瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(12)

 昭和7年(1932)6月中下旬の満洲、7月上中旬の朝鮮旅行の帰途、神戸に立ち寄った三田村氏について、昨日に引き続いて、内田宗一作成「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録」及び青田寿美監修「忍頂寺務年譜データベース」を参照しつつ、確認して置きたい。
 七月十九日(火)条の続き、

‥‥。/○三人連れにて西宮神社に行き、吉井太郎氏に逢ひ色々/聴取、昼餉の馳走になり夕景に戻る、武庫の川千鳥借用。

とある。神戸には朝着いたようだ。前回触れた「1034|三田村鳶魚(玄龍)」の、帰国を予告する忍頂寺務宛昭和7年7月15日付葉書についての、内田氏に拠る「備考」欄に拠ると、吉井氏は西宮神社の社司。大正10年(1921)7月刊『武庫の川千鳥』はその父で西宮神社神職吉井良秀(1853~1939)の著書で忍頂寺氏の蔵書、八月十二日(金)条に忍頂寺氏宛に書留で返送したことが見えている。
 吉井氏との縁は、昭和三年五月十日(木)条に、

忍頂寺氏ヨリ吉井太郎氏著淡路ト西宮ニ於ケル人形操ノ/調査転致、コレハ吉井氏恵与ノヨシ、直ニ礼状、○‥‥/‥‥

とあるのがきっかけのようだ’(「忍頂寺務年譜データベース」)。吉井氏は昭和14年(1939)父の死去に伴って跡目相続したのを機に良尚と改名している(「1308|吉井良尚」カード)。晩年の昭和37年(1962)9月に吉井良尚先生古稀勤続五十年祝賀会により『吉井良尚選集』が刊行されている。未見。
 七月二十日(水)条、訪ねて来た忍頂寺氏と菅氏と話し、それから多田氏の案内で石割松太郎を訪ね、留守宅からの届け物・書面を受け取っている。当ブログで注意している河本正義が登場するのはその続き、353頁上段6~14行め、

‥‥。○夜、盧水にて、/神戸陳書会小集へ出席、○五十崎夏次郎(神戸、下山手/通六ノ九〇)、南木芳太郎、太田陸郎(同市、須磨区養/老町二ノ一)、忍頂寺務、川島右次(神戸、中山手通四/ノ三四)、河本正義(湊区馬場町四一一)、久保田韓七郎/(湊区矢部町六)、菅稲吉(葺合区宮本通六ノ五一)、柏/木武雄(須磨区松風町二ノ二ノ四)、杉本要(大阪、南区/八幡筋玉道町)、横田照二(兵庫県武庫郡精道村打出親/王塚八)、江見恒三郎(同芦屋九の坪一一六七)。

と、出席者名を列挙した中に見える。住所を書いているのは初対面もしくは書信の遣り取りをしていなかった人であろう。
 この会については「忍頂寺務年譜データベース」の「19320720|昭和07/07/20」条「備考」欄に「『陳書』4(昭和09/02)では、昭和07/07/15と誤記。」とあるように、神戸陳書会が発行していた雑誌「陳書」に記事があるようだ。
 「陳書」は国立国会図書館には所蔵されていない。普通に「陳書」で検索すると China 正史の『陳書』がヒットしてしまう。しかしながら、国文学研究資料館HPの「電子資料館/近代文献情報データベース/近代書誌・近代画像データベース」にて、大阪大学附属図書館・小野文庫所蔵の全15冊揃いが閲覧出来る。「陳書」第四輯(昭和九年二月十三日印刷・昭和九年二月二十五日發行・非賣品・神戸陳書会・二八頁)の一頁「況 狀 催 開 會 例」の1項め(1~2行め)に、

昭和七年七月十五日陳書第三輯出版に當り、あたかも三田村鳶魚先生滿韓旅行よりの歸途を擁し歡迎會を兼ね/て例會を開催爾來一年有半會誌發行の事なかりしが多く例月例會を開催今日に及べり。

とある。七月十五日とは「陳書」第三輯(昭和七年七月十三日印刷・昭和七年七月十五日發行・非賣品・神戸陳書会・二六頁)の発行日を示したので、必ずしも三田村氏の歓迎会を兼ねた例会の日を指してはいないような気もする。(以下続稿)

『三田村鳶魚日記』(11)

 昨日の続きで、当初「河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(5)」と題して書き始めたのだが、『三田村鳶魚日記』のことで長くなってしまったので題を改めた。その使い方が従来の記事と異なり、引用が少なくなっているのは、日記をメインにするつもりではなかったためである。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 世代的には2015年5月30日付「河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(2)」に見た関西学院(中学部)卒業で神戸新聞の河本正義と同じくらいである。明治40年(1907)生の見当で、55歳定年の当時として昭和38年(1963)3月、満55歳の年度末に退職しているはずである。
 同一人物だとすると、大体――戦前、高等女学校教員。戦中、新聞社勤務、北支特派員、社史編纂委員。戦後、新制高等学校教員。と云う見当になる。
 或いは、同じ時期の神戸に、ほぼ同じ年年輩の河本正義が2人いたのかも知れない。
 これを解決するには、まづ河本氏が寄稿している「兵庫県民俗資料」「近畿民俗」「上方」「旅と伝説」等を精査する必要があろう。「近畿民俗」31・32合併号の諸篇も細かく読んで行けば何処かに見えていたかも知れない。この号への寄稿を再録した『柳田国男研究資料集成』第Ⅰ期は、上笙一郎が『覗き眼鏡の口上歌』を復刊する9年前に出ていた訳だから、上氏が当時これに気付いておればと思われてならない。しかし Windows 95 以前の話で、検索すると云う訳にも行かなかったのだ。戦前の「近畿民俗」だけではなく、戦後復刊した「近畿民俗」にも目を通しておれば……。尤も、私にも今その余裕がないので、差当りこの事実のみを提示するにとどめざるを得ないのだけれども。
 ここで急に河本氏のことを思い出したのは、前回触れたように『三田村鳶魚全集』を借りに行った図書館で『柳田国男研究資料集成』を見掛け、以前から気になっていた河本氏の「柳田先生と北条」を読んだからなのだが、同じときに借りた『三田村鳶魚日記』にも河本氏が登場していることに気付いた。尤も、大勢のうちの1人と云う扱いなのだけれども。
 三田村氏は、八王子の平音次郎の次男・均二を伴って昭和7年6月6日(月)に神戸行の特急「燕」で東京駅を発ち、神戸からは船で10日(金)に大連に上陸している。13日に(月)は金州、16日(木)と17日(金)は旅順に泊まっている。19日(日)に奉天に移動、22日(水)の夜行列車で長春に向かい23日(木)から1週間滞在、30日(木)に夜行列車で出発して7月2日(土)に京城着、半月滞在して17日(日)に夜行列車で出発、18日(月)に連絡船で海を渡り、19日(火)から神戸に滞在、23日(土)に夜行列車で神戸を発ち、24日(日)午前10時に東京駅着、八重夫人の出迎えを受けている。
 この旅行については『三田村鳶魚全集』別巻の「三田村鳶魚著作目録」を参照するに、昭和七年六月条に、537頁上段20行め~下段2行めに、

六日、出発、大連・旅順・奉天長春京城を廻る。【上】七月十六日、「江戸ッ子の生活」を放送す。七月二/十四日帰宅。

と非常に簡単で、往復で神戸に立ち寄っていることに注意していないが、往路、6月6日(月)に神戸の三宮駅で多田覚・忍頂寺務に出迎えられ、会食中に川島右次(禾舟。1879~1952)、横田照二、菅稲吉(竹浦。1880.9.14生)が到来している。そして旅亭老松に1泊して翌7日(火)、忍頂寺氏・多田氏・横田氏・菅氏に見送られて大阪商船の大連航路に就航していた亜米利加丸で大陸へ出発したのである。
 そして、7月19日(火)に寝台車で三宮駅に着き、やはり忍頂寺氏・多田氏に迎えられている。この辺りは4月18日付(08)に挙げた内田宗一作成「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録」及び青田寿美監修「忍頂寺務年譜データベース」を参照しつつ、纏めてみよう。内田氏は「1034|三田村鳶魚(玄龍)」の、帰国を予告する忍頂寺務宛昭和7年7月15日付葉書についての「備考」欄に「昭和7年7月19日、満州より神戸へ帰港。」としている。確かに往路は神戸から海路であったが、七月十八日(月)条に、352頁下段18~19行め、

