瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(372)

 当ブログではこれまで黒井千次(1932.5.28生)の著書を2点取り上げている。初回の記事はそれぞれ、2022年9月1日付「黒井千次『たまらん坂』(1)」と2023年1月1日付「黒井千次『漂う』(1)」である。
 黒井氏の小説は、海外に赴任することになった知人から頼まれて、高校非常勤講師を年度の途中で引き継いだとき、授業計画に従って教科書に載っていた「夜のぬいぐるみ」を読んだことがあったくらいであった。正直、訳の分らない話で、こういう事情でなければ絶対に読まなかったと思うが、色々苦しんで読解に努めているうちに、授業中に急に腑に落ちてすらすらと説明出来るようになったのだった。指導書(虎の巻)のようなものはあったはずだが、渡されもせず私の好きなようにやって下さい、と言われて、大学での教職課程での授業の組み立て方を思い出しながら必死に取り組んだのだった。斎藤茂吉「死にたまふ母」も何首かは中学のときに習って知っていたが、初めて連作として精読して深い感銘を受けた。あのときほど真剣に、他人に伝わるよう読解に励んだときはなかったかも知れない。しかし、その後長く勤めた女子高の教科書には黒井氏の作品は載ってなくて*1、似たような作品としては安部公房(1924.3.7~1993.1.22)の「赤い繭」が載っていた。安部氏の作品は別の高校で「棒」をやって、この2作の訳の分らなさは今でも面白おかしく(?)説明することが出来るが、「夜のぬいぐるみ」はもう殆ど忘れている。
 それが『たまらん坂』を読もうと思ったのは、今、私が都下に住んでいると云うこともあるが、2022年9月3日付「黒井千次『たまらん坂』(3)」に述べたように講談社文芸文庫版には「年譜」があるからで、どうせなら都下を舞台にした『たまらん坂』を借りてみよう、と云う次第なのである。
 更に『漂う』も借りて読んだのは、この「年譜」と掛合せれば2023年1月2日付「黒井千次『漂う』(2)」に示したように黒井氏の経歴をある程度辿ることが出来ると思ったからである。
 では、何故、黒井氏の経歴を知ろうと思ったのかと云うと、黒井氏は赤マント流言当時、まだ学齢に達していなかったのだが、かなりリアルな赤マント流言体験を小説に書いているからなのである。
黒井千次『禁域』一九七七年一〇月 五 日 印刷・一九七七年一〇月一〇日 発行・定 価/九五〇円・新潮社・223頁・四六判上製本

 3篇を収録する自伝的小説集で、223頁の裏、奥付の前の頁の右下に小さく、

掲載誌
花鋏を持つ子供 新潮 昭和四十九年五月号
果実のある部屋 新潮 昭和五十二年四月号
闇に落ちた種子 新潮 昭和五十二年七月号

とある。
 このうち赤マント流言の時期を扱っているのは1作め、5~88頁「第 一 部 花鋏を持つ子供」である。
 私が本作に気付いたのは一昨年の7月、アメリカの大学がネット上に掲載誌「新潮」をスキャンして上げているのを見、それが『禁域』に収録されているのを確かめて、都下の2つの市立図書館から借りて、本作だけを読んだのである。
 出来れば続く「果実のある部屋」から「闇に落ちた種子」更に『春の道標』、『黄金の樹』へと読み進めたかったのだが、本作に描かれている主人公の、そこまでの意識はないにせよ、悪意としか云いようのない悪行が、少し思い上がっていた子供だった私にも思い当たるような気がして、本作は最後まで読み通したものの、続けてその先を読み進めようと云う気が失せてしまったのである。
 さて、本作「花鋏を持つ子供」は「新潮」第71巻第5号(昭和49年5月)6~51頁に掲載されているのだが、今、ネットでは閲覧できなくなっている。国立国会図書館デジタルコレクションでも「国立国会図書館限定公開」である。単行本との詳しい比較までして置けば良かったと後悔しているが、見たところ書き換えなどはなされていないように見えた。いづれ初出誌でも確認することにして、今は単行本により内容を確認して行くこととしよう。(以下続稿)

*1:短歌も連作を載せるようなことはなく1人2首(俳句は2句)ずつ、かつ入試に短歌がメインで出題されることはないから授業でも申し訳程度にしか取り上げさせてもらえなかったから、連作が世界を作って行く体験を生徒と共有する機会は、その後絶えてなかったのである。

赤いマント(371)

