瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

米光秀雄・滝沢博・浅井徳正『多摩』(5)

・郷土叢書2『続多摩』(4)
 重刷の奥付裏は横線(8.5cm)3本で上下2段(各 6.0cm)に仕切る。上下の横線は太く真ん中は細い。3本めの横線の下、右寄せで「武蔵書房郷土叢書  」とあるのは初刷に同じ。上段はまづ「郷土叢書3/ 多 摩 を 掘 る」とあって次に下詰めで「塩野半十郎」、続く

 半世紀にわたる考古学への道、花づくり、/土地改良など多摩に生きた「土の巨人」の全/貌をつづる感動の記録
           B6版・価七五〇円

との紹介文は、7月1日(1)に見た『多摩』四刷のカバー裏表紙折返しにあった『多摩を掘る』紹介文を縮約したもの。3行分弱空けて「郷土叢書4/ 多摩ふるさとの唄」次に下詰めで「原田重久」とあり、

 語りつがれた多摩のうたの数々。詩情豊か/な解説を加えて多摩に生きた人びとの生活を/浮彫りにする    B6版・価九八〇円

との紹介文。下段は「郷土叢書5/ 多 摩 石 仏 散 歩」次に下詰めで「多摩石仏の会編」とあり紹介文は上段に比して行間を詰めて、

 多摩は石仏の宝庫である。街なかに、山あ/いに、石仏たちを訪ね、その周辺にのこされ/た民俗と歴史を散策する好評発売中
           B6版・価八五〇円

とある。以上3点とも未見だが『5』の書影を貼付して置く。

 なお、著者3名のうち〔著者略歴〕に拠ると滝沢氏が、その紹介文の2~3行め「多摩石仏の会々/員.」であった。なお、3人とも「青梅市文化財保護委員・多摩郷土研究会理事.」である。
 ここ(右から 3.4cm)で縦線(5.6cm)で仕切って「郷土文化叢書1/ 塩 舟 観 音 寺」標題の下、下詰めで「武蔵書房編」紹介文はなく下詰めで「B6版・価三〇〇円」再度縦線仕切って(この間 1.8cm)左側(3.3cm)には、「八王子市谷野遺跡調査団編/  鞍  骨  山  遺  跡」1行弱空けて「八王子市中田遺跡調査団編/  八 王 子 市 中 田 遺 跡」王と子の間の左からごく小さく「■報告書は直接小社に御注文下さい。/ 呈内容見本」とある。
 奥付の異同は7月3日付(3)にメモしたが、今回見直して見ると米光氏の住所が初刷では「 現住所 青梅市二俣尾1.178」となっていたのが重刷では「 現住所 青梅市二俣尾4の1.178」となっている。『多摩』三刷・四刷は初刷に同じだが、重刷よりも後に出ている『多摩』五刷はどうなっていたか、数日前にちょうど返却したところで、――昨日の前置きにも書いたが、なかなか遺漏なく見ると云う訳には行かずないものである。今度その市の図書館に行く際にまた借りて、ここに追記して置くこととしよう。電話番号は『多摩』三刷・四刷は「TEL 0425 (51)5542」で番号は初刷に同じ。これも『多摩』五刷がどうなっているか、後日追記することとする。
 『多摩』三刷・四刷の奥付との異同をもう少し拾って置くと、『多摩』では〔著 者 略 歴〕となっていたのが『続多摩』は〔著者略歴〕と詰まっており、米光氏の紹介の1行めの最後のピリオド「.」を『多摩』はぶら下げているのを『続多摩』は半角にして追い込んでいる。なお7月1日(1)にメモした滝沢氏と浅井氏の紹介文の『多摩』五刷に於ける変更は『続多摩』も同じにしている。
 もちろん、全て所持するか複写でも取って置けば良いのだけれども、当座入用なだけだから、やはり借りて済ませようと思ってしまうのである。(以下続稿)

米光秀雄・滝沢博・浅井徳正『多摩』(4)

 本書は2月に初めて見て、4月以来、取り敢えず私が借り出せる図書館の蔵書を全て並べて見て、取り上げようと準備をしていたのだが、しかし何のかのとしているうちに期限が来て返却してしまい、返却した後であそこはどうなっていたか、等と気になって来るような按配で、中々記事にすることが出来なかった。道了堂について昭和40年代の文献、すなわち道了堂が堂守老婆殺しから時を経ずして廃墟となったのは経年劣化ではなく意図的な破壊行為に基づくものであることを示唆する文献の一つとして、取り上げる踏ん切りが漸く付いたのである。しかしこの暑さと仕事の忙しさで昨日の記事の後半、『多摩』や『塩舟観音寺』、『多摩を掘る』の紹介文も抜いておきたかったのだが、5月中旬に取ったメモをそのまま使ってしまった。――今月から記事にし始めて以来、広告の紹介文の比較なども行っているから不統一である。今日は1時間早起きして降り出した雨の中、丁度1時間早い電車で出勤して、何だかぼんやりしている。気力が漲っておれば、翌日まで手を入れることにしていると表明している故、今からでも書き入れてしまうのだが、到底そんな元気もないので、昨日の不体裁は、当初はこのくらいのメモで済ませるつもりだったと云う記念(?)にそのままにして、『続多摩』初刷と重刷の奥付裏の目録について、それから『多摩』奥付との異同などを改めて見て置くこととする。
・郷土叢書2『続多摩』(3)
 初刷の時点では「郷土叢書」は2点だけ、近刊予告と合わせて3点だったので、奥付裏の広告ではそれぞれをたっぷりと紹介していた。太い横線(7.8cm)3本で上下に仕切って(6.0cmずつ)、但し下の横線は左がやや太く右に行くにつれて細くなっている。この3本めの横線の下、右寄せで「武蔵書房郷土叢書  」とある。
 上段「郷土叢書1/ 多 摩」と右上にあってこの標題の真下、下寄せで「七〇〇円 」とある。標題の下からこの定価の「七〇」の脇までの左に副題「――風土とその歴史――」、次いで下詰めで「米光秀雄・滝沢博・浅井徳正」とあり、次の行からやや行間が詰まった紹介文。

 『多摩』――実に快い響きをのこす言葉で/ある。かつて先人たちは清冽な多摩川を「玉/川」と美称し、多摩の山河をめぐる風土をこ/よなく愛した。今、ここに多摩に住む著者た/ちが、長年足でかせいだその成果をもって、/ほろび去らんとしている古い道・峠・古城址/などにスポットをあて、あざやかに再現し、/そこに残された民俗・歴史をさぐり、営々と/して多摩に生きる庶民の姿を描き出してい/る。
  B6判・本文三〇〇頁・カバー美装上製本
  定価七〇〇円・送料百円・好評発売中!


 前回見た、重刷のカバー裏表紙折返しにあった紹介文とは末尾が僅かに異なるのみである。
 下段の「郷土文化叢書1/ 塩舟観音寺」は標題の下、下詰めで「武蔵書房編」とある。

 関東の古刹、青梅市塩舟観音寺に蔵する重/要文化財の建造物、都重宝、市重宝指定の彫/刻を全集成。草創縁起から寺史、年中行事ま/でその全貌をさぐる。
  好評発売中 定価三〇〇円


 これは重刷のカバー裏表紙折返しにあった紹介文とは異なっている。私としてはこちらの紹介文の方が見たい気分にさせられる。次いで1行分空けて、「郷土叢書3/ 多摩を掘る」標題の下、下詰めで「七〇〇円」以上定価は副題・著者名よりも僅かに大きいようだ。次に下詰めで「塩野半十郎」、

 多摩に育った著者が、ふと拾った土器片に/より考古学の道に飛び込み、農業のかたわ/ら、独自の縄文文化の夢を追い、土器の復原/発掘にとその話題を追う。 (十一月予定)


 これは刊行後の広告が、7月1日付(1)に見たように『多摩』四刷のカバー裏表紙折返しにある。

 未見だが12月刊行で定価は750円、前回見たように『続多摩』重刷(恐らく初刷も同じ)のカバー裏表紙折返しには「多摩の発掘」とあったから、カバーを(重刷を見越して多めに)刷った後で「多摩を掘る」に改めたもののようである。
 重刷の奥付裏と『多摩』の奥付との比較は次回に回す。(以下続稿)

米光秀雄・滝沢博・浅井徳正『多摩』(3)

 昨日の続き。
・郷土叢書2『続多摩』(2)
 重刷のカバー裏表紙折返しは、『多摩』四刷と同じような既刊書の広告になっている。最上部の中央に「武蔵書房郷土叢書」とあって、「 多 摩(風土とその歴史)  〈米光秀雄滝沢 博浅井徳正〉」著者名はやや小さく3行。1行弱空けて、

 『多摩』――実に快い響きをのこす言/葉である。かつて先人たちは清冽な多摩/川を「玉川」と美称し,多摩の山河をめ/ぐる風土をこよなく愛した。今,ここに/多摩に住む著者たちが,長年足でかせい/だその成果をもって,ほろび去らんとし/ている古い道・峠・古城址などにスポッ/トをあて,あざやかに再現し,そこに残/された民俗・歴史をさぐり,営々として/多摩に生きる庶民の姿を描き出す。


