がこんな簡単なことにも気付かず、それから指導的立場にあるはずの国文学の教授たちは気付いていたはずなのに何らの有効な対抗策も取れずに、訳の分からない制度をそのまま実施させかねなかったことが信じられない。いや、もう私は貴方たちには全く期待していないのだけれども。
 そして、2018年11月14日付「美術の思ひ出(3)」の後半、及び8月31日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(10)」の後半に述べた、――長く非常勤講師を務めていた女子高で当初「現代文は担当者によって重点の置き方(解釈)に違いが出るから合わせられない」との理由で、定期考査を授業担当者がそれぞれ作成していたのは、全く正しかった、との思いを新たにした。女子高の定期考査が共通問題にされて、私は急速に輝き(?)を失ったのだけれども、どうも、合わせられると考える方がこのところの全体的な傾向らしく、そして、今年になって、AIに東京大学受験させるとか云う珍プロジェクトで有名になった新井紀子国立情報学研究所教授が、国語記述式問題の採点について愚かな tweet をしたり顔でしているのを見て、これはもうどうしようもないな、と思った。――私たち1人1人、見えているものが違う。同じ教材を使ったところで、同じ授業にはならない。第一、教科指導書に珍解釈が載っている。いや、教科指導書なんてどうでも良いのだ。作品の解釈について、しばしば論争があったことを御存知か。もちろん、その中には言葉遊びに過ぎないような下らない解釈に基づいた不毛な議論もあった訳だけれども、もともと人間の考えることを同じ基準で採点など出来ないのである*2。新井氏はそこが全く分かっていない*3。そして、そこを衝いて文学部の教員が有効な反撃に出なかったらしいことに、いよいよ文学部の滅びを感じた。文学の解釈など、間違っていなければそれで良いのである。だから私は明らかに間違っているところを取り上げて、批判している。しかし、文学部の教員をやっている連中にも、間違いを殊更に取り沙汰するのは(人格に問題ありと思われて就職に差し障るし*4)宜しくない、と考えてか、むしろ間違いなんて気にせずに(敢えて問題にせずに)各々勝手な解釈を謳い上げる方向に進んでしまうような輩が少なくないようである。普段から噛み合った議論をしていない、そんなことだから反論出来ない。そして、文部科学省に見送りを要望した高校生たちよりも無能であることを露呈させてしまった。まぁ文学部の教員が反論しても新井氏のように既得権益、既存のやり方を墨守しようとしている、との図式に流し込まれて矮小化されて、高校生たちのように効果的には展開させられなかった可能性が高いのだけれども。
 話が脇にそれてしまった。
 偉そうなことを言って、私とて文学部の教員、そうはなれなくても大学非常勤講師掛け持ちみたいな生活をしていたら、それだけで手一杯になって何らの行動も出来なかっただろう。いや、やろうとして、そんなことをせずに出世した諸先輩たちにたしなめられて圧殺されていたかも知れない。――とにかく、言葉を扱う学問の癖に噛み合わない議論をして(そもそも噛み合わないものなのだけれども)退潮覆いがたい文学部に関わって、金持ちになる見込みのまるでない私に、父を引き継いで数十年、ローンを払い続けることが出来るだろうか? 土地購入費用だけでなく新築の建築費用も掛かるのだから、月々、かなりの負担になるのである。家賃収入で補うにしても、それだけでは足りない。
 この家、この庭に愛着があるので、この家、この庭でないこの場所に住み続けたいとは思わない。――これが、私の結論であった。(以下続稿)

*1:この大谷石の塀が、下部が少し剥離していたくらいで苔など全く生えずに、切り出した当時のような美しさを保っていたことも、圧迫感や陰鬱な感じを与えないポイントになっていたように思う。

*2:だから、正しい解釈を選択肢の1つだけににしているセンター試験のやり方は全く正しい。別解があっても最初から選択肢にないのだから初めから問題にならない。そしてこの場合でも消去法により正答は求められる。マークシートに問題があると云うよりも、マークシート問題を技術的に解決させるような指導法を編み出した教育業界に問題があったと云うべきだろう。その、教育産業がまた入試を歪めようとしているのである。

*3:話し合って共通認識に到達出来るのなら、世界は既に平和になっている。

*4:実際、院生の頃は先行研究の錯誤を厳しく批判して諸先輩にたしなめられたものだった。今や、当ブログでは割合正直に述べているけれども、仕事上のことでは人と争う気が全くない。

芥川龍之介旧居跡(18)

