日記の6日め。【 25 】頁下段18行めから【 27 】頁上段10行めまで。
【 26 】頁の上下段とも6行と行数が少ないのは、左側に、おふくさんが旅館の薄暗い廊下を自室へ戻って行く場面が描かれているからです*1。右上に [哲] 印(1.0×0.6cm)があります。これは23頁左上にある印(0.8×0.5cm)と、左辺の同じ位置に欠損があるのですが、異なるもののようです。
今回新たに新字で代用した漢字は「宵」です*2。
×月×日
「山木さん。これ、わたしの指にさして頂戴」*3
樂屋の薄暗い廊下で、おふくさんは細い指輪を自分に渡した。*4
「これを、指に?」*5
自分には、なんのことだか判らなかつたが、いふがまゝに差してやつ*6【25下】た。おふくさんの身體にこんなに接近したのは今夜がはじめだ。なんだ/か恐いやうな氣がした。自分の手はすこしふるへてゐたかもしれない。*7
「なんのまじなひです」
「まじなひ?……まあ……」
耳のあたりをすこし紅らめて自分の手を見てゐたおふくさんは、急に/ひそかな笑ひ聲を立てた。*8【26上】
「こんどは、あんた先生と一緒の旅館でつしやろ。わたし。あんたと同/じ旅館でないと心細うて……これで、ずつとあんたと一緒に居られます/わ」*9
おふくさんは、ちよつと指輪を 唇 にあてた。*10
十二時頃電話がかゝつてきた。例によつて圓八君が細君を虐めてゐる/から來てくれと言ふのである。*11【26下】
圓八君は、いつものやうに手に髪の毛を卷きつけておふくさんを疊に/押しつけ、右の手にかみそりを持つてゐた。下敷にされたおふくさんの/左の手には、宵に自分が差してやつた指輪がそのまゝ光つてゐた。*12
自分はギヨツとした。*13
しかし今夜の原因は指輪ではなかつた。*14
自分は次第に危險の淵に近付きつゝある不安を感じる。おふくさんに/はなるべく遠ざかるやうにしなければならない。*15
二號氏は大阪へ歸省中、大圓氏の部屋には名古屋から來た例の染吉と/外一人の藝者が泊つてゐる。*16
岐阜、萬歳座初日。大入出る。*17
*1:おふくさんはスリッパを履いており、おふくさんの横の襖の前にもスリッパが揃えてある。
*2:【2021年2月27日追記】はてなダイアリーからの移行時「館」が「邢」と文字化けしていたのを修正。
*3:ルビ「やまき・ゆび・ちやうだい」。
*4:ルビ「がくや・うすくら・らうか・ほそ・ゆびわ・じぶん・わた」。
*5:ルビ「ゆび」。
*6:ルビ「じぶん・わか・さ」。
*7:ルビ「からだ・せつきん・こんや/き・じぶん・て」。
*8:ルビ「みゝ・じぶん・て・み・きふ/わら・ごゑ・た」。
*9:ルビ「せんせい・しよ・やど・おな/やど・こゝろほそ・しよ・を/」。
*11:ルビ「じころでんわ・れい・ゑん・くん・さいくん・いぢ/き・い」。
*12:ルビ「ゑん・くん・て・かみ・け・ま・たゝみ/お・みぎ・て・も・したじき/ひだり・て・よひ・さ・ゆびわ・ひか」。
*13:ルビ「じぶん」。
*15:ルビ「じぶん・しだい・きけん・ふち・ちかつ・ふあん・かん/とほ」。
*16:ルビ「がうし・おほさか・きせいちう・だいゑんし・へや・なこや・き・れい・そめきち/ほか・り・げいしや・とま」。
*17:ルビ「ぎふ・まんざいざしよにち・おほいりで」。