瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張『岸田劉生晩景』(5)

新潮文庫3021
 本書を読んだのは、もちろん「装飾評伝」の関連で松本氏の岸田劉生観を見て置くためで、ついでに抱き合わされている作品も読んだのであったが、文庫版の収録作品のうち「鳥羽僧正」「北斎」と「筆写」は『松本清張全集』の生前に出た第二期までには収録されず、没後に出た第三期にも収録されなかった。従って本書が久しく増刷されない現在、松本氏の作品の中でも手軽に読めない部類に入る。本書収録作品がいづれ推理小説ではないことに起因するのだろうか。そんな作品に突っ込みを入れたところで、話が通じないだろうと思うが、興味のある人は探して読ん下さい。
 昨日「筆写」について疑問を述べたが、それなりに面白く読んだ。自分が無精で不潔なことを自覚し、そのために息子にも嫁にも孫たちにも避けられているのに改められない老人が主人公で、ただ一人親切にしてくれる女中に夜這いをかけるので(しかし察した嫁により既に女中は解雇されており、不発に終わる)、実際に自分の祖父なり父なりがこんなだったら、私とて相手にしたくないと思う。作中の孫が2人とも男の子で良かった。なんだか、2011年3月31日付「平山蘆江『東京おぼえ帳』(4)」に余談として書いた「見た目で判断する」と文句を言う女生徒を思い出した。――実は腹黒で狡猾なのに教師の前では良い子振って依怙贔屓されている似非優等生に文句を言っているのだが、自分も教師に良く思われたくて、しかもそういう生徒が受けるということまでちゃんと分かっているのならその真似をすれば良いだけだ。それだのに教師に好かれない態度なり身形をわざわざした上で「きちんと見てくれない」と文句を言ったところでねぇ。受けないと分かっていてやっているのだし、自分たちの予測した通りになっているだけじゃないの。どこが不満なんだか分からない。好きな格好をしたいのなら教師になぞ好かれなくても構わないだろう。が、しかし、そういうものなのである*1。嫌われると分かっていても、改まらない。
 「岸田劉生晩景」は昭和40年(1965)2月から4月の「藝術新潮」に「劉生晩期」と題して連載されたのだが、これは単行本に先立って、第一期の『松本清張全集34』(1974年2月20日第1刷・1985年8月30日第4刷・定価1800円・文藝春秋・517頁)の211〜508頁「エッセイより」の最後(470〜508頁)に、初出の題のまま再録されている。従って、針生氏の「解説」が「……「岸田劉生晩景」は、新しく発掘された資料もとりいれながら、劉生の晩年/にメスを入れた記録体小説である。」(233頁9〜10行め)とするのに違和感を覚える。事実を松本氏の推論で繋げているので、小説らしい感じは少しもしない。(以下続稿)

*1:2014年8月15日追記2014年8月6日付「北杜夫『どくとるマンボウ回想記』(2)」の最後に添えて置いた、渡辺淳一愛の流刑地』の裁判の場面について、主人公の思考がここに書いた女生徒と全く同じであることに気付いた。理解される訳もないのに苛立つ。……そのくらいのメンタルでないと、いけないのかも知れない。そんな気もして来る。――しかし『愛の流刑地』の主人公は、自分は高みにいると思っているのだから、俗世の理屈では理解されなくても構わない、という態度で良さそうなものだが。