瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(09)

 3月24日付(03)の最後に予告してから随分迂回したが、ここで市谷加賀町の赤堀家を何度となく訪問している人物の回想を見て置こう。
反町茂雄『一古書肆の思い出』2 賈を待つ者(1)
 以下単行本を①、平凡社ライブラリー(HL)版を②とし、前者の改行位置を「/」後者のそれを「|」で示す。
 ①39~256頁「Ⅱ 全国に張りまわす珍本捜索網」②49~260頁「Ⅱ――全国に張りまわす珍本捜索網」の章、①115~132頁「6 弘文荘の善本鉱脈」②121~139頁10行め「6――弘文荘の善本鉱脈」の節の冒頭2項に赤堀家訪問のことが活写されている。
 1項め(①115頁2行め~117頁2行め②121頁2行め~122頁)の前半(①116頁2行め②121頁14行めまで)を抜いて置こう*1

 隠者赤堀翁の秘蔵本  昭和九年のお客様からの仕入れでは、赤堀又次郎さんからのを特筆|しなけ/ればなりません。赤堀先生は国語学の大家で、はやくすでに、明治三十五年に、『国語|学書目解題』/と云う、当時としては画期的な大著で名を知られたお方。私が初めてお目にか|かったのは、この年八/月末日、秋の近かろうとする頃でした。お宅は牛込区市ヶ谷加賀町二丁|目、静かな住宅街の奥まった/古い二階家、その階上の六畳間。赤くなった畳の色が、今に眼に|残って居ります。先生は七十四、五/歳ほど、残り少ない頭髪はボーボー、乱生した髭も鼻毛も|伸び放題。耳穴からも、細い毛がモジャモ/ジャと生え出している。奥様は小柄、顔はやせて小|さく、お色は青く、無口で従順、何でもハイハイ/と、よくお世話をなさる。
 「君から目録を送ってもらったが、古い和本を買うかい」
 「ハイ、頂戴します」【115】
 むくっと身をおこすと、ふすまを開けて、次室へはいられる。一山の古典籍を持ち出されま|した。
 「これだ」【121】


 昭和9年(1934)と云う時期から見て、3月24日付(03)に確認した市谷加賀町二丁目の住所のうち最後に住んで本籍地とした二番地の家であろう。赤堀氏は数えで六十九歳、満で68歳になろうとするところ。
 そして、示された和本の書目と見積額、それに対する赤星氏の反応、①116頁11~13行め②122頁9~11行め、

 「ソウカ」
と一言。
 これが、このお方との出会いでした。永く間も置かず。‥‥

と、この節の題からも察せられるように、反町氏は以後、赤堀氏から少なからぬ数の善本を、それなりの金額で買い取っているのだが、その内訳については将来、赤堀氏の著書、そして『弘文荘待賈古書目』を検討することになった際に(ならないかも知れないが)見て行くこととして、今回は割愛する。
 反町氏の日記等に基づいていると思われる赤堀家の訪問日は、9月10日*2、15日。12月(上旬?)、12月12日、昭和10年(1935)2月、6月、8月と続く。
 2項め、①117頁3行め~121頁5行め②123~127頁6行め「稀書を、ポツポツと」から、この、通い慣れた頃の描写を抜いて置こう。①117頁8行め~118頁2行め②123頁6~16行め、

‥‥。少ない時は三、四十円、多い時|は百円前後。いつもきまってハガキが来/ます。
  ◯月◯日午後◯時頃、来宅ありたし。
 使いなれて、尖*3の疲れたらしい古万年筆の走り書き、行数はいつも二行か二行半。指定の時|間に罷*4/り出ますと、六畳の中央に本が積んである。傍に黙然と坐って居られる。手をついて挨|拶をしますと、/すぐに、
 「アア、それだ」
と、あごで示される。二、三点か、多くて五、六点。決して多数ではない。平家や曾我物語|の様な冊数/の多いものはまれ。大抵は全部を風呂敷に包んで、軽く持ち帰れる程度でした。しか|し凡書は一点も/【117】ありません。どれも、どこか取柄のある珍本。種目は、時に国史のものも交じ|りましたが、先ず国/語・国文関係に限られ、特に国語のものが多いのは、御専門からして当然。|【123】‥‥


 そしてこの頃に買い取った書目を列挙するが、特に「富士谷御杖の自筆稿本」が学者たちに注目されていたことを述べ、①119頁1~4行め②125頁1~3行め、

‥‥、それらが一度に出るので/はなく、一、二点ずつ、ポツポツ出るのであります。郵便受|けの中に「◯月◯日……」のハガキを見/出す度に、「今度は何が出るのだろう。御杖のものもあ|るかな」などと、期待に胸をふくらませて、牛/込行きの電車に乗るのでした。

と回想する。赤堀氏の写真はまだ見ていないのだが、老碩学の風貌が眼に浮かぶようである。
 さて、この項の後半が、赤堀氏の伝記について、少々問題のある記述になるので、その引用検討は次回に回すこととしたい。(以下続稿)

*1:②は読点全て全角、鉤括弧開きは半角。以下の引用も同じ。

*2:赤堀氏の満68歳の誕生日。

*3:ルビ「さき」。

*4:ルビ「まか」。

赤堀又次郎伝記考証(08)

神宮教院本教館と古典講習科
「犬山壮年會雜誌」に「古典講科」とあったのに引っ掛かってしまい滞っていたのだが「古典講科」ならば幾らも論文がある。登場する人名も、全く知らない人ではない。ただ、私の専門の先行研究は、江戸時代後期の考証家の次が大正以降に飛んでしまう。幕末から明治初年生れの学者の業績は、一応見たけれども本文校訂は余り厳密でないので新しい翻刻・複製があればそれを見ることになる。だから名前は見ていても余りその業績や経歴に注意を払って来なかった。「古典講習科」の文字も目にしていたはずなのだが、これまで全く注意して来なかった。錚々たる学者の論文が幾つもあるので素人の私は怱々に切り上げることとしたい。
 神宮教院については三重県総合教育センター 編集三重県教育史』第一巻(一九八〇年三月二〇日 印刷・一九八〇年三月三〇日 発行・三重県教育委員会・口絵+25+1235頁)303~684頁「第三章 近代教育の創始」539~626頁「第三節 創設期の中学校」608頁4行め~616頁3行め「五、神宮教校と貫練教校」の前半、608頁5行め~609頁3行め「神宮教院/の 誕 生」609頁4行め~610頁4行め「神宮教院/の 教 育」610頁5行め~611頁6行め「神宮教院本/教館の設置」611頁7行め~612頁9行め「本教館の/閉  鎖」に扱われている。明治6年(1873)1月10日、宇治浦田町に神宮教院開設、明治9年(1876)10月「神宮教院規則」改正により神宮教院本教館が設置され、北は仙台から肥後・薩摩からも生徒を集めたが、生徒間の対立抗争の激化に伴い明治14年(1881)12月9日の閉寮布達を以て神宮教院本教館は閉鎖されている。
 その続きが685~1098頁「第四章 近代教育の形成」834~918頁「第三節 中等普通教育及び専門教育の整備」908頁4行め~918頁「四、神宮皇学館と真宗勧学院」の前半、908頁5行め~909頁11行め「本教館再興と/しての皇学館」909頁12~21行め「専門学校/への動き」910~911頁7行め「学科編成/の 変 遷」911頁8~18行め「教科内容/の 変 遷」911頁19行め~913頁2行め「神宮皇学館/官制の公布」である。
 なお、前付8頁「第一巻 執 筆 分 担 一 覧 (執筆順)」を見るに15人中13人め「阪 本 忠 一  第三章三節五・六、第四章三節四」とあって、神宮教院本教館と神宮皇学館については阪本忠一が担当している。阪本氏は平成6年(1994)4月から平成9年(1997)3月まで三重県立飯野高等学校の第8代校長、平成10年(1998)4月から平成11年(1999)3月まで三重県立松阪高等学校校長、平成13年(2001)4月には県教育委員会審議監から三重県立稲葉特別支援学校の10代目校長となり平成16年(2004)3月まで勤めて退職したらしい。
 さて、第四章に戻って、閉鎖された神宮教院本教館だが、半年を経ずに林崎文庫に皇学館として再興する運動が明治15年(1882)4月30日の神宮祭主久邇宮朝彦親王の布達以来なされて、明治16年(1883)4月28日には林崎文庫講堂にて皇学館開館式まで挙行していたが中々進展せず、生徒の募集を開始したのは明治18年(1885)1月であった。
 そうすると明治16年(1883)に赤堀氏が「久居」にいたのは、神宮教院本教館閉鎖の後、いづれ再興されるであろうことを見越して、帰郷せずすぐに復帰出来るようしばらく学友の家にでも身を寄せていたのではないか。しかし閉鎖から1年半経って皇学館開館式が挙行されたものの生徒の募集も始まらない。そうこうするうち、神宮教院本教館時代の先輩から、明治17年(1884)の古典講習科国書課第二期生の募集に応ずるよう勧められて、神宮教院(皇学館)再興に見切りを付けて上京したのではないか。
 古典講習科には神宮教院本教館が閉鎖される少し前に上京していた落合直文と、本教館閉鎖後に上京した池辺義象・青戸波江・橋本光秋が第一期生として入学していた。但し落合氏は明治17年に入営して退学しているので、赤堀氏が入学したときには不在であった。青戸氏も中途退学して池辺氏と橋本氏の2人が卒業している。
 しかし「犬山壮年會雜誌」第三號(明治21年12月)の赤堀氏の宿所が「落合直文方」となっていることからも、神宮教院本教館から古典講習科へ進むについて、落合氏から何らかの示唆、或いは慫慂があったらしく思われるのである。
 なお、落合直文(1861.十一.二十二~1903.12.9)については矢吹弘史『落合直文』(昭和十八年 六 月 五 日 印 刷・昭和十八年 六 月 十 日 發 行・定價 貳圓八拾錢・同文館出版部・口絵+八+目次+317頁)157~232頁「小傳篇」を参照した。168頁6行め~182頁2行め「 五十鈴川の清流」には神宮教院の学級規定や教育内容、当時の回想なども紹介されていて、中々参考になる。そして上京、192頁11行め~195頁1行め「 古典に憧る」が「大学古典科」入学を扱っている。(以下続稿)

赤堀又次郎伝記考証(07)

 これまで、近年の赤堀氏に関する論文・言及を取り上げて来なかった。ここまで手を拡げるつもりではなかったからである。
 しかし、ここまで来るとそれらも押さえて置くべきであろう。――例えば、赤堀氏と東洋大学の関係に気付いたところで、次の論文の存在に気が付いた。
・村嶋英治「最初のタイ留学日本人織田得能(生田得能)と近代化途上のタイ仏教」(「アジア太平洋討究」第41号1~87頁・2021年3月25日発行・早稻田大學アジア太平洋研究センター・274頁)
 村嶋英治(1951.5.3生)は当時早稲田大学アジア太平洋研究科教授で現在は名誉教授。
 私も院生時代に使ったことのある『織田佛教大辭典』で知られる織田得能(1860.十.三~1911.8.18)を取り上げたこの論文で、まづ3頁25行め~4頁4行め、

 得能は,1887年9月16日に井上圓了(1858‒1919)が哲学館(1906年東洋大学と改称)を開学/すると同時に井上に請われて同館の講師 ³ に就任した。担当科目は仏学(仏教史)⁴ であった。得能は/この後も,1891~95年,1897年,1899~1901年7月,1903年にも哲学館講師を委嘱され,印度学,/【3】印度哲学を講じた(『東洋大学人名録,役員・教職員 戦前編』東洋大学井上円了記念学術センター,/1996年,35頁)。同じく哲学館講師として三宅雄二郎は1887年9月~1900年の間,哲学,哲学史/を担当し,赤堀又次郎(1866‒1943?)は,1900年9月~1905年の間,国語を担当した(同上 9,/127頁)。得能は講師仲間の三宅や赤堀と親しく交際した。