 一昨日からの、浪人から修士論文を提出する頃まで、8年余り住んだ、都内の築60年の住宅について、続き。
 昨日は題を変えるべきかと思ったのだが、そのままで良いような気がして来たので変えずに置く。芥川龍之介旧居跡の現状に触発されて私が暮らした家のことを思い出しているので、今回も芥川龍之介旧居跡の話にはならないことだけ、まづ初めにお断りして置こう。
・都内の旧居追懐(3)
 風呂場の東に台所があり、その南側が6畳の居間だった。居間と玄関から北へ通じる廊下の間には、階段と押入れがあって、押入れの半分くらいは斜めに階段のために占められていた。階段を上って右に両親の雨漏りする寝室、左に私の勉強部屋と寝室、そこから南に短い手摺のある廊下を通って、父の書斎だった。
 居間と台所の間には作り付けの飾り棚があって、腰の高さくらいのところが空洞になっていて、食器受け渡しが出来るようになっていたが、そんなことはしなかった。居間には南西隅に兄が使っていた3段の小さな簞笥があって、昭和50年代以来使っている小型テレビを載せていた。居間の中央には炬燵があって、そこで普段は食事をしていた。座布団に座る生活である。居間の南は玄関のやや南から、東に延びる廊下があって、その前面はアルミサッシで非常に明るかった。建物の南側では、この廊下が一番引っ込んでいた。廊下の突き当たりは4畳の、サンルームのような部屋で、母が嫁入り前から使っている足踏みミシンがあった。このサンルームの南西角の軒下に、背黄青鸚哥の鳥籠を2つ、吊り下げていた。台風や雪のときなどは、サンルームの段ボールに入れたが、屋内だと借りて来た猫のように静かにしているので、大抵は外に吊ったままだった。ただ、鳥は朝が早いから、明るくなっても入れたままにしていると身体がうずうずしてくるのか、ちょこちょこ動き始めて、たまに啼いたりする*1。手乗りではなく人間を仲間だと思っていないので、雀の声がするとうちの鳥たちも声を揃えて元気に呼び掛ける。雀は零れた餌をついばみに来るのだけれども、鸚哥が喜ぶので、私も古くなった餌を庭に蒔いて、我が愛する鳥たちのお客様として鄭重にお迎えしているような按配だった。初めの頃には父方の祖父が飛んできたのを捕まえた薄雪鳩を、東京に出て来た直後に祖父が死んだので鳥を飼っているのは一族でうちだけだと云うのでもらってきて、一緒に並べて吊っていた。しかし鸚哥の愛嬌に慣れてしまったせいか、薄雪鳩の鈍重な感じはどうしても好きになれなかった。薄雪鳩は確か祖父が雄を捕まえて、雌を買ってきて番いにしていたのを籠ごともらったのだが、産卵はするのだけれども、孵さずにそのまま糞まみれにしてしまう。今だったらインターネットで色々調べるところであろうが、当時はそんな知恵を付けてくれるところがなかったので、恐らく孵化しないであろうと思われる時機を捉えて、巣から取って捨ててしまった。背黄青鸚哥の知識だけれども、卵を間違って割って食べてしまうことがあるそうで、そうすると以後孵さずに食べるようになると聞いていたから、薄雪鳩の卵もそうならないうちに取り除いたのである。籠には「薄雪鳩 クックちゃん」と云う祖父が書いた紙が貼付してあった。雌は殆ど啼かないので雄が「クック」で、雌は結局名前を付けずに(雄もクックちゃんとは呼ばずに、結局「薄雪鳩の雄」か、2羽纏めて「薄雪鳩」と呼んでいた)しまった。
 サンルームの北、居間の東は8畳間で母が裁縫などするのに使っていた。北に押し入れ、東に床の間と違い棚があって、床の間には母方の祖母の書が掛けてあった。日が差し込まないので昼でも暗かった。院生になってからと思うが、夏、流石に西向きの寝室では余りに暑いので、私はこの8畳で寝ていた。クーラーなどなかったが、この部屋は熱が籠もらなかった。8畳間の北には4畳半の女中部屋があった。もちろん女中は雇っていない。女中部屋は東側に磨り硝子の窓があって、すぐ東に隣のアパートの部屋が迫っていたから日は差さなかったが、8畳間よりも明るかった。女中部屋の西は納戸で勝手口があり、その西が台所である。サンルームの東、床の間の南は上下左右とも狭い倉庫になっていて、南側に戸があってスコップなどを仕舞っていた。
 私が1階で寝泊まりするようになったのは、暑さだけが理由ではなくて、いつだったか、冬だったと思うのだけれども、一番遅く風呂に入って、しばらく深夜番組などを見て火照りを冷ましてから、寝ようと思ってその前に、台所で口を広げて水を張っておいた牛乳パックに気付いて、庭木に撒いてやろうと居間の南の廊下に出て、アルミサッシを開けて水を撒こうとした時、庭の枯葉を踏んでこちらに近付いて来る音に気付いたのである。水は撒いたかどうか、とにかく向うもカーテンが開いて若い男が出て来たのに驚いたらしく、そのままサンルームの前を東へ、倉庫から北へ回り込んでそのままどこかへ行ってしまった。私は1階の電気を全て付けて、女中部屋の外まで見回って見たけれども、もうどこに行ったか分からない。いや、いたらその方が怖かったけれども。
 そんなことがあって以来、クーラーのない家で、締め切ると熱が籠もるので夏は夜も窓を開けて置きたい、けれども無人では不用心だと云うので私を寝かせて置いたのである。幸い、それでも構わず押し入ろうと云う賊には遭わずに済んだ。以来私は、――どうしても押し入って、殺してでも何かを奪いたい、みたいな輩に出会したら、もうどうしようもない。そんな奴は多少戸締まりをして置いたところで入って来るであろう。だから、そんなことにはまづならない、と思って暮らすのが一番だ、と思うようになったのである。(以下続稿)