 さらに1行弱空けて、「武蔵書房郷土文化叢書」とあって、「 塩 舟 観 音 寺     武蔵書房編」」1行弱空けて、

 青梅市塩舟にある当寺は,古来より信/仰のメッカとして知られ,国重要文化財/・都重宝などの指定を受けた堂宇・仏像/が安置され,「文化財の宝庫」として訪/れる人を驚嘆させている。

とある。その下、最下部に太線の囲み(2.5×5.5cm)があって3行「 武蔵書房近刊 郷土叢書3多摩の発掘   塩野半十郎」とある。
 重刷の本体表紙、角背、無地で横縞の透かし。文字は背表紙にのみ金文字でカバー背表紙と同じ、但し位置が若干異なり、標題はカバーより若干上、著者3名は3字分上、版元名はほぼ同じ位置。
 見返し(遊紙)、初刷は緑褐色であったが重刷は茶色。
 奥付、上部に〔著者略歴〕があって「米 光 秀 雄」と「滝 沢   博」は変更なしだが「浅 井 徳 正」は紹介文の3~4行め「‥‥. 青梅市立第七中学/校勤務.」とあったのがなくなって1行減っている。そしてその分〔著者略歴〕全体が拡大されている。他に異同は重刷の発行日の1行が追加されていること、「発行所」の「武 蔵 書 房」の前の、文字を小さくしない明朝体の角書が「図書/出版」だったのが「有限/会社」になっていること、電話と振替は組み直されて均等割付になっていること、電話には異同があって初刷「TEL 0425 (51)5542」重刷「TEL0425(54)5542」となっている。そして最下部の太線の下、初刷には左寄せで小さく「編集担当 米 光  忠」とあったのが重刷にはない。
 奥付の裏「武蔵書房郷土叢書」の広告で、初刷は上段に「郷土叢書1/多 摩」下段は「郷土文化叢書1/塩舟観音寺」と「郷土叢書3/多摩を掘る」で後者は紹介文の末尾に(十一月予定)とある。重刷も同じレイアウトだが上段は「郷土叢書3/多 摩 を 掘 る」と「郷土叢書4/多摩ふるさとの唄」、下段は「郷土叢書5/多 摩 石 仏 散 歩」で以上3点には紹介文がある。縦線で仕切って「郷土文化叢書1/塩 舟 観 音 寺」再度仕切って遺跡の調査報告書2点。(以下続稿)

米光秀雄・滝沢博・浅井徳正『多摩』(2)

・郷土叢書2『続多摩』武蔵書房・264頁・B6判上製本*1
・昭和45年9月15日  初刷・定価 700円
・昭和45年9月15日  初刷・昭和47年2月15日  重刷・定価 700円
 郷土叢書1『多摩』の内容を見ても良かったのだが、『多摩』四刷のカバー裏表紙折返しに見えていた『続多摩』の装幀について、昨日の続きとして見て置こう。
 カバーの掛かった初刷と重刷、カバーのない重刷を見た。
 私の見た初刷のカバー表紙折返しは写真部分まで、カバー裏表紙折返しは3字分残して切除されているが、残されている文字が私の見た重刷のカバーと一致するので、カバーは初刷・重刷で同じと判断される。異同としてはカバー表紙右上の、黒地に明朝体白抜き横組みで著者3人の名が並ぶところ、初刷は細いながらも明確であったのが重刷では横線や払いなどが微かなものとなっていること、それから写真の(色合いの違いは褪色の度合いの違いに拠るものなのかも知れないが)川岸の一部(0.9×3.2cm)が不自然に緑色になっているくらいである。
 カバー表紙は上部を黒く潰して(初刷 4.0cm・重刷 4.1cm)そこに赤で「続 多 摩」とあって『多摩』のように横長になっておらず、副題はなく右に同じ順で著者名が並ぶ。残りは全面、4人乗りの筏流しのカラー写真である。
 カバー背表紙はやはり白地で、副題がなくなった分だけやや下から「続 多  摩」これは『多摩』と同じ字体に見える。著者名は『多摩』の著者名の真ん中あたりから『多摩』と同じ字配りで、赤の明朝体で並ぶ。最下部に明朝体横並びで版元名。
 カバー裏表紙も白地で、右上に『多摩』よりも若干内側に「〈郷土叢書2〉」とあり、左下に「¥ 700」算用数字は『多摩』より太い。右下に「武蔵書房刊」これも『多摩』より1字分左に寄る。但し重刷では全体に若干右に寄っているように見える。
 カバー表紙折返しには『多摩』と同様に本文の一節が引用されているが、句点と中黒点の脱落だけであった『多摩』と異なり、書き換えがある。

  きのう山さげ今日青梅さげ 明日は/ 羽村の堰落し
 筏流し唄の一節である。
 私どもが子供の頃,多摩川の流れは実/に美麗であった。ほんの十七・八年前の/ことである。昔の人は多摩川の美しさを/賞するあまり玉川と美称した。夏になる/と淵の中にもぐると透明な青さの中に,/銀鱗をひるがえして遊泳する鮎・ハヤの/姿をいつでも見ることができた。水量も/豊富で滾々と流れていた。
 かつてここを筏が流れていた。実際に/は大正末期にその姿は消えていったが,/終戦後のほんのしばらくの間,鉄道貨車/やトラックの払底から,再び筏流しが行/なわれたことがあった。私が見たのはこ/の時の筏流しで,実際に乗せてもらった/こともある。
 もっとも去年(昭和44年)の春,昔/ながらの形で多摩川に筏流しが行なわれ/た。NHKテレビ「ふるさとの歌まつり/」のための演出で,昔いなせな筏乗りだ/った人たちが借り出された。おそらくこ/れが最後の筏流しの姿であろう。
          (多摩川」より)

とあって、その下1行分、濃い桃色の、字詰めと同じ長さの太線(6.0cm)があってその下、右側に「カバー写真/ 筏流し風景    (青梅市軍畑付近)」とある。
 「多摩川」は207~262頁、5節から成るがその2節め、212頁12行め~223頁10行め「筏  流  し」の冒頭、212頁13行め~213頁14行めまでがカバー表紙折返しに使われているのだが、全体に細かく改稿されていることが分かる。

  きのう山さげ 今日青梅さげ 明日は羽村の堰落し【212】
 筏流し唄の一節である。
 私どもが子供の頃、多摩川の流れは実に綺麗であった。ほんの十七、八年前のことである。そ/して、昔の人は多摩川の美しさを賞するあまり、玉川と美称した。川遊びの夏、深い淵の中にも/ぐっても透明な青さの中に、銀鱗をひるがえし游泳している鮎やハヤの姿をくっきりと見ること/ができた。水量ももっと豊富でたっぷりと。滾々と流れていた。かつては、ここを筏が流れてい/った。実際には大正末期に筏の姿は多摩川から消えてい/ったのであるが、終戦後のほんのしばらくの間鉄道貨車/やトラックの払底から、やむなく再び筏流しが行なわれ/たことがあった。私が見て知っているのは、この時の筏/流しであり、実際に乗せてもらったこともある。今にし/て思うと、貴重な体験であった。去年(昭和四十四年)の/春、もう一度、昔ながらの形で多摩川に筏流しが行なわ/れた。NHKテレビ「ふるさとの歌まつり」のための演出/であった。これでもう、おそらく筏流しは最後であろう。


 ここで1行分空けている。なお213頁6行めから字数が少なくなっているのは213頁左上に写真があるからで、下に「筏 流 し 風 景昭和44年NHKテレビ撮影のため浮かべられた」とのキャプションがあり、カバー表紙の写真と同じ4人乗りである。
 この章は滝沢博(1936生)の執筆で、昭和45年(1970)から17年前として昭和28年(1953)、滝沢氏はまだ高校生、この年に小河内ダムのコンクリートの打込みが開始されている。
 「ふるさとの歌まつり」はNHK総合で昭和41年(1966)4月7日から昭和49年(1974)3月28日まで毎週木曜20時から21時まで全354回にわたって放送された番組で、司会はNHKアナウンサーの宮田輝(1921.12.25~1990.7.15)。私はこの番組はもちろん宮田氏の記憶もない。
 筏流し唄が取り上げられたのはNHKアーカイブスNHK放送史「ふるさとの歌まつり」に拠ると昭和44年(1969)4月10日放送「ふるさとの歌まつり ~東京都青梅市青梅市立第一中学校体育館から中継~」で、番組内容は「筏流し唄(青梅市有志)/機織唄(青梅市有志)/青梅よささ節(青梅市有志)/高水山の獅子舞(青梅市有志)/青梅ばやし(青梅市有志)/御岳山の太々神楽青梅市有志)/八王子の車人形(八王子市有志)」、伴奏は小野満とスイング・ビーバーズ、他に出演は橋幸夫黛ジュン鶴岡雅義と東京ロマンチカ であった。
 この章にはこの番組に関する記述がもう少々あるのだが、それは別に取り上げることとして、カバー裏表紙折返しと奥付等については次回に回すこととする。(以下続稿)

*1:7月4日追記】当初「四六判」としていたが7月4日付(4)に引いた『続多摩』初刷の奥付裏広告により訂正。

米光秀雄・滝沢博・浅井徳正『多摩』(1)

