瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(3)

・細目(2)
 昨日の続きで第二章について。要領は昨日と同じ。
第二章 昭和戦前「青山」の街・人・暮らし
 お屋敷も大正モダンもあった街 68(1)
 岡本一平・かの子のいた青山高樹町という街 69(5)
 お屋敷の名残が…… 70(6~72・13)
 71頁写真、上「岡本かの子/一平の妻、洋画家故岡本太郎の母。/歌人・小説家として大正・昭和を/通じて活躍。独特の風貌とユニー/クで大胆な化粧、装いでも有名だ/った」下「岡本一平岡本太郎の父、かの子の夫。漫画家/として活躍。風刺漫画は一平漫画と/して漫文とともに一世を風靡した」
 73頁写真、上「昭和16年の高樹町電車通り。現在骨とう通りとして賑わっている」下「昭和32年の高樹町電停付近」
 「あ〜そぉ〜びぃ〜まぁ〜しょ」が連呼され 74(1~13)
 およそのおうちや原っぱで 75(1~13)
 「ノー病院の焼け跡」原っぱ 76(1)
 関取「鯖折りの文ちゃん」を見た日*1 77(2)
 78頁写真「青山名所だった青山脳病院。第5期工事を終えた明治40年頃には、敷地4500坪1町5反歩、/建坪1976坪、当時の職員は院長はじめ医師・看護婦から車夫まで含めて250名、入院患者/380名といわれ、青山名所に上げられていたほど。惜しくも大正13年12月29日餠つきの残/り火の不始末で全焼した」
 79頁写真、上「ノー病院の焼け跡の原っぱで写生する青南小学校生徒たち。/後ろの建物は再建された青山脳病院」下「出羽ヶ嶽文治郎。愛称「鯖折りの文ちゃん」/で親しまれた。13歳で身長2メートル体重113キロという怪童だった。斎藤家の養子となった当初は医師を希望し青山学院に入学/もしたという。が、巨体を生かして出羽ノ/海部屋に入門。16歳で初土俵、大正15年23歳で関脇に昇進、身長204センチ体重203キ/ロの巨体で鯖折りを得意技とした」
 トンボとりと凧揚げに熱中*2 80(13~81・15)
 金魚池と金魚売り 82(1)
 街を流す物売りの声はお江戸の名残 82(13~84・15)
 通りを彩ったその街の人々 85(1)
 洋装はモダンのシンボル 87(7)
 89頁図版「マレーネ・ディートリッヒのようにヴェール/のついた帽子が流行」
 錦紗・縮緬を着るのは非国民*3 90(2)
 91頁写真「男性の服装の変遷」上「縞の着物に絽の夏羽織、カンカン帽も決まった/男の街着姿。大正12年」中「三つ揃いのスーツに縁なし眼鏡のダンディ、/現代とあまり変らない。昭和3年」下「和服での会合などには袴をつけて。昭和19年」同一人物。
 それでもよそ行きはシルクのモンペで 92(2~14)
 男もお洒落だったのに…… 93(1)
 「日赤」へ傷病兵のお見舞いが流行 93(11)
 95頁写真「日赤へ傷病兵のお見舞いに。病室で兵/隊さんに撮ってもらったり(上)、玄/関前に常駐していた写真屋さんに撮/影してもらったり(下)」
 兵隊さんと子どもの不思議な交流 96(6)
 陸軍記念日もポパイの映画も同時進行 97(3)
 幼いながら「お国のために」 98(10)
 下校途中の路上で戦死者に黙祷*4 99(9)
 「青山館」で憧れの劇映画を 100(6)
 映画全盛時代の名残 101(7)
 居候が現実に「居・そうろう」していた頃*5 103(2)
 カゴにぎっしりの産直ズワイガニ 104(12)
 ランドセル背負ったまま歌舞伎座*6 105(9~106・15)
 107頁写真「昭和12年川田義雄あきれたぼういず。中央が川田義雄(のち晴久)、後列左から増田喜/頓、坊屋三郎芝利英川田義雄は劇団「笑いの王国」の俳優から出発、その後あきれた/ぼういずとして浅草花月劇場で活躍し、ナンセンス歌謡漫談で人気を得た。のちミルク・/ブラザーズ、ダイナ・ブラザーズなどと編成替えをしたが、ミルク・ブラザーズ時代の「地/球の上に朝がくる~」の大ヒットで超人気となる」
 いまも心に鮮やかな三本の映画 108(1)
 美少年片山明彦の「風の又三郎 108(11)
 純情武骨な「姿三四郎」スタイルが当時の主流 110(2~14)
 111頁写真、上「黒澤明監督のデビュー作「姿三四郎」(東宝)。三四郎の藤田進と月形竜之介の決闘場面」下「日活の大ヒット映画「風の又三郎」。木の上にいるのが片山明彦の風の又三郎
 正義派少年への憧れ 112(1~14)
 男の切なさをバンツマの「無法松」で知る 113(1)
 戦前の日本が育てた男の奥行き 114(3~12)
 115頁写真「日本映画史上不朽の名演技といわれる阪東妻三郎の「無法松の一生」。(大映作品)」
 名作「土と兵隊」は泥濘と軍靴の記憶 116(1~14)
 チャンバラスターも戦争映画の将軍に 117(1)
 日劇七回り半事件もあった「支那の夜」の大ヒッ卜 118(2~14)
 江田島」生徒への熱い視線 119(1~13)
 写真集『海軍兵學校』のなかの好きな人 120(1)
 南の国を映画で知る 121(5)
 娯楽のパターンは「三越食堂」でお食事 日比谷で映画だったが…… 122(10)
 空襲下でも映画製作が 123(7)
 初めて観たモンゴル相撲はおかしな踊り 124(7~125・13)
 ナチス・ドイツの一行の相撲観戦 126(1)
 127頁写真「訪日したヒットラーユーゲントの歓迎会。神奈川県鎌倉町(現鎌倉市)。昭和13年
 小旗を振ってラス卜エンペラ—を熱烈歓迎 128(10~129・14)
 さまざまな文化に触れながら 130(1)
 その頃のライフスタイル 131(12)
 和洋折衷住宅の応接間という洋間 133(11)
 ねえやは貴重な家事の助っ人 134(3~135・14)
 着物が日常着だった頃 136(1)
 貸家の「貸し屋札」はどれも斜めに 137(4)
 子どもの成長に合わせてお引越し*7 138(5~13)
 茶の間は一家の団欒と情報提供の場 139(1)
 ちゃぶ台の洋食は西洋皿のライスカレー 139(6)
 うれしかった一汁コロッケ菜の日 140(8~141・14)
 漬物撙には季節の野菜が天井と床には保存食が 142(1)
 戦前の街にあった明治・大正からのおだやかな暮らし 143(5~145・12)
 144頁写真、上「お手々つないで全員ゲタでお散歩。日本の夏は蒸し暑いので夏の日常の履物は素足に下駄。赤坂区青山南町5丁目84番地の著者旧宅(左側の塀)/前の姉妹。昭和15年」下「年配の人にまだ見かけた二百/三高地という髪型。大きく髪/を膨らましたこの髪型も日本/髪よりモダンだったが、女性/にも洋装がふえてくるとすた/れた」(以下続稿)

*1:ルビ「さば」。

*2:ルビ「たこ」。

*3:ルビ「きんしゃ ちりめん」。

*4:ルビ「もくとう」。

*5:ルビ「いそうろう」。

*6:「目次」は「ランドセルを・・・・」

*7:「目次」は「・・・・お引っ越し」。

田口道子『東京青山1940』(2)

・細目(1)
 昨日の続きで、細目を確認して置こう。
 目次は1頁14行、目次の文字は各節に Times New Roman の算用数字で頁を示す他は全てゴシック体。各章とプロローグ・エピローグの文字は大きく、プロローグを除いて前1行分を空ける。各章には1字下げで節を示すが、それぞれの節の題に1字弱空けて数字を添え、同じ行に2字分空けてもう1節、同様に示す。
 ここでは1行1節にして、頁数に添えて括弧に行数も添えた。本文は1頁15行、節の題は字下げなしのゴシック体で、頁の頭でない限り、前1行分を空けている。1行42字。
プロローグ
 花の青山 時の旅人 10(2)
 街と人の生々流転*1 12(12)
 昭和激動の嵐のなかで 14(13)
 窮乏と我慢の先に勝利はなかったが…… 15(11)
 本文は17頁5行めまで。3行分空けてやや小さく、3字下げで〈凡例〉とあって、その下から7字下げで3行、

文中の小学校同期生名は敬称略としました。文中の同期生のエピソードは『あの頃/青山・青南時代』(青南小学校卒業50周年記念文集・平成6年)より引用しました。/引用文および「日記」は原文のままとしました。日記文中 ( ) 内は著者によります。