*1:昼と午後は静かである。外に吊っていても、昼になると朝元気にしていた疲れが出るのか、昼寝している。夕方は寝る前に腹を満たして置くためにせっせと餌をついばんでいる。勿論、雀の鳴き声がすると耳をそばだてて元気に呼び交わすのだけれども。

芥川龍之介旧居跡(17)

 題は変えるべきと思うが、差当りそのまま投稿して置く。
・都内の旧居追懐(2)
 昨日の続き。
 私は2階の北西に板の間を2部屋、勉強部屋と寝室をもらっていた。と云って、2つとも奇妙な部屋だった。
 北西隅の勉強部屋は4畳くらいの東西に長い部屋だったけれども、物置みたいな、部屋の北半分(!)が作り付けの棚になっていて、私は全て失敗した受験を終えて戻った兵庫県の家でとにかく荷物を詰め込んだ段ボールを、そのまま並べて行ったのである。とにかく広い家だったので、捨てずに全て持って来てしまった。ここで整理すれば良かったのだが、以後溜まる一方である。それはともかく、窓は西側に1つ、その窓際に勉強机を置いて勉強していたのであるが、夏の晴れた日は、午後ずっと日が差し続けるので40度くらいになってしまう。だから殆ど裸のようになって、柔道着のズボンだけになったりして過ごしていた。机の並びの南側の壁際には本棚を置いた。
 勉強部屋の南が寝室で、正方形で3畳くらい、この部屋も西窓で、窓際に幼稚園の頃にもらって以来の2段ベッド(下の段のみ)を置き、他にファンシーケースと簞笥があった。この部屋も暑かったが、しかし当時はクーラーがなくても平気だった。北枕で寝ていた。
 大学1年の夏に道路警備のバイトをして、25万円のワープロを買った。暑いことは暑かったが、当時は堪えられないほどだとは思わなかった。いや、都内のあちこちに出向いて、1日立って観察するのは面白かった。但し1度、多摩の某市の農協の前に3日立ったときは退屈で仕方がなかった。春にアルバイトを入れたときには、ずっと山手線の駅に近い寺の信徒会館の工事の番で、同じ場所に立つのは楽は楽だった。向いのビル1階の食堂が郵便配達員たちの溜り場になっていて、昼に裏口に続々と郵便局のバイクが駐車する。そんなある日、門前の廃業するクリーニング屋のおばさんが、私の真面目な仕事ぶり(ただ立っているだけ)に感心してか、2リットル入る大きな魔法瓶を「良かったら」とくれたのである。一家で緑茶ばかり飲んでいるのに、当時、家には小さな魔法瓶しかなかったので、有難く頂戴して、以後10年くらい使ったろうか。現場監督は3人、うち20代後半の下っ端の人がたまに話し掛けてくれて、しかし風俗に一緒に行こうと言われたのには困った。が、おごってくれるのなら行くと返答したら、やっぱり行かずに済んだのである。
 そして院生になって、パソコンに買い換えた。Windows 95 で、発売からしばらく経っていたので安くなっていたが、プリンターなど合わせてやはり25万くらい掛かったように思う。ワープロはノートパソコンみたいな按配で、プリンタも要らないから勉強部屋の机の上で良かったが、ブラウン管のパソコンを置く場所がない。そこで寝室の南、南北に長く15畳くらいあったのではないかと思う父の書斎、と云って、北半分は植木のための温室みたいになっていたのだが、1階に置く場所がないので植木置き場にしていた4人用ダイニングテーブルの上を空けてもらって、パソコンを設置することにした。これを今の家でモニタが壊れるまで使い続けたので、私は Windows 98 には触っていない。ネットに繋いでも仕方がないと思ったので接続しなかった。だから長持ちしたのかも知れない。父はなかなか帰って来なかったので、パソコンを買ってからは勉強部屋よりも父の書斎にいる方が長くなった。東西に窓があって、南も西側に窓、東側の壁になっているところに父の黒い大きな机があった。明るくて風通しが良く、しかし冬は寒いので1階の居間の炬燵に入って本を読んだ。当時は1日1章読むことにして、とにかくよく読んだ。メモしながら読むので1章以上読めない。その1章が読み終わらなくて2時3時になることもあった。
 私がパソコンを使っていた、ちょうど真下が玄関で、天井に吊ってある白いガラスのやや楕円形の照明は年季が入っていた。家は南西角だったが玄関は西向きで、玄関を入ると右、南側が洋間の応接室だった。ここにソファや飾り棚を置いた。円高不況の時期に現物支給されたテレビがあって、居間のテレビの1.5倍くらいの画面で、家族とは別の番組を見たいときには応接間で、しかし暖房がないので毛布をかぶって見ていた。やはり現物支給のビデオデッキもあったがビデオは殆ど見なかった(レンタルビデオ店の会員にもならなかった)。玄関から北と東に廊下が延びていて、北に行くとまづ便所、手洗い用の小さな洗面台と小便器、奥に大便所があって和式だった。――今、学校の便所が洋式になっていて、和式で用が足せない子供が増えているそうだが、最近NHKが何故か特集している首都直下地震で、水が流れなくなったらどうするのだろう。いざと云うとき、どこでも用が足せるように、踏ん張って用を足す訓練もしておくべきではないのか。それはともかくとして、便所の北が脱衣場で洗濯機があった。そして北西隅、私の勉強部屋の下が風呂場だった。
 先日、今の家の風呂給湯器が壊れた。動かなくなった訳ではないのだが、ボタンで給湯や追い焚きを指示しても反応しないことが何度かあって、点検してもらったらボタン(リモコン)と本体との配線が劣化しているとのこと、本体が壊れた訳ではないので部品があれば修理出来るのだが、10年以上前の製品でもう部品がないから全部取り替えるしかない、と言われた。それに比べると、昔の所謂「風呂釜」は単純だったせいか、長持ちしたように思う。しかし、レバーの加減にコツがあって、なかなか上手く点火させられなかったものだけれども。(以下続稿)