・郷土叢書1『多摩』武蔵書房・300頁・B6判上製本*1
・昭和44年10月1日 初刷/昭和45年3月1日 三刷・定価 700円
・昭和44年10月1日 初刷/昭和46年2月1日 四刷・定価 700円
・昭和44年10月1日 初刷/昭和47年8月1日 五刷・定価 700円
 カバーの掛かった三刷と四刷、掛かっていない五刷を見た。
 なお、国立国会図書館では著者の1人を「米花秀雄」と誤っている。
 カバー表紙・背表紙・裏表紙は一致。但し私の見た三刷は背表紙の朱文字が完全に褪色している。
 カバー表紙は全面白黒写真で、下に川幅の広い渓谷、右岸は急斜面で左岸は20mほど登ったところに幅の広い2車線の道路が通じ、電柱や人家も見える。遠景の山の上の狭い空に横組みで「多 摩 風土とその歴史 米 光 秀 雄滝 沢   博浅 井 徳 正〉」やや横長の明朝体太字の標題、黒の明朝体の副題、そしてやや小さく赤の明朝体の著者名。
 カバー背表紙は白地で上部に縦長の明朝体太字で標題、その下に副題と著者名「 風土とその歴史  〈米 光 秀 雄/滝 沢   博/浅 井 徳 正〉」最下部に横並びで「武蔵書房」。
 カバー裏表紙も白地で右上隅に赤の明朝体横組みでやや大きく「〈郷土叢書1〉」右下に同じ大きさの黒の明朝体横組みで「武蔵書房刊」とあり、左下「¥ 700」とある。
 私の見た三刷はカバー折返しをブックコートフィルムに必要な分を残して切除しているため、表紙折返しは表紙写真が 1.2cm 入り込んでいることしか分からない。裏表紙折返しは上部に写真(縦4.0cm)があるが僅か(0.6cm)しか残っていない。塀の前に腰に手を当てて立つ(太腿辺りまで写る)、半袖ワイシャツの男性だと分かるくらいで、塀の後ろは真っ黒で上部に日を受けて光る葉が幾つか見えるのみ。その下に内容紹介があったらしいが最後の1行半しか残っていない。

 宿と街 多摩における近世の主要路に甲州街道‥青梅街道‥‥‥‥‥‥‥の街/道に沿い新宿より八王子宿、また青梅宿さらにその周辺の今昔を追憶批判する。


 1行めの下半分は推読。
 四刷のカバー表紙折返し、文字は全て横組みで最上部から中央やや下まで1行18字の明朝体で23行、24行めに右寄せでやや小さく「(「山と川」より) 」とある。1~22頁「山と川」の章の2節め、9~16頁3行め「 武州御岳山」6節のうちの3節め、11頁7行め~12頁12行め「御岳神社」3段落のうち最初の2段落、12頁7行めまでの引用で見出しの「御岳神社  」は省略されている*2。最下部中央に「カバー写真多摩川と御岳山展望   (青梅市二俣尾付近)」とある。
 四刷のカバー裏表紙折返しもやはり横組みで、最上部に「<武蔵書房郷土叢書>」とあって、1行分空けて中央揃えで「多摩を掘る 塩野半十郎――花と縄文を追って――」とあり、半行分空けて*3

 花づくり・土地改良・考古学など/多摩に生きる七十余年の年輪。「土/の巨人」の全貌を綴る感動の記録。/半世紀にわたる発掘歴を中心に、豊/かな生活体験とユニークな発想は,/真の縄文世界を復原する。
  定価 750円・好評発売中


 2行弱空けて「〈多 摩多 摩〉(〈風 土 と/その歴史〉)〈米光秀雄/滝沢 博/浅井徳正〉」とあって半行分空けて、

 「多摩」――実に快い響きをのこ/す言葉である。かつて先人たちは清/冽な多摩川を「玉川」と美称し,多/摩の山河をめぐる風土をこよなく愛/した。今,ここに多摩に住む著者た/ちが長年足でかせいだその成果を,/前編に古道・古城址 峠・宿と街な/ど,続編に古戦場・伝説・古美術・/多摩川を収録し,新しい史観により/多摩を「再見」する。
  定価 各700円・好評発売中

とあり、最下部に四隅の繋がっていない枠(3.3×4.5cm)に「<郷土叢書近刊>多摩・ふるさとの唄多摩の人物列伝  /多摩の石仏散歩  」とある。
 五刷の本体表紙、角背、無地で横縞の透かし。文字は背表紙にのみ金文字でカバー背表紙とほぼ同じ位置に入っている。
 見返し(遊紙)の用紙は三刷はやや緑がかった茶色、四刷は茶色、五刷は横縞の透かしの入った青。
 扉の標題、三刷は太く、四刷は細い。四刷は上に寄っているが五刷は中央。扉の用紙、四刷は灰色、五刷は横縞の透かしの入った明るい灰色。
 目次、四刷は上に寄っているが三刷は中央。五刷も四刷ほど上ではない。
 奥付、上部に〔著者略歴〕があって「米 光 秀 雄」は変更なし、「滝 沢   博」は三刷と四刷は同じだが五刷で紹介文の冒頭、何故か滝沢氏のみ1字下げにしていなかったのを下げている。その分、2行めが1字増えているがもともと字数が少なく均等割付で誤魔化していたので影響は3行めには及んでいない。「浅 井 徳 正」は紹介文の3~4行め「‥‥. 青梅市立第七中学/校勤務.」とあったのが五刷ではなくなって1行減っている。
 それぞれの発行日以外の異同は住所の2行めが三刷「神明台3の30の3」だったのが四刷・五刷「五の神20」となっていることで、最下部の太線の下に左寄せで小さく「編集担当 米 光  忠」とあったのが五刷にはない。なお住所の1行めは「東京都西多摩郡羽村町」で現在の羽村市
 奥付の裏は白紙。(以下続稿)

*1:7月4日追記】当初「四六判」としていたが7月4日付(4)に引いた『続多摩』初刷の奥付裏広告により訂正。

*2:他に異同は1行め「大岳山 奥の院」の間が空白になっているが11頁7行めは「・」であること、7行め「‥‥とともに広く‥‥」は11頁12行め「‥‥とともに、広く‥‥」と読点があること。

*3:7月4日追記】「発掘歴」を「発掘暦」と誤入力していたのを訂正。なお、7月4日付(4)に郷土叢書2『続多摩』の奥付裏にある刊行前の広告を抜いて置いた。

道了堂(90)

