瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

東京新聞社社会部編『名人〈町の伝統に生きる人たち〉』(1)

ハヤカワ・ライブラリ『名人 〈町の伝統に生きる人たち〉1963年 4 月15日発行・¥ 250・早川書房・230頁・新書判並製本

 4月12日付「杉村恒『明治を伝えた手』(1)」に関連して検索して見るに、その6年前に似たような本が出ていたことが分かったので借りてみた。――貼付した書影には反射して見づらいところがある。
 カバー表紙の上部(3.0cm)は白地で、横組みでゴシック体で大きく標題「名    人」その上にゴシック体でやや小さく左寄せ「町の伝統に生きる人たち」の副題、その下に右寄せで「東京新聞社社会部編」。右上に灰汁色の長方形(1.0×1.2cm)に黒で七面鳥らしきマーク。中央(9.1cm)は灰汁色地で、下部に白抜きで「hayakawa library | ※」※にしたところは横長の白線の六角形(0.8×1.3cm)の中に、白抜きで「TOKYOHAYAKAWABOOKS」とある。下部(6.3cm)にカラー写真。
 カバー背表紙は全面灰汁色地で、最上部に七面鳥らしき黒のマーク、上部に「名    人 」その下の〈 〉に割書で「 町の伝統に/生きる人たち」以上横長のゴシック体。中央やや下に明朝体で「東京新聞社社会部編」、最下部に横長のゴシック体白抜きで版元名。
 カバー裏表紙は左側(1.6cm)がカバー表紙・背表紙から連続する灰汁色地、残りは白地で上部左寄りに毛筆の「名人」人字の2画目の払い脇に明朝体縦組みで極小さく「篠田桃紅筆」とある。その下、白地部分の大半は横長の明朝体横組みの紹介文。

ここに登場する名人は、いわゆる囲碁、将棋あるいは/剣法の名人といった人たちではない。われわれの生活/になじみの深い――ある人はちょうちん屋の主人であ/り、ある人はツゲの櫛を削る職人である。家代々の家/業をついだ人もあれば、子供のときに徒弟修業に入っ/た人たちなど、それぞれ数十年、その道ひとすじに打/ち込んできた〈街の名人〉たちである。
「音作りは一生でござんすね。急所となりますと、ひ/とカンナで音が変わってしまいます」こう語るのは琴/作り50年の柿沢新平さんである。谷中墓地と背中合/わせのむな割り長屋がその仕事場。琴作りといっても/絃*1を張るのはべつの職人の仕事。それでも「作った琴/は自分がひかなくっても大丈夫でござんすよ」と自信/をもっていう。出てくる音はチャンと頭の中に刻み込/まれているのである。あの先生にはこんな音、あの師/匠はこんな音が好きといったぐあいだ。削ってはなで/目をつぶっては頭の中で注文した人の好みの音を考え/る。削り直す――すべては経験とカンの世界である。/江戸から東京へ、明治・大正/昭和へと何代にもわた/って庶民のなかに生き、庶民のなかに育ってきた日本/固有の職業――日本でただ一人というものもあれば、/後継者のないままに消えてゆこうとするものもある―/―を守りつづける人たち45人が、その重い口で語る/修業のきびしさは、そのまま人間修業の珠玉の記録で/あるとともに、古き良き時代への郷愁をかりたてるた/のしい読物でもある!


 柿沢氏は112~116頁、22人めに紹介されている。
 その下に太線(8.0cm)が合って、その下、左寄せで「ハヤカワ・ライブラリ」右寄せで横長「¥250」。
 カバー表紙折返しは白地で、横組みで上部から中央に掛けて、中央揃えで「《ハヤカワ・ライブラリ》」とあって、3行分空けてゴシック体「近 刊」1行分空けて大きく「駅 弁 日 本 一 周」次の行に「読売新聞社くらしの案内編」。

 1行分空けて、以下の紹介文。

日本人くらい汽車のなかでよくもの/を食べる国民はないといわれるが、/列車の窓に移りかわる眺めを楽しみ/つつ、その行く先々の名物をとり入/れた駅弁を味わうのは、旅の喜びの/一つである。北海道から九州まで気/候/風土に大きな変化が見られるよ/うに、駅弁にもバラエティに富んだ/味わいがある。日本全国110ヵ所/の駅弁と風物を紹介し一周するこの/本は、旅を愛し、食物を愛すあなた/に贈る絶好のハンドブックである!


 1行分空けて「予価250円」。この本の元になった連載については読売新聞「ヨミダス」のコラム「虫めがね」2019.2.27 UP「昭和37年(1962年)1月4日~12月25日付「[駅弁日本一周](連載)」」に簡単な紹介がある。
 下部に、

カバー写真
モデル 木村文俊さん
撮 影 宇 都 宮 雍 博
     東京新聞社写真部)

とある。木村氏は9~13頁、1人めに紹介されている。
 カバー裏表紙折返しは白地、私の見た本では切除されており僅かに明朝体の金偏が読み取れるのみ。(以下続稿)

*1:最後の一画「ヽ」のない字体。

和楽路屋『東京区分地図帖コンパクト版』(2)

 昨日の続き。
冨田均『住所と日付のある東京風景』(2)
 この地図のことは28篇め、235~242頁「地図と高速道路と猫」にも、236頁16行め~237頁11行め、

 和楽路屋発行の『東京都区分地図帖コンパクト版』をとり出す。これが今の東京を歩くには絶/好の地図なのだ。オリンピック直前の東京地図で、時代は高度経済成長のまっただ中なのだが、/【236】新住居表示法という悪法が施行される以前の東京であるため、地図を開くと思いのほか静けさが/残っている。
 千代田区を開くと、元千代田町、宝田町、祝田町などの町名がある。麻布界隈を見れば、龍土/町、材木町、盛岡町、富士見町、笄町がある。本郷界隈には菊坂町、真砂町、本富士町、竜岡町、*1/丸山福山町がある。上野を開くと、池之端仲町、数寄屋町、広小路町、花園町、池之端七軒町の*2/名が見える。浅草には猿若町、聖天町、馬道、象潟、それに江戸町、揚屋町、京町もある。東京*3/人は長くこれらの町名に馴染んでいたから、何ら不自由を感じなかった。かえって六本木七丁目*4/や南麻布四丁目、上野一丁目や浅草三丁目、あるいは千束四丁目と聞かされて、まごつき出した。
 私の母が生れたのは麻布笄町だが、これが突然、西麻布二丁目になってしまった。こんなのが/東京じゅうで起ったのだ。私のように新住居表示法の施行以前に「東京全図」を頭にたたき込ん/だ者には、たいへんつらいことだった。‥‥


 私は住居表示実施後に育っているせいもあって、古い町名に憧れのような気持ちはあっても今更叩き込むことも出来ない。都内に住んで冨田氏ほどでないにしても日々、通勤や図書館通いの序でに『東京都区分地図帖コンパクト版』で歩き回ったらば、可能かも知れないけれども、そんな訳にも行かぬので、たまに古い地図を眺めて旧町名に、全くの一時的に思いを馳せるばかりなのである。
 父の持っていた東京の区分地図は、川崎と横浜の区分地図に東京23区を抱き合わせた昭和42年(1967)の昭文社版が最古で、住居表示実施地域と未実施地域とが入り交じっていた。新しい版もあったがこちらは全て住居表示実施済みである。私は中学・高校時代にこれらの地図をたまに眺めていたのだが、東京に出る用事もなかったし、東京を舞台とする文学作品も読まなかったので、住居表示を好ましくないもののように感じながら、特にどうとも思わずに過ごしていた。
 中学時代の私が住居表示について考えさせられた体験は1度だけ、当時私は2018年11月12日付「美術の思ひ出(1)」に述べたように庚申塔を調査していて、日曜ごとに自転車で出掛けては、国土地理院の 1:25000地形図を見て古道らしき道を辿り、道端から撤去されて神社や寺に移されていることも多いので鳥居マークや卍を辿って日がな一日を暮らしていたのだが、――切っ掛けはすっかり忘れてしまったが、横浜市庚申塔を悉皆調査している人を紹介されて、電話を掛けてみたのである。私にどんなことをしているのか、と聞くので、銘文を読んで写真を撮り、所在地を地図に書き入れている、と答えると、もちろんそんなことはとっくに済ませているらしいその人は、全く親切でなく初心の中学生を励ます様子も全くなく、所在地について、君が記録しているのは本当の番地ではない。あれは郵便屋の都合で勝手に変えた嘘の地名である。本当の地名で記録しないと意味がない、と云った主張をし始めたのである。――要するに住居表示実施前の所番地で記録せよ、××台3丁目などと云う歴史を無視した所番地を記録しても意味がない、と云うのだけれども、では、本当の地名はどうすれば分かりますか、と聞くと中学生には入手閲覧が難しそうな地図を挙げるので、すっかり辟易してしまった。
 院生時代には明治初年に廃絶した寺院の所在地を調べて『土地宝典』などにまで手を伸ばしたが、正直、中学生当時の私には無理難題と云うべきで、結局その人とは1度電話で話したきりで、名前ももう覚えていない。誰にその人の電話番号を教えてもらったのかも思い出せない。
 それから237頁17行め~238頁14行め、

 妙亀塚は和楽路屋版の地図では、浅草石浜町十番地の南にあると表示されている。最新の日地/【237】出版の地図を開くと、石浜町が消滅しているのがわかる。石浜町は東半分を橋場に、西半分を清/川に持ってゆかれて*5、地図から蒸発してしまっている。そして最新の地図は妙亀塚の存在を表示/するほどの余裕がないから、どこにも出ていない。
 とにかく和楽路屋ほど東京地図の製作に熱情を注いだ会社はない。しかし、百点満点というこ/とはない。和楽路屋が怠ったのは、肝心の地形の起伏を地図にとり入れなかったことだ。これは/東京を見るとき致命的なことなのだが、和楽路屋は思想の欠如をあふれる熱情と愛情とで補った/と評価しておきたい。
 日地出版の地図の欠陥は何ごとにも不徹底であることだ。地形の起伏をとり入れている区もあ/れば、無視している区もあるという気まぐれ仕事なのである。たとえば文京区の地形の起伏はす/べて残らず克明に波線*6で描いているのに対し、新宿区については全面的に無視している。千代田/区は紀尾井町と皇居については起伏を記しているが、麴町、九段、駿河台の起伏についてはまっ/たくふれていない。これは思想の欠如などではなく、手ぬきである。情報量も至って少ない。最/新地図なら、東京地図出版の『東京のみどころ・改訂新版区分地図付』がいい。これは最近では/かなり上の部にランクづけられる。