連絡船より又寝台車に移る、暑熱は昨夜の如し、長州路/に入り南村先生の事を思ふ、月は更に佳。

とある。――寝台車の暑熱や月について「又」とか「更に」と云っているのは「昨夜」のことを指している。南村先生は仏教学者の島田蕃根(1827.十二.二十八~1907.9.2)で周防徳山の人。
 それはともかく、寝台車で長州路を移動しているのであり、復路は京城から釜山まで夜行の寝台車、関釜連絡船で下関に渡って、また夜行の寝台車で山陽本線を東に移動したのである。だから七月十九日(火)条の冒頭が、神戸港に着くではなく353頁上段1行め「三の宮着、忍頂寺、多田二氏に迎へられ多田氏宅に入る。/○‥‥」となっているのである。(以下続稿)

河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(4)

 2015年5月31日付(3)から随分経ってしまったが、河本氏について見るべきものに気付いていなかった訳ではない。
  国立国会図書館デジタルコレクション及び国立国会図書館サーチにて「近畿民俗 = Bulletin of the Folklore Society of Kinki : 近畿民俗学会会報. (31/32)(38)」に寄稿していることは知っていた。しかし雑誌はインターネット公開されない*1ので、未見である。もちろん、その後何度か国立国会図書館には出掛けたが、他のことにかまけて確認しないままであった。なお、巻号の表記が分かりにくいが、31・32合併号で戦前からの通号38号と云うことらしい。
 昭和37年(1962)12月刊、8月8日に死去した柳田國男の追悼号に当たる訳である。なお、奈良女子大学文学部「なら学プロジェクト」のワーキンググループ「なら学研究会」の活動報告2017-09-11「澤田四郎作編『柳田國男先生』(近畿民俗学会、昭和37年)」に、単行本化したものの紹介があり、内容は同じとのこと。奥付、澤田四郎作「はじめに」、「もくじ」が引用されている。
 しかし河本正義「柳田先生と北条」を読むことは出来たので、少し紹介して置こうと思う。――先月『三田村鳶魚全集』を借りた図書館で後藤総一郎 編『柳田国男研究資料集成』第Ⅰ期(日本図書センター・A5判)を見掛けた。
・『別巻』昭和61年6月25日 初版第1刷発行・定価5,000円・目次1+例言1+141頁
 65~142頁「Ⅱ参考資料」の133~142頁「柳田国男研究資料集成 第Ⅰ期 執筆者索引」を見るに、136頁下段(3段組み)10行めに「河 本 正 義…………………………‐108」と見えている。
・『第7巻 昭和編Ⅶ 昭和37年12月~昭和38年12月昭和61年6月25日 初版第1刷発行・定価5,800円・目次7+凡例2+429頁
 3~112頁6行めの32篇の末尾に「〔『近畿民俗』第三一号、昭和三七年一二月〕」とある。「近畿民俗」31・32合併号には40人が寄稿している。
・『第6巻 昭和編Ⅵ 昭和37年9月~昭和37年12月昭和61年6月25日 初版第1刷発行・定価5,800円・目次5+凡例2+420頁
 最初の8篇は、こちらの最後(375頁7行め~420頁)に、分割されて収録されている。
 さて、河本正義「柳田先生と北条」は40篇中39番め、『第7巻』108頁6行め~110頁5行めに収録されている。
 河本氏は「故郷七十年」が神戸新聞に連載されだした当時、兵庫県加西郡北条町(現・加西市)にいたらしい。河本氏は108頁12~13行め「これを機会に一度、帰って来てもらいたい、という話が、北条の人々/の希望になってきた」ことを「先生に伝える手紙を、私と古家実三翁とが書いた」のに対して、柳田氏から(昭和33年)三月九日付返信葉書が届き、その尚々書(追伸)にて109頁7行め「五六年前に故郷にかへり旧知と歓談し、最終のいとま乞をして来ましたから再訪は思ひ立ちません」と断られている。これに対して河本氏は、109頁11~12行め、

 昭和二十七年に帰られたのは、先生にしては文中にある様に、最終のいとま乞いという感慨がおありだったと/は、その時は誰も伺えなかった。福崎高校では千人の生徒に講演をされた。‥‥

と述べているが、或いは昭和27年(1952)当時河本氏は兵庫県立福崎高等学校勤務だったのか、それとも所縁を以て特に聞きに行くことが出来たのか。
 そして、最後の段落(109頁19行め~110頁4行め)に、

 それから、昭和三十六年の十二月三日の頃だった。北条高校に掲げる額を、先生に揮毫してもらいたい、とい/うことになって同僚の教師が、先生のお宅を訪ねたことがある。北条から来たというので歓待をうけて、三時間【109】ほども北条の懐古談に花が咲いて帰ってきた。その時に、先生の母親の妹が小野町に嫁いだが行先が不明で気に/なっていることや、高等学校が北条の町のどの辺にあるのか、という同じ問いを三度も繰り返された、という同/僚教師の話を聞いて、なにかしらん私の心の中に、一抹の淋しさを催した。折り返し、先生から老来、筆を持つ/のは困るから、との鄭重な断りの御封書を下さった。これが先生との最後の徂来となった。噫。

とあり、昭和36年(1961)には河本氏は兵庫県立北条高等学校に勤務していたようだ。(以下続稿)

*1:著作権が継続している人が存するため。

『川端康成全集』(1)

・第七卷の昭和56年版と平成11年版
 3月26日付「川端康成『朝雲』(4)」に触れた、『川端康成全集』第七卷の、昭和56年(1981)版の昭和58年三刷と、平成11年(1999)版を並べて見た。
 装幀は同じ。外観からは区別が付かない。
 異同は扉の次にあるアート紙の口絵、白黒写真の下にある明朝体横組みのキャプションが、昭和58年三刷は右側に「昭和26年 (撮影柿沼和夫)  」とあったのが平成11年版は中央に「昭和26年 (撮影柿沼和夫)」とある。文字も写真も平成11年版は若干薄い。
 以下の本体は同じ(もちろん細かく確認していない)。
 奥付、単郭の大きさが昭和58年三刷(13.2×7.0cm)と平成11年版(13.4×7.1cm)で若干異なる。文字は全て縦組みで、異同は大きな標題の次、昭和58年三刷は初刷発行日と三刷発行日の2行、平成11年版は1行分空けて初刷発行日の1行、「發行者」が6行め「佐藤亮一」から5行め「佐藤隆信」に、昭和58年三刷8~11行め「〒167東京都新宿區矢來町七一 振替東京四‐八〇八/電話業務部(〇三)二六六‐五一一一 編集部二六六‐五四一一/定價四〇〇〇圓/© Hideko Kawabata 1981 Printed in Japan ISBN 4-10-643807-0 C 0393」平成11年版7~11行め「〒167‐8711東京都新宿區矢來町七一 振替〇〇一四〇‐五‐八〇八/電話編集部(〇三)三二六六‐五四一一 讀者係(〇三)三二六六‐五一一一/印刷所株式會社精興社/製本所加藤製本株式會社/© Kawabata Yasunari Kinenkai 1981 Printed in Japan」それぞれ郵便番号の数字は横並び、最後の行は右を上に横転。
 匡郭外、昭和58年三刷には右辺の右、下寄せでごく小さく「第十二回配本(全35巻) 」左辺の左、下寄せでごく小さく「乱丁・落丁本は、御面倒ですが小社通信係宛御送付 /ください。送料小社負担にてお取替えいたします。 」とある。平成11年版には左辺の左、下寄せでごく小さく「價格はセット函に表示してあります。      /乱丁・落丁本は、ご面倒ですが小社讀者係宛お送 /り下さい。送料小社負担にてお取替えいたします。」とある。
 平成11年版は奥付の裏が白紙だが昭和58年三刷には下部左寄りに小さく明朝体縦組みで、

本文印刷 株式会社精興社
口絵印刷 松本精喜堂印刷株式会社
付録印刷 株式会社精興社
口絵製版 株式会社学術写真製版所
製 本  加藤製本株式会社
製 函  株式会社中田製函
本文用紙 特漉上質紙・十條製紙株式会社
表紙用布 瑞絖紬・望月株式会社
扉用紙  フールスケント・日清紡績株式会社
見返用紙 NTラシャ・日清紡績株式会社
函用紙  レザック80ツムギ・特種製紙株式会社

とある。平成11年版は奥付に、本文印刷と製本のみ示しているのである。
 付録(B6判・8頁)は同内容のものが折込まれている。B5判を半分に折っただけのもので、異同は1頁(頁付なし)右上に横線(2.2cm)を昭和58年三刷折込では3本、それぞれの上に「附録  No12|第  7   卷|1981年 1 月|」と明朝体横組みで入っていたが、平成11年版折込では3行めと3本めの横線がなくなっている。また、1頁中央左に掲載される墨蹟の下、昭和58年三刷折込は丸ゴシック体横組みで4行、

