瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(104)

 『山怪実話大全』の第一刷から第三刷に掛けての時期、その編者の東雅夫が杉村顕(顕道)と「サンデー毎日」の関わりについて tweet していたことは、2018年8月8日付(027)にも触れましたが、8月8日付(095)に改めてその全文を引用して確認し、8月9日付(096)には第三刷の【追記】も確認して見ました。
 私は36年来の図書館マニアで目下、図書館から借りた本が100冊以上机辺に積み上がっていて、新たに本を買う経済的・空間的余裕がなく、複写を取っても直に反故の中に埋もれさせてしまうので、どんなに必要な資料でも必要が生じたときに借りて済ますことにしております。しかしながら上記『山怪実話大全』第三刷は、8月8日の昼に書店に行って買いました。『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』は、2011年にこの題の記事を書き始めた頃は近所の図書館の開架にあったのを専ら借りて使っていたのですが、久しぶりに再開してみると書架になく、OPAC で検索して見るに書架に収められていました。そうなると、もう要点は粗方メモして置いたつもりだし、わざわざ最近流行りの外部委託で素人みたいな館員に出納を頼むのも面倒で(何度、いっそ私を入れて下さい、と思ったことか)しばらく手にする機会もないまま過ごしておりました。
 それはともかく、昨年東氏の一連の tweet を読んだとき、杉村顕道と「サンデー毎日」の関わりについては東氏も、東氏に連絡した杉村氏の次女も、初めて話をしたような按配なので、私もうっかりそのつもりになってしまい、杉村氏の経歴を確認すべく久しぶりに『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』を借りたときも、次女・杉村翠の談話「父・顕道を語る」を2018年8月11日付(030)の如く、差当り問題となっている昭和3年(1928)頃まで、つまり1節め、437~439頁上段17行め「東京時代」だけを見て、済ませてしまったのです。その後、返却間際になって「父・顕道を語る」に続いて収録されている、紀田順一郎「杉村顕道の《発見》」に目を通したのですけれども、2018年9月9日付(050)に引用しましたが杉村氏の履歴書に「「サンデー毎日」に作品を発表したことがあること」とあるのを見付けて、何だか狐につままれたような気分にさせられたのです。
 ところが、今度、杉村顕が『信州百物語』編纂に当たって青木純二『山の傳説』を参照したことが、「晩秋の山の宿」と「蓮華温泉の怪話」の1例からでも明らかとなったと(私は)思うのですが、しかしながら1例だけでは検証としては弱いので、両者の関係をより明瞭にすべく、8月14日に久しぶりに『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』を書庫から出してもらって借りました。もちろん国立国会図書館デジタルコレクションでも読めますが、どうも画面を読み続けるのが苦手なのです。それはともかく、そこで件の「父・顕道を語る」の続きにも目を通すと、3節め、440頁上段16行め~442頁下段「『信州百物語』の刊行」に続く、4節め、442頁下段~444頁下段14行め(但し443頁は、上段「『怪談十五夜』初版(右)と第3版。‥‥」の写真、下段「『信州百物語』初版(右)と第4版。‥‥」の写真。)「樺太から仙台へ」に、東海林太郎の歌謡曲の作詞(代作)をしたことに触れた次の段落(444頁上段4~9行め)に、

 この作詞も含めて、文筆家として立つ夢は樺太時/代も棄てていなかったんじゃないかと思います。タ/イトルは私もわからないのですが「サンデー毎日」/の懸賞小説に投稿して当選したり、樺太での見聞を/『新・樺太風土記』として樺太の出版社から刊行し/たりしていますからね。

と述べてあるのです。
 これは2018年11月28日付(68)に触れたように、「サンデー毎日」大衆文芸第19回(昭和11年/1936年度・下)佳作の杉村顕「先生と青春」で、まさに杉村氏の樺太時代に当たっております*1。出来れば複写を取って差し上げたいところですが、これは私がやらなくても良いことでしょう。それはともかく、こうなってみると、いよいよ東氏の『山怪実話大全』初刊直後の tweet に「杉村翠さんから」の「お電話」の内容を紹介して「しかも顕道は「サンデー毎日」にも投稿したことがあったのだそうな!」と、新事実の発見の感激とともに(と云って良かろうと思うのですが)述懐されているのが不思議で、しかし東氏ほど多忙を極めない(そんな言い方するのか?)私とて当ブログの古い記事をいろいろ忘れていますし、いえ、私のことを引き合いに出すのは不適当ですな、――やはり人間の記憶は当てにならない、分かっているつもりのことを忘れたり、何故か調べ落としていて、しかし大体調べ終えているような気分になっている、そして発見の喜びはしばしば勘違いに過ぎない、そんなことを思ってしまうのです。
 ですから、私は「赤マント」の検証でもそうですが、回想は(傍証がない限り)信用しません。そして、分かっているはずのことでも、度々見直す必要のあることを痛感します。その点で、私の、資料を所有せず、必要なときに借りて確認し直す、と云う貧乏臭い方法も、悪くはないと思ったりもするのです。(以下続稿)

*1:雑誌に掲載された頃には仙台に移っていたかも知れませんが「父・顕道を語る」では。仙台に移った時期を昭和11年(1936)としているだけなので、この辺りの詳しい関係までは明らかに出来ません。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(103)

・青木純二『山の傳説』(6)
 さて、昨日までの本書の「晩秋の山の宿(白馬岳)」本文を、昭和3年(1928)7月の「サンデー毎日」に懸賞入選作として掲載された白銀冴太郎「深夜の客」との異同を指摘しつつ引用して見た。殆ど同文であることが明らかになったであろう。
 そしてこの、少ないながらも存する異同に着目することで、従来「深夜の客」を書き替えたものと想定されていた杉村顕道「蓮華温泉の怪話」が、「深夜の客」と「晩秋の山の宿」のどちらに依拠したかも明らかになるであろう。
 まづ8月12日付(099)に引用した冒頭部、【A】の異同は書き出しの「日本アルプスの秀峰」の有無で、これは「晩秋の山の宿」に同じである。しかしこの程度では「晩秋の山の宿」に拠ったとすることは出来ない。決定的なのは【B】の「深夜の客」が「大正三年」としていたのが、「晩秋の山の宿」は「蓮華温泉の怪話」と同じく「明治三十年」となっていることである。この年の書き替えを、私は8月10日付(097)のように解釈して、東雅夫の白銀冴太郎=杉村顕道同一人物説に説得力を感じたのだが、この改変に杉村氏は無関係であった。【C】の食事を勧める場面の台詞の異同、

「深夜の客」~「山鳥をやいているところです。これでよかったら御飯をおあがりなさい。」一九一頁18行め
「晩秋の山の宿」~『山鳥をやいてゐるところです。よかつたら御飯をおあがりなさい。』102頁3行め
蓮華温泉の怪話」~「‥‥。今山鳥を焼いてたんですが、よかったら、こいつで御飯をいかがです。‥‥」二〇〇頁10行め

と、「晩秋の山の宿」を飛び越えて「深夜の客」と「蓮華温泉の怪話」が近似するのはこのくらいで、他の異同は「晩秋の山の宿」を引き継いだと思われる箇所が多い。8月15日付(102)に引いた結末部になると、2018年8月12日付(31)及び2018年8月13日付(32)に見たようにかなり書き替えられているので、細かい異同はいよいよ根拠たり得ないであろうが、1点だけ、主人が震え上がった子供の台詞、

「深夜の客」~「そしてね、あの人が出ていっただろう、その時にさ、おんぶしていた若い女が、背中からはな/れてあの人の後からふわふわと歩いてついて行ったよ。そして、家の戸口まで行った時、父ちゃんや、俺の顔を見て、タニタと笑ったんだよ。」一九七頁14~15行め
「晩秋の山の宿」~『そしてね、あの人が出て行つただらう、その時にさ、おんぶしてゐた若い女が、背中からはな/れてあの人の後からふわふわと歩いてついて行つたよ。そして、家の戸口まで行つた時、父ちやん、俺の顔を見て、タニタと笑つたんだよ。』110頁6~7行め
蓮華温泉の怪話」~「そしてね、あの人が出て行った時、その女の人フワフワ後から歩いて行ったよ。坊やの顔みて/ニタニタ笑うんだよ。」二〇四頁18行め~二〇五頁1行め

と「蓮華温泉の怪話」が大幅に刈り込んでいることが注意されるが、8月15日付(102)にも注意したように、血みどろの若い女の人が「ニタニタ笑」った相手が、「深夜の客」では「父ちゃんや、俺」だったのが、「晩秋の山の宿」では「父ちゃん、」は呼び掛けとなって「俺」のみが相手になっている。そして「蓮華温泉の怪話」も「坊や」だけであることが注目される。
 尤もこれとても、――主人には見えていないのだから、自分に気付いて怖れている子供に笑い掛ければ良いので「父ちゃん」を対象に含めなくても良さそうなものだ、と考えれば、自然な改訂と云うべきで、やはり決定的な根拠たり得ないだろうが、「明治三十年」と、後述するように『信州百物語』に他にも『山の傳説』から何話か採られているところから見て、「蓮華温泉の怪話」誕生に、従来考えられていた「サンデー毎日」の関与のなかったことは、ここに断言してしまって良いと思うのである。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 ところで、8月10日付(097)に触れたように、8月7日、私は何の気なしに手にした『山の傳説』に「晩秋の山の宿」を見付けて、帰宅後ざっと検索して「マリモ博士の研究日記」そして5ch(2ch)「【歴史修正】アイヌ民族の伝説、実は大阪の男性の創作だった!本人の手書きメモから判明[08/22] [無断転載禁止]©2ch.net]」、そこから阿部敏夫「「大正期におけるアイヌ民話集」・「北海道の義経伝説とアイヌ」」、国会図書館デジタルコレクション『アイヌの伝説と其情話』『日本新聞年鑑』と辿って大体の結論を得た。そこで差当り「蓮華温泉の怪話」及び杉村顕道の位置について、従来の説明に疑義のあることを述べた上で根本となる本文の紹介に取り掛かり、その間に著者についての調査をもう少し進めて置こうと思っていたのだが、私は全く知らなかったが青木氏は、阿寒湖の「恋マリモ伝説」と白馬岳の「雪女」に関して、近年取り沙汰されることの多い、知る人ぞ知る人物で、ネット検索だけでなく図書館等も回って確認すべき事柄が少なくない。とてもでないが直ちに続稿を上げられるような相手ではなかったのである。
 しかし、「マリモ」も「雪女」もブログに取り上げている人がいることだし、私は青木氏の全体像を描き出そうとは思っていない。差当り、青木氏と高田の関わりを指摘して白銀冴太郎と青木純二が同一人物であることに決着を着け、そして問題の本『山の傳説』が杉村顕道・末広昌雄・長沢武によって無批判に利用されて来たことを確認し、「木曾の旅人」に連なる怪異談と怪異小説の流れの中に青木純二「晩秋の山の宿」を位置付け、そして杉村顕道「蓮華温泉の怪話」も相応しい位置に置き直すこと、この3点に絞って、今後は進めて行くつもりである。(以下続稿)