 私の父は昭和20年代、埼玉県北部で過ごした少年期、家には小説など文化的な書籍はなく、家の周囲はひたすら平らで海も山もなく、小遣いも少ないので分県地図を買っては未だ見ぬ地方へ思いを馳せていた。それが日地出版の地図だったので、ここで貶されているのを見ると倅の私も複雑な気分である。しかし、他社の物と比較した上での日地出版の地図への思入れではない。巨人戦の放送しかない地方の人間が巨人贔屓になってしまったのと同じような按配である、いや、あんまり似てないか。
 昭和40年代以降、父は主として昭文社の地図を買っていたので私も近くの本屋に並んでいた昭文社の地図を買っていたが、中学以降は国土地理院の 1:25000地形図、高校以降は 1:10000 地形図を使っている。縮尺が同じでないと歩くときに時間と距離の見当が付けられなくて困るからである。
 カバー裏表紙折返し、右下に茶色のゴシック体でごく小さく、下詰めで、

【表紙写真・図版】
カバー=『煙突の見える場所』(五所平之助監督/スタジオ8プロ=新東宝/昭和二十八年)より
本表紙=『緋牡丹博徒 お竜参上』(加藤泰監督/東映/昭和四十五年)より
前・後見返し=『東京都区分地図帖コンパクト版』(和楽路屋/昭和三十八年)より

とあるが、見返しは縦縞の透かしのある赤い用紙で、表紙見返しには台東区の北東部、裏表紙見返しには品川区の南東部が、冨田氏の鉛筆による書入れごと茶色で刷られている。(以下続稿)

*1:ルビ「こうがい」。

*2:ルビ「す き や 」。

*3:ルビ「きさがた」。

*4:「不自由」に傍点(ヽ)あり。

*5:以上7字に傍点(ヽ)あり。

*6:ルビ「なみせん」。

和楽路屋『東京区分地図帖コンパクト版』(1)

 雑司ヶ谷の高田書店には、私には勿論、ここまでする程の思入れがあるはずもないのだが、思い掛けず新たな切り口が得られることもあるので、事の序でに色々と、図書館に行く度に漁ってしまうのである。
 ところで、2020年2月撮影の Google ストリートビューに基礎工事をしているところが写っていることは、4月9日付「水島新司『ドカベン』(60)」に注意して置いたが、その後「cha chat」と云うカフェが新築開業している。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 私は中学時代以来、矢鱈と歩き回る癖があって、中学のときは、学校の脇を東海道から枝分かれした金沢道が通っていたので、金沢道やその周辺の昔ながらの村落などをよく歩いたものである。高校のときは山岳部で、学校の裏が山だったから越す必要のない山を越して、普通の10倍回り道をして帰ったりしたものだった。東京に出て来てからは、1:10000地形図を手に、都内を歩き回った。夏などは大手町を下駄で歩いたりした。
 所謂文学散歩のようなことはしなかった。作家の旧宅跡に行き当たることがあっても、それは古そうな裏道を通るうちに偶然行き当たったので、目的地として事前に調べて行くようなことはしなかった。金も立食蕎麦代くらいしか持っていなかった*1ので、飲食店や本屋・古本屋に立ち寄ることは殆どなかった。だから私には都内の老舗・有名店などの知識が殆どない。そんな生活を若い頃から続けて来たので、今、自粛をしろと云われて、全く窮屈に感じない。そもそもが自粛生活だったのだ。将来金持ちになる見込みがないと思っていたので、酒も煙草も意識して避けた。手を出すとかなり生計を圧迫すると感じたからである。色事の方は、身だしなみに頓着しなかったので殆ど何事もなかった。いや、何事かを起こそうと努力する気力がなかったのである。
 こうしたやや消極的な生活態度は、昨年手術するまで常に片方の鼻腔が詰まった状態だったためかも知れない。1人で歩いていたり、黙って本を読んでいたり、そういうことは余り苦にならない。それとて集中してやっている訳ではない。休み休み、やっているのである。だから誰かと同行していると、相手のペースに合わせるのが一寸面倒である。家にいると矢鱈と茶を飲むので、湯を沸かしたり、小便に立ったり、何かと忙しい。気づいたら暗くなっていた、みたいな集中力は、ついぞないのである。
 だから、冨田均(1946.8.27生)の『東京徘徊』以下の都内の散歩を綴った本も手にしたことがなかった。久しく都内に出なくなった今頃になって、初めてこの妙に克明な記録を手にして、2019年11月10日付「芥川龍之介旧居跡(09)からしばらく検討した、Lyle Hiroshi Saxon が平成初年に撮影した東京の街歩き動画と対照してみたくなっている。
 そして、その冨田氏が推奨している地図のことが気になっている。
冨田均『住所と日付のある東京風景』一九八九年七月二〇日 第一刷発行・定価二〇〇〇円・新宿書房・268頁・四六判上製本
 30篇あって「日付」は「一九八一年…昭和五十六年|四月一日」から「一九八一年…昭和五十六年|四月三十日」まで、すなわち昭和56年(1981)4月1ヶ月分の散歩と、嘱目したもの等からの連想を書き連ねたものである。
 2篇め、021~031頁「小橋と富士と鈴江組」の冒頭、021頁9~12行め*2に、

 歩くときどんな恰好をしているのか、と聞かれることがある。特別な恰/好は何ひとつしていない。季節に応じた極くふつうの恰好で、持ちものは至って少なく、ショル/ダーバッグに地図が入っているだけである。以前は江戸絵地図、昭和戦後の新住居表示施行前の/地図、それに現代の最新地図の三通りを用意していたが、今は江戸絵地図は持っていない。‥‥

とある「昭和戦後の新住居表示施行前の地図」だが、10篇め、095~111頁「水景とプラタナス文房堂」の108頁6行め~109頁3行めに、

 地図を求めて古本屋を二、三覗く。収穫なし。出来のいい東京地図を探しているのだが、今の/今に至るまで、依然として昭和三十八年承認の記載がある神田神保町二―二十八和楽路屋*3発行の/『東京都区分地図帖コンパクト版』を超える地図がない。誤記はあるが、誤記はただせばよい。地図づくりの思想もアイデアも情熱もないのは、ただしようがない。私を散歩者に仕立てた一支/援者に和楽路屋の名を挙げるのに私はちゅうちょしない。このコンパクト版には二百六十円の定/価がついているが、私はそれよりずっと安く買い入れた。そしてその数百倍の恩恵を受けた。店/は豊島区雑司が谷鬼子母神参道入口の大ケヤキが二階部分にかかる高田書店(雑司が谷三―十六/―一)である。価値を知らなかったらしく、捨て値同然で店に出ていた。
 靖国通りから一本南側の裏通りに移る。すずらん通りである。「アクセス」あたりはどうかと/入ってみるが、地方や郷土資料に力を入れているわりには肝心の地図がなおざりだ。古地図をこ/の種の店に求めるのが無理なのは承知しているが。しかし、私がほしいのは、古地図と言っても/新住居表示法施行以前の、言わば東京オリンピックへ向けて「都市化」をスローガンに驀進して/【108】いた時代の地図なのである。たとえば昭和二十年代、あるいは二十年代から三十年代へかけての/地図なのである。これが意外と手にしにくい。戦後ばかりでない。昭和の戦前も手にしにくい。/今の時代は不思議なことに、江戸絵地図より昭和の地図の方が入手困難なのである。

とあって、鈴木則文監督映画『ドカベン』の「朝日奈書店」のロケ地になっていた高田書店で入手しているのである。今はネットで他店が幾ら付けているかすぐに分かってしまうが、当時はそうでなかったから「掘り出し物」も多々あったのである。今でも全て他店の値付けを調べた上で売りに出す訳ではないだろうから、なくなりはしないだろうが以前よりは少なくなったのではないか。(以下続稿)

*1:交通費も持っていなかった。定期券にJRの山手線内均一回数券(1600円)と営団地下鉄の160円区間回数券で済ませていた。

*2:最初は11字下げ。

*3:ルビ「わ ら じ や 」。

池内紀「雑司が谷 わが夢の町」(5)

 昨日の続きで中公新書2023『東京ひとり散歩』の「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」の問題点について、もう少し突っ込んだ指摘をして置こう。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 いや、そもそも「雑司が谷 わが夢の町」では、王子電車の牛乳運搬から「武蔵野の面影」を想起し、さらに「そういえば」として初句が「武蔵野の」の赤彦の短歌を連想しているので、牛乳運搬と赤彦とは何の関わりも持たせていなかったのである。――池内氏の軽妙にして奥行きも感じさせる文章力は流石だけれども、細部がかなり好い加減なようだ。残念ながら「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」は、「雑司が谷 わが夢の町」と云う下書きがある分、そこがさらに甘くなっているようである。
 知識も見識もある人が細部を詰めずに気楽に書いているから、読み易いのに滋味が感じられる。そこに池内氏がエッセイストとして成功した理由があろう。しかしそれは必ずしも、完璧な知識の中から一流の見識を以て細かい部分を省いて要点のみを鮮やかに示した、と云うことにはならない。やはり最低限の点検は必要なのである。編集サイドのチェックも甘かったと云わざるを得ない。いや、池内氏本人の読み方も、そのエッセイと同じように少々甘いところがあるように思われる。――私は池内氏の読者ではないので豊富に例を挙げることは出来ないが、当ブログでは1例、2013年12月11日付「赤いマント(51)」に取り上げた池内氏の『悪魔の話』にて、2013年12月12日付「赤いマント(52)2013年12月13日付「赤いマント(53)」に検討したように、加太こうじ『紙芝居昭和史』を池内氏が読み誤ったことが、赤マント流言の原因となった「赤マント」と題する紙芝居が存在する、と云うデマ(!)の一因になった可能性を指摘し、その筆法に苦言を呈したことがある。
 もちろん、所詮は随筆であるものを素直に読み飛ばさずに、すぐに引っ掛かってしまう私がイケないのかも知れない。しかし随筆であっても正確さは求められるはずである。その上で読み易く滋味溢れるものであれば良いのだから。
 それはともかく、「雑司が谷 わが夢の町」では赤彦の短歌に続けて194頁16行め~195頁4行め、前回の最後に引用した「東京人」寄稿に際して訪問したときの印象記になるのだが、ここで、赤彦の短歌の「灯ともしにけり」が、195頁3行め「しかし、鬼子母神の境内は‥‥昔のまま」4~5行め「古ぼけた売店が一軒。日暮れともなると、小さな電球が一つともる」と照応していたのであるが、「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」では175頁14行め~176頁4行め、