芥川龍之介旧居跡(16)

・群像 日本の作家 11『芥川龍之介』(3)
 一昨日からの続きで、槌田満文文学紀行/芥川の東京・湘南を歩く」から、2節め「田端の旧居跡」の後半、191頁上段2行め~下段5行め、

 龍之介が「我鬼窟」のちに「澄江堂」と名づけた書/斎は、多くの新進作家を集めた文学サロンとして、田/端文士村の中心的存在だったが、芥川家が疎開したあ/との旧居は、昭和二十年四月の空襲で焼失した。約三/七〇坪の焼け跡に戦後三軒の住宅が建てられたが、あ/たりに旧居跡を示す標識のたぐいは見当たらない。
「時雨に濡れた大木の梢、時雨に光つてゐる家家の屋/根、犬は炭俵を積んだ上に眠り、鶏は一籠に何羽もぢ【上】つとしてゐる。庭木に烏瓜の下つたのは鋳物師香取秀/真の家、竹の葉の垣に垂れたのは、画家小杉未醒の/家。……」という書き出しで、芥川が随筆「東京田/端」(『続野人生計事』十四)に記した文士村当時の郊外/らしい雰囲気は、今は全く失われている。


 しかし、確かに大正の郊外らしい雰囲気は「全く失われている」にせよ、Google ストリートビューで見た現状(2019年6月)に比較すれば、槌田氏が訪問した当時、そしてその半年くらい前の平成2年(1990)8月7日に Lyle Hiroshi Saxon が田端駅周辺を散策して撮影した動画を11月10日付(09)に貼付して芥川龍之介旧居跡付近については11月13日付(12)及び11月14日付(13)に細かく確認したが、狭い通りの両側がブロック塀なのは如何にも戦後の名残だが、その内側には戦災後、昭和20年代以来の庭木が生い茂って、塀から通りにはみ出すように、まさに緑滴るような按配にはなっていたのである。
 私が高校を卒業して地方から東京に出てきたのも平成2年(1990)であった。それまで、東京と云えば人口密集地で「東京砂漠」なんて歌謡曲もあって、地面は全てコンクリートアスファルトに覆われているんじゃないか、そんなイメージを植え付けられていたのだけれども、実際に来てみると緑が多いのである。そして私の住んだ家が、まさにこのような戦前以来の住宅地の、古くて敷地が広い、鬱蒼たる庭のあるお屋敷(!)だったのである。
 何でも昭和30年頃、父の会社に(もちろん父が入社する遥か以前の話だが)通産省の偉い人を社長として招聘する(天下りさせる)に当たり準備した家だったとかで、和室だけで30畳半、洋間も入れると60畳近くになったのではあるまいか。昭和30年よりも前のことは聞いていないが、今から振り返るに、どうも戦前からあった家らしいのである。そこで谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」を確認して見るに、周辺の街路が昭和11年(1936)の航空写真と一致するようである。残念ながら家の方ははっきり分からない。しかし、昭和初年の鉄道開通に引き続いて住宅地として開発された当時のままだったのではないか、と、今にして思い合わされるのである。そうすると私たちの一家が入居したとき、築60年近く経っていたことになる。
 さて、なんでこんな家に何年も暮らせたのか、だけれども、父が偉かったから、ではなくて、相当痛んでいたからである。入居希望時期に空いていれば誰でも入れる戸建ての社宅で、私の一家が入る前は、課長が住んでいたそうだ。余りにも広いので2階は使っていなかったらしい。私の父は流石にもっと偉かったけれども、ちょっと物好きが住むような家だった。クーラーもなく、木枠の窓は窓枠と硝子の間に隙間が出来ていて、雨戸は閉まらない。両親の寝室に使っていた2階の和室は、台風が来る度に雨漏りがして、私は金盥やバケツを一列に並べて、濡れた天井板に滴が盛り上がって、そのまま滴らずに、すーっと移動して途中でぽたりと落ちる。そして、また、すーっと動いて、ぽたりと落ちる。またすーっと動いて、……ぽたんて落づるずおん。またすーっと動いて、……
 駅まで閑静な住宅街を歩いて4分ほど、大変便利かつ静かな場所で、建物の古さを別にすれば全く申し分ないのだが、会社は持て余していたようで、老朽化したからと云って、今更改めて社長用の住居を新築するようなご時世でもなく、解体して独身寮などを建てるには場所が良過ぎ、敷地も少々広過ぎる。だから、私の一家を最後にして売却するつもりだったらしい。そして年に1度は管財課のおじさんの点検を受けながら、しかし最後まで雨漏りが改善することもなく、そうかと云って酷くなりもしなかったのだけれども、父の定年まで8年余を過ごした。思えば、これが私の生涯で最もゆったりとして充実した時期であった。(以下続稿)