第一章 時代の風のなかで
 おだやかな募らしのあった戦前の街 20(1)
 青山通り商店街の賑わい 21(7)
 青山通りは専門店街だった 22(6)
 23頁写真「表参道入口の秋葉神社隣にあったクラスメート(積田せつ子)のクリーニング店。当時主/流だった店構え。2階の窓ガラスには参道の欅が映っている」
 ミルクホールにビリヤ—ドが全盛で 24(13)
 24頁写真、上「戦前の高樹町の酒屋さん。店先に酒樽が並ぶ」中「商店がびっしりの青山6丁目/電停あたり。昭和16年」下「高樹町から下った霞町(現/在西麻布)には、品川-四谷/塩町間を走る通称墓地下線/があった。発車合図は運転/席のひもを引っぱってチン/チン鳴らしたのでチンチ/ン電車といわれた」
 子どもは外でよく遊び 26(11)
 青山墓地」でかくれんぼ 27(9)
 兵隊さんのいた風景 28(7)
 29頁写真、上「市電「青山一丁目」交差点の電停で電車を待つ人々。左側「青山御所」。昭和16年」下「「青山墓地」入口。桜の木がまだ若かった」
 30頁写真、上「坂の多い赤坂でも急坂で知られる「三分坂」。改修前はもっと傾斜がきつく、荷車は後押/しなしにはとても上れなかったという坂を上がると三連隊。右側にいつも衛兵が立ってい/た。昭和16年」下「赤坂一ツ木街の旧芸州浅野家中屋敷跡に明治26年、赤煉瓦3階建て「近衛歩兵第三連隊」/兵舎を建築。明治40年。三連隊の消灯ラッパは青山の街まで響いてきた。現在TBS」
 31頁写真、上「「青山御所」前にあった「陸軍大学校」。現在の「区立青山中学校」。昭和16年」下「長州毛利家の中屋敷跡だった六本木の「歩兵第一連隊」。昭和16年昭和35年から防衛庁/庁舎となっていたが、防衛庁移転後公園に生まれ変わる」
 力—キ色の陸軍兵隊服は街の風景に 33(8)
 34~35頁図版「日露戦争頃の青山練兵場の様子。明治36年発行の『風俗畫報』「新撰東京名所圖會赤坂區之部」より」
 六本木から青山、代々木が歩兵の行進コース 36(8~37・15)
 住宅街を行進した一個分隊の迫力 38(1)
 兵隊さんはいつも汗と土のにおい 40(3)
 あの頃の日本の気負いを背負わされ 40(12~41・15)
 凜々しさもいつしか遠くなりにけり 42(1)
 今は昔の「御幸通り」 42(11)
 兵隊さん仕様の麦茶の味 44(8)
 一九四〇年の日記 46(12)
 ゼロ戦と二六〇〇年 48(9)
 49頁写真、上・中「まいにちつけていた昭和15年発行の/「青年日記」」背表紙側から写した表紙とカバー表紙カラー写真と同じ見開き。下「いまも外苑野球場前にある日本青年館全景。/昭和6年」※ 前の節に挿入すべき。
 51頁写真「南太平洋上空の零戦の編隊。昭和18年
 日記に見る時代の気配 52(12)
 帝国主義の真っ只中で 54(9)
 55頁写真、上「青山通りから見た戦前の表参道」下「「青年日記」の広告ページ」
 危機意識は物不足からじわじわと 56(12~58・15)
 配給と闇ルー卜を使い分けながら 59(1)
 人形と手紙を入れた初めての慰問袋 60(7)
 慰問袋のメル友がクラスメートにプロポーズ 61(10)
 正直な生活情報には書き直しもあった慰問文 62(8)
 63頁写真、上「おませな宇田川裕子の慰/問文に「嫁にほしい」と/いきなり訪れた兵隊さん/と記念撮影。昭和18年」下「戦災で焼け落ちるまで青山で/名高かった宇田川写真館。瀟/洒な窓にはステンドグラスが」※ 前の節に挿入すべき。
 ホン卜の話は消しゴムで消して 64(12~65・13)
 キャプションは改行のないものは主として図版の下に、改行のあるものは同じく図版の右か左に、全て横組みのごく小さな明朝体で添えてある。(以下続稿)

*1:ルビ「しょうじょうるてん」。

田口道子『東京青山1940』(1)

『東京青山1940 陽が落ちても朝はくる二〇〇二年五月二十五日 第一刷 発行・定価1,600円・岳陽舎・285頁・A5判並製本

東京青山1940―陽が落ちても朝はくる

東京青山1940―陽が落ちても朝はくる

 カバー表紙、左上に95頁上段の写真の現物、中央に「35」頁「日一十二月一」と、「34」頁「日十二月一」を広げた状態の写真、文字はかろうじて読める程度。
 カバー折返し、上部に横組みで「記日年青/2600」とある赤い表紙の冊子を、裏表紙折返し・表紙折返しに分割して載せ、中央揃えの文字も丁度二分されている。丸背の背は右、表紙折返しにあり、裏表紙折返し側に小口。この裏表紙折返しの赤表紙の下部にゴシック体白抜き横組みで、

田口道子 Michiko Taguchi
1932年 東京生まれ。
1954年 慶應義塾大学文学|部卒業後出版/社に勤務し、書籍、|雑誌の編集に携わる。/結婚、出|産のため退職後フリーの編集者、/|ライターとして仕事をつづける。
1983年 企画編集会社(株)|サンルームを/設立、代表となる。|現在、サンルームの/仕事のかた|わら小説、エッセイを執筆中。/|三田文学会会員。

とある。奥付の上部に明朝体縦組み(名前は太字)で同文、アルファベットは横転、数字は漢数字に、改行位置を「|」で示した。
 表紙及び裏表紙見返しは橙色のエンボス加工されたやや厚い紙に、同じ地図のそれぞれ一部が印刷されている。表紙見返しには主に赤坂区山北町、裏表紙見返しには主に青山南町が載る。大通りに面した商店等は住宅地図並に、ほぼ切れ目なく商店名が記入されているが、住宅地は大きな家に限っているようだ。
 表紙見返しの上欄外にイロハ、左欄外に漢数字で検索用の片仮名・数字が入っており、上欄外は「 ネ | ツ | ソ | レ | タ | ヨ | カ | ワ | ヲ | ル」と読めるから切れている右にさらに「|ヌ|リ|チ|ト|ヘ|ホ|ニ|ハ|ロ|イ」が存したはずで、これは大判の地図の上部の左半分、すなわちもとの地図が赤坂区の全図だったことが察せられる。左上「區谷澁」の区域は余白になっており、11件の広告が載る。左欄外の漢数字は「一」から「七」の半分まで。
 裏表紙見返し、左欄外の漢数字は「八」から「十四」まで、さらに表紙見返しでは切れていた子持枠の左も若干入っており、出版社の住所や「昭和十一年八月二十三日印刷」の文字が読める。下欄外にも検索用の片仮名が並んでいるものと思うがそこは切れている。左下の狭い余白に広告1件。すなわち、南北は「十四」に分けられ「七」の下半分が切れていることになる。
 ついで見返しと同じエンボス加工の白紙に、カバー表紙と同じ標題や著者名・版元名が赤で刷られている。版元名以外は縮小されており、標題はやや下、版元名はやや上、そして著者名は標題の下に移動している。
 1頁(頁付なし)「目 次」の扉。
 2~8頁(頁付なし)、ゴシック体で章題は大きく、細かく分けられた節は1行に大体2節ずつ、半角分空けて算用数字で頁を添える。
 9頁(頁付なし)中扉。
 10~17頁「プロローグ」には扉はなく、280~281頁「エピローグ」282~283頁「あとがき」も同様である。
 19頁(頁付なし)「第一章 時代の風のなかで」扉、20~65頁本文。
 67頁(頁付なし)「第二章 昭和戦前「青山」の街・人・暮らし」扉、68~145頁本文。
 147頁(頁付なし)「第三章 国ごと破滅までのエネルギー」扉、148~212頁本文。
 213頁(頁付なし)「第四章 新しい時代が開く前に*1」扉、214~279頁本文。
 284頁「〈参考文献〉(順不同)
 285頁「〈写真・資料協力〉(順不同 敬称略 カッコ内は掲載ページ)」そして「青南小学校33回卒業」3名と「青南小学校36回卒業」22名。(以下続稿)

*1:ルビ「あ」。

森川直司『裏町の唄』(20)

・「投稿 風便り」(13)
 昨日取り上げた op.67 の続き。
op.68 海の記憶1 安乗の稚児 森川秀安さん(小諸市)H26/04/10
 伊良子清白「安乗の稚児」を引用して解説。
op.69 海の記憶2 龍飛崎 森川秀安さん(小諸市)H26/06/27
 書き出しは以下の通り。

