12月24日(17)にて当記事を再開したとき「余計なことを書かずに、本題だけすっきり述べる」と宣言したのに、例によって長くなってしまった。――当ブログは「記事」と称してはいるけれども、基本は読書メモみたいなもので、本題に絡まない事柄でも気になったことはメモして置くことにしているので、いよいよ長くなってしまう。一度、全体をすっきり纏めた形で、世に問いたい気持ちはあるのだけれども。
・「樺太の春」(3)
11月5日付(13)に引いた昭和十七年版『北海道樺太人名録』によって、斎藤氏が昭和16年(1941)8月には豊原市にいたことは確認していた。
それ以後のことは「雪コ ふれふれ」そして「樺太の春」ともに記述がある。まづ、前者を見て置こう。240頁10~12行め、
そして十二月八日の朝、突如軍艦マーチが放送されて太平洋戦争が始まった。*1
私は「危い!」と東京支社へ転勤を願い出て、その代り東京では最初から最後まで空襲にあった。家を/焼かれて秋田へ疎開したのは敗戦一ヵ月前。そのまま秋田で十三年暮してしまった。*2
9月25日付(02)に引いた『全集』第十一巻「年譜」に拠れば、昭和16年のうちに「帰京」したことになっているのだが、そんなにあっさり異動させてもらえるものだろうか。そして「空襲」の「最初」は昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲で、「最後」は(斎藤氏の家が「年譜」の「一九一七年(大正六年)」条の青山南町七丁目十一番地のままだとすると)昭和20年(1945)5月25日の山の手空襲と云うことになる。しかし9月26日付(03)に引いた「一九四五年(昭和二十年)|二十八歳」条には疎開のことしか書いていないので、空襲罹災の直前直後、どうしていたのかは全く分らない。山本和子とは行を共にしていたのだろうけれども、両親がどうしていたかが全く分らない*3。
後者「樺太の春」では、243頁19行め~244頁4行め、
こんな暮しが駆*4け足の短い春夏と秋を駆け抜けて、豊原へついて二年目の十二月八日、日米開戦のラジ/【243】オが鳴るまで続いた。
「ここは樺太。いずれソ連とも」
と東京転勤を願い出て、今度は東京の自宅*5から銀座の東京支社へ通うようになった。
そして敗戦。‥‥
「自宅」との書き振りからも青山南町の実家に戻ったのだろう。しかしどうして北海道の新聞社の記者になり、さらに樺太の支局での勤務を希望したのだろう。色々謎である。
なお「樺太の春」の最後、244頁6行め「‥‥。三十七年前の、寒い寒い樺太の春の思い出である。」との一文で締め括られているが、「日本児童文学」一九八〇年一月号に発表されているから「39年前」である。執筆(発売)が1979年末で、そこから勘定したのだとしても38年前、――こういった辺りは編集が校正時に手を入れるべきではなかろうか。(以下続稿)