と赤堀氏に触れている(脚註3、4は省略)。
 赤堀氏は明治31年(1898)から明治33年(1900)まで、井上哲次郎(1855.十二.二十五~1944.12.7)学長の東京帝国大学文科大学で講師を務めていたが、次いで明治33年から明治38年(1905)9月まで井上圓了(1858.二.四~1919.6.6)館主(学長)の、現在の東洋大学の前身哲学館(大学)の講師を務めている。前回問題にした大正期の『東洋大学一覧』に見える住所「市谷田町二丁目一番地」は、実はこのときのものではないかと疑っている。
 井上哲次郎の日記『巽軒日記』は部分的に翻刻されている。赤堀氏が文科大学講師を退任した明治33年(1900)を見るに、まづ1月「三十日、鷲尾源次郎、赤堀又次郎、山路栄吉、竹内楠三来訪す、」と見え、退任後の11月「十日、赤堀又次郎来訪す、」3日後の「十三日、赤堀又次郎来訪す、」とある(東京大学史史料室 編集・発行『巽軒日記 ― 自明治三三年至明治三九年 ― 』二〇一二年三月発行・一二八頁)。
 それ以前にも、井上氏がドイツ留学から帰国した明治23年(1890)11月「○廿六日、深沢伊三郎赤堀又次郎中島力造元良由次郎来訪*1、哲学会ニテ性善悪論ヲ講ズ、」と見えていた(東京大学史料に関する委員会 編集「東京大学史紀要」第12号(1994年3月・152頁)1~35頁、福井純子「資料 井上哲次郎日記 一八九〇―九二『懐中雑記』第二冊」)。
 この辺りに登場する人名は、後に栄達して帝国大学教授となった者もあれば、断片的にしか経歴が辿れない者もあるので、纏めて後日の課題としたい。
 村嶋氏の論文に戻って、赤堀氏を取り上げている節を見て置こう。73頁3行め「13.2 友人赤堀又次郎の見た帰国後の得能」の節で75頁21行めまで。冒頭(73頁4~5行め)を抜いて置こう。

 哲学館の同僚講師として,得能と親交があった,国文学や日本史の隠れた大家赤堀又次郎は,得能/の帰国から仏教大辞典執筆に至るまでを次のように書いている。

として以下前後1行空け2字下げで赤堀氏の文を、[ ]に註や補足を書き入れつつ引用している。末尾(74頁27行め)に「(赤堀又次郎「織田得能師と遺著仏教大辞典」『新愛知』1930年10月20日朝刊)。」とある。
 そして内容についての疑問箇所を1点指摘した上で、赤堀氏について以下のように述べている。

 赤堀又次郎(1866‒1943?)の経歴は,不明部分も少なくないが,最も詳しいものは,赤堀又次郎/『読史随筆』(書誌書目シリーズ,97. 書物通の書物随筆/宮里立士,佐藤哲彦編集・解題;第1巻,ゆ/まに書房,2011年8月)に付された,佐藤哲彦の解題である。
 赤堀には,『佛教史論』(冨山房,1923年1月),『社寺の経営』(武蔵野書院,1926年1月)とい/う仏教に関係した二著があるが,上記佐藤の解題では,赤堀と仏教の関係については全く触れていな/い。
『文芸年鑑 昭和十二年版』270頁の「赤堀又次郎」の項は,慶應二年(1866 年)生,愛知県出身,/【74】明治21年東大国史卒,元東大講師と記されている。正しくは彼が卒業したのは,東大国史ではなく,/東京大学文学部付属古典講習科である。東京大学文学部付属古典講習科は,明治15年5月30日に/設立され,国書課,漢書課の二部門がおかれた。両者とも2回募集しただけで,明治21年に廃止さ/れた(東京帝国大学東京帝国大学五十年史 上巻』1932年11月,721‒747頁)。
 赤堀又次郎は文学部付属古典講習科国書課の2期生(明治17‒21年在学)として入学し,明治21/年に卒業した。但し,古典講習課は選科の扱いであったようで,学士号は与えられなかった。それ故,/『東京帝国大学卒業生氏名録』には,古典講習課卒業生の名は記載されていない。赤堀は「たしか,/神官教院でしたか,伊勢の方の学校で,修学して来た人ですから,もう入学した時から相当国学に通/じていた」(和田英松「古典講習科時代」『国語と国文学』11巻8号,1934年8月,38頁)。成績優/秀であった赤堀は,卒業後直ちに,文科大学雇として採用されたようで,『国語学書目解題』の編纂/に従事した。同書は1902年に刊行された。
 赤堀は「気むずかしい人だ」(伊藤正雄『新版忘れ得ぬ国文学者たち』右文書院,2001年,39頁)/と評され,赤堀の『読史随筆』の解題を書いた佐藤哲彦も「赤堀は,才幹に溢れ,その見識を徳富蘇/峰や三田村鳶魚からも賞讃されている(『紙魚の跡』序文)割には,不遇の感が強い。それは前述の/伊藤著に見える,狷介で自尊の風が横溢した性格が災いしたからだろうか」と述べている。


 さて、この「赤堀又次郎伝記考証」だけれども、先月別の調べ物をしていて逢着した資料だけをさらっと紹介して、もっと早く切り上げるつもりだった。しかし赤堀氏と云えば『三田村鳶魚日記』に出て来たはずだと思って、うっかり『御即位及大嘗祭著作権侵害事件なぞに気付いてしまい、そうすると以前はそれ以上進むのに根気が要って、少し興味を持ってもそれ以上進展せずに忘れてしまったところが、国立国会図書館デジタルコレクションの刷新により幾らでも調べが進んでしまうので、ついでに色々確認して置こうと思って結果色々書き過ぎているうちに長くなって、当初書こうと思っていたことについてはまだ何ともしていない。
 そんな訳で、当然見るべき文献も見ていない。――『書物通の書物随筆』に赤堀氏の著書が2冊復刻されていること、そしてその解題に赤堀氏の伝記について記述があるらしいことにも、「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス」により気付いてはいた。コロナ以前であれば、公立図書館に殆ど所蔵されていないゆまに書房の書誌書目シリーズは月1回通っていた母校の大学図書館で借りて来たのだけれども、コロナ以来出入り出来なくなって、まだ見ていない。いや、元々私が赤堀氏について書こうと思ったのは、赤堀氏の伝記で不明とされていた点をほぼ明らかに出来たと思ったからで、『書物通の書物随筆』の解題ではそこは曖昧なままであることが察せられたので、まぁこの際、見ずに書いてしまおうと思って始めたのだった。しかし、やはり見ないといけない。
 それから、東大関係の文献をもっと見ないといけないと思っていたのだが、古典講修科については村嶋氏の論文の記述で解決した。――犬山壮年会の人たちは、まだ大学に馴染みのない時代のこと故、本科と選科の違いを意識せず、帝国大学を正規に「卒業」したものと捉えたのだろう。
 そしてやはり前回問題にした明治17年(1884)の『御会始歌集』で赤堀氏の居所が「久居」となっていることも、赤堀氏が明治17年の上京前、伊勢の神宮教院で学んでいたことと関係あるかも知れない。但し同じ伊勢(三重県)でも一志郡久居と度会郡宇治ではかなり距離がある。いや、神宮教院のこともまだ良く分からない。とにかく、伊勢から上京して来たので『東京帝国大学一覧』では出身地が「三重」となっていたのであろうか。しかし「国語と国文学」も、国立国会図書館デジタルコレクションでは館内限定公開で、これも母校の大学図書館では開架に並んでいたので特に見に行こうなどと以前は思わなかったのだが、ちょっとどうにかしないといけない。
 伊藤正雄『忘れ得ぬ国文学者たち』は母校の大学図書館で除籍になった初版を学部生か修士の院生時代にもらって、以来、院生室の机辺に備えて折に触れて手にしていたのだが、自宅に持って来てから死蔵している。久し振りにこれも掘り出して、読み返さないといけない。(以下続稿)

*1:「由」の左傍に「〻」を打って右傍に「勇」と訂正。

赤堀又次郎伝記考証(06)

 今日は市谷加賀町二丁目、そして早稲田南町への転居について筆を及ぼすつもりであったが、もう少々それ以前の学歴・職歴・住所に関する資料を漁って置きたい。
・『東京帝国大学一覧』
 「大学一覧」は大学の年間予定、沿革、法令、規程、在職の教員と在学生、学位授与者などを纏めたもの。
・『東京帝國大學一覽〈自明治三十一年/至明治三十二年〉明治三十一年十二月 十 日印刷・明治三十一年十二月廿八日發行・定價金四十五錢・東京帝國大學・五百六十六頁)
 百九十三~二百二十七頁「◯第十四章 文科大學」百九十三頁2行め~百九十七頁3行め「第一 職員〈同職中ノ氏名ハ/就職ノ順ニ揭ク〉」、まづ「學長」1名、次いで「教授及教師」15名、「助教授」4名、そして百九十五頁4行め~百九十六頁9行め「講師」14人、「授業囑託」1名、そして一旦仕切って「史料編纂委員」3名、最後に名誉教師としてチェムバレーンの名がある。赤堀氏の名は「講師」の最後、百九十六頁9行めに「國文學」が「文學士 赤堀又次郞 三 重」と見える。「就職」の順とすると明治31年からであろうか。なお直前に見える2人、7行め「宗教學」の「文學士 姉崎正治 京 都」と8行め「認識論」の「文學士 松本文三郞 石 川」であるが、姉崎正治(1873.7.25~1949.7.23)は後に東京帝国大学名誉教授、松本文三郎(1869.五~1944.12.18)は京都帝国大学名誉教授と栄達を極めている。
・『東京帝國大學一覽〈自明治三十二年/至明治三十三年〉明治三十二年十二月 一 日印刷・明治三十二年十二月十一日發行・定價金五十錢・東京帝國大學・五百九十二頁)
 百九十一~二百二十七頁「◯第十二章 文科大學」百九十一頁2行め~百九十五頁7行め「第一 職員〈同職中ノ氏名ハ/就職ノ順ニ揭ク〉」
、まづ「學長」1名、次いで「教授及教師」14名、「助教授」5名、そして百九十三頁4行め~百九十四頁11行め「講師」19名、「史料編纂委員」4名、最後にチェムバレーン。赤堀氏の名は百九十四頁2行め、松本氏がいなくなって姉崎氏の次、10人めに「國語學」の担当として見える。「文學士」の肩書はなく「赤堀又次郞 三 重」とのみ。確かに「犬山壮年會雜誌」第壹號には「帝國大學古典講修科ヲ卒業ス」とあるのだが、『東京帝國大學一覽』前年度(第二十一章)及びこの年度(第十九章)の「學士及卒業生姓名」の章に列挙された中に、赤堀氏の名は見当たらないのである。
 もう一つ疑問があるのは犬山壮年會の会員であったことから察せられるように、尾張国丹羽郡犬山(現愛知県犬山市)の出身であったと思われるのに、本籍地が「三重」となっていることである。同姓同名の別人がいたとも思えない。
・大塚眞彦(新三)橋本信行(省吾)編輯『〈明 治/十七年〉御會始歌集』櫻陰書屋(橋本省吾)
 上卷(前付+七十九丁)中卷(六十九丁)下巻(明治十七年七月三十日御屆・同   年 月  日出版・定價金壹圓貳拾錢・五十丁+正誤1丁+橘道守氏藏板書目1丁)の3冊から成る活版和装本。「御会始」は今の歌会始で、上卷前付に木版の「御製」を載せる。上卷卅九丁表12行めに、

青雲のたな引極みきこゆらん御空にたかき田鶴の諸こゑ 久居   赤堀又次郎

とある。久居は三重県一志郡、2006年1月1日に津市に併合されるまで久居市であった。『東京帝国大学一覧』に「三重」を本籍とする赤堀又次郎と同一人物だろうと思われるのだが、文科大学の講師として国文学と国語学を講じている赤堀又次郎は、やはり後年の著述家の赤堀又次郎で、そうすると犬山壮年会会員の赤堀又次郎としか思われないのだが、どのような縁で三重県(久居)を本籍としていたのだろうか。とにかく全て同一人物だとするとこの『御会始歌集』の和歌は明治17年(1884)の御会始のために明治16年(1883)末に作ったのだとして十八歳、満17歳のときの作である。
 当時、赤堀氏が何処で勉学に励んでいたのか、そう云った辺りのことも分からない。東京帝国大学の講師も2年間だけであったようで、前後の『東京帝国大学一覧』には赤堀氏の名は見当たらない。
・『東洋大学一覧』
 大正7年(1918)から昭和12年(1937)まで13種が現存している国立国会図書館には①大正7年度②大正13年度③大正14年度④昭和2年度⑪昭和9年度⑬昭和12年度の6冊が所蔵されており、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る。CiNii に拠れば、大学図書館に②大正13年度③大正14年度④昭和2年度⑤昭和3年度⑥昭和4年度⑦昭和5年度⑧昭和6年度⑨昭和7年度⑩昭和8年度⑪昭和9年度⑫昭和10年度⑬昭和12年度の12種が所蔵されている。しかし東洋大学附属図書館には所蔵がないようだ。
①『東洋大學一覽』(大正七年十二月十八日發行・東洋大學同窓會・三八二頁)
 三六頁7行め~四六頁1行め「五、前 講 師 (イロハ順/×は死亡)」の四三頁7行めに「赤 堀 又 次 郎」の名が見え、住所は「牛込區市ヶ谷田町二ノ一」である。氏名の上に「×」のある人物には住所の記載がない。
②『東洋大學一覽(大正十三年度)(大正十三年十一月三十日印刷・大正十三年十二月 一 日發行・非賣品・東洋大學内/觀想發行所・二七六頁)
 二三頁下段13行め~二八頁「前 職 員 (イロハ順/×は死亡)」の二七頁上段11行め、