 東京オリンピックは丁度50年前の1964年(昭和39年)だが、その年を除く1962年から66年までの新緑のころに毎年1週間から10日をかけて小学校以来の親友K君と東北地方に限定して延べ1万数千キロを自動車旅行した。


 その3回め、昭和40年(1965)38歳のときの体験について。檜原湖一周にも簡単に触れている。
op.70 海の記憶3 飯蛸 森川秀安さん(小諸市)H26/09/20
 『昭和下町人情風景』Ⅱ 下 町【2】「飯 蛸」は異稿
 冒頭部はこれまで度々出て来た母の実家について。

 父が東京に転職したので、昭和6年夏に大阪から母に連れられて兄弟3人も上京したが、その時私は4歳だった。東京に居が定まるまでの数カ月は、母の実家のある千葉県保田町(現安房鋸南町)の伯父の家の世話になっていたが、そこは南と北を岩礁に挟まれた500メートルほどの西向きの砂浜まで、県道を跨いで50メートルほどの距離の処にあった。
 母や従兄に連れられて、はだしで渚を歩いたり、・・・・


 当初、母の実家に滞在していたことは本書や『昭和下町人情風景』には触れていなかった(と思う)。
 千葉県安房郡保田町は、昭和34年(1959)3月30日に南の安房郡勝山町と合併して、安房鋸南町になって現在に至っている。記述に合いそうな砂浜は、谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」を参照するに、保田町元名の、鋸山の山裾から続く砂浜がそれらしく、次いで現在は保田漁港が建設されて僅かに砂浜が残るのみの、保田町吉浜のかつての海岸線も、この条件に当て嵌まらなくもないようだ。
 そして、4歳の秋・冬の保田町の海が「この時の数カ月は、浜に出れば毎日が感動で、驚きと楽しさの連続だった」と回想される。
 1行分空けて、1月18日付(18)にも回想されていた伯父の家での夏休みの回想になる。

 小学校高学年になると、夏休みには子供たちだけで伯父の家に厄介になったが、中学生になると冬休みや春休みにも伯父の家に出かけた。その時代を今振り返ると、数々の思い出を残して帰京するや先生の講義も上の空で夏休みを回想し、年が改まれば早くも夏休みに思いを馳せるという風で、私の少年時代は夏休みのために有ったと言っても過言ではなかった。伯父の家には男2人、女1人のいとこが居ていずれも私より年長であった。長男は6歳上、二男は兄と同じ2歳上で、従兄たちは私のもぐり漁の師匠だった。


 それから「もぐり漁」について説明し、さらに飯蛸の「くすぐり漁」について記述する。今は「私は春休みの大潮(潮の干満差が大きい)の頃に磯に降りて蛸獲りに熱中したことがある(昭和22年前後)が、・・・・」と云う時期(20歳頃)の記述に注目するだけにして置く。そして、

 ただ、稿を改めて記す予定だが、戦後数年の、船舶による不法投棄による海やけ等で,海藻もあわびも飯蛸もいなくなった不毛の磯となってしまったので、今はこの飯蛸漁法は絶えてしまったのではないかと思うが、この数十年、従兄の家を訪ねることはあっても、海岸に出たことはないから、今どんな回復状況かは不明だ。しかし東京湾の飯蛸釣りは盛んだろうし、成長した蛸の南下もあるだろうから、岩礁地帯の豊富な房州(千葉県最南部)の飯蛸はたくましく生きている地域があるかもしれないので「くすぐり漁」が伝承されているところがあるのかもしれない。
 飯蛸について記述予定のメモを見ると、16本足の飯蛸、捕食中の飯蛸からあわびを横取り、素手で獲った飯蛸の最大は430グラムなどがあるが長くなりすぎたので他日に譲ることとして、最後に「浪打ち際に枕を並べて酔っぱらった飯蛸」の話を記して筆を擱かせて頂く。

と、続稿とその「記述予定のメモ」について書いて、最後に短い挿話を添えているのだけれども、「風便り」はこの項が最後になっていて、予定していた続稿は書かれないで終ったのか、それとも活禅寺側の方針で載らなく(載せなく)なったのか、気になるところなのだけれどもどうなったのか分からない。(以下続稿)

森川直司『裏町の唄』(19)

・「投稿 風便り」(12)
 当初、本書と『昭和下町人情風景』を比較し、20歳くらいまでの森川氏の経歴と確認した上で、赤マント流言を初めとする幾つかの項を取り上げて検討するつもりだったのだが、これらの本と相補う内容のネット投稿を見付けてしまったことで、当初予定していた作業が後回しになってしまった。しかしやはり一通り見て置かないことには先へ進めない。著書にない内容を補うことが出来たのは収穫であった。しかしそれが今後の検討に活かされるかどうかは、分からない。
op.67 椰子の実 森川秀安さん(小諸市)H26/02/25
 3年振りの投稿で、平成26年(2014)2月下旬、満87歳になる2週間前である。冒頭、

 私は出生地の大阪市郊外で四年ほど過ごしたあと、一家が上京してから七十七年という長い年月を東京で暮らしていた。私は小諸に居を移して六年目になるが当地に地縁血縁があったわけではなく、・・・・

と、これまでの転居歴を大まかに纏めている。
 そして小諸での暮らしについて述べ、また小学生時代のことを回想する。

 転居して来る前の小諸についての知識と言えばやはり島崎藤村の詩であるが、私の記憶では、小学校三年生の時の学芸会で歌った「椰子の実」が藤村との出会いの始まりである。学芸会は毎年三月のある日、講堂(雨天体操場)の舞台で劇や独唱、斉唱、遊戯などが行われたが、観客は全校生徒と父兄で、出演する生徒は先生たちがあらかじめ選んだ者だけだったが、当時は私の小学校に限らずそれが当たり前のようだった。小学校で合唱を習った記憶はなく常に斉唱だったが、出演の生徒に印刷物は配られず音楽室の黒板に先生が書いた「椰子の実」の詩の全文を見ながら、先生の歌唱やピアノに合わせて生徒がなぞって覚えるという遣り方だった。詩の終りに近い「思いやる八重の汐々」の汐という字は小学校では習わなかった字だから、黒板に書かれた詩のこの部分は印象が強かった。ところで私の三年生の学芸会は昭和十一年三月で、「椰子の実」を練習する前にこのメロデーを聞いた記憶は全くなかった。大中寅二作曲の「椰子の実」が国民歌謡としてNHKラジオで放送されたのは昭和十一年八月だが、私自身は今でも「椰子の実」を歌ったのは三年生の時と思い込んでいるのだが四年生の時、つまり昭和十二年三月だったのかも知れない。


 Wikipedia に拠ると「椰子の実」が放送されたのは昭和11年(1936)7月13日かららしい。JOBK大阪放送局から全国放送された「國民歌謠」と云う番組が昭和11年6月1日に始まっており、その委嘱で大中寅二(1896.6.29~1982.4.19)が島崎藤村の詩に曲を付けたのは7月9日、だからやはり小学4年生以降でないとおかしいのだが、ここでは森川氏が歴史的事実と対照して「三年生の時」と云う記憶が「思い込」みであったことをそのまま書いていることに注意したい。――ここには「小学三年生の時」のことと「思い込」んだ理由が示されていないから、何の記憶と絡まってそう思ったのか分からないが、安易に正しい時期に合わせて記憶を修正してしまうのも、今度は別の記憶との整合性が崩れる原因にもなるので、取り敢えず記憶はそのまま書いて、その上でネットや文献で調べた歴史的事実と付き合わせるのが最善の方法だと思う。記憶だけでは危ないし、かと云って記憶を歴史的事実によって修正したものだけ示すのも、自分の中で長い歳月の間に熟成(?)された記憶とは違うものになっているわけで、私はそれもやはり危ないように思うのである。
 「国民歌謡」については本書【42】「プ ー ル」に回想されており、そこでは180頁4~5行め「‥‥。「椰子の実」は三年生のとき学芸会で/歌わせられた。」とあった。これが『昭和下町人情風景』Ⅱ 下 町【21】「プール」に再録された際に119頁2~3行め「‥‥。『椰子の実』は三年生の終わりの学芸会で/歌わせられた。*1」と時期が明確にされていた。この項はそれをさらに詳しく書いて見て、さらに「椰子の実」の来歴を調べて記憶違いに気付いたと云う按配なのである。
 それはともかく、そこから記憶を手繰って、「中学四年生頃に買った本で題名は忘れてしまったが竹中郁という人が編集した明治大正期の日本の代表的詩人の代表的な詩を載せた中学生向きの本に」載っていた「藤村の「千曲川旅情の歌」の一「小諸なる古城のほとり」」、大木篤夫(惇夫。1895.4.18~1977.7.19)の「題名は忘れたが・・・・短いが印象に残った詩」、そして「当時の私がこの本にある詩の中で最も印象に残ったのは「安乗の稚児」だったが、肝心の作者名が全く記憶に残っておらず」数年前、伊勢志摩への小旅行の際に「安乗埼に行けばきっと詩碑があるだろうと思」った通り、「安乗の稚児」の詩碑があり、「長年知りたかった」作者名を知る。
 そして最後、

