瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(3)

 7月24日付(1)でも触れた本字の問題ですが、これは著者というより編集者がフォローすべきだと私は思っています。もちろん著者がその辺りがあやふやでは確かに困るのですが、しかしある程度慣れた人であってもどこかしら妙な癖が付いて可笑しな風に読んでしまうことは、避けられません。駒村氏を特に問題にしたいのではありません、先にも実例を挙げたように、大学の教員をやっている連中だって随分怪しいのですから。新字体しか教わっていない世代だという前提で、版元の方が態勢を整えて置くべきでしょう。そして出版前にこのようなミスを潰して置いてもらいたいものです。そこで思うのですが、昨今の「院生>研究職」という構図の中、博士号を取っても研究職に就いていない人間はたくさんいるでしょうから、その中でこういう文献の読解に習熟した連中を雇ったら良いのではないでしょうか。私も今の職を失って、いよいよ何もなくなったら名乗り出てでもやりたい。もちろん、一応食い繋げてこんなブログを書く暇もある職があるので今は名乗り出ませんが。ただ、著者や編集者が必ずしも話が通じる相手ばかりとは限りませんし、指摘しても無視されたり指摘が誤解されたりしたらストレスが溜まるだろうな、とは思うのです。
 というのは、先輩で大手出版社の校閲部に勤めている人がいて、別に親しい人でもなく1度だけ話を聞く機会があっただけなのですが、――読者から小説の言い回しの変なところを指摘した手紙が届く。チェックをして確かに読者の指摘の通りなので担当編集者に回す。ところが、担当編集者は作家に伝えず、握り潰してしまう。怒らせてしまうのを避けるためだ。そしてしばらく後、読者は増刷しても改められていないのを店頭で目にすることになる。そこで再度、なぜあんな明らかな誤用を放置するのか、と詰問した手紙が校閲部に回ってくる。そこで初めて編集者に無視されたことに気付くのだが、編集部の方が校閲部よりも強いので、しつこく同じことを言う訳にも行かない。また無視されたら虚しいし、どうせ無視されると分かっていてやるのも。校閲部なんてのは、作家の御機嫌を取って誤用を放置する編集と読者との板挟みだ、というようなことを話してくれました。
 誤用の指摘などは、むしろ感謝すべきことではないか。それを「怒る」というのは盗人猛々しいと言うべきで、どうも良く分からなかったのですが、その後私も学界内の類似の例を見もし、聞きもして、無理が通れば道理が引っ込むとはこのことか、と思ったものです。尤も、そういう場面に接するような仕事であっても、常にそんなことばかりではない、こちらの指摘を快く聞き入れてくれる編集者や著者もいるでしょうし、安定した給与と老後が保障されれば我慢出来るか。いや、どうだか……*1。って、別にそういう職を探した経験もないのに妄想してしまったこともありました。
 が、今はブログがあるのですから、そこで表明すれば良いと思った訳です。それが増刷時に参考にされて修正されるなら喜ばしいことですし、されないとして、読者に読み進める上で注意すべき箇所が存することを示して置くことは、決して意味のないことではないでしょう。どんな本にも誤りはあるもので、しかしどうも大抵の読者はあまり気付かずに(気にせずに)読み流してしまうらしい*2ので、気付いた者として、解釈の相違ではなくてたぶん誰が読んでも分かってもらえそうな点については、指摘して置こうと思うのです。
 本書の中でも第12章「物語は連鎖する」に、小野氏の捏造した「物語」が野口氏や池内氏により無批判に踏襲され、踏襲した人々がまたそれぞれにイメージを増幅させて、あらぬ「物語」を「増殖」させて行く様が指摘されていました。藤牧氏を直接知っているはずの新版画同人の清水氏までもが「藤牧義夫の悲壮伝」に感極まってしまった、なんてことまで紹介されています。批判的な読み手が少なく、無批判かつ勝手に想像を+α膨らませる人が少なくないのなら、たとえ瑣事であっても気付いた人がその芽を摘んで、妙な具合に発展させられて行く可能性を少しでも潰して置くよりないでしょう。それでも迂闊な読者による誤読は生じ続けるでしょうけど……単純なところで入力ミス、誤読、誤記、誤字。それから妙な言い回し。こうしたものも馬鹿にはなりません、第一、校正で見落とされたのですから、間違いなのに変な具合に意味が通っていたりして、さらなる奇怪な展開*3を見せないとも限りません。より重要なポイントとしては、事実と齟齬するような箇所。――瑕瑾がそのままになっているより、なくなっているか正誤表などのアナウンスがあった方が良いでしょう。人として先入観など思い込みや魯魚の誤りのような単純ミスが避けられない以上、こうした声を出し合うことによって少しずつ誤りを少なくして行くしか、ないと思うのです。私は、本にはこうした誤りが本当に少なくないにもかかわらず、こうした指摘が従来多くないのを、疑問に思っている者です。
 人は誰でも間違いを犯します。誰だって間違うんだから目くじら立てずに黙って置こう、というのではなく、間違うんだから気付いたら目くじら立てずに直すようにしよう、と思う訳です。

*1:他の人からも、校閲にまつわる実例をいくつか聞いている。

*2:書評がこういうことにあまり触れないのは、他に触れないといけないことがあるからですが、それにしてもこういう反応は少ないのは、やはりあまり気にしていないからでしょうか?

*3:誤読の連鎖など。伝言ゲームみたいな。