 私は主に図書館で情報蒐集している。古書店から購入することもあるが、図書館にないから仕方なく買うので、そもそもが当ブログの行き方からしても、同じことをずっと続けるような根気はないのである。気が向いたらしばらく続けて、行き詰まったり他の課題について資料が集まって来たらそちらに移るまでである。だから、当ブログに取り上げた資料は殆ど所蔵していない。コピーも嵩張るし整理するのも面倒なので取らないことにしている。――博士論文を書いていた頃に複写で集めた資料をファイルにして何十冊もあるがその後見直すこともない。図書館に行けば見られるのであれば、複写を取るにも及ばないと思ったのである。
 最近は、居住地から近くもないのだけれども、同じ都下の歴史を調べているから郷土資料を手にする機会が多いが、郷土資料は大量に出回っているものと稀覯書のどちらかで、前者は都下の市立図書館の大抵の館にあるからわざわざ買わなくても良いと思うし、後者は殆ど出回らないから初めから探そうと思わない。いや、大した記述はなくても数だけは多いから、図書館に収まっているものだってまだまだ見尽していないのである。OPAC で検索して書庫から出してもらうことも多いが、郷土資料の書棚で何となく手にして、と云ったことも少なくない。今は時節柄余り図書館で時間も取れないので、本当に何となく「八王子市」の棚の前で背表紙の標題を頼りに、取っ替え引っ替え手にしているのである。
 だから間違いも起こるので、3月22日付(16)八王子の今昔刊行会 企画・編集『市民の写真集 続 八王子の今昔 ――いま見つめたい昭和の八王子――』を取り上げたとき、「続」でない『八王子の今昔』には「道了堂の写真が載っていない」と書いてしまったのだが、先日別の図書館で『八王子の今昔』正続2冊が並んでいるのを見て、何となく「続」でない方を手にしたところ、「道了堂」の写真が載っていることに気付いたのである。――何故2月に『八王子の今昔』を見たときに見つけられなかったものだか、よく分からない。――よく、さっきまでそこにあったものがなくなったとか、そこにいた人がちょっと眼を離した隙にいなくなったとか、そんなことを怪談めかして語る人がいるけれども、いづれそんな不注意の類いだろうと思っている。私たちは物を見るときに遺漏なく確認する訳ではない。だから1度見たものでも改めて確認する必要がある。2度見ても、やはり「ない」かも知れない。しかし今度は前回見えていなかったものが見える――全く違った発見をするかも知れないのである。
『市民の写真集 八王子の今昔』刊行会 企画・編集『市民の写真集 八王子の今昔 ――昭和の八王子を振り返る――』2008年11月17日 印刷・2008年11月23日 発行・定価1500円・揺籃社・127頁・A4判並製本
 カバーに続いてベージュ色の見返し(遊紙)、カバー表紙と同じ写真と文字を使った扉から裏表紙見返し(遊紙)までの間、全てアート紙で、この扉と次の見開き「八王子の今昔/写真掲載エリアマップ」、そして「凡例」の4頁(頁付なし)のみカラー印刷である。
 1~2頁、「八王子市総合政策部市史編さん室 室長」の佐藤広「写真と八王子/――『市民の写真集 八王子の今昔』の出版に際して――」は、写真と八王子市についての概説。3頁(頁付なし)「も く じ」、4頁(頁付なし)は左下に楷書体横組みでごく小さくソフォクレスの言葉をエピグラフとして載せている。
 5頁(頁付なし)「第1帳/中 心 市 街 地」の扉。アルバムの表紙のようなデザインで下部に地図に撮影地を白抜き黒丸数字で示す。6~36頁に31枚を「平成20年(2008)」の写真を添えて紹介する。
 37頁(頁付なし)「第2帳/大和田・小宮方面」の扉。38~52頁に㉜から㊻まで15枚を紹介。
 53頁(頁付なし)「第3帳/加住・川口・恩方・元八方面」の扉。54~72頁に㊼から(65)まで19枚を紹介。
 73頁(頁付なし)「第4帳/西八・浅川方面」の扉。74~100頁に(66)から(92)まで27枚を紹介。
 101頁(頁付なし)「第5帳/由井・由木方面」の扉。102~123頁に(93)から(114)まで22枚を紹介。
 124~125頁「昭和の八王子年表・撮影年順写真索引」は「和暦|西暦|八王子の出来事|社会の主な出来事|写真ナンバーとタイトル」を示した年表。
 126~127頁11行め「あとがき」は「平成20年11月」付で「八王子市職員等事業本部 本部長 藤 岡 一 昭」の執筆だが下に「(八王子市職員組合執行委員長)」と添える。7行分くらい空けて「本書刊行にあたりご協力いただいた方々(敬称略・50音順)」として1行6人で8行、すなわち48人。全て確認した訳ではないが写真提供者であろう。次いで1行分空けて「参 考 文 献」として『八王子事典 改訂版』等5点5冊、1行空けて「「市民の写真集 八王子の今昔」刊行会」として「・八王子市職員等事業本部」と「・揺  籃  社」の住所、電話番号とHPアドレス。その裏が奥付。
 119頁「(110) 道了堂」は同じ見出しの右端に「鑓水 昭和54年(1979年)3月」とあってこれが「凡例」に従えば「撮影年」のはずなのだが、3月にしては広葉樹が茂り過ぎているように思う。しかし、これまで3月25日付(19)等で見て来た昭和51年(1976)の『多摩の百年』の写真等に比べると昭和54年(1979)と云う年自体はおかしくないようだ。すなわち、これらの写真では真っ直ぐに立っていた右側の向拝柱が僅かながら右に傾いているらしく、これが昭和57年(1982)までに6月12日付(73)に見たカラーブックス564『武蔵野歴史散策』掲載の写真のように、この右側の向拝柱が折れるか倒れるかして、向拝の屋根の右側が崩壊すると云う事態へと繋がって行ったのだ、と推測出来そうだ。
 写真の下右に「撮影・不明(提供・田原 勘意)」とある。田原氏は3月2日付「八王子事典の会 編『八王子事典』(15)」に見たように、昭和53年(1978)2月にかたくら書店を開業しており昭和54年(1979)から出版も始めている。撮影者不明のこの写真は出版事業に関連して田原氏の許に届けられたものであったか。写真の下、3行分くらい空けて左側に明朝体7行のコメント、「凡例」によると「写真の持ち主より寄せられたコメント/をもとに作成、‥‥」とのことである。1行め「ありし日の道了堂の姿、大塚山に立ち、‥‥/」に始まり、6~7行め「‥‥。現在は建物はなく、碑が建/てられている。」として、右下に「平成20年(2008)」の写真、竹囲いはなく「道了堂跡」碑が見える。

全国歴史散歩シリーズ13『東京都の歴史散歩』(8)

①文庫版(2)
 文庫版の1版1刷の上下揃いを借りることが出来たので、4月29日付(1)に取り上げた『上』1版10刷と『下』1版7刷と比較して見た。
・全国歴史散歩シリーズ 13上『東京都の歴史散歩 (上) 』1977年6月25日 1版1刷印刷・1977年7月15日 1版1刷発行・550円・口絵+xvi+285+13頁
・全国歴史散歩シリーズ 13下『東京都の歴史散歩 (下) 』1977年6月25日 1版1刷印刷・1977年7月15日 1版1刷発行・550円・口絵+xiv+248+26+5頁
 カバー表紙・カバー背表紙は一致。カバー裏表紙は右下隅に右詰で『上』1版1刷「550円0120-0313-8515」『下』1版1刷「550円0120-0314-8515」とあったのが『上』1版10刷と『下』1版7刷はともに1行めが「 定価 600円」となっている。
 カバー表紙折返しの上部の囲み「表紙写真説明」は一致、下部は4月29日付(1)に見たように『上』1版10刷と『下』1版7刷は図説 歴史散歩事典』の広告だが、1版1刷は1行めにやや大きく「■既刊」とあって、続く10行は細い丸ゴシック体4段組で1段め「②青 森 県/③岩 手 県/④宮 城 県/⑤秋 田 県/⑦福 島 県/⑧茨 城 県/⑨栃 木 県/⑩群 馬 県/⑪埼 玉 県/⑫千 葉 県」2段め「⑬東京都上・下/⑭神奈川県/⑮新 潟 県/⑯富 山 県/⑰石 川 県/⑲山 梨 県/⑳長 野 県/㉑岐 阜 県/㉓愛 知 県/㉔三 重 県」3段め「㉕滋 賀 県/㉖京都府上・下 県/㉗大阪府上・下/㉘兵庫県上・下/㉙奈良県上・下/㉛鳥 取 県/㉜島 根 県/㉝岡 山 県/㉔広 島 県/㉟山 口 県」4段め「㊱徳 島 県/㊲香 川 県/㊳愛 媛 県/㊴高 知 県/㊶佐 賀 県/㊷長 崎 県/㊸熊 本 県/㊹大 分 県/㊺宮 崎 県/㊼沖 繩 県」とあり、12行めは少し大きく「〈第41回〉7月下旬発売」とあり13行めは他の都府県と同じ字体で「⑱福井県の歴史散歩」とある。
 カバー裏表紙折返しは私の見た1版1刷では切除されているが、『上』の表紙見返しの遊紙に『東京都の歴史』の広告が貼付されていて、1版10刷のカバー裏表紙折返しにあるものとほぼ一致する。異同は下段の最後の行、細い丸ゴシック体で「  44/11/5 「週刊とちょう」より」と年月日が入っていること。
 表紙見返しは白紙だが、裏表紙見返しにはある青と赤の2色刷の「東 京 都 全 図」は1版1刷
以来変更していないようだ。私の見た1版1刷はカバー裏表紙折返しを切除しているので、先に見た『上』1版10刷と『下』1版7刷では隠れていた、西多摩郡の大部分と下部に別枠で「伊 豆 諸 島」「小 笠 原 諸 島」の図があることが分かった。
 各4頁のカラー口絵、扉、目次は変わりないようだ。開発や火災等によって失われた文化財・史跡について、本文に手が入っている可能性が高いと思うが、俄に思い付かないので実例を挙げることは出来ない。
 と思っていたのだが、『上』の左開き「索  引」13頁を眺めていて、改稿された場所を1つ見つけることが出来た。すなわち、12頁まで変わりないようだが13頁が1版1刷では左31行、右31行だったのが1版10刷では右が30行になっていて、1版1刷では9~16行めにあった「― レ ―」の14行めにあった1項目「霊南坂教会…………………… 152」が削られて15行めまでになっているのである。そこで本文を見るに、151頁13行め~152頁12行め「乃 木 神 社*1」は152頁2行めまでは乃木神社の説明で、3行め以降の段落は「報土寺*2」と「氷川神社」について述べるが、その最後、10~12行めが1版1刷では、

‥‥。この一帯はまた、浅野長/矩未亡人瑤泉院の実家であった(都旧跡)。すぐ近くに尖塔がめだつ霊南坂教会(日本基督教団)が/ある。一九一六(大正五)年辰野金吾の設計で建てられたゴシック様式である。*3

となっていたが1版10刷では、

‥‥。この一帯はまた、浅野長/矩未亡人瑤泉院の実家三好浅野家屋敷跡(都旧跡)で、大石良雄が打ち入りの前日にたずねた〝南部/坂雪の別れ〟の舞台は、氷川神社の近く、赤坂二丁目の坂だ。*4

となっているのである。この項は「乃木神社」など史跡3箇所がゴシック体となっているが「霊南坂教会」は明朝体であった。霊南坂教会は昭和58年(1983)11月着工のアークヒルズの再開発に伴って取り壊されることになっていたので、上記の書き換えはまさにその11月刊行の1版10刷から行われたのではないかと思われる*5。索引から削るのも残り17行をズラすだけだから容易であった。そして、講談や浪花節に由来し、映画や当時はまだ度々TVドラマ化もされていて、誰もが知っていた「忠臣蔵」の名場面「南部坂雪の別れ」で補塡したわけだ。今や「忠臣蔵」もとんとやらなくなってしまったが、まぁ今の人になぞやらせない方が良かろう。昔のを見れば良いのだし。なお「目次」ⅸ頁7~8行めでは「索  引/散歩コース」の順になっているが、「■歴史散歩コース」は本文と同じ縦組みである。頁付はないが281~285頁として勘定して置いた。
 続いて『下』の「付録」、そして奥付や目録類に及ぶつもりであったが一旦ここで切り上げることとする。(以下続稿)