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(102)

・青木純二『山の傳説』(5)
 昨日の続きで、最後。
 昨日引用した箇所は特に書き替えが少なかったが、ここもやはり若干手を入れている程度である。

 家に歸つた主人は子供に向つて云つた。*1
『あの男は怖ろしい人殺しをしたやつだったが、俺不思議でならない。人殺しときけば俺も怖ろし/くなるがお前は、何も知らないのにあいつが怖ろしいといつた。どうして怖ろしい男だと分つた/んだい。』*2
 子供はまだ唇を紫色にしてふるえてゐた。*3
『父ちやんは見なかつたかい。』*4
『何を。』*5
『怖ろしいものを。』*6
『何も見やあしなかつた。』*7
『父ちゃん。あの人がすわつてゐただらう、あの時にさ。』*8
『何かあつたかい。』*9【109】
『背中にだよ、あの人の背中に、血みどろになつた髪を振亂した若い女の人が、怖ろしい顔をし/ておんぶしてゐたよ。』*10
『えつ。』
 主人は總身に水でもぶつかけられたやうに怖えた。*11
『そしてね、あの人が出て行つただらう、その時にさ、おんぶしてゐた若い女が、背中からはな/れてあの人の後からふわふわと歩いてついて行つたよ。そして、家の戸口まで行つた時、父ちや/ん、俺の顔を見て、ニタニタと笑つたんだよ。』*12
 主人は眞青になつて子供に抱きついた。*13【K】
 痴情ゆえに女を殺した彼は糸魚川警察署でおびえながらいつた。『惡い事は出來ません、女を殺/して逃げ出すとたつた今殺した女が血みどろの姿そのまゝで私の背に縋りついてゐるんです。/逃げても逃げてもはなれないんです。冷たい手で私の襟首をぐいぐいしめつけます。ですから、/こんな怖ろしい目にあふのなら死刑になつた方がましだとさへ思ひました。捕まつてから女の幽*14【110】靈は私の背中からはなれてしまひました。でも、今でも、冷たい手が私の咽喉に蛇のやうに卷き/ついてゐるやうな氣がしてなりません。』*15
 涙が、頰を傳ふと、留置場の床にほとほとこぼれてゆくのであつた。*16【L】


 【K】子供の怯えたもの2018年8月12日付(31)に引いた。一九六頁16行め「俺不思議でならない。」17行め「といった。お前、どうして」、一九七頁5行め「怖ろしいものを。」、9行め「血みどろになつた髪を」、11行め「えッ!」、14~15行め「父ちゃ/ん、俺の顔を見て、」ここは「父ちゃんと俺の顔」ではなく「俺の顔」を見たのだと「父ちゃん」に呼び掛けたと云う改変で、確かにその方が理に適っているようである。
 【L】男の述懐2018年8月13日付(32)に引いた。異同は110頁9行め、述懐の台詞が段落分けせずに、再現出来なかったが二重鉤括弧開きを半角にして詰めていることだが、台詞の終り、111頁2行めには十分余裕があるので、何故窮屈に詰めたのかが分からない。なお111頁10行め「逃げ出すと。たつた今」の句点は誤植であろう。(以下続稿)

*1:ルビ「いえ・かへ・しゆじん・こ ども・むか・い」。

*2:ルビ「をとこ・おそ・ひとごろ・おれ・ふ し ぎ・ひとごろ・おれ・おそ/まへ・なに・し・おそ・おそ・をとこ・わか/」。

*3:ルビ「こ ども・くちびる・むらさきいろ」。

*4:ルビ「とう・み」。

*5:ルビ「なに」。

*6:ルビ「おそ」。

*7:ルビ「なに・み」。

*8:ルビ「とう・ひと・とき」。

*9:ルビ「なに」。

*10:ルビ「せ なか・ひと・せ なか・ち・かみ・ふりみだ・わか・をんな・ひと・おそ・かほ/」。

*11:ルビ「しゆじん・そうみ・みづ・おび」。

*12:ルビ「ひと・で・い・とき・わか・をんな・せ なか/ひと・うしろ・ある・い・いへ・と ぐち・い・とき・とう/おれ・かほ・み・わら」。

*13:ルビ「しゆじん・まつさを・こ ども・だ」。

*14:ルビ「ちじやう・をんな・ころ・かれ・いとい がはけいさつしよ・わる・こと・で き・をんな・ころ/に・だ・いまころ・をんな・ち・すがた・わたし・せな・すが/に・に・つめ・て・わたし・ゑりくび/おそ・め・し けい・はう・おも・つか・をんな・いう」。

*15:ルビ「れい・わたし・せ なか・いま・つめ・て・わたし・の ど・へび・ま/き」。

*16:ルビ「なみだ・ほゝ・つた・りうちぢやう・ゆか」。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(101)

・青木純二『山の傳説』(4)
 一昨日からの続きだが、この辺りは特に書き換えが少ないようである。なお、傍点「ヽ」を打たれている文字は、ルビと同様に再現出来ないので仮に太字にして示した(「深夜の客」には傍点はないようだ)。106~109頁1行め、

『父ちやん、あの人怖いから歸しておくれよ。怖いよ。ね、怖いよ。』*1
 妻をなくしてから母のない子を熱愛してゐる主人は子供の怖えが甚だしいのと、犬があまり吠/えるので紳士が薄氣味惡くなつて來たので決心した。*2
『旦那、まことにすみませんが、お泊することが出來ません。』*3
『どうして。』
『實子供が旦那を怖ろしがるものですから。』*4
 紳士は顔色をかへた。わなわなとからだをふるはせた。*5
『お願ひだから一晩泊めて下さい。』*6
『それが今もいつたやうに子供がこの通り泣いていやがりますので。』*7
『困つたな。』*8
『私も困ります。すみませんが出ていつて下さい。』*9
 紳士はと立上つた。だまつて靴の紐をむすびはじめた。戸を開くと、犬が更にけたゝましく*10【106】吠えた。紳士は逃げるやうに去つて行つた。*11【H】
 十分間ばかりも經つた頃に又もや表戸をはげしく叩く者がある。*12
『開けてくれ。』*13
 主人は氣味が惡くなつたので返事をしなかつた。子供は、怖えつゝ更に縋りついて來たのだ。*14
『おい、開けてくれ、私だ、駐在巡査の松野だ。』*15
 確かに松野巡査の聲である。*16
 主人は表戸を開けた、巡査は和服で突立つてゐる。*17
『早速だが、お前のところに洋服を着た四十ばかりの男が來やしなかつたかい。』*18
『參りました。』*19
『泊つてゐるかい。』*20
『ことわりました。たつた今、ここを出て行きました。』*21
『今、さうか、有難う。』【107】*22
 巡査はたちまちに山道の方へ走り去つた。*23
 と、思ふと、白樺の密林の方にあたつてはげしい人聲が起こつた。主人は、鉄砲を持ち出して/その方向に走り出した。*24【I】
 が、向うからさつきの洋服男を縛りあげた巡査が山を下つて來る姿を見た。*25
『旦那、つかまりましたか。』*26
『有難う、わけもなく捕へることが出來た。おかげで大手柄だ。』*27
『旦那、その男は、何か惡いことでもしたのでございますか。』*28
『人殺しなんだ。越中で、若い女を殺して逃げて來た惡いやつだ。向うの警察からの手くばりで/こゝに逃げ込んだことが分つて追跡して來たんだ。』*29
『人殺し!』*30
 主人はぞつと身ぶるひをした。*31
 犯人は深くうなだれて顔もあげなかつた。そして、巡査に護送されて山道を下つてゆつた*32【108】
 月は、彼らにもあざやけく照り冴えていた。巡査の提灯が人魂のやうに遠ざかつてゆく。*33【J】


 以下、初出に当たる「深夜の客」に於ける異同を、これまでの要領で拾って置く。なお、昨年当ブログに一部引用した「深夜の客」の本文に間々入力ミスがあるが、これは一々断らずに修正した。
 【H】主人の退去依頼と男の退去は一九四頁16行め「実子供が旦那を」、一九五頁4行め「紳士はと立上った。」。
 【J】巡査による男の捕縛と説明2018年8月12日付(31)に引いた。一九五頁8行め「開けてくれ。」、一九六頁13行め「山道を下ってゆくのであ。月は、」と段落分けしていなかった。――ここを「下ってゆった」と改めているのであるが「下っていった」の誤りであろう。(以下続稿)

