瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張「装飾評伝」(09)

 以下、田中氏の「贋作の思想」から、「装飾評伝」に関する部分を抜き出してみる。

 清張さんの昭和三十三年の好短篇に「装飾評伝」があ/る。冬の北陸路の断崖から墜死して、四十二歳を閉じた異/端の天才画家の名和薛治と、その弟子で、師の評判の陰に/かくれて七十余年の不遇な絵かきの生涯を閉じた芦野信弘/との師弟関係を書いた小説である。見かけは普通の師弟関/係だが、その底に隠された恐ろしいまでの愛憎の世界が、/小説家のこれも一人称の「私」によって解明されてゆくの/である。


 「これも一人称の」というのは、まず最初に取り上げた「真贋の森」が「組織的な贋作事件をたくら」んだ「俺」によって語られていることを踏まえている。「見かけは普通の師弟関係だが」というのは、「普通以上に親密な」くらいでないとおかしいように思うのだが、それはともかく、まずは以上のように、内容をまとめている。

 異端の画家名和薛治のモデルは、大正期の天才画家岸田/劉生である。弟子の芦野信弘も、美術ファンならすぐに思/い当る椿貞雄である。劉生と椿の師弟関係は異常なほど親/密で、住まいも隣り合わせ、写生も一緒にゆき、同じ場所/に前後して画架を並べ、同じ風景を同じ構図で描いた。絵/の具から、混ぜ方はいうまでもなく、絵筆、キャンバスま/で、弟子の椿は師の劉生と同じ物を使った。着物、食べ/物、日常の趣味、癖まで、弟子はまるで同化してしまった/かのように師の劉生を生きたのであった。(以上14頁下段)


 田中氏は「岸田劉生である」と断言している。だとすると、ここまで「親密」な弟子が椿貞雄(1896.2.10〜1957.12.29)であることは「美術ファンならすぐに思い当る」はずだ、というのである。ただ、田中氏のいう「異常なほど」の「親密」ぶりだが、土方定一岸田劉生』の「年譜」と椿氏の女婿東珠樹『岸田劉生 椿貞雄の回想から』の「岸田劉生・椿貞雄年譜」を参照する(土方氏と東氏の本については別記の予定)に、隣り合って住んだのは大正4年(1915)から翌年7月に劉生が肺結核と誤診されて東京府荏原郡駒沢村世田谷新町(現・世田谷区新町)に転居するまでで、大正9年(1920)2月に椿氏が当時劉生が住んでいた鵠沼に転居して「親密」な交遊が復活したが大正12年(1923)1月に関東大震災に先立って椿氏は高田馬場に転居している。劉生は大正15年(1926)3月に関東大震災後に移り住んだ京都から当時椿氏が住んでいた神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現:鎌倉市)に移っているが、椿氏は翌昭和2年(1927)6月に千葉県東葛飾郡船橋町(現・船橋市)に転居しており、この劉生の「鎌倉」時代の遊蕩に、椿氏が同行することは殆どなかったらしい。従って、「明治四十年白馬会研究所にいっしょにいたころ」から「名和が渡仏した大正七八年の二年間」を除き(光文社文庫版10頁)、「昭和三年ごろ」から名和が「放浪」する(光文社文庫版8頁)に至って初めて往来が絶えたことになっている、すなわち明治40年(1907)から昭和3年(1928)まで20余年に及ぶ「装飾評伝」の名和薛治と芦野信弘の「親密」さには及ぶべくもない。紙幅の都合もあろうが、田中氏の書き方は簡略に過ぎ、かつ誤解を招く可能性を孕んでいるように思う。ちなみに、椿氏は「まるで同化してしまったかのように師の劉生を生きた」と、田中氏はいうのだが、近所に住んで「画架を並べ、同じ風景を同じ構図で描いた」のは事実としても「着物、食べ物、日常の趣味、癖」まで「同じ」になったかどうかは、東氏の本を読む限りでは分からなかった。同時代人の回想を読んでみる必要があろうか。(以下続稿)