附録の扉写真は、「看花満眼涙」    / 1950年(推定)の川端康成書      /
次回は第13回配本、2月20日刊行   /第23巻「東海道 天授の子」     

とあって、左右に4行分の幅の括弧。平成11年版折込は明朝体横組みで1行「川端康成書「看花満眼涙」(昭和25年?)」とのみで以下余白。
 昭和58年三刷には他に、淡い黄土色の厚紙(16.0×12.0cm)に「川端康成全集」の細目。題の上にごく小さく「新潮社創立八十年記念出版」と添え「八十年」は楷書。下にゴシック体で「新潮社版/全35巻」と添える。3段組みの裏の下段の最後に「<補巻> 二巻を追加刊行 」云々とある。(以下続稿)
追記】昭和56年版の初刷を見た。奥付の発行日が「昭和五十六年一月十五日印刷/昭和五十六年一月二十日発行」となっている他は昭和58年の第三刷に同じ(但し並べて比較した訳ではない)。

『三田村鳶魚日記』(10)

・文園町の家(5)
 さて、4月19日付(08)に注意した、中学時代の松本亀松が「下吉」の吉田書店に奥野信太郎と大川逞一(1899.5.17~1992.9.18)の3人で入り浸っていたことは、「三田村鳶魚全集月報」第27号掲載の座談会「三田村鳶魚輪講会」(朝倉治彦 編『鳶魚江戸学 座談集』では「鳶魚の輪講」)の、昨日引いた松本氏の発言(「月報」1頁下段5~16行め・『鳶魚江戸学』367頁8~12行め)の、1つ後の発言(「月報」1頁下段17行め~2頁上段19行め・『鳶魚江戸学』367頁14行め~368頁10行め)で説明されているのだが、また長くなるし、このままでは『三田村鳶魚日記』の確認で年が暮れそうである。
 そこでこの件については、やっぱり江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談の「第八回 この本はおまえさんに譲ってやろう」に戻って済ませて置くことにする。321頁1~6行め、

 三田村翁は、諸書を下谷の和本専門の古書肆、吉田書店から主として求めておられ/ました。翁の日記には吉田主人とか里子*1(俳号)と出ているように懇意の方です。当/時の吉田書店のことは孫の松山荘二氏が『古書肆「したよし」の記』(「したよし」とは、下谷の吉田書店の符丁、平凡社刊)に詳しく紹介されています。それによると、店/内には奥野先生や松本亀松さんとか、いつも数人の若手がワイワイたむろしていたそ/うです。大正の末のころだといいます。


 松山荘二は登山家吉田二郎(1930~2003.3.15)の筆名で、『古書肆「したよし」の記』はその最晩年の著書である。

古書肆「したよし」の記

古書肆「したよし」の記

 未見。――もちろん、松本氏はこの本を参照していない。
 吉田書店の主人の俳号については、松本氏も座談会で説明している。「月報」7頁上段8~10行めに、

 朝倉 それから吉田里子と書く方は……。
 松本 それが吉田吉五郎さん。リシです。
 朝倉 それが俳号ですか。

とあって、『鳶魚江戸学』374頁14~16行めでも、字下げしていないのと、朝倉氏の発言の「それが」が削除されている他は同じだが、続く松本氏の発言はかなり簡略化されている。「月報」7頁上段11~15行め、

 松本 そうです。それが俳書の天下一だったんで、どこの古/本屋でも、あの人が出てくると俳書のことだったら黙っちゃう/というふうなことだった。案外軟派のものは扱っていませんで/したけれども、俳書は扱っていた。息子の代になると今度は易/の本を扱いはじめた。


 『鳶魚江戸学』374頁17~18行め、

松本 そうです。案外軟派のものは扱っていませんでしたけれども、俳書は天下一。息子の代に/なると今度は易の本を扱いはじめた。


 内容としては同じだけれども、面白みを欠いてしまったように感じる。
 細かく異同を見て行くと際限がないのでここまでにして、見出しとした件について、松本氏の発言を見て置こう。松本氏が三田村家に出入りするようになった、大正15年(1926)頃のことについて、「月報」2頁下段22行め~3頁上段6行め、

 朝倉 そのときは三田村先生は中野の文園町にお住まいでし/たか。
 松本 中野におられました。とにかくいいうちでしてね。安/普請だといっていましたけれども、いいお住居でした。小壁の【2】高さが非常に高いんです。三田村さんは僧籍しかない人で、俗/人の籍を持っていない人でした。ですから寛永寺に育ったとい/うことが、いつまでも頭のなかに残っているんで、寺のような/柱の高い家に住む。なにも必要ないのに、その住居は小壁が一/間くらいありましたからね。そういううちに住んでいるわけで/す。

と述べているのだが、『鳶魚江戸学』では朝倉氏の発言(369頁6行め)は同じだが、369頁7~9行め、

松本 中野です。安普請だといっていましたけれども、とにかくいいうちでしてね。小壁の高さ/が一間くらい非常に高いんです。三田村さんは僧籍しかない人で、寛永寺に育ったということが/いつまでも頭のなかに残っているんで、寺のような柱の高い家づくりをしていたんですね。

と、これは流石に端折り過ぎのような気がする。(以下続稿)

*1:ルビ「りし」。

『三田村鳶魚日記』(09)

・「三田村鳶魚全集月報」の座談会(2)
 昨日の続き。
 三田村鳶魚全集月報」第27号(昭和52年6月・12頁)の1~12頁下段17行め、松本亀松吉田幸一/(司会)朝倉治彦三田村鳶魚輪講会」は、朝倉治彦 編『鳶魚江戸学 座談集365~383頁に「鳶魚の輪講」と改題されて収録されている。
 「月報」には、3頁上段の左上に「右より松本亀松吉田幸一朝倉治彦の諸氏」とのキャプションを添えた写真が掲載されているが、前回見たように『鳶魚江戸学』は写真を再録していない。また、末尾(12頁下段17行め)に下寄せで「(昭和五十二年五月十七日)」とあるがこれも『鳶魚江戸学』では省かれている。
 1節め「三田村鳶魚の教育法」の、冒頭の朝倉氏の発言が、まづ違っている。
 「月報」1頁上段6行め~下段1行め、

 朝倉 本日は、日本大学で長年にわたり教鞭をおとりになっ/ておられた松本亀松先生と、東洋大学吉田幸一先生をお招き/いたしました。松本亀松さんは大正末期から三田村鳶魚先生の/もとに出入りされ、当時創刊された『彗星』の編集に参画し、/三田村先生の主催された輪講にもたびたび出席された方です。/吉田幸一さんは、戦後の鳶魚先生の西鶴輪講会に初めから終り/まで出席されておられましたので、今回は、本巻全二十七巻の/最後の座談会でもありますし、鳶魚先生の終生続けられた重要/なお仕事の一つでもある輪講のことを中心にいろいろお話をう/かがいたいと存じます。
 ところで、松本さんは、当時の三田村先生をご存じの数少な【上】いお方のお一人ですが、いつごろ先生の所へまいられたのですか。


 『鳶魚江戸学』367頁2~5行め、

朝倉 本日は、長年日本大学で教鞭をおとりになっていた松本亀吉先生と、東洋大学吉田幸一/先生においでいただきました。鳶魚先生をよくご存じのおふた方には、鳶魚先生が終生続けられ/た重要なお仕事の一つでもある輪講のことを中心に、お話をうかがいたいと存じます。
 松本さんは、直弟子といいますか、先生のところへお入りになったのはいつごろですか。


 何故か「亀吉」と名前を間違っているのはともかくとして、全体に随分簡単になって、どうも不自然である。前回注意したように巻末に「座談会参加者略歴(収載順)」を加えたことで紹介を省いたのであろうか。しかし、そこでの紹介は435頁下段6~13行め、

松本亀松(まつもと・かめまつ)
一九〇一―八五。能・日本舞踊の研究家。元日本/大学芸術学部教授。著書『能から歌舞伎へ』『狂/言六儀の研究』。
吉田幸一(よしだ・こういち)
一九〇九年生れ。国文学研究家。東洋大学名誉教/授。「古典文庫」主宰。著書『和泉式部研究』/『狭衣物語』(校訂)など。