*1:ルビ「とう・ひとこわ・かへ・こわ・こわ」。

*2:ルビ「つま・はゝ・こ・ねつあい・しゆじん・こ ども・おび・はなは・いぬ・ほ/しんし・うすき み わる・き・けつしん」。

*3:ルビ「だんな・とめ・で き」。

*4:ルビ「じつ・こ ども・だんな・おそ」。

*5:ルビ「しんし・かほいお」。

*6:ルビ「ねが・ばんと・くだ」。

*7:ルビ「いま・こ ども・とほ・な」。

*8:ルビ「こま」。

*9:ルビ「わたし・こま・で・くだ」。

*10:ルビ「しんし・たちあが。くつ・ひも・と・ひら・いぬ・さら」。

*11:ルビ「ほ・しんし・に・さ・い」。

*12:ルビ「ぷんかん・た・ころ・また・おもてど・たゝ・もの」。

*13:ルビ「あ」。

*14:ルビ「しゆじん・き み・わる・へんじ・こ ども・おび・さら・すが・き」。

*15:ルビ「あ・わたし。ちうざいじゆんさ・まつの」。

*16:ルビ「たし・まつの じゆんさ・こゑ」。

*17:ルビ「しゆじん・おもてど・あ・じゆんさ・わ ふく・つゝた」。

*18:ルビ「さつそく・まへ・やうふく・き・をとこ・き」。

*19:ルビ「まゐ」。

*20:ルビ「とま」。

*21:ルビ「いま・で・ゆ」。

*22:ルビ「いま・ありがた」。

*23:ルビ「じゆんさ・さんだう・はう・はし・さ」。

*24:ルビ「おも・しらかば・みつりん・はう・ひとごゑ・お・しゆじん・てつぱう・も・だ/はうかう・はし・だ」。

*25:ルビ「むか・やうふくをとこ・しば・じゆんさ・やま・くだ・く・すがた・み」。

*26:ルビ「だんな」。

*27:ルビ「ありがた・とら・で き・おほて がら」。

*28:ルビ「だんあ・をとこ・なに・わる」。

*29:ルビ「ひとごろ・ゑつちう・わか・をんな・ころ・に・き・わる・むか・けいさつ・て/に・こ・わか・つゐせき・き」。

*30:ルビ「ひとごろ」。

*31:ルビ「しゆじん・み」。

*32:ルビ「はんにん・ふか・かほ・じゆんさ・ご そう・さんだう・くだ」。

*33:ルビ「つき・かれ・て・さ・じゆんさ・ちやうちん・ひとだま・とほ」。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(100)

・青木純二『山の傳説』(3)
 昨日に続く場面を引用する。要領は昨日に同じ。102頁9行め~105頁、

 飯の仕度をいそいでゐる主人はふと、奥の部屋で八つになる男の子がはげしく泣き出す聲/をきいた。*1
『これ、何を泣くんだ。』*2
 子供のところ飛んで行つた。*3【102】
 子供は眞青な顔をして、身體をわなわなとふるはせてゐたが、父親を見ると、飛び起きてしが/みついた。*4
『父ちやん怖いよ。』*5
 更にはげしく泣くのである。*6
『何も怖いことはない。お前、夢でも見たんぢやないか。』*7
 子供は泣きながらはげしく首をふつた。*8
『いゝや、怖いんだよ、父ちやん、怖いんだよ。』*9
『何が怖いんだ。』*10
『父ちやんあの人が怖いんだよ。』*11
 子供はさつき來た紳士を指しつゝ父親にしがみつくのである。*12
『あの人が。』*13
 主人は紳士を見た。彼は、煙草をうまさうにふかしてゐた。別段、怖ろしいものはなかつた。*14【103】
『馬鹿だね、あの人はお客さんだ。立派な旦那だ。ちつとも怖くはない。』*15
『いゝや、怖いよ、怖いよ。』*16【E】
 氣がつくと裏口に飼つてゐる二匹の犬もさかんに吠えてゐる。それが山峡に響いて主人も身ぶ/るひするやうな凄さを感じた。*17【F】
 主人は子供を抱きしめながら考へた。*18
『畜生! あの洋服男は狐かも知れないぞ。燒鳥の匂ひにつられてばけて來やがつたんだ、きつ/と。』*19
 山峡の人は狐がばけることを信じてゐる。だから、犬が吠えたり、子供が怖えたりするので狐/を想像したのだ。*20
『鐵砲を射つてやらう。狐なら正體を現して逃げるだらう。』*21
 主人は子供をつれて裏口からこつそり外に出た。*22
 月は美しく冴えてゐた。秋の蟲がしげく啼いてゐた。犬はしきりに、家の中に向つて吠えてゐ*23【104】る。
 主人は鐵砲に彈丸をこめると、空に向つて一發ズドン! と放つた。彈丸が螢のやうに飛んで/いつた*24
 更に一發、夜の靜寂を破つて發射した。*25
 そつと、家の中をのぞくと紳士は平氣な顔をして煙草をのんでゐる。*26
『狐ぢやない。』*27
 主人は思つた。*28
 が、犬吠える。子供は矢張り泣いて怖える。*29
『どうしました。狐でもゐたんですか。』*30
 紳士がきいた。*31
『へえ。』
 主入は答へた。*32【105】【G】


 以下、赤の太字で示した『山の傳説』に追加されている箇所を除く異同を挙げて置こう。
 【E】泣き、怯える子供では、一九二頁10行め「子供のところ飛んで行った。」、11行め・16行め・一九三頁3行めの書き出しは全て「少年は」となっていた。6行め「ちっとも怖くはない」。
 【G】主人の疑いと行動〜狐・鉄砲では、一九三頁10行め「主人は少年を」、13~14行め「狐/を連想したのだ。」、一九四頁1~2行め「一発ズドン!と放った。弾丸が蛍のように飛んでい/った更に一発、」と段落分けしていなかった。3行め「そっと、家の中をのぞくと例の紳士は」、4行め「狐じゃない。」、4行め「が、犬吠える。」――すなわち、赤で示した字句は『山の傳説』では削除されたのである。(以下続稿)

*1:ルビ「めし・し たく・しゆじん・おく・へ や・をとこ・こ・な・だ・こゑ/」。

*2:ルビ「なに・な」。

*3:ルビ「こ ども・と・い」。

*4:ルビ「こ ども・まつさを・かほ・からだ・ちゝおや・み・と・お/」。

*5:ルビ「とう・こわ」。

*6:ルビ「さら・な」。

*7:ルビ「なに・こわ・まへ・ゆめ・み」。

*8:ルビ「こ ども・な・くび」。

*9:ルビ「こわ・とう・こわ」。

*10:ルビ「なに・こわ」。

*11:ルビ「とう・ひと・こわ」。

*12:ルビ「こ ども・き・しんし・ゆびさ・ちゝおや」。

*13:ルビ「ひと」。

*14:ルビ「しゆじん・しんし・み・かれ・たばこ・べつだん・おそ」。

*15:ルビ「ば か・ひと・きやく・りつぱ・だんな・こわ」。

*16:ルビ「こわ・こわ」。

*17:ルビ「き・うらぐち・か・ひき・いぬ・ほ・さんけふ・ひゞ・しゆじん・み/すご・かん」。

*18:ルビ「しゆじん・こ ども・だ・かんが」。

*19:ルビ「ちくしやう・やうふくをとこ・きつね・し・やきとり・にほ・き/」。

*20:ルビ「さんけふ・ひと・きつね・しん・いぬ・ほ・こ ども・おび・きつね/さうざう」。

*21:ルビ「てつぱう・う・きつね・しやうたい・あらは・に」。

*22:ルビ「しゆじん・こ ども・うらぐち・そと・で」。

*23:ルビ「つき・うつく・さ・あき・むし・な・いぬ・いへ・なか・むか・ほ」。

*24:ルビ「しゆじん・てつぱう・た ま・そら・むか・ぱつ・はな・た ま・ほたる・と」。

*25:ルビ「さら・ぱつ・よる・せいじやく・やぶ・はつしや」。

*26:ルビ「いへ・なか・しんし・へいき・かほ・たばこ」。

*27:ルビ「きつね」。

*28:ルビ「しゆじん・おも」。

*29:ルビ「いぬ・ほ・こ ども・や は・な・おび」。

*30:ルビ「きつね」。

*31:ルビ「しんし」。

*32:ルビ「しゆじん・こた」。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(099)

・青木純二『山の傳説』(2)
 前置きが長くなったが、「晩秋の山の宿」の本文を全文引用する。
 なお、従来、本文の引用・比較に当たっては、2018年8月7日付(026)にように分割して検討して来た。しかしながら「晩秋の山の宿」の本文は「深夜の客」とほぼ同文、すなわち昭和3年(1928)7月の雑誌懸賞入選作「深夜の客」を2年後の昭和5年(1930)7月に自身の単行本に「晩秋の山の宿」と改題して収録したもので、この際、切り分けずに全文を纏めて示したいと思ったのだが、ルビを省略せず、註にして添える当ブログの形式ではなかなか長文を上げるのが厄介なのである。そこで止むを得ず、比較の便宜のため2~3頁ずつ、上記の分割案に従い、各部分末に薄い灰色で【A】・・・・と添えつつ、紹介して行くこととした。「サンデー毎日」の原文をまだ見ていないので「深夜の客」の本文は『山怪実話大全』に拠り、異同についてはどちらかにしかない語句を赤の太字で、相当する語句はあるものの書き替えられている箇所を灰色太字にして、「晩秋の山の宿」の引用の後に当該箇所を示した。句読点の違いは取ったが表記の違い(及びルビ)は取らなかった。
 まづ100頁(「国立国会図書館デジタルコレクション」の青木純二 著『山の伝説. 日本アルプス篇』69コマめ)1行め、7字下げ2行取りでやや大きく「晩秋の山の宿 (白馬岳)」とあり、2行めから、