記憶に残る三人の詩人の詩を挙げたが、たまたま海に関わるものばかりだ。近頃『風便り』にすっかりご無沙汰してしまったが、老人病で帰山の機会も減っているので、せめて寄稿だけは復活させて頂こうと一念発起したところで、次回以降しばらく海についての随想を投稿したいと願っている。お読み頂いて『風便り』にご感想をお寄せくだされば幸いである。

と断って、以後3回にわたって「海の記憶」を寄稿している。(以下続稿)

*1:ルビ「やし」。

森川直司『裏町の唄』(18)

・「投稿 風便り」(11)
 昨日の続き。
op.52 潮干狩り 森川秀安さん(小諸市) H22/7/5
 末尾に「註 平成17年4月某紙に寄稿したものを補筆」とある。冒頭、

 有名日刊紙三月上旬のコラムに「信じがたい気もするが、東京の湾奥でアサリ、ハマグリがじゃんじゃん獲れた」という書き出しで、幕末の書画に品川で貝拾いに興じる女性や子供、深川あたりの砂浜に潮干狩りに繰り出した人々が描かれている画や、深川には貝を漁する者がとても多いとの記述があることなどが紹介されていた。

とあって、これに触発されて「しかし幕末まで遡らなくても私が深川に住んでいた少年時代、中学の同級生の父親は月島の漁師だったし、隣の小母さんの越中島の身内も漁師だった」として、本書【14】「物売り」に取り上げてあった、貝屋・カニ売り(ついでに納豆屋)に言及する。それから戦後しばらく深川にも漁師がいたことに触れ、次に本書【39】「葛 西」に取り上げた「小学生時代の遠出の遊び場」葛西橋付近について、本書とは別の、潮干狩りの体験を紹介している。
 次に田辺貞之助『江東昔ばなし』から、砂村(砂町)附近の魚についての田辺氏の母の話を2つ紹介する。これらについては今『江東昔ばなし』が手許にないので、確認の上追記することとしよう。
 最後の段落は、

 コラムの執筆者は年配の人であるにしろ、戦前を知らない世代なのかもしれないが、新聞を見た読者の多くは遠い幕末に思いを馳せ、戦前の昭和にまでその面影が残っていたとは思い及ばないだろう。近頃、昭和時代、とりわけ前半の昭和の情報を端折ったり、誤り伝えないでほしいとの思いが強くなっている。        

と纏めている。
op.53 夜の秋 森川秀安さん(小諸市) H22/8/12
 小諸の自宅で聞く、秋の夜の虫の声について。
op.54 レンタルお堂 柳沢ひろえさん(長野県大町市)H22/09/04
op.55 日本寺大仏様 (千葉県安房鋸南町鋸山)片山 学君(東京都)H22/09/14
op.56 東京スカイツリー H22/09/24
op.57 工作 柳沢ひろえさん(長野県大町市)H22/10/08
op.58 南沙諸島 森川秀安さん(小諸市)H22/10/15
 冒頭、【投稿間隔が延びてしまっているのに、雑用が多くてしばらく執筆出来そうもないので、最近も話題になっている南沙諸島を表題にしている旧作(商取ニュース紙平成7年8月22日掲載)を提出させていただきます】と断り、末尾に(平成7年8月記)と添えている。
 平成7年(1995)3月に姪の結婚式のためシンガポールを訪ね、戦時中「昭南特別市」と呼んでいたことを思い出し、さらに仏印進駐の頃に新聞に出た「新南群島」は、今問題になっている南沙諸島と思い当たって、東南アジア情勢に思いを致している。
op.59 白鵬敗れる 森川秀安さん(小諸市)H22/11/17
 冒頭、

 昨日、大相撲九州場所二日目、破竹の勢いだった横綱白鵬が敗れ、双葉山の記録を更新するどころか63連勝で記録に終止符を打った。・・・・

とあって、日付はないが白鵬が平幕・稀勢の里に敗れたのが11月15日だから16日の執筆と判明する。そこからラジオの実況中継で聴いていた、小学6年生の昭和14年(1939)1月場所双葉山について回想する。
op.60 空振 森川秀安さん(小諸市)H23/02/08
 霧島山新燃岳噴火の空振被害から、「少年時代の夏休みの大半を」過ごした「神奈川県横須賀軍港対岸の東京湾口にある千葉県南部、鋸山の麓にある伯父の家で」の体験を回想する。「寒くない季節の穏やかな晴天の日中、地震ではないのにガラス戸や障子が記憶では10秒くらい微振動して、やや間合いがあって同じような微振動が2、30分繰り返された」ことがあり、これに対し地元の人が「また連合艦隊が大島沖で砲撃訓練をしている」と言ったのが、初めての空振の体験だったと云うのである。
 そして、戦況が悪化し、

・・・・、昭和20年3月10日には初の夜間大空襲の焼夷弾攻撃で東京は焦土と化し我が家も父と弟妹4人を失った。
疎開禁止地区に指定されていた従兄の町は、東京の壊滅的打撃のため急遽指定解除となり、母とこの年に生まれた妹の3人で母の実家である伯父の家に避難した。


 またそこで、米軍の艦砲射撃に拠る強烈な空振を体験することになる。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 そして平成23年(2011)3月11日に東日本大震災
op.61 鯉のぼり Show見さん(横浜市)H23/04/21
op.62 古都参拝 Webmaster-Mugen H23/09/21
op.63 東京タワー Show見さん(横浜市)H23/11/17
op.64 ZEST カフェ Show見さん(横浜市)H23/11/29
op.65 代々木公園 Show見さん(横浜市)H24/05/21
op.66 気仙沼みちびき地蔵堂にて Webmaster-Mugen H25/04/02
 op.60 から3年間、森川氏は「風便り」に投稿していない。その間、平成24年(2012)は投稿1件、平成25年(2013)は管理人の投稿1件と云う有様であった。(以下続稿)

森川直司『裏町の唄』(17)

・「投稿 風便り」(10)教練・唱歌
 昨日の続き。
op.31 裾野の小鳥 森川秀安さん(小諸市) H21/6/27
 旧制中学の教練については、『昭和下町人情風景』Ⅳ 風 景【8】「草いきれ」に、「四年生の七月(昭和十七年)」の富士の裾野での訓練で体験した、日本軍の非合理的なやり方を取り上げて批判的に述べていたが、この項では『昭和下町人情風景』と共通する不寝番や薬莢について略述した後に、何年生のときのことか明示しないが、やはり「富士の裾野」でのこととして、配属将校からある日、訓練参加を免除され兵舎の留守番を命じられると云う、思わぬ配慮を示されたときのことを回想している。
op.32 消灯ラッパ 森川秀安さん(小諸市) H21/8/22
 op.31 からの連想で、これまでの文では取り上げて来なかった、旧日本陸軍のラッパの合図について触れ、気になって自衛隊のラッパについて調べたこと、それからラジオの大本営発表で「山本聯合艦隊司令長官の戦死を発表する」に際して初めて使用され、以後「玉砕」に発表で使用されることになった信時潔作曲「海行かば」について回想している。
op.33 セルフィン・プレコ 森川秀安さん(小諸市) H22/2/27
 これも旧稿の再利用で、冒頭に(BBS 風の詩 2月19日の水槽の魚を見て思いつき、平成6年9月27日に某紙に寄稿した旧作を補筆して投稿させてもらいました。)と断っている。この「BBS 風の詩」も現在、活禅寺HPには存在しないようだ。
op.34 芝浦の運河にて H22/3/3 Show見さん(横浜市
op.35 昔のお金 H22/3/8 柳沢ひろえさん(大町市
op.36 奇抜な時計 H22/3/12 Show見さん(横浜市
op.37 螢の光 森川秀安さん(小諸市) H22/3/13
 冒頭は旗日の説明で、本書【4】「旗 日」をごく簡略にしたもの。残りは小学校の卒業式で歌われる歌について。
op.38 大銀杏 片山 学君(東京都) H22/3/15
op.39 浅草にて Show見さん(横浜市) H22/3/17
op.40 東京スカイツリー その1 Show見さん(横浜市) H22/3/19
op.41 福寿草 柳沢ひろえさん(大町市) H22/3/22
op.42 東京スカイツリー その2 片山 学君(東京都) H22/3/27
op.43 北アルプス便り 柳沢ひろえさん(大町市) H22/3/30
op.44 浅草寺の大銀杏 Show見さん(横浜市) H22/4/7
op.45 「花や今宵」の歌 森川秀安さん(小諸市) H22/4/9
 小学校の唱歌の教科書に載っていたはずの「青葉の笛」につき、当時は習わず成人してから認識した歌詞について。末尾に(平成22年4月8日)とある。
op.46 東京大神宮と外壕の桜 片山 学君(東京都) H22/4/10
op.47 東京スカイツリー その3 片山 学君(東京都) H22/4/16
op.48 あけびの花 柳沢ひろえさん(大町市) H22/5/11
op.49 カッコウ? 柳沢ひろえさん(大町市) H22/6/1
op.50 ふるさと 森川秀安さん(小諸市) H22/6/4
 「信州出身の国文学者高野辰之が作詞した「故郷」」について。1月15日付(15)に取り上げた「op.27 うなぎ その4」に披露した自作(?)の替歌「うなぎ追いしかの川 小鮒釣りしかの川」が再度持ち出されている。末尾に(平成22年5月31日記)とある。
op.51 はじめまして たんぽんあんさん (千曲市) H22/6/12
 平成22年(2010)3月に急に森川氏以外の投稿が増え、鈍化したものの6月まで継続している。(以下続稿)