*1:ルビ「の  ぎ 」。

*2:ルビ「ほうど じ 」。

*3:ルビ「なが/のり・ようぜん・せんとう/」。

*4:ルビ「なが/のり・ようぜん・ み よし/」。

*5:取り壊されたのは昭和59年(1984)2月らしい。例えばオークションサイトに挙がっていた「アサヒグラフ1984年3月2日号「大正の名建築・霊南坂教会が消えた」。文献で確認し次第追記する。

道了堂(89)石造物④

・道了堂の石造物(4)
 昨日の続きで、やはり道了堂旧境内にあったものについての記述を抜いて置こう。
 11頁13行め~12頁7行め、

 昭和五十年一月に来て記録したときには完全な姿で建っていた、線/【11】刻観音像(明治二十年に大塚五郎吉らが寄進したもの)は、裏がえし/にたおされていて、今回観音であったか確認できなかった。これは、/高さ一四四・五センチ、幅五九・〇センチ、像高は四九・〇センチで/あった。
 高さ五一・〇センチ、幅三八・〇センチの「金神」は、「明治十七/年十二月」に建てられている。境内で最も新しい石造物は手水鉢であ/る。それには、「昭和十九年七月 安西喜三郎」とある。


 この昭和50年(1975)1月の記録を見たいものである。この線刻観音像については42頁〔58頁〕上段5~7行めに、

‥‥。右手に立つ線刻の観音像は明治二十年(一八八七)に大塚五郎/吉などが寄進したものだが、すでに碑面の剥離がすすんで図像はほとんど判ら/ない。‥‥

と記載されている。には142頁13行め~143頁7行め、

 こんどは本堂跡にむかって右手を見ましょう。線画で観音像を描いた石碑が立っ/【142】ています。一八八七年(明治二〇年)に、鑓水の生糸商人である大塚五郎吉など三/〇人ほどの人々が寄進したものです。まん中でふたつに折れていたのですが、公園/の開園に合わせて修復・再建されました。下の部分は傷みが激しく、表面がはが/れ、像の形がほとんど分からなくなってしまっているとはいえ、鑓水商人の活躍の/跡を伝えるたいせつな遺品です。さきほどの地蔵尊や石灯籠と同じく、相州煤ヶ谷/の同じ石工の名が読みとれます。このほか、年代の分からない石のお地蔵さまや、/昭和の年号のある手洗鉢なども残されています。

とあって、これらは前回見た石灯籠等とは反対側に並んでいることが分かる。「金神」碑は「武藏國南多摩郡由木村鑓水大塚山道了堂境内之圖」にも載っていて、現存しているようだがが取り上げていないのは場所が離れているからだろうか。従ってにも写真が上がっていない。それからでは石地蔵(立像)と手水鉢の写真に線刻観音像の解説を添えていて、齟齬を来している。
 以上、主としてにより、大塚山公園整備直前の昭和61年(1986)と、開園から10年を経た平成12年(2000)で、石造物はそのまま保存され、破損したものは修復が行われるなどされていたことが分かる。但し11年後の東日本大震災で延命児育地蔵や石灯籠が一部倒壊したらしく、現状はまた若干異なっているらしい。(以下続稿)

道了堂(88)石造物③

・道了堂の石造物(3)
 昨日の続きで、石段を登り切った平地に遺されている石造物について。ここではが3つ纏めて取り上げているので、から見て置こう。141頁11行め~142頁12行め、

 石段をあがって、もとの境内だった平地に出ると、本堂跡にむかって左手に「永/代御祈祷料*1」と刻まれた碑、延命児育*2地蔵、石灯籠*3二基が並んで立っています。永/代御祈祷料に碑には、表に「永代御祈祷料 金六拾五円 北多摩郡中神村講中」と/【141】あり、裏には、「明治二二年(一八八九年)再建」とあります。中神村は、いまは/昭島市になっています。
 延命児育地蔵は、長生きの願いをかなえ、子供の健やかな成長を見守ってくれる/お地蔵さまで、一八八一年(明治一四年)に造られました。造った人々の名には、/浅井貞心・渡辺大淳の二人のほか、東京の呉服町・花川戸、それに多摩の八王子・/中神・五日市の人々が名を連ねています。中神は、さきほどの村、五日市は、いま/は、あきる野市になっています。浅井貞心という人は、渡辺大淳とともに、道了堂/の創建にたずさわった人です。石灯籠は、これも浅井貞心・渡辺大淳によって、一/八九〇年(明治二三年)に建てられました。打コシの人の名なども見られます。打/コシは、打越という地名で、片倉のとなりにある町です。
 この地蔵尊と石灯籠を造ったのは、相州煤ヶ谷*4(いまの神奈川県愛甲郡清川村)/の細野弥市という石工*5だったことも刻まれています。


 は10頁7行め~11頁6行め、

 石段をのぼりきると左手に、基礎もふくめて約一メートル、幅五九・/〇センチの碑が建っているが、これは二つに折れてしまっている。上/部が落葉にうもれかけている。何とか欠けたのを合わせて読んでみる/と、正面に「永代御祈禱料 金六拾五圓 北多摩郡中神村講中」、裏/面に「明治廿二丑年六月再建」とあった。
 ぐっと見上げるような石灯籠は明治廿三年八月のもので、一対ある。/寄進者の中には「打コシ 福田栄造 打コシ 青木新左エ門」などと/【10】もある。この灯籠と亀趺の延命児育地蔵(明治十四年)をつくった石/工は、相州煤ヶ谷(神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷)の細野というもの/である。厚木市七沢の山中から産出する七沢石を用いる石工たちが、/昭和十四年ころには七沢・煤ヶ谷・伊勢原市には五二名もいた。その/なかに、細野長平という者もいるので、堂了堂の石造物をつくった方/の子孫であろう。

とある。10頁上欄に「道了堂の石灯籠」と題する写真があるが、参道の左右に対置されるのが普通なのに何故か石垣の上に並んでいる。その石垣に石地蔵の立像が凭せ掛けてあるのだが、佐藤氏はこれには触れていない。実はこの石垣上の石灯籠と、石垣に立て掛けられた石地蔵の立像の写真は複数あるので、別に検討しようと思っている。
 北多摩郡中神村は現在の昭島市、集落のあった辺りは現在の中神町に当たる。この碑については、3月25日付(19)に指田徳司撮影の写真について検討した。指田氏は、昭和45年(1970)頃の撮影らしい白黒写真に上半分が欠失したもの、そして平成22年(2010)に修復されたものをカラーで撮影している。
 延命児育地蔵(座像の石地蔵)も指田氏が白黒とカラーでそれぞれ同じ時に撮影している。白黒の方では稲川淳二が語っているのと同じ状態で自分の首を子供とともに自分の胸に抱いていたが、その後修復された。しかし、「リアルライブ」の山口敏太郎事務所(に拠るらしい記事)2012年01月21日「因縁の地の生首地蔵「道了堂」」に拠ると、東日本大震災の折に倒壊してしまい、1年以上そのままになっていたようだ。その後修復はなされたものの「延命児育地蔵」の銘のある石柱の上に地蔵本体を載せないまま、石柱の脇に亀趺と蓮台に載せた形で置かれているようだ。
 なお、が特に「打コシ」に注目しているのは打越歴史研究会に依頼されての執筆だからで、73頁に弘化二年(1845)の打越弁財天奥宮の石祠に「中谷(戸)」の「青木新左衛門、他一名」の名が刻まれている、とある。道了堂の石灯籠の青木新左衛門と同一人物か、それとも親子であろうか。
 には42頁〔58頁〕上段3~5行め、

‥‥。本堂跡に向って左手の延命児/育地蔵は明治十四年(一八八一)、石燈籠二基は明治二十三年(一八九〇)に/造られている。‥‥

とあり、には57頁〔73頁〕下段20行め「| ③|奉献燈」20~21行め、3段めは前回見た②に同じ、4段め「志願主は浅井貞心、渡辺大淳。明治廿/三年建立。」22行め「| ④|延命地蔵尊」3段めは②③に同じ、4段め22~24行め「志願主は浅井貞心、渡辺大淳。明治十/四年造立。発起人に東京呉服町、花川/戸、八王子、中神、五日市の人がいる。」とあり、③に取り上げられている道了堂跡の石造物は、これで全てである。(以下続稿)

*1:ルビ「えい/たいごきとうりょう」。

*2:ルビ「えんめいこそだて。」

*3:ルビ「いしとうろう」。

*4:ルビ「す す が や」。

*5:ルビ「い し く」。

道了堂(87)石造物②

・道了堂の石造物(2)
 昨日の続き。参照した文献①②③④とブログについては昨日の記事に紹介して置いた。
 8~9頁11行めは「絹の道」碑について、銘文や橋本義夫など地域史研究の先人について述べている。6月23日付(84)に述べたように、別の節に紹介済みであるので41頁〔57頁〕16~17行めに触れるのみである。は9頁左上に写真を掲載、9頁2~4行め、12頁1~2行めに触れ、135頁8行め~136頁8行めに銘文や建立した橋本義夫について述べている。
 それでは石段の途中から見て行こう。9頁12行め~10頁2行め、

 さて、石段を九段のぼると左右に高さ一二〇センチくらいの灯籠の/竿の部分のようなものがたおれている。右のものには「寄進 野津田/【9】村 萩生田豊次郎」「明治十五壬午年九月一日」とあり、左のものに/は敷石を寄進した人々の名が刻まれている。‥‥