 白馬岳の山ふところに抱かれる蓮華温泉――*1
 温泉とはいへど茂る杉の林にかこまれて、たゞ一軒の宿があるばかりである。湯はこんこんと/して盡きない。山峡の大氣は澄んでゐる。しかし、不便なために浴客はすくない。*2【A】
 明治三十年の秋――山峡の秋は深んで浴客も山を下つた。そして、宿は冬ごもりの仕度に取か/かつてゐた。*3
 月光の美しい夜であつた。*4【B】
 宿の戸をほとほとと叩く音がする ゐろりに燃ゆる榾火で山鳥を燒いてゐた主人は*5
『どなたですか』と、聲をかけた。*6
『一寸あけて下さい。山道に迷つた者なんです。』*7
 男の聲だ。*8【100】
 戸を開けると、青白い月光を浴びて、そこには洋服を着、鳥打帽をかぶった紳士が立つて/ゐた。*9
『やあ、どうも有難う、すみませんが今晩泊めて下さいませんか。』*10
 男は微笑を浮べつゝ云つた。*11
『泊つておいでなさい。そのかはり何ももてなしは出來ませんよ。』*12
『いや、泊めてさへ頂けばいゝのです。』*13
 彼は室内に這入つて靴の紐をときはじめた。主人は不審な客と思つてたづねた。*14
『旦那は今頃、どうしてこんなところにいらしつたんだね。』*15
『いや、實、鐵砲を打ちに來たんです。ところが、谷に鐵砲を落してね。その上、道をまちが/へてしまつたんだよ。一時は、どうしようかと思つてゐた幸に、こゝの灯が見えたのでやつと/たどりついたんです。おかげで生命びろひをしました。』*16
『そりえらい目にあひましたね、旦那はどちらの方です。』*17【101】
『東京の者なんだ。今日、糸魚川口から登つたんだよ。』*18
 紳士は爐端ににじり寄つた。*19
山鳥をやいてゐるところです。よかつたら御飯をおあがりなさい。』*20
『そいつ御馳走だね。ぢやあ、頂きませう。』*21
『温泉に這入りませんか。』*22
『いや、御飯を先に頂きませう。なにしろお腹がぺこぺこなんだから。』*23【C】
 主人は食事の仕度に取かゝつた。彼はこの春に妻をうしなつて今では八つになる男の子と二人/きりで、この山の温泉を安住の地としてゐるのだつた。*24【D】

 「深夜の客」の本文は一部、取り上げて検討しただけで全文を引用していない。しかし殆ど同文で、単行本『山の傳説』に収録するに当たって若干手を入れたと云った程度である。よって、以下、異同箇所のみを挙げて、見て行くこととしよう。
 【A】導入〜場所の説明2018年9月11日付(52)に引いた。異同は冒頭、一九〇頁3行め「日本アルプスの秀峰」と冠していたのを(書名にもあることであり)省いたことである。
 【B】導入〜時期の説明2018年9月12日付(53)に次の部分を引いた。一九〇頁7~8行め、

 大正三年の秋――山峡の秋は深んで浴客も山を下った。そして、宿は長い雪の冬を迎えて冬ごもりをする準備に取かかった。


 この年の違いについて、その理由を少々(2018年8月15日付(34)の註)考えたこともあるが、追って改めて述べて見るつもりである。
 【C】男の来訪〜主人との会話の異同であるが、発言は「深夜の客」が普通の鉤括弧、『山の傳説』は二重鉤括弧で括られ、ともに括弧閉じの前に半角の句点を打っているが、最初の(主人の)台詞、一九一頁1行め「どなたですか」の句点のみ、落ちている*25。そして紳士の身形であるが、4~5行め「洋服を着、鳥打帽をかぶった紳士が立って/いた。」となっていた。なお8行め「何もおてなしは」は第三刷でもそのままになっているが、これは『山の傳説』の「何ももてなしは」の誤入力及び校正漏れであろうから拾わなかった。11行め「旦那は今頃」、12行め「いや、実、」、15行め「そりえらい目に」、18行め「これでよかったら御飯を」、一九二頁1行め「そいつ御馳走だね。」
 【D】主人の亡妻と八歳の子供では一九二頁4~5行め「彼はこの春に・・・・二/人きりで」が異なる。(以下続稿)

*1:ルビ「しろうまだけ・やま・いだ・れんげ をんせん」。

*2:ルビ「をんせん・しげ・すぎ・はやし・けん・やど・ゆ/つ・さんけふ・たいき・す・ふ べん・よくかく」。

*3:ルビ「めいぢ・ねん・あき・さんけふ・あき・ふか・よくかく・やま・くだ・やど・ふゆ・し たく・とり/」。

*4:ルビ「げつくわう・うつく・よる」。

*5:ルビ「やど・と・たゝ・おと・も・ほだび・やまどり・や・しゆじん」。

*6:ルビ「こゑ」。

*7:ルビ「ちよつと・くだ・やまみち・まよ・もの」。

*8:ルビ「をとこ・こゑ」。

*9:ルビ「と・あをじろ・げつくわう・あ・やうふく・き・とりうちぼう・しんし・た/」。

*10:ルビ「ありがた・こんばんと・くだ」。

*11:ルビ「をとこ・び せう・うか・い」。

*12:ルビ「とま・なに・でき」。

*13:ルビ「と・いたゞ」。

*14:ルビ「かれ・しつない・は い・くつ・ひも・しゆじん・ふ しん・きやく・おも」。

*15:ルビ「だんな・いまごろ」。

*16:ルビ「じつ・てつぱう・う・き・たに・てつぱう・おと・うへ・みち/じ・おも・さいはひ・ひ・み/いのち」。

*17:ルビ「め・だんな・かた」。

*18:ルビ「とうきやう・もの・け ふ・いとい がはぐち・のぼ」。」

*19:ルビ「しんし・ろ ばた・よ」。

*20:ルビ「やまどり・ご はん」。

*21:ルビ「ご ち そう・いたゞ」。

*22:ルビ「ゆ・は い」。

*23:ルビ「ご はん・さき・いたゞ・なか」。

*24:ルビ「しゆじん・しよくじ・し たく・とり・かれ・はる・つま・いま・をとこ・こ・ふたり/やま。をんせん・あんぢう・ち」。

*25:しかしこれも『山怪実話大全』収録に際して体裁を統一するために加えた可能性もあろう。近々「サンデー毎日」を確認する機会を得たいと思っている。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(098)

 それでは、早速、杉村顕『信州百物語』の「蓮華温泉の怪話」が下敷きにした、と、断定して良いと思うのだけれども、その話と出典について確認して置こう。
・青木純二『山の傳説 日本アルプス(昭和五年七月 七 日印刷・昭和五年七月十七日發行・定價一圓八十錢・丁未出版社・12+3+9+309頁)
 3~214頁「1 北アルプス*1」78話の、29~37話めが白馬岳エリアを舞台とする話で、その最後の37話め、100~111頁3行め「晩秋の山の宿(白馬岳)」がそれである。なお、「目  次」(9頁)を眺めるに題に温泉名を冠した話が2つ、31話め、84~87頁5行め「蓮華温泉傳説(白馬岳)」は送り狼の話で温泉とは無関係だが、33話め、89頁3行め~91頁7行め「蓮華温泉縁起(白馬岳)」は温泉発見の経緯を語る。また、30話め、79頁11行め~83頁「山  之  坊(白馬岳)」の冒頭、80頁1~2行め、

 白馬岳に越後口から登る人は蓮華温泉に一泊する。その近くに山毛欅の森が茂る山之坊といふ/部落があり、登山者はこゝで食料や必要品を準備する。*2

も参考までに引いて置こう。
 本書には他に215~239頁「2 中央アルプス」8話、240~309頁「3 南アルプス」31話、合計117話を収録する。但し「南アルプス篇」の24話め「金 賣 吉 次(神坂峠)」は「中央アルプス篇」に含めるべきで、25話め「手 力 男 命冠着山)」と、26話め「背 く ら べ八ヶ岳)」以下最後の6話は八ヶ岳日本アルプスではない。富山県立山剱岳黒部峡谷新潟県蓮華温泉など周辺の県の話も少なからず収録するが、やはり長野県の話が多い。その内容、そして「晩秋の山の宿」と「蓮華温泉の怪話」の関係からも窺われるように、杉村顕の『信州の口碑と傳説』『信州百物語』に採られている話も少なくないことが察せられる。本当はそこまで済ませてから記事にすべきなのである(論文にするならそこまでしないといけない)が、遠からず果たすこととしたい。
 さて、本書は『柳田國男の本棚』と云うシリーズの第五巻(第一期配本)として復刻されている。
・『柳田國男の本棚』第五巻『山の伝説』一九九七年四月二七日 発行・定価一〇、〇〇〇円・大空社・A5判上製本

柳田国男の本棚 (5)

柳田国男の本棚 (5)

 巻頭(3頁。頁付なし)の大空社編集部「刊行のことば」に拠ると、柳田國男の学問に影響を受けた人々によって著された、2頁3行め「今日ではほとんど手に入らない希少な文献を精選して刊行」したもので、2頁11行め~3頁2行め、

・・・・、とりわけ柳田の愛顧を/受け、柳田自身の手によって序文・跋文・書評文等が書かれた文献のみを集成した愛好者にとって/は垂涎の学術ライブラリーである。柳田が記した各々の讃辞には、驚異と喜悦と激励とがないまぜ/となっている。・・・・

とあるように本書にも柳田國男の「山と傳説」と題する序文(12頁)がある。しかし、柳田氏は青木氏のことを知らないらしく、また本の内容についても褒めていない。10頁5~6行め「・・・・この著者の採集法に對して、或/は稍嚴峻に過ぎたる批判を下す必要もあるかと思ふ。・・・・*3」これだけでも良いが、最後の一文(11頁10行め~12頁2行め)とその少し前からも抜いて置くべきであろう。11頁8行め~12頁3行め、

・・・・。今日我々*4/の知りたいと思ふのは、傳説そのものゝ珍らしさでは無い。傳説はほんの僅かばかり諸國の例を/見て行けば、直ぐに人はその型の一致し一定して、特に例外の少ないことを見出すのである。そ/れを我々の如く貪つて尚集めて見ようとするのは、多くの比較によつて始めて「之に對した古人/の心」がわかるからである。故にさういふ資料として精確なるものを供給することが、もし採集*5【11】の目的であつたならば、それこそ多々益々辯ずである。青木君の「山の傳説」が大いに人に讀ま/れ、此上にも更に數篇を重ね行かんことは、自分はたゞ此條件の下に歡迎するのである。(昭和五/年六月二十八日箱根小涌谷に於て)*6


 柳田氏が小説じみた「晩秋の山の宿」を並べて置くような「伝説」集を歓迎するはずもない。しかしそこは柳田氏、ここでも私のように無遠慮に切り込んだりせず、氏一流の持って回った言い回しでの批判になっている。
 では、何故こんな本の序文を書いたのか、だが、その理由については青木氏の経歴を紹介する際に述べることにしよう。
 なお、この復刻では「山と傳説」2頁の10~11行めに一部欠損、10行めは読めるが、11行めは何文字か読み得ない。12行めは跡形もない。しかし幸いなことに「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されているので完全なもの(青木純二 著『山の伝説. 日本アルプス篇』6コマめ)を読むことが出来る。国立国会図書館蔵本には奥付の裏に広告(176コマめ)があるが、復刻版にはこれも収録されていない。
・信州の名著復刊シリーズ 第1期信州の伝説と子どもたち 第1巻『山の伝説』二〇〇八年十月一六日 第一刷発行・定価1,800円・一草舎出版

