瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『斎藤隆介全集』月報(24)

・『滝平二郎作品集』(3)
 それでは昨日の続きで『滝平二郎の世界』から抜粋転載した「ふるさと対談」の1節め「■出会い」の冒頭部、秋田での出会いについて語り合った部分を抜いて置こう。『滝平二郎の世界』108頁上段2~21行め、『滝平二郎作品集13』108頁上段2~22行め、以下、前者の改行位置を「/」、後者のそれを「|」で示す。

 斎藤 ぼくとあんたの最初の出会いは、いつでし|た/かね。
 滝平 一九五一年ですよ。花岡事件の連作版画を|新/居広治*1、牧大介らと合作のため、秋田滞在中に知|り合/ったわけだ。
 斎藤 そうだ、そうだ。花岡事件といって、中国|の/捕虜を日本の秋田の花岡鉱山に引っぱってきて、|非常/に非人道的な扱いで強制労働させたわけです。|そして、/捕虜が敗戦直前に暴動を起こしたわけです|よ。で、そ/れを全部虐殺して埋めちゃった。敗戦後、|中国から調/査団がきましてね。大々的にこれは取り|上げなければ/いけないということになって、われわ|れ秋田の文化人/もそれをやろうということになった。
 ぼくはちょうど秋田でもって、文化運動を先登ん*2|な/ってやっていたもんですから、そこへ東京の面々|がき/てくれて、そのときに滝平さんも来られた。そ|ちらの/ほうの調査に行って作品にする前に、秋田で|やっても/らったのは、一番簡単な版画の講習ですね。|リノリウ/ムを削った傘の骨で彫っても簡単に手作り|の版画がで/きるというようなことをやってくれたわ|けですよ。


 版画の講習をした、と云うのはこれまで見た資料には見えないところである。
 続く1段落(108頁上段22行め~下段3行め)が『13』では省略されている。

 そういうことのお世話をしたのが最初です。そのと/きには、あんまり深い話はできなかったんですけども、/秋田の文化人を集めてみんなで話をしたりなんかした/ときに、いま共産党の代議士になっている中川利三郎/さんや「コスモス」の詩人の押切順三とか国鉄の詩人/【108上】の藤田励治とか、そういった人たちが参加してくれま/して、滝平さんも東京からきてくれた人として、出て/もらったわけです。


 押切順三(1918~1999)と藤田励治(1924生)の名も、これまでに見た資料にはなかった。余り知られていない「秋田の文化人」であることから省いたのであろう。
 108頁下段4行め~113頁上段11行めは、ほぼそのまま『13』108頁上段23行め~中段27行めに出ている。

 それが最初の出会いということです。これが五一|年/ということになると、いまから二十四年前ですか。
 そのあとは、ぼくは秋田にいたし、滝平さんは東|京/でしょ。ぼくはおやじが死んで昭和三三年に東京|へ帰/ってきて、新制作座という劇団の演出をやって|まして/ね。その新制作座の文芸部にいた男の奥さん|が教育研/究所に勤めていて、その教育研究所から日|教組の機関/紙の「教育新聞」に連載をしないかとい|う話がありま/して、民話をぜひやりたいというので|す。当時、「民族/遺産の継承」なんてことで、民話ブ|【『13』108上】ームが起こってい/たときですから、やれ*3という|ことになって……。
 滝平 おそらくそれは、一九六二年の後半からで|す/よ。ぼくは六三年の一月から始めた。
 斎藤 初めは教員でやるというんでやったんだけ|れ/ども、いかにもひどい絵なんですよ。これはひど|い、/誰かいないかということになって、それではと|いうの/で滝平さんに頼んだんです。
 滝平 それの第一回目にやったのが『八郎』です。
 斎藤 『八郎』はすでに昭和二五年に書いて、二七/|年に「人民文学」に転載になって、その絵もひどい|絵/で、それが載ったんですよ。それがあったんで、|「教育/新聞」で始めるときも滝平さんに描いてもら|ったわけ/ですよ。そのときの『八郎』の絵が短編集|『ベロ出し/チョンマ』の中に載っている絵でしたね。|ほかのも。【108下】
 滝平 うん、そのまま使った。
 斎藤 だから、それ以後のおつき合いです、仕事|の/上では。
 滝平 秋田へ行ったのはぼくがちょうど三十のと|き/です。もちろん、独身ですがね。ぼくはあの頃、生計/は全く考えず。当時は田舎でおやじ、兄貴のスネかじ/りですよ。東京へまだ出てきてないですから。でも、/日本美術会に入っていたし版画運動協会のぼくは事務/局をやってたから、しょっ中東京へ出てきて、友だちの/ところを泊り歩き、食い歩き……ね。流浪の民、ルン/ペンだな。


 続いて再度、中川利三郎の名が持ち出され、やはり『13』では省かれている。113頁上段12~20行め、

 斎藤 初めの頃はそれほど親しくもなかったな。ま/ず時間がないし……。
 滝平 ただ、中川さんのところに一緒に泊ったこと/があるでしょ。寒い晩でしたが。
 斎藤 ああ。あのときは飲みましたね。
 滝平 飲みましたかねえ。ぼくはねえ、はじめ斎藤/さんて得体が知れない感じだったなあ。だけど、斎藤/さんがさかんにゴーリキーの話してんのを妙におぼえ/てるな。


 この辺りは、2024年10月1日付(08)に、『斎藤隆介全集』月報から岩田愛子との対談「優しさを生き抜く斎藤隆介の世界」〔三12〕を抜き、そこから中川利三郎「斎藤隆介さん」〔七6〕からも関係する記述を抜いて置いた。中川氏の寄稿には、「赤旗」の連載「道、ひとつの出会い」の、1979年11月25日号に掲載された斎藤隆介滝平二郎さんと中川利三郎さん」が引用されているが、この4年後の文章に述べるところは、ここで喋っていることと少々喰い違うようである。ここの発言だと、泊まる場所が見付からなくて中川氏の家に連れて行った、と云う感じではない。
 113頁上段21行め・『13』108頁中段28行めからは話は秋田から離れるので割愛、冒頭部だけ抜いて置こう。

 斎藤 結局、五一年から六三年の十二年くらいの|ブ/ランクがあって、新聞での出会いが始まったわけ|です/ね。毎月五年間連載して、‥‥


 さて、ここまでで最も注目すべき点は、秋田から帰京した理由を「おやじが死んで昭和三三年に東京へ帰ってきて」と説明していることである。
 斎藤氏の両親については『斎藤隆介全集11』の「年譜」の、生誕のところに名が見えるだけで、父親の職業も分からないし、両親の歿年月日などの記載もない。ここで初めて父親は昭和33年(1958)歿らしいと分る。のだけれども、2024年8月23日付「日本の民話『紀伊の民話』(26)」に引いた、昭和32年(1957)4月15日刊行の「太郎座」第一号に「この機関紙の編集が終った時、秋田から東京へ斎藤隆介先生がでてこられた。‥‥」とあって、実際には、その前年には秋田を引き払って東京に戻って来ているらしいのである。この点は、斎藤氏と行動を共にしたらしい人物について、近々掘り下げて見るついでに、改めて考えてみたいと思っている。(以下続稿)

*1:ルビ「 に / い ひろはる」。

*2:『13』108頁上段15行め「先頭に」。

*3:『13』108頁中段1行め「やれやれ」。