 本堂に向かって正面左手、いまどき珍しいオンボロの駄菓子屋がこれもまた昔にかわらず/【175】控えている。オンボロ駄菓子屋とは浮き世をしのぶ仮の姿。その名も上川口屋といって元禄/年間の創業というから、世の中はわからないものである。鬼子母神名物「すすきのみみず/く」は上川口屋の一手販売。地図が貼ってあって、横手の門を出てすぐの家が製造元、駄菓/子屋は昔からの出店なのだろう。

とこの「売店」について、別に詳しく述べて赤彦の短歌は少し離れたところに持ち出している。すなわち、176頁11行めに「お参りの人が以前とくらべて少ないようだ」として「中央公論」連載時の訪問での、境内の様子やその印象を一通り述べた最後に、前回引用した177頁2~3行め「午後まだ早いのに夕暮れのけはい」を感じさせると云う印象を述べて、4行めに赤彦の短歌を持ち出すのである。「夕暮れのけはい」からの連想にしたいがために、5行め「日暮れどきにきたのだろう」などと云うあらずもがなの推測を述べていたのである。
 ここには「雑司が谷 わが夢の町」にあった自然な連想の流れが失われている。僅かだが非常に効いていた恋人の面影も、何故か排除されてしまった。「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」はこれに色々と付け足しし、再構成した訳だが、流れが不自然になった上に牛乳と島木赤彦を結び付けて伊藤左千夫と混同するなどの不注意が生じている。なまじ短く完成度の高い「雑司が谷 わが夢の町」を書いていたため*1、そしてこれを池内氏は自著に再録していなかったこともあって、いづれ単行本に纏まるはずの「中央公論」連載の下敷きにしてしまったのだろう。しかしながら、これは失敗したと云わざるを得ないと思う。 
 同じ人が同じ主題で書いている文章を並べて読む癖が私にあるから、そんな印象を持つのかも知れぬ。しかしながら、やはりこうしないと、こうした奇妙な書き振り、不可解な誤りの原因は、突き止められないと思うのである。そしてその上でやはり私は「雑司が谷 わが夢の町」を買いたいと思う。同じ著者の同じ主題の文章の場合、新しいと云う理由でそちらを決定版と見る向きもあるが、そう単純ではない。比較検討して見るに初稿の方が優れていた、と云うことが、実際、少なくない。(以下続稿)

*1:日本の名随筆 別巻32『散歩』では「雑司が谷 わが夢の町」の前後、190~192頁に緑魔子「町屋 体内感覚を思わせる路地に迷いながら」、196~198頁に十返千鶴子「下落合 坂のある散歩道」と、同じ「東京人」一九九一年三月号を初出とする、長さも同じ3頁のエッセイを収録しているが、それぞれが思入れのある町について短く鮮やかに切り取って示していて、良かった。

池内紀「雑司が谷 わが夢の町」(4)

 中公新書2023『東京ひとり散歩』の「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」は、読むほどに「雑司が谷 わが夢の町」を下敷きに書かれたように感じるのだが、対比するとなると全文を抜くことになってしまうのでそれは控えて、最後に「雑司が谷 わが夢の町」の誤りを訂正した箇所と、新たに「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」が誤った箇所を指摘し、その周辺をざっと検討して、一先づ終りにして置こうと思う。
 「雑司が谷 わが夢の町」194頁7~15行め、永井荷風(1879.12.3~1959.4.30)の『日和下駄』に触れ、その一節を引用して島木赤彦(1876.12.16~1926.3.27)の短歌に及ぶ。和歌の引用は2行取り3字下げ。

 永井荷風は『日和下駄』のなかで、東京の「夕陽の美」をめでるには木立ごしがいいと言い、「山/の手の其の中でも殊に木立深く鬱蒼とした処」として、まずは雑司が谷鬼子母神をあげている。/空を蔽う若葉のあいだから夕陽を見てもいいが、晩秋の紅葉のころがとくにおすすめ――。
「夕陽影裏落葉を踏んで歩めば、江湖淪落の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい」
『日和下駄』が発表されたのは大正四年、そのころ雑司が谷一帯は豊多摩郡*1の一部だった。早稲田/と王子間の王子電鉄(のちの都電荒川線)は、はじめはもっぱら牧場の牛乳を運んでいたというか/ら、辺りはまだ武蔵野の面影を色濃くのこしていたのだろう。そういえば島木赤彦が「雑司ヶ谷鬼/子母神」と題して歌に詠んでいる。
   武蔵野の芒の 梟 買ひに来ておそかりしかば灯ともしにけり*2


 「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」では荷風に触れた箇所が174頁5~9行めに、

 そういえば荷風の『日和下駄』のなかに雑司ヶ谷が出てくる、東京の夕陽をめでるには木/立ごしがいいと述べ、「山の手のその中でも殊に木立深く鬱蒼とした処」として雑司ヶ谷の/鬼子母神をあげている。空を蔽う若葉のあいだから夕陽を見てもいいが、晩秋の黄葉のころ/がとくにおすすめ。
「夕陽影裏落葉を踏んで歩めば、江湖淪落の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい」*3

と少し変えてそのまま用いてあるが、引用に振仮名が打たれている。そのうちに原文は引用出来なくなって妙な現代語訳を載せるか、そもそも存在しなかったような扱いになるであろう。
 島木赤彦の短歌とその説明は177頁4~11行め、

  「武蔵野の芒の 梟 買ひに来ておそかりしかば灯ともしにけり」*4
 島木赤彦が詠んでいる。歌のようすでは日暮れどきにきたのだろう。荷風が徘徊し、赤彦/が名物のふくろうを買いにきていたころ、雑司ヶ谷北豊島郡の一部だった。都電荒川線は/当時は王子電車といって、もっぱら早稲田近くの牧場の牛乳を運んでいた。それとお彼岸の/墓参り、また鬼子母神の参詣客が主な客だった。島木赤彦はひところ牛乳屋をしていたから、/商売のかかわりもあって来たのかもしれない。都電はその王子電車をゆずり受けた。道路で/はなく軌道を走る電車だったので、モータリゼーションのなかでもお目こぼしにあって廃線/を免れたらしいのだ。

とあって「豊多摩郡」を「北豊島郡」に、王子電気軌道(王電)の通称を「王子電鉄」から「王子電車」に訂正している。
 それは良いのだが、新たに、余計かつ奇妙な説明が、追加されているのである。――王子電車は明治44年(1911)8月20日に大塚~飛鳥山間で開業、大塚駅前から鬼子母神前まで延伸開業したのは大正14年(1925)11月12日である。従って『日和下駄』の頃にはまだ王子電車は通じていなかったし、赤彦は開通の4ヶ月半後に歿しているから、鬼子母神参詣に利用することはなかったであろう。しかし、池内氏は「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」では赤彦が王子電車を使ったと決め付けて、「島木赤彦はひところ牛乳屋をしていたから、商売のかかわりもあって来たのかもしれない」との臆断を述べるのである。
 しかしこれは、松村正直(1970生)のブログ「やさしい鮫日記/松村正直の短歌と生活」の2011年06月14日「池内紀著 『東京ひとり散歩』」に、

一つだけ気になったのは、著者が「鬼子母神懐古―雑司ヶ谷」の回で、

武蔵野の芒(すすき)の梟(ふくろう)買ひに来ておそかりしかば灯ともしにけり

という島木赤彦の歌を引いて、「島木赤彦はひところ牛乳屋をしていたから…」と書いているところ。これは伊藤左千夫と混同しているのではないかと思う。

と指摘されている通り、伊藤左千夫(1864.八.十八~1913.7.30)との混同であろう。国立国会図書館デジタルコレクションにて守屋喜七 編『島木赤彦』(昭和十二年十月廿二日印刷・昭和十二年十月廿四日發行・久保田俊彦先生追悼謝恩會・127頁)107~127頁「年  譜」を見ても、そのような事実は窺われない。雑司ヶ谷に関連するのは119頁上段17行め~120頁上段9行め「大 正 六 年  四十二歳」条の、3~5行め「五 月」条に、

郷里より妻子を呼び、十一日市外雜司/ケ谷龜原五に轉居、「アララギ」發行所/を同所に移す。藤澤古實寄寓す。

とあることで、翌年5月5日まで同所に住んでいる。亀原は現在の豊島区雑司が谷1丁目、護国寺の西の辺りらしい。別に島木赤彦の鬼子母神参詣時期はこの期間に限らなくても良いのだが一応雑司ヶ谷との関わりと云うことで示して置く。(以下続稿)

*1:ルビ「とよた ま 」。

*2:ルビ「すすき・ふくろう」

*3:ルビ「せきようえいり ・ごうこ 」。

*4:ルビ「すすき・ふくろう」

池内紀「雑司が谷 わが夢の町」(3)

池内紀の居住歴(3)
 板橋の次に住んだ豊島区雑司ヶ谷であるが、中公新書2023『東京ひとり散歩』の「まえがき」には、ⅴ頁5~11行め、

 雑司ヶ谷には、けっこう長くいた。少し歩くと鬼子母神の境内にきた。樹齢五百年とかの/大イチョウがそびえており、人よんで「子授けイチョウ」、あるいは「子育てイチョウ」と/もいって、若い母親が乳母車を押してやってくる。ヘソの緒を納めるお堂があって、薄暗い/なかに白い箱がぎっしりとつまっていた。十月のお会式にはうちわ太鼓が鳴りひびき、大祭/ともなると数百の提灯がともされた。
 池袋の繁華街から、つい目と鼻のところなのに、まるで別天地のようにちがっていた。雑/司ヶ谷を横切り、いまもチンチン電車が走っていて、‥‥