山の伝説 (信州の名著復刊シリーズ)

山の伝説 (信州の名著復刊シリーズ)

 11年前に復刊されているが、未見。(以下続稿)

*1:「目  次」には番号なし。

*2:ルビ「しろうまたけ・ゑちご ぐち・のぼ・ひと・れんげ をんせん・ぱく・ちか・や ま ぶな・もり・しげ・やまの ばう/ぶ らく・と ざんしや・しよくれう・ひつえうひん・じゆんび」。

*3:ルビ「ちよしや・さいしふはふ・たい・あるひ/やゝげんしゆん・す・ひ はん・くだ・ひつえう・おも」。

*4:ルビ「こんにちわれ/\」。

*5:ルビ「し・おも・でんせつ・めづ・な・でんせつ・わづ・しよこく・れい/み・ゆ・す・ひと・かた・ち・てい・とく・れいぐわい・すく・み いだ/われ/\・ごに・むさぼ・なほあつ・み・おほ・ひ かく・はじ・これ・たい・こじん/こゝろ・ゆゑ・し れう・せいかく・きようきふ・さいしふ」。

*6:ルビ「もくてき・た ゝ ます/\べん・あをき くん・やま・でんせつ・おほ・ひと・よ/このうへ・さら・すうへん・かさ・ゆ・じ ぶん・このでうけん・もと・くわんげい」。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(097)

・白銀冴太郎は杉村顕道に非ず(3)
 前回、根拠を示さずに少々過激とも取れる結論の一端を述べてしまった。
 これからその根拠を挙げて行くつもりだけれども、当ブログでは結論だけ述べて根拠となる資料の検討をやったのかやらなかったのか、曖昧にして置くようなことはせず、長くなっても出来る限りの検証をして置く主義なので、その後で結論を述べると残暑も終わってしまいそうである。そこで今回、先に結論の要点(現在気付いている見当)を述べてしまうことにする。
①事件のあった年の違い
 東雅夫昭和3年(1928)の「サンデー毎日」一頁古今事実怪談懸賞募集入選、白銀冴太郎「深夜の客」と、昭和9年(1934) 信濃郷土誌刊行会刊、杉村顕『怪奇伝説 信州百物語』所収「蓮華温泉の怪話」の作者を同一人物と見なした理由の1つに、両者が「奇妙な相似形」と評しても良いくらいに似ているにも拘わらず、何故か事件の起こった年だけ、「深夜の客」は大正3年(1914)であったのが、「蓮華温泉の怪話」は明治30年(1897)と違っていることがあるように思う。人の書いたものを「伝説集」に借用しただけなら何故、年を勝手に変えてしまったのかが理解しづらい。すなわち、杉村氏が設定を変更する権限を有する人物=作者であった、と云う発想になったものかと思う。
 しかしながら、実は明治30年(1897)とする、やはり「奇妙な相似形を成す」文献が、「深夜の客」と「蓮華温泉の怪話」の間に存在するのである。すなわち杉村氏は、この文献に依拠しただけなのである。
②「サンデー毎日」という媒体
 それから、「サンデー毎日」と云う、部数はそれなりに出て、全国展開していたにしても、出た当座に買って保存して置かないと、後で参照するのが難しい媒体に掲載されていたことが、もう1点、東氏が白銀冴太郎=杉村顕道と推測した理由として考えられるのではないか。すなわち、杉村氏は「深夜の客」が掲載された号を保存していて、『怪奇伝説 信州百物語』編纂に当たって、わざわざ引っ張り出してきたことになる。白銀氏が杉村氏だとすれば、後年『信州百物語』のような本を編むことになった際に、密かに1篇、雑誌に掲載された自身の創作(?)怪談を紛れ込ませることを思い付いた、と云うのもありそうなことではある。
 私は8月8日付(095)に引いた、2018年1月24日22:58の東雅夫の tweet の後半に見える『日本現代怪異事典』の「おんぶ幽霊」の検証の過程で、「蓮華温泉の怪話」ではなく「深夜の客」に酷似する話を、昭和31年(1956)刊の山岳雑誌「山と高原」、平成2年(1990)の山村民俗の会会報「あしなか」に、典拠を隠して(それどころか、併録した話には自分が地方で地元の人から直接聞いたかのような細工を施した上で)発表していた人物がいたことを突き止めた。これは剽窃の確認と云う結果となったせいか、随分骨を折った割に認めてもらえそうにない成果なのだけれども(苦笑)、加門七海が指摘する、現在も「蓮華温泉の怪話」と同じ話が登山家の間に語り継がれている事実の背景には、この「山と高原」誌の影響力があったのではないか、と私は勝手に思っているのである。いや、そうだろうと思う。
 それはともかく2018年12月3日付(073)に述べたように、「山と高原」と「あしなか」に剽窃して発表した人物についても、私は何かのきっかけで見た、自分が生まれた年の「サンデー毎日」と云う、戦後には稀覯であったろう雑誌に奇話を発掘したことを奇として、典拠を隠すことにも左程抵抗感なく自らの手柄のように使ってしまったのだろう、と好意的に解釈していたのだけれども、実は杉村氏が依拠したのと同じ、昭和5年(1930)に刊行された、山の伝説を集めた本にこの話は載っていたのである。――思えば安易な借用であった。
 それはともかく、これで従来「サンデー毎日」に依拠したと云う前提で進めていた「蓮華温泉の怪話」そして「山と高原」及び「あしなか」についての考察を、破棄して書き直さないといけなくなった。すなわち、これら旧稿それ自体はほぼ無効になってしまった。しかしながら、これらの積み重ねがあったればこそ、8月7日の夕方に久し振りに立ち寄った某市立図書館で、書庫の本の出納を待つ間に何の気なしに巡回した書架から手にした本から気付いて、その晩には、若干の検索作業によってほぼ新たな筋を引き直すことが出来たのだから、やはり無駄骨ではなかったのである。
③「高田市、青木方、白銀冴太郎」
 東氏のアンソロジーには私も多大な恩恵を受けているけれども、書誌などの記述をきちんとしてくれないことが多いこと、体裁を合わせるために本文から省いた内容を註や解説などに補って書き添えて置いてくれないことを残念に思っている。8月9日付(096)に『山怪実話大全』第三刷の【追記】について問題にしたように「越後高田」の住所を、そもそも本文と「編者解説」では省略していたことも、著者の素性を考える際に大きな手懸りになるはずの情報なのだから、こう云った辺りまで(当ブログほど網羅主義になっては問題だが)は示して置いて欲しいのである。
 さて、東氏は、杉村氏の遺族(次女)から得た「越後高田(現在の上越市)の友人宅に寄寓していた時期がある」と云う情報を援用して、友人宅から「白銀冴太郎」の筆名で応募したものと見た。そうだとすれば、当時東京在住であった杉村氏がわざわざそんなことをした理由は、恐らく私が2018年8月11日付(030)に妄想したような按配であった、かも知れない。
 しかし、そんな無理のある想像はしなくても良かったのである。――では、この「越後國高田市馬出町六八、青木方/白 銀 冴 太 郎」とは誰なのか、と云うと、友人宅に寄寓していた國學院の学生などではなくて、高田市在住の「青木」と云う人物だったのである。本名では応募しづらい事情があったので、筆名で応募したのである。すなわち「青木=白銀冴太郎」なのである。――何故そんなことが云えるのかと云うと、①②に触れた、昭和5年(1930)刊『山の傳説』の著者が「青木」で、昭和初年当時、高田市在住だったからなのである。(以下続稿)

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(096)

・白銀冴太郎は杉村顕道に非ず(2)
 さて、問題の東雅夫 編『山怪実話大全』第三刷(二〇一七年一一月二五日 初版第一刷発行・二〇一八年 一 月二八日 初版第三刷発行・定価1200円・山と溪谷社・二三五頁)の追記だが、二二三~二三五頁「編者解説」の、昨日引いた箇所を一部差し替える形で追加されている。二三四頁3~14行め、書き替えられた箇所を仮に太字にして示した。

・・・・。全体の構成や描写の共通性に照らして、顕道が「深/夜の客」にもとづいて再話したことは明らかだろう。もうひとつ考えられるのは、白銀冴太郎が顕道の筆名である可能性だ。
【追記】本書の刊行後、「深夜の客」をお読みになった杉村翠さん(顕道の御息女)から、若き日の顕道が、越後高田(現在の上越市)の友人宅に寄寓していた時期があること、そしてサンデー毎日」の懸賞募集にも何度か投稿していたようだという御教示を賜わった。確証こそ無いものの、「深夜の客」が顕道の作品である可能性は極めて高いといえよう。
 さて、次に問題となるのは、果たして「深夜の客」が「木曾の旅人」の書き替えなのか、/それとも両者に共通する何らかの原話があるのか、という謎だ。発表のタイミングから見て、/「深夜の客」の作者が綺堂作品を目にした可能性は高いように思われるが、綺堂もまた巷間/に伝わる怪談奇聞をしばしば創作の素材としており、後者である可能性もいちがいに否定は/できない。


 ここで1行多くなったため、以下の段落は第一刷に比べ、1行ずつ後にずれている。東氏の2018年1月15日13:48の tweet の時点で版元から増刷の連絡を受けてから、前回引いた2018年1月24日22:58の tweet までの短時日に急遽執筆したためか、説明にも不十分なところがある。二三五頁には第一刷で3行分の余白があったのでまだ2行分余裕がある。もう少し書いても良かったのではないか、と思うのだけれども、結論を先に言えば、この【追記】は破棄されるべきもので、そもそも「蓮華温泉の怪話」を(杉村氏の作として)アンソロジーに入れる処置自体が、今後なされるべきではないと云わざるを得ないのである。
 少々先走ってしまったが、ここで東氏が杉村氏の次女から得た情報について整理して置こう。まづ、前回引用した、第一刷刊行直後の電話の内容の tweet に、
  ① 文体に、杉村顕道の文章に共通する感じがある。
  ②「サンデー毎日」に投稿したことがあった。
とあったが、この【追記】では①の印象論は排除され、代わりに③が追加、②も微妙に変化している。
  ③ 若き日の杉村顕道が、越後高田の友人宅に寄寓していた時期がある。
  ②’「サンデー毎日」の懸賞募集に何度か投稿していたようだ。
 このうち②については、2018年12月1日付(71)に取り上げた、東氏の2018年11月28日18:51の tweet に、

