瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張「装飾評伝」(10)

 昨日の続きで「贋作の思想」の15頁上段を見てみる。

 美術史の上では、単なる笑い話のようにしか扱われない/この事実に作者は目を付け、これを物語の主題にしている/のである。(話は飛ぶが、芸術新潮の昭和五十六年一月号/から九月号に連載された「青木繁坂本繁二郎」でも、そ/うだ。これまでの美術史が見落していた、同郷、同世代/で、性格も対照的な二人の画家の宿命の愛憎に、スポット/が当てられていた。青木と、青木の事実上の妻でもあり、/子まであった福田たねとの愛憎にも。)


 昨日、田中氏の書き方が不正確ではないか、と文句を付けたのだが、それは冒頭で「調べの万全」を強調する田中氏にしては、ということで、この辺りの知識のある人にとって「装飾評伝」が岸田劉生と椿貞雄の関係を自明のこととして想起させた「事実」が、この際重要である。( )内の連載は、2012年11月2日付「松本清張『岸田劉生晩景』(1)」で見たように新潮文庫3021『岸田劉生晩景』のカバー表紙折返しに単行本の広告が出ていた。

 しかし、清張さんの「装飾評伝」は、どこまでも小説で/ある。異端の天才画家名和薛治と、その巨大な才能にあま/りにも近づきすぎたばかりに、自分の才能だけでなく妻ま/でを奪いとられることになる弟子芦野信弘との宿命の対決/を描いたもので、決してそれは劉生と椿との間に実在した/話ではない。作中、弟子は、後の批評家や美術史家が異端/の天才画家の名和を論ずるときには必ず参考にしないでは/すまされぬ評伝「名和薛治」を書きのこしているが、椿貞/雄は美術史の上でそれほどまでに貴重な史料とされる劉生/の評伝を書いてはいないのである。
 岸田劉生が自殺同然の死に方で三十八歳を閉じたのも、/大連の旅の帰りに立ち寄った瀬戸内の徳島で、冬の北陸路/の断崖から墜ちたのではなかった。劉生は雑誌「白樺」に/よって印象派の洗礼を受けたあと、大正洋画壇の新傾向と/逆の北欧ルネッサンスの古典派のデューラーや、ファン(以上15頁上段)・アイクなどにあやかるが、「装飾評伝」の名和薛治のよ/うには決して、ボッシュブリューゲルの影響を受け、そ/れ風の幻想画を描いたことはなかった。


 劉生が死んだのは徳島ではなく山口県の徳山である。
 それはともかく、ここで田中氏は、「装飾評伝」と実際の岸田劉生・椿貞雄との相違をいくつかピックアップして違いを強調している。この相違はいくらでも挙げることが出来る。「装飾評伝」では弟子の妻を寝取ったことになっているのであるが、東珠樹『岸田劉生 椿貞雄の回想から』を見るに、「補遺」として巻末に収録された書簡のうち「椿に宛てた劉生の手紙」17通の最後「十五」(大正7年)八月八日付、「十六」(大正7年)八月十四日付、「十七」(大正8年)三月四日付、の3通は、恋愛問題で苦悩する椿氏を温かく激励する内容となっている。結果、椿氏は恋愛を成就させて大正10年(1921)3月14日に劉生夫妻の媒酌で結婚している。尤もこの東氏の本は「装飾評伝」発表後に刊行されたので、松本氏は参照出来なかったのではあるが。
 さて、花田氏や川勝氏の論文では「装飾評伝」と事実の相違を一々数え上げているが、その方法と見解が異なっている。どう違うかはそれぞれの論文について検討するに際して改めて触れることにして、差し当たり次回は、15頁下段、田中氏がどのようなまとめをしているかを、確認しておくこととしたい。(以下続稿)