とあってその時期は示されていない。
 この本は、220~222頁「あとがき」に拠ると、221頁10~12行め「まる二年間、『中央公論』に」「足の向くままいちにち散/歩」と題して連載したものに「東京の雑誌『東京人』に書いた二/篇」を加えたもので、「中央公論」連載は奥付の前(頁付なし)の「初出」に拠ると「二〇〇七年一月号~二〇〇八年十二月号」である。172~179頁「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」はその1篇だけれども、掲載順に収録されていないようだ。1~50頁「Ⅰ 見知らぬ東京」に6篇、51~107頁「Ⅱ お江戸今昔」に6篇、109~169頁「Ⅲ 密かな楽しみ」に7篇、171~219頁「Ⅳ よそ者たちの都」に6篇、合計25篇であることは著者本人が「あとがき」で、221頁15行め~222頁1行め「‥‥、二年間連載の二十四篇と、べつの二/つで二十六篇のはずなのに、何度かぞえても二十五しかない。‥‥」と述べているばかりで、理由は説明されていない。
 それはともかく、「Ⅳ」の1篇めとして収録される「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」の掲載時期であるが、177頁2~3行め、鬼子母神の境内を描写して、

 砂場やブランコはあるが子供の姿がない。ハトだけが賑やかに群れている。弱々しい冬の/陽ざしがななめになって、午後まだ早いのに夕暮れのけはいである。

とあるから、これが執筆のための訪問として、掲載は2月号か3月号の見当になりそうだ。
 それでは「懐古」を含む部分を抜いて見よう。冒頭、池内氏は大塚駅前停留所で都電に乗って鬼子母神前停留所に向かっているが、173頁7~10行め、

 急坂の終わったところが鬼子母神前*1。道路をはさんで古風な停留所がななめに向き合い、/警報器が「カンカンカン」とまぬけな音をたてている。「はじめに」で触れているが、若い/ころ、この近くのアパートにいた。だから警報器の「カンカンカン」が耳の底に残っている。/記憶を思い起こしながら、‥‥


 この踏切の音は今村昌平監督『復讐するは我にあり』でも 01:26:20~26、早稲田方面行「7502」の踏切通過に際して鳴るのを聞くことが出来るのだが、池内氏の住んだ1960年代前半から45年ほどを経ても同じ音だったのだろうか?
 現在の鬼子母神前停留所は、環状5号線と地下鉄副都心線の工事で当時とはすっかり様変わりしてしまった。今年に入って YouTube に、HN「クルーズ大好き・おやじ」が昭和52年(1977)に撮影した都電の 8mmフィルムを上げている。音声は入っていない。
・「昭和52年 都電荒川線 鬼子母神前2021/01/20

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 他にもこの「おやじ」さん(?)が当時の都電を 8mmで撮影した動画が幾つか上がっているが、もう1つ、東京外国語大学最寄り駅から撮った車窓風景も示して置こう。
・「昭和52年都電荒川線 西ヶ原四丁目からの車窓風景」2021/02/25

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 それはともかく「けっこう長くいた」のが「四年あまり」で、「若いころ」が「二十代のはじめ」であること、そして「停留所‥‥の近くのアパート」の具体的な位置も「雑司が谷 わが夢の町」には説明されている。尤も、今は殆どの店が廃業しているので「参道入口の花屋の南を右に入った露地奥のアパート」が何処なのか分からない。現在の豊島区雑司が谷3丁目17番、或いは18番か19番との見当は付くのだけれども。
 いや、「雑司が谷 わが夢の町」に回想される「恋人」は、『東京ひとり散歩』の「まえがき」の方がより具体的である。池内氏は散歩中の、ⅰ頁7行め「ひとり対話」と名付けている、8行め~ⅱ頁1行め「頭の中、記憶の中にお/さまっている」人と、ⅰ頁7行め「足に合わせて気の向くままに話をする」と云う習慣について語っているのだが、その相手は、ⅱ頁2行め「日ごろは忘れているのに、なぜか散歩中にあわられる。こちらから呼び出すこともあ」ると云う按配で、14行め「死者も生者と同じ存在権をもってい」る。そしてその相手の例として2人挙げるのだが、その1人めが7~10行め、

‥‥。たとえば初恋の人を呼び出すとする。丸顔で、目が大きくて、髪はあ/のころはやっていたポニーテイル。笑うと右頰にエクボができた。彼女とはたいてい映画の/話をしていた。だからひとり対話でも、つい先だって試写会で見た映画のことを話すとしよ/う。この間はおのずと二十代はじめの青年になっている。

と云うのである。「二十代はじめ」が共通するところから、この「初恋の人」が「雑司が谷 わが夢の町」に登場する「恋人」と同一人物であることは間違いないだろう。
 20代はじめの4年余り、とすると満20歳の池内氏が大学3年生になった昭和36年(1961)4月をその初めの見当として良いであろうか。昭和40年(1965)11月に満25歳になるから大体その辺りが下限になろうか。そうすると昭和38年(1963)12月の、福樹荘の老弁護士殺し(西口彰事件)のときには池内氏は雑司ヶ谷に住んでいたはずである。しかも、極々近くに。――いや、事件発覚が12月29日とすると、池内氏は郷里に帰省していて不在だったため、騒動を見ることもなく、年明けに上京した際には既に雑司ヶ谷の町は何事もなかったかのようになっていたであろうか。
 さて、ここで池内氏の文章を読む切っ掛けになった、高田書店についてもう一度触れて置こう。――池内氏は「東京人」に「雑司が谷 わが夢の町」を寄稿するに際し、鬼子母神を訪ねたようで、194頁16行め~195頁4行め、

 天を覆っていた並木の大木は、あたまをとめられ、枝を伐られて、もはや見るかげもない。高田/【194】書店は廃業、商店もおおかたがさまがわりした。
 しかし、鬼子母神の境内は寸分かわらず昔のまま、子育ての神さまにあやかるように、昼間は若/い母親が子どもをつれてくる。ハトが群れている。古ぼけた売店が一軒。日暮れともなると、小さ/な電球が一つともる。

と現況を述べている。初出は「東京人」一九九一年三月号だから、早ければ平成2年(1990)の末、遅くとも(と云って締切が発行日のどのくらい前なのか、知識がないのだけれども)平成3年(1991)の初めと云うことになろう。5月6日付(1)の冒頭に触れた、豊島区南池袋の古書店・古書 往来座ブログ「往来座地下」の2002-01-01「番外 ご近所古書店史」に拠れば、平成3年の古書店名簿に高田書店はまだ載っている。そうすると平成2年(1990)の秋から平成3年の初頭に掛けての廃業であったろうか。――何故かこの「高田書店は廃業」の辺りは、ブログ「往来座地下」に引かれていない。(以下続稿)
5月9日追記YouTube にHN「tada4 4884」が投稿した、説明に「1976(昭和51)年~1978(昭和53年)に撮影しました。貴重な白黒写真で構成しました。」とある次の動画に、「鬼子母神前」と題して5枚掲出される。
・「都電荒川線③(東京都)1976(昭和51)年~1978(昭和53)年」2020/05/05

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 ①02:47~52、南から鬼子母神前停留所(三ノ輪行)を望む。遠景だが③と同じ状態らしい。
 ②02:52~57、鬼子母神前停留所(三ノ輪行)に屋根がある。
 ③02:57~03:02、鬼子母神前停留所(三ノ輪行)の屋根はまだなく、支柱は設置済み。
 ④03:02~07、鬼子母神前停留所(早稲田行)に屋根がない。
 ⑤03:07~12、鬼子母神前停留所の踏切。西側の洋品店の看板が上掲「クルーズ大好き・おやじ」の 8mmと異なるが、両者対照することで「いいづか洋品店」らしい。
「クルーズ大好き・おやじ」の 8mm の正確な撮影時期だが、
・「昭和52年都電荒川線 建設中のサンシャイン602021/01/25

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に写る、サンシャイン60の様子から、判断出来るかも知れない。とにかく昭和52年(1977)で間違いなさそうだ。「昭和52年 都電荒川線 鬼子母神前に写る人々がコート着用であるところからして、昭和52年の2月前後と云う見当になろう。
 「tada4 4884」の写真は、服装から夏冬ではないことが察せられるが、撮影期間が3年にわたっており、④→①③→②、と云う順序になりそうだと云うくらいの見当しか付けられない。
 とにかく、鬼子母神前停留所に屋根が設置されたのは、昭和52年か昭和53年と云うことになりそうだ。

*1:ルビ「きしもじん」。「東京都交通局」HPの「停留所情報」に拠れば「きしぼじんまえ Kishibojimmae」らしい。

池内紀「雑司が谷 わが夢の町」(2)

池内紀の居住歴(2)
 昨日の続き。
 中公新書2023『東京ひとり散歩』の「まえがき」に拠れば、池内氏は姫路から上京して、まづ北区滝野川に住んでいる。滝野川と云っても西は赤羽線埼京線)の板橋駅から、東は京浜東北線王子駅近くまで、かなりの面積があって最寄り駅も違って来るが、前回の引用の続き、ⅲ頁11行め~ⅳ頁2行め、

 はじめは面くらった。関西の城下町に育ったので、まわりにはいつも目じるしの山があり、/町外れには川が流れていた。橋の上に立つと、夕もやの中にお城が浮かんでいた。
 ところが東京には、どこにも山がなく、まわりは家ばかり。滝野川に川は流れていなかっ/た。すぐ近くが飛鳥山と知って出かけたが、山ではなくて、ちっぽけな丘だった。目の下を/【ⅲ】ひっきりなしに電車が通る。貨物列車が長々と通過する。不思議な獣のうなり声のように遠/いひびきが伝わってきた。


 ⅳ頁7~10行め、

 滝野川のアパートの近くに一里塚があって、慶長九年(一六〇四)の年号が刻まれていた。/関ヶ原の戦いの四年後、江戸幕府が開かれた翌年にあたる。
 少し歩くと古河庭園というのにいき合った。「銅山王」といわれた人の旧邸だそうで、建/築家コンドル設計の石づくりの建物があった。階段状の庭にツツジが咲き乱れていた。