牛込區市ヶ谷田町二ノ一      赤 堀 又 次 郎

とある。
③『東洋大學一覽(大正十四年度)(大正十四年十二月十五日印刷・大正十四年十二月二十日發行・非賣品・東洋大學内/觀想發行所・二七九頁)
 二四頁下段2行め~二七頁上段5行め「前 職 員(イロハ順/×は死亡)」では住所を入れるのを止めてそれぞれの段を更に上下に割って、二六頁上段13行め下に「赤 堀 又 次 郎」の名が見える。死亡者に住所を記載しないのであればいづれ空欄だらけになってしまうし、余り役に立つ情報でもないので氏名だけにしたのであろう。
④『東洋大學一覽(昭和二年度)(昭和二年十二月一日印刷・昭和二年十二月五發行・非賣品・東洋大學内/觀想發行所・三三八頁)
 二七頁下段14行め~三〇頁下段9行め「前 職 員(イロハ順/×は死亡)」二九頁下段14行め下に「赤 堀 又 次 郎」。
 ⑪昭和九年と⑬昭和十二年には「前職員」項がない。
 3月24日付(03)に見た「愛親会会報」の明治44年(1911)2月、明治45年(1912)2月時点の名簿では、赤堀氏の住所は牛込区市谷田町二丁目三十三番地となっていたが、『東洋大学一覧』の①大正7年(1918)と②大正13年(1924)には100mほど南の市谷田町二丁目一番地とある。現在の新宿区市谷加賀町2丁目1番地、浄瑠璃坂の仇討で知られる浄瑠璃坂の下で、市谷田町は住居表示が実施されていないので当時のままである。――これを信じれば、大正初年に市谷加賀町二丁目十四番地に転居して、また市谷田町二丁目に戻ったことになるが、既に見たように「図書館雑誌」第三十号に大正6年(1917)3月時点の名簿には市谷加賀町二丁目十五番地、「図書館雑誌」第四十七号の大正10年(1921)10月末時点の名簿でも市谷加賀町二丁目十三番地とあるから『東洋大学一覧』は恐らく明治30年代から43年以前、時期の特定は出来ていないが赤堀氏が東洋大学の講師を勤めていた時期の住所をそのまま記載しているのではないかと思われる。(以下続稿)

赤堀又次郎伝記考証(05)

 昨日の続き。
・「犬山壮年會雜誌」(2)
 第十三号から第三十七号までは国立国会図書館には所蔵がない。番号を打ち直して「第一輯」として「第十二輯」まで刊行された12冊は国立国会図書館に所蔵されており、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る。
・第一輯(明治二十五年十二月三十一日印刷・明治二十六年 一 月 一 日出版・五八頁)
 巻末「會 員 宿 所 姓 名 (いろは順)」八頁、「本 部 會 員 (在京之部)」二頁4行めに「赤 堀 又 次 郎」、宿所は「本郷區駒込追分町二番地峯岸方」。
・第貳輯(明治二十六年三月十一日印刷・明治二十六年三月十二日出版・六四頁)
・第三輯(明治二十六年五月六日印刷・明治二十六年五月六日發行・五六頁)
・第四輯(明治二十六年七月廿九日印刷・明治二十六年七月三十日發行・六四頁)
 「雜報」欄の「●東京通信」中に、7月14日の水谷叔彦の英国留学出発を前、12日四谷坂町五溪樓で開催された送別会で祝辞を述べたことが見える。
・第五輯(明治二十六年九月廿九日印刷・明治二十六年九月三十日發行・八八頁)
 「會誌」欄の、九月三日の本部總會に、出席はしていないが參事員の投票で次點となっている(5人当選2人次点)。
・第六輯(明治二十六年十一月廿六日印刷・明治二十六年十一月廿七日發行・九八頁)
 裏表紙(奥付)の裏の上段「廣告」、「轉居」6人「住所」2人の告知の1人めが、

轉居〈京橋區築地二丁目/廿一番地西方  〉 赤堀又次郎

である。
・第七輯(明治二十七年一月 三 十 日印刷・明治二十七年一月三十一日發行・非賣品・八二頁)
・第八輯(明治二十七年三月 三 十 日印刷・明治二十七年三月三十一日發行・非賣品・七六頁)
・第九輯(明治二十七年五月二十四日印刷・明治二十七年五月二十五日發行・非賣品・八〇頁)
・第十輯(明治二十七年七月二十四日印刷・明治二十七年七月二十五日發行・非賣品・八八頁)
 恐らく綴込みで横小本の「犬山壮年會雜誌第十輯附録」(明治二十七年七月二十四日印刷・明治二十七年七月二十五日發行・非賣品・一六頁)が附される。表紙の飾枠の中に「犬 山 壮 年 會 規 約/入 退 會 手 續 規 則/參 事 員 規 則/雜   誌   規   則/會 員 宿 所 姓 名 録/役   員   姓   名」と内容を並べる。九~一五頁「犬山壮年會會員姓名録 (いろは順)」の「本部會員 (東京市之部)」一〇頁2行め、

京橋區築地二丁目廿一番地西澤之助方    赤 堀 又 次 郎


・第十一輯(明治二十七年九月二十九日印刷・明治二十七年九月三 十 日發行・八四頁)
 七五~七六頁下段19行め「郷里彙報」の1条め、七五頁上段2~6行め、

    ◎教員の講習会
丹羽郡小學教員組合會にては去月一日より同十二日まで夏期講習會を開き東京より赤堀又次郎氏(犬山壮年會員)を聘して國語/を講習し尚隔日小折村高等小學校山田米三郎氏に請ひて唱歌を/講習せりと


・第十二輯(明治二十七年十一月廿二日印刷・明治二十七年十一月廿三日發行・九八頁)
 「學藝」欄に「文學小傳」を寄稿。
 裏表紙(奥付)の裏の「廣告」は、忘年会の告知と「轉居」6人「住所」6人「宿所」1人「寓居」2人の告知で、その1人めが、

轉居〈本郷區西片町十番地/はノ二十號上田方 〉 赤堀又次郎

である。
 この12冊には第十二輯に、本誌としては長篇の寄稿をしているのみ、ただ転居歴を辿ることは出来る。まだ結婚していないようだ。
 居住地の現在の様子や、どういう関係で下宿させてもらっていたのかなど、調べられなくもないが長くなるので今回はここまでとして、次回は一昨日予告した、早稲田南町のこと、そしてその前に長く暮らした市谷加賀町二丁目について、確認することとしたい。(以下続稿)

赤堀又次郎伝記考証(04)

・「犬山壮年會雜誌」の連載と住所(1)
 昨日の最後に見た『國語國文學年鑑』第貳輯に、当時の赤堀氏の住所が牛込区早稲田南町四番地とあることについて、その転居時期に触れた文献を取り上げる予定であったが、その前に赤堀氏の学歴に関連して、昨日の最初に触れた林幸太郎「大名華族と同郷会/――旧犬山藩主家成瀬家を事例に――」に取り上げられていた、旧犬山藩の子弟を中心に組織された犬山壮年会が東京で刊行していた「犬山壮年會雜誌」に見える赤堀氏の動向に触れて置きたい。
 犬山壮年会が発行した雑誌については林氏の論文の次の「」等に簡潔に説明されている。一一七頁下段17~22行め、

(38)壮年会では、明治一九年四月に『犬山壮年会雑誌』第一号を発行したが不許/可となり、同年六月に『愛親雑誌』(筆者の大部分は壮年会員)を発行、さらに明/治二一年一〇月に再度『犬山壮年会雑誌』第一号を発行した。明治二五年七月発/行の第三七号ののち、同二六年一月から『犬山壮年会雑誌』第一輯にナンバリン/グし直し、以降は隔月発行となっている(後藤吉三郎「創立五十周年記念大会を/迎へて」 『智仁勇』第三四一編〔昭和一〇年九月〕)。


 犬山城白帝文庫歴史文化館成瀬家文書には昭和19年(1944)2月に終刊となった改題後継誌「智仁勇」第366号まで所蔵しているようだが、国立国会図書館には「智仁勇」は所蔵されていない。「犬山壮年会雑誌」も第七號と第十四號から第三十七號までを所蔵していない。すなわち第一號から第六號、第八號から第十三號、第一輯から第十二輯の24冊を所蔵しており、国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧出来る。非發賣品
・第壹號(明治二十一年十月二十四日印刷・明治二十一年十月二十五日出版御屆・四十六頁)
 四十~四十一頁9行め「文苑」欄に、四十頁2行め~四十一頁2行め、赤堀又次郎「菊」の寄稿がある*1
 奥付の前の頁「本 部 會 員 人 名(羅馬字順)」18名、その1人めが「帝國大學古典講修科卒業生a赤堀又二郎」である。四十六頁とこの名簿の間に子持枠で4頁(頁付なし)の「會    告」がある。その1条め(1頁め2行め)に、

●七月十日會員赤堀又二郎氏帝國大學古典講修科ヲ卒業ス

と名前が違っているようだが明治21年(1888)7月10日帝国大学古典講修科卒業であることが分かる。
 5条め(2頁め4~11行め)、

●九月二十三日會員赤堀又二郎氏ノ卒業祝宴ヲ四谷坂町遠州屋(五溪樓)ニ開ク會ス/ルモノ十一人正副會長閣下特ニ金圓ヲ義捐シ費用ヲ補助ス出席人名左ノ如シ

として以下11人の連名、まづ會長の成瀬正雄、副會長の成瀬美雄の兄弟、そして3人めに「赤 堀 又 二 郎」の名が見え、最後は幹事の北尾鼎である。
 7条め(2頁め13行め~3頁め2行め)、

●十月七日月次會ヲ開ク出席スルモノ十人出席人名左ノ如シ

とあって続く連名の1人めに赤堀氏の名が見える。
 しかし月次会の記事等まで拾っていては大変である。――赤堀氏は東京本部の中心メンバーとして、第貳號から「論説」欄に歴史評論、そして「講義」に古文評釈を連載、たまに「雑録」記事も寄せている。しかし、この辺りを頁まで細かく拾って行くのも中々大変である。当時の(和綴)雑誌によくあることであるが、本文とは別に附録――本誌の場合「講義」は、各科目を少しずつ、科目ごとに独立した頁付で連載していて、後で切り離して綴じ直して1冊に纏めるような按配になっている。この紙数を一々勘定していっては大変なので、頁数は本文部分の頁付をメモして置くこととする。
・第貳號(明治二十一年十一月二十三日印刷・明治二十一年十一月二十五日出版・四十六頁)
・第三號(明治二十一年十二月二十日印刷・明治二十一年十二月二十日出版・三四頁)
 巻末「會告」中、「本 部 會 員 宿 所 姓 名  (羅馬字順)」の1人めに「赤 堀 又 二 郎」、住所は「麴町區飯田町五丁目二十七番地落合直文*2」で肩書は「帝國大學古典講修科卒業生」。
・第四號(明治二十二年一月二十日印刷・明治二十二年一月二十日出版・二八頁)
 巻末「會告」中、「本 部 會 員 宿 所 姓 名  (羅馬字順)」の1人めに「赤 堀 又 二 郎」、住所は「本郷區森川町壹番地宍倉方」で肩書は「帝國大學古典講修科卒業生」。
・第五號(明治二十二年二月二十三日印刷・明治二十二年二月二十三日出版・三八頁)
・第六號(明治二十二年三月十九日印刷・明治二十二年三月二十日出版・三八頁)
 一頁の子持枠のノド欄外に「犬山壮年會雜誌第六號附録(明治二十二年三月廿日發兌)」とあり八頁のノド欄外に奥付があって独立させることの出来る八頁の附録の四頁までが「犬 山 壮 年 會 會 員 宿 所 姓 名 明治二十二年二月三日調」で「本部會員  (羅馬字順)」の1人めに「赤 堀 又 二 郎」住所肩書とも第四號に同じ。
・第七號
・第八號(明治二十二年五月十四日印刷・明治二十二年五月十五日出版・六二頁)
・第九號(明治二十二年六月十七日印刷・明治二十二年六月十八日出版・五四頁)
・第十號(明治二十二年七月五日印刷・明治二十二年七月六日出版御屆・五〇頁)
・第十一號(明治二十二年七月廿八日印刷・明治二十二年七月廿八日出版・六二頁)
 「講義」の後に子持枠の十頁、その三~七頁「犬 山 壮 年 會 會 員 宿 所 姓 名 明治二十二年七月十日調」で「本部會員  (羅馬字順)」の1人めに「赤 堀 又 次 郎」、住所は「四谷區尾張町八番地水野鎬方」で肩書は同じ。
・第十二號(明治二十二年十一月九日印刷・明治二十二年十一月十日出版・三八頁)
・第十三號(明治二十二年十二月十八日印刷・明治二十二年十二月二十日出版・四二頁)
 赤堀氏の連載は論説「徳川氏の興亡を論ず」が第貳號(其一)、第三號(其二)、第四號(其三)、第七號(其四)*3、第九號(其五)、第十一號(其六)、第十二號(其七)に、講義「土佐日記講義」第貳號(其一)、第四號(其二)、第六號(其三)、第十號(其四)に分載されている。しかし国立国会図書館蔵書はこの後がしばらく欠けているので、何処まで続いたかは不明である。(以下続稿)

