瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(352)

木村聖哉竹中労・無頼の哀しみ』(7)生年月日⑰
 木村氏は昭和5年(1930)生説を採っているけれども、最後の「第十二章 別れの音楽会」でも、196頁6~7行め、

 冒頭にも書いたが、私が竹中労さんと初めて出会ったのが二十五歳の時。その時、竹中さんは/三十五歳だったはずだ。以来、亡くなるまでおよそ二十五年、細々ながらご縁があった。‥‥

と、慎重な姿勢を見せている。これ以外にも、年齢に関する記述としては104頁9行め「 竹中さんはまだ四十代半ばにもかかわらず、‥‥」に気が付いた。
 他に、気付いたところを幾つか拾って置こう。

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 204頁3~11行め、

 本文では触れていないが、竹中さんには長年〝別居中〟の妻子があった。
 しかし、妻子については他人に語らなかったし、一切書くこともしなかった。竹中さん自身の/家族のことは年譜にも記されていない。
 それが彼の〝主義〟であり、〝流儀〟だったのだろう。
 竹中さんは生涯肉親の愛情とは縁が薄かった。ご当人もそういう肉親の〝しがらみ〟から自由/に生きようとしていたかに見える。
 しかし、後年、生母が和歌山から突然上京して逢いにきた時は、一週間も東京見物に付き合い、/土産物をたくさん買い与えて、帰したと聞く。
 やはり親子の血は濃く、肉親の絆は切れなかったようである。


 年譜に妻子のことが、結婚や誕生、別居等一切記されていないのは確かである。KAWADE 道の手帖『竹中 労』の編集部作成「竹中労 略年譜」には、肉親に就いての記述は僅かに2箇所「一九三〇年」条に「再婚した英太郎」そして「一九八八年」条に「父・竹中英太郎没。」とあるばかりである。
 しかしながら「一切書くこともしなかった」訳ではない。初めての単著であるフロンティア・ブックス65『団地 七つの大罪 近代住宅の夢と現実は、竹中氏本人の団地暮らしの体験がそのベースになっているので、家族のことがしばしば語られている。
孤立の罪」の1節め「はじめに棟号ありき」の書き出しは、3頁上段2~6行め、

「団地」の生活で最初に突きあたる壁は、何か? /それは〝弧立〟ということ。
 私―三六歳、ルポ・ライター。妻(32)、娘(6)、息/子(4)の四人暮らし。一昨三七年九月二日、千葉県/船橋市「高根台団地」に入居してきた。

となっている。2月13日付(249)に見たように、この本は昭和39年(1964)の年末に刊行されている。また奥付の著者紹介には「1928年,東京都に生まれる。」とあった訳だから確かに満36歳と云う計算になる。1~6頁「まえがき」は、6頁4行め「一九六四年十二月八日」付(3字下げ)である。そうすると妻(1932生)娘(1958生)息子(1960生)と云う見当になる。
 但し子供たちの年齢は、4頁4~5行め「 一九六四年三月から九月にかけて、私は、「団地七つの大罪」というシリーズを月刊誌「二人自/身」に連載した。‥‥」とある、連載時の年齢のままになっているのではないか、と云う疑いを持っている。
教育の罪」の1節め、27~30頁上段3行め「チャコとネコ」は、長女が子ネコを飼おうとして果たさなかった顚末を述べたものであるが、27頁上段2~3行め「‥‥。チャコとは私の長女(小絵六歳)の愛称である。‥‥*1」に対して、竹中氏は「パパ/亭主」そして妻は「ママ/妻/女房/カミサン/女房ドノ」などと云った呼称で登場する。41頁上段16~17行め「‥‥、自分の息子(弦、四)を、‥‥*2」。
虚栄の罪」の53頁上段1~3行め「‥‥。わが高根台団地にも、幼稚園/がある。実は、ことし四歳の息(子)を、このF幼/稚園に入れようと考えていたのだが、やめることに/した。‥‥*3」6行め「 ことし小学校に入学した長女(小絵)と‥‥*4
 まづ娘だが、昭和39年度に小学1年生であれば昭和32年度生である。
 次に息子について。――「千葉日報」2017年5月21日 08:52 配信の記事「船橋で団地火災 男性1人死亡」に、父親の祥月命日の深夜(翌日未明)、『団地七つの大罪』の舞台となった高根台団地の自室の火災で死亡しているのだが「竹中弦さん(57)」とある。そうすると昭和34年(1959)5月下旬から昭和35年(1960)5月中旬までの間に生まれたことになる。ただ『団地 七つの大罪』の次の記述を見ると、どうも、幼稚園には入れなかったようで、当時は普通2年保育だったはずだから、昭和34年度生で昭和39年度に満5歳なのではないかと思う。
 その記述と云うのは同じ章の64頁上段8行め~下段4行め、砂場で真っ黒になって遊ぶ息子を、身綺麗な品の良い子供たちが羨ましそうに見ているのを見掛けて、自身の子供時代を回想し心の中で息子に呼び掛ける場面である。

