・別冊太陽 日本のこころ 198「山田風太郎」(2)
昨日の続きで、59頁下段左側に掲出される、日記原本の見開きのカラー図版を見て置こう。キャプションには、「1943(昭和18)年3月30日の日付がある日記。会社(沖電気)に勤務しながら、小説を書こうとしていることが記されて/いる。戦時下に書き続けられたこれらの日記は、後に『滅失への青春 戦中派虫けら日記』として刊行された。」とある。第1日めに比べるとかなり崩した字で書かれている。
ゆくではないか?
故郷には、學校のことは永遠の秘密となるであらう。彼等/は自分を都會にあこがれて、とびだし、學問嫌ひのしやうのない/怠け者として見てしまふことであらう。
しかし、それもやむを得ない。すべては沈黙。――である。
〔三十日〕
貧乏ぶりが逼迫してきた。何もかも「この一戰」にかけてゐた/ので、もう金が一文もない。どうせつとまることではないが、ともかく/今日は断食する。
そして、どうせ當選しても三ケ月もあとのことだのに、懸賞/金ほしさに「螢雪時代」募集の學生短篇小説を書き/はじめる。何だか馬鹿らしい。まるで、子供みたいだ。
第一に書き初めたのは、大分前、退社を勞務課へ願ひ出て、/叱られた時に胸中に成つた「國民徴用令」である。これが/すめば、昨年の春の彼岸の日、母の墓から歸る途中の【右頁】山道で、家の裏の「勘爺さん」の後ろ姿のさびしが、胸を打った/時の印象と、二月の小西の訪問を組み合はせた「勘右衛門/老人の死」を書くつもりだ。
四月三十日〆切なので、毎日朝七時半から夜九時半までの/會社勤務の身では少し無理だが、出来ることなら中學時/代構成だけ立ててをいた「白夜の手紙」と、恩師大塩先生/の一挿話を夢のやうにぼかした「純情」とを書きたい。
尤も、今の自分の能力が子供だましみたやうなものであ/ることは自分でもよく承知してゐるから、今迄、造つてをいた/腹案は、少し先になると馬鹿らしくて小説化する氣力が/なくなりさうな不安があるから、妙な話だが、今の中に一氣/に書き上げてしまつて置きたい。
「蒼穹」―若し自分が身体が丈夫で、しかも南海に戰/死した海軍航空少佐を父に持つてゐたら?―その心理/を書くつもりである。【左頁】
昨日引用した日記初日の本文は活字本とほぼ同じであったのだが、この辺りはかなり異なっている。すなわち、活字本には見当たらない箇所を太字で、活字本では別の用字や表現に書き改められている箇所を灰色太字にて示した。異同は、注記するだけでは済まないので、活字本の本文は次回示すことにする。
ところで、山田氏の没後、昭和21年の日記が『戦中派焼け跡日記』と題されて刊行された際、昭和20年の日記『戦中派不戦日記』と重複する部分が複数あることが指摘された。
ハイブリッド型総合書店Hontoの「戦中派焼け跡日記 昭和21年」のページに寄せられた、「紙魚太郎」の2002/12/09「★★★★★ 疑問あり」及び「銀の皿」の2005/06/03「★★★★★ 憲法、天皇制を今考えるためにも今読みたい」と云うレビュー、或いは「教えて!goo」に寄せられた、「mannequincat」の2005/05/27「え。山田風太郎の戦中派不戦日記って手つかずじゃなかったの?」と云う質問を挙げて置こう。以前、この問題について論じ合っている、もう少し充実したページを見た記憶があるのだが、削除されてしまったのか見当たらなかった*1。
この問題について、山田風太郎記念館に問い合わせた人がいる。[mixi]の「「戦中派不戦日記」と作家風太郎の繋ぎ目」と云うトピックの[17]*2に、以下のような記述がある。
落としたと言いますと、『戦中派不戦日記』の12月9日の記述と、『戦中派焼け跡日記』昭和21年1月17日の記述が重複しております。
以前、山田風太郎記念館に問い合わせましたところ、これは風太郎自身の手によって1月17日に起こった非常に印象的な出来事を『不戦日記』に挿入して示したいがために推敲された結果であるという回答をいただきました。また、どうやら前後の移動はここだけにとどまらないとの話も聞かせていただいております。
このあたり、単なる記録ではなく、作家山田風太郎の一つの作品として『戦中派不戦日記』を読む手掛かりになるように思われます。
『戦中派虫けら日記』の場合、事情は異なるであろうが、山田氏は原文に手を入れることに、さほど抵抗を覚えなかったらしいことが察せられる。やはり公刊された日記は作品なのである。……だとすると、やはりこれをそのまま昭和17年から昭和20年の記録として利用する訳には行かないだろう。『戦中派虫けら日記』『戦中派不戦日記』は作家山田風太郎による作品として尊重しつつ、別に昭和17年から昭和20年までの『山田誠也日記』を、提示する必要があるのではないか。(以下続稿)