瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(27)山本桃村①

・梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』(1)
 この自伝は恐るべき記憶力によって克明に綴られています。しかし全く書いたものがなかったのかというと、書いたものはあったのです。122頁上段6行め〜131頁下段4行め「(十二) 満鮮の初巡業」の章、126頁下段13行め〜127頁上段8行めに、

 私は大正九年から書き始めた日誌が昭和二十年まで二十六/冊、満二十五ヵ年八ヵ月、書き続けていた当用日記を終戦の/八月、何の未練もなく焼き棄ててしまった。戦争に敗れて、/国の歴史も、個人の歴史も、これで一切御破算になったと思/ったからである。昭和二年から、巡業の機会を利用して、全/国の官国幣社を巡拝した記録、まだ他に惜しかったと思う記/録が随分あった。然し終戦当時そんな記録は見たくもなかっ/た。軍に協力して貰っていた百七十余枚の感謝状も共に、全/部を灰にしてしまった。いま私の家の本箱のどこにもそうし/たものが残っていない。ところが最近、ふと書棚の隅に押込/んであった古い台本、大正三年に書いたもの、少し検べるも/のがあって引張り出して見ると、その中に“満洲の日記”と/いうものが綴りこんであったのを発見した。罫紙に墨字で書/いてある。女流団巡業中、事務の山本桃村君から習った書体、/文章よりも文字に余程心を用いていたことが判る。ちょうど/幸いだからそのところどころを、原文のまま抜粋して見よう/……。

とあります。日々の記録を付けていたからこそ、順序立てて思い出して構成することが出来たのでしょう。
 この章には年が記載されていないのですが、120頁下段17行めから134頁上段5行めまでが大正8年(1919)のことで、127頁下段1行めからこの章の最後までは「六月二十三日(晴)」から「八月二十八日(雨)」までのうち、21日分が抜粋してあります。
 さて、ここに登場する「事務の山本桃村君」ですが「女流団巡業中」というのは梅中軒鶯童の記憶違いで、山本桃村は、梅中軒鶯童の参加した女流団巡業と同じ年の、それより前の別の巡業に参加していた人物なのです*1
 それでは次に、山本桃村が梅中軒鶯童と一座していた時期のことを書いた箇所を見てみましょう。(以下続稿)

*1:11月8日追記】山本桃村が参加していた巡業の構成員8名は11月8日付(31)に紹介しました。浪花節語り6名のうち4名が女性ですから「女流団」と言えなくもありません(座長は梅中軒鶯童)が「女流団」とは呼んでいませんでした。――「女流団」と呼ばれているのは105〜111頁に見える、大阪松島の広沢館の井上(晴夢)旦那が「組織」した「専属の女流団」で「成美会」という名称でした。7月に人を集めて8月に女流顔見世興行、9月から晩秋までは巡業で梅中軒鶯童も一座しています。