 これと同じものは、まづ141頁3~6行めに右側のものが、

 公園には、鑓水商人だけでなく、八王子とその周辺の生糸商人たちが立てた石造/物がいくつか遺されています。順に見てゆきましょう。登り口の石段の下の右手に/立っている旗立台のような石の柱は、一八八二年(明治一五年)に野津田村の人が/立てたものです。野津田村は、いまは町田市になっています。‥‥

と記述されている。野津田村は当時神奈川県南多摩郡で現在は町田市野津田町
 左側のものは141頁9~10行め、築礎碑の紹介を挟んで、

‥‥。その手前の、同じ年に立てられた石碑には、石段の敷石を寄進した人々の名が三〇人ほど刻まれています。

とある。築礎碑と「同じ年」と云うことであろう。なお、石段については「7 諏訪神社〔2〕石灯籠と社殿を見る」の199頁2行め、現在子ノ神谷戸にある鑓水「諏訪神社は、もとは日影谷戸にありました。」として、6行め「棟札*1」から由緒が分かることを紹介し、8~10行め、

‥‥。/一八七六年(明治九年)に、いまの地に移されました。なお、それまでの石段が、/大塚山公園の道了堂参道に移されて、いまも残されているということですから、わ/たしたちは、すでにその石段を登ってきたわけです。

とする。なお鑓水諏訪神社の「いまの地」に元からあったのが、現在は合祀されている11行め「子の神神社」で、だからこそ字「子ノ神谷戸」なのである。
 それはともかく、に戻って10頁2~6行め、

‥‥。さらに石段をのぼると、/右手に谷合弥七らの八王子駅糸商が明治十三年に建てた高さ一八五・/〇センチ、幅一四〇・〇センチほどの「築礎碑」がある。この碑には、/明治七年に東京花川戸から道了尊を祀った経緯が書かれており、境内/では最も貴重な碑である。

とある築礎碑については、42頁〔58頁〕上段1~3行めにも「‥‥。石/段の下方右手に建つ築礎碑は明治十三年(一八八〇)に「八王子驛糸商」が建/てたもので、道了堂を祀った経緯を記している。‥‥」とあり、では57頁〔73頁〕下段13行め、1~3段めに「|38①|道了堂跡     |鑓水四一一   |」とあって1段めは「No.」で「38」が「沿道地図中に記入」されている、道了堂に与えられた番号、2段めは「名称」、3段め「所在地」で、4段め「備考」は1行17字で、16行めまで「明治六年、渡辺大淳と生糸商人等、東/京花川戸から堂宇を移し、永泉寺別院/とする。昭和三十八年廃寺。平成二年/大塚山公園となる。」とある*2のに続いて、17行め「 ②|築礎碑      |  同     |」18行めの3段めに下詰めで「道了堂跡」とあり、4段めには17~19行め「道了堂移築の経緯を記す。明治十三年、/谷合弥七など八王子駅糸商が建立。多/数の名前を記す。」とある。
 141頁6~9行め、

‥‥。石段の途中の左にあ/る築礎碑は、一八八〇年(明治一三年)に「八王子駅糸商」が立てたものです。こ/れまで述べてきたような、道了堂が建てられるまでの成りゆきが記されていて、大/切な碑です。‥‥


「これまで」と云うのは「絹の道」碑の紹介に続いて、4月26日付(45)にその前半を引いた、道了堂の歴史が述べてあったからである。
 築礎碑の銘文については、鮮明な写真をブログに上げている人がいるので、それを参考にして当ブログに翻刻紹介するつもりである。(以下続稿)

*1:ルビ「むなふだ」。

*2:6月23日付(84)に見たように「三 道筋の確定と現状」では廃寺になった経緯はもちろん、時期も暈かしていたので、昭和38年(1963)廃寺、と云うのはここにしか記載されていない。

道了堂(86)石造物①

・道了堂の石造物(1)
 私は中学生時代、横浜市南部から鎌倉市・逗子市・葉山町横須賀市西部、藤沢市東部と云った辺りを自転車で走り回って、庚申塔の調査をしていた。何でそんなことをしたものだか、今となっては自分でもよく分からないのだけれども、数百基の庚申塔の銘文を読み、写真を撮った。それで江戸時代の年号と干支はほぼ全て頭の中に叩き込んでしまった。尤もこの辺りで庚申塔の造立が盛んになるのは寛文・延宝以後なので、それ以前は少々あやふやだったのだが、その後、大学・大学院で江戸時代の前期を専攻したので天正から後は完璧に身に付いた。
 それはともかく、インターネット情報はもちろん書籍でも、道了堂にある石造物の銘文をきちんと読んだものが殆どないことが何とも歯痒く、それこそ中学生の私を派遣して読み取らせたい気分なのだが、いづれオッサンの私が果たすことにして、今は公立図書館で帯出可能な書籍より得られる情報を整理して置こう。
①かたくら書店新書20『絹の道』7~14頁、佐藤広「一、絹の道とは何か――道了堂を歩いて――
②歴史の道調査報告書 第四集『浜街道三 道筋の確定と現状「㈤ 鑓水峠から浜見場へ(約二・六キロメートル)」42頁〔58頁〕上段1~7行め
③歴史の道調査報告書 第四集『浜街道四 沿道の史跡・文化財等「㈠ 八王子市域の史跡・文化財等」57頁〔73頁〕下段13~24行め
④かたくら書店新書45『浜街道「第2部 歩いてみよう「絹の道」」134頁4行め~146頁9行め「3 大塚山公園――道了堂のあと」
 いづれも先月来、取り上げて検討して来たものばかりであるが、①かたくら書店新書20『絹の道』は打越歴史研究会編で昭和61年(1986)9月刊、この章については6月8日付(69)に検討したように題と内容が齟齬しており、内容からすると副題のみで良い。②③歴史の道調査報告書 第四集『浜街道は東京都教育委員会の報告書で平成8年(1996)3月刊、は主任調査員の馬場喜信の執筆と推定され、6月21日付(82)に見たように調査員の新堀八重の調査・執筆である。④かたくら書店新書45『浜街道は馬場喜信著、平成13年(2001)3月刊で歴史の道調査報告書 第四集『浜街道での成果をジュニア向けに、ある部分はごく簡略に、ある部分は詳しく書き改めたもの。
 これらを、4月27日付(46)及び6月9日付(70)に予告したように、彼此比較対象させながら道了堂にあった石造物を見て行きたいのだが、書籍だけでは手許にの何も備えていない人には伝わりづらかろうから、④かたくら書店新書45『浜街道を参考に、道了堂旧境内の石造物を1つ1つ写真に収めている平山貞一(1948生)のブログ「TEIONE BLOG」の2016-10-11「浜街道(1)八王子~矢部02 鑓水峠」をとして、これに加えて置こう。これ以外にも道了堂跡を訪ねた様子を紹介したブログ等は多々あり、心霊スポットとして訪れた動画等を加えるとそれこそ際限がない(現在も新たに投稿され続けている)有様で、その中には平山氏よりも鮮明な写真を掲載したものもあるのだけれども、差当り石造物を網羅しようとしたものとして推奨して置く。もちろんネット情報を隈なく漁った訳ではないので、もっと良い、素晴らしいサイトがあるかも知れない。(以下続稿)

道了堂(85)

・歴史の道調査報告書 第四集『浜街道』(5)
 昨日の続き。
 「三 道筋の確定と現状」の「㈤ 鑓水峠から浜見場へ(約二・六キロメートル)」は続いて41頁〔57頁〕下段14~26行め、『武蔵野歴史地理』に見える「十二州の見晴らし」について、『皇国地誌』や「前記の銅版画」そして「山岳展望家の意見」により「あながち大げさな表現とばかりは言い切れない。」と結論する。
 そして42頁〔58頁〕上段1~7行め、まづ「 大塚山公園には、かつての生糸商人たちの遺した石造物がいくつかある。‥/‥」として、「/‥‥。いずれにせよここは、浜街道の歴史を濃密に記憶する場所の一つである。」と纏めている、その間に4点石造物について記述している。この段は左側13行分を写真に使っているが、上「道了堂の礎石」下「八王子市史跡「絹の道」の谷戸風景」で、これらの石造物の写真はない。なお礎石はまだ竹柵に囲われておらず、手前に「道了堂跡」と表示する碑が写っている。
 石造物については「四 沿道の史跡・文化財等」の「㈠ 八王子市域の史跡・文化財等」、かたくら書店新書20『絹の道』そしてかたくら書店新書45『浜街道と対象させつつ確認して置こうと思っている。
 さて、この節では続いて、大塚山公園から市史跡「絹の道」を下り、絹の道資料館・御殿橋・永泉寺・小泉家屋敷等を取り上げていくのだけれども、ここでは御殿橋の記述のみを抜いて置こう。43頁〔59頁〕下段2~5行め、

 御殿橋も大栗川の改修にともなって改架された新橋だ。この橋で注目したい/のは、欄干にはめこまれた一枚の銅版画の複製である。これが、先に道了堂に/ついて見たさいに参照した、あの銅版画である。往時の大塚山道了堂の賑わい/とともに、浜街道筋の盛況のさまも浮かんでくるのではないだろうか。‥‥

