瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(3)

 私は今は存しない建物・施設について、それがいつから何時まであったかが気になるのである。
 まづは地図で当りを付けて、写真と文献を探って見る。今はネットである程度調べることが出来る。便利な時代になったものだ。
 問題の工場があったのは大和田橋北詰の北西の、浅川に面した八王子市大和田町6丁目1番と2番が連続した街区(ブロック)の、南南東の半分、現在八王子ホテルニューグランドとカレッジタウン1号棟と2号棟のある辺りである。カレッジタウン1号棟と2号棟は連続していて、どこで区切られているのか分からない。北西と南東のどちらが1号棟でどちらが2号棟なのかも分からない。なお、道を挟んで6丁目7番7号に3号棟、そして6丁目4番3号に同じような外見の八王子ドミトリー明秀がある。3号棟の辺りも工場の敷地であったようだが、その変遷は明日述べることにする。八王子ドミトリー明秀のある辺りは紙工工場の敷地だったのかどうか、その可能性も高いように思うのだが、確信が持てないのでしばらく考察対象から外すこととする。
 埼玉大学教育学部教授だった谷謙二(1971.9.12~2022.8)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」を見るに、明治39年(1906)測図明治42年(1909)製版 1:20000地形図「八王子」では、八王子ホテルニューグランドのある辺りは水田、他は桑畑になっている。これは大正10年(1921)測図大正14年(1925)3月30日発行の 1:25000地形図「八王子」でも変わりない。昭和4年(1929)部修昭和5年(1930)鉄補で昭和22年(1947)5月30日発行の 1:25000地形図「八王子」では現在と同じような道路で区切られて全部が桑畑になっている。昭和2年(1927)部修昭和23年(1948)資修で昭和23年(1948)8月30日発行の 1:25000地形図「八王子」でもこの辺りは全く変わりない。昭和41年(1966)改測昭和42年(1967)10月10日発行の 1:25000地形図「八王子」では工場「⛭」と煙突の地図記号がある。昭和50年(1975)二改昭和52年(1977)1月30日発行の1:25000地形図「八王子」では同じ位置に煙突の地図記号、そして「⛭」の記号がある辺りには増築されたのか、120m×30m位のかなり大きな建物が記載されている。昭和55年(1980)修正昭和56年(1981)4月30日発行の 1:50000地形図「八王子」は縮尺が違うが煙突と工場「⛭」の地図記号そして大きな建物は変わりないように見える。それが昭和58年(1983)修正昭和60年(1985)2月28日発行の1:25000地形図「八王子」では、煙突の地図記号と大きな建物は昭和52年(1977)発行の同縮尺の地形図そのままだが、工場「⛭」の記号がなくなっているのである。そして平成5年(1993)修正平成6年(1994)7月1日発行の1:25000地形図「八王子」で現状と同じ、特徴のあるカレッジタウンの建物になるのである。
 そうすると地形図の上では、問題の紙工工場は戦後に建設されて昭和57年(1982)頃に操業を停止し、昭和末~平成初年頃に解体されて現在の八王子ホテルニューグランドと、学生マンション・カレッジタウンが建設されたことになる。
 しかし地形図は測量から発行までタイムラグが大きく、大まかな流れを把握するには良いが細かい変化を正確に追うには、やや難がある。そこで、最近自由に閲覧出来るようになった航空写真(空中写真)が、撮影日が特定されるので非常に役に立つのである。(以下続稿)