瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『斎藤隆介全集』月報(21)

 12月24日(17)にて当記事を再開したとき「余計なことを書かずに、本題だけすっきり述べる」と宣言したのに、例によって長くなってしまった。――当ブログは「記事」と称してはいるけれども、基本は読書メモみたいなもので、本題に絡まない事柄でも気になったことはメモして置くことにしているので、いよいよ長くなってしまう。一度、全体をすっきり纏めた形で、世に問いたい気持ちはあるのだけれども。
・「樺太の春」(3)
 11月5日付(13)に引いた昭和十七年版『北海道樺太人名録』によって、斎藤氏が昭和16年(1941)8月には豊原市にいたことは確認していた。
 それ以後のことは「雪 ふれふれ」そして「樺太の春」ともに記述がある。まづ、前者を見て置こう。240頁10~12行め、

 そして十二月八日の朝、突如軍艦マーチが放送されて太平洋戦争が始まった。*1
 私は「危い!」と東京支社へ転勤を願い出て、その代り東京では最初から最後まで空襲にあった。家を/焼かれて秋田へ疎開したのは敗戦一ヵ月前。そのまま秋田で十三年暮してしまった。*2


 9月25日付(02)に引いた『全集』第十一巻「年譜」に拠れば、昭和16年のうちに「帰京」したことになっているのだが、そんなにあっさり異動させてもらえるものだろうか。そして「空襲」の「最初」は昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲で、「最後」は(斎藤氏の家が「年譜」の「一九一七年(大正六年)」条の青山南町七丁目十一番地のままだとすると)昭和20年(1945)5月25日の山の手空襲と云うことになる。しかし9月26日付(03)に引いた「一九四五年(昭和二十年)|二十八歳」条には疎開のことしか書いていないので、空襲罹災の直前直後、どうしていたのかは全く分らない。山本和子とは行を共にしていたのだろうけれども、両親がどうしていたかが全く分らない*3
 後者「樺太の春」では、243頁19行め~244頁4行め、

 こんな暮しが駆*4け足の短い春夏と秋を駆け抜けて、豊原へついて二年目の十二月八日、日米開戦のラジ/【243】オが鳴るまで続いた。
「ここは樺太。いずれソ連とも」
と東京転勤を願い出て、今度は東京の自宅*5から銀座の東京支社へ通うようになった。
 そして敗戦。‥‥


「自宅」との書き振りからも青山南町の実家に戻ったのだろう。しかしどうして北海道の新聞社の記者になり、さらに樺太の支局での勤務を希望したのだろう。色々謎である。
 なお「樺太の春」の最後、244頁6行め「‥‥。三十七年前の、寒い寒い樺太の春の思い出である。」との一文で締め括られているが、「日本児童文学」一九八〇年一月号に発表されているから「39年前」である。執筆(発売)が1979年末で、そこから勘定したのだとしても38年前、――こういった辺りは編集が校正時に手を入れるべきではなかろうか。(以下続稿)

*1:ルビ「とつじよ」。

*2:ルビ「てんきん・くうしゆう/ そ かい」。

*3:年明けにでも触れるつもりだが、父親は戦後10年以上生きていたようだ。しかし母親については全く言及がない(まだ私が見ていないだけかも知れないが)。父(母)は秋田には同行していないようだが、何処に疎開したのだろう。

*4:ルビ「 か 」。

*5:ルビ「 じ たく」。

『斎藤隆介全集』月報(20)

 昨日の続き。――書いてあることを「年譜」と突き合せて確認するだけなら簡単なのだが、そうでないので随分手間取った。北原白秋のことは「サガレン紀行」の何頁何行めにある、で済ませようと思っていたのにまづ「サガレン紀行」と云う題でなく、かつ「樺太護国神社」でもなく「五月」でもない。
 いや、こんなのは大した間違いではない。40年程後に記憶に頼って書いたらこんなものだろう。問題は、斎藤氏本人の経歴で互いに齟齬するような記述が少なくないことで、かつ、どうも本人がわざとズラして書いているのじゃなかろうか、と思われる節のあることなのである。それで、斎藤氏についてはそもそものところが、ちょっと、確認して見るだけのつもりだったのが、8月23日付「日本の民話『紀伊の民話』(26)」以来当ブログの主題のようになってしまって、そのせいで何度も滞りつつ、とにかく長いことになってしまった。
・「樺太の春」(2)
 神社山を登りながらの回想、と云う設定になっている242頁13行め~243頁16行めの後半、243頁5行め以下を見て置こう。