とあり、44頁〔60頁〕上段の右13行分を取って、上「御 殿 橋」下「大塚山公園道了堂境内之図(御殿橋のレリーフ)」の写真を掲載する。題の文字も殆ど読めないような小さい写真だが、かろうじて雰囲気は伝わる。
 このレリーフについて、馬場氏は法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」にて、4月15日付(34)に見たように「この図は、大塚山公園にこそ設置しておいてほしいものだ。」と意見していたが、現在は大塚山公園の入口、「絹の道」碑の脇に設置された説明板に写真が掲載されている。かたくら書店新書45『浜街道 「絹の道」のはなしでも「第2部 歩いてみよう「絹の道」」の「8 鑓水の道標を見て永泉寺へ」にて御殿橋を渡るところで、203頁1~4行め、

‥‥。御殿橋は、川の改修工事にともなって新しくなり、/欄干には、さきに大塚山公園を訪ねたときに参考にした石版画「大塚山道了堂境内/之図」が拡大されて、再現されています。写真に撮っておくと、あとで参考になる/でしょう。

と「石版画」と訂正して、取り上げられていた。「参考にした」場面は4月26日付(45)に引用した。この「武藏國南多摩郡由木村鑓水大塚山道了堂境内之圖*1」は、よく言及されており、そんなに多くはないが書籍にも掲載されている。しかしながら、かたくら書店新書45『浜街道138~139頁掲載の写真は他の書籍に載るものよりも大きいくらいだが、それでも(転載と云うこともあって)題以外の文字は殆ど読めない。すなわち、細部まで確認出来るようなものは1つも出回っていない。御殿橋のレリーフの写真を撮って拡大すれば漸く読み得るものとなりそうな按配である。だから、本書刊行時に「史料編」の「Ⅲ 絵図の部」に出来れば折込みで、そうでなくてもA4判だからB5判くらいの大きさに刷れたはずなので、この「武藏國南多摩郡由木村大塚山道了堂境内之圖」を掲出してもらいたいところであった、と思うのである。(以下続稿)

*1:【6月29日追記】「鑓水」を落としていたのを補った。

道了堂(84)

・歴史の道調査報告書 第四集『浜街道』(4)
 今回は、馬場喜信執筆と思われる、27~54頁〔43~69頁〕「三 道筋の確定と現状」について、もう少し詳しく見て置こう。
 27頁〔43頁〕上段2~21行め「㈠ はじめに」はこの章の目的と依拠した資料について述べる。
 27頁〔43頁〕上段22行め~30頁〔46頁〕上段23行め「㈡ 横浜開港以前の浜街道の道筋の状況」は江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』に見える峠や沿道の村の記述を引用、30頁〔46頁〕上段24行め~37頁〔53頁〕上段5行め「㈢ 横浜開港以後の浜街道の道筋の状況」は参謀本部陸地測量部による二万分の一迅速図と『皇国地誌』の記述を対象させながら、明治期の浜街道の様子を探っている。35頁〔51頁〕下段5行めから最後までは、法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の、4月7日付(27)に取り上げた「第一節 浜街道《絹の道》の生成から衰退まで」の「(2)浜街道―盛時から忘れられた時代へ」の前半、或いは「〔年表〕《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化(一八七四年~二〇〇四年)」220頁下段3~14行めに重なる。
 そして、37頁〔53頁〕上段6行め~40頁〔56頁〕下段19行め「㈣ 八王子から鑓水峠へ(約四・四キロメートル)」、40頁〔56頁〕下段20行め~47頁〔63頁〕上段3行め「㈤ 鑓水峠から浜見場へ(約二・六キロメートル)」、47頁〔63頁〕上段4行め~50頁〔66頁〕上段16行め「㈥ 浜見場から木曾へ(約九・三キロメートル)」、50頁〔66頁〕上段17行め~52頁〔68頁〕下段23行め「㈦ 森野から鶴間へ(約七・七キロメートル)」の4節は、かたくら書店新書45『浜街道の、4月24日付(43)に見た「第1部 調べてみよう「浜街道」」の「7 浜街道あちこち」のうち「① 甲州街道から浜街道」から「⑥ 横浜線を渡るところ」までに当たる。残りの⑦⑧⑨は神奈川県横浜市なので東京都の管轄外と云うことで本書では調査対象になっていない。
 道了堂のことはもちろん「㈤ 鑓水峠から浜見場へ(約二・六キロメートル)」に詳述されている。この章の、特に力を入れた箇所と思われるので少し前から引いて置こう。41頁〔57頁〕上段1~2行め「/国道一六号八王子バイパスやその左手の高台に立つNTTの御殿山無線中継塔/など、現代の最新鋭の交通・通信ライン」に触れて、9~20行め、

 北方に広がる峠からの大展望をあとにして、いわゆる〝絹の道〟の核心地/帯である鑓水へと歩を進めていく。道は左手に高まる大塚山を巻くようにして/その南面へと進む。いま見たばかりの現代の光景とはうって変わった時の中へ/と入っていく感じを覚える。大塚山の斜面には、ケヤキの大樹が道筋に沿うよ/うに並んでその梢を天空に広げ、クヌギ・コナラ・サクラなどの落葉樹林が道/筋をかばうかのようにその枝葉を伸ばしている。ひっそりと閉ざされたその空/間の中を、路面に敷きつめられ半ば埋もれたごろた石を踏みながら進むと、わ/ずかに視界が広がり、大塚山公園の前に出る。公園へ登る石段の左手のたもと/に、先に紹介した「絹の道」の石碑が建っている。
 大塚山公園は、かつてこの地に営まれた道了堂の境内をそっくり公園として、/平成二年(一九九〇)三月に開設された。この地については、まず次の文を引/いておきたい。

と、北から回り込んで「絹の道」碑の前に出ている。「絹の道」碑については「二 浜街道概観――生糸の道としての歴史的背景と浜街道地域の概要」の「㈤ 生糸の道としての浜街道とその盛衰」の冒頭に、浜街道ルートの一部が「絹の道」として知られるきっかえとなった記念碑として触れてあるのを昨日引用して置いたが、続く部分(22頁〔38頁〕上段7~11行め)に銘文及び建碑の中心人物橋本義夫が紹介されていた。
 「次の文」すなわち21~26行めの引用は、下段1行め下寄せで「(高橋源一郎『武蔵野歴史地理第四冊』六六四頁)」と出典を示す。当ブログでは5月21日付(58)に『武蔵野歴史地理』の原本から引用して置いたが、本書では鑓水峠とは無関係の、末尾の一文は省略されている。
 具体的な解説はこれに続いて2~13行め、

 道了堂は、鑓水永泉寺の別院として明治六年(一八七三)生糸商人たちの協/力により東京花川戸から堂宇を移築して創建された。明治二十六年(一八九三)/の「武蔵国南多摩郡由木村鑓水大塚山道了堂境内之図」の題名のある銅版画に/は、満開の桜のもと参詣人で賑わう境内のようすが回廊をめぐらす伽藍の配列/とともに描かれ、明治四十四年刊行の『八王子案内』(島村一鴻編)の「近郊/の名所旧蹟」に「道了権現。八王子町より小山に通ずる鑓水峠の絶頂にありて/相州小田原なる大雄山最乗寺道了薩陀の分霊なりと云ふ。堂前に高さ数十尺の/大錫杖あり。境内頗る幽静なり。」とあり、また大正十二年(一九二三)発行/の『南多摩郡史』にまで「名勝旧蹟」として採録されているなど、道了堂の盛/時は半世紀ほど続いたが、そののち衰退した。戦後になって無住となった堂は/しだいに荒廃し、昭和五十八年(一九八三)解体された。いま本堂の礎石はそ/のまま残されて、そこに公園のシンボリックな空間を形づくっている。

とある。創建から『八王子案内』までは、4月9日付(28)に見た、法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の「〔年表〕《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化(一八七四年~二〇〇四年)」の記述とほぼ重なるが、『歴史的環境の形成と地域づくり』では明治7年(1874)建立から始めていた。『南多摩郡史』については同様に『歴史的環境の形成と地域づくり』の記述から原本に遡って4月10日付(29)に引用した。しかし「戦後になって無住となった」とはかなり乱暴な纏め方で、殺人事件で無住になったと云うのは衝撃的ではあるけれども記載を忌避すべき事柄なのだろうか。かつ、これから取り上げる予定の、昭和40年代の幾つかの資料を見る限り「しだいに荒廃し」たのではなく、事件から遠からぬ時期に組織的に荒らされたとしか思えない。昭和58年(1983)解体説が誤りであることは、先月来確証を挙げて縷々述べてきたところである。(以下続稿)

道了堂(83)