*1:表紙の「目 次」には「赤堀又二郎君」とある。

*2:「麴」が右を上に横転。

*3:第七號は国立国会図書館には所蔵されていないので推定。

赤堀又次郎伝記考証(03)

・住所と原籍
 ところで『御即位及大嘗祭』自跋に明治45年(1912)5月1日に「電車の為に負傷」とあることから、この辺りに絞って国立国会図書館デジタルコレクションを検索して見るに、事故のことは判らなかったが、当時の赤堀氏の住所と生年月日が判明した。
③「明治四十四年度愛親會會報愛親の花」明治四十四年七月七日印刷・明治四十四年七月十日發行・愛親會・五十+十八頁
④「明治四十五年度愛親會會報愛親の花」明治四十五年七月十二日印刷・明治四十五年七月十五日發行・愛親會・四十八+十三頁
⑤「大正三年度愛親會會報愛親の花」大正三年七月?・四十九+十六?
 「附」載の「愛親の花」は会員に募集した詩文を纏めたもの。大正三年度版は奥付を欠いており「愛親の花」が十六頁までだったのか、それとももう少しあったのかが分からない。――「愛親会会報」は国立国会図書館にはこの3冊しか所蔵しておらず、愛知県の公立図書館には所蔵がない。
 旧犬山藩士を中心とした親睦組織である愛親会については、一昨年発表された林幸太郎「大名華族と同郷会/――旧犬山藩主家成瀬家を事例に――」(「徳川林政史研究所 研究紀要」第五十五号(一〇三~一二三頁、2021年3月発行『金鯱叢書』第四十八輯所収)に詳しい。一〇七頁上「〔表1〕愛親会の会員数」に「愛親会会報」の、①明治四十一年度 ②明治四十二年度 ⑥大正九年度 ⑦大正十、十一年度 ⑧大正十二年度 ⑨自昭和五年度至昭和七年度 の6冊を利用しており、林氏が活用した犬山城白帝文庫歴史文化館所蔵成瀬家文書にはこの6冊のみ所蔵されていたようだ。「」一一七頁上段11~12行めに、

(23) 『明治四十一年度 愛親会会報』。なお、明治四一年度以前の愛親会報は現在/ 確認できておらず、同年度以降の会報も断片的にしか残存していない。

とある。国立国会図書館の ③明治四十四年度 ④明治四十五年度 ⑤大正三年度 の3冊は、成瀬家でも紛失してしまっていた本、と云うことになりそうだ。
 ①~⑨の番号は仮に現存する(と思われる)ものを整理するために打ったものだけれども、犬山まで行く用事がないので俄に全てを確認する訳に行かない。今は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る③④⑤について眺めておくことにする。
③二十七~三十一頁「東京愛親會會員宿所氏名並年齡(順序ハ生年月日ノ順ニ據リ算月ハ/本年二月迄トス、四十四年二月調)」の32人め(二十九頁2行め)に、

東京市牛込區市ヶ谷田町二丁目三十三番地 |赤 堀 又 次 郎|慶應二年九月十日生   四十四年六ヶ月

とあり④二十五~三十頁2行め「東京愛親會會員宿所氏名並年齡(順序ハ生年月日ノ順ニ據リ算月ハ/本年二月迄トス、四十五年二月調)」では30人め(二十六頁17行め)に見えており「宿所|姓名|生年月日」欄には変更なく「滿年月」欄が「四十五年六ヶ月」になっているのみ。
 東京都新宿区市谷田町は住所表示が実施されていないので2丁目33番地は現在もほぼ同じ場所で、法政大学市ヶ谷田町校舎(デザイン工学部)がある。但し法政大学の各種紹介 Web サイトに出て来る地上5階地下1階建てのある場所の大部分は34番地で、牛込中央通りに面して建つ、Web サイトに全く触れられていない3階建ての別棟のある辺りが、33番地である。
 ⑤二十五~三十頁4行め「東京愛親會會員宿所氏名並年齡(順序ハ生年月日ノ順ニ據リ算月ハ/本年二月迄トス、大正三年二月調)」にも30人め(二十六頁17行め)に見えており、

東京市牛込區市ヶ谷加賀町二丁目十四番地 |赤 堀 又 次 郎|慶應二年九月十日生   四十七年六ヶ月

と、『御即位及大嘗祭』と同じ住所である。林氏が参照した犬山城白帝文庫歴史文化館所蔵のものも参照出来ればもう少々細かく辿れるのだけれども。
・「圖書館雜誌」第參拾號(大正六年四月十日發行・日本圖書館協會)は「日本圖書館協會沿革略」七〇頁と「日本圖書館協會會員氏名録」一七頁から成るが、後者の一頁上段「日本圖書館協會會員氏名録(五十音順)大 正 六 年 三 月 調 (◎名譽、◯特別、△終身)」の「◯東京府東京市」の2人めに、

牛込區加賀町二ノ一五              ○赤 堀 又 次 郎

とあって、肩書はない。
・「圖書館雜誌」第四拾七號(大正十年十二月十七日印刷・大正十年十二月二十日發行・非賣品・日本圖書館協會・六十六+4頁)十四頁11行め~四十頁上段「日本圖書館協會會員氏名録  大 正 十 年 十 月 末 日 現 在」には3人めに、

牛込加賀町二ノ一三               赤堀又次郎

とある*1。「圖書館雜誌」には赤堀氏の経歴や業績についても少なからぬ記述があるが、追って確認することとしたい。
赤堀又次郎『衣食住の變遷』第一食物編(昭和七年一月二十日印刷・昭和七年二月十二日發行・定價金一圓三拾錢・ダイヤモンド社出版部・二+二+九+二〇四頁)の奥付には赤堀氏の名前の右に「東京市牛込區加賀町二ノ二」と添えている。
赤堀又次郎『國體及國史のはなし』(昭和十一年六月二十日 印  刷・昭和十一年六月二十九日 發  行・定價金貳圓・冨山房・一+八+一〇+五〇八頁)の奥付には「東京市牛込町加賀町二十二番地」と奇妙な住所が添えてある。――「二十二番地」だけでは一丁目か二丁目か分からない。「二ノ二」の誤読ではないかと思われるのである。
 牛込区市谷加賀町二丁目十四番地と十五番地は現在の新宿区市谷加賀町2丁目4番の北東角にある集合住宅(?)のある所で、大妻加賀寮の東、南東角の大日本印刷健康保険組合の北、十四番地はその中央から南・東を占め、十五番地は道路に面した北と十六番地に接する西を┏ 型に十四番地を囲うようにしている。そして十三番地は現在の新宿区市谷加賀町2丁目6番の南側、二番地は現在の新宿区市谷加賀町2丁目6番の北側(但し北東角を除く)である。
 そうすると電車で負傷した後、大正初年に牛込区市谷田町二丁目から牛込区市ヶ谷加賀町二丁目に移り、その後は南から北へ100mほどを、十四番地・十五番地・十三番地・二番地と少しずつ転居して行ったようだ。
久松潜一編『國語國文學年鑑』第貳輯(昭和十六年五月十三日印刷・昭和十六年五月二十日發行・定價三圓八拾錢・靖文堂・6+2+436頁)
 393頁(頁付なし)附録「〈國 語/國文學〉研究論文執筆者名簿――其 一――(發音記號式五十音順)」はその裏、394頁(頁付なし)に凡例として5項目、うち1項め、1~9行めに、

一、本名簿は、國語國文學年鑑第一輯の執筆者索引に基き、その中より、第一回として、昭和十五年秋、
  約四百人に對し左の如き事項に就いて照會を發し、その回答によつて作成した。
   ① 現  住  所
   ② 生  年  月
   ③ 原     籍
   ④ 勤 務 先(職 業)
   ⑤ 学     歴
   ⑥ 專 攻 題 目
   ⑦ 主なる著書論文

とあって、10行め「昭和十三年中に著作・論文を發表し」て『國語國文學年鑑』第一輯に執筆者として掲載された者について照会状を発し、その回答に基づいて作成したもので、15~16行め「回答に接しなかつた人々に就いては、編集委員が出來る限り調査を/なして作成した」として「氏名の上に*印を附して」区別してある。そして395~436頁まで3段組でその回答が並ぶ訳だが、ここに赤堀氏も載っているのである。*印がないから本人回答である。「ア」の2人め、395頁上段8行め、2行取り2字下げでやや大きく「赤 堀 又 次 郎*2」として9~12行め、

東京市牛込區早稲田南町四 ②慶應二年/九月十日 ③牛込區加賀町二ノ二 ⑤明治/二十二年一月より私立言語取調所の事業に/從事す ⑦國語學書目解題一册


 愛知県犬山出身のはずだが③牛込区市谷加賀町二丁目二番地に本籍を移していたことが分かる。私立言語取調所は⑤ではなく④と云うべきではないかと思ったのだが、現在の勤務先ではないから⑤に書くしかないのかも知れぬ。
 さて、この調査のときには市谷加賀町二丁目から早稲田南町四番地に移っているのだが、この転居は昭和11年(1936)のことである。次回はこれについて述べた文献を、見て行くこととしよう。(以下続稿)

*1:「◯凡 例」に拠ると「◯ハ特別會員」。

*2:ルビ「アカ ホリ マタ ジ  ラウ」。

赤堀又次郎伝記考証(2)

 昨日の続き。
赤堀又次郎『御即位及大嘗祭大正三年三月 十 日印刷・大正三年三月十五日發行・大八洲學會
赤堀又次郎『御即位及大嘗祭大 正 三 年 三 月 十 日 印  刷・大 正 三 年 三 月十五日 發  行・大 正 四 年 五 月 二 日 再版印刷・大 正 四 年 五 月 五 日 再版發行・實價〈特製金貳   圓/並製金壹圓五拾錢〉・御即位記念協會
 国立国会図書館デジタルコレクションでは初版と再版が閲覧出来るが、ともにマイクロフィルムに拠っているので「三色版」がどの程度色彩を再現出来ているのかが判らない。
 私は皇室には興味がないので、本書にも興味はない。だから内容ではなく飽くまでも赤堀氏の伝記の検討と云う観点から見ていくことにする。よって初版と再版の異同、例えば「目次」六頁と本文の間に差し挟まれる令旨や官報號外などに出入りがあることなどには触れないで置く。
 奥付、著作者の住所は「東京市牛込區 加 賀 町 二 丁 目 十 四 番 地」で再版は字間が詰まっているが同じ、初版の發行所の所在地は「東京市四谷區寺町貳拾貳番地」で「振替貯金口座東京二九七一番」、これは發行者の塙忠雄の住所「東京市四谷區寺町二十二番地」に同じ。この住所は現在の東京都新宿区若葉2丁目8番3号、塙保己一墓所の愛染院で塙忠雄(1863.十二.二十八~1923.12.4)は塙保己一の曾孫、温故学会の設立者の1人。發行者は再版も同じだが發行所が「東京市入谷區入谷町三十五番地」の御即位記念協會、前回見た「御卽位禮畫報」の版元で、現在の東京都台東区入谷1丁目7番辺りである。
 本文は二七八頁「刊 誤」まで再版でも変わりないようだ。赤堀氏は前回冒頭部を引いた「御卽位禮畫報」第七卷掲載「「御即位及大甞祭」と「太陽」に載せたる「即位禮」と「大甞祭」」の一〇五頁14~16行めに「拙著の活字校正には、多大の力を致したれどもなは誤植あるを、この比較に依りて發見せり。誤植ありしものを、天/覽に供し、世に傳へたるは、恐懼にたへず。和田氏の文と比するに及びて發見したることにつきては、深く和田氏に/感謝せざるを得ざるなり。*1」と述べていたが、和田千吉「即位禮と大甞祭」によって訂正した第三版は刊行されただろうか。
 「目次」では「刊誤」の次が「附録/代始和抄」と云うことになっているが、その前に五頁、自跋に当たる文章がある。五頁9行め、2字下げで「大正三年二月五日」付、下詰めで「赤 堀 又 次 郎 謹 識 」とある。ここには再版での改訂や追加を説明した文言などは追加されていないようだ。冒頭一頁11行めまでの段落を抜いて置こう。