芥川龍之介旧居跡(15)

・群像 日本の作家 11『芥川龍之介』(2)
 昨日の続きで、槌田満文文学紀行/芥川の東京・湘南を歩く」について、ゴシック体の見出しを列挙して置こう。見出しのある行の前は1行空け。
 190頁上段1行め「龍之介ゆかりの地」、190頁下段3行め「田端の旧居跡」、2段組で1段22行、1行24行だが、190頁は前回見たように、右に写真(と重なる題)が入るので本文は左側の10行分。191頁下段6行め「震災と東京人」、192頁上段13行め「下町作家のコース」、192頁下段9行め「出生の地・築地」、193頁下段15行め「生育の地・本所」、195頁下段3行め「横須賀の二重生活」、196頁下段1行め「多事・多病・多憂の鵠沼」最初の1行分空白、197頁下段21行め「見納めの本所両国」、本文は198頁下段18行めまでで、最後に縦線を引いて1字下げで小さく「つちだ みつふみ 一九二六~ 東京生まれ。‥‥」の筆者紹介が4行。
 2節めの前半をまづ見て置こう。191頁上段1行めまで。

 田端の旧居跡  田端駅北口の前を本郷へ向かう大/通りには、陸橋が二つ架かっている。二つめの童橋*1の/たもとを左に入ると、空地の先の■崎家から■田家ま/でが、東京府下豊島郡滝野川町字田端四三五(現・北区田端一丁目二〇ノ七)の旧居跡に当たる。
 もう一つのコースは田端駅南口からで、不動坂の石/段を上ってまっすぐ行き、田端一丁目一八と二〇の境【190】を右に入った突き当たりが旧居跡になる。


 住所は「東京府下・豊島郡」と切れるのであろうが「豊島郡」は「北豊島郡」が正しい。大通り(東京都道458号白山小台線)を田端駅北口から本郷へ向かうとすぐに田端の切通しに掛かる。陸橋は1つめが東台橋で、11月4日付(04)に見たように、吉野朔実が田端中学校に通学するのに渡った橋、そして11月1日付(01)に見たように童橋が、吉野朔実滝野川第一小学校(現・田端小学校)に通学するのに、芥川龍之介旧居跡を経て毎日渡った橋なのである。
 なお、旧居跡に建っていた3軒の家のうち、2家の苗字が示されているが、吉野氏が(意図してかどうかはともかくも)伏せていたのに従って、私も以後、伏せて進めることとする。(以下続稿)

*1:ルビ「わらべばし」。

芥川龍之介旧居跡(14)

・群像 日本の作家 11『芥川龍之介一九九一年四月十日 初版第一刷発行・定価1748円・小学館・351頁・四六判上製本

芥川龍之介 (群像 日本の作家)

芥川龍之介 (群像 日本の作家)

 奥付の前(351頁の裏)の目録によると全23巻、生年順では「2森 鴎外」から「23大江健三郎」までの、近現代の作家について、作家の人物像や作品の批評を数多く再録、作品の舞台や生活した土地は新たに取材、最後に「代表作ガイド」や「年譜」等を附したもののようである。平成2年(1990)から平成4年(1992)に掛けて続刊されており、大体生年順だが鴎外と「1夏目漱石」、それから同年生だか「3樋口一葉」と「4島崎藤村」は島崎氏の方が先の生れで、明治19年(1886)生の「7石川啄木」「8谷崎潤一郎」「10萩原朔太郎」が順に並ぶ中に「9志賀直哉」が挟まる。以後「15中原中也」までは生年順だが「16井伏鱒二」が「12宮澤賢治」と「13川端康成」の間に遡る。「18三島由紀夫」を挟んで同年生の「17太宰 治」と「19大岡昇平」は大岡氏の方が先の生れ、そして「21吉行淳之介」と「22遠藤周作」も遠藤氏の方が1年早い。番号順に刊行した訳ではないので、巻数を途中で増やしたので乱れた訳でもなさそうである。平成2年(1990)の時点で生存していたのは「20井上 靖」以下の4人で、現在では大江氏のみである。その後、平成8年(1996)から平成10年(1998)に掛けて7巻が追加されて全30巻になっている。追加分のうち生存しているのは「村上春樹」と「村上 龍」の2人。
 扉に続いて、カラー口絵「芥川龍之介文学アルバム」16頁(頁付なし)。10頁めには大きく、11月13日付(12)に触れた「上の坂」の写真を掲出する。奥のコンクリートの15段ほどは現在も変わらないらしいが登り口の自然石を並べた6段ほどは、今はコンクリート製になってしまったらしい。その5段めの上、少し広くなったところに、鼻と胸の白い黒猫がこちらを向いて身構えるようにしている。左上にキャプション、

田端(東京)の家への坂道(龍之介の住んだ家は今はない)。大正/8年4月、教師と作家の二重生活を止め、田端の家で作家専業/の生活に入る。昭和2年7月、書斎での自殺まで住んだ