 家の造りは内地と全く変らず、ただ変っている所と言えばガラス窓の内側に障子窓がもう一重入ってい/る所だけだった。*1
 それでもダルマ・ストーブを焚くと浴衣で障子窓を明け放して、外の舞い狂う吹雪を眺めながら晩酌が/出来た。*2
 一匹買って来た鮭を、裏の石炭小屋のわきの立木の枝を鉈で切って、えらをひっかけておくと一夜でカ/チンカチンに凍った。家内がその身を薄く削いで作った「ルイベ」は腸にしみて晩酌の腕が一段と上った。*3
 そうそう。その酒だが、とんだ失敗をやらかした事がある。夜中に、台所で、突然バン! という爆音/がしたので飛んでってみたらウッカリ蔵い忘れた一升瓶が割れていた。*4
 考えてみたが零下二十度にまでさがって中の酒が凍り、膨張して瓶を割ったのだ。*5
 酒の氷の塊りを、未練たらしくチュッチュッと吸ってみたが全然水っぽくて嚙りも呑みも出来たもので/はなかった――。*6
 酒の肴には女房から三味線のケイコをつけてもらって、今では夜中まで独りでケイコをして……。*7

とあって、これは9月25日付(02)に引いた『全集』第十一巻「年譜」の「一九四〇年(昭和十五年)|二十三歳」条、「北海道新聞樺太支局へ転勤。この前後から、「女人芸術」同人山本和子と暮らす。」との記載に対応している訳だけれども、この樺太で突如として「家内」或いは「女房」が登場するのが、11月10日付(14)に見た、神沢利子に語った「若く美しい未亡人」と同様、一体どのような経緯なのか、説明が付かないので何とも落ち着かないのである。しかし「年譜」に随分曖昧な書き振りだが「この前後から」とあるのだから、この「ルイベ」を作った「家内」そして三味線の稽古を付けた「女房」は、山本和子で間違いないのであろう。
 なお「雪 ふれふれ」の方では、樺太での暮し振りについては240頁5~9行め、

 樺太の吹雪はすごかった。十字路を突っ切る時には手袋の両手で顔をおさえないと、針の束で顔を突つか/れるように痛かった。雪はしまいに足もとからも吹き上げた。部屋の中でダルマストーブを飴色になるま/で焚きあげても、背中にチロチロ水を注がれているように寒かった。*8
 そういう中で「内地」から来た日本人は、ふつうの日本家屋に住んでいた。私には樺太も「内地」だっ/た。ガッカリした。*9

とあって、同居人のことを書いていないことはともかくとして、室内の寒さについて「樺太の春」とは書き振りが違う。――「樺太の春」はこの辺り、晩酌の話にして書いたので、やや明るいニュアンスになっているのであろうか。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 書き方が正確でない、と云うことでは、241頁11行め、スキー板について「‥‥、支局長が都合して来てくれた女子高校生のスピード競技用の細く長い奴で、‥‥*10」とあるのは、当時はまだ高等女学校なので「女学生」のはずなのだが、執筆時の制度に当て嵌めて書いている訳である。それから242頁1行め、直滑降する直前に自分を鼓舞するため「かくては時がたちすぎる。隆介さんいきましょ」と独語するのだが、当時「隆介」と称していたかどうか。また242頁18行め「北海道新聞小樽支社」は、11月4日付(12)に指摘したようにまだ「北海タイムス社」で、かつ「小樽支局」のはずである。(以下続稿)

*1:ルビ「つく・しようじ まど/」。

*2:ルビ「ゆ か た・ ま ・くる・ ふ ぶき・ばんしやく」。

*3:ルビ「さけ・なた/ か ない・ そ ・うで」。

*4:ルビ「しつぱい・ばくおん/しま・いつしようびん」。

*5:ルビ「ぼうちよう」。」

*6:ルビ「かたま・ み れん・ す ・かじ・ の /」。

*7:ルビ「さかな・にようぼう・しや み せん・ひと」。

*8:ルビ「 ふ ぶき・ てぶくろ・はり・たば/いた・あめいろ/ た 」。

*9:ルビ「ない ち 」。

*10:ルビ「やつ」。