とごく簡略である(氏名は明朝体太字、二重鍵括弧閉じと行頭の開きは半角)。まづこのような紹介があった方が読者も取っ付き易いのではないか。
 「最後の座談会」の件がなくなったのは『鳶魚江戸学』では「配列」を変えて21篇中19番めにしたからであるが、朝倉氏も座談会を重ねるごとに知識を蓄えて行った訳だから、配列を変えたのでは、その前提がまちまちになってしまう。やはり余り手を入れずに、27篇全部を順を追って収録するべきだったと思うのである。そして、前回省いていることを注意した「月報」の末尾に添えてある座談会実施日を、むしろ最初に示して置けば良かったのではないか。こういうものは歴史的な証言なのだから(「月報」の方も当日の発言そのままの記録ではないにしても)、内容が変わらなければ良いと云うものではないと思う。
 それはともかく、この朝倉氏の問いに対する答え、「月報」1頁下段2~16行め、

 松本 大正十五年です。私が二十六歳の時です。
 朝倉 どういうご関係から、三田村先生のところにいらした/んですか。
 松本 三田村さんには、その以前からご面識を得ていました。/当時、私は下谷の吉田書店によく行っていました。通称「下/吉」ですね。これは浅草に浅倉屋という名前の本屋の吉田があ/ったので、それと区別するために、「浅吉」「下吉」と言われて/いたんです。その「下吉」の主人の吉田吉五郎という老人が、/俳書の知識ではたいへんな大家でした。たとえば、例の勝峰晋/風さんの『俳書大系』は、実のところ、吉田吉五郎が知ってい/た本を並べたので出来たんだといわれたくらいの人でした。ま/あその話は少しオーバーでしょうが、実際、たいへんな学者で/した。それでこの「下吉」の吉田書店に、私が行きはじめたの/は中学生のころからで、三田村さんもよくこの吉田に来ておら/れたので、存じあげたわけでした。


 『鳶魚江戸学』367頁6~12行め、

松本 大正十五年です。私が二十六歳の時です。
朝倉 三田村先生との出会いは。
松本 私は中学生のころから下谷の吉田書店によく行っていました。吉田という本屋は浅草にも/浅倉屋という屋号のがあって、それぞれ通称「下吉」「浅吉」と呼ばれていました。「下吉」の主/人吉田吉五郎は、俳書の知識ではたいへんな大家でした。例の勝峰晋風さんの『俳書大系』も、/実のところ吉田吉五郎が知っていた本を並べて出来たんだといわれたくらいの人でした。三田村/さんも、よくこの吉田に来ておられたので、存じあげたわけでした。


 昭和初年の『三田村鳶魚日記』には「松本生」がしばしば登場する。――しかしこれでは、昨日引いた「編者あとがき」の「読みやすく読点を多く加え、若干振がなを施した」どころではない。(以下続稿)

『三田村鳶魚日記』(08)

・「三田村鳶魚全集月報」の座談会(1)
 4月17日付(06)の続き。
 八重夫人の妹・操について、江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談315~377頁「第八回 この本はおまえさんに譲ってやろう」の3節め、320~326頁1行め「奇特の学生なり」の、養子候補として奥野信太郎(1899.11.11~1968.1.15)や松本亀松(1901.10.27~1985.4.9)の名が挙がりながら上手く行かなかったことを述べた箇所にも触れてある。321頁7~14行め、

 一時は三田村翁は養子縁組の候補者として奥野先生を考えていたらしい。ところが/吉田さんが「奥野さんはダメだよ。もう決まった人がいる……。松本さんしかいない/よ」といったそうです。もっとも、その話もダメになったのですけれど。それでも養/子選びはつづき、上野悦子先生によれば「眼は故郷八王子に向かった」といいます。/小俣仁三氏や平音次郎氏の子息の名前も出たようですが、鳶魚翁の強烈な個性は敬遠/されました。私の出入りするころには、ご夫婦とも養子候補として八重夫人の妹の操/さんの次男をお考えのように変化されておりました。鳶魚翁夫妻は操さんの嫁入りに/ついてずいぶんお骨折りになったとのことでした。


 吉田さんは奥野信太郎松本亀松が入り浸り、三田村氏が懇意にしていた古書店で、この直前(321頁1~6行め)に簡単に触れてあるが、4月11日付(02)に触れた『三田村鳶魚全集』編集の朝倉治彦が司会を務めていた「三田村鳶魚全集月報」連載の座談会にて、松本亀松が語っているところを抜いて置こう。
 なお、この連載について、三田村氏を知った人が思い出を語ったものばかりのように書いてしまったが実はそうではない。そのことはその後、座談会のみを纏めた次の本により確認出来た。
朝倉治彦 編『鳶魚江戸学 座談集 一九九八年一一月二五日初版印刷・一九九八年一二月一〇日初版発行・定価2400円・中央公論社・436頁・四六判上製本

鳶魚江戸学 座談集

鳶魚江戸学 座談集

 425~429頁「編者あとがき」から冒頭部、座談会及びこの本について説明した箇所を抜いて置こう。425頁2行め~426頁11行め、

三田村鳶魚全集』(二十七巻、別巻を入れて二十八冊)は昭和五十年四月から刊行を開始して、/五十八年十月に別巻(索引、著作目録、総目次)を読者に送った、足かけ十年の仕事であったが、/日記(三巻)別巻を除いた本体は、五十二年三月に出版し終ったので、月刊二年間で、順調に進/行したのである。
 最終配本の別巻は、五十三年四月刊行予定のところを、索引に非常に手間どって、五十八年にな/ってしまったのであった。
 月報(十二頁、二段組、写真入り)は冊数と同じ全二十八号である。この月報の内容は、全て座/談会でうめた(二十八号を除く)のであるが、司会は私にと、はじめて指名された時は、これは、/えらいことになったと、ショックを受けたことを記憶している。座談会は戦後しばらくしてから、/今でも続いている方式であるが、一時期大変はやったもので、珍しい感はないが、月報に、これ/をあてたのは、異例であったと思う。社は、そこを、ねらったのであろう。
 しかし、私には、その経験なく、あらかじめ、御登場の先生方の著書を読んでおき、また流れ/を考えるなどの緊張を二年間、抱いたのであった。これは、私には、よい経験で、その後の座談【425】会は、お蔭でリラックスして進めることが、できるようになった。
 一回にお二人の先生をお呼びしたので、全五十四人であった。名前を聞くだけであった方、こ/れまで、多少お目にかかっている方、私と考究して頂いている方など入り交ってはいるが、神経/を使うのは、毎回同じで、終ったあと、安堵よりも不出来の慙愧に悩まされたのであった。
 当時の先生方も、多く鬼籍に入られ、感慨深いものを、心に感じる次第であるが、月報を読み/返して、改めて当時を思い起こさせられた。
 本書を編集するに当り、鳶魚の執意情熱を念頭に置いて、配列した。
 今、読み返してみるに、諸先生方が、私の下手な質問を超えた、鳶魚の価値を、熱心に語って/うまなかったお蔭であると、感謝以外何ものもない。
 二十一篇の題名は新たに付けて、平がなの多い箇所は、読みやすく読点を多く加え、若干振が/なを施した。


 当時、426頁16行め「文庫刊行中」すなわち中公文庫から鳶魚江戸文庫シリーズが刊行中であったので、「三田村鳶魚全集月報」座談会の刊行も実現を見たのであった。

 「日記(三巻)」の刊行も遅れているように書いているが、4月11日付(02)に確認したように日記までは月刊で順調に進んでいる。或いは24冊が24ヶ月=「月刊二年間」と云うことであろうか。いづれにせよ、別巻のみが大幅に遅れたのである。
 そして気になるのは、54人が2人ずつ登場する座談会が27回あったはずなのだが、21篇しか収録されていないことである。すなわち、他に6回あったはずなのだが、430~431頁「出典一覧 本書収載の座談は中央公論社三田村鳶魚全集』の月報に収載」にも省かれた分については全く触れるところがない。私の手許には今『三田村鳶魚全集』の第廿五巻・第廿六巻・第廿七巻と別巻の4冊しかないので、細かい対応関係は追って確認することにする。
 「月報」に「写真入り」と断っているのは、座敷で歓談する座談会参加者(及び速記者らしい若い女性)の写真を掲載していたのを、この本には再録していないからであろう。その代わり、月報には参加者についての説明が殆どなかったのを*1、432~436頁「座談会参加者略歴(収載順)」があって、氏名(読み)に生歿年や専攻・肩書・主著など、1行22字で3行(2行2人、4行1人、5行1人)とごく簡単な略歴を示している。
 それから、目立つ異同としては「月報」では最後に括弧に年月日を示す。座談会の実施日であろう。これが本では省かれている。大した意味はないかも知れないが、私などからすると、やはり省かないで欲しかったと思うのである。
 ちなみに「三田村鳶魚全集月報」第28号(昭和58年10月)は4頁で、1~4頁下段17行め、朝倉治彦柴田宵曲の日記と鳶魚」で、残りが4月11日付(02)に引いた「編集室から」である。
 さて、朝倉氏も「鬼籍に入られ」て6年、生前私は一度、勘違い(?)で手紙をもらったことがある。丁重に辞退申し上げて、それっきりであった。(以下続稿)