とあって、左にフラワーマンションが僅かに写り込むが、正面は鬱蒼たる笹藪を主とした昔ながらの雑木林のように見え、少しでも当時の面影を存しているような写真を選んで掲出したらしい。
 右側の家の山茶花が咲き、そして木々が葉を落としているところからして、冬らしいが、これは190~198頁、槌田満文文学紀行/芥川の東京・湘南を歩く」の取材に際して撮影されたものであろう。白黒写真が5つ、初めの190頁右「龍之介生育の地・本所小泉町」は題と執筆者名が紛れて見づらくなっており、縦組みゴシック体のキャプションも図中の左下でやはり見づらい。以下の4つの写真はいづれも奇数頁の上段左にあって、キャプションは下に明朝体横組みで添えてある。191頁「東京・田端の旧居跡付近」、193頁「出生の地・跡地、後の建物が聖路加病院」、195頁「大川の流れ(東京・隅田川)」、197頁「横須賀線と「蜜柑」の碑(横須賀市・吉倉公園)」で、本文の末尾に「(新稿)」とある。197頁の公園の桜はやはり葉を落としており、191頁の「山吹の家」を行き止まりの路地の側から覗き込むようにして立つ帽子の男性、槌田氏もしくは同行の人物は、コートを羽織っているようだ。本書の刊行時期からして、平成2年(1990)から平成3年(1991)に掛けての冬、すなわち、1990年8月7日にこの辺りを歩いた Lyle Hiroshi Saxon から半年ほど後の状景のようである。(以下続稿)

赤いマント(219)

お詫び】11月下旬の記事の書名が全て『現代日本怪異事典』となっておりました。書名の校正漏れを指摘したところにこうして間違ってしまい、誠に面目ない次第です。煩雑になりますので一々の記事には断らず、纏めて訂正して、ここに記してお詫び申し上げます。
・朝里樹『日本現代怪異事典』(07)
 さて「赤マント」項の最後は、27頁上段15~17行め、

 このように歴史が長い怪異であるが、最/後に近年語られた赤マントの話の例を記し/ていきたい。‥‥

として、常光徹の『学校の怪談』シリーズ(講談社)から2話、段落を改めて(中段7~17行め)不思議な世界を考える会編『怪異百物語2』とポプラ社編集部編『映画「学校の怪談」によせられたこわーいうわさ』から各1話を紹介している。これら、平成に入ってからの後日纏めて検討する機会を持とうと考えております。近刊予告を『幸若舞曲集』並に打ち続けることに(当ブログ限定ですが)なりそうな『昭和十四年の赤マント』には、そこまで範囲を広げずに纏めてしまおうと思っているのですけれども。‥‥『幸若舞曲集』並とすると8年後に刊行と云うことになってしまいますが、‥‥生きているかどうか。
 常光徹学校の怪談』シリーズについては、一通り収録内容を確認するつもりで、記事の番号を最初から3桁にして置き、講談社文庫版との比較など、幾らかやり掛けてはあるのですけれども、そのままになっております。楽隠居出来たら纏めて済ませてしまいたいと思っているのですが。
 それから不思議な世界を考える会 編『怪異百物語』全10冊についても、会員制で詳細が分からない「不思議な世界を考える会会報」の内容を窺わせるものとして、一覧を作成し掛けたのですが、これも1冊を数本の記事に分割しては不便だと思って、1冊1記事と云う方針を立てたために、2冊めで中断しております。しかし、2017年2月1日付「不思議な世界を考える会 編『怪異百物語』(2)」を検索して、直ちに(89)赤マントさま(61頁右下)の典拠が「『会報』37(1994年12月)」と分かったのですから、このような作業をして公開して置くのも無駄ではなかった、と思ったことでした。
 ポプラ社の『学校の怪談』シリーズは、怪異に遭遇した生徒が女性担任教師に相談したところ、確かめに行ったその優しい担任教師が死んでしまった、と云う、とんでもない展開の「赤いはんてん」を読んで、こういうふうに書いてはいけないのではないか、と思って(稲川淳二のように「赤い半纏」を事実として、後日談を増補して語っている人もいますが)当ブログでも取り上げようと思ったのですが、やはりこの1話だけを取り上げても仕方がないので、念のためシリーズを通覧してどのような方針で執筆・編集されているのか確かめてから、‥‥と思ったために、やはりそのままになっております。
 いえ、平成以降、一部は民俗学者も関わって続刊された幾つものシリーズ、総計で数百冊になろうかと思いますが、これらの取り扱いを考えると頭の痛い問題です。せめて、民俗学者が関わった分くらいは、学者らしくきちんとしたデータを別に公開してもらえないものでしょうか。そうすれば、潤色された児童書の記述をどう扱うか、無駄に(と敢えて言いたい)悩まされることもなくなるのですけれども。――この事典のように、そこを考えなければ、簡単は簡単です。(以下続稿)

赤いマント(218)