 飛鳥山(北区王子1丁目1番3号)の「すぐ近く」で、西ヶ原一里塚(北区西ヶ原2丁目4番2号)が「近く」で、「少し歩くと」旧古河庭園(北区西ケ原1丁目27番39号)と云うのだから、北区滝野川でも東端の1丁目であろう。滝野川1丁目は東京外国語大学のある西ヶ原4丁目に隣接しており、交通機関としては滝野川1丁目を縦貫する都電32系統(滝野川線、現・荒川線)があるが、飛鳥山停留所(1丁目4番)もしくは滝野川一丁目停留所(1丁目23番)から、大学最寄りの西ヶ原4丁目まで1駅か2駅だから歩いて通ったのであろう。
 板橋についてはⅣ頁11~12行め、

 雑駁なだけの駅前と思っていた板橋駅の近くに、ある日、近藤勇土方歳三の碑を見つけ/た。板橋刑場跡だそうで、‥‥

とあって、この「板橋」は板橋区ではなくて、板橋区板橋であることが分かる。尤も、赤羽線埼京線板橋駅の西口は板橋区板橋だけれども、東口は北区滝野川で、近藤勇墓所は東口、北区滝野川7丁目8番10号にある。――板橋に住んでいた当時は、都電18系統(板橋線)で新庚申塚停留場まで通っていたのであろう。(以下続稿)

池内紀「雑司が谷 わが夢の町」(1)

池内紀の居住歴(1)
 4月9日付「水島新司『ドカベン』(60)」にて、鈴木則文監督の実写映画『ドカベン』にて「朝日奈書店」として使用されていた書店が豊島区雑司が谷の高田書店であることを確認し、営業期間について豊島区南池袋の古書店・古書 往来座ブログ「往来座地下」の、2002-01-01「番外 ご近所古書店史」を参照した。そこに池内紀(1940.11.25~2019.8.30)の文章が引かれていることに触れたのだけれども、妙なところに注目してどのような内容であるかを説明していなかった。

■高田書店さんは鬼子母神参道ケヤキ並木と商店街の二股分岐点角地。
 『東京人 特集[東京くぼみ町コレクション]』(1991/3)で池内紀
< 都電の鬼子母神駅で降りると、参道に向かって商店が並んでいる。右手に金物屋、八百屋、雑貨屋、豆屋、花屋。欅並木の参道は、太い幹から枝分かれしたように二手にわかれ、分岐点に高田書店という古本屋があった。>
< 二十代のはじめ、参道入口の花屋の南を右に入った露地奥のアパートに4年あまり住んでいた。>
 と書いている。


 この池内氏の文章の初出と再録については、やはり「往来座地下」の同じ日付、すなわち同時に纏めて投稿された一連の記事の1つ「「雑司が谷 わが夢の町」池内紀」に纏められている。現今、初出誌を見に行くことは難しいので、再録の方で確認した。
川本三郎編『日本の名随筆 別巻32 散歩』一九九三年一〇月二〇日第一刷印刷・一九九三年一〇月二五日第一刷発行・定価1553円・作品社・252頁・四六判

日本の名随筆 (別巻32) 散歩

日本の名随筆 (別巻32) 散歩

  • 発売日: 1993/10/01
  • メディア: ハードカバー
 編者も含め36人の36篇を収録する。193~195頁、29番めが池内紀雑司が谷 わが夢の町」である。
 高田書店に関わる箇所を、池内氏の雑司ヶ谷在住期間の手懸りとともに引用して置こう。193頁11行め~194頁6行め、

 都電の鬼子母神駅で降りると、参道に向かって商店が並んでいる。右手に金物屋、八百屋、雑貨/屋、豆屋、花屋。欅並木の参道は、太い幹から枝分かれしたように二手にわかれ、分岐点に高田書/店という古本屋があった。【193】
 記憶の底から、まざまざとよみがえってくる。二十代のはじめ、参道入口の花屋の南を右に入っ/た露地奥のアパートに四年あまり住んでいた。ふところはさみしかったが若さがあった。安物の背/広に着替えて会いにいく恋人もいた。ふところのさみしい恋人たちは、のべつ歩きたがるものであ/る。墓地の南につづく静かな住宅街の細い道を、ものほしげにうろついた。護国寺の石段にすわっ/て今川焼を食べながら、昏*1れなずむ大東京の家並みをながめていた。鬼子母神のお祭りには、手を/握りあって雑沓にまぎれこんだ。


 池内氏が雑司ヶ谷に住んだのは、当時西ヶ原(現・北区西ヶ原4丁目51番)にあった東京外国語大学に通っていたからであろう。鬼子母神前停留場から西ヶ原四丁目停留場まで都電32系統(現・荒川線)で通っていたものと思われる。尤も「二十代のはじめ、‥‥四年あまり」とあるから、初めから雑司ヶ谷に住んだわけではない。
 この辺りの事情は次の本より窺うことが出来た。
中公新書2023『東京ひとり散歩』2009年9月25日発行・定価740円・中央公論新社・222頁

東京ひとり散歩 (中公新書)

東京ひとり散歩 (中公新書)

  • 作者:紀, 池内
  • 発売日: 2009/09/01
  • メディア: 新書
 前付ⅰ~ⅷ頁「はじめに」に、ⅲ頁7~10行め、

 十八歳のとき、東京にやってきた。北区滝野川の安アパートが振り出しだった。そのうち/板橋に引っ越した。つづいて豊島区雑司ヶ谷。そのあとが世田谷の三軒茶屋。世帯をもって/からは国分寺市、四十代になってようやく三鷹に分相応の家を見つけた。そして――履歴書/風にいうと――現在にいたっている。


 このうち本文中で取り上げられているのは172~179頁「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」のみであるが、滝野川・板橋・三軒茶屋等のことは「はじめに」に略述されている。次回、滝野川や板橋について「はじめに」の記述を確認し、また雑司ヶ谷について「雑司が谷 わが夢の町」と対照させながら見て置こう。(以下続稿)

*1:ルビ「く」。

佐木隆三『復讐するは我にあり』(2)

 昨日の続き。
・福樹荘の神吉梅松弁護士(2)
 さて、前回参照した大正15年(1926)5月1日現在『東京電話番号簿』に神吉氏の名は見当たらないようであるが、中央区立図書館地域資料室アーカイヴス「電話帳簿」を見て行くと、神吉氏の名前も拾うことが出来るのである。
東京電話番号簿(昭和4年10月1日現在)の「追加電話番号簿2」を見るに、203頁右列41~44件め、

神吉梅松…………………青山36-5737 赤、青山北、一ノ八
神吉梅松…………………茅場町66-0567 日、坂本楓河岸、一四號/(辯護士)
神吉梅松…………………京橋56-6734 京、松屋、一ノ八、(辯護士)
神吉梅松…………………本所73-4705 深、相川、五、上原方

と、同一人物であろうが4行に亙って出ている。「赤」は赤坂區、「日」は日本橋區、「京」は京橋區、「深」は深川區、自宅や関東大震災後の寄留先などでもあろうか。
東京電話番号簿(昭和14年4月1日現在)を見るに、295頁左列47件め「神吉梅松………………九段33-3476 麴、麴町、一ノ一〇、二 〈辯 護 士/辨 理 士〉」とある。千代田区麹町は住居表示未実施地域なので現在も当時のままとすると、千代田区麹町1丁目10番地は英国大使館の南西、半蔵門病院などのあるブロックである。
・『東京中央電話局/電話番號簿 昭和十五年四月一日現在』を見るに、295頁右列5人め「神吉梅松………………九段33-3476 麴、麴町、一ノ一〇  〈辯 護 士/辨 理 士〉」とある。
・『東京中央電話局/電話番號簿 昭和十七年十月一日現在』を見るに、200頁中列9人めに「神吉梅松…………九段33-3476 麴、麴町」と、3列になったため記載内容が少なくなっているが、見えている。恐らく昭和20年(1945)まで麴町區麴町一丁目で開業しており、5月25日の山の手大空襲で焼け出されて後に、豊島区雑司ヶ谷町三丁目の福樹荘に移ったのであろう。――直ちに移ったのか、それとも都内を転々とした末に移ったのか、戦後の電話帳を見れば判るのだけれども。
 家族がいたのかどうか、福樹荘では独り暮しで、殺されるまで半世紀以上現役であった。一体どのような生涯であったのであろうか。移動が自由になったら、当時の新聞や週刊誌報道を確かめることとしよう。
 なお、西口彰事件の記事はネット上に幾つも上がっているが、神吉梅松(1881~1963.12.20)の年齢は81歳とも82歳ともあり、かつ殺害日についても Wikipedia 等には12月29日とあって一定しない。ここでは大判例法学研究所「大判例」の「福岡地方裁判所小倉支部 昭和39年(わ)43号 判決」に、

‥‥、同年十二月二十日、東京地方裁判所の控室で見かけた弁護士神吉梅松(当時満八十二歳)に、民事事件を依頼したいと偽つて電話をかけ、同人の外出先で面談し、自分の兄が今夜お宅にくることになつているからと同人を欺き、同日午後九時ごろ、東京都豊島区雑司ヶ谷三丁目三十六番地福樹荘アパート二階十八号室の神吉方に同行したところ、高齢の同人が独り住いなので、隠れ場所を求める気持も手伝つて、同人を殺害して金品を強取しようと決意するに至り、‥‥

とあるのに従う。29日と云うのは雑司ヶ谷の事件が発覚した日ではないか。アパートの名称も「福寿荘」とする人が多いが「福樹荘」が正しいようだ。しかしこの大判例法学研究所なる組織(?)の正体が良く分からないのである。
 ところで、映画(原作未見)が発覚した日を「12月20日」としているのは、神吉氏殺害が西口彰の最後の凶行であったのを、順序を入れ替えて、その後で、浜松の旅館の女将とその母を殺害することにしたからであろう。29日に神吉氏を殺害したのでは年明けに熊本県で逮捕されるまでの時間が短過ぎる。映画では浜松で、榎津の相手を何度かしたことのあるコールガール(根岸季衣)が、榎津を目撃して交番に駆け込んで逮捕されることになっている。この辺りの時間の流れは、原作とも突き合わせて整理するつもりである。(以下続稿)

佐木隆三『復讐するは我にあり』(1)

 さて、4月9日付「水島新司『ドカベン』(60)」を「今村昌平監督『復讐するは我にあり』(1)」と題して投稿しようかと思ったのだが、鈴木則文監督『ドカベン』のロケ地として、欅並木の鬼子母神表参道と西参道商店街の分岐点にあった本屋に注目したのだから、逡巡の末(?)『ドカベン』の題で投稿したのである。
今村昌平監督映画 昭和54年(1979)4月28日(土)公開