*1:当時の『三田村鳶魚全集』読者なら大体知っていようと思ったのであろうか。初めに司会の朝倉氏が紹介しているし、発言を辿ればどんな人なのか大体分かるけれども。

『三田村鳶魚日記』(07)

 先刻、4月6日付(01)以降の各記事冒頭に【追記】として述べたように、「赤いマント」の題のまま続けていた『三田村鳶魚日記』についての確認を、全て『三田村鳶魚日記』に改めました。
・文園町の家(4)
 以後「三田村鳶魚直作目録」を見る限りでは、転居のことなどなしに、いつの間にか「中野文園の家」と云うことになっていますから、この「市外中野2104番地1号、160坪」の借地が町名変更によって文園町になったのだろうとの見当は付きます。
 場所が同じとは各時代の地図を比較出来れば確実ですが、その余裕がありません。その点、杉崎俊夫編「年譜」には、「▽大正十五年・昭和元年(一九二六) 五十七歳」条の最後に、408頁下段14~15行め、「‥‥。この年町名改正により中/野打越から中野町文園二十六番地となる。」との説明があります。
 この町名変更については「近世風俗文化学の形成―忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺」プロジェクト 編集『国文学研究資料館公募共同研究成果報告書 近世風俗文化学の形成 ――忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(平成二十四年三月三十一日印刷・発行、大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国文学研究資料館)の附録 CD-ROM所収、内田宗一作成「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録」の「昭和6年の賀状か」と推定される「1150|三田村鳶魚(玄龍)」の忍頂寺務(1886.12.8~1951.10.4)宛「賀状」についての「備考」欄に、

‥‥。消印とともに「中野町宛の通信は新町名地番で」とのスタンプあり。昭和5年9月29日付三田村鳶魚書簡(書簡1026)までは住所が「中野町打越」、昭和6年5月7日付三田村鳶魚書簡(書簡1027)からは「中野町文園」と町名が変更しており、昭和6年5月7日付三田村鳶魚書簡(書簡1027)にはやはり「中野町宛の通信は新町名地番で」のスタンプあり(以降のハガキにはこのようなスタンプはなし)。‥‥

とあって、この間になされたことが察せられますが、Wikipediaの「中野町(東京府)」項の「歴史/沿革・年表」の最後、

・1931年(昭和6年)1月1日:字名改正(町名再編)を実施。従来の大字・小字を廃止して、新規に適正規模に区分した大字の設置が行われる。
・1932年(昭和7年)10月1日:東京市編入して消滅し、野方町とともに中野区の一部となる。前年に再編した大字はそのまま中野区の町に引き継がれた。

とありますから、この昭和6年(1931)の年賀状がまさに「新町名地番」を周知させる機会となったもののようです。
 なお、同じ附録 CD-ROM 所収、青田寿美監修「忍頂寺務年譜データベース」には「三田村鳶魚「日記」」を典拠とする箇条が164条あります。(以下続稿)

『三田村鳶魚日記』(06)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(181)」を「『三田村鳶魚日記』(06)」に改めます。本文には手を入れておりません。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 昨日、今回の最後まで書いてしまうつもりだったのですが、――と昨日と同じ書き出しになってしまいました。しかし今回も全く赤マントの影も形もありません。記事の題を『三田村鳶魚日記』とするべきでしたが、飽く迄も「赤マント」から派生しての調査ですので、しばらくこのまま続けることにします。
・『三田村鳶魚日記』(6)文園町の家③
 大正九年十一月九日(火)条には、363頁下段2~5行め、

‥‥。○先妣第三回忌といふ。何の心構へ/もなし、御生前に家居新しくつくりてなど望まれしが、/今僅に整はんとするなり、それとても在しまさぬ今は何/かせん。○‥‥

とあって、大正七年十一月九日(土)条を見るに、309頁下段17行め、「午後九時三十分阿萱遂ニ逝去。享年七十一。○‥‥」とあって、以後、母・三田村タキ(1848~1918.11.9)の葬儀や法要、知友の弔問の記事が続きます。杉崎俊夫編「年譜」では「大正七年(一九一八) 四十九歳」条を見るに、407頁下段13~14行め「‥‥。十一月九日、母タキ死亡。行年七十一/歳。法名坤道院妙心日貞大姉。‥‥」、「三田村鳶魚著作目録」の大正七年十一月条には「九日、母タキ逝去、七十一歳。十一日、柏木常円寺/にて葬儀を営む。」とあります。
 そして十二月十日(金)条に、龍興寺から新居に移ったことが見えます。これは全文(365頁下段16~18行め)を抜いて置きましょう。

寺の方にも都合ありと思はるるゆゑ、先づは新屋に移る。/○此夜は鉄樹居士、今給黎平とまる。○操はなほ寺の方/へ。○欠課。


 今給黎平についてはまだ調べていません。龍興寺にとどまった「操」は妻・八重の妹で当時同居していました。
・『江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談二〇〇七年十月十五日第一刷発行・定価1300円・講談社・445頁・新書判並製本

江戸城のトイレ、将軍のおまる〈小川恭一翁柳営談〉

江戸城のトイレ、将軍のおまる〈小川恭一翁柳営談〉

 この本については、詳細を別に記事にするつもりでした。今から丁度10年前に読んだのですが、今回また借りて来て読み返しています。315~377頁「第八回 この本はおまえさんに譲ってやろう」は晩年の弟子・小川恭一(1925~2007.9.25)の三田村氏についての回顧談で、先取りになる内容もありますが、関係する箇所を抜いて置きましょう。「不本意な日々」の節の最後、374頁6~13行め、

 さらに翁にとっての不幸は、奥さんの妹の嫁ぎ先、皆川家との関係でした。もとも/と自分の養子にするつもりでいた奥さんの妹さんが、満州国の高級官吏だった皆川さ/んという人のところへお嫁にいって子どもを二人もうけました。皆川夫妻は戦後引き/揚げてきて、三田村夫妻としては非常に頼りにしておられました。
 ところが昭和二十三年五月に、皆川さんが急逝します。腸チフスだったと思いま/す。豊岡のあと翁は世田谷で皆川家と一緒に住むわけですが、皆川さんが亡くなった/ということは、翁にとっては苦労の歯車が止まらなくなったようなもので気の毒なこ/とでした。


 皆川豊治(1895.4~1948.5.11)については、「国立公文書館/アジア歴史資料センター」のアジ歴グロッサリー「インターネット特別展「公文書に見る「外地」と「内地」―旧植民地・占領地をめぐる「人的還流―」の「植民地官僚経歴図/皆川豊治」によって昭和16年(1941)までの経歴が分かります。(以下続稿)

『三田村鳶魚日記』(05)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(180)」を「『三田村鳶魚日記』(05)」に改めます。本文には手を入れておりません。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 昨日、今回の最後まで書いてしまうつもりだったのですが、勤務後、夕方に都内に出て、改札を出たとき、うっかり十数年前、産休代講で勤めたことのある女子高が近いことに気付いて、10年前だったら避けて通るところだったのですが、今や知った顔に会っても私のことは覚えていないだろうし、仮に話すようなことになっても今更どうもしませんから、少し回り道をして脇を歩いて見ました。通学路も当時の趣を残していて感慨深かったのですが、何年か前にたまたま Google Map で建替えか何かで仮校舎に移転していたことを知ったので、流石にいろいろ変わっているのだろうと思いの外、外観は吃驚するくらい変わっていなくて何とも懐かしくなり、或いは当時の同僚講師が今も続いているかも知れない、と思ったのですが、いないかも知れないので訪ねるのは止して置きました。――そんな余計なことをしたせいか、帰宅後ぐったりしてしまい、当初から赤マントには到着しない予定が、その半分も達せられなかったのでした。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

