瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

竹中労の前半生(08)

竹中英太郎の住所①
 昨日取り上げた昭和七年版『現代日本名士録』に、竹中英太郎の住所が「中野町西町一五」とあった。竹中英太郎が中野に住んでいたことは、従来知られていなかった(と思う)、
 そこで、この頃の竹中英太郎の住所を、年鑑類で確認して見ようと思い立ったのである。
朝日新聞社 編『日本美術年鑑第五年版昭和五年十二月五日印刷・昭和五年十二月十日發行・定價金三 圓・東京朝日新聞發行所
 巻末の名簿「現代美術家録」40頁、扉(頁付なし)に「(調 月 十 年 五 和 昭)」とある。22頁5段め(5段組)23~24行め「 竹 中 英 太 郞(挿)三九年福岡生、獨學(本郷千駄木町四七)」と見える。本郷区駒込千駄木町47番地は現在の東京都文京区千駄木1丁目16番の西側と南側。
朝日新聞社 編『日本美術年鑑 一九三二(第六年版)昭和六年十二月廿日印刷・昭和六年十二月卅日發行・定價 金 二 圓・朝日新聞社
 巻末の名簿「現代美術家録」は扉(頁付なし)に「(調 月 十 年 六 和 昭)」とある。4段組になった分だけ頁数が83頁に増えている。46頁3段め3~4行めに「竹中英太郎」はほぼ同じ字配りで変わりなく見えている。
朝日新聞社 編『日本美術年鑑 一九三三年(第七年版)昭和八年一月十五日印刷・昭和八年一月廿五日發行・定價 金 二 圓・朝日新聞社
 巻末の名簿「現代美術家録」は扉(頁付なし)に「(調 月 十 年 七 和 昭)」とある。やはり4段組で83頁、46頁2段め14~15行め「 竹 中 英 太 郞(挿)三九年福岡生、獨學(中野區西町一五)」とある。昨日見た7月刊行の『現代日本名士録』の時点で既に中野に転居していたが、当時はまだ東京府豊多摩郡中野町だった。この10月に東京市に併合されて東京府東京市中野区になったのである。西町と云うのは元来、青梅街道の北側の字(現・中野区中央5丁目)だったのが、その後南側(現・中野区本町6丁目)になっており、この辺りの状況を反映した地図をまだ見ていないので、現在位置については追って確認することにしたい。
・昭和十一年版『美術年鑑』 昭和十一年四月七日印刷・昭和十一年四月十日發行・定價 金 壹 圓・美術年鑑社/帝美社出版部
 巻末の名簿「現代美術家總覽」79頁、扉(頁付なし)に「(調月三年一十和昭)」とある。最後、79頁中・下段「挿畫家之部」に扉に断ってあったように「いろは」順に25人挙がるが、その18番め(下段12~13行め)に「竹中英太郞 探偵物、麴町區永田町一ノ/ 二葵ホテル」とある。但し葵ホテルの所在地は麴町区永田町「一ノ二」1丁目2番地ではなく永田町「二ノ一」2丁目1番地が正しいようだ。ホテル住まいだったのか、それとも住所不定でホテル内の某組織の事務所を連絡先にしていたのか。或いはこの頃満洲に出掛けていたのであろうか。
・昭和十二年版『美術年鑑』 昭和十二年三月廿八日印刷・昭和十二年 四 月 一 日發行*1・定價金壹圓八拾錢・美術年鑑社
 巻末の名簿「現代美術家總覽」94頁、扉(頁付なし)に「(調月二年二十和昭)」とある。最後の1頁、94頁が「挿畫家之部」で扉に断ってあったように「いろは」順に72人、1人1行で中段8行め、30番めに「竹中英太郎 麴町區永田町三葵ホテル」となっている。
・昭和十四年版『雑誌年鑑
 元がマイクロフィルムらしく原態が分かりにくく、表紙・扉や奥付も欠いており、標題も「昭和一四七一五購入」の円印を捺した遊紙にペン書きしたもののようである。しかしこの購入印で大体の時期は分かる。五八五~六五一頁「第十 執筆者・挿繪家名簿」六四八~六五〇頁上・中段3行め「二、挿繪家名簿」六四九頁上段12行め「竹中英太郎 麴町區永田町一ノ二葵ホテル内」とあって、やはり住所が間違っている。
・作品社編輯部 編『昭和十五年版 文藝豆年鑑』昭和十五年三月十一日印刷・昭和十五年三月 十五日發行・定價金五拾五錢・作品社・一二三頁
 2月23日付「赤いマント(358)」に取り上げた昭和十四年版の翌年のもの。三五~一二三頁「昭和十五年度 三千五百人住所錄」八四頁下段7行め「竹中英太郎 麴町區永田町一ノ二葵ホテル」やはり住所が間違っている。
 以上が国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る戦前の年鑑類に見える竹中英太郎の住所である。この後は既に1月8日付「赤いマント(334)」に紹介済みの「立會鐵工所」と云うことになるのだが、実はもう1件、見逃せない情報がある。これについては、これら年鑑の記載内容とともに、別に見当することとしよう。(以下続稿)

*1:印刷発行日の2行は別紙に刷ったものを貼付している。