森川直司『裏町の唄』(16)

・「投稿 風便り」(09)転居歴・渥美清追悼
 昨日の続き。op.27 からは1年以上を経過している。
op.28 小諸なる古城のほとり 森川秀安さん(東京都) H20/1/21
 平成20年(2008)5月末に長野県小諸市に妻と共に転居することになった顚末について。
 前置きとして森川氏の転居歴が手短に纏められている。

 小学生から中学時代までは深川、卒業して軍需工場に勤めて一年で東京大空襲に遭い東京を追われ、房州(千葉県南部)の伯父の家に厄介になって近隣の軍需工場に通って半年で終戦、一年ばかり釣り三昧のある日、家に幾ら金が残っていると思っているのかと母親にどやされて就職のため上京し、初めは高円寺の伯母の家に寄宿、やがて幼い妹を連れて六畳一間に同居の母と一年後に近所に借家、五年後には阿佐ヶ谷の借家に転居、さらに三年後に練馬区の大泉にようやく念願の建売住宅を得た。

 昭和六年、一家が大阪から上京して深川に住む前に半年ほど江戸川区の平井に居たから、平井、深川、高円寺、阿佐ヶ谷、大泉と東京の東から西へ、あるいは北西へと移動したのだが、・・・・


 この「四十年以上住んだ」大泉の家を周辺環境の変化から引き払うことになり、「八年前」すなわち平成12年(2000)に夫婦別々にそれぞれ「マンション暮らし」をすることになり、森川氏は「少年時代を過ごした深川を含む江東区」に住むことになる。――すなわち、これまでの「風便り」への投稿は全て江東区からなされていたことになる。
op.29 ノスタルジアを読んで 高木妙親さん(所沢市) H20/9/10
op.30 寅さんは生きている 森川秀安さん(小諸市) H21/3/10
 転居後の初投稿は72歳の誕生日に公開されている。冒頭部、前置きを抜いて置こう。文中の「窓の写真」は現在、閲覧出来なくなっているようだ。

 相変わらずの雑忙と気力に欠ける日々で、気に掛けながらも「風便り」になかなか投稿できずにいたところ、先月下旬の「窓」に寅さん絡みの柴又の写真を見て急に思いつき、掲載記事を探し出して平成8年の旧作ですが無厳さんに掲載をお願いしました。
 
 これは仕事を通じての友人であり、大伝法第8期の一会でもある、活禅寺に私を導いてくれた故菊池秀岳さん発行の情報紙「商品取引研究」平成8年9月20日号に掲載されたものの再録です。
 
 この年の8月に「寅さん」役の渥美清が亡くなりました。


 以下、1月9日付(09)に取り上げた短い記事「op.5 寅さんファン」よりも前の、渥美清(1928.3.10~1996.8.4)に対する思い入れの窺われる文章が再録されている。末尾に(八月二十三日記)とある「寅さん」の追悼文である。

 「寅さん」には多くの人が何らかの共通点を見出して、一層の親近感を持ったことと思うが、私も寅さんに共感を覚えることが多々ある。私は東京の下町育ちであるが、華やかな下町というより哀感漂う裏町に住み、しかも「寅さん」の同業の露店商人が多く住む「縁日横丁」とも云われていた場所に暮らしていた。
 
 昭和十年前後、すでにラジオ体操はあったがラジオを所有する家は少なく、毎朝、天気予報の時間になると、縁日商人のミヨちゃんのおっ母さんが小走りに我が家の路地の窓の下で聞き耳を立てていた。
 
 我が家に近い大通りには七の日に縁日が立ったが、このグループはここには出店していなかった。


 この「七の日」の縁日については本書【29】「縁 日」に詳細に回想されているが、そこでは130頁9~10行め、

 わが家の横丁は、毎日商人がまとまって住んでいたので、縁日へ行くと顔見知りのおじ/さんやおばさんが金魚屋やおもちゃ屋の店を出していた。

とあって、「商品取引研究」掲載稿と異なっている。続く内容は130頁11行め~131頁3行めに合致する。
 本書等では森川氏の父親の出自が明確でなかったので「三十世帯を越えていた」裏通りで「中学(現高校)を出たインテリ?は父と縁日商人の親分だけだった」と云う記述も、参考になる。
 戦前の柴又の回想は、1月8日付(08)に取り上げた「op.2 クビキリギズ」の異稿とも云うべきものである。そしてここに既に、

 だから戦前の東京下町に住んでいた私から見れば、柴又は下町とは映らないが、「寅さん」によって柴又は、一躍、庶民的下町人間の住む処として全国的に有名となった。
 
 朝晩の挨拶なしでは一日も過ごせぬ、煩わしくもあるが隣り近所が頼りになる下町は次第に消滅しつつあるが、貧しさの中で肩を寄せ合う暮しが過去のものとなり、経済的豊かさが住宅事情も生活スタイルも変え、プライバシーが優先される時代となったのだから致し方ないことだと思う。
 
 だから多くの人が「寅さん」に共感と、失なわれ行くものへの哀惜を覚えるのであろう。
 
 もしかしたら現在の旧東京下町よりも柴又の方が、現実にもむかしの東京下町的であるのかも知れない。

と、『ALWAYS 三丁目の夕日』の評に述べてあったのと同様の見解が示されていた。
 次いで、1月10日付(10)に触れた『昭和下町人情風景』Ⅰ 昭 和【24】「クラス会」に述べられていたクラス会を「第五十回をもって・・・・終了することを提案した」事情について述べている。(以下続稿)

森川直司『裏町の唄』(15)

・「投稿 風便り」(08)
 ここまで細かく確認して行くつもりではなかったのだが、後日参照する機会があるかも知れないから(ないかも知れないけれども)一通りメモして置くこととする。
op.19 うなぎ その1  森川秀安さん(東京都) H18/2/27
 長崎市野母崎・樺島の大ウナギ井戸について。
op.20 うなぎ その2  森川秀安さん(東京都) H18/3/8
 冒頭、

 戦前に読んだ本に、デンマーク生物学者(名前は失念)が大西洋中のうなぎの仔魚を長年に亘って採取した結果、バーミューダ沖の深海で産卵することを突き止め、次は太平洋沿海のうなぎの産卵場所に取り掛かる予定だったのに、20世紀はじめに猛威を振るったスペイン風邪に罹って亡くなったというのです。

とあるのは Johannes Schmidt(ヨハネス・シュミット、1877.1.2~1933.2.21)で、死因は Wikipedia 等には記載がないが、インフルエンザだったとしても時期的に所謂「スペイン風邪」ではない。
op.21 自家用人力車 森川秀安さん(東京都) H18/3/24
 本書【55】「自 動 車」の前置き(227頁2行め~228頁6行め)を、内科の開業医の往診用人力車に主眼を置いて改稿したもの。
op.22 愛の賛歌  柳沢ひろえさん(長野県大町市) H18/5/15
op.23 朝の雨  柳沢ひろえさん(長野県大町市) H18/6/16
op.24 托鉢 森川秀安さん(東京都) H18/9/2
 深川の裏通りの間口や職業については本書【15】「門づけ」冒頭の記述を詳細に書き直している。
 次いでこの裏通りを訪れる物売りについては本書【14】「物売り」をごく簡略に纏めたもの。
 そして本題の乞食や托鉢については再度本書【15】「門づけ」。山伏が弟の魚の目を治した話は取り上げていない。その代わり、いつ乞食や托鉢が姿を見せなくなったのか、そして戦後も復活することのなかったことを述べて纏めている。
op.25 うなぎ その3  森川秀安さん(東京都) H18/10/17
 冒頭、

