瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

浅間山の昭和22年噴火(11)

 NHKスペシャル「カラーでよみがえる東京――不死鳥都市の100年――」を見ている。危惧した通り、幕末〜明治の着色写真みたいになっている。――黒すぎるのである。モノクロ映像の、黒く映っている色彩に、そのまま色彩を乗せては駄目である。黒く映っている色彩を、抜いた上で色を被せないと。しかし、それでは手間が掛かりすぎるのだろうか?*1
 とにかく、これが当時の色と云われても、やや割り引いて考えないといけないように思えてならないのである。

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毎日新聞(4)
・昭和22年8月18日(月曜日) 第25564号  6版
 この日は記事が10段で、11〜12段めが小説と広告、13〜15段めが広告です。
 浅間山の記事は9段めで、最初の3行分の上部(1字下げ)にゴシック体で2行の見出し「浅間の遭難者十三名 」があります。

【小諸発】/去る十四日/爆発した浅/間山の遭難犠牲者は十七日までに/七名の燒死体が山頂近くで発見さ/れた、そのうち身元の判明したも/の四名で他の三名は不明である、/これで確定した死亡者は火傷をう/け手当後絶命した浅沼君を加え八/名となつた、この他行方不明の軽/井沢町土屋少年ら一行五名につい/ては十六日六十余名の搜索隊が出/動、搜査につとめたが依然不明で/結局遭難犠牲者は十三名に上る/見込み


 「絶」の旁は「色」ではなく「刀」に「巴」です。
 「朝日新聞」では10月3日付(3)に引いた8月15日付の第一報から見えていた「浅沼君」は、ここでいきなり登場します。
 この「毎日新聞」の報じた集計は、負傷後死亡1名と死体で発見された7名、そして行方不明の5人連れの合計13名ということになっていましたが、結局「毎日新聞」も「朝日新聞」と同様に10名に収まっていますから、このときの身許不明の3名が「土屋少年ら一行五名」のうちの3名という風に勘定しないと合いません。爆風や噴石から逃げまどううちに離れ離れになってしまった可能性もありましょうし、「浅沼君」が連れの2人を10月3日付(3)に引いた「朝日新聞」8月16日付記事によると「先発」させていたように、今回の御嶽山の水蒸気爆発でも、同じグループでも山頂に先着した者が死亡し、遅れてまだ登っていた人が助かったケースが報じられていましたが、5人連れでも塊って登っていたとは決められないので、このときまでに発見されていた3名と、まだ見つかっていなかった2名は離れて行動していたのかも知れません。……と、可能性を書き立ててみて、発見場所を書いたものがないか、と思ってしまうのです。(以下続稿)
【追記】以上の記事は18日のうちに書いて置きましたが、今日投稿前に見直して、再考して見ました。――「十七日までに七名の焼死体が山頂近くで発見された」とありますが、10月4日付(05)に紹介した「朝日新聞」8月19日付記事「浅間の七死体収容」では、18日朝に中沢兄弟2名と下田製作所一行5名の「七死体」を「収容」したとあって、栃木県足利郡の2名については(記事になっていませんが)既に収容済みであったようです。かつ、18日の収容作業は朝に迅速に行われていて、既に前日までに「七名の焼死体」の位置を確認した上で、すなわち「十七日までに‥‥発見された」ものを山頂近くから下ろしているものと見られます。そうすると「毎日新聞」のここの混乱は、「身元の判明した」栃木県足利郡の2名の収容に気付かず(この足利郡の一行3名について「毎日新聞」は、きちんとした記事にしていません)に、これを「七名の焼死体」に含めてしまったことに起因するものでしょう。従って、17日に「山頂近く」にあった「七名の焼死体」に、下田製作所の一行5名は既に含まれていたはずです。この辺り、どうも「毎日新聞」は十分整理し切れていなかった可能性が高いように思います。

*1:白目の部分まで肌色が乗っていることも少なくないようだ。そこまで細かく指定するのは困難なのだろう。