瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本ペン習字研究会『NPK現代ボールペン習字講座』(1)

 世間では昨日からゴールデンウィークと云っていたようだが、私は今日からが連休で、谷間の平日は出勤なのだが、今日の初日は実家に呼ばれて実家に残している瓦樂多をまとめるように言い付かって、一日肉体労働に従事する羽目になった。
 それと云うのも、物を棄てられない性分で、だから図書館派なのである。買うと棄てられなくなるから、借りて、返す。何でこんなに物を棄てないのだろうと云うことを考えたときに、或いはその理由であろうと思い当たったのは、物しか私がその場所にいたことを証明するものがないのである。父の転勤に従って3年か4年ごとに転居を繰り返して来たから、後でその場所に戻ることは難しく、友と思い出を語り合うことも出来ない。物がなくなったら誰も私がその場にいたことを証明出来なくなってしまうのである。忘れられたら、いないのと同じことになる。だから私は小さい頃から妙な、変に目立つ子供だった。それが小学校の高学年から中学校に掛けて色々あって、人に構われることを嫌う、しかし何だか目立つ少年になった。
 途中で集合住宅の社宅暮らしでも挟まれば、それまでの物を処分出来たろうが、1度だけ住んだ社宅が、物凄く広い家だったので、いよいよ物が溜まってしまったのである。――昭和30年頃に官僚の天下りを社長として受け入れるために用意したと云う豪邸なのだけれども、建物は昭和11年(1936)頃の航空写真にも写っているので、私らの入居した頃には築50年は経っていた。だから、凄い家だったけれども経年劣化が甚だしく、そのため空いていて、希望すれば誰でも入居出来たのである。2階の両親の寝室(もちろん和室)は、台風が来ると雨漏りがした。バケツや盥を一列に並べて受けたのである。窓は木枠で、両親の寝室の窓は硝子と枠の間に隙間が出来ていた。クーラーはない。私の部屋は2階の北西角で、殆ど倉庫のような、半分が作りつけの棚になっている4畳くらいの板の間を勉強部屋にして、その南の2段ベッドの片割れ*1と下着などが仕舞ってある箪笥とファンシーケースで一杯になってしまう2畳くらいの板の間を寝室にしていた。両方とも西窓で夏は40度を越えた。けれども20代だったから平気だった*2。私ら一家の前には課長が住んでいたらしい。井戸があった。女中部屋があった*3。畳の間だけで30畳半あった。それから洋間が20畳くらいあったのである。
 父が退職したときに当然のことながら退去したのだが、管財課でも持て余していて、とてもでないが今の状態のまま次の入居者を入れる訳にも行かないし、取り壊して新たな社宅を建てるには場所が良すぎる。独身寮を建てるような場所ではないのである。それで、内々に格安で父に払い下げる話があった。それで見積もりをしてもらったのだが、木々の生い茂った庭を潰して、半分自宅で半分賃貸にしないと、とてもそんな都内の高級――と云っても良いと思うが、まぁ準高級住宅地の土地を若干割安でも買い取って家を新築することなど、資産のない私の家には無理だったのである。もちろん退職金が頭金になって、さらに何年ものローン払いもある。しかし、兄は既に家を出て戻って来る予定はなく、私は大学院生で、将来そんなに儲かる仕事に就く見込みがなかった。かつ、庭木を伐採するのも忍びない。父はかなり乗り気だったようだが、結局買い取る話は断って、会社は余所に売却した。購入希望者が見に来て、庭木の鬱蒼とした様を見て、少しは残したい、みたいなことを言っていたのだが、数年後、通りかかったら一本も残っていなかった。敷地は全てコンクリートで固められて、草一本生える余地も残っていなかった。
 結局、父は郊外に終の棲家を退職金で建てて、広くはなかったがそのまま物が納まったから、やはり棄てないままだったのである。
 それはともかく、実家を出たときに、差当り要る物だけ運んで、差当り要らない物はそのまま残して行ったのだが、両親は元気で、定年後の活動が進展するにつれて、次第次第に私の遺物が邪魔になり始めたのである。――十分な時間を確保して、整理したいと思っているのである。差当り5年くらい働かなくても生きていられるだけの蓄えはあるが、そんなに社会から離脱していては既に不適合気味なのに復帰出来なくなろうから、思い切れないのである。だから、癌の告知と云うのは重要だと思う。余りにも纏めの付いていないことが多い。目安が分かっていれば、短い場合は重要なものだけ選り分けて整理して、本にしよう。見ていられないものは直ちに処分する。長ければ、一通り目を通した上で、全て処分する。その通りに死なないかも知れないが、頓死の悔いは残らない。
 それはともかく、両親が要介護にならずに元気でいてくれることは誠に喜ばしいことなので、いづれ整理・処分しないといけない物なのだし、息子として両親の活動域を保証する義務がある。それで今日、実家にて棚に残したままになっていた書類を取り敢えず箱に詰めて、いづれ本格的に整理しないといけないのだが、差当り裏の物置に運んだりした。そして若干処分したのだが、その中に、何となく残していた、兄の『現代ボールペン習字講座』のテキストがあったのである。(以下続稿)

*1:2016年5月25日付「昭和50年代前半の記憶(2)」及び2017年3月22日付「Alfred Schnittke “Adagio”(1)」に触れた。

*2:と書いたが、8年住んだうちの後半は、夏は1階の8畳か女中部屋で寝ていた。

*3:女中はいない。