瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『斎藤隆介全集』月報(11)

 昨日の続きで斎藤氏原作の映画「心の花束」について、今度はいよいよ(?)赤十字社側の資料を見て行くこととしましょう。
・『日本赤十字社史続稿』第4巻(昭和三二年一一月一日発行・日本赤十字社・15+599頁)
 表紙には金文字で「日本赤十字社社史稿/大正12年~昭和10年/㐧 4 巻*1」とあるのですが、奥付には「「日本赤十字社史続稿」第4巻」とあり、1頁(頁付なし)扉にも「日本赤十字社史続稿/大正12年昭和10年/第 4 巻」、3頁「社史続稿第四卷刊行の辞」にも、最後(下段16~20行め)に、

 ここに、改めて本書の完成を祝福し、あわせて、関係/各位の労を感謝して「日本赤十字社史続稿第四巻」刊行/の辞とする。
 
  昭和三十二年八月一日
       日本赤十字社社長 島 津 忠 承

とありますので標題は「日本赤十字社史続稿」として置きます。
 この映画のことは、頁付の数え方が最初の方、一寸分りにくいのですが、口絵の前の前付、5~15頁「日本赤十字社年表(自 大正 一二 年/至 昭和 一〇 年)」13頁28行め~14頁36行め「昭 和 九 年」条の「国内関係」欄、14頁30~32行めに「‥‥辞任、 赤/十字映画脚本懸賞募集に「赤十字に捧ぐ」が/一等当選。」とあって映画が「心の花束」なる題で完成、封切されたことなど「昭 和 十 年」条に記述があるべきなのですが何ともしておりません。
 239~410頁「事業篇」396~410頁「第8章/宣伝および雑件」の3節め、408頁中段~410頁「懸 賞 募 集」の項立ては、どうも分りづらいのですが11~31頁(頁付なし)「目   次」の28頁下段14~17行めを見るに、408頁中段2行め~下段23行め「赤十字映画脚本募集」408頁下段24行め~410頁上段8行め「ポスター図案募集」410頁上段9行め~中段「国際会議の広報」の3項から成っているようです。
 まづ1項め、408頁中段3行め以下を抜いて置きましょう。

 昭和九年一一月一五日に展開される第二回赤十字デ/ーに使用するポスターの図案と、新しい社旨宣伝に役/立たせる映画脚本を募集することになり、東京日日、/大阪毎日新聞社の協力を得、左の規定で懸賞募集を行/った。(原文のまま)
    募集規定
 一、脚本内容
   日本赤十字社の沿革および事業を系統的にもっ/  とも興味深くかつ簡明にあらわしたもの、それに/  よって赤十字精神すなわち報国恤兵、人道、博愛/  の精神発露を強調し、社旨の普及に力あるべきも/  のたらしめたいのであります。
   (右に関する資料は日本赤十字社に御申込下さ/   れば送呈いたします、尙一層詳細なる資料は芝/   公園内の本社赤十字博物館に備付けてありま/   す)
 二、形式と長さ
   約五巻に纏め得るもの
   シナリオの形でも又はストーリーでも何れでも/  差支ありませんが、原稿はすべて四百字詰原稿紙/  五十枚以内
 三、投稿注意
   応募者は右原稿と共に四百字詰原稿用紙五枚以/  内の梗概を添附すること
   原稿には住所氏名を明記し封筒の表には「赤十/  字映画応募原稿」と朱書し東京市芝公園日本赤十/【408中】  字社又は東日、大毎の事業課宛に送付のこと
   原稿は一切返却致しません四、当選作の処置当選作を映画に作製するに当りては修補すること
 四、当選作の処置
   当選作を映画に作製するに当りては修補するこ/  ともあります、又都合に依りては映画に作製しな/  いこともあります
 五、版 権
   当選作及佳作の原稿版権は一切日本赤十字社所/  有
 六、締切期日
   昭和九年七月三十一日
 七、賞金総額  金七百円
   一等一篇   五百円
   二等一篇   二百円
 八、審査委員
   委員長 〈日 本 赤 十 字 社/副  社  長〉 中  川   望
   委 員 〈東京日日新聞社/学 芸 部 長〉 阿 部 真 之 助
   同   〈大阪毎日新聞社/同     上〉 大 竹 憲 太 郎
   同   〈東京日日新聞社/顧     問〉 菊  池   寛
       〈日 本 赤 十 字 社/調 査 部 長〉 井 上 円 治
       〈同      /救 護 部 長〉 高  橋   高 
       〈同      /庶 務 部 長〉 早  川   清
       〈同      /経 理 部 長〉 南  条   寿


