瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(137)

大野晋『日本語と私』
 自伝『日本語と私』に赤マントの記述がありそうだと思って当たって見たのですが、それは案外あっさり見つかりました。そこで、単行本も見て置きました。初出誌はまだ見ておりません。
・単行本(一九九九年十二月十日第一刷発行・定価1400円・朝日新聞社・285頁・四六判上製本

日本語と私

日本語と私

 文庫版の書影は4月7日付「大野晋の新潮文庫(1)」に貼付しました。
 単行本57〜124頁・文庫版63〜135頁「II 「多力」の友と」は第一高等学校時代の回想で12の節に分かれていますが、その最後、単行本119〜124頁・文庫版130〜135頁「「遊び」の花園」は次のような書き出しになっています。「/」は単行本の、「|」は文庫版の改行箇所。

 当時の高等学校は花園にたとえられる。かぐわしい花々の香を求めてその中を若者|が/迷い歩いていた。
 今は三・三に区切られている少年期の学校がその頃は中学五年と一括されていた。|今/は青年期の学校である四年制の大学が、当時は六年と長かった。その前半三年が高|等学/校だった。中学校も実業学校も専門学校も卒業すれば就職し、社会生活に組み込|まれる/学校だった。しかし高等学校は卒業してもそのままでは社会に通用しなかった。|それで/も大学の入試は苛酷ではなかったから、高等学校とは、外国語だけ習えばいい、|思い思/いのお遊びの期間だったといえよう。*1
 今の大学生より一年早く(中学四年修了で合格すれば二年早く)高校生になれた。|す/ると、一切が大人扱い。酒も煙草も黙認された。自由と同時に個人の独立と責任と|が課/されて、知と芸術の花園に放り出された。若者はみな自分の脚で楽園を歩きまわ|【文庫版130頁】る。(青/【単行本119頁】年期のはじめに遊びの期間を設定する制度は賢明であると思う)*2

 そんな高等学校時代を総括した節ですが、その中に赤マントの記述がありました。単行本123頁2〜6行め・文庫版134頁8〜12行めの段落。

 授業を欠席して何をしていたのか。寮で寝ころんで文庫本を読む。映画を見に行く。/|「カリガリ博士」「望郷」「制服の処女」「自由を我等に」。酒は飲めないのに友だちの|後に/ついて渋谷の百軒店に行く。片眼・片脚の赤マントを着た怪人が女の生き血を吸|うとい/う噂に、酒場の女の子が怯えていた。数人で護衛して夜中にアパートまで送る。|途中で/支那ソバ屋で食べる、などなど。*3


 渋谷の酒場に出掛けているのは、第一高等学校は昭和10年(1935)に本郷區向ヶ丘弥生町から東京帝國大學農學部と敷地交換して目黒區駒場に移転していたので、昭和13年(1938)入学の大野氏は駒場で寮生活をしていたのでした。百軒店は現在の渋谷区道玄坂2丁目18番地・19番地とその周囲で、位置や歴史は「渋谷|道玄坂 百軒店商店街」公式サイト「百軒店へのアクセス」や「百軒店の歴史」にまとめられています。なお、駒場から渋谷までは帝都電鉄(現・京王井の頭線)がありますが、一高前驛(現・駒場東大前駅)を利用するのは却って遠回りになりますので、歩いて行ったのでしょう。

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 2013年11月22日付「赤いマント(32)」に引いた最晩年の回想では「片眼・片脚」とはなっていません。大野氏本人が、障害者への謂れ無き不安感を背景にした、こうした属性を規制したのかも知れませんし、大野氏は喋っていても記者が問題視して(或いは記事のスペースの都合で)規制したのかも知れません。
 それはともかく、この節の書き方からしても、最晩年の「詩人宗左近さんをしのぶ会」のスピーチであるにしても、「花園」というのは高等学校についての一般論で、その中で特に印象深い挿話として「赤マント」が紹介されているまでであって、宗氏と「赤マント」騒動の時期を共有した、という訳ではないように思われるのです。では、何時かということですが、この本にも時期を特定させるような記述はありません。この2つ後の段落(単行本123頁14行め〜124頁2行め・文庫版135頁4〜8行め)の冒頭に「私は日記をつけない人間だが、‥‥」とありますから、大野氏の著述をこれ以上見ても、正確な時期などこれ以上の情報を引き出すことはなさそうに思われます。
 ちなみに列挙されている4本の映画のうち、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督のフランス映画「望郷」は、日本公開が大野氏が高等学校の一年生の昭和14年(1939)2月15日でしたが、他の3本は大野氏が小学生かそれ以前に公開されています。(以下続稿)

*1:文庫版ルビ「かこく」。

*2:文庫版ルビ「たばこ」。

*3:ルビ「ひやつけんだな」、文庫版ルビ「うわさ・おび・しな」。