昨日の続き。――書いてあることを「年譜」と突き合せて確認するだけなら簡単なのだが、そうでないので随分手間取った。北原白秋のことは「サガレン紀行」の何頁何行めにある、で済ませようと思っていたのにまづ「サガレン紀行」と云う題でなく、かつ「樺太護国神社」でもなく「五月」でもない。
いや、こんなのは大した間違いではない。40年程後に記憶に頼って書いたらこんなものだろう。問題は、斎藤氏本人の経歴で互いに齟齬するような記述が少なくないことで、かつ、どうも本人がわざとズラして書いているのじゃなかろうか、と思われる節のあることなのである。それで、斎藤氏についてはそもそものところが、ちょっと、確認して見るだけのつもりだったのが、8月23日付「日本の民話『紀伊の民話』(26)」以来当ブログの主題のようになってしまって、そのせいで何度も滞りつつ、とにかく長いことになってしまった。
・「樺太の春」(2)
神社山を登りながらの回想、と云う設定になっている242頁13行め~243頁16行めの後半、243頁5行め以下を見て置こう。
家の造りは内地と全く変らず、ただ変っている所と言えばガラス窓の内側に障子窓がもう一重入ってい/る所だけだった。*1
それでもダルマ・ストーブを焚くと浴衣で障子窓を明け放して、外の舞い狂う吹雪を眺めながら晩酌が/出来た。*2
一匹買って来た鮭を、裏の石炭小屋のわきの立木の枝を鉈で切って、えらをひっかけておくと一夜でカ/チンカチンに凍った。家内がその身を薄く削いで作った「ルイベ」は腸にしみて晩酌の腕が一段と上った。*3
そうそう。その酒だが、とんだ失敗をやらかした事がある。夜中に、台所で、突然バン! という爆音/がしたので飛んでってみたらウッカリ蔵い忘れた一升瓶が割れていた。*4
考えてみたが零下二十度にまでさがって中の酒が凍り、膨張して瓶を割ったのだ。*5
酒の氷の塊りを、未練たらしくチュッチュッと吸ってみたが全然水っぽくて嚙りも呑みも出来たもので/はなかった――。*6
酒の肴には女房から三味線のケイコをつけてもらって、今では夜中まで独りでケイコをして……。*7
とあって、これは9月25日付(02)に引いた『全集』第十一巻「年譜」の「一九四〇年(昭和十五年)|二十三歳」条、「北海道新聞樺太支局へ転勤。この前後から、「女人芸術」同人山本和子と暮らす。」との記載に対応している訳だけれども、この樺太で突如として「家内」或いは「女房」が登場するのが、11月10日付(14)に見た、神沢利子に語った「若く美しい未亡人」と同様、一体どのような経緯なのか、説明が付かないので何とも落ち着かないのである。しかし「年譜」に随分曖昧な書き振りだが「この前後から」とあるのだから、この「ルイベ」を作った「家内」そして三味線の稽古を付けた「女房」は、山本和子で間違いないのであろう。
なお「雪コ ふれふれ」の方では、樺太での暮し振りについては240頁5~9行め、
樺太の吹雪はすごかった。十字路を突っ切る時には手袋の両手で顔をおさえないと、針の束で顔を突つか/れるように痛かった。雪はしまいに足もとからも吹き上げた。部屋の中でダルマストーブを飴色になるま/で焚きあげても、背中にチロチロ水を注がれているように寒かった。*8
そういう中で「内地」から来た日本人は、ふつうの日本家屋に住んでいた。私には樺太も「内地」だっ/た。ガッカリした。*9
とあって、同居人のことを書いていないことはともかくとして、室内の寒さについて「樺太の春」とは書き振りが違う。――「樺太の春」はこの辺り、晩酌の話にして書いたので、やや明るいニュアンスになっているのであろうか。
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書き方が正確でない、と云うことでは、241頁11行め、スキー板について「‥‥、支局長が都合して来てくれた女子高校生のスピード競技用の細く長い奴で、‥‥*10」とあるのは、当時はまだ高等女学校なので「女学生」のはずなのだが、執筆時の制度に当て嵌めて書いている訳である。それから242頁1行め、直滑降する直前に自分を鼓舞するため「かくては時がたちすぎる。隆介さんいきましょ」と独語するのだが、当時「隆介」と称していたかどうか。また242頁18行め「北海道新聞小樽支社」は、11月4日付(12)に指摘したようにまだ「北海タイムス社」で、かつ「小樽支局」のはずである。(以下続稿)