去る明治廿年にやありけん。友人高瀨雅量君の爲に、大甞會の/次第を記して與へしことあり。一昨年、雜誌大八洲に御即位及大/甞祭のことを揭載すべき由の依賴を受け、舊稿を採りて補ひ正さ/んとせしに、別に他より寄稿ある趣なりしかば、一時之を中止せり。/然るに、其寄稿のことも叶はざりしにや。更に依賴ありて、再筆を/執りたり。其後雜誌に載することは止めて、單行すべき由通知あ/りたれば、稿本を改むること數回。すこぶる詳略取捨に迷ひしが、/昨年の末に一まづ筆を擱きたり。余は、一昨年五月一日電車の爲/に負傷してより未だ健康を回復せず。故に專ら事に從ふ能はず。/稿本意に滿たざること多けれども、今に至りて中止する能はず。敢/へて之を出版することゝせり。


 大八洲學會の雑誌は、前身の「大八洲學會雜誌」「大八洲雜誌」は国立国会図書館に所蔵されているが「大八洲」は所蔵がない。大学図書館でも揃いで所蔵しているところが少ないので、この辺りの事情を「大八洲」で確かめるのはちと困難である。
 さて、国立国会図書館デジタルコレクションの再版には附録「代始和抄」二七頁の次に無題で柱に「跋」とある漢字片仮名交りの文章(二頁)があって、その最後(二頁6~12行め)に、

大八洲學會ハカクノ如ク大臣博士ノ讃辭ヲ辱ウスルノ光榮ヲ有シ/テ本書ヲ刊行シ萬世一系ノ天皇ヲ戴クトコロノ國民諸君ニ本書ヲ/提供スルヲ名譽トスルモノナリ
實ニ本書ハ我等國民ガ子々孫々ニ語リツギ言ヒツグベキ大典ノ好/記念物ナラズヤ
コヽニ本書刊行ノ經過ヲ述べテ卷末ニ添フ
  大正三年二月   大八洲學會主幹 塙  忠  雄

とあるのだが、国立国会図書館デジタルコレクションの初版にはこれがない。――余所の蔵書を見ないことには何とも云えないが、やはり大八洲学会発行の初版にこの「跋」がないのはおかしいだろう。国立国会図書館の蔵書は、利用者が多い分だけ痛みが激しく、心ない利用者が一部の頁を切除したりと云ったこともあるので*2、ここも何らかの理由によって脱落したものと思われるのである。故に細かい異同の確認は省略した次第。(以下続稿)

*1:ルビ「せつちよ・くわつじかうせい・た だい・ちから・いた・ごしよく・ひ かく・よ ・はつけん・ごしよく・てん/らん・きよう・よ ・つた・きようく・わ だ し ・ぶん・ひ ・およ・はつけん・ふか・わ だ し/かんしや・え 」。

*2:頁付が連続していなければ(切除が明らかな場合)気付きやすいが、本文をよく読まないと分からない折込図の場合、なくなっていても気付きにくい。出身大学の図書館が利用出来るようになったら、その実例について報告したい。

赤堀又次郎伝記考証(1)

・『御即位及大嘗祭著作権侵害事件
 私は、ある人物の著述を活用する際に、生歿年月日や経歴・居住地を確認するようにしている。いつ、何処にいて、当時どういう立場だったか、それには家族も調べる必要が生じる。――『三田村鳶魚日記』の赤マント流言の記事について検討して、三田村氏が何処からこの流言を聞き知ったのか、登場する人物から調べ上げてほぼ見当を付けたのだけれども、何となく中絶してしまって再開したいと思いながらそのままになっている。いや、日記を活用しようと思ったら自明のこととして記述されていない事柄の確認が欠かせないので、面倒この上ないのだけれども。
 それはともかく、中途の経歴が分からないことも多いけれども、せめて生歿年くらいははっきりしていないと落ち着かない。当人が書かなかったり曖昧にしていたりで生年が分からない人も少なくないが、歿年が分からないと少々寂しい気分にさせられる。しかしながら、余り有名でない著者の場合、遺稿集でなければ当人の生前に刊行されているので、当人の述べている範囲は分かるが、それ以後のことは皆目分からない。能美金之助『江戸ッ子百話』はさらに書き継がれているはずなのだけれども地元の図書館にも所蔵がない。美しい回想『思い出の鑓水』を遺した小泉二三にはこの1冊しか材料がない。
 私は修士課程の院生時代に、国文学者笹野堅の伝記を調べていて、大正から昭和戦前の「集古」を一通り眺め、法政大学能楽研究所に遺族から寄贈された来簡集に目を通したことがあって、年譜と著述目録を作成しかけていたのだが、それで『三田村鳶魚日記』や江戸生活研究「彗星」にもそれなりに馴染みがあったのである。だから、赤堀又次郎の名もたまに目にはしていた。しかし何時頃、どのような形で三田村氏と関わっていたかはすっかり忘れていたのだが、今、改めて眺めて見ると、それほど親しい関係ではなかったようで、三田村氏も巻き込んだ〝事件〟まで発生していたのである。
 三田村鳶魚全集』第二十五巻229頁、三田村鳶魚日記』大正四年十月二十七日(水)条に「◯今朝赤堀又次郎氏来話」十月二十八日(木)条にも「赤堀又次郎氏来話、同氏ハ午前十時十五分ニ帰ヘラル」と2日続けて三田村氏の家を訪ねて話をしているが、その要件は十一月一日(月)条「林氏ヲ訪ヒ、和田千吉氏ガ赤堀氏ノ著述ヲ剽窃シタルコトニツキ懇談。」から判明する。同日条には続いて「◯共古翁ヲ訪フ。◯集古会誌寅ノ分三冊ヲ林氏ヨリ恵贈。」とあって最後に再度このことにつき「◯夜分林氏来リ、和田氏ノ謝状ヲ持参アリ、和解ノ話ヲナスベキニ決ス。」と云う訳で、十一月二日(火)条「林氏同行、赤堀氏ヘ対談不調、先方金ニデモスル積リカ」とある。
 そこで国立国会図書館デジタルコレクションにてこの頃を検索して見るに、「御卽位禮畫報」第七卷(大正四年 十 月 二 日印刷・大正四年 十 月 五 日發行・御卽位記念協會・一三二頁)一〇五~一三二頁に、赤堀又次郞「「御即位及大甞祭」と「太陽」に載せたる「即位禮」と「大甞祭」」*1が掲載されている。一〇五頁に経緯を説明しているが冒頭、4~5行めを抜いて置こう。

「御卽位及大甞祭」と云ふ一書を、余は昨年公にせり。此頃、東京博文館發行の「太陽」増刊、御大禮盛儀の中に/載せたる和田千吉氏の「卽位禮と大甞祭」とある長篇の文章を見るに、拙著と甚相似たるを知る。‥‥*2


 そして続く一〇六~一三二頁には自著を上段、「太陽」を下段に対置させている。

 「御卽位禮畫報」大正天皇の即位礼に因んで、大正3年(1914)1月から大正5年(1916)7月まで12冊刊行された雑誌で、赤堀氏は専門家として第六卷を除く11冊に論考を寄稿している。
 奥付の上にある『御卽位大甞祭』の広告には、赤堀氏は次のように紹介されている。

著者赤堀又次郎先生は帝國大學古典科の出身にして律令有職の古/實に造詣深く就中御卽位及大甞祭に關しては多年至大の精力を傾/倒して研鑽を積まれたり。本書は今囘井上文學博士芳賀文學博士/の慫慂に依つて登極令を詳解し出版せられしものにして一々儀式/によつて古實を闡明し、附するに鮮明なる寫眞版、三色版、石版等/を以てし、‥‥


 和田千吉(1871.十二.十五~1945.5.21)については、浅田芳朗『人見塚の家―和田千吉小伝―(昭和四十五年十二月 十 日印刷・昭和四十五年十二月十五日発行・頒価 壱千五百円・和田千吉先生記念会(姫路)・110頁)を参照した。扉、口絵12頁、和田敏政「父千吉の思い出」6頁、次の中扉まで頁付がない。1頁(頁付なし)目次、3~83頁「人見塚の話/―ある郵便局員の学史的業績―」及び85~110頁「和田千吉年譜」。――和田氏はこの当時、赤堀氏が上記文章(一〇五頁17行め)に書いているように「東京帝室博物館の技手*3」であった(1906.4.13~1921.12.10)。郵便局員であったのが業績を認められて中央に進出した在野の、学歴のない考古学者の1人で、梅原末治や森本六爾等の先駆のような人物である。三田村氏との関係だが先に引いた日記に見えた「集古会誌寅ノ分三冊」、すなわち「集古會志甲寅一(~三)」の標題で、連続した日付で刊行された3冊の*4、奥付と同じ頁にある「集古會規則」に「會長(當分之を缺く)」に続いて「幹事」として「大野 雲外  林  若吉  黒川 眞道/竹内 久一  山中  笑  大橋 微笑/福田 菱洲  三村清三郎  和田 千吉」とあるから集古会を通してのものであるらしいのだが、しかし赤堀氏が三田村氏に話を持ち込んでいること、そして三田村氏が林若樹(若吉)と解決のために動いていることについては、もう少し関係を精査する必要がありそうだ。
 この「太陽」のことは『人見塚の家』にも見えている。「和田千吉年譜」105頁12行め~106頁6行め「大正四年(一九一五)」条、105頁13~14行め、

 六月、『太陽』第二十一巻第八号御大礼盛儀特別号に、カラフルな多数の挿図入りで、長編論文「即位礼と大嘗祭」/(二~五四頁)を掲ぐ。

とあり、目次には「序 父千吉の思い出」とある、次男・和田敏政(1893.4.9生)の回想「父千吉の思い出」にも見えている。当初、浅田芳朗(1909生)はこの「父千吉の思い出」を再録しないつもりだったのか、74頁4~18行め、引用箇所は1字下げで前後行空けなし、

 敏政さんは、『郷土文化』の第十集に、「父千吉の思い出」を掲げ、

「明治末期から大正初期にかけては父が最も活躍した時代だと思います。明治末神奈川県橘樹郡日吉村(現川崎市)/|にお穴様*5と称する流行神があり、一時は川崎大師や羽田穴守稲荷を凌ぎ鶴見川には参詣者の便船が通う繁昌振り/で|東京でも有名になりました。当時東京日日新聞*6から新聞紙四頁のお穴様特輯号*7が発行され|父は新聞社の要請/で二頁位に亘り所謂お穴様と題し御神体が古墳であることを詳細に解明し世人に名を知られるよう*8|になりま/した。是が因か否かよく判りませんが、父はマスコミに引き廻されて一般雑誌の寄稿に寧日なく、終に|婦人雑誌の/記者が毎月締切日*9に原稿の居催促をする始末になり、人のよい父はマスコミの要請を断れなかったも|のと思われま/す。又ある時は月刊誌太陽の御即位特輯号に御即位式や大嘗会の次第を故事に基き一般人に判り易く|解説す/るため*10連日深更まで古書を漁り取まとめ*11に苦心しているのを見掛けましたが、雑誌が発行されて見ると数十頁*12に|及/ぶ広範なものであったので私は少々驚きました。又出版社から日本風俗史の出版を頼まれたようで余暇を見/ては|取まとめに務めて居りましたが、上代の部だけ*13原稿が出来上って居たようですが雑務に追われて脱稿に至ら/ず中絶しま|した。当時母は父が繁忙で充分睡眠がとれないのを非常に気づかって*14居りましたが、此の様な状態は五/六年*15も続|いたように思います。」

と回顧されている。これからわかることは、和田さんが風俗史関係に関心を寄せすぎ、自らマスコミに担かれて繁忙/に陥られたようで、埴輪の研究に専心しつづけられなかったのもこういう事情にもとづいているのだろう。‥‥