 続く「ポスター図案募集」の項も、まづ「募集規定(原文のまま)」が示されております。そして行空きなどナシで409頁上段21~22行め、

  この規定によって七月六日の東日、大毎両新聞紙/ 上に左の募集広告が発表された。(原文のまま)

とあって、23行め、項の見出しのように4字半下げ2行取りでやや大きく「映画脚本懸賞募集」とあって、24行め~中段31行め、

  第十五回赤十字国際会議は今秋を期して東京で開/ かれ、加盟六十四箇国から代表が来朝、最近の日本/ 国勢の躍進を視察することとなってゐます、この画/ 期的な国際大会を控へてわが国現在の重大時局に鑑/ み、特に報国恤兵の精神作興の必要を痛感せる日本/ 赤十字並に東日、大毎両社では今回日本赤十字社の/ 社旨の普及を目的とした映画の製作を企図し、左の/ 規定で広く脚本の懸賞募集をいたします、なほこの/【409上】 機会に今秋の赤十字デーに配布するポスターの図案/ の懸賞募集を併せて致しますから奮って御参加を切/ 望します
  一、賞金・金五百円(一等一名)金二百円(二/   等一名)
  一、原稿締切 八月二十日
  一、審査員 委員長
           日本赤十字社副社長
               中  川   望
      東 日 学 芸 部 長 阿 部 真 之 助
      東 日 学 芸 部 顧問 菊  池   寛
      大 毎 学 芸 部 長 大 竹 憲 太 郎
      東  日  客  員 千 葉 亀 雄
      日本赤十字社参事 井 上 円 治
      同        高  橋   高
      同        早  川   清
      同        南  条   寿
 規 定
  ㈠脚本内容日本赤十字社の事業を最も興味深く表/   現すると共にわが国現在の時局に鑑み特に報国/   恤兵の精神作興を強調し社旨の普及に資するも/   の(参考資料は赤十字社に申込のこと)
  ㈡形式はシナリオでもストーリーでも差支なく約/   五巻程度のもの
  ㈢原稿は四百字詰用紙五十枚以内で原稿と共に五/   枚以内の梗概を添付すること
  ㈣送付は東京市芝公園日本赤十字社及東日、大毎/   両社の懸賞映画係宛(封筒にその旨朱書のこと)
  ㈤原稿は一切返戻せず入選佳作の版権は主催者の/   所有とす
  ㈥入選作は加筆補正することあるべし


 続いて「ポスター図案懸賞募集」が32行め~下段13行めに載りますがこれは割愛します。14~23行め、

 こうして締切期日七月三一日までに応募された脚本/は三〇六篇、ポスター図案五二五枚に達した。脚本は/前記審査員が、ポスターは東京美術学校教諭岡田三郎/助氏、図案家杉浦非水氏等による厳重な審査の結果左/の通り当選を決定した。
  赤十字映画脚本
 一等「赤十字に捧ぐ」作者東京 佐 井 東  隆氏
 二等「我等の赤十字」同 同  広 野 俊 雄氏
   このうち一等当選の脚本「赤十字に捧ぐ」は日/  本活動写真株式会社に依頼し映画に製作した。