 風便りop.2 うなぎ その1(H18-2-27)で樺島の大ウナギのことを書き、 長崎市の観光案内に触れられていないので、大ウナギがもう棲息していないとか、井戸がなくなったとかいう理由でないことを望むと書きましたが、今日たまたまネットの地方新聞のニュースで近況を知りました。

としてその後知ったことを報告している。なお「風便りop.2」と云うのは個別の記事の番号ではなくHP内のページの番号。
op.26 秀安さんの大うなぎ読ませていただきました ノウゼンさん(浜松市) H18/11/1
 浜松附近の養鰻池の「池がえ」の話題。
op.27 うなぎ その4  森川秀安さん(東京都) H18/11/2
 翌日に早速返事を認めている。

 ノウゼンさん、拙文をお読み頂き有難うございました。私の少年時代の遠出の遊び場は荒川河口の葛西の、今はマンションが林立する整備された都会ですが、水路が縦横に走る田園地帯で、そこで小魚釣りや、狭い場所の水を掻き出してうなぎや鮒を一網打尽に生け捕る「掻い掘り」など、遊びに夢中のあまり徒歩一時間以上の帰り道は暗くなることもあって、よく母親に叱られたものでした。だから少年時代は「うなぎ追いしかの川、小鮒釣りしかの川」で山は全くないのです。


 続いて会津蒲生氏郷(と記憶)が川に毒流しをしようとした前日、墨染めの衣の僧が現れてそれを止めるよう訴えたのに粟飯を馳走して帰し、翌日予定通り毒流しを行ったところ、川の主と思しき大きな鰻を捕まえた。腹を割いて見ると粟飯が出て来たので昨日の僧は鰻の化身であったか、と思い合わせた、と云う「少年時代に読んだ話」を紹介している。毒流しを命じた殿様は急死した、と云うのだが毒殺説もある蒲生氏郷と合う、と。
 類話はアニメ『まんが日本むかしばなし』でもやっており、夙に江戸時代前期(17世紀)の仮名草子にも既に類話が会津のこととして見えていたと記憶する。検索しても上手くヒットしないので追って報告することとしたい。(以下続稿)

森川直司『裏町の唄』(14)

・「投稿 風便り」(7)三丁目の夕日
 昨日の続き。
op.18 三丁目の夕日DVDを観ました  森川秀安さん(東京都) H18/2/9
 HP管理人でもある活禅寺管長徹空無厳(中城無厳)は、「op.17 映画 「三丁目の夕日」 を観て  森川秀安さん(東京都) H18/1/20」に示された設定に対する疑問に応えるべく、森川氏に「三丁目の夕日のDVD」を(恐らく)貸与している。
 しかし当時、まだ『ALWAYS 三丁目の夕日』のDVDは発売されていない。Wikipedia に拠ると『三丁目の夕日』の映像化作品としては、平成2年(1990)10月12日から平成3年(1991)10月6日に掛けて、全27回52話のアニメが大阪のMBS製作で放映されたが、金曜19時からで『ドラえもん』の裏番組だったため視聴率が低迷、当初TBS系全国ネットであったが各局で打ち切りになり、4月からはMBSのみの関西ローカル放送になってしまったそうで、未だに商品化されていないようだ。そうすると、候補になるのは次のDVDのみである。

見て聴く『三丁目の夕日』 [DVD]

見て聴く『三丁目の夕日』 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2002/02/20
  • メディア: DVD
 どういうものか、Amazon 詳細ページの「商品の説明」を抜いて置こう。

内容(「キネマ旬報社」データベースより)
西岸良平の代表的コミック「三丁目の夕日」の中から20話を厳選し、音楽と効果音で構成したデジタル紙芝居。原作は昭和30年代を背景に、ほのぼのとしたタッチで人々の生き方と喜怒哀楽を描くヒューマンドラマ。小学館DVDマガジン増刊。
内容(「Oricon」データベースより)
ビッグコミックオリジナルにて連載の、西岸良平原作によるほのぼのコミック「三丁目の夕日」をデジタル化した作品。全18話収録。


 さらにカスタマーレビューを参照するに、漫画にカラー着色し、BGMを付したものらしい。
 収録されているのが「20話」なのか「18話」なのかはっきりさせて欲しいところだが、とにかく20話くらい収録してあれば『三丁目の夕日』の世界を窺うに十分だと考えたのであろう。単行本『夕焼けの詩』は平成17年(2005)までに51巻出ており全部読ませるのは躊躇される。いや、版元でも大部になったために選集を刊行していたのであるが、それらはテーマ別編集で、全部の中から「厳選」したのはこの『見て聴く』のみであったようだ。
 これを見せられたことで、森川氏の映画に対する違和感は解消されたようである。

・・・・。この前の映画評で「古い画像や文献で調べるのが主で、自分の経験や記憶がないのかも・・」と記しましたが、DVDを観て、映画の製作スタッフはこの画面を参考にしたのだと思いました。
 
 私は原作を見たことがないのですがDVDが原作に近いとすれば、情景の配置は原作に忠実だったのだと思います。映画のパンフに昭和33年の「東京下町の夕日町三丁目」とあったので、私の頭のなかにある東京下町、山手環状線の中とその東の隅田川沿いの中央、台東、墨田、江東あたりをイメージしていたものだから違和感があったのですが、この前に記したように私の知らない新下町でした。


 やはり問題は、昭和33年(1958)の世田谷区辺りの情景を「東京下町」と称したところにありそうだ。しかも映画では舞台を東京タワーに程遠からぬ辺り(港区)に移してしまったために、実際と設定の齟齬が覆いがたいものとなってしまったようだ。

 DVDには、炭屋が家庭に石炭を運ぶ場面があり煙突も写っていましたし、郊外電車の踏み切りもあり、自動車修理屋には垣根のある庭もありました。小学校の校舎も木造二階建てでした。これらは、昭和33年当時でも東京では新開地にしか見られなかったと思いますが、そのような処にも下町的暮 らしや人情があったことを否定するものではありません。
 
 寅さんの葛飾柴又だって場所的には私の言う東京下町には入りませんが、寅さんとその周辺の人たちが演じていることはまさに東京下町の一典型です。・・・・


 『男はつらいよ』の面々が、自ら葛飾区柴又のことを東京の「下町」と呼んでいて、そのつもりでいるのかどうか、知らないが、動画サイトに上がっていたアニメ版『三丁目の夕日』を幾つか見た限りでは*1、やはり旧来の東京の「山の手下町」の「下町」ではなく「新開地」、世田谷辺りの新興住宅街としか思えない。こういう辺りにも、2016年2月25日付「井上章一『京都ぎらい』(1)」に批判した、旧来の地名・境界の破壊に拠る混乱が指摘されるようである。(以下続稿)

*1:Wikipediaの「三丁目の夕日の登場人物」の説明と話の内容が合致するので、アニメ独自の設定を追加するようなことはしていないようだ。

森川直司『裏町の唄』(13)

 中学に入学して初めて受けた眼科検診で結膜炎と診断され、駅前の病院が雑居していたアパートの2階にあった校医の眼科に毎日通っていた。今で云えば医療モールと云うことになるのだろうが、昭和20年代に建てたらしい古アパートの、木の階段を上ってすぐのドアを開けると狭い待合室があって、40くらいの割に綺麗な熟女*1の看護婦2名の手が空いている方が受付も行っていると云う按配だった。医師は白髪痩躯の老人で、見た目は1月3日付「英語の思ひ出(1)」に述べたH先生に似ていたが、もっと小柄で、上品でありながら親しみ易い感じだった。温かい湯で目を洗ってもらうのが気持ち良く、毎日100円の診療を受けるのは全く苦ではなかった。中学では寄り道せずに指定された、自宅と学校を最短で繋ぐ通学路を下校するよう指導していたはずだが、私は通院を理由に、自宅とはまるで反対の方角に学校を出て、ごみごみした駅前に行き、余計な金など持ち歩いていなかったから何か買ったり食ったりすることもなかったが、或いはこの経験が2017年4月2日付「山岳部の思ひ出(5)」に述べた、高校時代の寄り道しまくってから下校すると云う奇行(?)に繋がってしまったのかも知れない。
 それはともかく、この眼科の待合室に「ビッグコミックオリジナル」があって、西岸良平三丁目の夕日』を、一時的ではあるがリアルタイムで読んでいた。いや、リアルタイムが問題になるような漫画ではないのだけれども、あの特徴のある絵と、内容は、なんとなく覚えている。特に好きと云うほどではなかったが、雑誌が月2回刊行で、毎日の病院通いだから、やはり毎回きっちり読んでいたのである。
・「投稿 風便り」(6)三丁目の夕日
 昨日からの「op.17 映画 「三丁目の夕日」 を観て」の続き。
 作者の西岸氏について検索するに「東京都世田谷区出身」とある。――世田谷区と云っても三軒茶屋の辺りと、宇奈根や喜多見の辺りでは、私の知っている平成初年でも全く違っていた。大井町線沿線の住宅地を引き合いに出しても良いだろう。だから、詳しく何処なのか知りたいのである。しかしいづれにしても、西岸氏の頭にあるのは昭和30年代の世田谷区、前回引用した森川氏の指摘にある「新下町」と云うことになるのだろうか。