・歴史の道調査報告書 第四集『浜街道』(3)
 昨日の続きで、章立てを確認して置こう。〔 〕内は『歴史の道調査報告書集成』の頁付。
・5~26頁〔21~42頁〕「二 浜街道概観――生糸の道としての歴史的背景と浜街道地域の概要
 以下、節の見出しは2行取り2字半下げ。
 5頁〔21頁〕上段3行め~7頁〔23頁〕上段9行め「はじめに――浜街道とは」は前置きに当たる文章で、5頁〔21頁〕左側13行分、2段抜きに「図1 浜街道の道筋の概略」として、5頁〔21頁〕下段3行め「 図1は、明治二十一年輯製製版二〇万分の一図「東京」の一部である。‥‥」とあるように、4月24日付(43)に見たかたくら書店新書45『浜街道46~47頁と同じ図を、最上部中央の「子王八」から最下部右寄りの「港濱横」までの道筋が収まるよう、右上を北にして斜めに、縮小して収録したものである。また6頁〔20頁〕下段左8行分に「図2  鑓水にのこる浜街道/   ・浜道の地名」はかたくら書店新書45『浜街道10頁右上に同じ図があった。
 これだけでも、この章が馬場喜信の執筆ではないか、と察せられるのだけれども、余り細かい検討をしている余裕も準備もないので、以下は見出しの位置を示して置く。
 7頁〔23頁〕上段10行め「㈠ 東山養蚕地帯の形成と多摩丘陵地帯の村落」
 11頁〔27頁〕上段10行め「㈡ 多摩丘陵地帯村落における養蚕業の実情」
 13頁〔29頁〕下段7行め「㈢ 養蚕業地帯における流通市場と鑓水商人の活躍」
 18頁〔34頁〕上段16行め「㈣ 横浜における生糸輸出貿易の展開と鑓水商人」
 22頁〔38頁〕上段1行め「㈤ 生糸の道としての浜街道とその盛衰」42頁上段10行めまでで以下余白。
 歴史的背景について詳しく記述されている。――これを小学校高学年でも読めるよう、ごく簡略に纏め直したのがかたくら書店新書45『浜街道の「第1部 調べてみよう「浜街道」」のように思われる。もちろん、馬場氏が、別の人物が執筆したこの章を参考にして書いた可能性もあるけれども、どちらにしてもこの章と、前回も触れた次の章がかたくら書店新書45『浜街道の原型になっているようだ。
 16頁〔32頁〕上段10行め(下段は「図5」)~17頁〔33頁〕上段12行めは4月25日付(44)に見たかたくら書店新書45『浜街道の「第2部 歩いてみよう「絹の道」」の、「7 諏訪神社〔2〕石灯籠と社殿を見る」の前半、189~195頁8行めに敷衍・詳述されている。そして「㈤ 生糸の道としての浜街道とその盛衰」を敷衍・詳述したのが法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化」なのである。この節は「史跡化」から始めて「生糸の道」の「盛衰」へと展開させているが、冒頭部に道了堂に触れたところがある。22頁〔38頁〕上段2~6行め、

 八王子を起点として鑓水峠を越える浜街道ルートの一部が、日本の〝絹の/道〟=シルクロードとして喧伝されるようになったのは、昭和三十二年(一九/五七)四月、鑓水峠がある大塚山道了堂の入口に「絹の道」の石碑が建てられ/てからである。道了堂の建物は当時はまだ健在で、峠道からさらに小高く盛り/あがった丘の頂に深い緑につつまれて鎮まっていた。‥‥


 当時は建物が健在だったどころではなく、堂守もいて寺院としての活動も続けていたわけだが、やはり本書でも廃寺になった経緯には全く触れず、その時期も暈かされている。
・27~54頁〔43~69頁〕「三 道筋の確定と現状」
 27頁〔43頁〕上段2行め「㈠ はじめに」
 27頁〔43頁〕上段22行め「㈡ 横浜開港以前の浜街道の道筋の状況」
 30頁〔46頁〕上段24行め「㈢ 横浜開港以後の浜街道の道筋の状況」
 37頁〔53頁〕上段6行め「㈣ 八王子から鑓水峠へ(約四・四キロメートル)
 40頁〔56頁〕下段20行め「㈤ 鑓水峠から浜見場へ(約二・六キロメートル)
 47頁〔63頁〕上段4行め「㈥ 浜見場から木曾へ(約九・三キロメートル)
 50頁〔66頁〕上段17行め「㈦ 森野から鶴間へ(約七・七キロメートル)」52頁〔68頁〕下段23行めまで。
 53~54頁(頁付なし)の折込み地図の扱いについては6月17日付(78)に述べた。
・55~64頁〔71~80頁〕「四 沿道の史跡・文化財等」
 前半については昨日触れた。
 60頁〔76頁〕下段1行め「㈡ 町田市域の史跡・文化課等」
・頁付なし〔81頁〕「史   料   編」の扉
・65頁〔83頁〕「史 料 目 次」
・67~80頁〔85~98頁〕「Ⅰ 古文書の部」
・81~87頁〔99~105頁〕「Ⅱ 紀行文の部」中段まで。
・88~108頁〔106~126頁〕「Ⅲ 絵 図 の 部」
・109~111頁〔127~129頁〕「六 主 要 参 考 文 献」上段9行めまで。
・112頁〔130頁〕「協力機関・協力者一覧(順不同・敬称略)」上段6行めまで。
・113頁〔131頁〕村上直「あ と が き」は「平成八年三月一〇日」付。奥付等についても、やはり6月17日付(78)に述べてある。(以下続稿)

道了堂(82)

 6月17日付(78)の続き。
・歴史の道調査報告書 第四集『浜街道』(2)
 ここからは原本の頁に〔 〕で『歴史の道調査報告書集成』の頁を添えながら進めよう。
 まづ、口絵写真の3頁め〔11頁〕下に「八王子市 鑓水道了堂前」の写真がある。右に平成2年(1990)設置の「大塚山公園」説明板、「絹の道」碑、そして中央には雑木が伐り払われて露わになった斜面、左はほぼ平坦な鑓水峠越えの道が続く。鑓水関連の写真は4頁め〔12頁〕にも、上「八王子市 絹の道資料館前」と下「八王子市 小泉家屋敷(都有形民俗文化財)前」が掲載されている。
 1~4頁〔17~20頁〕「一 歴史の道(浜街道)調査について」に調査の概要が纏められている。但し2~3頁〔18~19頁〕見開きは「㈢ 文献資料の所在調査」の「歴史の道調査カード」の複写なので、実質2頁分である。4頁〔20頁〕上段4~16行めの「㈥ 調査団名簿」に12名、団長の村上直と副団長の段木一行は「法政大学文学部教授 都文化財保護審議会委員」で参与の馬場憲一は「東京都教育庁生涯学習部文化課学芸員」、後に法政大学現代福祉学部教授になって4月5日付(26)に見た法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』のプロジェクトを立ち上げるのであった。〔8頁〕「例言」に拠ると、

四、 本書の編集は村上直調査団長の指導のもと文化課学芸員馬場憲一が担当したが、原/  稿の作成、レイアウト、および校正等は歴史の道(浜街道)調査団の団員が分担して行っ/  た。

とあって、馬場憲一が編集の実務を担当したが、個々の章節の執筆から校正までは「団員が分担して行った」ので、馬場憲一が内容の全てに責任を負っている訳ではない、と断っているように読めるのだが、個々の章節に担当した団員の名前が入っていないので、責任の所在が曖昧になっているような印象を受ける。
 それはともかく、4人めが「主任調査員 馬場 喜信 多摩地域史研究会会員」なのである。そう思って見ると、本書にはかたくら書店新書45『浜街道と重なるところが多い。特に27~54頁〔43~69頁〕「三 道筋の確定と現状」は大部分(或いは全部)が馬場喜信の執筆らしく思われる。
 残る8人は「調 査 員」で日野市史編集委員(男性)八王子古文書調査会会員(女性2名)法政大学大学院生(女性)調布市史編纂室(男性)所属記載なし(女性)古文書を探る会会員(女性2名)、うち古文書を探る会の1人め、新堀八重(1935.3.16~1997.3.19)はTBSのアナウンサーだった新堀俊明(1934.2.17~2018.3.18)の妻で55~64頁〔71~80頁〕「四 沿道の史跡・文化財等」のうち55頁〔71頁〕上段7行め~60頁〔76頁〕上段「㈠ 八王子市域の史跡・文化財等」を担当したことが、次の本により判明する。
・『白櫻 新堀八重遺稿集』一九九八年三月一九日発行・新堀俊明・484頁・四六判上製本
 257頁(頁付なし)「第四章 歴史の道調査」の扉で裏は白紙、259頁には楷書体の新堀俊明による解説的前書きがあり、その12~14行め、

‥‥。署名はない/が、八王子市域の史跡、文化財等を担当したことが明らかなので、まずはその部分の転載であ/る。なおこの調査については、私も、何度か同行している。

として、260頁上段、2字下げで「『歴史の道調査報告書第四集』より――浜街道」と題して、3行めにゴシック体でやや大きく4字下げで「沿道の史跡・文化財」と、原本55頁〔71頁〕上段1行めの章の番号「四 」は不要なので省略している。そして原本2~6行めの前置きの最後の一文、5~6行め「‥‥。なお、史料・文化財の所在地は、一覧表の番号を五三~五四頁の沿道/地図中に記入することで示してある。」とあった、同じ前置き(4~7行め)の最後が「‥‥る(本書では省略)。」としてあるのは少々勿体ないが仕方ないだろう。
 原本59頁上段4行め、一覧表の最後までが275頁10行めまでに再録され、原本にはさらに写真12点が1頁半ほどに掲載されていたが、これも省略されて余白になっている。――この遺稿集についてはなお述べることがあるが、怱卒の間にメモを取ったので今はこれ以上述べることが出来ない。
 とにかく「例言」に調査員がそれぞれ分担したと断っていて、実際にそのように進められたのであれば、やはり誰が何処を担当したのか、示すべきだったように思うのである。(以下続稿)