一昨日の続き。
私にはどうも、未刊に終ったり、計画通り刊行されなかった本について、どのくらい進捗していたのか、内容を知る手懸りがないか、探って見たくなる癖があって、『紀伊の民話』のことは2年半前に『戦後人形劇史の証言/――太郎座の記録――』を読んだときに5月6日付(3)に引用した「作者の言葉」の印象的な記述から気になっていたのですが、前回5月7日付(4)に引用した講談社現代新書370『民話の世界』の「伐ってはならん竹」に気付いたことで、記事にしてみたと云う次第なのです。
『民話の世界』では同じ章の2節め、114頁13行め~116頁10行め「天狗さまざま」に書かれている次の話(115頁3~11行め)も、同じ『紀伊の民話』準備のための採訪旅行での体験と察せられます。
和歌山で木こりのおじいさんに聞いた天狗は姿もみせず、こうもり傘の上をプイプイプイと/渡ったという。その天狗は熊野の奥の栗山の医者どのに斬りつけられたが、刀のきっ先三寸手/前の小さな穴をくぐりぬけ、二度までのがれた。しかし三度目に斬られてしまった。すると虚/空から友天狗の声がした。「七十五なびき、つづこうか!」大台ガ 原から請川の高山まで七十/五、山がある。その山をつなぐほど友天狗を集めようかと叫んだのである。
この話を聞いてから私は和歌山県の地図と首っぴきで大台ガ 原をさがした。ところが無い。/無いはずで大台ガ 原は奈良県なのだ。なるほど天狗にとって県境などあろうはずはない。奈良/の大台ガ 原から請川の高山まで山々は続いている。それを分けたのは人間である。私はひとり/赤面した。
確かに、当時の和歌山県東牟婁郡本宮町高山(現、熊野市本宮町高山)から北北東へ、熊野川の本流の十津川と支流の北山川の分水嶺の大峰山脈が連なり、大普賢岳から東南東へ、北山川の源流部と吉野川の源流部の分水嶺を辿ると大台ヶ原山に至ります。
しかし「七十五靡」と云うのは大峯奥駈道の修行場のことで、熊野本宮大社から吉野山を経て吉野川左岸の柳の宿までで、大普賢岳から東に大きく外れる大台ヶ原を回ったりはしておりません。
かつ、高山は熊野川の左岸に位置しておりますが、請川(筌川)すなわち大塔川は、高山の対岸である右岸で熊野川に合流しているのです。
松谷氏が訪れた昭和34年(1959)秋には、高山も請川も同じ東牟婁郡本宮町(現、田辺市本宮町)に属しておりましたが、その3年前の昭和31年(1956)9月まで、請川は東牟婁郡請川村、高山は東牟婁郡敷屋村、すなわち高山は、請川とは熊野川で隔てられた別の地区で「請川の高山」などと云う呼称はそもそも有り得ないのです。――どうも松谷氏は、行動力には富んでいるのですが細かな土地勘は乏しいらしく、前回まで検討した「平家の旗竹」の話の舞台である元の請川村田代――「請川の田代」の印象から、近隣の高山のことも何となく「請川の高山」と思い込んでしまったらしいのです*1。
それはともかく、5月4日付(1)に引いた『戦後人形劇史の証言/――太郎座の記録――』に収録された「一九六〇年度の太郎座/(総会資料)」に、「松谷、瀬川」の「出版関係での今年度の執筆予定」として「イ、「紀伊の民話」出版。「大和・伊勢の民話」の準備。」と、『紀伊の民話』に続いて『大和・伊勢の民話』を計画したのは、松谷氏のこの体験を踏まえて、紀伊と山続きの大和・伊勢*2を構想したらしく思われるのです。
さて、この話ですが、詳しくは次の本に載っております。
・松谷みよ子『現代民話考Ⅰ 河童・天狗・神かくし』1985年8月16日 第1刷発行・定価 1,800円・立風書房・434頁・四六判上製本