瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

コックリさん(2)

 ちくま学芸文庫青山二郎全文集』上11〜42頁「梅原龍三郎」、「五」章に分れるが冒頭「一」章(11頁〜15頁2行め)は以下のように始まっている。

     一
 おコツクリさま……東京でも電車がまだ珍しかった頃まで、あつた遊びです。
 答へを人から得られない……人から得ても面白くない動機が子供達にあつて、狐狗狸と/いふ妖精に呼び掛ける訳です。おコクツリさまといふお座敷を設けて互ひの思考を持寄り、/子供達は自分達のでない答へを導き出さうとします。杉箸を結んだ三本の足にお盆を載せ/て、道具だてが済みますと、片方の手を軽く幾人かその上に置いて、小声で……
「おコクツリさま、おコクツリさま」と呼び出しに掛ります……希望とか、質疑とか、何/か総意の様な子供達の思惑*1があつて……おコクツリさまと呼び掛けた声が、子供達を共通/にします。子供はそれを恭しく呈出して無心になり、目をつぶつて祈つてゐると……一本/の足が静に持上つて来ます。その時分は夜が更けると、毎晩馬鹿囃子が聞えた頃ですから【以上11頁】/……ほら、狐が戸の外に来たと一同ひやりとしたものです。この遊びは子供心に何か神秘/でした。
 一つの名詞*2から、子供達の夢見た思想が導き出され……子供達がその答へに協力したか/ら、一本の足が思想に答へたのであります。
 突然に現はれた電車の軋む音から、狸の馬鹿囃子も無くなりました。遊びも何もかも総/てが変りました。(以下略)


 文体も敬体で、奇妙な感じである。これから芸術の話へと展開して行くのだが、それはともかく、麻布で育った青山二郎(1901.6.1〜1979.3.27)の子供の頃、明治末か大正初年かに行われた様子を伝えている。
 コックリさんの流行とその盛衰については然るべき文献があって、既にこの青山氏の記述も引用されているかも知れないが、ネットで検索しても出てこないので念のため、メモしてみた。これが50音図を用意する形式に移り変わるのはいつのことなのか、考えてみれば不思議だが、それほど興味がある訳でもないので、また何か見つけたら報告することとしたい。

*1:ルビ「おもはく」。

*2:ルビ「ことば」。