瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話『紀伊の民話』(2)

 昨日、松沢雅彦・笠井純・小林昭子の3人について「よく分からない」と書いてしまった。
 『戦後人形劇史の証言――太郎座の記録――の各章は、さらに松谷みよ子に拠る概説、当時の〔資料〕翻刻、団員関係者の長めの〔手記〕と短い〔アンケートより〕から成る節に分れている。尤も全ての節が〔資料〕以下の3つを完備している訳ではなく〔資料〕だけの節、〔アンケートより〕を欠く節などもある。「1」章と「2」章は各2節、「4」章は5節、そして121~178頁「3「たつの子太郎」「うぐいす姫」のころ 一九六〇年――一九六三年」の章は1節である。昨日引いた「一九六〇年度の太郎座」は125~159頁〔資料〕の初めに収録されている。122~124頁に松谷氏に拠るこの期の概要を記した「「たつの子太郎」「うぐいす姫」のころ」があるが、これに3人のうち松沢氏のみ見えている。冒頭の段落(122頁2~4行め)を抜いて置こう。

 一九六〇年になるとテレビ局からの仕事は雨霰のごとく降り注いだ。演出部に土生三郎が入り、高野千絵、河/上千鶴子、そこへ水谷章三、田中清子、沢村豪郎、田代弘興、平岡登志子ら、また美術には松沢雅彦、松田治/仁、千野武美、秋野亥左牟、辛島宣夫ら。


 この3人、普通に検索しても最近の、全くの別人がヒットするばかりである。例えば「松沢雅彦」で検索すると白夜書房コアマガジン)元編集者ばかりがヒットする。しかしながら、例によって国立国会図書館デジタルコレクションで検索するに、当人らしき「松沢雅彦」がヒットする。すなわち、雑誌「俳句研究」第11巻第11号(昭和29年11月)第12巻第2号(昭和30年2月)そして「俳句」第4巻第13号(昭和30年12月)は国立国会図書館内限定公開なので閲覧出来ないが、続いて恐らく同じ松沢氏が寄稿している、小出ふみ子(1913~1994.4.8)が主宰していた新詩人社(長野)の詩誌「新詩人」は送信サービスで閲覧可能、第十三巻第 七号(七月号/150集・昭和三十三年六月二十五日印刷納本・昭和三十三年七月一日発行・定価七十円・58頁)52~58頁「新詩人作品」に、56頁4段め「無 題/東京都 松沢 雅彦」が載り、その後1年間に合計8回7作が掲載されている。
・第十三巻第 九号(九月号/152集・昭和三十三年八月二十五日印刷納本・昭和三十三年九月一日発行・定価七十円・58頁)52~58頁「新詩人作品」に、53頁1段め11~23行め「意 識/東京都 松沢 雅彦」
・第十三巻第 十号(十月号/153集・昭和三十三年九月二十五日印刷納本・昭和三十三年十月一日発行・定価七十円・58頁)52~58頁「新 詩 人 作 品」に、57頁4段め7行め~58頁1段め1行め「月 明/東京都 松沢 雅彦」
・第十三巻第十二号(十二月号/155集・昭和三十三年十一月二十五日印刷納本・昭和三十三年十二月一日発行・定価七十円・58頁)54~58頁「新 詩 人 作 品」に、55頁3段め2行め~3段め1行め「二人の踊り/東京都 松沢 雅彦」
・第十四巻第 二 号(二月号/157集・昭和三十四年一月二十五日印刷納本・昭和三十四年二月一日発行・定価七十円・58頁)54~58頁「新 詩 人 作 品」に、54頁1~3段め6行め「日  々/東京都 松沢 雅彦」
・第十四巻第 四 号(四月号/159集・昭和三十四年三月二十五日印刷納本・昭和三十四年四月一日発行・定価七十円・58頁)52~58頁「新 詩 人 作 品」に、53頁2~3段め2行め「虹/東京都 松沢 雅彦」
・第十四巻第 六 号(六月号/161集・昭和三十四年五月二十五日印刷納本・昭和三十四年六月一日発行・定価七十円・58頁)54~58頁「新 詩 人 作 品」に、57頁3段め13行め~4段め「私の中に/東京都 松 沢 雅 彦」
・第十四巻第 七 号(七月号/162集・昭和三十四年六月二十五日印刷納本・昭和三十四年七月一日発行・定価七十円・58頁)54~58頁「新 詩 人 作 品」に、58頁4段め「傷ついている何か/東京都 松 沢 雅 彦」
 最後の「私の中に」と「傷ついている何か」は重複である。どうしてこんなことになったのかよく分からないが、これを切っ掛けとして「新詩人」から離れたようである。よって7篇が掲載されていることになる。
 松沢氏はこの間に大学を卒業している。國學院雜誌』第六十巻第三号(昭和三十四年三月 十 日 印刷・昭和三十四年三月十五日 発行・定価 八十円・國學院大学・64頁)49~64頁「昭和三十三年度卒業論文題目一覧」49頁中段28行め~62頁下段13行め「二、学部第一部 卒業論文」52頁上段8行め~53頁中段6行め「 文学科三組」81人中27人め(52頁中段14~16行め)に見え題は「デイレツタントの系譜 デカダ/ ンスへの志向と価値転換につ/ いて―」である。
 そうすると松沢氏は昭和34年(1959)3月に国学院大学文学部文学科を卒業して太郎座に入り、翌年まで在籍していたことになる。
・松沢雅彦遺稿集第一巻<俳句・詩編『秋の蝶』昭和四十五年一月十日発行・定価一二〇〇円・雅甲文庫・132頁
 発行者の松沢甲子と、発行所の雅甲文庫は住所が同じ、すなわち私家版である。
 これも国立国会図書館デジタルコレクション(送信サービスで閲覧可能)のカラー画像でしか見ていないが帙入の和装本らしい。
 扉、辞世のような句を刷った和紙、肖像写真、筆名「野沢醇」の詩の原稿「血」、中扉、1頁(頁付なし)酒井徳男「序詞」の扉、2頁(頁付なし)黒枠に楷書体で、

