瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

塩嘗地蔵(029)

 佐藤和彦・錦昭江 編『図説|鎌倉歴史散歩(ふくろうの本)』(一九九三年三月二五日初版発行・二〇〇〇年三月一五日新装版初版発行・定価1600円・河出書房新社・131頁)。縦書き。河出書房新社のA5変型判「ふくろうの本」は7月3日付(06)に『図説|鎌倉伝説散歩(ふくろうの本)』を紹介した。

図説 鎌倉歴史散歩 (ふくろうの本)

図説 鎌倉歴史散歩 (ふくろうの本)

 奥付によると「●本文執筆」は石井喬・伊藤玄二郎・佐藤和彦・錦昭江・樋口州男。他に「●巻頭エッセイ」永井路子、「●図版協力・図版キャプション執筆」河野真知郎で、石井氏・錦氏・樋口氏は高校教諭で、石井氏は一昨日来記事にしている『神奈川歴史散歩50コース』の執筆者(編集委員)。伊藤氏はかまくら春秋社主宰で112〜123頁「鎌倉ゆかりの文人たち」を担当、佐藤氏と河野氏は大学教授。河野氏の担当は「発掘に関わる図版キャプション」。
 執筆陣の面々からも察せられるように、発掘調査の成果を盛り込みながら、日本史の専門家が仏像や社寺建築の他、古絵図や絵巻・浮世絵なども活用して鎌倉の文化や歴史を述べたもの。
 まず2〜3頁に永井氏のエッセイ「歴史のまち、鎌倉」、次に4〜5頁(頁付なし)「目次」。6〜7頁(頁付なし)は鎌倉の地図(恐らく鎌倉市の都市計画図を使用)、8〜15頁は「鎌倉幕府権力の成立・発展・衰退・崩壊のプロセスを四季にたとえ」(16頁)た鎌倉時代史概説「四季鎌倉」(本文担当=佐藤和彦)で、春夏秋冬がそれぞれ見開きに、右に3段組の本文、左は四季それぞれの写真で構成されている。16頁は上段に編者「鎌倉の歴史散歩――鎌倉を再発見するために」として編集上の工夫について述べ、下段は「●図版提供協力者一覧」の寺社等と「●イラストレーション」担当者2名。17頁(頁付なし)が中扉「中世都市を歩く」で、以下6つの地域(章)に区分し、それぞれ3つの節に分けて「鎌倉武士の暮らし」や「鎮魂の鎌倉」「庶民の信仰」「辻々の暮らし」など合計6章18節にまとめられている。目次と地図もそれなりに工夫されている。
 なお、128頁の「●参考文献」には本だけでなく論文も挙がっているが、一番新しいのは「一九九二」年。そして同じ頁の編者「あとがき」も「一九九三年一月二一日」付、131〜129頁「索引」には所在地や電話番号に拝観・交通などの説明があるが、末尾(129頁右下)に「注 データは1992年末現在のものです」とある。こういう情報を改訂していないところからすると、他の部分にも手が加わっていないものと思うのだが、初版は未見。
 光触寺は59〜85頁「④ 布教と民衆」(本文担当=樋口州男)の「[一]庶民の信仰」(60〜62頁)の本文の中程、61頁左下に「光触寺の頬焼阿弥陀*1」として見え、60頁上にカラーで『頬焼阿弥陀縁起絵巻*2』の「万蔵法師*3」の「頬に火印を捺される」場面が、また61頁(白黒)右上に「光触寺・阿弥陀如来*4」」三尊の写真が掲載されている。
 塩嘗地蔵は、何故か別の名称で見えている。すなわち86〜105頁「⑥ 反逆の地」(本文担当=佐藤和彦)の「[一]鎌倉の外港」(87〜93頁)は六浦や金沢(現、横浜市金沢区)について述べた節だが、90〜91頁に次のように見える。

 六浦は製塩地でもあったから、塩も他の商品と一緒に鎌倉へと運ばれていった。六浦道(金沢街道)のほとりにあった石地蔵(通称塩飽【以上90頁】地蔵)に、六浦の塩売りたちが初穂料(神仏へ奉納する金銭など)をあげたという。この地蔵は、現在、十二所字宇佐小路にある光触寺境内の地蔵堂に安置されている。*5


 「塩飽地蔵」は他では見た記憶がない。或いはどこかにこう書いているのがあるのかも知れないが、私がここまでに挙げた最近のガイドブックはともかく、江戸時代の地誌にも「塩嘗地蔵」としか出てないのだから、奇怪としか言いようがない。かつ、塩を「初穂」として供えたので、「初穂料」では金銭のことになってモノが違ってしまう。あまりよく調べずに勝手に変に合理化してまとめてしまったのだろうが、それにしても、である。
 という訳で、もうそろそろ江戸時代の地誌や、最近のものでも行き届いた記述をしているものを紹介すべきかと考えている。

*1:ルビ「こうそくじ・ほほやけあみだ」。

*2:ルビ「ほほやけあみだえんぎ」。

*3:キャプションではこうなっているが、61頁下段の本文は「万歳法師(ルビまんざいほつし)」となっている。

*4:ルビ「こうそくじ・あみだにょらい」。

*5:ルビ「しおあく・はつほりよう・じゆうにそあざ・こうそくじ」。