瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大岡昇平『武蔵野夫人』(03)

 一昨日からの続き。――HN「higonosuke」のブログ「黌門客」の最新記事、1月13日付「北村薫「大岡昇平の真相告白」のこと」に、うっかり長文のコメントをしてしまいまして、反省して(?)その後、色々本を借りて、見ております。
 その報告をする準備として昨日から、前提となる1月13日時点での私のコメントを確認しております。原文は訂正出来ない形で先方にありますので、ここには若干修訂を加えたものを載せて置きます。
 それでは今回は、前回前半を引用した、3番めのコメントの後半を抜いて置きましょう。今は新潮文庫の『武蔵野夫人』が借りてありますけれども、当時は手許になかったので国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスで閲覧した、当時流行企画だった文学全集に収録されているものを参照しました。

 そこで、私は『武蔵野夫人』をまだ読んでいないのですが、当該箇所の前後の本文を眺めてみました。と、引用されている箇所の少し先に「分れる二つの鉄路の土手によつて視野を囲はれてゐた。」とあるのが気になりました。
 日立製作所中央研究所からでは、こうは見えません(特に「分れる二つの」とは)。
 続いて「溝に面して農家があつた。」とありますが、日立製作所中央研究所の辺りには明治の地形図以来、人家(集落)の記載がありません。
 そうすると、条件に合いそうなのは、線路(中央線)と支線(西武線)の分岐の西側、現在の西恋ヶ窪1丁目の南部、中央線の北側に沿った低地です。今は中央線から見下ろされる住宅地になっていますが、以前は田圃で、集落がありました。
 すなわち、明治以来の地形図(今昔マップ on the web)ではこの辺りの集落に「戀ヶ窪」の地名が記載され続けており、かつ、恋ヶ窪伝説の舞台となった「姿見の池」も、まさにこの地域にあるのです。いえ、「二つの鉄路の土手」が見える、という描写は、姿見の池辺りからの眺めに、まさに合致しそうなのです。
 と云って、中央線もしくは西武線から見下ろしたことがあるばかりで、実際に行って「視野を囲われてい」る様を確かめた訳ではありませんが。
 
 矢野勝巳『文学する中央線沿線―小説に描かれたまちを歩く』は未見ですが、日立製作所中央研究所の池が「野川の源流」と云うのに引き摺られた失考ではないか、との疑いを持っております。従って「恋ヶ窪の水源周辺の描写が、実は虚構だったことを知るに到った。」との断定は、再考の余地があるものと考えます。
 
 以上ご参考までに。


 「分れる二つの鉄路の土手」云々の件がブログ「黌門客」2023年2月2日付「「ドルジェル伯」と大岡昇平『武蔵野夫人』」には引いていないかのように書いていますが、1月13日付「北村薫大岡昇平の真相告白」のこと」の「higonosuke」氏の返信コメントにもある通り、ここまで引用されておりました。
 別ウィンドウにして参照しながら書く、と云ったことをしないのでこう云うことになっております。
 恋ヶ窪の伝説は上記引用の中に含まれております。この詳細は別に記事にすることとしましょう。
 さて、Google マップで「日立中央研究所庭園(協創の森)」を見ますと、池の南側に「野川の源流」の文字が出ます。春と秋の年2回、日立製作所中央研究所の庭園は一般公開されていて、その際に見学して撮影した写真を SNS にアップしている人が何人かいるのですが、どうも、その辺りに、まさに「野川の源流」と説明した看板が設置されているようなのです。
 本作に中央線の「線路」を越えたところにある「池」が描かれ、そして、それに当たると思しき場所、国分寺市東恋ヶ窪1丁目に現在、日立製作所中央研究所の「大池」があって「野川の源流」を称しているのですから、うっかりこの「大池」こそが本作に登場する「池」だ、と思い込む人が少なからず現れたとして、何らおかしくはありません。
 しかし奇怪なのは、1月26日付(01)に孫引きしたように、矢野氏が「池は一九五四年から一九五八年までの間に湿地帯を改造して作られており、小説刊行時は存在していない」と云うことが判っていながら、他の可能性を追及したり、文献に当ったりした形跡のないことです。
 現在「大池」のある場所が、谷底に長く伸びた田圃の一部であったことは、航空写真でも何となく解ることではあるのですが、ここで、等高線によって谷筋がより辿り易く、更に昭和10年代以降のものしか存しない航空写真と違って、明治10年代から孜々として作成され続けて来た地形図の出番となります。
 地域の変遷を知るには、やはりコメントにも挙げた埼玉大学教育学部教授だった谷謙二(1971.9.12~2022.8.7)の「今昔マップ on the web」を超えるものはないと思われます。データセット「・三大都市圏 ○首都圏」では測量・改測・修正の時期ごとに9つの地形図を簡単に比較することが出来ます。
①1896~1909年 1/20000府中(明治39年測図42年製版)
②1917~1924年 1/25000府中(大正10年測図・大正13.10.30発行)
③1927~1939年 1/25000府中(昭和5年二部・昭和5.7.30発行)
④1944~1954年 1/25000立川(昭和12年修正22年資修・昭和22.4.30発行)
⑤1965~1968年 1/25000立川(昭和41年改測・昭和42.10.10発行)
⑥1975~1978年 1/25000立川(昭和51年二改・昭和52.5.30発行)
⑦1983~1987年 1/25000立川(昭和58年修正・昭和60.2.28発行)
⑧1992~1995年 1/25000立川(平成5年修正・平成6.12.1発行)
⑨1998~2005年 1/25000立川(平成11年部修・平成12.7.1発行)
 更に、各種の用途別の地図、空中写真(航空写真)などと対照させることもできます。
 但し限界もあります。⑤以降は現行と同じ3色刷になっており、家も建て込んでいて薄い茶色の等高線で示される地形は判読しづらくなっています。④以前は開発が進んでいないので、谷筋が等高線によって明確に識別できますが、②~④の「戀ヶ窪」周辺は全く変化がありません。しかしこの間、現在、日立製作所中央研究所になっている辺りでは、大正7年(1918)に今村銀行頭取の今村繁三(1877.1.23~1956.4.19)が附近の田畑農園を買い取って別荘を営み、そこを日立製作所が買い取って、昭和17年(1942)に中央研究所を創設するのですが、こうした変化は①と②を比較しても認められませんし、国分寺駅北口の市街地化を反映した改変が認められる④にも、全く反映されていません。④には恋ヶ窪の集落と、卍記号の寺院の国分寺の間の、中央線の南側の台地上の開発が若干書き加えられていますが、日立製作所中央研究所の辺りは全く手付かずなのです。その意味で、余り正確さを要求出来るようなものでもないのですが、とにかく①~④では、現在の国分寺市東元町辺りの、元来の国分寺村の集落から北上して、中央東線の土手下を潜り、今「大池」になっている辺りで西に向きを変えて当初川越鉄道だった西武国分寺線の土手下を抜けて「戀ヶ窪」の集落に続く細い谷筋が田圃になって繋がっていることが確認出来ます。中央研究所の「大池」附近は谷筋の途中で、地形的に水源に位置するような場所ではなかったのです。(以下続稿)