復讐するは我にあり [VHS]

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  • 発売日: 1996/03/20
  • メディア: VHS
復讐するは我にあり [DVD]

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復讐するは我にあり [DVD]

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復讐するは我にあり [DVD]

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あの頃映画 「復讐するは我にあり」 [DVD]

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  • メディア: DVD
・パンフレット
・ポスター
・ちらし
【映画チラシ】復讐するは我にあり

【映画チラシ】復讐するは我にあり

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 佐木隆三の名を冠しているけれども、映画の話ばかりしている場合も「水島新司ドカベン』」と題しているように原作の著者・標題を記事の題にすることにしているので、しばらく佐木氏の原作の話はしません。そのうち映画と対照して見ようとは思っているけれども。
・福樹荘の神吉梅松弁護士(1)
 4月9日付「水島新司ドカベン』(60)」にも触れたミックノキモチのブログ「乱雑古本展示棚」の2012/06/27「雑司が谷タイム・スリップ その1/「復讐するは我にあり」の福寿荘 東京都豊島馬区雑司が谷/†ここで殺人があった」に、次のような記述がある。

 今ではすっかり様変わりをしてしまった東京・池袋の南、鬼子母神周辺だが、私が小さい頃は都電停留所から明治通りにかけて、賑やかな商店街があった。
 ‥‥。その商店街の中ほどに、鬼子母神の電停から行くと右手に古色豊かなアパート福寿荘があった。中廊下を抜けるとけやき並木の鬼子母神への参道へ出られた。
 高田本町があったころの餓鬼どもは通り抜け禁止の張り紙を無視して、よく走り通ったものだ。


 この辺りは戦災を免れたようで、昭和20年代後半の航空写真にて、分岐の何軒か北、表参道と西参道に跨がるように建つ福樹荘が確認出来る。昭和55年(1980)頃の航空写真には写っているが、昭和60年(1985)頃の航空写真では現在のマンションに変わっているようだ。そこで不動産情報サイトにて検索するに、現在のマンションは「築年月 1982年8月」である。すなわち、『復讐するは我にあり』撮影から何年もしないうちに取り壊されたことになる。
 さて、「乱雑古本展示棚」では西参道商店街から入っているが、映画の緒形拳は表参道から入っていた。この東西両方の出入口を繋ぐ「中廊下」だが、映画にも写っている。――01:54:38~52、老弁護士の部屋の窓から見下ろした鬼子母神表参道が「12月20日」のテロップとともに写る。現在と違って石畳がなく全面に舗装されており、向かいに「三幸」と云う中華料理屋の暖簾が写る。そこにパトカー等の警察車輌が何台も停まって捜査員でごった返している。続いてカメラは室内に向いて、白衣の検視官が加藤嘉の検屍をするところを写す。そして01:55:05~、白黒テレビの画面越しに、まづ上から、アパートの白壁の階段を白布で覆った担架を検視官や鑑識係が下ろすところを写す。階段を下りたところにドアがあって表参道側の出入口である。次いで外からこの出入口を出る担架の一行を写すのだが、01:55:17~19、奥に、ガラス窓から光が射し入る西参道側の出入口のドアが写るのである。観音開きで長方形のガラス窓がそれぞれの扉の上からかなり下に掛けて4つずつ、そこを透かして西参道の向かい側の建物まで見えている。さらにその上の欄間にもやや縦の狭い、中央に細い仕切りのあるガラス窓が2つ見える。この間が「中廊下」であるが20mはあるのでかなりの奥行きが感じられる。幅も「餓鬼ども」が「走り通った」には十分なくらいありそうだ。
 この映像に被せてアナウンサーの声で事件が説明される。曰く「捜査本部の調べに拠りますと、被害者の弁護士、カワシマキョウヘイさん、68歳の、自室6畳間の、殺害現場は、室内の物色の跡が酷く、現金約5万円などの被害が確認されました。目撃者の証言から、捜査本部では、殺人鬼、榎津巌の犯行ではないかと見ています。また榎津を、都内池袋で」と、この辺りで画面では老弁護士の遺体を運搬車の後部に載せて、眼鏡を掛けていない「榎津巌(37)」の顔写真に切り替わると共に、このニュースに見入っていた貸席・旅館「あさの」の女将(小川真由美)の後ろ姿(斜め)も写り、続いて榎津の顔写真を写しながら「目撃したとの有力な情報もつかんでおり」と、ここまで見て女将はテレビを消す。
 緒形拳(1937.7.20~2008.10.5)は公開当時41歳、別に37歳でもおかしくはないが今時の30代ではない。加藤嘉(1913.1.12~1988.3.1)は公開当時66歳、しかしもっと年上に見える。昭和50年代の見た目と年齢の関係と、40年後の今のそれとでは、懸隔が甚だしい。西口彰事件のあった昭和38年(1963)では、尚更であったろう。ここで驚かされるのは、実際の被害者・神吉梅松(1881~1963.12.20)が、加藤嘉よりもずっと年上であることである。神吉氏は法曹界で半世紀以上生きて来た人間なので、ネットで検索すると裁判関係の資料が幾つかヒットする。ただ、詳細は原本まで遡らないと分からないので、ここではネットで詳細まで分かる明治43年(1910)の「官報」と大正9年(1920)の民事裁判の記録に触れて置く。
 国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧出来る「官報」第八千百七號(明治四十三年七月一日・印刷局・30頁+附録1頁)八頁上段30行め~一一頁上段「○敍任及辭令」の、一一頁上段16~17行めに、

十二級俸下賜(以上〈六 月 三/十 日  〉同)
補松本區裁判所檢事        〈水 戸 區 裁 判 所 檢 事 兼 水/戸 地 方 裁 判 所 檢 事 檢 事〉 神吉 梅松

とあり、21行めに、

九級俸下賜           松本區裁判所檢事檢事 神吉 梅松

とある。数えで三十歳の明治43年に水戸から松本に転任している。「官報」にはこの他にも出ているであろうが、検索でヒットしたのはこれのみ、ヒットしないものまではとても探していられない。
 それから名古屋大学大学院法学研究科「日本研究のための歴史情報判例データベース(明治・大正編)」では、1件「手附金返還竝ニ損害賠償請求ノ件」(大審院民事判決録(民録)26輯411頁)がヒットする。「大正八年(オ)第九百三十五號/大正九年三月二十九日第二民事部判決」で「上告人 藤間仙吉/訴訟代理人 高橋織之助/被上告人 門田音熊/訴訟代理人 神吉梅松」と見えている。訴訟代理人の高橋織之助(1868.二.二十七生)は名古屋大学大学院法学研究科「日本研究のための歴史情報 『人事興信録』データベース」にて、「高橋織之助 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)」が原本の画像ともども閲覧出来る。その項目の末尾に「(東京、神田、錦町三ノ五電話本局二一五六)」とあり、中央区立図書館地域資料室アーカイヴス「電話帳簿」にて画像公開されている『大正十五年五月一日現在/東亰電話番號簿』(東京中央電話局)を見るに被上告人のみ、169頁左列2行めに「門田音熊…………………京橋56-0725 京、東湊、一ノ二三、萩田方」と見えている。どうやら神吉氏は大正の前半には検事を辞めて東京で弁護士をしていたようである。(以下続稿)

石崎直義 編著『越中の伝説』(8)

 前回「索引」にて、各市町村ごとの話数を確認したが、かなりの偏りがあることが見て取れた。なお、見返し(表紙・裏表紙とも)には4月26日付(1)に触れたように[富 山 県]の白地図があって、本書刊行当時の富山県の市町村とその範囲が示されているが、これにより中新川郡舟橋村婦負郡細入村、射水郡下村、射水郡大島町、東礪波郡庄川町の5つの町村の話が採られていないことが分かる。うち舟橋村を除く4町村は現存しない。いや、下新川郡宇奈月町黒部市に、上新川郡婦負郡富山市に、西礪波郡福岡町は高岡市に、東礪波郡庄川町砺波市に併合され、上記2町を除く東礪波郡・西礪波郡の8町村は南砺市に、射水郡新湊市とともに射水市になった。
 本書刊行当時の市の中では小矢部市の16話が一番多かった。平成の大合併を経た後では、面積では県全体の3割近い富山市が38話とこれを上回るが、南西部に新たに発足した南砺市はさらに多く56話、なお射水市は僅か3話である。いや、南砺市の56話のうち西礪波郡福光町が23話で、もともと全ての市町村の中で一番採録数が多かった。これに次ぐ17話が採られている中新川郡立山町は、古来信仰の対象として著名であった霊山立山を擁するのだから蓋し当然である。
 それはともかく、富山県西端の小矢部市と西礪波郡福光町の採録数が多いのには、理由がある。――「索引」に次いで奥付があるのだが(その裏は白紙)、その上半分、横組みで1行め「著 者 略 歴石崎直義 (いしさきなおよし)」として、

明 治 37 年 富山県西砺波郡福光町東西町に生まれる。
大 正 12 年 富山師範学校卒業以来,36年間,小学
      校・青年学校・中学校の教育に従事。
昭 和 35 年 小学校長を退職以後,福光町史・小矢部
      市史等の編集委員を委嘱され,地方史研
      究に努む。
昭 和 49 年 富山県教育委員会より芸術文化功労者
      彰を受く。
現   在 富山県史編纂専門委員,越中史壇会副会
      長,交通史研究会委員,日本民俗学会
      員。
主 な 著 書 「越中の民話,第1集・第2集」「若狭越
      前の民話」「秘境・越中五箇山」「富山の
      秘境」その他
《現住所》 富山県西砺波郡福光町天神町1,×××


はてなブログ タグ(旧「はてなキーワード」)」の「#石崎直義」に拠ると「1960年土山小学校校長で退職」とある。土山は石川県境に近い福光町西部の山間部で、小学校は脇又にあった。昭和49年(1974)に砂子谷小学校と統合されて廃校になっているが、校舎の一部は現存している。
 それはともかくとして、石崎氏は福光町出身で、富山師範学校の学生だった時期など、福光から離れた時期もあったであろうが、最終的に福光町立の小学校長として教職を終えており、以後は福光町の中心市街に居を構えていたようである。そして『福光町史』と『小矢部市史』の編纂に、「はてなブログ タグ」に拠ると前者には「編纂常任委員」として参画しているのである。
 そうすると、西砺波郡福光町が23話で最多、小矢部市が市としては16話で最多である理由は自ずと明らかであろう。甚だしくバランスを失しているとまでは思わないが、やはり県の東部よりも西部の話が多い印象は否めず、西部でも現射水市域の話の少なさも気になるのである。(以下続稿)