・『三田村鳶魚日記』(5)文園町の家②
 それから家屋建築に掛かったようです。すなわち、大正九年九月二日(木)条に、358頁下段16~17行め「‥‥。○山田益次氏を招き、大工と対談を頼み、手付金/を渡す。○‥‥」とあり、九月十二日(日)条に、359頁上段18~19行め「‥‥。○山田益次氏来り、大工と縄を打つ、平/音次郎も来る。」と続いて、索引があれば山田氏がどんな人物なのか見当を付け易いのですけれども、今、前後の記事を点検して確認する余裕がありません。平氏「も」建築に関連して八王子から出て来たようにも読めますが、これだけでははっきりしません。
 そして十月一日(金)条に、360頁下段13行め「‥‥。○新築の地盛。○‥‥」とあり、十月四日(月)条、361頁上段6行め「‥‥。○棟上。○山田益次氏。○両人同伴、喜之舞台の紅葉狩見物。○‥‥」と続きますが山田氏の他に人名はないので「両人」のもう1人が誰だか分かりません。書かなくても分かる人、と云うことでしょうか。
 十月二十四日(日)条、362頁上段18~19行め「八重を池袋の大工浅野政次に遣す、同人病気により工事/延引。○‥‥」、十月二十五日(月)条、362頁下段1~2行め「樋口新六、山田益次氏。○鉄樹居士を頼み、政大工の横/痃切開を石津軍医施術。○‥‥」などと云うトラブルもありました。八重(1884.9.11~1951.2.3)は後で触れる機会があるかと思いますが鳶魚夫人で大正2年(1913)8月18日に結婚しました(杉崎氏編「年譜」)。樋口新六は樋口二葉(1863~1930.10.27)、鉄樹居士は山岡鐵舟(1836.六.十~1888.7.19)の最晩年の弟子・小倉鐵樹(1865~1944.4.1)で、三田村氏と鐵樹居士の関係は「一九会道場」HP「道場の歩み」前半により窺うことが出来ます。

おれの師匠―山岡鉄舟先生正伝

おれの師匠―山岡鉄舟先生正伝

おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

OD>おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

OD>おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

 なお、鎌倉移転後の昭和13年(1938)に日本画家の溝上遊龜、すなわち小倉遊亀(1895.3.1~2000.7.23)と結婚しています。石津軍医は石津寛でしょうか、医学書院の「『日本近現代医学人名事典【1868-2011】』 収載人名一覧」に出ていますので追って確認の機会を得たいと思います。(以下続稿)

『三田村鳶魚日記』(04)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(179)」を「『三田村鳶魚日記』(04)」に改めます。記事名や番号のズレを修正した他は手を入れておりません。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

・『三田村鳶魚日記』(4)文園町の家①
 それでは4月13日付(03)の続きで、三田村鳶魚昭和14年(1939)当時の住所について、明治文學全集90『明治歴史文學集(二)』所収、杉崎俊夫編「年譜/三田村玄龍」と『三田村鳶魚全集』別巻「三田村鳶魚著作目録」、そして『三田村鳶魚日記』(『三田村鳶魚全集』第廿五巻・第廿六巻・第廿七巻所収)を対照させながら確認して置きましょう。
 久しく大久保(現・新宿区)辺に住んでいた三田村氏が中野に移ったのは、杉崎俊夫編「年譜」では「大正十一年(一九二二) 五十二歳」条の最後に「このころ、東京市外中野町打越二十六番地内に居宅を建築したか。」とあります(408頁上段8行め)。これは実はもっと早く、「三田村鳶魚著作目録」には、大正九年三月条に、505頁下段7~8行め「二十三日、市外中野二一〇四番地一号、一六〇坪借/地す。」とあり、八月条に、506頁上段10行め「三日、中野町大塚竜興寺に移る。」そして大正九年条の最後、十二月、506頁下段17行め「十日、新屋に移る。」とあります。『三田村鳶魚日記』では大正九年三月二十五日(木)条に、346頁上段2~3行め「‥‥。○市外大字中野/二千百四番地一号百六十坪借入。○‥‥」とあって、何故か「三田村鳶魚著作目録」とは日付が異なります。八月二日(月)条に、356頁下段12行め「‥/‥。○移転準備に吉田粂爾、政教社より二人来援。○‥/‥」、八月三日(火)条に、356頁下段15~16行め「中野町大塚竜興寺に移る。○昨日の人々来援。馬車三台/を雇ふ。○‥‥」とあって、臨済宗妙心寺派慈雲山龍興寺に移っています。龍興寺東京市小石川區小日向水道町九十番地から明治41年(1908)に東京府豊多摩郡中野町に移転しました。現在、中野区上高田1丁目2番地12号なのですがこれは住居表示によって、従来は龍興寺の背後の、妙正寺川の支流の谷筋が中野町と野方村(野方町)の境界だったのが、両町が東京市に併合されて中野区になったことで、例の住居表示の実施により早稲田通りまでが上高田にされてしまったためなのです。
 移転後の心境を窺わせる記述としては、八月九日(月)条、357頁上段16~18行め「‥‥。○夜中野町/まで散策す。馬鹿囃子の稽古せる音聞ゆ。田舎らしき様/子心地よし。○‥‥」を挙げて置きましょう。当時の中野町の中心部は、神田川に掛かる淀橋から今の地下鉄丸ノ内線中野坂上駅を経て新中野駅辺りまでの青梅街道沿いでした。(以下続稿)

文体について

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めた『三田村鳶魚日記』の検討が長くなりすぎたので、今更ながら、「赤いマント」記事の一部を『三田村鳶魚日記』に改称することにしました。本文中の番号のズレ(177)(175)に修正した他は手を入れておりません。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 あれ以来気になって、twitter の検索もまめにするようにしています。それで「赤マント事件」で検索して(「赤マント」で検索すると、何かのネタのような投稿が無数にヒットして収拾が付かない)4月12日付「赤いマント(175)」に取り上げた4月2日のナカネくんだの tweet にも気付いたのでした。
 twitter に瑣末亭のアカウントを作ったのですが、表立った活動は全くしていません。今年は時間を作りましたけれども、来年以降も暇では干上がってしまいますので、そうなったときにそこまで twitter に時間を割こうと思うか、と云うと、思えないのです。しかし、いろいろな情報が発信されていますので、確認はして置かないと行けないと思い、最低限の連絡用にアカウントも作ってみた次第です。
 それで「瑣末亭」で検索してみると、柳田威生の2017年1月30日20:35 の tweet

瑣末亭氏の文体が、敬体だったり常体だったりで一定しないというのは、かなり珍しいと思う…

がヒットしました。‥‥間違いなく私のことです(笑)*1
 私は文章を書くのが苦にならない性質で、根拠と正確さと守秘義務を気にせずに書いても良い、と言われたらいつまでも書いていられるだろうと思います。そう、気分で文章を幾らでも書けるのです。だから人から手紙をもらうと、倍の量の返信を書いてしまうのです。しかし時間はそれなりに掛かりますから、学生時代はともかく、仕事に追われる今は最後まで書けなくて結局返信自体、送らずに終った、みたいなことになっています。
 文体については、自分のスタイルみたいなものを作りたくて、一頃、森鴎外ばりに「‥‥。それらの本文の研究によつて、わたくしは××研究の典據とすべきものを定めたが、‥‥」みたいな文体で論文を書いたこともあります。しかし、結局一定しませんでした。
 文章は幾らでも出て来る。調べて書くのは時間が掛かり、赤マントの新聞記事を渉猟していた頃にはあった時間的(地理的)余裕が失われると調べた結果を記事として毎日上げるのが苦しくなり、それで思い出すままに2018年3月28日付「回想の目録(1)」に挙げたような回想をつらつら書き連ねてみたのでした。
 書き溜めて置くようなことが出来ないので、時間切れで途中で切って投稿したり、前日にある程度下書きを拵えて置いて、それを整えるようなことはありますが、大抵は、当日に書いています。そうすると、書く内容は決まっていても、文体まで引き継いでくれないのです。私は相当な気分屋なので、その日の勤務やら通勤電車の按配やら、そんなことが反映されて、文体を決める前に先に溢れてしまうのです。
 などと考えていたら、なんと初日の2010年12月30日付「御挨拶」に続いて――この「御挨拶」で構想していた内容とは必ずしも一致しませんでしたが、最後にプライオリティ云々と云っているところが示唆的です――書いた、2010年12月31日付「年齢と数字」に、既に文体が一定しないであろうことを断ってあるのです。
 しかし、やはり批判がましいことを書いたりするときは、常体ですと居丈高に見えてしまいますので、敬体で書きます。私が疑問点を論うのは、著者に直接質そうと云う情熱は持ち合わせないのですが、気付く機会があったら考えてもらおうと云う気持ちがあるからなのです。ですからポーズとして敬体なだけではなく気持ちも相応に入った敬体のつもりです。先日、ノイズがどうこうと書きましたが、辻褄の合わない、つまり何か誤解が存することが明瞭に分かるような記述をそのままにして置いて欲しくないのです。が、赤マント連載が埋もれていたように過疎ブログの哀しさ、正直具体的な反応を見た記憶は殆どありません。ですから twitter をやった方が良いのかなぁとも思い始めているのです(躊躇する気持ちの方が強いですが)。
 いえ、それ以前に私自身が「回想の目録」を作成したときに述べたように、過去記事を忘れています。そして「離れたる友」だったA氏から、赤マント記事を頭から読み始めている旨の返事をもらって、私も改めて読み始めたのですが、2013年12月14日付「赤いマント(54)」に、今回の事態の予言のようなものが既に書いてあったのでした。

