瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります。

赤堀又次郎伝記考証(080)

・『学海日録』に見る依田学海と鹿島家の交際(明治32年)前置き③
 やはり今日も前置き。
 明治32年3月12日条(78頁8~14行め)前夜に雪が庭に白く積もる。午前、晴れる。清宮卓爾を訪ねるが来客が会って会えず、2月22、23日頃から佐倉に滞在している画師栗本鴻堂(1830生)の寓居を訪ねる。浄土寺の垂糸梅を見る。縑浦(蓑輪芳三郎)が同行していたようだ。13~14行め「‥‥ ◯夜、この家に寓する鶴松老人のむかしがたりをきく。/詳なる事は余が記事の文にのせたればこゝにいはず。‥‥」
 13日条(15行め~79頁6行め)「十三日。晴。寒甚し手水鉢の水氷れり*1。大根邨の*2清左衛門といふ老人*3来る。これは香取郡の博/徒の親方にして、子分二、三千人もありしものなり。‥‥」その用件は、79頁2~4行め「‥‥。今は心を改めて博奕をやめたるが、もとの子分/等これが為に碑文を建むとの事にて、余にその碑字と文をのぞまれしが、此日召きてその物語を/きゝしなり。‥‥」
 このときの見聞が「こゝろの華」第六卷第貳(明治三十六年二月四日印刷・明治三十六年二月五日發行・定價一部金郵稅共拾六錢・大日本歌學會・八+九十六頁)五十九頁下段~六十一頁下段5行め、學海居士*4「俠民淸左衛門(上)」及び「こゝろの華」第六卷第三號(明治三十六年三月八日印刷・明治三十六年三月九日發行・定價一部金郵稅共拾六錢・大日本歌學會・四+口絵+七十頁)四十四~四十九頁、學海居士*5「佐原漫筆」の前半、四十四頁上段3行め~四十六頁上段15行め「俠民淸左衛門(下)」にこのときの見聞が纏められている*6。但し(下)の四十六頁上段4~6行め「‥‥。明治/卅二年三月十二日、余が佐原に至りし時、蓑輪篁雨を/价として、始終終を物語れり。‥‥」とあって、日記とは1日ズレている。
 この日は並木栗水の門人・石井宗太郎(鼇山)と栗水の第二子・並木誠之助(正誠)が来訪している。
 14日条(79頁7行め~80頁8行め)「十四日。晴。春色やうやくよろし。此楼は東南に向ひたれば日光よく透り、頗る暖気なり。きの/ふはいと寒かりつるが、けふは暖なるべし。◯余が家に召仕ふ沢の祖母来りて鶏卵多くおくられた/り。◯‥‥」
 この日は新島村扇島の高塚子之助(楫浦)に七言古詩の添削を乞われている。また栗本鴻堂の来訪、高城清左衛門の子分・牧野村の吉沢貞助に、村の「源二の宮」の「文を請」われている。この文は次の本に収録されているようだ。

 佐原町の南に隣接するのが牧野村、その南に隣接するのが大根村で、牧野・大根ともに当時は千葉県香取郡香西村。
 15日条(9行め~81頁9行め)午後、鶴松老人と法界寺の山を見て諏訪神社に参詣、本宿の八木慶太郎(方山)を尋ねるが不在、81頁5~9行め、

‥‥。田中とい/ふ所におもむき、余が家に召し仕ふ沢女の家を訪ふ。紺搔をもて業とす。/主人*7、手を藍にして出で迎へ、その妻・その子も出来りてもてなす。主人の/母はいと男まさりの婦人にて、よく我を待遇せり。主人はものかずいはず質/朴の男なりき。茶を喫し、しばし物語してかへりぬ。


 16日条(10~13行め)、

十六日。朝より雨ふり出ゝ甚寒し。けふは大根邨にゆくべき約ありしかど、/雨なればゆかず。書を揮ふ事八、九枚。方元鵾が七律指南を読む。終日やま/ず夜に入る。午餐・晩餐ともに鶏卵蒸を供せらる。今日は鷄肉をそのうち加/られたり。毎朝牛乳をとりてのむ。雨、ひねもす降て、日くれぬ。