 私は、自分自身の幼年時代を思いだす。三歳のと/きから、家庭の事情で親戚にあずけられた。幸福で/はなかった。いとこたちが臨海学校にいった夏休み、/小さな〝居そうろう〟の私はるす番をさせられた。/ブランコにのって、一人で泣いた。だが、私には広/い自由な天地があった。野っぱらでトンボを追い、/近所の長屋のガキどもと取っくみあいのケンカをし/て、けっこう楽しかった。ひがみもねたみも、そう/して消えた。
 目も鼻も砂にまみれて、まっ黒に日やけした上に/【64上】もうひとつ黒く汚れた息子に、私は心の中で呼びか/ける。弦*5よ、ドロにまみれろ。もっともっとドロに/まみれるんだ、強い子になれ。幼稚園なんかにいか/なくてもよい。やがて、‥‥


 このイトコが臨海学校に行ったと云った辺りは、本書でも2月14日付(350)に触れたように、134頁8~10行めに「青春遊泳ノート」を引用して述べてあった。但し当ブログでは原文を割愛したので、来月予定している原本を見る機会に補うこととしよう。
 なお「湯村の杜 竹中英太郎記念館」公式ホームページ「竹中家墓所のご案内」に、甲府市岩窪町の甲府市営「つつじが崎霊園」にある竹中家の墓所を紹介して、埋葬されている家族の命日を列挙しているのだが、歿年月日順にまづ英太郎の両親、そして英太郎、労と挙げて、さらに3人、

 平成17年7月24日 竹中みさ子
 平成19年2月27日 竹中津ね子
 平成27年5月20日 竹中 弦

とある。竹中弦の歿年は平成29年(2017)の誤りだろう。「津ね子」は英太郎の後妻の「つね子」、そうすると年譜類には全く見えない「みさ子」が、高根台団地までは同居していた「妻」ということになるのだろう。そうすると、生年は確定ではないが、竹中みさ子(1932~2005.7.24)竹中弦(1959/60~2017.5.20)と整理出来る。
 なお、木村氏は竹中氏に昭和41年(1966)に初めて会ったときのことを回想して、21頁6~8行め、

 その時どんな話をしたか、もう思い出せない。竹中さんが千葉県船橋市の高根台団地で自治会/長をしていること、著書は『美空ひばり』の前に『団地七つの大罪』と『処女喪失』を上梓し/た、という話はかすかに覚えている。

と述べているのだが、結局『団地七つの大罪』を手にする機会はないままになったのであろう。
 生母との再会は他の文献には見えないようだ。生母(英太郎の前妻)については、別の資料を取り上げる際に検討することとしたい。

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 『団地 七つの大罪』は「まえがき」の最後、5頁12行め~6頁3行めまでの謝辞、まづ連載した「二人自身」編集部とカメラマン、そして本の版元の弘文堂の編集部の人々に感謝を述べてから最後、2~3行め「‥‥。そして、文中たびたびご登場をねがい/図表の整理、原稿の浄書などしてくれた My Wife にも……。」と締め括っていた。
 しかし妻の協力を仰げなく(仰がなく?)なって、アシスタントを雇うようになったようだ。フロンティア・ブックス『呼び屋』1~3頁「まえがき」3頁13~14行め「 最後に、資料の収集、整理にあたった遠藤のり子、小川真水子の両アシスタントの労をねぎらい/たい。」とあり、『タレント帝国』267~277頁「むすび」の最後には、まづ竹中氏の名前があって、1行分空けて8~11行目「伊 豆 きを子/遠 藤 のり子/佐 藤   潔/堀 田 希 一」太線で区切って12行め「矢 野 嘉 之」とある。
 このうち、遠藤氏が本書にたびたび登場している。49頁11行め「 簡易裁判所から竹中労宛て呼び出しがあり、助手の遠藤徳子が代理で出頭、‥‥」89頁17行め「‥‥助手の遠藤徳子があきれ果て、‥‥」129頁13行め「 かつて十数年秘書を務めた遠藤徳子さんにも聞いたが、‥‥」163頁2行め「 怖くなった助手の遠藤徳子がどうしたものかと甲府へ電話すると、‥‥」まだあるかも知れない。
 最晩年を支えたのは183頁1~3行め、死の前月のこととして、

 竹中さんは四月、沖縄へ発つ前に遺言書を認めている。それに立ち会ったのはパートナーの石/原優子(夢幻工房)、近藤俊昭(弁護士)、井家上隆幸(文筆家)、大村茂(カメラマン)の四人。長/年、物心両面にわたり竹中さんを支えてきた〝サポーター〟である。

とある。――私はちくま文庫決定版ルポライター事始に目を通したとき、かなり大胆に元版に手を加えている「夢幻工房」とは何者だろうと思ったのだが、この記述を読んで漸く腑に落ちた。(以下続稿)

*1:ルビ「 さ え 」。

*2:ルビ「ゆずる」。

*3:ルビ「ゆずる」。

*4:ルビ「さ え 」。

*5:ルビ「ゆずる」。