*1:ヒットしたのはこれだけです(笑)。「瑣事加減」及び「samatsutei」でも若干。

『三田村鳶魚日記』(03)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(178)」を「『三田村鳶魚日記』(03)」に改めます。前置きの文を削除(見せ消ち)にした他は手を入れておりません。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 4月11日付(176)の続きだけれども、今回の記事も全く本題に入らないことをお断りして置きます。
・『三田村鳶魚日記』(3)
 『三田村鳶魚日記』は20年程前に、三田村氏の調査旅行の世話をしたある国文学者の伝記を調べていて、参照したことがあるのだけれども、その後、近所に所蔵している図書館がなかったためか久しく閲覧していなかった。興味はありながら遠ざかってしまったのは、きちんと使いこなすのは大変だ、と思ったからである。
 その、ある国文学者について『三田村鳶魚日記』を調べるとして、当人同士の交際だけでなく交遊圏と云うことになろうか、輪講などで同席している人物についても注意して置く必要がある。しかし索引がないので、交際があったと思われる時期について、きちんと見て置かないといけない。きちんとした索引があればその手間を掛けずに、好き勝手に遊ぶことが出来るのだが、ないので索引作りと同じくらいの注意を払って点検しないといけない。
 可能ならば私が作ってしまいたいのだが、しかし1000頁を超える日記の索引など滅多に作れそうにないので、『三田村鳶魚全集』に収録されなかった昭和19年(1944)の日記を所蔵している早稲田大学演劇博物館辺りで、現在「演劇研究」に連載中の三村竹清日記『不秋草堂日暦』翻刻完結の折にでも、『三田村鳶魚日記』とセットで索引を作成してもらえないだろうか。参加したいくらいだけれども参加資格はなさそうなので遠慮します。
 或いは、もし個人で作成した人がいるのなら、今のご時世では出版するのも大変だからいっそネット上に公開してはどうだろう。電子書籍や有料サイトでも良いかも知れない。校正(入力)が大変そうだけれども。
 さて、『三田村鳶魚全集』別巻には前回触れた「索引」の他に、489~561頁「三田村鳶魚著作目録」と563~579頁「三田村鳶魚全集総目次」があって、前者の489頁(頁付なし)扉の裏、490頁(頁付なし)に「凡 例」として6項、その6項めに「一、著作の間に、若干の年譜的記述も插入した。」とあるように「年譜」も兼ねているのだが、これについては561頁、朝倉治彦「編集後記」の下段11~17行めに、

三田村鳶魚著作目録」は、鳶魚の主要な著作活動を年/代順に一覧できるよう考慮し、単に著作の発表、単行本/の刊行等の記事だけでなく、主として著作に関係のある/年譜的事項をも併記した。この著作目録の作製にあたっ/ては、昭和四十七年、筑摩書房刊『明治文学全集』第九/十巻所収の、杉崎俊夫氏編の「三田村玄龍年譜」を参照/させていただいた。記して謝意を表したい。

とあって、この明治文學全集90『明治歴史文學集(二)』(一九七二年一月三十日初版第一刷發行・一九八九年二月二十日初版第五刷發行・筑摩書房・413頁・A5判上製本)の400~411頁「年譜」の後半、406~411頁、杉崎俊夫編「三田村玄龍」を参照している。

明治文學全集 90 明治歴史文學集(二)

明治文學全集 90 明治歴史文學集(二)

 この杉崎氏編の「年譜」は、日記を参照していないので訂正が必要であるが、『三田村鳶魚全集』別巻の「三田村鳶魚著作目録」には採られていない事項も多く、並べて参照すべきものである。
 例えば、三田村鳶魚と云えば輪講の会場にもなっていた、中野文園町の家が知られている。当然のことながら、昭和14年(1939)の赤マント流言の頃にも文園町に住んでいた。ところが「三田村鳶魚著作目録」を見る限りでは、いつから文園町の家に住んでいたのかが明瞭でない。一方、杉崎氏の「年譜」には、時期が正確でないらしいのだがとにかく、いつから文園町と呼ぶようになったのかが注意されている。
 ちなみに中野区文園町は住居表示の実施により昭和41年(1966)10月に中野6丁目になった。旧文園町は中央線中野駅東中野駅間の北側、中央線から見える中野区立文園児童館辺り*1から西の線路沿い、神田川の支流桃園川のさらに支流を中央線の土手が跨いでいるなだらかな谷間で、文園通りや文園西公園にその名をとどめている。現在の中野区中野6丁目の南側、すなわち「中野区町会・自治会マップ」の「文園町会」の範囲である。(以下続稿)

*1:2013年3月2日付「小池壮彦『怪談 FINAL EDITION』(3)」に取り上げた『現代民話考』の「魔の踏切」は、文園児童館の東、200mほどのところにあった。

赤いマント(175)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めた『三田村鳶魚日記』の検討が長くなりすぎたので、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称することにしました。すなわち「赤いマント(172)」を4月6日付「『三田村鳶魚日記』(01)」に、「赤いマント(176)」を4月11日付「『三田村鳶魚日記』(02)」に改めましたので、この記事の番号を(177)から(175)に改めました。記事本文には手を入れておりません。

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 昨日は『三田村鳶魚日記』の使い勝手について確認するだけで終わってしまいました。――当ブログの「赤マント」記事が検索ではヒットしづらいらしいことを述べましたが、確かにこんな前提の確認を長々と続けて本題に入れないような記事が続くと「手っ取り早く」ない人でも苛立つことでしょう。記事もはてなダイアリーのように展開させられません(何かやり方があるのでしょうか?)から、ブログに移行してからさらに見づらくなったようです。
 こうなったら twitter で、新知見を盛り込み得た、と思う記事を宣伝して、昨日のような確認作業は tweet しない。するならその旨を注記して、その場合は自信のある記事の方にもその旨「紙芝居説の根拠」「昭和11年は入学前?」などと注記して、――そんな努力も必要になって来るでしょうか。
 ブログを始める前、1月11日付「森於菟『解剖臺に凭りて』(3)」に言及した黒岩比佐子(1958.5.1〜2010.11.17)のブログ「古書の森日記 by Hisako」のコメント欄を見ていて、コメントを誠実にやり取りするのは大変だと思い、私には無理だと思ったのでした。ブログと連動させた twitter は外部コメント欄みたいなものですから、二の足を踏んでしまいます。
 或いは、全く活用していない(活用方法も今一分からない)はてなスターを自分の記事に付けて、著者本人の自薦記事であることを示すべきでしょうか。

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 今日は『三田村鳶魚日記』についての確認を続けるつもりだったのですが、次の tweet に気付いたので、取り上げてみました。すなわち、ナカネくんだの4月2日22:04の tweet に、

【古書収穫】同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(昭和15年/高山書院)
同盟通信は現在の共同通信時事通信の前身。戦争において日本含む各国が、いかなるプロパガンダで国際世論を動かしているかを分析。また情報の伝播についても分析され、昭和13年に子供の間で広まった「赤マント事件」にも言及。

と述べて、「赤マント事件」の頁も撮影して示しています。ところがこれが、時期と発生場所について、2016年1月12日付(146)及び2018年5月10日付(159)に存在を指摘しただけでまだ検討に及んでいない岩崎京子(1922.10.26生)の回想と同様に、これまでの私の見当とは大分異なっているのです。
 しかしながら、赤マント事件の翌年、昭和15年(1940)刊で、ほぼ同時代資料と云うことになりますから、これまで記憶の混乱として片付けて来た後年の回想とは、同様に処理出来ないもののようです。
 細かい内容は、私も原本を確認した上で取り上げたいと思っていますが、東京では正体不明で終わったらしい噂の発生源や展開を俯瞰的かつ断定的に述べていることが気になります。或いは昭和15年になると東京ではこのような説明がなされていたのでしょうか。大阪では紙芝居原因説で収まりましたが、これは東京では当局の注意を受けた加太こうじ(1918.1.11~1998.3.13)周辺にとどまって流布しなかったもののようです。しかし、一番の疑問点は昭和14年(1939)2~3月の新聞・雑誌記事の内容との齟齬が大きいことです。ここでは、2013年11月30日付「赤いマント(40)」に引いた「取締の元締」たる警視庁の江副情報課長の談話からは、昭和13年(1938)11月以来4ヶ月と云った長期・広範囲の流行が窺われないことを指摘するに止めて置きます。
 続くナカネくんだの4月2日22:08の tweet には