と長々と引用していた。
 なお、この引用箇所は巻頭「序 父千吉の思い出」では4頁め7~18行め、改行位置を「|」で示し異同は註記、またこの「序」に存しない読点や括弧は灰色太字にして示した。
「郷土文化」は浅田氏が長年にわたり刊行していた郷土誌だが姫路市立図書館にも揃いで所蔵されておらず第十集の刊年月日は本書執筆を志して調査を始めて以降と推察されるのみ、また、目次等の情報が閲覧出来ないので内容も考古学が中心であったろうと思われるばかりである。
 それはともかくとして、和田氏は「帝室博物館技手」と云う肩書を持つ書き手としてマスコミから重宝され、依頼されるままに専門外のこと*16にまで手を伸ばした結果が、赤堀氏に抗議されることになったもののようである。尤も「和田千吉年譜」の「大正四年(一九一五)」条の最後、106頁5~6行めに、

 この年、和田さんを主任に「御大礼御関係品特別展覧会」が催され、「従来の御即位大嘗祭に使用あらせられたる/実物及び参考絵画を展示し一般に多大の感銘を与えた」由。

とあるから、全くの専門外とも云えない。
 結局、この問題の解決は「御卽位禮畫報」第十卷(大正五年七月十三日印刷・大正五年七月十五日發行・御卽位記念協會・一四二頁)一四二頁の次の頁に、余白を広く取って中央に、まづ大きく「禀  告」として、

本會發行赤堀又次郎先生著御即位及大甞祭著作權侵害事件/は曩に本誌第七卷に於て其眞想を會員諸君に訴へ置きたるが其/後幾多の曲折を經て今回芳賀關根兩文學博士の懇切なる斡旋に依り和田千吉氏及博文館より謝罪し來り圓滿に局を結ぶを得た/れば茲に改めて右之次第を會員諸君に御通告申上候也

とあって最後の行は上寄せで小さく「 大 正 五 年 七 月」下寄せでやや大きく「御 即 位 記 念 協 會  」とある。原文では白丸の傍点が打ってあるのだが再現出来ないので仮に太字にした。――三田村鳶魚と林若樹が和田氏の謝状を持参したのでは収まらず、半年以上経ってから芳賀矢一(1867.五.十四~1927.2.6)と関根正直(1860.三.三~1932.5.26)が仲介して収まったのである。
 しかし国立国会図書館デジタルコレクションの進化が恐ろしい。以前なら『三田村鳶魚日記』の記述から気を付けて、当りを付けて関係しそうな辺りを、図書館に出掛ける度に少しずつ探って行かないといけなかったのが、立ち所に判ってしまう。忘れ去られた悪事、恥ずかしい過去も簡単に掘り返されてしまう。あゝおそろしい。(以下続稿)

*1:『目次」には「「御卽位及大甞祭」と「卽位禮」と「大甞祭」に就て 」とある。

*2:ルビ「ご そくゐおよびだいじやうさい・い ・しよ・よ ・さくねんおほやけ・このごろ・とうきやうはくぶんくわんはつかう・たいやう・ぞうかん・ご たいれいせいぎ ・なか/の ・わ だ ・きちし ・そくゐ れい・だいじやうさい・ちやうへん・ぶんしやう・み ・せつちよ・はなはだあひに・し 」。

*3:ルビ「とうきやうていしつはくぶつくわん・ぎ しゆ」。

*4:「集古會志甲寅一」は一頁に「大正三年一月發行」とあるが奥付には「大正四年十月十七日印刷/大正四年十月二十日發行」、「集古會志甲寅二」は一頁に「大正三年三月發行」とあるが奥付には「大正四年十月十八日印刷/大正四年十月廿一日發行」、「集古會志甲寅三」は一頁に「大正三年五月發行」とあるが奥付には「大正四年十月十九日印刷/大正四年十月廿二日發行」とあり、予定よりそれぞれ1年9ヶ月、同7ヶ月、同5ヶ月遅れ(!)で漸く「甲寅」大正3年(1914)3冊纏めて刊行されたのを、この日3冊纏めて「恵贈」されたのである。ちなみに「集古會志甲寅四」は一頁に「大正三年甲寅九月發行」とあるが奥付には「大正五年七月十二日印刷/大正五年七月十五日發行」、「集古會志甲寅五」は一頁に「大正三年甲寅十一月發行」とあるが奥付には「大正五年七月十三日印刷/大正五年七月十六日發行」とあって1年10ヶ月、同8ヶ月遅れで刊行されている。

*5:序「御穴様」他2箇所も同じ。但し正しくは「神奈川県橘樹郡旭村(現横浜市)」で現在は僅かに「瓢簞山遺蹟」碑(神奈川県横浜市鶴見区駒岡4丁目12番)が往時を偲ばせるのみ。鶴見川べりである。

*6:序「東京日々新聞(今の毎日新聞の前身)」。

*7:序『特輯版」。

*8:序「様」。

*9:序「〆切日」。

*10:序「為」。

*11:序「取纏め」他1箇所も同じ。

*12:序「数拾頁」。

*13:「丈」

*14:序「気付かって」。

*15:序「間」あり。

*16:「深更まで」云々の子息の回想が、和田氏にとって専門外であったことを雄弁に物語っているように思われる。

みずうみ書房『昔話・伝説小事典』(10)

 丁度一年前、2022年3月13日付(09)まで、当時刊行されたばかりだった『昔話・伝説を知る事典』が殆ど改訂もなされていない上に*1、一部執筆者が恐らくこうした安易な復刊計画に反対してか、自分の執筆項目ごと引き上げたために重要な項目が幾つもなくなっており、それが殆ど(と云うか全く)補われていないことを指摘して置いた。こういう復刊は書物や学問に対する信用を失墜させるものでしかないのだから、本当にやめて欲しい。しかし私の訴え(?)も空しく、改悪版の『昔話・伝説を知る事典』を買ってしまった公立図書館が少なくないようで、書架で目にしては心底げんなりしている。もし儲けが出ているなら、今度こそきちんとみずうみ書房版『昔話・伝説小事典』のしっかりした改訂版を作って、誠意を見せて欲しいと思う。
 さて、今回久し振りに本書を取り上げることにしたのは上記の件につき改めて注意喚起するとともに、これまで気付いていなかった訂正の紙を紹介して置きたいと思ったのである。
 すなわち、今私の手許にある某市立図書館の書庫に仕舞い込まれているみずうみ書房版『昔話・伝説小事典』初版1刷は、表紙見返しの遊紙に、次のような紙片(8.0×10.0cm)が貼付してある。その中央(4.2×5.5cm)に、以下のように刷ってある。

       お詫びとお願い
 本文189頁「日本伝説名彙」項目中,3行めが
印刷上の手違いから脱落し印刷されました。
ここに深くお詫び申し上げますと共に,誠に
ご面倒ながら下記文章を貼付の上ご使用下さ
いますようお願い申し上げます。


(昭和25年),日本放送出版協会から


 当該箇所、189頁左、8行めまでを抜いて置こう。

日本伝説名彙〔にほんでんせつめいい〕
柳田國男監修,日本放送協会編。1950
                 
刊行。民俗学的立場に基づいて,日本
の伝説資料を総集し独自の分類のもと
に集大成したもの。柳田の指導のもと
関敬吾,石原綏代が中心となって直接
その編纂に当った。‥‥


 執筆者は(花部英雄)。
 私は本書を複数の図書館で見ているのだが、これまでこのような紙片の存在に気付いていなかった。恐らく多くの図書館では紙片の指示通りに当該箇所に貼り付けた上で廃棄したのだろう。そうすると、それらの本には189頁3行めに紙が貼ってあるはずなのだが、これまで注意したことがなかった。今後、気を付けて見ることとしよう。(以下続稿)

*1:「白馬岳の雪女」に関連して、どのような改訂がなされるか刊行予告が出た時点から注目していた。

竹中労の前半生(10)

竹中英太郎の軍関係の人脈②
 昨日及び一昨日の続き。
 1月8日付「赤いマント(334)」に引いた「官報」の「株式會社立會鐵工所」設立の記事に見える人物のうち、同居している竹中健助は兄である。竹中英太郎の兄弟については、竹中英太郎の伝記及び竹中労の親類について回想について検討する際に述べることにする。
 当初代表取締役を務めていた峰整造(1895.1生)は、現在は殆ど忘れられた存在になっているが、当時は南洋進出を推進する論客として知られた人物であったようだ。よって多くの文献にその名が見えるがここでは立会鉄工所設立に近い時期に刊行された『第十二版人事興信録』(昭和十四年十月十五日印刷・昭和十四年十月二十日發行・上下二卷定價金五拾圓・人事興信所)下卷、ミ七五頁1段め(4段組)15~29行め、まづ15~18行め、肩書きを「南方產業㈱南産化學工業㈱各社長、/南洋電氣㈱監査役、南方經濟調査會/海洋國策研究會、國策文化映畫協會/各會長、東京府在籍」と列挙した上にやや大きく「峰  整 造」とある。19~29行めはそのまま抜いて置こう。

 妻  フ ヂ 明三三、四生、東京、清水實妹
 女  千惠子 昭四、一〇生
大分縣峰肇の弟にして明治二十八年一月出生昭和四/年分れて一家を創立す夙に早稲田大學政治經濟科に/學び大正十五年月刊雜誌「政治經濟時論」を昭和七/年「保險春秋」を同八年「金融往來」を創刊し各其/主筆兼社長たりしが昭和十二年南方產業株式會社を/創立するに當り右三誌の刊行を中止す現時南方產業/株式會社の取締役社長たるの外前記諸會社の重役た/り[趣味]スポーツ音樂[宗教]禪宗(東京市赤坂區青山北/町四ノ九六[]青山六八八九)


 歿年はまだ明らかにしていない。『大分年鑑』昭和二十七年版(昭和二十七年四月一日印刷・和二十七年四月三日発行・定価300圓・大分合同新聞社・320頁)に、266~320頁中段9行め「名簿篇」の293~309頁上段19行め「在京大分縣人會/(カツコ内は出身地)」にずらずら列挙される中に、306頁下段9行め~307頁中段17行め「み ノ 部」307頁中段1~2行め「‥‥)峰整造横浜/重工業株式会社取締役社長(臼杵市)‥‥」と見えている。臼杵市出身であることが分かる。
 匝瑳胤次(1878.1.7~1960.4.14)は第三回旅順港閉塞作戦に参加した海軍軍人で海軍少将で予備役、ロンドン海軍軍縮条約反対の論陣を張り、東京市会議員・東京都会議員を務め、戦後は公職追放されている。
 そうすると、竹中英太郎は昨日見た陸軍関係の「五日会」だけではなく、海軍の軍人とも繋がりがあったことになりそうであるが、どのようにして関係が生じたのか、それは今後の課題である。
・航空局 監修『昭和十四年 航空年鑑』昭和十五年 二 月 五 日印刷・昭和十五年 二 月 十 日發行・頒價 金參圓五拾錢・帝國飛行協會・五五九頁
 四七八~四八一頁「民間飛行學校・同練習所其他」は見出しの下に(昭和十四年/十 月 現 在)とある。見出しは4段抜き、本文は4段組、四七八頁4段め5行め、2行取り3字下げでやや大きく「小栗航空研究所」とあり、以下四七九頁1段め15行めまで、

事 務 所 東京市日本橋區本町三の/ 五成毛ビル
機械部工場 東京市品川區大井北濱/ 川一一二二
出 張 所 神戶市兵庫區上澤通リ二/ の四ノ七
飛 行 場 東京市深川區第七號埋立/ 地
所  長       小栗常太郎
顧  問  陸軍中將 井上 一次
      辯護士 澤田鯉二郎
相 談 役       岩間 靜雄
          立石 晃史【四七八】
航空部長 一等操縦士 猿田 秀文
部  員 二等操縦士 本田  成
機械部長       立石 晃史
部  員       山本金次郎
          永田  稠
鑄 造 部       伊藤德三郎
工 場 長       竹中英太郎
同支配人       柴田 直二
飛 行 機 アンリオ式二八型、サル/ ムソン二A二型、一〇式各一臺合/ 計三臺
事 業 飛行機操縱士養成、宣傳、/ 航空寫眞撮影,其他一般航空に關/ する研究並事業及一般航空、自動/ 車用機械及工具類の製作と販賣