石崎直義 編著『越中の伝説』(7)

 続いて最後にある、171~174頁「索  引」を眺めて置こう。
 体裁であるが4段組、市町村ごとに前後1行空け、1字下げで話の題と頁を示す。例を示すと174頁1段め2~5行め、

東砺波郡井口村*1
 義経落胤     76*2
 大蛇を食べた
  婆さま      122

の如く、2行にわたる場合はさらに1字下げる。ここでは文節で切って改行しているがそうでない例もある。もう1例示して置こう。173頁11~12行め、

下新川郡黒部渓谷
 雪  女      119


 このように2字題・3字題は4字分に均等割付にしてある。
 さて、ここでは市町村ごとに何話採られているか確認したいので、話の題は省略して収録位置のみを示し、最後に( )で話数を添えた。
富山市 21,78,88,115,117,128,136,148,150,150,166,167(12)
高岡市 27,30,42,48,59,67,73,77,77,116,133,159(12)
新湊市 114(1)*3
魚津市 27,59,87,89,103,151,163(7)*4
氷見市 26,55,95,103,103,114,151(7)*5
滑川市 79,134,164(3)*6
黒部市 90,95,106,158(4)
砺波市 54,66,94,95,106,130,131,140,151,157(10)*7
小矢部市 25,31,33,49,68,69,72,73,74,80,145,147,151,155,156,159(16)*8
上新川郡大沢野町 62,79,157(3)*9
上新川郡大山町 22,52,62,103,123(5)
中新川郡上市町 38,54,120,149,154(5)*10
中新川郡立山町 13,17,18,19,23,24,40,52,61,83,83,85,92,103,105,107,107(17)
下新川郡宇奈月町 29,31,50,93,97(5)*11
下新川郡入善町 89,100,101(3)*12
下新川郡朝日町 33,46,86,127,129,150,159(7)
下新川郡黒部渓谷 119(1)
婦負郡八尾町 66,88,92,102,105,113,139,144,161(9)*13
婦負郡婦中町 40,82,121,144,148(5)*14
婦負郡山田村 46,65,82,89(4)
射水郡小杉町 60(1)*15
射水郡大門町 102(1)
・東砺波郡城端町 43,105,142(3)*16
・東砺波郡平村 23,56,69,71,114(5)*17
・東砺波郡上平村 69,98,105,125,158(5)*18
・東砺波郡利賀村 47,49,57,65,69,96,103,104,133(9)*19
・東砺波郡井波町 81,95,143,165(4)*20
・東砺波郡井口村 76,122(2)*21
・東砺波郡福野町 67,87,96,97,146(5)
・西砺波郡福光町 36,37,44,55,59,62,71,72,75,75,76,80,84,85,96,104,123,126,137,141,141,152,160(23)*22
・西砺波郡福岡町 80,95,107,164(4)
・地名伝説 108,109,109,110,110,112(6)
 若い頃の私なら頁の確認までして誤りを正し、足らざるを補ったと思うのだが、先月満50歳になり、今はその気力が続かない。
 それはともかくとして、やはり地理的に偏りがあることが気になる。これについて最後に確認して一先づ本書の検討を終えたい。(以下続稿)

*1:ルビ「いのくち」。

*2:ルビ「らくいん」。

*3:ルビ「しんみなと」。

*4:ルビ「うおず 」。

*5:ルビ「ひ み 」。なお「103」がもう1つ余計にあるのを削った。

*6:ルビ「なめりかわ」。

*7:ルビ「と なみ」。

*8:ルビ「お や べ 」。

*9:ルビ「かみにいかわ」。

*10:ルビ「かみいち」。

*11:ルビ「う な づき」。

*12:ルビ「にゆうぜん」。

*13:ルビ「ね い 」。

*14:ルビ「ふちゆう」。

*15:ルビ「い ずみ」。「いみず」を誤る。

*16:ルビ「ひがしとなみ・じようはな」。

*17:ルビ「たいら」。

*18:ルビ「かみたいら」。

*19:ルビ「と が 」。

*20:ルビ「い なみ」。

*21:ルビ「いのくち」。

*22:ルビ「にしとなみ・ふくみつ」。

石崎直義 編著『越中の伝説』(6)

 伝説集は、2019年8月24日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(3)」等にも述べたように基本的に編纂物である。中には直接取材して得た話もあるだろうが、殆どが先行する文献から得たものである。しかし戦前の伝説集は、当ブログで取り上げた杉村顯『信州の口碑と傳説』や『信州百物語』、青木純二『山の傳説』等を見ても判るように、依拠した文献を示さないことが多かった。そのため、殆ど独自の材料を有さないただの編纂物であるにも関わらず、民俗学の資料として活用されてしまうようなことがあった。私はこういった伝説集の典拠を突き止めて、原典の方を使用すべきであると思っている。当ブログに於ける『信州の口碑と傳説』及び『信州百物語』の典拠研究はその一環である。
 今でもそのような、典拠を明示せずに古老の話を聞き集めたかのように装った伝説集は出ているであろうが、本書は民俗学者も多く参加した、昭和50年前後に刊行されたシリーズの1冊なので、依拠した文献は169~170頁「参考文献」に纏めて示している。但し一々示すようなことはしていないので、本書に載る話を使おうと思ったときには「参考文献」を参照しつつ原典を探し当てないといけない。しかしながら、関東ではなかなか富山県で出版された文献を参照するのが難しい。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来ても検出するのが手間である。出身大学の図書館が利用出来たら、書庫の市町村史の棚で原本を幾つも並べて、目次や索引と往き来しながら頁を繰ってざっと見てしまうのだが、昨年の2月から入れない。そうでないと、面倒な上に時間ばかりが掛かる。
 いや、むしろ本書の原典に当たる本について、典拠を確認する作業を行いたいところなのだけれども、都下の公立図書館から借りられる、話数の少なくない富山県の伝説集は本書と云うことになろうと思って、一応細目を示し、そして「参考文献」は丸々抜いて、今後、越中の伝説について考える際の1つの基準にしようと云うのである。
 169頁、2行取り3字下げでやや大きく「参 考 文 献」とあり、2行め以下は小さく書目を列挙。以下、当該の書影の貼付は不可能であるので、別版の書影を貼付した*1

奇談北国順杖記 鳥翠台北茎(文化四年)
喚起泉達録 野崎伝助編著(大正一五年・中田書店刊)

三州奇談 堀麦水(昭和八年・石川県図書館協会刊)
近世民間異聞怪談集成 (江戸怪異綺想文芸大系)

近世民間異聞怪談集成 (江戸怪異綺想文芸大系)

  • 発売日: 2003/04/01
  • メディア: 単行本
越中志徴 森田柿園編著(昭和一七年・富山新聞社刊)
越の下草 宮永正運編著(昭和二六年・富山県郷土史会刊)
肯構泉達録 野崎雅明編著(昭和四九年・KNB興産刊)
高志の白鷹 富山県女師附小編刊(昭和九年)
立山千夜一夜(第一~六集) 池上秀雄編著(昭和二二~二五年・中田書店刊)
有峰を探る 上新川郡文化協会編刊(昭和三二年)
越中伝説集 小柴直矩編著(昭和三四年・富山県郷土史会刊)
となみむかし昔 砺波市小教研編刊(昭和三七年)
越中の民話(第一集) 伊藤・石崎・佐伯編著(昭和三八年・未来社刊)
赤尾谷昔むかし(一) 西赤尾校下育成会編刊(昭和四二年)
大沢野ものがたり 大沢野高校社会科研究部編刊(昭和四三年)
郷土史研究(第一号) 山田村青年学級編刊(昭和四四年)
伝説とやま 北日本放送編(昭和四六年・KNB興産刊)【169】
秘境・越中五箇山 石崎直義(昭和四七年・北国出版社刊)
立山風土記の丘 佐伯幸長(昭和四七年・北日本出版社刊)
利賀の民話 利賀村教育センター編刊(昭和四九年)
井口村伝説・史話 井口村郷土史研究同好会編刊(昭和四九年)
越中八尾 成瀬昌示(昭和四九年・マツザキ書店刊)
富山の秘境 石崎・中川(昭和四九年・巧玄出版刊)
越中の民話(第二集)石崎直義編著(昭和五〇年・未来社刊)
おやべの伝説 小矢部市商工観光課編刊(昭和五一年)


 そして最後に「県下市町村史・誌・広報」として、2字下げで3行、以下の書目を列挙。

宮崎村の歴史と生活 宇奈月町史 入善町史 黒部市誌 魚津市史 上市町誌 大山町史 大沢野町誌   /八尾町史 婦中町史 小杉町史 高岡市史 氷見市史 戸出町史 中町町史 砺波市史 城端町史 福野町史/井波町史 庄川町史 小矢部市史 福光町史 広報「ふくみつ」 その他


 本書の成立を考える上では、これらの「参考文献」の全てに目を通す必要があるのだけれども、本書だけでその作業をしても仕方がない。所詮は編纂物なのだからそこまでの値打ちがあるとも思えない。伝説の系統を総合的に、近世地誌から読物まで通覧出来る研究が、地域ごとに現れないものだろうか。労多くして功少ない扱いを受けるかも知れぬが、得体の知れない伝説集に依拠し続ける状況をなくすためには是非とも必要だと思うのである。(以下続稿)

石崎直義 編著『越中の伝説』(5)

