瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(01)口絵

 まだ「木曾の旅人」の話を続ける必要があるのですが、先へ進めるためにはもう少々調べてからにするべきのようです。そこで、また旧稿を引っ張り出して、しばらくお茶を濁しておきます。文体が敬体になっているのは、書いたときの気分の反映です。

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 村松定孝『わたしは幽霊を見た(少年少女講談社文庫C-14)』(昭和47年11月24日第1刷発行・昭和54年9月30日第17刷発行・定価480円・講談社・190頁)については、既にいくつかのブログでも取り上げられており、ネット上の古書店のサイトでも高値が付けられていますし、かつて2chに「「わたしは幽霊を見た」のイラスト探してます」「村松定孝著「わたしは幽霊を見た」覚えてる人」などというスレまでありました。
 しかし、それは2chスレタイにもあるように、本文よりも村松氏の関与していない、口絵のイラストが衝撃的だったからのようです。そこでまず、口絵について述べてみましょう。
 口絵は4頁(頁付なし)で、1・4頁がモノクロ、2〜3頁の見開きが黒と橙色の2色刷です。1〜3頁は横書き、4頁は縦書き。
 口絵1頁目は上部に「50年間ものびつづける人形の髪!」との見出しと「菊子ちゃんの霊は,ほんとうに人形にのりうつったのだろうか。」の副題。写真は中央に日本人形、左上に「万念寺」の石柱の門と本堂、右下に「今川準応住職」の眼鏡に白い顎髭、黒ネクタイの背広の上に法衣をまとったらしい胸から上の顔写真。下部に「くわしいことは,本文10ページをごらんください。」とありますが、この本文10頁は村松氏の執筆していない部分です。
 口絵2〜3頁目の見開きは、2頁目上部に「昭和27年,大高博士をおそったほんものの亡霊」の見出しで、鉛筆書きの、上手いとは言えないが妙にリアルな胸からの上の男性像のスケッチの写真(地色を淡い橙色に印刷)。図中に左側に「この絵は、大高博士が、亡霊が立ち去ったあ/と、すぐにその場でスケッチしたものです。」の説明。このスケッチは完全なもののようで、右下に「8.20」の日付が確認できます。
 3頁目は上部に「↓大高博士の手記」と題して、以下「それは,わすれもしません,昭和27年8月20日午前3時半ごろのことです。……」と始まっていますが、「……わたしが,むちゅうでさけんだとたんに,目の前にこの亡霊があらわれたのでした。」で終っています。それからどうなったのか、興味がそそられるところですが、ここで切れています。本文に続きがあるのかと思いきや、どこにも続きはありません。左下には「大高博士によるへやの見取図」もあって(スケッチと違ってデザイナーがキレイに書き直したもの)、「亡霊のあらわれた経路」として、実線の矢印で近付いてくるまでを、破線で遠ざかっていく経路が示されていて、やはり省略された結末への想像を、嫌でも掻き立てられてしまうのです(単に大高博士の叫びに亡霊が立ち去った、というだけかも知れませんが)。右上に、現在の皇太子殿下に少し似た「大高 興(おおたか こう)博士」の顔写真と、手記の末尾に「(大高博士は現在青森市に住む/お医者さんです。)」との注記がリアリティを高めています。
 この見開き図、中でもスケッチのみ単独で、ネット上にいくつかアップされているようですし、さらにこの亡霊の遺族がテレビ番組で名乗り出た、という展開もあったようです*1が、本稿ではその詳細には及びません。ただ、この大高博士のスケッチが、村松氏の意図とは別に本書『わたしは幽霊を見た』の印象を強烈にする役割を果したらしいことは、ネット検索していくつかのサイトを覗けば諒解されることを申し添えておきます。
 口絵4頁目は左上に「日本のゆうれい族を代表するお岩さんのゆう/れい(北洲画 早大演劇博物館提供)」右下に「いまもおまいりす/る人がたえない東/京四谷のお岩稲荷」。
 お岩さんもやはり村松氏の言及していない話題で、この口絵というのは、編集部にあったそれらしい資料を突っ込んだまでなのでしょう。


 ところで、「少年少女講談社文庫のペットマーク」である、本を持った「ふくろう」には見覚えがあるのですが、私には子供の頃に本書『わたしは幽霊を見た』を読んだ記憶がありません。3年ほど前に、泉鏡花についてちょっと気になって調べているうち、かつて鏡花研究の第一人者だった村松氏の経歴に興味を持ちました。そして、ネットの情報を見ているうちに、本書についての、ブログの記事に辿り着いた次第です。そして、『わたしは幽霊を見た』も村松氏の経歴調査に資するものと分かり、某公立図書館に行って書庫から出してもらい、読んでみました(一昨年夏)。で、内容についても興味を持った次第です。

*1:2021年1月20日追記】この件については2020年9月24日付「中学時代のノート(16)」に触れたように、作家の福澤徹三(1962生)が繰り返し書いているようだ。