 国立国会図書館デジタルコレクションで検索してこれがヒットしたのはもちろん「工場長」として「竹中英太郎」の名が見えるからであるが、昭和14年(1939)10月現在であれば既に立会鉄工所の設立後のはずである。しかもその「機械部工場」の住所は、立会鉄工所と同じなのである。
 そうすると、これは、立会鉄工所設立前の状況がそのまま記載されてしまった可能性が高くなるのではないか。前年の『航空年鑑』の(昭和十三年/九 月 現 在)の「小栗航空研究所」の項は簡略で「機械部工場」の記載はない。存在しなかったのか、それとも記載しなかったのか、どちらか分からない。
 しかし、何をしていたのかはっきりしない、竹中労によると強制送還に近い形で満洲から帰国したと云う状況から、幾ら後で検討するように嘗て鉄工所で仕事をした経験があるとは云え、どうして急に町の鉄工所の経営者に転身することが出来たのだか、不思議に思っていたのだが、――まづ何らかの人脈を活用して、小栗航空研究所機械部に工場長として入り、そして資金を調達して工場を買い取って(買い取ってもらい)独立した、と云う筋が、現実的にありそうな気がするのである。(以下続稿)

竹中労の前半生(09)

竹中英太郎の軍関係の人脈①
 竹中英太郎は「五日会」に参加していたことが知られているが、年鑑類にもその記述があった。幾つか抜いて置こう。
大阪毎日新聞社東京日日新聞社 共編『昭和八年 毎日年鑑』昭和七年九月十五日 印刷・昭和七年九月二十日 發行・定價 金壹圓(別冊2冊共)・五六〇頁
 一九五頁1・2段め(4段組)5行め~一九七頁4段め18行め「文藝界の一年/日支事變と文學」のうち、一九六頁1段め11行め~4段め8行め「フアツシズムと文壇」の、3段め12行めまでを抜いて置こう。

   フアツシズムと文壇
 九月になると、日支事變が滿洲/問題を契機として、國民の關心を/その一點に集めた。これより先き/フアツシズムの思潮がいつとなし/わが國の國民意識に侵入してゐた/何が日本のフアツシズムであるか/と問はれると、誰一人はつきりと/その問題に答へるものはないが、/フアツショ的な空氣が國民の氣分/を無意識的に刺激したことは爭へ/ない事實だつた。そこで文壇や思/想界では、思想的、文學的に見たフ/アツシズムとは何かゞ、評論や、座/【1段め】談會の重要な課題となつて來たの/である。その中に畫家竹中英太郞/氏が世話役となり若干の大衆作家/や畫家、それに陸軍省の數氏を集/めて五日會なる會合を試みてから/五日會はフアツシヨ文士の集團で/あり、陸軍省の某々氏が非公式に/でも參加した當夜の狀況から推し/ても、五日會の活動の方向は民族/主義、軍國主義、祖國主義等々の熱/情を文學で表現する同志の一群だ/らうと見られるやうになつた。三/上於菟吉、直木三十五白井喬二吉川英治諸氏がその傾向を代表す/るといふのである。その前に三/上氏は愛國主義の評論や、詩を「東/京日日新聞」に寄せて徹底した國/家主義、帝國主義である氏の意思/表示をした。五日會は、何等かの/事情で一回ぎりで後は續かなか/つたが、直木氏はその前にも日米/戰を内容とした作物を「文藝春秋」/に連載するほか率直に氏の日支問/題觀を大膽に公表しつゞけたし、/三上氏もまた作物、評論に、憂國/【2段め】愛國の作家である氏の全貌を語り/つゞけてゐた。つゞいて岩崎純孝/野島辰次氏等によつて「日本フア/ツシヨ聯盟」が結合され、日本フ/アツシズム運動の指導的理論の完/成に手を染めるといふ標語のもと/に「フアツシズム」なる雜誌が發刊/されたが、内容には大した體系も/何もなく、これも一號が出ただけ/に過ぎない。そんなわけでファツ/シズム文學の見本といへるやうな/作物は一つもなかつたが、‥‥

とあって、首謀者ではあるまいが「世話役」視されるくらい積極的に動いていたことが察せられる。より簡要を得た説明としては次の文献を抜いて置こう。
大原社会問題研究所 編纂『日本労働年鑑』第拾參輯(昭和七年十一月二十八日印刷・昭和七年十二月 一 日發行・定 價 金 四 圓・同人社・四+八四五+一二七頁
 七三五~八一五頁「第五部 思想團體及思想運動*1」七九五頁下段3行め~八一五頁「第二篇 反社會主義的運動」七九八頁下段「第二章 國粹團體」の八〇〇頁9行め~八一五頁「國粹團體及反社會主義的團體一覽」の最後、八一五頁4~7行めに、

―滿洲事變を直接的契機として生れた「五日會」は軍部、根本・武藤(參謀本部)各少佐、鈴木・坂田各中佐、石井・山ノ内・/松崎・今村各少佐、林大尉、文壇直木三十五白井喬二三上於菟吉平山蘆江吉川英治久米正雄、土師清二、野村愛/正等、畫壇、竹中英太郞、岩田專太郞等々によつて組織され、目的は、軍部の愛國思想を大衆文學を通じて、國民の間に普/及・昂揚さすにある。

とある(太字にした箇所は明朝体に傍点「・」)。
 発足当時の新聞記事とその後の活動については、HN「神保町のオタ」のブログ「神保町系オタオタ日記」の2017-07-19「久米正雄らが参加したファッショ運動団体五日会と雑誌『恤兵』」に詳しい。「神保町のオタ」が引いている『団体総覧』の記載内容は『日本労働年鑑』の記載内容を箇条書に直したものである。『日本労働年鑑』に拠ったか、同一典拠に拠ったのであろう。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

追記】「五日会」について、同年の文献を補って置く。
石川龍星『日本愛國運動總覽』昭和七年八月廿日印刷・昭和七年八月廿五日發行・定價六十錢・東京書房・3+4+9+175頁
 87~154頁「第二部 急 進 的 國 家 主 義 團 體」152~154頁「第六章 學藝團體」に3団体挙がるうちの最後、154頁2行め、2行取り7字下げでやや大きく「三、五  日  會」とあって、3~13行め、

 日支事變が勃發するや國民の精神思想は急激に愛國的風潮を辿り、新聞、雜誌等も從來の自由主/義、社会主義的な立場から急激に愛國思想鼓吹に方向轉換を始めた。勿論小說家、文士連も、從來/戀愛物一點張で讀者をつる樣な譯には行かなくなつて來た折、軍部、文壇、畫壇の一部の人々によ/つて國粹文化の普及、愛國心の昂揚、文學運動の國家主義的轉換のため、七年二月五日芝浦雅叙園/に第一回の會合を催したために五日會と稱することになつたが、その効果は忽ちに、それ以後の新/聞雜誌に於ける五日會員の小說はすべて愛國的、軍事的なもので、愛國思想を通俗物から鼓吹する/ことには立派に成功した。
 第一回の會合に出席し、其後幹事格で會の世話をして居たものは陸軍側では參謀本部の根本中佐/武藤少佐 陸軍省調査部の鈴木、坂田中佐、石井、山ノ内、松崎、今村の各少佐 林大尉等で文壇/からは直木三十五三上於菟吉久米正雄、土師清二、白井喬二吉川英治、野村愛正、鈴木氏享/佐藤八郞の諸氏、畫壇では岩田專太郞、竹中英太郞の諸氏である。


・座間勝平『日本フアッシヨ運動の展望』昭和七年十一月 十 日印刷・昭和七年十一月十七日發行・定價金壹圓貳拾錢・日東書院・3+7+305頁
 62~160頁「第三章 フアツシヨ陣營の展望」141~146頁8行め「七 文化的國家主義團體」の最後、145頁9行め~146頁8行め、

 五 五日會 最近に至つては、文藝方面に於ても、フアッシヨ文藝運動の擡頭を/見るに至り、直木三十五、三上於兎吉の諸氏は、大童になつてその宣傳に努めてゐ/るが、彼等は最近、陸軍の將校連と手を握つて、遂に五日會なるものを作つた。そ/のメンバーを見ると、【145】
 文壇側からは直木三十五、三上於兎吉、久米正雄白井喬二平山蘆江、吉川/英治、鈴木氏享、土師清二の諸氏、
 畫壇からは
  岩田專太郞、竹中英太郞
 軍部を代表して、
  根本中佐、武藤少佐、鈴木、坂田兩中佐等が名前を連ぬてゐる。
 フアツシヨ文學がプロレタリアー文學に對して、何處まで對抗し得るか、また/今後いかなる發展を見せるか、一寸面白い事ではある。


 なお次の、161~186頁「第三章 フアツシヨ諸團體の政策」も第三章で、最後は第四章、目次でも第三章がダブっている。

・木村與作『ピストル旋風時代』昭和七年十二月 十 日印 刷・昭和七年十二月十四日發 行・特價金壹圓六拾錢・明治圖書出版協會・690頁
537~613頁「國家主義團體大觀」の序説に当たる文章に続いて、2番めに紹介されている。539頁9行め、2行取りでやや大きく「五   日   會」とあって、10行め~540頁2行め、2字下げで、

 事務所 特定の事務所なし △創立 昭和七年二月五日
 中心人物 陸軍側――參謀本部根本中佐、武藤少佐 陸軍省鈴木中佐、坂田中佐、石井少佐/山ノ内少佐、松崎少佐、今村少佐 △文士側――直木三十五三上於菟吉久米正雄、土師清二/白井喬二鈴木氏亨、佐藤八郞、野村愛正、吉川英治 △畫家側――岩田專太郞、竹中英太郞
 申し合せ 文學の國家主義的運動に努力し、愛國心の昂揚、國粹文化の普及に努める。


 一昨日見たように竹中英太郎昭和7年(1932)3月から6月まで朝鮮、そして建国されたばかりの満洲国に出掛けている。五日会が続かなかった「何らかの事情」とは、実務を担っていた「世話役」竹中英太郎の不在なのかも知れない。その後五日会は9月に創刊される陸軍恤兵部の慰問雑誌「恤兵」の編纂を行っているのだが、或いは、帰国した竹中英太郎がこれに関与しているかも知れない、と想像してみるのだが、どうだろう。――そのうち「恤兵」創刊号を発見・紹介した押田信子の著述を見てみることとしよう。

*1:目次のある扉は頁付なしでカウントされていない。

竹中労の前半生(08)

竹中英太郎の住所①
 昨日取り上げた昭和七年版『現代日本名士録』に、竹中英太郎の住所が「中野町西町一五」とあった。竹中英太郎が中野に住んでいたことは、従来知られていなかった(と思う)、
 そこで、この頃の竹中英太郎の住所を、年鑑類で確認して見ようと思い立ったのである。
朝日新聞社 編『日本美術年鑑第五年版昭和五年十二月五日印刷・昭和五年十二月十日發行・定價金三 圓・東京朝日新聞發行所
 巻末の名簿「現代美術家録」40頁、扉(頁付なし)に「(調 月 十 年 五 和 昭)」とある。22頁5段め(5段組)23~24行め「 竹 中 英 太 郞(挿)三九年福岡生、獨學(本郷千駄木町四七)」と見える。本郷区駒込千駄木町47番地は現在の東京都文京区千駄木1丁目16番の西側と南側。
朝日新聞社 編『日本美術年鑑 一九三二(第六年版)昭和六年十二月廿日印刷・昭和六年十二月卅日發行・定價 金 二 圓・朝日新聞社
 巻末の名簿「現代美術家録」は扉(頁付なし)に「(調 月 十 年 六 和 昭)」とある。4段組になった分だけ頁数が83頁に増えている。46頁3段め3~4行めに「竹中英太郎」はほぼ同じ字配りで変わりなく見えている。
朝日新聞社 編『日本美術年鑑 一九三三年(第七年版)昭和八年一月十五日印刷・昭和八年一月廿五日發行・定價 金 二 圓・朝日新聞社
 巻末の名簿「現代美術家録」は扉(頁付なし)に「(調 月 十 年 七 和 昭)」とある。やはり4段組で83頁、46頁2段め14~15行め「 竹 中 英 太 郞(挿)三九年福岡生、獨學(中野區西町一五)」とある。昨日見た7月刊行の『現代日本名士録』の時点で既に中野に転居していたが、当時はまだ東京府豊多摩郡中野町だった。この10月に東京市に併合されて東京府東京市中野区になったのである。西町と云うのは元来、青梅街道の北側の字(現・中野区中央5丁目)だったのが、その後南側(現・中野区本町6丁目)になっており、この辺りの状況を反映した地図をまだ見ていないので、現在位置については追って確認することにしたい。
・昭和十一年版『美術年鑑』 昭和十一年四月七日印刷・昭和十一年四月十日發行・定價 金 壹 圓・美術年鑑社/帝美社出版部
 巻末の名簿「現代美術家總覽」79頁、扉(頁付なし)に「(調月三年一十和昭)」とある。最後、79頁中・下段「挿畫家之部」に扉に断ってあったように「いろは」順に25人挙がるが、その18番め(下段12~13行め)に「竹中英太郞 探偵物、麴町區永田町一ノ/ 二葵ホテル」とある。但し葵ホテルの所在地は麴町区永田町「一ノ二」1丁目2番地ではなく永田町「二ノ一」2丁目1番地が正しいようだ。ホテル住まいだったのか、それとも住所不定でホテル内の某組織の事務所を連絡先にしていたのか。或いはこの頃満洲に出掛けていたのであろうか。
・昭和十二年版『美術年鑑』 昭和十二年三月廿八日印刷・昭和十二年 四 月 一 日發行*1・定價金壹圓八拾錢・美術年鑑社
 巻末の名簿「現代美術家總覽」94頁、扉(頁付なし)に「(調月二年二十和昭)」とある。最後の1頁、94頁が「挿畫家之部」で扉に断ってあったように「いろは」順に72人、1人1行で中段8行め、30番めに「竹中英太郎 麴町區永田町三葵ホテル」となっている。
・昭和十四年版『雑誌年鑑
 元がマイクロフィルムらしく原態が分かりにくく、表紙・扉や奥付も欠いており、標題も「昭和一四七一五購入」の円印を捺した遊紙にペン書きしたもののようである。しかしこの購入印で大体の時期は分かる。五八五~六五一頁「第十 執筆者・挿繪家名簿」六四八~六五〇頁上・中段3行め「二、挿繪家名簿」六四九頁上段12行め「竹中英太郎 麴町區永田町一ノ二葵ホテル内」とあって、やはり住所が間違っている。
・作品社編輯部 編『昭和十五年版 文藝豆年鑑』昭和十五年三月十一日印刷・昭和十五年三月 十五日發行・定價金五拾五錢・作品社・一二三頁
 2月23日付「赤いマント(358)」に取り上げた昭和十四年版の翌年のもの。三五~一二三頁「昭和十五年度 三千五百人住所錄」八四頁下段7行め「竹中英太郎 麴町區永田町一ノ二葵ホテル」やはり住所が間違っている。
 以上が国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る戦前の年鑑類に見える竹中英太郎の住所である。この後は既に1月8日付「赤いマント(334)」に紹介済みの「立會鐵工所」と云うことになるのだが、実はもう1件、見逃せない情報がある。これについては、これら年鑑の記載内容とともに、別に見当することとしよう。(以下続稿)