 明治28年の訪問時には、揮毫の依頼が少ないことを日記に書いていた依田氏であったが、今回は蓑輪氏の事前の宣伝があったものか、訪ねて来る者もあり揮毫の依頼もあったようだ。「鶏卵」は14日に沢の祖母が持って来たものであろうが、鶏肉と牛乳は蓑輪芳三郎の配慮であったろう。
 17日条(14行め~82頁6行め)「十七日。雨やみ、やがて日出たり。午後またくもる。寒し。沢婢の父、鯉/魚壱尾をおくられたり。重七百目あるべしといふ。頗尤物なり。金鱗發潑刺、/その味の美なることしるべし。装潢師浪華堂来れり。高塚楫浦の事をかたる。/【81】楫浦、妓楼を潮来に開き扇洲楼と名づく。余、鹿島に遊ぶべきよしをいひしかば、さら序に立よろ/給へといひき。‥‥」
 18日条(7行め~83頁13行め)大根村の高城清左衛門の招に応じて「清左衛門の大碑を書してあたへつ」。この碑は現存していないらしいが、〈御成婚/記 念〉千葉縣圖書館 編輯、千葉縣圖書館叢書第五輯『〈千葉/縣内〉碑石一覽』(昭和九年四月一日印刷・昭和九年四月五日發行・非賣品・〈御成婚/記 念〉千葉縣圖書館・前付+一四四頁)六六頁5行めに「|俠民淸左衛門碑|同 村大根  | |依 田 百 川|南  芳治郎|明治三十二年/三月| |」と見えている。前付の「凡   例」に「一、本調査は昭和四年十二月現在に依る。」とあるから昭和初年には存在していたことは確かである。表の記載事項は「凡   例」の最後「五、本調査は碑石研究者に其の研究の端緒だけを與へることを目的とした爲、記述は碑名、所在地/撰文者、書者、刻者、建碑年月日、備考等の要項だけに止めた。」とあり、俠民淸左衛門碑は撰文者と備考が空欄になっているが、依田氏の名は書者だけでなく撰文者にも入るべきこと明らかである。明治32年3月は依田氏の撰文の年記であって実際に建てられたのはもう少し後であろう。
 帰りに牧野の観福寺を見ている。午後、潮来の詩人田原遼鶴が来訪。(以下続稿)

*1:仮に太字にした箇所に傍点「ヽ」打つ。

*2:右傍に「高城」。

*3:右傍に「重義」。

*4:「目錄」には「依田學海」。

*5:「目錄」には「依田學海」。

*6:残り、四十六頁上段16行め以下は「山城屋佐兵衛」。

*7:右傍「小川元次郎」。

赤堀又次郎伝記考証(079)

・『学海日録』に見る依田学海と鹿島家の交際(明治32年)前置き②
 昨日はこの旅行に誘った蓑輪芳三郎のことなどで長い前置きになってしまった。
 いよいよ本題に入ろうと思ったのだが、やはり色々確かめているうちに長くなってしまって今日も前置きである。
 明治32年(1899)3月7日条(第十一巻74頁15行め~75頁1行め)「七日。晴。今日、余、佐原に発程すべかりしかど、昨日より風邪の気味にて涕出てやまず。より/て一日の行をとゞむ。‥‥」
 8日条(2行め~76頁12行め)「余、佐原に遊ばんとして五律二首を得たり」として五言律詩2首を書き留め、76頁4行め「滑川多都二〈号澹/如〉 これに次韻しておくられたり」とあるがそちらは記載がない(ようだ)。この日の頭欄に「蓑輪芳三郎より電報ありて余が発程を問ふ。きのふ滑川多都三より、蓑輪と同行/して出京すべしとあるに牟*1楯す。よりて余がけふ発せし書の答をまちて発すべきに決す」とあって、出発に当たっては行き違いがあった。
 9日条(13行め~77頁1行め)、

 九日。晴。風邪やゝよろし。蓑輪より電報をもて、ユケヌオイデヲマツ、とあれば、明日発すき/に定む。夜、雄甫来る。銚子の宮内某の子に松井簡治*2といふものあり、余をその父に紹价せんとい/ふ。宮内は鹿島の神官吉川天浦の弟なり弟あり勁節といふ余かつてこれを修史館にしれり*3。/宮内は七十余にして、文詩をよくすといふ。簡治もまた学を好み、雄甫とよし。今、華族学校の教/【76】授たり。


 松井簡治(1863.五.十八~1945.9.26)が、鹿島神宮の鹿島大宮司家の櫻山文庫の目録を塾生に写させて所持していたことは、2023年5月9日付(049)2023年12月2日付(064)に触れて想像を逞しくしたことがあったが、そもそも松井氏の伯父が鹿島神宮の神官だった、と云う繋がりがあったのである。松井氏の父・宮内嘉雄(1826~1900.12.1)は号・君浦、平田篤胤の門人・宮内嘉長(1789~1843.五.十七)の女婿となり宮内姓、簡治はその次男である。そして嘉雄の兄が鹿島則文の師であった鹿島神官中神職吉川天浦(1819~1858.十一.一)であった。
 依田雄甫(1864~1937.1.5)は名は貞継、当時陸軍中央幼年学校教授、のち慶應義塾教授。徳富蘇峰記念館のサイトが「依田学海の嫡孫」等と誤情報を載せているが、依田氏の長男美狭古(名は貞述)よりも年上である。正確な関係は追々辿ってみることとしよう。
 10日条(77頁2~6行め)「十日。雪。佐原行を明日に延引す。‥‥」これは天候のためであろう。
 11日条(7行め~78頁7行め)、その前半を抜いて置く。