・朝里樹『日本現代怪異事典』(6)
 昨日の続き。
 単なる変質者(?)出没の噂に過ぎない松ヶ枝小学校の事例を、長くもない事典項目に書き込んだことに、私は朝里氏の主張を感じます。こんな事例を取り上げるくらいなら、加太こうじが『紙芝居昭和史』にかなり具体的に述べている、紙芝居由来説をもっとしっかり取り上げるべきだったと思うのです。《当事者》の発言なのですから、小学校低学年だった三原幸久の回想よりも余程確実なはずです。しかし、これを取り上げていないのは朝倉喬司の批判に従ったからでしょう。しかし実は朝倉喬司の根拠とした『現代民話考』の北川幸比古の回想には学年「小学三年生」と時期「昭和十一年、十二年頃」に矛盾があって、北川氏の生年月日(昭和5年10月10日)からして「小学三年生」は昭和14年度、傍証を求めると昭和14年(1939)2月から3月に掛けて、東京の新聞・雑誌に多々取り上げられ、ラジオ放送もされたとのことですから、若干誤差はありますが学年の方が正しいのです、正確には「小学二年生の三学期」ですが。
 そして加太氏の説ですが「昭和十五年」の「初夏」のこととしていたために、『現代民話考』等との齟齬から朝倉氏に批判され、以後一説扱いを受けて来ました。しかしながら、東京での流言発生に加太氏の云う通り紙芝居が絡んでいるのかどうか、可能性はありますが肯定も否定も出来ないのですけれども、大阪での赤マント流言に関してはその原因として加太氏作の紙芝居『不思議の國』が警察に「任意提出」させられ、紙芝居のおっさんが注意されたことが昭和14年(1939)7月の新聞報道で確認されるのです。すなわち、これも1年記憶違いしているものの、記憶の内容そのものは間違っていないことが証明されました。
 ここで1つ強調して置きたいのは、回想には必ず錯誤がある、と云うことです。私が今日ここに言及して来た回想は全て、どこかしら、明確な記憶違いを犯しております*1。恐ろしく正確に記憶し、誤りなく記述出来るような人もいるかも知れません。しかしまづ、傍証の得られない回想は、飽くまでも「何某氏の30年後の回想に拠ると」との但し書きを付けて利用すべきものなのです。別人の回想に傍証になりそうな記述があっても、三原氏の回想が北川氏の回想の影響を受けていたらしいように、全く相互に影響関係が指摘されない上での一致でないと、やはり安心して信拠出来ません。ですから、当時の新聞・雑誌、或いは日記の記述が重要になって来ます。もちろん新聞・雑誌の記事がどこまでも正確かと云うとそんなことはないので、大袈裟に書いたり曖昧な部分を断定的に書いたり、と云ったこともあったでしょう。「大阪毎日新聞」のように流言の内容を、大阪での赤マント流言ではなく4ヶ月前の「サンデー毎日」に報じられた、東京での赤マント流言に基づいて書いてしまったようなこともあります。口裂け女もそうですが、地域によって時間差があり、内容にも違いが生ずるもので、やはり一々の材料について吟味が必要になるので、要するに話の発生時期や内容の変遷を考証するのは、大変に面倒臭いことなのです。
 いや、それは『事典』に要求すべき事柄ではない、と云う人がいるかも知れません。しかしながら、こう云った点について、諸説の表面的な比較に止まっておりながら、松ヶ枝小学校の事例を、早期の例と位置付けたがっているような、随分、発生時期の決定について前のめりになっていることに危うさを感じざるを得ないのです。同様に、青ゲット殺人事件に多くの行数を割いたこと、これは物集高音『赤きマント』の悪ふざけに惑わされた感が強く、どうにも頂けません。影響関係を認めるには、明治39年(1906)の福井県の事件から、朝里氏は赤マント流言の時期を特定できていませんが三原氏・北川氏の回想にある昭和12年(1937)を想定していたとして、そこまで筋が引けないといけません。通信手段や報道網が未発達であった明治39年当時、東京に詳報がもたらされたかどうか、この点から確認しないといけないでしょう。さらにこれが30年後に突然、流言となって一人歩きを始めるのには、それなりのインパクトが必要です。物集氏がその点をどう説明していたのか、また『赤きマント』を借りて来て確認しないといけませんが、両者を結び付けるのは相当苦しいと云わざるを得ません。
 ネット上で受け容れられているからでしょうか。青ゲット殺人事件は松本清張が「家紋」に小説化し、そして『赤きマント』や『オカルト・クロニクル』にも取り上げられ、かなりの知名度を誇っています。これが「赤マント」と繋がっている、と云う説明は、文句なしに、いえ、論証は抜きにして、興味深いものがあります。一方で、加太氏の紙芝居説は、結果的にかなりの部分が正しかった(そして東京での傍証が得られれば全てが正しかった可能性もある)にも拘わらず、具体的な回想でありながら根拠薄弱な批判のために、一説扱いをされたままになっているのです。
 そして私はどうもそこに、小説家の物集氏、民俗学者の常光氏、『現代民話考』の松谷氏、ルポライターの朝倉氏、そして左翼の評論家・文化史家となった加太氏の、権威順に拠る扱いの差があるように、感じてしまう訳です。(以下続稿)

*1:いや、全て時期の誤りなのだから、回想を自分史のどこに位置付けるのかが、存外私たちには難しいのかも知れません。教訓――自分史を記憶だけに頼って書いてはいけない。必ず当時の教科書・ノート、学校や職場・サークルの配布物を準備すべし。

赤いマント(217)