 この項の残りは「赤十字デーポスター図案」の結果発表と印刷枚数等が記載されていますがこれも割愛します。――いづれ「毎索」で、懸賞募集記事や当選発表記事を探して見ることとしましょう。
 しかし、何故か完成した映画をどのように活用したか、記述がありません。
 ちなみに二等の広野俊雄については「官報」第一千九百三十一號(昭和八年六月十日・内閣印刷局・二五三~三四八頁)三一五頁2段め(4段組)18行め~三二三頁2段め4行め「彙報」欄、三二一頁「◯ 學 事」の大半は東京帝國大學文學部の「◉入學許可」者が列挙されているのですが、3段め6~13行め「倫理學科」20人中16人め(50音順)に「廣野 俊雄」の名が見え、以後の『東京帝國大學一覽』に學生もしくは卒業生として名前が見えています。例えば『東京帝國大學一覽』昭和十一年度(昭和十一年七月 十 日印刷・昭和十一年七月十五日發行・東京帝國大學・八+七六〇頁)五三二頁7~10行め「倫理學科」の「◯昭和十一年三月卒業」14名中11番目に「廣 野 俊 雄 新潟」とあります。
 もちろん同名異人の可能性もありますが、当時帝大生だった広野俊雄の可能性が高いと思うのです。
 帝大に入る前は弘前高等學校一覽 (自昭和四年四月/至昭和五年三月)(昭和四年十月三日印刷・昭和四年十月三日發行・非賣品・弘前高等學校・六+三〇二頁)二二七~二八三頁「◯生徒及卒業生 (昭和四年四月現在)」二二七頁2行め~二四三頁7行め「一、生徒氏名 (五十音順)」に見えております。この見出しの下に(氏名ノ上段ハ出身學校/下段ノ( )ハ本籍府縣名)との註記があります。二三七頁11行め~二三八頁12行め「文科第一學年第一學級 (四十名)」35人めに「三 條 廣 野 俊 雄 (新潟)」が見えます。弘前高等學校一覽 (自昭和三年四月/至昭和四年三月)(昭和三年十一月十五日印刷・昭和三年十一月二十日發行・非賣品・弘前高等學校・六+二八八頁)二一九~二七〇頁「◯生徒及卒業生 (昭和三年四月現在)」には見当りませんので昭和4年(1929)4月入学で間違いないようです。弘前高等學校一覽 (自昭和五年四月/至昭和六年三月)(昭和五年十月八日印刷・昭和五年十月十日發行・非賣品・弘前高等學校・六+二四九頁)一八三~二二八頁「◯生徒及卒業生 (昭和五年四月現在)」一八三頁2行め~一九四頁10行め「一、生徒氏名 (五十音順)」にも見えております。やはりこの見出しの下に(氏名ノ上段ハ出身學校/下段ノ( )ハ本籍府縣名)との註記があります。一八六頁中段16行め~一八七頁中段5行め「文科第二學年第一學級/(三十九名)」の27人め、かなりの落第生がいたことになりますが「三 條 廣 野 俊 雄 (新 潟)」と見えております。弘前高等學校一覽 (自昭和六年四月/至昭和七年三月)(昭和六年十一月十一日印刷・昭和六年十一月十六日發行・非賣品・弘前高等學校・六+二六〇頁)一九〇~二三九頁「◯生徒及卒業生 (昭和六年四月現在)」一九〇頁2行め~二〇二頁5行め「一、生徒氏名 (五十音順)」にも一九〇頁3~14行め「文科第三學年第一學級    (三十二名)」の23人めに見えております。このまますんなり3年で卒業出来たかどうかは、翌年度以降の『弘前高等学校一覧』が閲覧出来ておりませんので分りません。とにかく新潟縣立三條中學校(現・新潟県立三条高等学校)を卒業して弘前高等學校から東京帝國大學文學部倫理學科に入学、ここは3年で卒業しております。
 以後の経歴は明らかにしがたいのですけれども、創立八十年史編集委員会 編集『創立八十年史』(昭和五十八年三月一日発行・千葉県立安房高等学校・842頁)832~838頁「旧職員一覧」834頁中段4行めに見える「S18・8~S20・4 修  身 広野 俊雄」は科目からして同一人物らしく思われます。
 なお、新発田各聯隊の戦死者について纏めた松田時次 編著『散華の遺光』(昭和五十八年六月十五日発行・新発田古地図等刊行会・口絵+前付+174頁)の「その二 戦 没 者 名 簿」96~107頁「五十公野地区」に、105頁下段7~8行め「上    広 野 俊 雄  五十公野一××六/     昭和二〇、一、九 台湾安平沖戦死」とあるのも何となくそれらしく思われるのですが、新潟縣立新發田中學校のある北蒲原郡新發田町の、近郊に位置する北蒲原郡五十公野村から、わざわざ50km以上離れた南蒲原郡三條町の三條中學校に行っただろうかとの疑問があります。しかし千葉縣立安房中學校に昭和20年(1945)4月まで修身担当で勤めていた広野俊雄が帝大卒の廣野俊雄だとすれば、五十公野の広野俊雄とは別人と云うことになりましょう。人物の同定は中々に厄介です。(以下続稿)

*1:「稿」の旁は「髙」、「巻」の部首は「⺋」となっています。