瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話『紀伊の民話』(28)

 さて、田代の平家の旗竹の話は、松谷みよ子5月6日付(03)に引いた「太郎座」パンフレット以来、何度か書いているのですけれども、これは5月7日付(04)の後半に見たように江戸時代後期の地誌にも見えております。7月15日付(16)に引いたくまの文庫③『熊野中辺路伝説(下)』が、今まで私が見たもののうちでは、最も行き届いた、理解し易い記述となっております。
 この話については、その後、松谷氏が「太郎座」パンフレットと『民話の世界』の間に、1回取り上げていたことに気付きましたが、今回はもう1点気付いた、和歌山県出身在住の研究者のものを取り上げておきましょう。

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 6月25日付(14)に取り上げた、清文堂出版『和歌山の研究』全6巻の編者、安藤精一は、和歌山大学を定年退官して名誉教授になってからも、国書刊行会が刊行したA5判上製本の、似たような論集の編者となっております。
・安藤精一 編『紀州史研究 3 総特集熊野1昭和63年4月20日 印刷・昭和63年5月15日 発行・定価 7,000円・3+246+18頁
・安藤精一 編『紀州史研究 4 総特集熊野Ⅱ平成元年6月10日 印刷・平成元年6月20日 発行・定価 8,932円・3+449頁
『1』は藩政史研究特集、『2』は明治史研究特集、『5』は総特集高野山の全5冊となっております。なお標題は奥付に従ったが、『3』の前付、安藤精一「はしがき」1頁6行めに「 本書は総特集熊野Ⅰとして、‥‥」とあり、続く2頁ある「目 次」の1頁め(頁付なし)3行めに「総特集 熊野Ⅰ」とあって、『4』のやはり2頁ある「目 次」の1頁め(頁付なし)3行めに「総特集 熊野Ⅱ」とあり奥付もローマ数字になっていることと併せて、奥付はローマ数字にし損ねただけのように思えるのだけれども。
 安藤氏の「はしがき」は『和歌山の研究』と同様、収録している論文の概要を紹介して行くスタイルで、『3』3頁7~9行め、

 吉川寿洋氏の「奥熊野の民俗」は本宮町を中心に奥熊野各地の民俗についての報告である。本宮神の足跡について/の伝承、小栗判官と照手姫、火祭り、音無紙等産業に関するものから、平家の落人伝説等多方面にわたって奥熊野の/民俗が語られている。

とある「平家の落人伝説」は、227~246頁、吉川寿洋「奧熊野の民俗」の最後、244頁14行め~246頁2行め「むすび」に、245頁1~2行め「‥‥、まだまた紹介すべきことがらは多いが省略せざるを得ない。だが、どうしても逸することの/出来ないものに、平家や源氏にまつわる落人伝説がある」として、ごく簡単に取り上げてあります。田代に関わる箇所のみ抜いて置きましょう。まづ4~7行め、

‥‥。田代には、昔、田畑が八町あったが、メン牛は絶対飼わない。オン牛を八頭飼った。平/家の旗竹三本を誰かが切った、その時八頭の牛がみんな声をそろえて鳴いた。それ以来田代は衰微したと田代の人々/は語る。平家の布へい竹というのがある。平家の落人の妻が布を織って、布織りに使ったのを捨てたのが生え出した/もの。一年たつと枯れるといわれる。‥‥

と云うのは少々書き方が簡略過ぎるようです。それから「布へい竹」が田代にあるのか、それとも別の何処かなのかが分からない。そして同じ段落の最後、11~13行め、

‥‥。大野は源氏の末裔なので田代とはうまくいかんのだろうなどと、共同で行って/いた施餓鬼が、田代に火事があったことからうまく行かなくなった時にいった。それ以来、田代では一軒一軒まわり/もちで施餓鬼棚をつくってまつるようになった。

と、西隣の大野(上大野)との関係が語られております。
 奥付の前の頁(頁付なし)にある「執筆者一覧(掲載順)」12人の10人めに「吉川寿洋(よしかわ としひろ) 1938年生、国立和歌山工業高等専門学校教授」とありますので、和歌山高専の紀要に寄稿した論文にもう少し詳しく報告したものがありましょうか。或いは稿末、246頁3~9行め「参考文献」として列挙している6点のうち、5~6行め「近畿民俗学会『熊野の民俗』昭和六〇年/和歌山県民話の会『熊野・本宮の民話』昭和五六年」にでも。
 吉川寿洋(1938.1.3生)は和歌山県生れ、広島大学教育学部高等学校教育科国語科の卒業生で、卒業論文は物語文学を主題としておりましたが、和歌山高専に就職してから民俗学に研究課題を移したようで、民俗調査の報告を数多く行っている他、南方熊楠関係の資料を解読して報告したり、松谷氏の「現代民話考」に回答者として報告を寄せたりしております。
 なお、上記のように『4』も念の為借りて見ました。民俗系の論文としては425~449頁、吉川寿洋「口熊野の民俗」の他に、394~424頁、杉中浩一郎「紀藩文人たちの見た熊野の民俗」が、422頁2~3行め「 江戸時代後期または明治初頭に熊野に来た学者文人たちの記録のなかから民俗にかかわるものをいくらか抜き出し/てみた」もので、402頁15行め~404頁8行め「二、木の葉で煙草をのむ」という習俗を例に取ると、404頁6~8行め、

 木の葉で煙草をのむ習俗は、熊野一帯から十津川にかけて行われ、老人、とくに老婆がこれをたしなむ光景が、昭/和五十四、五年ごろまではたまに見られたが、いまはまず見かけることがない。これは刻み煙草が姿を消したせいで/もある。‥‥

と云った按配に、分布やいつまで行われたかについても触れています。(以下続稿)