>前RT 「サンデー毎日」の懸賞応募といえば、若き日の杉村顕道!(『山怪実話大全』参照)(雅)

とあって、どうも東氏は確定事項の如く扱っているようだ。これについては(私が第三刷の【追記】を見たのは、2018年8月8日付(27)の【2019年6月14日追記】に述べたように、今年の6月中旬なので【追記】では「何度か投稿していたようだ」と改められていることは知らずに)2018年11月28日付(68)に「サンデー毎日」大衆文芸第19回(昭和11年/1936年度・下)佳作の杉村顕「先生と青春」が、杉村氏の娘が知っていた件であろうとの見当を示して置いた*1
 そして③については、このままでは読者の多くが東氏の意図を理解出来なかっただろうと思われる。すなわち、私は2018年8月6日付(25)に言及した、東氏の2017年9月4日1:03 の tweet に掲載されていた写真にて「越後國高田市馬出町六八、青木方/白 銀 冴 太 郎」と応募者の住所が「サンデー毎日」に掲載されていたことを知っていたので、これは或いは、2018年8月11日付(31)の後半に灰色で「NHKたぶんこうだったんじゃないか劇場」ばりに書き連ねた妄想も、案外当たっているのかも知れない、と思ったものだが『山怪実話大全』の本文では越後国高田市の住所は省略されており、「編者解説」にも越後からの応募であった件には触れていなかったから、ここで唐突に「越後高田(現在の上越市)の友人宅」と切り出されても、地理に疎い読者は東氏の意図するところが分からなかったろうと思われる。
 それはともかく、この「越後高田」の件は電話の内容の tweet になかったことと、少々上手く出来過ぎていることが引っ掛かったのである。(以下続稿)

*1:「複数」と云われると考え直すべきか、とも思うのだが、tweet の「あった」が「いたようだ」に変化しているのも少々自信のない回想と云った風情であるし、昭和11年(1936)の大衆文芸の佳作入選も娘たちの生まれる前、昭和3年(1928)の「サンデー毎日」事実怪談懸賞公募入選の「深夜の客」はさらに遡るのである。「何度か」が事実であったとしても、特にこれを指しているとすることには、慎重であるべきだろう。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(095)

・白銀冴太郎は杉村顕道に非ず(1)
 当ブログではこれまで、岡本綺堂「木曾の旅人」を源とするとおぼしき怪異談についてブログ開始直後の2011年1月3日付(002)に、阿刀田高「恐怖の研究」に於ける再話や、2011年1月23日付(008)にて松谷みよ子『現代民話考』に時代を現代にずらした話が載っていること、さらに2013年6月30日付(019)に見たように加門七海が見付けたとされていた、昭和9年(1934)刊、杉村顕(後に出家して顕道)『信州百物語 信濃怪奇伝説集』所収「蓮華温泉の怪話」について2013年7月1日付(020)、既に昭和57年(1982)に国文学者の星野五彦がその著書『近代文学とその源流』に取り上げていたこと等を指摘して来た。
 そこで丁度5年間休んで、昨年再開したのは一昨年刊行された東雅夫 編『山怪実話大全』に紹介された、昭和3年(1928)夏の「サンデー毎日」の懸賞に新潟県高田市(現・上越市)から「白銀冴太郎」の筆名で応募、入選した作品「深夜の客」に注目してのことである。東氏も指摘する通り「蓮華温泉の怪話」は、この「深夜の客」の書き替えとしか思えないのだが、杉村氏が何故そんなことをしたのか、について、東氏は第一刷の「編者解説」では、以下のように述べていた。一部、丁度1年前の2018年8月8日付(27)及び、8月11日付(30)の引用に重なるが、今度は省略せずに抜いて置こう。二三四頁3~13行め、

・・・・。全体の構成や描写の共通性に照らして、顕道が「深/夜の客」にもとづいて再話したことは明らかだろう。もっともこれは再話文学の常道であ/り、かの小泉八雲も「文藝倶楽部」の「諸国奇談」に載った読者投稿作品をもとにして「十/六桜」や「幽霊滝の伝説」などを執筆している。田中貢太郎が『遠野物語』所載の話を再話/している例もある。「深夜の客」は誌面に大きく「事実怪談」と謳われており、内容も『信/州百物語』の編纂企図に相応しいものであるから、顕道がこれを蓮華温泉に伝わる巷説の類/と捉えて蒐集対象としても無理からぬところと思われる。ここで問題となるのは、果たして/「深夜の客」が「木曾の旅人」の書き替えなのか、それとも両者に共通する何らかの原話が/あるのか、という謎だ。発表のタイミングから見て、「深夜の客」の作者が綺堂作品を目に/した可能性は高いように思われるが、綺堂もまた巷間に伝わる怪談奇聞をしばしば創作の素/材としており、後者である可能性もいちがいに否定はできない。


 以後の経緯も2018年8月8日付(27)に略述したが、今度はなるべく詳しく述べて置くこととしよう。――東氏は「編者解説」にはこのように書いていたのだが、刊行直後の2017年11月13日23:53 の tweet に、

ちなみに、何の根拠もないため解説には書かなかったのだが、白銀冴太郎「深夜の客」と杉村顕道「蓮華温泉の怪話」の謎めいた関係については、もうひとつの可能性が存在する(かも知れない)。それは白銀冴太郎が、杉村顕道の別名義である可能性だ。(雅)

と述べていた。ところが翌朝、2017年11月14日9:42の tweet に、

つい先ほど、杉村顕道の娘さんである杉村翠さんからお電話をいただいた。昨夜、『山怪実話大全』をお読みになって、「深夜の客」の作者・白銀冴太郎とはどういう人か、気になったのだという。てっきり昨夜の小生のツイートをご覧になってのお電話かと思ったら、偶然とのこと。驚愕である。(つづく)


 そして分割された続き、2017年11月14日9:47 の tweet に、

(承前)翠さんも、白銀冴太郎という名前に心当たりはないそうだが、「深夜の客」の文体に、御尊父のそれと共通するものをお感じになったという。しかも顕道は「サンデー毎日」にも投稿したことがあったのだそうな! これは白銀冴太郎=杉村顕道という説が、にわかに信憑性を帯びてきましたぞ。(雅)

と、献本を受けて読むまで予断を持っていなかった杉村氏の次女の、素直な直感に基づく証言を得て、第三刷刊行直前の2018年1月24日22:58の tweet に、灰月弥彦の tweet(非公開になってしまったため引用不能)に対する返信として、

そうそう、『山怪実話大全』の3刷で解説に加筆したのが、まさにこの「木曾の旅人」系怪談群の件。白銀冴太郎が杉村顕道の筆名である可能性が極めて高くなったという追記を入れました。いずれ4刷が実現した暁には『日本現代怪異事典』の「おんぶ幽霊」の件も加えないと!(笑)(雅)

と、第三刷に「追記を入れ」た旨を記している。さらに灰月氏からの返信 tweet(非公開になってしまったため引用不能)に応えて、2018年1月25日0:51の tweet に、

『山怪実話大全』をご覧になった顕道のお嬢さんから、有力な情報を頂戴しまして。残念ながら確証は未だ得られていないのですけれど……。(雅)

と付け加えている。(以下続稿)

赤いマント(210)

武田百合子『ことばの食卓』(3)
 昨日の続き。
 小児性愛の気味のある牛乳屋が登場するのはここまでである。
 ①20頁5~12行め②21頁9行め~22頁2行め③21頁9行め~22頁2行め④179頁5~12行め

 まわってくる紙芝居屋は、二人ともが「黄金バット」をやっていた。小学校の|北口/の裏\門を出た先の道に、大きなお屋敷の塀が長々と続いていた。昨日の夕方、|裏門の/ところで\遊んでいたら、赤いマントの男が塀すれすれに向うの方へ駈けて|行った、と/友達が言う。\その話を聞くと、赤いマント、黒の裏をひるがえして飛|ぶように行く怪/人の後姿と長い塀\とを、もう自分も昨日の夕方に見てしまった気|がしてくる。赤マン/トが振り向いたとき、\牛乳屋の顔だった、と言う友達がいた。|【②21】そうじゃない、あの牛/乳屋は人さらいだったので\牢屋に入れられている、だから、|この頃来ないのだ、おか/あさんがそう言った、と言う友\達がいた。


 「あの牛乳屋」が来なくなって、牛乳はどうしていたのだろうか。
 それはともかく、紙芝居が「黄金バット」だったために、赤いマントの怪人の幻影を見た友達が現れた、と云う風に読める。しかし複数の友達が見ているようである。少々普通でない牛乳屋に対して、大人たちが確かめもせずに得体の知れない者としてあらぬ噂を述べていた情況は相変わらずである。そして武田氏は、「黄金バット」の強烈な印象からただちに、怪人の姿を「見てしまった気がして」しまうのである。
 さて、ここで問題になって来るのは、この話はいつのことか、と云うことだが、8月5日付(208)に引いた鈴木修 編「武田百合子略年譜」の続きを見て置こう。『あの頃 ――単行本未収録エッセイ集』512頁11行め~513頁4行め、

