1月1日付「森鴎外『雁』の年齢など」で、「新潮文庫や岩波文庫の注には何故か指摘がない」と書いた。ところが、新潮文庫は3年前の改版で、「大学医学部が下谷にある時」に「東大医学部の前身である医学校は下谷和泉橋通りにあった。明治九(一八七六)年十一月に現在の本郷に移転した。」との注が付されていることに気が付いた。
そこで、訂正旁々、文庫本について書いておく。
過去には角川文庫や旺文社文庫・文春文庫からも出ていたようだが、ここでは新潮文庫と岩波文庫について、私の行動範囲にある図書館数館で見た本について記述する。いずれも歴史的仮名遣いで出ていたはずの初版は未見。今後同じ版の別の刷を見たら【補記】として後日この項に付け足しておくつもりである。
岩波文庫31-005-5(1936年2月29日第1刷発行/2002年10月16日改版第1刷発行)定価380円、178頁。これが現在でも書店に並んでいる版である。カバー画は横山大観による初版(籾山書店版)の口絵で、岩波文庫一般の体裁には倣っていない。短めの紹介文はカバーの折り返し(そで)にある。目次(3頁)本文(7〜152頁)注(153〜157頁)森林太郎立案『東京方眼図』(明治42年6月)より(158〜159頁見開き)稲垣達郎「解説」(161〜171頁)森鴎外略年譜(173〜178頁)。稲垣氏の解説は「一九七〇年十一月」付なので、その頃にも改版があったのだが、そのことは奥付には全く記載されていない。末尾の〔編集付記〕に「底本には、『鴎外全集』第八巻(一九七二年六月、岩波書店刊)を用いた」とある。「注」は59項で署名はない。後述する新潮文庫の三好注よりも簡略である。
さて、その稲垣氏の解説の付された改版である。(1936年2月29日第1刷発行/1970年12月16日第34刷改版発行©/1990年7月6日第56刷発行)定価204円、143頁*1。カバーは岩波文庫の一般の体裁を襲い、紹介文とカット(不忍池?)が入る。目次はなく本文(5〜133頁)で注はない。稲垣氏の解説(135〜143頁)のみである。この改版は奥付の前に附されている岩波文庫編集部の断り書きにあるように、「現代表記」への書換えで、当時準備が進行していた岩波書店第三次『鴎外全集』とは無関係のようである(底本についての情報はない)。
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新潮文庫46(昭和二十三年十二月五日発行/昭和四十三年三月三十日四十二刷改版/昭和六十年七月五日七十五刷)定価200円、132頁。カバーは川田幹の版画。目次なし、本文(5〜115頁)の他に三好行雄による85項に及ぶ「注」(116〜123頁)、片岡良一による昭和二十三年十月十五日付の「解説」(124〜132頁)が附される。
三好氏による「注」は改版時に附されたものであろう。この改版は岩波文庫と同様、現代仮名づかいへ表記を改変したためであろう。片岡氏の「解説」は初版以来のもので、如何にも昔の評論家の論調である。が、これは片岡氏に限らず、かつ文藝評論にも限らない傾向なので、ここでは深入りしない。いくつか気になった点を指摘しておくと、まず124頁10〜12「……、はじめは嫌がった小使い上りの高利貸し末造の妾になる。それも細君の死別した後へのつもりで嫁入ったのでありながら、実際はそうでなかったことが後でわかっても、さしてひどく憤慨するのでもなかった。」とあるが事実誤認である。125頁1〜2「ところが、そういう彼女は、魚屋のおかみさんから高利貸しの妾であるが故の侮辱を与えられて、何がなし「悔しい」と感じる。」これも同じく。125頁17「彼女の我の目ざめ」は「彼女の自我の目ざめ」で誤植。127頁7「岡田の友人――即ち青魚のみそ煮の大嫌いであった鴎外漁史が」と主人公「僕」=鴎外本人と決めつけているのも、如何なものか。
次の七十六刷で改版となっている(昭和二十三年十二月五日発行/昭和六十年十一月十五日七十六刷改版/平成十七年一月十五日百七刷)定価286円、144頁。本文(5〜128頁)注(129〜136頁)は旧版と同内容、「解説」は竹盛天雄(昭和六十年十月付)のものに変わっている(137〜144頁)。カバー、表は見た全く同じに見える。裏は左上にバーコードが入るなどレイアウト変更が見られるが、右上にある紹介文は全く同文である。カバーの折り返し(そで)に作者の略歴が写真入りで入っている。
次に百十刷で改版になっている(昭和二十三年十二月五日発行/平成二十年二月二十五日百十刷改版/平成二十年十月五日百十一刷)定価324円、184頁。本文(5〜144頁)千葉俊二による注(145〜175頁)は334項に及ぶ。解説(176〜184頁)は変わっていない。カバーは「カバー挿画 引地 渉」に変わっている他、作者の略歴や裏表紙はそのままである。
千葉氏の注により三好氏の注の問題点はかなり解消されているようである。ただ、項目が多いだけに「爪に火を点す」や「貧すれば鈍する」にまで注を付しているのには少々複雑な思いである。「べらぼう」を語源から説き起こすのも、語義とうまく接続しておらず余計に感じられる。また、三好注が「姓名未詳。『花月新誌』に夢香情史、夢香小史などの名で、その作が見える。」としていた「夢香」を岩波文庫の注が解明しているのに対し、千葉注は三好注のままである。もちろん「夢香」が分かったところで読解にさほど影響するとも思えないが。
- 作者: 森鴎外
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なお、ちくま文庫(一九九五年九月二十一日第一刷発行・筑摩書房)定価980円、354頁。ちくま文庫版「森鴎外全集4」で標題は『雁 阿部一族』。他8編を収める。「雁」は7〜133頁。見開きの左端に注が付されており、新潮文庫(三好注)・岩波文庫よりも多く245項に及ぶ。「大学医学部が下谷にある時」にはやはり注がない。
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どうも注に拘り過ぎたようだが、出来れば間違いのない、そしてわざわざ頁を繰って見て(ちくま文庫のように配置されていればすぐだが)良かったと思えるような注を求めるのは、本読みとして当然のことである。児童書に入っている「雁」の注なども見比べてみたので、気が向いたら問題のある注について取り上げてみたい。尤も、揚げ足取りのようでもありあまり良い気分でもないが、遠慮して誤植や誤読をそのまま放置することになっても何の得もない。詰まらぬ間違いから消していかないと、いくら高説を述べたところで仕方がない、とも思うのである。
*1:【2012年4月7日追記】1996年2月15日第63刷発行・定価301円。【2012年8月22日追記】1986年9月10日第50刷発行・定価200円。カバーはない。最後に目録が「'86,5現在在庫 B-1(〜3、A-1〜3、C-1〜3、E-1〜2、F-1〜2)」と「岩波文庫の最新刊」の「1986.7.」の合計14頁。【2015年1月6日追記】1993年4月15日第59刷発行・定価252円。カバー表紙折返し『広辞苑』第四版の広告、壺印マーク。裏表紙折返し、「ワイド版 岩波文庫」の広告。目録は「'93,1.現在在庫 B-1(〜4、A-1〜3、C-1〜3、E-1〜2)」と「岩波文庫の最新刊」の「1993.2.」と「1993.3.」の合計14頁。B・A・Eには小口側下部に、Cはノド下部に「☆印の書目には、文庫版のほかに活字の大きいワイド版〔B6判、並製・カバー〕もあります」〔 〕は半角。但しB-3とE-2にはない。