*1:印刷発行日の2行は別紙に刷ったものを貼付している。

竹中労の前半生(07)

 竹中労の生年、また前半生を辿るには父親の竹中英太郎の伝記を明らかにする必要がある。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションが刷新されたことで、従来気付かれていなかった資料に容易に逢着し得るようになった。
・昭和七年版『現代日本名士録』昭和七年七月十二日印刷納本・昭和七年七月十五日發  行・定價金拾參圓五拾錢・よろづ案内社・一六+五一二頁
 發行所のよろづ案内社は東京府荏原郡世田ヶ谷町大字太子堂四六六番地、發行者は同じ番地の板尾金松、著作者の松生晴四郎には住所の記載がない。
 扉、「序」は「昭和七年七月」付で「編者識」とある。続いて「目次」が一六頁、その一頁の冒頭、4段組の上2段抜きで「大 東 京 年 誌 附 録人 物 篇 目 次」とある。
 四九〇頁下段(3段組)14行めにやや大きく「竹中英太郞氏 中野町西町一五」とあって1行弱空けて、15行め~四九一頁上段7行め、

挿畫家
明治三九年一二月生、福岡縣
 挿畫界の新進として異彩を放ち、大い/に其前途を囑望されてゐる氏は福岡縣の/出身である。幼少の頃より繪畫に趣味深/く、遂に畫家として起つべく靑雲の志を/抱いて東上した。爾來主として挿畫を研/究し、獨學を以て研鑽に勵む傍ら各新聞/雜誌に寄稿し、昭和二年頃より漸次斯界/に認められるに至つた。然れども研究熱/燃ゆるが如き氏は、小成に康んずること/なく絕えず研鑽努力に沒頭し、その豐富/【四九〇】なる天分は年と共に發揮され、斯界の鬼/才として普く名聲を博してゐる。昭和七/年三月スケツチ旅行の途に上り、新滿洲/國、朝鮮等を歷遊し新聞雜誌界を視察し/て同六月歸朝し、現今斯界に一新機軸を/出すべく熱心に研究中である。
 妻八重子、長男勞


 竹中英太郎が渡満していることは知られているが、その(恐らく第1回めの)時期が昭和7年(1932)の滿洲國建国直後であったことが、これにより初めて明らかになったものと思う。まぁ苦労して見付けた訳ではないが。
 なお「目次」に見える『大東京年誌』は、昭和7年(1932)の大東京発足を記念して刊行された年鑑である。
・社会教育研究所 編纂『大東京年誌』(口絵+一四+六五+一二六〇+八六+一二八頁)
 この冊には奥付がない。製本の都合で奥付がなくなった訳ではないことは「目次」六五頁に本冊の範囲が全てカバーされていることから明らかである。
・『大東京年誌附録人物編』昭和七年四月二十八日納本・昭和七年五月一日發行・定價金參拾五圓・社会教育研究所・一六+四三二頁
 この「附録」に奥付がある。目次の題は『現代日本名士録』と同じだが、しかしこれには「竹中英太郎氏」は出ていない。どうも『大東京年誌附録/人物編』の紙型を譲り受け、若干の増補を行って刊行したのが『現代日本名士録』らしく、その増補部分、どのような関係から竹中英太郎を載せることにしたのか、とにかく最新の情報による増補である。ただ惜しむらくは、他の人物の場合、最後に添えた家族に生年もしくは年齢、中には実家のことなど記載があるのが、それがないので八重子と労の年齢を明らかに出来ないことである。
・春日俊吉「黑い猫の赤い罐」
 「山小屋」第五十號(昭和十一年二月二十四日印刷納本・昭和十一年三月 一 日發   行・金三十錢・朋文堂・257頁100頁)の、2~35頁「山とパイプ」特輯として諸家の文章を並べたうち、27頁中・下段7行め~30頁上・中段5行めに掲載されている。のち、春日俊吉『山岳漫歩』(昭和十二年十二月十九日印刷納本・昭和十二年十二月廿五日發  行・定 價 八 十 錢・朋文堂・257頁)の巻末近く、226~252頁「放心亭雜稾」と題して登山・山岳が主題となっていないような随筆を7篇収録しているが、その最後に、248~252頁「黑い猫の赤い罐」として収録されている。
 春日俊吉(1897~1975.7.7)は文藝家協會 編纂『文藝年鑑』一九三七年版(昭和十二年四月十五日印刷・昭和十二年四月二十日發行・定價一圓八十錢・第一書房・365頁)267~364頁「第三部 文筆家總覽」290~294頁「」291頁3段め(4段組)8行めに「春 日 俊 吉  麴町區中六番町四三」とあって9~11行め、1字下げで「本名伊藤純一、明三〇生、東京、大一〇早/大、スポーツ隨筆等、元讀賣記者、「山岳/漫歩」「登山遭難史」等。」と、本書を挙げて紹介している。
 初出誌28頁下段9~21行め(改行位置「/」)、単行本251頁4~9行め(改行位置「|」)、愛用のパイプについて述べた中に、

 Daiana *1といふ名のダンヒルは、僕の最/も秘藏した一本であつたが、去年の春「新/靑年」*2|などで例の異色ある、凄い挿繪を書/いてゐる竹中英太郞と、一夜その黃色い液/體を用ひす|ぎた席上で、少々ばかり酒亂の/氣味を有する彼に、なんと思つたか、スパ/スパやつてゐて|いきなり、「エエイ!」こん/な物*3といふより早く、ポキリとヘシ折られ/てしまつた。その|あくる日彼は、素晴らし/いアネモネを一鉢持つて詑びにきた。その/アネモネは今だに、僕|の貧しい植木棚に生/きてゐる。だが、花では吸ふわけにいかな/い。

とある。「黄色い液体」はもちろんビール。単行本は末尾(252頁10行め)に下寄せでやや小さく「――一、九三六、九――  」とあるが初出誌の二三九頁上段までである。しかし初出誌は「三月號」なのでここに「九」月としているのが少々謎だが、とにかくこの「去年」とは昭和10年(1935)である。この頃のこともどうもはっきりしないので、当時の交遊や竹中英太郎の人物像についての、1つの資料にはなるだろう。(以下続稿)

*1:単行本「Deiana 」。

*2:単行本鉤括弧閉じ半角。

*3:単行本は全角の鉤括弧で「エエイ!こんな物」を括る。

岩佐東一郎『隨筆くりくり坊主』(2)

 引用が多くなるとどうもその前後左右に余裕があり過ぎるのが気になるのでブログのデザインを変えて見た。私は「はてなダイアリー」当時のデザインが気に入っていたので、それに似ているものにしてみたのである。ただ、文字が小さい。150%に拡大して見ている。これに限らず、諸事なかなか思ったような按配にはならない。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 さて、本書は2013年11月4日付「赤いマント(014)」に触れたように、3番めに収録されている「赤いマント」を国立国会図書館の館内端末で初出誌「三田文學」にて閲覧し、当時ほぼ通説のようになっていた『現代民話考』に載る唯一の赤マント流言の体験談の時期が誤りであること*1に気付く切っ掛けとなったのです。
 その日は時間がなかったため、国立国会図書館では本書に辿り着けなかったのですが、帰宅してから、当時私は岩佐氏のことも知らなかったので、まづ岩佐氏で検索して Wikipedia岩佐東一郎」項を見るに、随筆集を何冊も出しており、時期から見て本書だろうと見当を付けて蔵書検索してみるに、偶然某市立中央図書館に本書が所蔵されていることが分かって、初出誌のメモと対照させることが出来たのでした。
 ただ、当時私が借りて見た本は、緑色の製本用布クロスの表紙(丸背)に改装されていて、元の装幀は分からなかったのですが、今度原装の本を見ることが出来たのです。但し複数の古書店のサイトに写真が上がっている函は失われていました。
 とにかく、久し振りに某市立中央図書館本を借りて来て、比較して見た次第です。
 表紙は高さ 18.6cm、表紙・裏表紙とも小口側から 9.9cm のところまで青灰色の和紙で包んであります。残りは白の洋紙で、表紙・裏表紙とも 0.1cm 幅の溝があって、表紙のみそこに金箔を置いています。そこからノドの窪みまで表紙は 2.5cm、裏表紙は 2.8cm、丸背部分は 3.5cm あって、文字は宋朝体に少し窪ませたところに青緑色で上半分に「〈隨/筆〉くりくり坊主」、下寄りにやや小さく「岩佐東一郎著」とあります。
 見返し(遊紙)は濃い水色、扉も同じ濃い水色の紙を使っており、細い毛筆でごく薄い赤の草書で、上部にフリーハンドを2周させて描いたような円(約 7.0cm)があって、バス停のように上部をかすれた横線で仕切ってその上に「筆 隨」ここのみ横書き、下に「くりくり/ 坊 主」この標題の右に「岩佐東一郎著」姓は円からはみ出ており、もちろん円はここで切れております。標題の左には「書物展望社版」こちらは「書物」のみ円に食い込んでいて、やはりここで円が切れています。
 某市立中央図書館本はこの扉から存していますが見返しは普通の黄土色の模造紙を使っております。
 本文の用紙は縦 18.1cm 横 12.4cm、某市立中央図書館本は 17.8×12.1cm で製本に際して、天・地と製本のためにノドを裁断したようです。これは図書館の製本し直した本には良くあることです。小口は殆ど減っていないように見えます。――原装本は天が群青色に塗られていて、これは版元のしたことか、旧蔵者のしたことか分からないなと思って某市立中央図書館本をよく見ると、一見、天に色は着いていないのですが、よくよく見ると巻頭「もくろく」から本文「三〇」頁まで、小口側の天に薄く群青色が裁ち残されておりました。
 なお、写真を見るに函には全体的に薄い赤の円を、他の円と重なるところは切って、たくさん散らした柄になっておりまして、表紙側には上部に薄い緑色で、扉と同じような円に標題、但しこちらの円は切れ目がありません。著者名は円の右に縦組みで「岩 佐 東 一 郎」左には「第 三 隨 筆 集」そして下に横組みで「版 社 望 展 物 書」下線、少し下に「2601 夏」とあり、右下に恐らく黒で「¥ 2.50」とあります。背には文字がないようです。(以下続稿)