・朝里樹『日本現代怪異事典』(5)
 さて、昨日まで検討したように、若干私のフォローしていない説も提示されていましたが、それはともかくも、朝里氏は赤マント流言の実態には全く迫れていません。ですから私は特に本書を取り上げる意味を感じず、取り上げたとしても何だか嫌な気分になるだけになりそうで、案の定、嫌な気分になっております。こんなことを書くと、お前は昭和14年(1939)と云う正解を見付けてから再検討したから、北川幸比古や三原幸久の錯誤に気付いたのだ、と云われそうですが、――怪異談について、私のように幾つかの点に集中して徹底的にやるタイプと、朝里氏のようなとにかく網羅しようと云う(しかし材料選定の範囲及びその偏りが気になるのですが)タイプの違いと云う以上に、朝里氏がこれまでの、怪談やら妖怪やらを網羅的に扱った事典類に比して、発生時期について、妙に意欲的であるのが気になるのです。有り体に云うと、発生の問題を扱うのであれば、私のように疑り深くやらないと駄目だと思っているので、‥‥どうも引っ掛かるのです。
 これまで、当ブログでは幾つかの怪異談を扱って来ましたが、私は怪異談は好きで面白がっているけれども2016年1月14日付「子不語怪力亂神(1)」に述べたような対し方です。おかしなところを見付けては突っ込んでいますが、気持ちとしては松本清張の「西郷札」や「装飾評伝」のおかしなところに突っ込んでいたのと変わりありません。いえ、怪異談は心の空隙に入り込んでしまう妙なもので、そもそもが空隙だらけなものですから、突っ込み甲斐があって、かつ、心霊を真面目に信じているような人の書いたものでも、あまりきちんと記憶の裏付けをしていません。きちんとそこまでやって書いてくれたら安心(?)なのですけれども、あやふやな記憶を変に合理化して書いてしまう。空隙は多々あるのに根が生真面目なので、余計にそう云うことを信じ易いのかも知れません。ですから何だかおかしなところが必ずある。そう云う、おかしなところがある話を突っ込んで行くと、芋蔓式に突っ込み処に行き当たる、と云う按配です。
 それはともかくとして、私が特に気になったのは、11月26日付(213)に取り上げた『魔女の伝言板』の三原幸久の回想、及び『現代民話考7』の北川幸比古の回想に続いて取り上げられている、もう1例についてです。26頁上段17行め~中段3行め、

‥‥。また同書には/一九三五年頃に大阪府大阪市北区松ヶ枝小/学校の地下室にマントを着た男が現れると/いう噂が語られていたという話も載るが、【上】これについてはマントの色に言及されてい/ないため、その色が赤であったかは定かで/はない。


 これは、この程度の事典項目に必要な事例でしょうか。
 『現代民話考7』の赤マントは単独で立項されておらず、ちくま文庫版では29~269頁「怪談」の部の236頁10行め~265頁「二十 学校の妖怪や神たち」の7項め、251頁14行め~254頁7行め「赤マント・青いドレスの女など」と云う、妖怪とも変質者ともつかない、その他大勢を寄せ集めた中に投げ込まれているのですが、この話も同じ括りになっている訳です。
 私は、赤マントについては網羅主義でやっていますから、この話も2014年1月10日付(80)に「念のため」引用して、「確かにマントの怪しい人」だけれども「ただの変質者かも知れません」との見解を示して置きました。
 すなわち、元より松谷氏(或いは実際の作業を担当していたと思しき納所とい子)も積極的に赤マント流言などとの関連を認めてここに振り分けたと云う訳ではないでしょう。寄せられた情報を、とにかくどこかに分類しないでは収まらないので、赤マント流言と同じ項目に並べて示しただけだったと思われます。もし、赤マント流言との関連を認めるとして、それは話者である江角治子の生年、そして松ヶ枝小学校在学時期がもっと正確に分かって初めて、何とか云い様もあるので、これだけではやはり、赤マント流言の4年程前に、ただのマント姿の変質者が校内に侵入していたのが目撃され、それが噂になった、と云うだけでしかないように思われるのです。
 その後、黒田清『そやけど大阪』を読んで、7月15日付(203)に纏めたように、松ヶ枝小学校にも赤マント流言が及んでいたらしいことは(回想ですが)傍証を得ました。江角氏が、例えば田辺聖子と同学年で(学校は違いますが)昭和14年度まで松ヶ枝小学校に在学していたのなら赤マント流言の記憶の断片の可能性もあります。しかしやはり江角氏の話が色を伴っていないことが気になります。いえ、昭和10年(1935)頃と云う時期に間違いがないとすれば、大阪の赤マント流言の原因は、大阪府特高課等の《公式見解》では紙芝居と云うことになっていますから、この松ヶ枝小学校の変質者は赤マント流言とは全く関係ない、と云うことになるはずです*1
 とにかく、これだけの断片、もしくは無関係な噂を、長くもない事典項目に思わせぶりに「定かではない」等と云う勿体ぶった言い回しとともに書き入れる必要は、全くなかった、と私には思われるのです。この辺りの文言や項目・事例の選定は、商業出版の『事典』としてもっと編集がしっかりチェックするべきだったのではないでしょうか。(以下続稿)

*1:だから私は体験者の生年と在学時期は、判断材料として最低限必要だと考えるのです。