瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『斎藤隆介全集』月報(06)

 昨日は山本和子について若干の文献を取り上げただけで終ってしまいましたが、ここで斎藤隆介全集』第十一巻「年譜」の確認に戻りましょう。それから、これまで「年譜」の確認を優先して「月報」への言及を最低限にしておりましたが、ここらで「月報」の文章にも触れて行くこととしましょう。細目は9月24日付(01)に示しました。言及する際には、巻を漢数字、配本回を算用数字、そして頁と段・行を〔三12-3下10〕の如く、位置を示すこととします。
 206頁13行め「一九六二年(昭和三十七年)|四十五歳」条に「九月三日、柳澤弘子と結婚。練馬区豊玉に住む。」17行め「一九六六年(昭和四十一年)|四十九歳」条に「千葉市花輪に移る。」207頁1行め「一九七〇年(昭和四十五年)|五十三歳」条に「千葉市大宮台に移る。」そして6~7行め「一九七三年(昭和四十八年)|五十六歳」条に「一月二十六日、離婚。/千葉市四街道に移る。」
 以上が斎藤氏の初婚の顚末と云うことになります。
 秋田時代の斎藤氏を回想した喜田説治「あかつき書房のころ」に「奥さん」が登場します〔一3-1上11・下7・14・2上3〕が、その「奥さん」山本和子とは内縁関係であったようで、9月27日付(04)に引いた小沢三千雄『万骨のつめあと』に斎藤氏のことを「山本の夫」と云い「後、彼等は離婚し」とあるのですが、そもそも法的な手続きを踏んだ関係ではなかったようです。
 それはともかく、地理が余り正確ではありません。練馬区豊玉は、東京市に併合される前の東京府北豊島郡中新井村の東側、併合後の東京市板橋区中新井町だった辺りですが、練馬区になる以前の、板橋区時代から豊玉上(1~2丁目)豊玉北(1~6丁目)豊玉中(1~4丁目)豊玉南(1~3丁目)に分割されていたので「練馬区豊玉」と云う地名は厳密には存在しません。千葉市花輪は現在の千葉市中央区花輪町、千葉市大宮台は若葉区大宮台です。
 豊玉の辺りは度々通ったことがあるのですが、千葉市には余り縁がなく、土地勘がありません。千葉市美術館と千葉県立中央図書館に何度か行き、それから大学院の修士のときに、東洋史の同期生と親しくなって、中央区生実町でしたか、泊りに行ったことがあります。それ以前、学部時代のサークルにいた女子学生が外房線の鎌取から通っている、と聞いて、随分遠くから来ているなと思ったことを、今、地図を眺めて、当時の花輪町及び大宮台の最寄駅が鎌取であることに気付いて、思い出したことでした。院生の方は苗字は覚えているのですが女子学生の方は(そのサークルを私が1年で辞めてしまったこともあって)もう名前を思い出せません。
 それ以上に問題があるのは「千葉市四街道」で、四街道は当時、千葉県印旛郡四街道町、本全集刊行前年の昭和56年(1981)4月に市制施行して四街道市になっております。ここは「千葉県四街道」とするべきだったでしょう。――来栖良夫「絶妙のコンビ」の冒頭に「 斎藤隆介さんは千葉県四街道の下志津新田に居を移し/ている。‥‥」〔五5-1上5~6〕とあって、もう少し場所を絞り込めます。来栖氏は随分田舎のように想像していますが、総武本線四街道駅の西、1km圏内で Google ストリートビューで見ると今は閑静な住宅街、地形図や航空写真で見る当時はまだ周囲に水田や畑も広がっていましたが、そんなに不便なところとは見えません。
 207頁8行め「一九七六年(昭和五十一年)|五十九歳」条に「二月六日、舘田敬子と結婚し、前夫の子佳子を養女として入籍。」とあるのを読んで、「日本児童文学」昭和54年(1979)2月号から転載された松谷みよ子「隆介さんのこと」の最後〔一3-8上6~9〕が、

 いま、隆介さんにはお嬢さんがいて、父親となった隆/介さんはひどく仕合わせそうである。「娘になったとき/赤飯を炊いてやったんですよ」と感慨ふかげであった。/隆介さんの世界がまたひろがっていく、そう思った。

と結ばれているのを、松谷氏と知り合った頃にはいなかった娘が、岡田京子と別れてから昭和40年前後に結婚した女性との間に生れて、それが「いま」昭和53年頃に初潮を迎えたのだろうくらいに考えていたのですが、3年前に再婚した相手の連れ子と云うことを知って初めて、この書き方がすんなり腑に落ちたことでした。これなども、事情を知らない読者は十分理解出来なかったでしょう。いや、そんな読者は何となく分ったつもりになってそれ以上突っ込まないので、別に何の問題にもならない訳ですけれども。(以下続稿)