瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話『紀伊の民話』(16)

 昨日の続き。
・くまの文庫③『熊野中辺路伝説(下)』(2)
 さて、3~7頁「目 次」を見るに、章立てはしておりませんが樹木、鳥、蛇‥‥と云った風に何話か纏めて排列してあることに気づかされます。その最初8題が樹木に関する話で、その8番め、16~17頁「平家の旗竹 ⑧」が5月7日付(04)に見た、松谷みよ子講談社現代新書370『民話の世界』に「伐ってはならん竹」と題して紹介している話です。『民話の世界』は本書刊行の2年後の昭和49年(1974)10月刊行ですが、
 松谷氏が昭和34年(1959)秋に実際に現地に行ってこの話を聞書したことは、5月6日付(03)に引いた昭和36年(1961)秋の「龍の子太郎」初演パンフレットにより明らかです。このパンフレットの「作者の言葉」が熊野路編さん委員会に影響を与えたとは思えないので、それぞれ別箇に、同じ話を書き留めた、と云うことになりましょう。
 それでは本書ではどうなっているかを見て置きましょう。
 17頁は大塔川の河原から撮した「平家の旗竹と呼ばれる所」の横長の白黒写真(従って上下に広い余白)で、山の中腹が一部竹林になっているのが分ります。5月7日付(04)に「現存しない」等と書いてしまいましたが、松谷氏が確認しなかっただけで今も存しているようです。
 16頁は2段組で上段はまづ2行取り3字下げでやや大きく題がある。2行めから下段6行めまでを抜いて置こう。

 本宮町の川湯温泉に近い田代に「平家の旗竹」/と呼ばれる竹藪があり、ここの竹を切ったら、/不思議なことに村中の牛が一度にほえ、切った/者に不幸が起こると言い伝えられている。
 川湯温泉の上手の田代の部落に通じる橋から/大塔川を約二〇〇㍍上った川岸に、明治二十二/年の水害まで「平家の岩屋』と称する岩のほら/穴があり、平家の落人が住んでいたと伝えられ、/洗濯物を乾したという洗濯石は今も川の中に見/られる。「平家の旗竹」はその上方に当たる。
 土地の古老の話では、ずっと以前、桶屋の和/三郎という男がここの親竹を切ったところ、田/代じゅうの牛が一度にほえ、間もなく男は病死、/家族も一年で死に絶えたという。当時田代には/一三戸の家があり、七頭の雄牛を飼っていて、/ほえたのはこれらの雄牛であった。この土地で/は古来雌牛を飼わず、万一飼うことがあっても/【16上】子をはらめば隣の部落へ預けるならわしがあり、/近年まで守られていた。その理由は、部落の近/くを流れる東谷の水が「平家の岩屋」の少し下/で大塔川に合流し、七夕滝となっていて、東谷/はいっさい不浄のものは流さず、牛のお産でこ/の滝を汚すのをおそれてのことである。


 これにより大体の位置が把握出来ます。「七夕滝」は5月7日付(04)に引いた『紀伊風土記』の「田代村」条に見える「竹口滝」で、これが田代の集落の東を流れる谷、すなわち「東谷」が大塔川に合流するところにあったことがはっきりします。
 なお、七夕滝で国立国会図書館デジタルコレクションを検索すると、日本交通公社の旅行案内を中心に幾つかヒットしました。ここには一番早い『ポケット温泉案内』(縦組み)と、横組みの『新ポケット温泉案内』初版と9版を示して置きましょう。
・『ポケット溫泉案内』昭和二十六年九月二十五日 印  刷・昭和二十六年九月 三 十 日 発  行・定 價 百 参 拾 円・日本交通公社・263頁
 130頁下段9~19行め「川 湯 溫 泉 和歌山縣東牟婁郡請川村川湯」の最後、18~19行め「ニ、熊野三山那智観音・瀞峡・鬼ガ城・七/ 夕滝・田代針金橋。」とあります。「凡  例」を見るに「ニ 、 観 光 案 内」。
・『新ポケット温泉案内』昭和29年12月  5日 印刷・昭和29年12月  10日 発行・¥ 150・日本交通公社・280+23頁

 214頁2~15行め「川湯温泉 和歌山県東牟婁郡請川村大字川湯*1」項、11~12行め「 名 所 熊野三山那智寺・瀞峡・鬼ガ城・七夕滝・田代/針金橋。 四季の行樂 ‥‥」
・『新ポケット温泉案内』昭和29年12月2日 初版発行・昭和36年5月20日 9版(増補改訂)発行・定価 200円・日本交通公社・378頁
 247頁6~20行め「☆川湯温泉」項、16~17行め左「名 所 熊野三山那智寺・瀞峡・/鬼ガ城・七夕滝・田代針金橋。」
 七夕滝に続いて挙がる「田代針金橋」が、松谷氏の渡った「吊橋」なのでしょう。
 滝の写真と位置を示したサイトがないかと検索してみますと、小幸(男性)のブログ「小幸の滝めぐり/ぶらり日記」の2019-10-05「田代滝25m 本宮町田代」及び2023-04-21「大塔川の滝-1/2 田代滝25m~逢合滝5m 本宮町静川」がヒットしました。松谷氏が訪れた当時の「吊橋」は「田代大橋」となっております。
 さて、近世には竹口滝、昭和期には七夕滝、そして現在では田代滝と名称が変わっているようです。「和歌山県ホームページ」の「和歌山県の滝 名瀑を訪ねて ~田代滝~」も「田代滝」です。
 下段7~19行めは「紀伊名所図会熊野編には」として、やはり5月7日付(04)に引いた『紀伊国名所図会』熊野篇の「竹口籔」条の「先年」から「死失せけると云ふ」までを抜いております。
 ところで、松谷氏がこの話に「伐ってはならん竹」と云う題を与えているのは「機竹」か「旗竹」かを曖昧にして、確定させられなかったからでしょう。
 少し長くなりました。もう1話は次回に廻すこととしましょう。(以下続稿)

*1:ルビ「うけがわ」。