瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

浅間山の昭和22年噴火(2)

 9月28日付(1)の続き。
 「朝日新聞」の縮刷版を見た。
・「朝日新聞縮刷版」昭和二十二年八月號(通卷第三一四號・昭和二十二年九月十五日發行・定價五十円・朝日新聞社・4+62頁・B4判並製本
 朝刊のみで1枚・表裏2頁だから頁付もない。本文が62頁なのは31日×2頁なのである。
 前付【1】〜【4】頁は「昭和二十二年八月記事索引」で「縮刷版」には索引があるのが有難い。7段組で、2頁6段めに黒の長方形に白抜きゴシック体の本字で[社會]とあって、そのうち【2】頁の7段めの左から【3】頁の1段めの右にかけて【事 件】として14項目、うち5項めが、

浅間山爆發……………………三〇
 二十名以上遭難……………三二
 七死体收容…………………三八

である。【2】頁7段めには8項目、【3】頁1段めに6項目あります。以下、順に記事を眺めて置きましょう。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 「心肺停止」などという表現を使っているから「早く助けてあげて」とか「一人でも多くの人が助かりますように」とか、思ってしまう一般人がいるのは仕方がないとして、――「72時間の壁」とか云う頓珍漢な記事を書く記者まで出て来たのには驚いた*1
 言葉を正しく使わないから混乱する。漸く「搬送」作業と云うようになったが今日になっても「救出」活動と言うアナウンサーがいる。「心肺停止」は「蘇生」措置で何とかなるような場合に限定するべきだ。翌日の午前中に「救助」されて以降は「生存者」はいないはずである。やはり「遺体」というしかないのではないか。それをどうしても避けたいのであれば、「心肺停止」とは違う言葉を使うべきだろう*2
 幸い、今日は捜索作業が進んで、発見された47体全てが収容され、「心肺停止」状態のまま残されている遺体はないようだから、今晩と明日の朝とは言葉と実態との齟齬に戸惑うこともなくなった。登山客が巻き込まれた噴火としては、早川由紀夫・中島秀子「史料に書かれた浅間山の噴火と災害」(「火山」43巻4号213〜221頁・1998年8月31日発行)に見える*3、『当代記』慶長三年(1598)四月八日条「浅間山江参詣衆八百人程焼死云々、昨日大小之違ニテ、今日ハ不縁日之由、山巓ニテ呼ルト云へ共、只人間ノ所謂也ト心得、不用之、参詣之処、如此、」が最大であるが、時期的に傍証があっても良さそうなものなのに今までのところ示されておらず、信憑性に問題がある。その後、享保六年(1721)の浅間山の15名、享和元年(1801)の鳥海山の8名、阿蘇山で昭和28年(1953)に6名、昭和54年(1979)に3名、昭和49年(1974)の新潟焼山で3名などがざっと思い浮かんだだけでも指摘される*4が、詳細が判明しているものとしては日本で最悪のものとなってしまった。世界的にも無防備の登山客が火口周辺で多数巻き込まれた例は、あまりないのではないか。

*1:判断力皆無、馬鹿の一つ覚えとしか云いようがない。……「地震」即「津波」と同じだ。

*2:2018年9月8日追記胆振東部地震でも「心配停止」で「救助」された、を連発している。報道機関はこの言い方が一種の思考停止だと思わないらしい。だから首相が死亡者数を発表すると云う珍妙な構図をそのまま垂れ流している。そんなことこそ現場に任せて、別に「丁寧に説明する」と云っていた件について、総裁選の機会にきちんと説明してもらいたい。――これではどう見ても生きていない人体を発見しても「心配停止で救助」と云う頓珍漢な表現になる。ゾンビじゃあるまいし「死体を発見、収容」と何故云えないのだろうか。せめて「心配停止の住民を発見」と云ってくれ。それでも私は変だと思うのだけれども、……このままでは日本語の感覚が妙な建前によって破壊されてしまう。私には気色悪くて仕方がないが、人は私ほどではなくても似たような印象を覚えないのだろうか。

*3:もちろん、私が火山小僧だった頃にはこの論文は存在しないので、私がこのことを知ったのは村山磐『日本の火山(II)』によってである。

*4:火口周辺にいた硫黄鉱山の従業員などが多数死亡した噴火としては、明治33年(1900)の安達太良山や、昭和37年(1962)の十勝岳で起こったものがある。