十一日。雨やむ。(頭欄)「(佐原行)」 佐原より蓑輪しば〳〵書をよせて招かれしかば、今日十一時/の汽車にて本所を発す。佐倉に至りて車を改め、二時にして佐原に達す。下婢沢の祖母小川氏の母、/沢の妹をひきゐて余を迎へ、車にのせて蓑輪の家に至る。夫妻よろこび迎て、例の送翠楼にのぼり、/こゝを余が書室とす。この家に寓居する江州の人、鶴松といふ老人出て給事す。この老人はもとさ/るべき商人なりしが、生活に窮してこの家に食客たり。(頭欄)「鶴松老人」*4 晩食終りて、浴を設けら/れて浴す。主人の弟宗之助来り話す。分家してこれも造酒を業とすといへり。夜、李笠翁の間情偶/寄をよむ。余澹心の序・呉梅邨の評あり。零本にして、篁雨が佐倉の骨董舗にて買ひしものといふ。/‥‥


 前回、明治28年(1895)に佐原を訪れたときは、5月19日に総武鉄道の本所駅(現・錦糸町駅)から旧知の菅治兵衛(1833~1918.1.27)に同行して千葉まで汽車、そこから馬車に乗り継いで匝瑳郡椿海村、24日に人力車で佐原、6月1日に東京通いの汽船で発ち、利根運河経由で2日に帰京していた。
 今回は、総武鉄道で佐倉駅まで行き、そこで明治28年当時は開業していなかった成田鉄道に乗り換えて、佐原駅まで行っている。
 駅では「下婢沢の祖母」と「沢の妹」が出迎えていた。明治31年(1898)4月24日条(第十巻470頁10行め~471頁3行め)に「‥‥。◯蓑輪氏よりつかはしたる下婢、名は/沢といふ、年十五歳なり。小川氏にして、父を嘉助といふ。佐原の人也。染物を業とすといへり。/◯‥‥」とあって、蓑輪芳三郎の紹介で前年から神田小川町の依田家で働いていた「沢」の祖母と妹である。
 依田氏は、明治31年7月5日条(第十巻487頁13~15行め)「五日。晴。柳枝及婢沢を携て、市邨座伊井・山口の演劇をみる。‥‥」と末っ子(五女)の柳枝と一緒に芝居に連れて行っている。明治33年(1900)9月30日条(第十一巻278頁4~5行め)「三十日。晴。佐原より婢小川沢の祖母来れり。‥‥」とあり、翌10月1日条(6~7行め)「‥‥。今日は頗快晴なりき。/沢の祖母、沢が一日の暇を乞ひて遊行す。」そして12月18日条(307頁12行め~308頁15行め)に、307頁14~15行め「‥‥。◯荆婦、婢沢を携て浅艸の年の市をみる。こは来年四月、/沢は期限にて帰郷すべければなり。◯‥‥」とあって『学海日録』は明治34年(1901)2月17日条の途中までで以下が残っていないのだが、小川沢(1884生)は十五歳から十八歳まで3年間依田家で女中奉公していたことになる。
 送翠楼の名は、昨日見た明治28年5月26日条に見えていた。見晴らしの良い二階の部屋を居室として、またしても下にも置かぬ歓待を受けるのだが、ここに「篁雨」とあるのは蓑輪芳三郎の当時の号らしく、以前の号(縑浦/謙浦)は殆ど出て来ない。「主人」はもちろん篁雨蓑輪芳三郎で当時二十七歳(満26歳)、その「弟」なのだがら「宗之助」はまだ20代前半、但し前年の『日本商工營業錄』第一版(明治三十一年九月十二日第一版印刷・明治三十一年九月十五日發   行・實價金貳圓六十錢・日本商工營業錄發行所)の「◉千葉縣之部」六十八頁の二十四頁下段4行め~三十三頁下段4行め「●香 取 郡」の、二十七頁下段10行めに「〈同千八百六/十四   〉 蓑 輪 宗之助  〈製造業、酒造/▲一一、五五〇  〉」と見えている。なお「同」は「佐原町」、▲とその下の漢数字(半角)については各頁の柱(小口側)に「▲印ハ稅金年額、「ヽ」ハ圓位、」と註記がある。『学海日録』別巻「索引」はこの辺りの読み込みが甘かったらしく「小川宗之助 ⑪77」として採録しているが、誤りである。(以下続稿)

*1:右傍に(ママ)。

*2:仮に太字にした箇所に傍点「○」を打つ。

*3:ここまで仮に太字にした箇所には傍点「ヽ」を打つ。

*4:頭欄4字に傍点「ヽ」打つ。