瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

池内紀『記憶の海辺』(4)

池内紀の居住歴(6)出身地②
 池内氏の生れ育った集落が姫路市新在家、現在の新在家本町であったことは前回確認した記述と地図からして間違いないでしょう。
 そのことは、本書の中では明示されないままなのですが、歿後刊行された次の本に収録された、本書の原型の1つと云うべきエッセイに、明示されているのです。
池内紀『昭和の青春 播磨を想う』2020年11月16日 第1刷発行・定価2,000円・神戸新聞総合出版センター・194頁・四六判並製本

 この本の詳細については別に記事にしましょう。その最後、182~189頁に収録された「昭和三十年」に、184頁1行め、

 私は昭和十五年(一九四〇)、姫路市新在家に生まれた。‥‥

とあります。ですから状況証拠(?)で固めて行かなくても良かったのですけれども、序でですからもう少々、本書の記述に見える、池内氏出郷前の新在家について眺めて置きましょう。昨日引用した、農村と云うより「半ばがた山村だった」と云う池内氏の認識を説明して、21頁10~16行め、

‥‥。何より水脈を山にさずかっていた。高台の奥に大小四つの池があって「四つ池」/と呼ばれ、米づくりに欠かせない水源だった。三角状にひろがる谷の先端に「清水*1」と呼ばれる/共同井戸があった。清水の水はけっして枯れない。そんな言いつたえがあった。日照りがつづき、/みるまに家々の井戸の水位が下がっても、清水は少しも変わらなかった。重厚な四角の石組みの/なかに澄んだ水が光っていた。湧水の勢いで、まん中がやや盛り上がっていた。八丈岩山には山/の神がいて、清水には水の神がいる。戦後のある時期まで、幼い者たちはそんなことを信じて成/長した。【21】

と水について述べています。
 清水は新在家集落の北東端(現、姫路市新在家本町2丁目4番14号)にある「共同井戸(清水)」です。Google マップでは「新在家薬師如来堂」として、Storm Cosmic の執筆したクチコミと写真5枚にて、2017年11月現在の状況が確認出来ます。
 四つ池についてはさらに22頁8~12行めに、

 「四つ池」は下から順に、大池、二の池、三の池、奥の池といった。灌漑用に使うのは大池一/つで、あとは万一のための溜め池だった。二の池まで使うことはめったにない。三の池と奥の池/は、水面がびっしり水草で覆われていた。秋の穫り入れが終わると、大池の水を落としてコイや/フナをとった。ウナギもいた。小魚は水にもどして、大きいのを家ごとに配分した。それからし/ばらく、住人は毎日コイを食べた。‥‥

との記述があります。現在、4つ並んだ池は周囲には見当りませんが、前回も参照した谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」の「姫路」を見るに、集落の真北、「出っぱり」を越えた谷に池が4つ並んでいて、そこから下が水田になっております。
 これは現在の北新在家1丁目と2丁目の谷で、現存するのは1丁目14番の下池と15番の中池の2つです。2丁目1番と5番にあった1つ、一番奥、2丁目6番にあった1つは埋め立てられて住宅地になっております。――池の名前が違っていることが気になりますが、池内氏が挙げているのは俗称でしょうか。池内氏の云う大池が「下池」、二の池が「中池」です。「三の池と奥の池」は池内氏の記述からも推測されるように浅かったので、埋め立てられてしまったのでしょう。「大池、二の池」は宅地造成後も、下流域に若干残っていた田圃のために、残されたものと思われます。(以下続稿)

*1:ルビ「 し みず」。