 水曜荘主人の酒井徳男氏は去る十二月/一日急逝されました
謹んでここに哀悼の意を表する次第でご/ざいます
昭和四十四年十二月二十日
             編   者

とあって、酒井徳男(1969.12.1歿)の遺稿となってしまった序文が載る。続く3頁に下部中央に「― 1 ―」から「― 3 ―」の頁付があるが3~5頁と見做すべきで、続いて6~7頁(頁付なし)「目   次」、8頁(頁付なし)は白紙で9頁(頁付なし)は「俳 句 編/ 昭和二十八年~三十年/  (十七才~十九才)」の扉、裏から4句ずつ12頁まで12句、その1頁めの頁付が「― 10 ―」なので「序詞」の頁付が誤りと判断されるのである。
 詩誌「新詩人」に掲載された作品は、49~129頁「詩  編/ 昭和二十八~四十三年/  (十七才~三十三才)」に、82~83頁「無  題」84~85頁「意  識」86~87頁「月  明」94~95頁「虹」の4篇が収録されているが異同がある。「日々」は92~93頁「明  日」と改題・改訂されて収められており末尾に(三十四年)とある。「私の中に」及び「傷ついている何か」は106~107頁「宿命のように」と改題・改訂されて収められており末尾に(三十八年)とある。「二人の踊り」は116~119頁「仮  象」と改題・改訂されて収められており末尾に(四十二年)とある。
 130~131頁「あ と が き」は「昭和四十四年 初秋」付で「松 沢 甲 子」が書いている。どのような関係なのか本人は明確に書いていないが、酒井氏の「昭和四十四年 夏ゆくころ」付の「序詞」5頁(頁付3頁)4行めに「松沢甲子夫人」とあるので未亡人だと分かる。
 132頁には「松 沢 雅 彦(まつざわ・まさひこ)」として2~8行めは3字下げで、

昭和十年五月三十日東京青山に生まる。
国学院大学国文科卒業。
昭和四十四年一月九日中部日本新聞東京本社内にて勤務中倒れる。同年一/月十日胼胝性気胸により死去。
昭和二十八年頃より「麦」「青玄」「新詩人」「コンマ」等の数誌に関係/す。
 尚 本冊の作品の約半分は 前記の各誌に発表したものを再録した。

と極簡単な経歴と韻文の投稿先が記されるが太郎座のことは分からない。しかし「目次」7頁2行め以下に関係者を挙げた最初に「題  簽  水 谷 章 三」とある水谷氏は『戦後人形劇史の証言』の編者の一人で「太郎座に参加した人々」には308頁下段18行め「水谷章三(34―38)(文、演)」と見えていて、同時期に太郎座に在籍していた。水谷章三(1934生)の経歴からしても、余所で知り合ったとは思えない。なお前回も引いたが、同じ名簿の少し前(15行め)に「松沢雅彦(34―35)(美)」とあるが、松沢氏の経歴や志向からしてもやはり美術部ではなく文芸部に所属していたのではないだろうか。
 これにて松沢雅彦(1935.5.30~1969.1.10)の経歴は、大まかではあるが判明した。『松沢雅彦遺稿集』第二巻として散文が纏められておれば、太郎座のことなど書いたものもあったかも知れないが、残念ながら続刊されなかったようだ。
 松沢氏と同様に、笠井氏と小林氏についても明らかに出来れば良いのだが「笠井純」だと笠井純一や笠井純子がヒットし、小林昭子は昭和19年度の第13回音楽コンクール(現「日本音楽コンクール」)でピアノの1位、コンクール全体の大賞に相当する文部大臣賞を受賞したピアニストばかりがヒットする。しかしこのピアニストの小林昭子もその後どうなったのかよく分からない。
 今回は国立国会図書館デジタルコレクションで従来追跡を諦めていたような人の経歴を辿っているうちに長くなってしまった。しかし別記事にはせずに次回『紀伊の民話』に話を戻そうと思う。(以下続稿)