ALWAYS 三丁目の夕日(プレビュー)
 映画は確か出来たばかりの東京タワーのすぐ近くと云う設定になっていたと思う。それなら港区である。しかし、森川氏が紹介しているこの映画の設定は、いくら昭和30年代でも港区らしくない。作者が世田谷区の少年時代に基づいて描いた諸設定を、東京タワーの麓に移してしまったことで、不自然さが生じてしまったところもあるのであろう。
 平坦な深川区と違って、港区では昭和33年(1958)でも道路の舗装は進んでいなかったのであろうか。或いは戦後、物資不足で場所によっては舗装を廃した箇所があったのかも知れないが。石炭ストーブについても、戦前の深川区では使用されていなかったが、戦後の港区や世田谷区では需要があったのかも知れない。とにかく、東京の「下町」と云っても、時代と場所によって状況には違いがあろうし、そもそも何処をとって「下町」と云うのか、それも人によって区々なのである。私のような余所者には、やはり上手いこと「下町」がイメージ出来ない。
 森川氏もそう云ったことを意識してか、

・・・・。でも、そんなあら捜しなどするのは私のような年寄りのすること、若い人は昔の下町の物は乏しくても支えあう人々の温かさを感じ取れればよいのだと思います。ご報告かたがたくどくどと申し立ててしまい失礼しました。・・・・

と纏めている。(以下続稿)

*1:当時はこんな言い方はしなかったと思うが。

森川直司『裏町の唄』(12)

・「投稿 風便り」(5)三丁目の夕日
 昨日の続き。
op.17 映画 「三丁目の夕日」 を観て  森川秀安さん(東京都) H18/1/20
 「無厳さん推奨の」とあるから、例の「Nostalgia」に言及があるのかと思ったが、現在公開されている「Nostalgia」にはこの映画に関する記述は見当たらないようだ。
 森川氏はこの映画を「先週の木曜日」すなわちに平成18年(2006)1月12日(木)に「新宿武蔵野館で観」ている。「昔のような無料のパンフレットはないので、分厚い七百円のパンフを買ってみると、写真や画入りの詳しい、記憶力の衰えた私には都合のよいものでした」とて、パンフレットにも拠りながら、幾つか「気になった」箇所を指摘している。
山崎貴 監督『ALWAYS 三丁目の夕日平成17年(2005)11月5日公開

ALWAYS 三丁目の夕日 [VHS]

ALWAYS 三丁目の夕日 [VHS]

  • 発売日: 2006/06/09
  • メディア: VHS
ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

  • 出版社/メーカー: バップ
  • 発売日: 2006/06/09
  • メディア: DVD
ALWAYS 三丁目の夕日 豪華版 [DVD]

ALWAYS 三丁目の夕日 豪華版 [DVD]

  • 出版社/メーカー: バップ
  • 発売日: 2006/06/09
  • メディア: DVD
「ALWAYS 三丁目の夕日」Blu-ray

「ALWAYS 三丁目の夕日」Blu-ray

  • 出版社/メーカー: バップ
  • 発売日: 2011/12/21
  • メディア: Blu-ray
ALWAYS 三丁目の夕日 o.s.t

ALWAYS 三丁目の夕日 o.s.t

  • アーティスト:サントラ
  • 出版社/メーカー: バップ
  • 発売日: 2005/10/21
  • メディア: CD
ALWAYS 三丁目の夕日 名曲集

ALWAYS 三丁目の夕日 名曲集

 公開当時、大ヒットして2ヶ月以上も上映延長されている。私は見に行かず、おすぎが小雪について「昭和30年代にあんな人、いません!」と言ったとか云う話を聞いて、全くだと思ったものだったが、TV放送されたのを見て、やはり少々違和感を覚えて、しかしそこまでこの映画を研究しようとも思わなかったので、途中で見るのを止めたのだった。
 森川氏は「昭和33年建設の東京タワーを背景に展開される、豊かではないが夢に向かって日々を生きている人々の下町の暮らしぶりと人間模様を描いたという設定ですが、世評も好いようです」としながら「 細かいことを言えば、・・・・」として「親から雇い主宛の毎月の手紙を十ヵ月後?にまとめて娘に見せるシーン」を挙げる。「画面の家の造り、郵便配達夫などから」して「そんな長い期間、郵便が娘の目に触れずにいるのは」流石に「不自然に感じ」る、同様に細かい設定で不自然な点が「二、三ありました」とする。
 次の指摘は重要だと思うので段落全部を抜いて置こう。

 気になったのは、下町の道、それも商店もある表通りの道が土だったことです。私の子供時代の裏通りでもほとんどがアスファルト舗装でした。また、水はけを考慮して道はかまぼこ型にやや中高なのですが、画面は全くフラットでした。 それに塀のある家がやたら多かったですが、東京の下町には塀に囲われた家など滅多にありませんし、画面にあるような高い木が社寺の境内でもないところに生える空き地はないから、郊外の下町的に発展途上にある地域という感じです。 酔いつぶれた町医者に巡査が「この辺は狸が出る」と言っていたし、道端に丈高い雑草も生えていたから、そういう私の知らないたたずまいの新下町のようです。


 それからもう1点、これも先の指摘に関連すると思われるので段落全部を抜いて置く。

 荒物屋の冬の店頭に苦労して探してきた石炭ストーブを並べたと記されていますが、東京の下町にはガス管が張り巡らされているし、ガスを使用しない家庭では七輪に木炭か豆炭です。炭屋は沢山ありましたが、石炭など扱っていなかったと思いますし、コークスを扱っている店があったとしても、それは家庭用ではないです。


 森川氏は「パンフに・・・・細かいところまでこだわって努力した様子が述べられていますが、多分若い人が多くて、古い画像や文献で調べるのが主で自分の経験や記憶がないのかもしれ」ない、とその理由を推測するのだが、まさにこの指摘にこそ、この映画の弱点があるのではないか。そんな気がするのである。
 原作を読んでいない森川氏は、原作者が寄せた映画への讃辞にも、疑問を覚えているようである。

 無厳さん愛読の「三丁目の夕日」も著者の西岸良平氏も私は全く知らないので、パンフにある西岸氏の「原作を大切にした素晴らしい映画」という言葉がどこまで本音なのか判りません。・・・・


 この戦前の下町の生活を知っている森川氏と、団塊の世代西岸良平(1947.7.30生)との下町観の違いも、やはり見逃せない問題であろうと思われるのである。(以下続稿)

森川直司『裏町の唄』(11)

・「投稿 風便り」(4)家族の年齢
 昨日の続き。
op.14 寿命  森川秀安さん(東京都) H17/2/21
 本項は家族の年齢に触れているのが貴重である。
 全くこだわらない人もいるが、私は読解の際、是非とも考慮すべき条件だと思っている。
 まづ「私の身近にも88歳で亡くなった母方の曽祖父以外70歳に達した人はいませんでした。」と一族で最高齢だった人物について述べる。森川氏が今も健在であればこの記録を更新したことになる。

・・・・。終戦のとき私は18歳、其の年の私の誕生日の東京大空襲で父と弟妹4人が死に、母と兄と18歳下の妹が残りました。

 私は36歳のとき、あれから18年経ち、生まれてからあの時までと同じ歳月を生きたという感懐に浸りました。45歳の時には、父が死んだ歳に達したのだという思い、67歳の時には母の亡くなった歳になり、すでに兄は亡くなっていたので私が我が家の最高齢に達して、これがどこまで更新されるのかと思いました。


 全て満年齢だとすると、森川氏の父は明治32年(1899)3月から明治33年(1900)3月9日までの間に生れたことになる。仮に明治32年生として置くと、森川氏が生れたときには数えで二十九歳である。兄は2つ年上で1学年上の大正14年(1925)生で、森川氏が67歳になった平成6年(1994)3月10日には既に死んでいた。森川家は両親に兄・森川氏・弟妹4人・昭和20年(1945)2月生の末の妹の7人兄妹の9人家族で、森川氏の母が兄を生んだとき仮に満18歳、そして森川氏を生んだときに満20歳になる年回りだったとして、明治40年(1907)生と云う見当になる。これを下限として、恐らく夫より年下だったろうから明治34年から明治40年の間、やはりその下限に近い頃だろうと思うのである。仮に明治40年生とすれば昭和47年(1974)かその翌年に死亡したことになる。――それにしても誕生日が分からないと年齢を確定させられない満年齢は、こういう場合非常に不便で、混乱の元となりかねないと思う。
op.15 豆腐屋のリベート 森川秀安さん(東京都) H17/10/19
 前半は本書【14】「物売り」冒頭部の改稿。後半は本書には見られない内容で、子供のお使いに対する豆腐屋等が出していたリベート(お駄賃)について。
op.16 白木屋の火事 森川秀安さん(東京都) H17/12/17
 4段落から成るが、3段落めまでは本書【38】「佃の渡し」の166頁3行め以下の異稿。最後の段落は「古い証券マンからむかし聞いた話」で、昭和7年(1932)12月16日の白木屋火災当日の、兜町証券取引所の反応について。(以下続稿)