 昨日の続き。
加藤廣『昭和からの伝言』(2)
 加藤氏は現在の東京都新宿区高田馬場で生れている。このとき父親はまだ生きていたが、療養生活に入っていて同居はしていなかったのであろう。
 加藤氏の家は、16頁14行め「ボクの家のような新興住宅」或いは17頁5行め「貧しい新興住宅街」とあり、24頁1行め『高田馬場の学生相手の大きな下宿屋にはさまれた細い路地の奥の、むさくるしい陋屋」ともある。場所は16頁5行め「国鉄高田馬場駅周辺」で、17頁7行め「ボクの家と目と鼻の先にあった小学校(我が母校・戸塚第二小学校)」とあって、現在の新宿区立戸塚第二小学校(東京都新宿区高田馬場1丁目25番21号)の近所とすれば、現在の新宿区高田馬場1丁目と見て良いであろうか。しかし昔の町名では戸塚町なのか諏訪町なのかが分らない。
 それでは、赤マント流言に触れた箇所を見て置こう。24頁15行め~26頁5行め、

 さて、ボクたち家族の陋屋は、当時、まだ、母も娘時代の延長で、気持ちにゆとりがあったので/あろうか。依然として女学校時代の仲間の集まる隠れた集会所でもあった。
 祖母もまた嫌がらずに娘の友達を歓迎したようである。
 その歓迎には、毎回、祖母のつくった甘栗と、うずら豆のたっぷり入った赤飯(おこわ)が用意/【24】された。その同窓会の当日になると、祖母は朝早く起きて、餅米を三升釜で二度蒸し、これに甘く/煮た小豆、さらに高田馬場で当時有名だった菓子店「花川」から甘納豆のクリとウズラ豆を大量に/買ってきて、まぜ合わせて甘い赤飯に仕上げた。
 これをまず重箱に包んで近隣――といっても子供の足で三十分もかかる落合から戸塚一丁目まで/――の親戚、知人に配り歩くのがボクの仕事だった。
 これには必ずお駄賃が一軒で五十銭(紙幣)ぐらいもらえたから喜んでやった。
 が、だんだんそうも行かなくなったのである。ひとつには夕方になると、当時、新聞にも出たが、/「赤マント」という人さらいが現れるとの噂が流れたからだ。夕方になると子供たちは怖がって出/歩かなくなった。
 当然ボクもその一人、お駄賃は欲しいし赤マントは怖いしで、心が揺れた。
 だが、何より残念なのは、母の同窓会の話を盗み聞きできなくなることだった。
 そこで、一計を案じた。徒歩をやめてバスに乗って時間稼ぎしたのである。子供のバス代は五銭/だったから、お駄賃で十分おつりがきた。それに「赤マント」の人さらいの危険もなくなる。一挙/両得というわけだ。
 こうして、いち早く家に帰り、我が家の母の女子会の隣部屋で、母たちの話の内容を存分に盗み/聞きしたのである。兄が勉強に夢中で、隣部屋の笑い声を嫌い、二階にいってしまったのも幸いし/た。
 さて、どの同窓会の話題だが――
 集まるのは三時過ぎから、皆、幸福な結婚をして、そろって中・上流階級の有閑マダムに収まっ/【25】た連中である。当時はまだ三十代後半、今でいう「アラフォー」だったろう。
 その内容は、旦那の関係するビジネスや政治、経済社会の内幕話や、はては旦那の女道楽まで話/題は豊富で、あけすけだった。
 もちろん、こちらはまだ十歳に満たない年齢だから、理解力に限界があったが、それでもぼんや/りながら話の内容は解った。ボクが年齢の割にマセていたせいである。


 さて、東京の赤マント流言は昭和14年(1939)2月下旬だから、加藤氏が小学2年生の3学期のことになる。
 幾らなんでも幼過ぎるのではないか、と思ったのだが、どうもそうではないらしい。27頁4~5行め、

 日中の間に不幸な戦が始まったのは昭和十二年(一九三七)。ボクが七歳の時である。
 当時は「戦争」といわず「事変」(支那事変)と呼んだ。‥‥


 9~13行め、

 この事変、今では敗戦国日本が「先に撃った」ことで一方的に断罪されている。だが、当時はそ/うではなかったようだ。
 七歳のボクは、この年(昭和十二年)の夏休みに、母の元に集まってきた女学校の同級生マダム/のおしゃべりの中で、隣の部屋からの盗み聞きで、「どっちが先に撃ったのでもない」という話を/聞いた確かな記憶がある。


 昨日引用した「波」のインタビューでは「満州事変勃発」と言っていたが、昭和6年(1931)9月では加藤氏は満1歳である。もし加藤氏がそう言ったとしても、編集部が訂正しないといけなかっただろう。昨日注意した「東洋英和」も本書には「仏英和」とあることを指摘して、刊行までに加藤氏に確認して置くべきだったろう。
 それはともかく、既に満7歳にして「盗み聞き」していた訳で、この7歳の記憶に誤りがないのだとすれば、赤マント流言に関しても満8歳のときの記憶としても構わないと思うのである。(以下続稿)