一九三八年(昭和十三) 十三歳
四月、神奈川県立横浜第二高等女学校入学。【512】
 
一九四二年(昭和十七) 十七歳
八月、長兄・新太郎結婚。この頃、樫本みつ、鈴木家を辞去。
 
一九四三年(昭和十八) 十八歳
三月、同女学校卒業。学校の紹介で横浜の図書館に勤務。・・・・


 武田氏が栗田谷尋常小学校を卒業したのは昭和13年(1938)3月、4月に神奈川県立横浜第二高等女学校(現在の神奈川県立横浜立野高等学校)に入学している(3回生)。横浜にも赤マント流言が広まっていたことは、小沢信夫の小説「わたしの赤マント」に、2013年10月28日付(07)に引いたように雑誌への投稿の形で紹介されているものがあるが「葉山」在住の「鷹司由紀夫」は誰のことなのか、見当をつけられないままである。かつ「横浜の山手小学校」と云うのも現在、見当たらない。8月5日付(208)に述べたように、空襲で焼失して統廃合されてしまった可能性もあるけれども。しかし内容は2018年11月23日付(165)に引いた、やはり小学校の低学年の頃に横浜で赤マント流言を体験した評論家赤塚行雄の回想と重なっている*1。ただ、2018年11月23日付(165)にも述べたように時期が、東京と同じく昭和13年度のうちであったのか、それとも昭和14年度に入ってからなのかが、はっきりしない。
 さて、武田氏は昭和13年度に高等女学校に入学しているから、小学校の裏門や紙芝居屋と絡めたこの回想は昭和12年度以前のことのように思われる。だとすると昭和14年(1939)2月中旬に東京で大流行した赤マント流言よりも以前のこととなる。どこかに記憶違いが混ざっている可能性もあろうし、昭和14年に赤マント流言が横浜で広まった当時、武田氏がどのように接したのかも気になるところ(すなわち、殆ど意識せずに過ごしてしまったのか)だが、書かれている通りであったとすれば、これは赤マント流言以前の、その発生・流行の素地を述べたものとして位置付けられるように思われるのである。(以下続稿)

*1:「由紀夫」と「行雄」が重なっていることも少々気になるのだけれども。

赤いマント(209)

武田百合子『ことばの食卓』(2)
 昨日の続きで「牛乳」について、牛乳を飲まされていた話題が赤マントに展開して行くまでを見て置こう。
 昨日引用した箇所に続いて、牛乳配り=牛乳屋について描写する。①17頁7行め~18頁1行め②18頁9行め~19頁3行め③18頁9行め~19頁3行め④177頁1~8行め、

 牛乳配りは、坂の下の木橋のまん中に自転車のスタンドを立て、少し汚れたズ|ック/の大\きな袋を提げて、坂を上ってきた。台所の窓にはまった桟の間から、三|本、白手/袋の手を\のばして差し入れる。洗い晒したピケの白帽子をかぷっていた*1
 耶蘇教の信者で*2、牛乳配りをしたあとは部屋の中で本を読んでる、だからお金|がな/い、\あの年でおヨメさんがいない、―――*3牛乳屋についてのこんなことを私は|どうし/て知ってい\たのだろう。大人たちが話すのを聞きかじっていたのだろう。|【②③18】あの年、と/いったって、い\くつぐらいなのかは、私はわからないのだ。
「嬢ちゃんは……?」私をよび出して、牛乳屋は窓越しに、いろいろなものをく|れ/【①17】た。


 次の段落(①18頁2~9行め②19頁4~12行め③19頁4~12行め④177頁9~16行め)に牛乳屋がくれた物が列挙されるが割愛する。この中には「小学校に上ったとき」に「くれた」物が挙がっていることが注意される。ぽつぽつ、まだ母親がいた頃の記憶が混じっているようだ。
 さて、こう書いていくと良い人みたいだが、この牛乳屋、やはり少々危ない人だったようだ。①18頁10行め~19頁9行め②19頁13行め~20頁13行め③19頁13行め~20頁13行め④177頁17行め~178頁13行め、

 牛乳屋が、下水のコンクリートの縁石ばかりを、わざわざ伝うような歩き方で|坂の/右は\【④177】じを上ってくる。普通の男より顔が白く、てらてらして見える。ひょろ|【②19】ひょろと/右の家に\入って、すぐ出てきて、ひょろひょろと斜め左の家の木戸を入|って、すぐ出/てくる。その\姿が目に入ると、私は家の中へ駈け込んだ。うっかり|して、先に見つけ/られたら、ズック\の袋を道端に置いて、白手袋の両手をひろげ|て追いかけてくる。肋*4/【①18】と腋*5の下に手を入れら\れて抱き上げられてしまう。牛乳屋|の顔は、そばで見ると、で/こぼこして、ぼつぼつがあ\る。「嬢ちゃん、たんと牛|乳飲んで、どれ、どのぐらい、/重たくなったかな」などと、つ\ばきを口の中にた|めた声で言う。
 体操の時間、眼の端の方がむず痒い気がして*6、そっちの方をふと見ると、白手|袋の/指を\校庭の柵の金網にかけて、顔をおしつけている牛乳屋がいる。
 学校の帰り、道いっばいに手脚をひろげて立ちはだかり、待ちかまえている牛|乳屋/を見\ると、友達は素早くわっと逃げてしまい、私はランドセルと草履袋ごと|抱き上げ/られて、\そのまま家まで送られてしまう。牛乳屋の白手袋の下の左の手|首あたりに、/腕時計をはめ\たみたいに、桃の青い絵があった。・・・・


 これが、昭和10年度、小学4年生のときにも続いていたらしいことは、①19頁12行め~20頁4行め②21頁2~8行め③21頁2~8行め④178頁15行め~179頁4行め、

 雪が降った朝、登校すると、先生と小使さんが校門にいて、今日は休み、家で|勉強/する、\とメガホンで言った。(二・二六事件の日だったのだろう、きっと。)|どこもか/しこも真白\くふくれ上ったために、いつもより狭くなった白い道を、嬉|しいような、/【①19】心配なような気\【④178】持で、ぼんやりと帰ってくる。どうして休みなのか|わからない。どう/してなのかとも思わ\ない。その電信柱を曲れば、あと少しで家、|という電信柱のとこ/ろに人がいる。真白な道\に、ゆらりと出てきて白手袋の手を|ひろげた。怖くて、何だ/か、自分からどんどん行って、\抱かさった。

とある。しかし、本当にこんなことがあったのだとして、今風に云えばストーカーと云うことになるだろう。朝、小学校が休校で、じきに戻って来ることを見越して鈴木家の近くで待ち構えていたとは。しかし昭和11年(1936)2月26日だとすると「二人の弟」の1人、進は3学年(進が早生れなら2学年)違いだから一緒に登校していただろうと思うのだけれども。(以下続稿)

*1:④ルビ「ざら」

*2:④ルビ「ヤソ」。

*3:②③④は「――」2字分。

*4:ルビ「あばら」。

*5:④ルビ「わき」。

*6:④ルビ「がゆ」。

赤いマント(208)

武田百合子『ことばの食卓』(1)
 8月4日付「武田百合子『ことばの食卓』(2)」にて、『ことばの食卓』諸本の体裁を確認するために2篇め、「草月」の連載では第1回に当たる「牛乳」を例に取り上げたが、この「牛乳」に赤マントが出て来るのである。しかしながら、色々と問題があるので確認しつつ眺めて置こう。
 ①15頁、牛乳を飲まされるようになった切っ掛けは「やっと歩けるくらいのときに・・・・死にかけてからのことだそうだ」が、そこは伝聞で回想ではない。ここで回想されるのは「小学校へ上ったら、要注意虚弱児童に指定されて、身体検査のたびに学校から手紙を持たされる」ような按配のため「二人の弟」と「お風呂から上ると」温めた「牛乳を飲み干させ」られたと云う体験だが、その役目を「やかましく」務めていた「おばあさん」と、牛乳を温める土鍋をかけた「長火鉢」について。8月3日付「武田百合子『ことばの食卓』(1)」に挙げた4種の収録位置は①17頁1~6行め②18頁3~8行め③18頁3~8行め④176頁12~17行め、改行位置は①「/」②③「|」④「\」で示した。

 引出しのついた側の長火鉢の前は、おばあさんの場所で、引出しのない側が、|父の/坐る\場所だった。長火鉢の前に坐っている母の様子は浮んでこない。病死し|た母の代/りに私た\ちを育ててくれる、この遠縁のおばあさんが、いつも坐ってい|る。つれあい/に早く死に別\れたあと、一人娘も亡くしたおばあさんが、事細かに|繰り返す仕方話/は、娘が生れたとき\と死んだときのことばかりだったから、私は|朧気に、赤ん坊は固/いうんこみたいに生れる\のだ、と考えていた。*1

とあるのだが、これについて武田百合子武田花 編『あの頃 ――単行本未収録エッセイ集』(二〇一七年三月二五日初版発行・定価2800円・中央公論新社・533頁・四六判上製本)511~521頁、鈴木修 編「武田百合子略年譜」を参照した。

 512頁1~10行め、

一九二五年(大正十四)
九月二十五日、神奈川県横浜市神奈川区栗田谷十二番地にて、鈴木精次、あさのの間に生まれ/る。異母兄姉に豊子、敏子(大正十二年七月二十四日死去)、新太郎。兄に謙次郎。
 
一九二八年(昭和三) 三歳
弟・進誕生。
 
一九三一年(昭和六) 六歳
弟・修誕生。
 
一九三二年(昭和七) 七歳
四月、神奈川県横浜市栗田谷尋常小学校入学。
七月十三日、母・あさの死去。以後、母方の大叔母、樫本みつが母代わりとして一家に入る。


 これによって「おばあさん」が「母方の大叔母」であったことが判明する。この大叔母が鈴木家に来たのは母の歿後、すなわち「小学校に上」る頃では「おばあさん」ではなく母が牛乳を飲ませる役だったはずなのだが「母の様子は浮んでこない」すなわちその記憶はないのである。また「二人の弟」の生年も判明するが、学年の違いを確認するためには年だけではなく年月(日)まで書き入れて欲しい。
 なお④『精選女性随筆集 第五巻 武田百合子』にも269頁に上下2段組の「略年譜  武田百合子」があり、下部右寄りに横組みで「*『武田百合子全作品 7 日日雑記』(中央公論社)、/『文藝別冊 武田百合子』所収の鈴木修氏編の年譜を参考/にさせていただきました。」とあって『あの頃』の「武田百合子略年譜」はここに挙がっている2冊に既に収録されていたらしい。それはともかく④『精選女性随筆集』には「二人の弟」や「大叔母」の記述は略されている。「牛乳」を読むためにはあった方が良いと思うのだが。
 栗田谷小学校は現存しない。Y・Y NET(YOKOHAMA-YUME-NETWORK:横浜市教育情報ネットワーク)の「横浜市立栗田谷中学校」HPの「学校紹介」の「沿革/学校のあゆみ」を見るに、「昭和24年(1949)7月22日」条に「栗田谷小学校校舎に移転」とあって、現在の栗田谷中学校の位置にあった。
 廃校になった経緯は少々ややこしく、Y・Y NET「横浜市立二谷小学校」HPの「学校紹介」の
「沿革/学校のあゆみ」を見るに、終戦前後10年ほどについて、