森川直司『裏町の唄』(10)

・「投稿 風便り」(3)エチオピア関連
 一昨日からの続き。
op.9 秋野君はいま何処に  森川秀安さん(東京都) H15/10/21
 色が黒かったので「エチオピア」後に略して「エチョ」と渾名されていた同級生秋野君の回想。但し末尾に「(秋野は仮名) (シリーズ第1戦の平成15年10月18日記)」とあって、実名に似た苗字に変えてある。森川氏たちが小学3~4年生だった昭和10年(1935)10月から昭和11年(1936)5月に掛けて第二次エチオピア戦争があり、「メンコの絵柄」にもなっていたが子供たちは「弱い者いじめ」のイタリアを「きらってエチオピアを応援し」ていた、そんなことからエチオピアに「黒人の国」と云う印象を刷り込まれ、そして同級生秋野君の色の黒さが自ずと「エチオピア」を想起させた訳である。
 本書【8】「エチオピア」では(やはり苗字のみだが)実名だったのを変えたのは、理由があるのだがこの項では十分説明されていない。以下、当ブログでは森川氏の意思を尊重して秋野氏と呼ぶこととしたい。
 さて、本書の回想は小学生時代に終始しているが、本項には続きがある。東京大空襲でちりぢりになった小学校のクラス会を、森川氏と親友Mが幹事となって消息が分からなくなっていた先生や級友たちを探し出し、昭和42年(1967)に昭和14年(1939)卒業以来28年振りにクラス会を開いたことは『昭和下町人情風景』Ⅰ 昭 和【24】「クラス会」に説明されているが、そこでは秋野氏の出席には触れていなかった。
 本項では秋野氏が第1回から出席していたことに触れ、秋野氏は小学校卒業後、奉公に出ていたが、何度か変わったらしい奉公先の中に「王(貞治)の親父さんの中華そば屋」があり、そこで「俺はいつも王(貞治)をおんぶしていたんだ」と聞かされる。――それで、執筆日にわざわざ「シリーズ第1戦の」を冠しているので、この平成15年の日本シリーズ王貞治(1940.5.20生)監督の福岡ダイエーホークス星野仙一(1947.1.22~2018.1.4)監督の阪神タイガースの対戦だった。執筆の切っ掛けにもなっているのではないか。勝敗は於福岡ドームの第1戦(10月18日)と第2戦(10月19日)はダイエーが連勝、公開日の10月21日はまさに日本シリーズの最中だった。そして於阪神甲子園の第3戦(10月22日)第4戦(10月23日)第5戦(10月24日)は阪神が3連勝、福岡ドームに戻った第6戦(10月26日)第7戦(10月27日)はダイエーが連勝し、4勝3敗で福岡ダイエーホークスが日本一になっている。
 それはともかく、その後もクラス会に顔を見せていた秋野氏の人生は平坦ではなく、ついには消息不明になってしまったことを述べ、それが本項の題にもなっているのであるが、その辺りの事情は次の項に詳述されている。
op.10 続 秋野君はいま何処に  森川秀安さん(東京都) H15/10/27
 秋野君の人生の歯車が狂い始めたのは本書刊行後の昭和55年頃から。以後、同級生たちとの連絡を絶つに至った個人的な事情について、断片的に聞いた事柄に推測も交えて詳しく書いている。そのため本書では実名だったのを仮名にしたのであろう。末尾に(平成15年10月24日記)とある。
op.11 秋野君の弁当箱  森川秀安さん(東京都) H16/1/21
 ここでまた小学生時代の回想に戻る。
 この項の前半は本書【1】「入 学」【6】「男 女 組」そして【8】「エチオピア」、【5】「食 べ」を要約しながら繋げて行ったような按配で、『昭和下町人情風景』に再録されているのは、Ⅱ 下 町【8】「入 学」のみである。そして後半が題にもなっている秋野君の弁当箱の話で、これは本書及び『昭和下町人情風景』には語られていなかった内容となっている。
op.12 馬・馬・馬  森川秀安さん(東京都) H17/1/8
 op.11 から1年近く空いている。ハルウララ(1996.2.27生) の武豊(1969.3.15生)騎乗の引退レースが実現するかどうか、話題になっている。私は馬券を買ったことのない人間で、ニュースやら、それこそ関東・関西で夕方、母が流していたラジオから流れて来た競馬情報やらを聞いていたから、全くの無知と云う訳ではないが馬券の種類も単勝くらいしか分からない(と云うより知る気がない)人間で、しかも当時競馬好きの人間が周囲にいなかったので、さすがに聞き覚えはあったけれども、高知競馬場で連敗記録を樹立したことなど具体的なことは全く覚えていなかった。――森川氏はこれを切っ掛けとして、高知県と馬の縁を幾つか挙げている*1
op.13 趣味について  森川秀安さん(東京都) H17/2/10
 「先日我が家で資料探しをしていたら、わずか一年半10号をもって立ち消えになった昔の職場の同人誌が出てき」た中から、「投稿し」た「作品の一つ」を「前半だけご披露します」と前置きして、【同人誌「苗」昭和31年2月号から抜粋】を引用する。「前半だけ」と断っているがこれだけで起承転結の纏まりが付いている。偶然掘り出したように書いているが、内容的には op.12 に関連している。
 ここでは、森川氏が20代の頃に、同人誌に小説めいた文章を書いていたことに注目して置きたい。(以下続稿)

*1:高知県1月8日付(08)に見たように、HP管理人でもある活禅寺管長徹空無厳(中城無厳)の出身地で、「Nostalgia」連載によって活禅寺HP閲覧者には馴染みの場所。

森川直司『裏町の唄』(09)

・「投稿 風便り」(2)
 昨日の続き。森川氏以外の人の投稿については、森川氏の投稿内容に絡めていない限り、薄い灰色で題と投稿者・公開(もしくは投稿)日の1行を示すに止めた。
op.3 霊巌山寺の輦台(れんだい)  森川秀安さん(東京都) H14/11/8
 平成5年(1993)6~7月の China 旅行で訪ねた霊巌山寺で乗った輦台について。
op.4 長野の智慧の元  森川秀安さん(東京都) H15/2/19
 全くの下戸であることから、終戦から数年の買出しの思い出へ。東北地方から上野に戻る夜行列車の網棚でどぶろくの醸成が進んで栓を吹き飛ばしたこと。
op.5 寅さんファン  森川秀安さん(東京都) H15/3/17
 長野県が舞台となっている『男はつらいよ』について「別所温泉の旅館で旅役者に大盤振る舞いをして、無銭飲食で警察のご厄介になったり、小諸の病院の女医に惚れたりと、五、六作ありますね。」と述べる。
 前者は昭和51年(1976)12月25日公開の第18作、旅役者の一座は吉田義夫が座長の一座。

男はつらいよ 寅次郎純情詩集 HDリマスター版(第18作)

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 これはDVDで見た。
 後者は昭和63年(1988)12月24日公開の第40作、女医は三田佳子

男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日 HDリマスター版(第40作)
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houti589 邦画映画チラシ[ 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日+釣りバカ日誌 ]1989年公開

houti589 邦画映画チラシ[ 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日+釣りバカ日誌 ]1989年公開

  • 作者:邦画 映画チラシ
  • 出版社/メーカー: 東和、松竹、ユナイト
  • 発売日: 2016/04/27
  • メディア: その他
 注意すべきは最後に「実は期限を過ぎた原稿書きに追われていてこんなことしている余裕はないのですが」とあることで、この頃まだ活字媒体への寄稿を続けていたようである。
op.6 カルガモ  斎藤 隆さん(千葉県) H15/5/2
op.7 石塔寺(いしどうじ) 亀田いつこさん(長野市) H15/6/9
op.8 羽黒山の石段  森川秀安さん(東京都) H15/6/16
 思い立って実行した羽黒山参詣について。対象とする執筆者の書いたものを網羅して置きたいと思っている私としては、初めの方「自分に課した執筆計画が思うように進まないのです」が気になる。『昭和下町人情風景』に続く随想集が計画されていたのではないか、と思うからである。(以下続稿)