「赤マント事件」についてはこちらを。昭和10年代に広まった噂で、赤マントを着けた怪人が子供の血を吸うというもの(つまり吸血鬼)。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%88

としていて、Wikipedia「赤マント」項を挙げていますので、特に赤マントについて調査を重ねている人ではないようです。――赤マントに興味があっても、なかなか当ブログには辿りつけないようですけれども。
 Wikipedia の項目については以前から気になっているのですけれども、Wikipedia はブログを「信頼できる情報源」と見なしていないので、かつ、私は資料紹介をメインとしているので別に独自研究と云うほどの独自性は発揮していないのですが、やはり、私が自分のブログ記事を根拠に加筆したら「独自研究」と云うことになるのでしょう。だからと云って当ブログに触れずに新聞・雑誌記事で項目を書かれては堪りません。いえ、Wikipedia「赤マント」項の「脚注」に挙がる書籍・雑誌のどれよりも当ブログの方が「検証可能性」と云う点でも*1優れていると思うのですが、やはり形式は大事なのです、本にするしかなさそうです。著作権処理や読者カードのことを考えると、最近怪談系の本をよく出している版元に持ち込もうか、などと考えてみるのですが、そのためには何よりも、一般も読めるレベルで原稿を完成させないといけない。
 それはともかく、『国際宣伝戦』の tweet、公開されている情報ですから、ナカネ氏の発見である旨をきちんと断った上で、私の『赤マント』本に活用したいと思っています。これまではブログ記事でしたけれども、書籍化と云う目標が定まった訳ですから今後はその旨を述べて、こまめに挨拶して置かないといけない、と思ったものでした。
 そこで原本ですが、国立国会図書館サーチで検索する限りでは公立図書館の蔵書は県立長野図書館蔵の1冊がヒットするのみ、しかも昭和12年(1937)刊だと云うのです。もしこれが正しければ昭和15年(1940)版は増補改訂版と云うことになりそうです。それはともかく、国立国会図書館サーチの結果を見たときにはナカネ氏にお願いしようかとも思ったのですが、何とか別に閲覧場所を見付けられそうなのでそちらで早速手続きに入りました。不調に終わった際にナカネ氏にお願いするかも知れません。(以下続稿)

*1:好い加減な根拠によって記述していないと云う点に於いて。

『三田村鳶魚日記』(02)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(176)」を「『三田村鳶魚日記』(02)」に改めます。記事名や番号のズレを修正した他は手を入れておりません。

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・『三田村鳶魚日記』(2)
 日記には、人に読ませようと思って書いたものと、あくまでも当人の手控えとして備忘のために書いたものとがある。4月6日付(01)に触れた私の学部生から院生に掛けての日記は全く読ませようと思っていなくて、当時の私に必要最低限分かるようなことしか書いていない。どこに住んでいて、どんな交通手段を使って、どこに何曜日に通っていたか、などと云ったことを一々断っていない。それでも変り映えのしない日常が延々続くだけだから、2ヶ月分くらい読めば慣れて、大体のところは察せられるようになるだろう。とにかく毎日まめに付けていたから、一日一日読んでも全く面白くないが、纏めて1990年代に於ける学部生・院生の生活記録として、統計的に扱うことは出来るかも知れない。
 しかし問題になるのは人名である。同じ固有名詞でも地名や団体名は他に調べようがあるだろうが、人名は別に何か名簿類を参照出来ないと、大学院の関係者とか、サークルの同輩だろうとか、大体の見当は付いても正確なところまでは分からない。
 三田村鳶魚の関係者は『三田村鳶魚全集』が編纂された当時、歿後30年くらいだったので存命の人も少なくなく「三田村鳶魚全集月報」に毎号連載されていた、編集の朝倉治彦(1924~2013.9.15)が司会を務めた座談会にて思い出を語っている。もちろん、その多くが『三田村鳶魚日記』にも登場している(はずなのだ)が、約40年分1000頁以上の分量があるのに『三田村鳶魚全集』別巻(昭和五十八年十月十日印刷・昭和五十八年十月二十日発行・定価三五〇〇円・581頁)の9~175頁「人名索引」176~272頁「書名索引」273~487頁「事項索引」から成る、5~487頁「索引」に、日記を収録した第廿五巻・第廿六巻・第廿七巻の3巻は採録されていないのである。

三田村鳶魚全集 (別巻)

三田村鳶魚全集 (別巻)

 この間の事情を窺わせるのは、まづ、第廿七巻に挟まれている「三田村鳶魚全集月報」第27号(昭和52年6月・12頁)の最後、右が太い子持線を挟んで12頁下段18~25行めに小さく、まづ18行め「編集室から」として、19~25行めに行頭に□の符号がある行以外は1字下げで、

□第二十七回配本、第廿七巻をお届けいたします。今回の配本で、本/巻全二十七巻が完結いたしました。御愛読を感謝いたしますととも/に、多くの方々から御教示、御支援のお言葉をいただきましたこと/を厚く御礼申しあげます。
なお、別巻「総索引、著作目録、全集総目次」は、目下鋭意編集中/ですが、若干の日時を要する見通しで、昭和五十三年四月の刊行を/予定しております。なにとぞよろしくお願い申しあげます。

とあって、「若干の日時」とあるのは「本巻二十七巻」は昭和50年(1975)4月の「第一回配本」から昭和52年(1977)6月の「第二十七回配本」まで毎月刊行されているのだが、流石に「別巻」は10ヶ月空ける予定であったのである。
 ところが実際に「別巻」が刊行されたのは、別巻に挟まれている「三田村鳶魚全集月報」第28号(昭和58年10月・4頁)の最後、やはり下段18行めに「編集室から」とあって、続く19~25行めに、

□「三田村鳶魚全集」別巻をお届けします。
□本巻二十七巻完結以来、この別巻の一日も早い刊行に努めてまい/りましたが、編集に予想外の時間を要し、配本が大幅に遅れました。/この間、読者の皆さまからたくさんのお問合せ、ご叱正、ご激励な/ど頂戴し、恐縮に存じます。
ここにあらためて刊行が遅れましたことをお詫び申しあげ、併せて/今後共いっそうのご支援をお願い申しあげる次第です。

と詫びているように、6年4ヶ月後の昭和58年(1983)10月であった。
 実際の作業がどのように進められ、如何に遅滞したのかは関係者の証言でも探さないと分からないが、『三田村鳶魚日記』を「人名索引」「書名索引」に含めれば三田村氏を中心とする近世学藝史研究史*1の資料になるだろうし、「事項索引」は明治末から大正を経て昭和の戦前・戦中・戦後に至る世相史の資料になろう。しかしながら、三田村氏の周囲には学藝史の人々の他にも、仏教関係者や親類縁者、出版社の編集者や新聞記者など、歴史に名前を残さなかった、当時としても調べにくい人物がいた訳で、三田村氏の生活面を知る上ではこうした人物たちとの交際も押さえて置くべきなのだが、三田村氏の学問の内容面には殆ど関係がなく、それなのに、それなりの紙数を要し、同定作業なども必要になって来る。「事項索引」も同様で、近代史に属する「赤マント」も立項されただろうけれども、やはり相当量の紙数が必要になる。そうすると、とてもでないが1冊には収まらなくなる上に時間も要する訳で、もともと1冊の予定の『別巻』を、大幅に遅れた上に分冊で出す訳には行かなかっただろう。
 そのために『日記』の「索引」が一応作成されながら割愛されたのであれば、今からでも『日記』の分をどんな形でも良いから公開してもらえないだろうか、と思うのである。――作りたい、と思うのだけれども、幾ら少し暇になったとは云え、とてもでないが成し遂げられそうにない。(以下続稿)

*1:4月13日追記】三田村氏の業績は学藝史に限定されないのだが、私の興味が学藝史研究にあるので、どうしてもそちらの面から見たくなってしまう。これも人毎に異なる偏りである。