昭和16(1941)年04月  横浜市二谷国民学校と改名
昭和19(1944)年08月  校舎が陸軍病院として使用される
昭和20(1945)年05月  校舎が横浜大空襲で焼失
昭和21(1946)年01月  栗田谷国民学校に統合される
昭和22(1947)年05月  横浜市立栗田谷小学校と改名される
昭和24(1949)年07月  栗田谷小学校が現在地に移り、横浜市立二谷小学校となる
        11月  現在の校章が定められる

とある。横浜市立二谷小学校は東急東横線東白楽駅からよく見える神奈川県立神奈川工業高等学校の南にあって、昭和20年(1945)5月29日の横浜大空襲で焼失して昭和21年(1946)には栗田谷国民学校、すなわち栗田谷小学校に統合されたのだが、栗田谷小学校の校舎が新制中学校に転用されることになったため、空いていた二谷国民小学校の跡地に戻って、名前も二谷小学校と改められたようである。大阪にしてもそうだが、空襲で焼失した学校の移転・統合・改名など複雑である。二谷小学校HPには是非とも、前身の1つである栗田谷小学校についても、その創立から一通り説明して欲しいところである。(以下続稿)

*1:④ルビ「しかたばなし・おぼろげ」。

武田百合子『ことばの食卓』(2)

 昨日の続きで、諸版を対照して見ることとしたいが、まづ「牛乳」を例に取って、諸版の体裁を確認して置こう。
 ①13頁(頁付なし)扉、上部中央に大きく「牛 乳」、14頁(頁付なし)白紙、15頁から本文で1頁14行、1行37字、15頁の本文冒頭、まづ5行分空白。16頁と17頁の間に頁付のない、本文用紙よりもやや厚く白く、表面を平滑にしていない用紙の表に、枠(11.4×11.0cm)に囲われた銅版画の静物画、背景の空と生物は黒で細密に描かれ、物を乗せている床面は薄い青緑色で影は差しておらず濃淡もない。裏は白紙。本文は21頁5行めまでで以下余白、22頁(頁付なし)白紙。
 ②13頁(頁付なし)扉、上部中央に大きく「牛 乳」、14頁(頁付なし)白紙、15頁から本文で1頁14行、1行36字、15頁の本文冒頭、まづ5行分空白。17頁(頁付なし)に枠(8.9×8.5cm)に囲われた銅版画の静物画、床面の青緑色は濃く、銅版画も白黒のコントラストが強調されている。22頁10行めまで本文。
 ③13頁(頁付なし)扉、上部中央に大きく「牛 乳」、14頁(頁付なし)白紙、15頁から本文で1頁14行、1行36字、15頁の本文冒頭、まづ5行分空白。17頁(頁付なし)に枠(8.7×8.3cm)に囲われた銅版画の静物画、床面の青緑色は①と同じくらい(やや濃いか)。22頁10行めまで本文。
 ④175頁(頁付なし)、3行取り2字下げでやや大きく「牛 乳」、3行空けて本文。本文は1頁17行、1行40字。180頁2行めまで。挿画はない。
 すなわち②③は字配りも同じ。①②③の野中ユリの挿画の位置を〈 〉内に注記した。
・「枇 杷」①7~11頁②7~12頁③7~12頁④172~174頁
・「牛 乳」①13~21頁〈16~17頁〉②13~22頁〈17頁〉③13~22頁〈17頁〉④175~180頁
・「続 牛 乳」①23~31頁〈24~25頁〉②23~32頁〈27頁〉③23~32頁〈29頁〉
・「キャラメル」①33~42頁〈40~41頁〉②33~43頁〈39頁〉③33~43頁〈39頁〉
・「お 弁 当」①43~51頁〈48~49頁〉②45~54頁〈51頁〉③45~54頁〈51頁〉④181~186頁
・「雛祭りの頃」①53~61頁〈56~57頁〉②55~64頁〈59頁〉③55~64頁〈59頁〉
・「花 の 下」①63~71頁〈64~65頁〉②65~74頁〈69頁〉③65~74頁〈69頁〉④187~192頁
・「怖 い こ と」①73~81頁〈80~81頁〉②75~84頁〈81頁〉③75~84頁〈81頁〉
・「誠 実 亭」①83~91頁〈88~89頁〉②85~95頁〈91頁〉③85~85頁〈93頁〉
・「夏 の 終 り」①93~101頁〈96~97頁〉②97~107頁〈101頁〉③97~頁107〈101頁〉④193~198頁
・「京 都 の 秋」①103~111頁〈104~105頁〉②109~119頁〈113頁〉③109~119頁〈113頁〉④199~204頁
・「後楽園元旦」①113~122頁〈120~121頁〉②121~132頁〈129頁〉③121~132頁〈129頁〉
・「上 野 の 桜」①123~131頁〈128~129頁〉②133~142頁〈139頁〉③133~142頁〈139頁〉
・「夢、覚え書」①133~141頁②143~151頁③143~151頁
 ④には末尾に下寄せでやや小さく註がある。
 186頁6行め「*一八四ページ、正しくは「浪人旅殺生菩薩」。(編集部注)」これは①49頁6行め②52頁7行め③52頁7行め④184頁10行め「『殺生浪人旅』(だか『浪人殺生旅』)」に対する註で、④には「殺」の右脇上に「*」を打つ。
 204頁5行め「*二〇三ページ、正しくは「いその・えいたろう」。(編集部注)」これは①111頁4行め②118頁11行め③118頁11行め④203頁15~16行め「いそ/のえーたろー」やはり④は1字め右脇上に「*」を打つ。
 ①は141頁の裏に昨日引用した「初出一覧」があって奥付、奥付の裏は「作品社の好評既刊」7点の目録。
 ②③にはさらに、
・「あとがき」②153~154頁③152~153頁
・編集部「「ことばの食卓」について」③154頁(頁付なし)
種村季弘「解説 コドモの食卓」②155~160頁
埴谷雄高武田百合子さんのこと」③155~197頁
があり、埴谷氏の文章の末尾、197頁5行めには下寄せでやや小さく「(一九九四年十月)」とある。「「ことばの食卓」について」に、初出や単行本・文庫版と口絵写真について説明されている。
 ②は1頁白紙があって、その裏、中央下部に小さく「この作品は。一九八四年一二月一五日、作品社より刊行された。」とあって、さらに1頁白紙、目録が12頁あって奥付。従って個別の初出は説明されていない。③は1頁白紙で奥付、奥付の裏に「武田百合子 全作品」全7巻の目録。(以下続稿)

武田百合子『ことばの食卓』(1)

①単行本(A5判上製本

ことばの食卓

ことばの食卓

・一九八四年一二月一〇日第一刷印刷・一九八四年一二月一五日第一刷発行・定価一二〇〇円・141頁
ちくま文庫
ことばの食卓 (ちくま文庫)

ことばの食卓 (ちくま文庫)

・一九九一年八月二十二日 第 一 刷発行(160頁)
・二〇一六年四月 五 日 第二十三刷発行・定価640円
武田百合子全作品 5(17.2×11.2cm・上製本・1995年1月25日 初版印刷・1995年2月7日 初版発行・197頁・中央公論社・定価1456円
④精選女性随筆集 第五巻 武田百合子(18.8×12.0cm・上製本・二〇一二年 六月十日 第一刷発行・269頁・文藝春秋・定価1800円
 ④は「川上弘美 選」で、171~204頁「『ことばの食卓』より」として6篇を抄録する。
 本書の由来は①では、141頁の裏、奥付の前の頁に、下部、

初出一覧
枇 杷   (一九七九『物食う女』北宋社*1
牛 乳   (一九八一・六「草月」以下同)
続 牛 乳 (一九八一・八)
キャラメル (一九八一・一〇)
お 弁 当 (一九八一・一二)
雛祭りの頃 (一九八二・二)
花 の 下 (一九八二・四)
怖 い こ と (一九八二・六)
誠 実 亭 (一九八二・八)
夏 の 終 り (一九八二・一〇)
京 都 の 秋 (一九八二・一二)
後楽園元旦 (一九八三・二)
上 野 の 桜 (一九八三・四)
夢、覚え書 (一九八一・二)

とあるのみで、カバー表紙・カバー背表紙に「画・野中ユリ」扉に「画・野中ユリ」そして奥付に「挿 画 野中 ユリ」とある、野中ユリ(1938生)の銅版画の挿画が2篇めの「牛乳」から13篇めの「上野の桜」までの12篇にあって、最初の「枇杷」と最後の「夢、覚え書」にはないところから、この2篇と隔月連載だったらしい12篇とは由来が異なるであろうことは察せられるのだが、単行本に纏めるに当たっての感慨を記した文章を追加していないので判然としない。
 ②153~154頁(③152~153頁)に「一九九一年六月」付の「あとがき」が付され、冒頭、②153頁2~3行め(③152頁2~3行め)、

 一九八一年から八三年にかけて、『草月』に連載した十二篇と、ほか二篇を加/えて、一九八四年末に作品社から上梓したものです。

と説明され、末尾近く、②154頁5~6行め(③153頁7~8行め)、

 共作の形をとって画の方をおひきうけ頂いた野中ユリさんと、『草月』連載以/来、友達になれた(と自分では思いこんでいるのですが)のを喜んでいます。

とあって、野中氏の挿画が雑誌「草月」以来のものであったことが判明する。(以下続稿)

*1:二重鉤括弧は半角。