 昨日の続きで、4章め「信仰伝説」について。137頁上段、中央に大きく「信 仰 伝 説」。下段1行めに2行取り1字下げでやや大きく1節め「祭神・祭礼」。
・1節め、137頁下段~146頁下段4行め「祭神・祭礼」
【1】「 福光宇佐八幡宮 
   137頁下段2行め(西砺波郡福光町) ~139頁上段14行め。
    《41》138頁上段「宇佐八幡宮」。
【2】「 日尾御前 
   139頁上段15行め(婦負郡八尾町日尾谷) ~140頁上段11行め。
【3】「 苗加神社の由来 *1
   140頁上段12行め(砺波市東野尻苗加) ~141頁上段6行め。
【4】「 雉真神社 *2
   141頁上段7行め(西砺波郡福光町高宮) ~下段6行め。
【5】「 大西大宮社の神体 
   141頁下段7行め(西砺波郡福光町山田) ~142頁上段7行め。
【6】「 風の神 
   142頁上段8行め(東砺波郡城端町南山田) ~143頁上段5行め。
    《42》142頁下段「是安の不吹堂(級長戸辺社)」。
   143頁上段6行め(東砺波郡井波町八乙女山) ~143頁下段15行め。
【7】「 宮の下稲荷堂 *3
   144頁上段1行め(婦負郡八尾町宮の下) ~下段10行め。
【8】「 尻打ち祭り 
   144頁下段11行め(婦負郡婦中町鵜坂) ~145頁上段13行め。
【9】「 石動曳山の起こり *4
   145頁上段14行め(小矢部市石動町) ~146頁下段4行め。
    《43》145頁下段「小矢部市の曳山」。
・2節め、146頁下段5行め~159頁下段10行め「諸仏・寺院」
【1】「 安居寺聖観音 *5
   146頁下段6行め(東砺波郡福野町安居) ~147頁上段6行め。
    《44》147頁上段右(8行め)「安居寺本尊・聖観音像」。
【2】「 浅草観音発祥地 
   147頁上段7行め(小矢部市藪波、浅地) ~下段15行め。
【3】「 木誓庵の涙観音 *6
   148頁上段1行め(富山市新庄町) ~下段14行め。
【4】「 常楽寺観音 
   148頁下段15行め(婦負郡婦中町千里) ~149頁下段11行め。
【5】「 橋 地 蔵 
   149頁下段12行め(中新川郡上市町宮川) ~150頁上段16行め。
【6】「 瘧落とし地蔵 *7
   150頁下段1行め(富山市中野町・小泉町) ~下段8行め。
   150頁下段9行め(富山市新庄町) ~下段14行め。
   150頁下段15行め(下新川郡朝日町) ~151頁上段4行め。
【7】「 歯痛なおし地蔵 *8
   151頁上段5行め(魚津市西布施) ~10行め。
   151頁上段11行め(砺波市鷹栖) ~15行め。
【8】「 火ともし地蔵 
   151頁下段1行め(氷見市海上) ~14行め。
【9】「 汗かき地蔵 
   151頁下段15行め(小矢部市福町) ~152頁下段6行め。
【10】「 義民追善六地蔵 
   152頁下段7行め(西砺波郡福光町西町) ~154頁上段3行め。
    《45》153頁上段「義民六地蔵堂」。
【11】「 大岩山不動尊 
   154頁上段4行め(中新川郡上市町大岩) ~155頁上段5行め。
    《46》154頁上段(8行分)「大岩山日石寺」。
【12】「 鼓が滝の不動尊 
   155頁上段6行め(小矢部市矢波) ~156頁上段12行め。
    《47》155頁下段「鼓が滝の美観」。
【13】「 弘法清水 *9
   156頁上段13行め(小矢部市西野尻) ~157頁上段5行め。
    《48》156頁下段左(8行分)「弘法清水」。
【14】「 白く濁るわき水 
   157頁上段6行め(上新川郡大沢野町下タ) ~16行め。
【15】「 塩谷の塩水 *10
   157頁下段1行め(砺波市栴檀山) ~158頁上段3行め。
【16】「 弘 法 薪 *11
   158頁上段4行め(東砺波郡上平村西赤尾) ~下段7行め。
【17】「 かたくてまずいナシ 
   158頁下段8行め(黒部市三日市) ~159頁上段1行め。
【18】「 石 イ モ 
   159頁上段2行め(下新川郡朝日町宮崎) ~13行め。
【19】「 蚊のいない村 
   159頁上段14行め(小矢部市水島) ~下段10行め。
・3節め、159頁下段11行め~163頁「寺院・堂祠・塚」
【1】「 中正楽寺の太子像 *12
   159頁下段12行め(高岡市戸出*13) ~160頁下段14行め。
【2】「 川越えの蓮如絵像 
   160頁下段15行め(西砺波郡福光町西太美) ~161頁下段5行め。
【3】「 海中出現曼荼羅 *14
   161頁下段6行め(婦負郡八尾町黒瀬谷) ~163頁上段6行め。
    《49》162頁上段「日蓮宗本法寺山門」。
【4】「 オテイテイカラ塚 
   163頁上段7行め(魚津市田畑川べり) ~下段16行め。
・4節め、164~168頁「霊  水」
【1】「 孝 徳 泉 
   164頁上段2行め(滑川市滑川) ~下段13行め。
【2】「 母  水 
   164頁下段14行め(西砺波郡福岡町、能登境付近) ~165頁上段12行め。
【3】「 井波町旧浪水 *15
   165頁上段13行め(東砺波郡井波町井波、大谷寮/境内) ~166頁上段7行め。
    《50》165頁下段右(8行分)「井波町の旧浪水」。
【4】「 的場清水 *16
   166頁上段8行め(富山市太田) ~167頁上段11行め。
【5】「 鯰鉱泉 *17
   167頁上段12行め(富山市今市) ~168頁上段15行め。
 下段は余白。(以下続稿)

*1:ルビ「のうか 」。

*2:ルビ「きじま 」。

*3:ルビ「い な り」目次ルビ「い な りどう」。

*4:ルビ「いするぎ」。

*5:ルビ「あんご じ 」。

*6:ルビ「もくせいあん」目次ルビなし。

*7:ルビ「おこり」。

*8:ルビ「は いた」

*9:目次のみルビ「こうぼう」。

*10:ルビ「しおのたに」。

*11:ルビ「たきぎ」。

*12:ルビ「なかのしようらくじ」。

*13:ルビ「と いで」。

*14:ルビ「まんだ ら 」。

*15:ルビ「きゆうろうすい」目次ルビ「ろうすい」。

*16:目次のみルビ「まとば 」。

*17:ルビ「なまず」。

石崎直義 編著『越中の伝説』(4)

 昨日の続きで、3章め「怪異伝説」について。113頁上段、中央に大きく「怪 異 伝 説」。下段1行めに2行取り1字下げでやや大きく1節め「妖怪変化」。
・1節め、113頁下段~120頁下段11行め「妖怪変化」
【1】「 山の神の会議 
   113頁下段2行め(婦負郡八尾町仁歩*1) ~114頁上段9行め。
【2】「 海 の 猩 猩 *2
   114頁上段10行め(氷見市新湊市) ~下段7行め。
【3】「 源兵衛の怨念火 *3
   114頁下段8行め(東砺波郡平村田向*4) ~115頁下段7行め。
【4】「 神通川の早百合火 *5
   115頁下段8行め(富山市磯部堤) ~116頁下段10行め。
    《37》116頁上段右(9行分)「早百合火の出た磯部堤」。
【5】「 腕のホクロの奇談 
   116頁下段11行め(高岡市二上山麓) ~117頁下段14行め。
【6】「 若衆に化けた貝殻 
   117頁下段15行め(富山市総曲輪*6) ~119頁上段16行め。
    《38》118頁上段「富山城址」。
【7】「 雪  女 
   119頁下段1行め(下新川郡黒部渓谷) ~120頁下段11行め。
・2節め、120頁下段12行め~127頁上段「龍  蛇」
【1】「 龍灯・山灯 
   120頁下段13行め(中新川郡上市町眼目*7) ~121頁上段13行め。
【2】「 蛇の恩返し 
   121頁上段149行め(婦負郡婦中町鵜坂) ~122頁下段1行め。
【3】「 大蛇を食べた婆さま 
   122頁下段2行め(東砺波郡井口村) ~123頁上段6行め。
【4】「 大蛇のお産の手伝い 
   123頁上段7行め(上新川郡大山町亀谷) ~下段8行め。
【5】「 笛吹き龍 
   123頁下段9行め(西砺波郡福光町太美山) ~125頁上段16行め。
【6】「 村を押し流した大蛇 
   125頁下段1行め(東砺波郡上平村小瀬) ~126頁下段7行め。
    《39》126頁上段右(8行分)「合掌造り・羽馬家宅」。
【7】「 白蛇になった局 *8
   126頁下段8行め(西砺波郡福光町広瀬館*9) ~127頁上段14行め。
・3節め、127頁下段~128頁「河  童*10
【1】「 骨つぎを教えた河童 
   127頁下段2行め(下新川郡朝日町大家庄) ~128頁上段2行め。
【2】「 家伝薬・針原五香 
   128頁上段3行め(富山市針原、中村) ~下段14行め。
・4節め、129~133頁下段1行め「天  狗*11
【1】「 天狗のいたずら 
   129頁上段2行め(下新川郡朝日町大家庄) ~130頁下段13行め。
【2】「 天狗の子どもさらえ 
   130頁下段14行め(砺波市般若、福山) ~131頁下段11行め。
【3】「 次郎兵衛太鼓 
   131頁下段12行め(砺波市杉ノ木) ~133頁上段1行め。
    《40》132頁上段「次郎兵衛太鼓(曲打ち)」。
【4】「 七本杉の天狗 
   133頁上段2行め(高岡市末広町) ~下段1行め。
・5節め、133頁下段2行め~136頁「幽  霊」
【1】「 お作幽霊 *12
   133頁下段3行め(東砺波郡利賀村岩淵) ~134頁下段14行め。
【2】「 幽霊の逢い引き 
   134頁下段15行め(滑川市滑川) ~136頁上段2行め。
【3】「 町を救った幽霊 
   136頁上段3行め(富山市四方) ~下段11行め。
 以下余白。(以下続稿)

*1:ルビ「ね い ・にんぶ 」。

*2:ルビ「しようじよう」。

*3:ルビ「おんねん」。

*4:ルビ「たむかい」。

*5:ルビ「さ ゆ り 」。

*6:ルビ「そうが わ 」。

*7:ルビ「さつか 」。

*8:ルビ「つぼね」。

*9:ルビ「たち」。

*10:ルビ「かつ ぱ」。

*11:ルビ「てん ぐ」。

*12:ルビ「さく」。