10月1日付(02)に紹介した「朝日新聞縮刷版」の記事索引にて、この噴火の記事が出ている期間は、大体の見当が付けられます。当時の表裏2頁・朝刊のみの僅かな紙面で、予兆の段階から細かく取り上げたり、その後についてだらだらと取り上げたとは思えませんから、新聞記事の点検は差当り、噴火翌日の昭和22年(1947)8月15日付から20日付くらいまでを見て置けば、良さそうです。
・毎日新聞(1)
表裏2頁なので頁付はありません。噴火の記事が出ているのは裏面(2頁め)で15段組、11段めまでが記事で12〜13段めは小説と広告、14〜15段めは広告で15段めは2段分あります。
・昭和22年8月15日(金曜日) 第25561号 5版
6段めの左寄りに次のような小さい記事があります。
浅間山大爆発
【小諸発】十四日午後零時廿分ご/ろ浅間山が大爆発し、同二時漸/く休止狀態となつたが、近年にな/い大爆発で、小諸町からみると山/頂近く旧噴火口湯の平の火山館は/火災らしく、同館には山の主とい/われる小諸町小山金童氏(六七)東大/地震研究所理博水上武氏も登山中/とみられ安否が氣づかわれている*1
度々言及している毎日新聞社のサイト「昭和毎日」の「昭和のニュース/浅間山噴火 1947年08月14日」に掲載される〈当時の新聞紙面〉はこの面です。但し文字は全く読めません。
水上武(1909.6.20〜1985.9.8)は「火山に関する地球物理学的研究」により、昭和31年(1956)5月14日の第46回日本学士院賞を受賞しています。「日本学士院」のサイトで受賞審査要旨を読むことが出来ますが、浅間山の噴火の予知を可能にしたことが高く評価されています。しかしこの中で、32頁8〜10行め、
‥‥、少くとも浅間火山においては、爆発の効果的な予想はほとんど実現可能の域に達したといえる。/現に昭和二十二年八月の爆発については、水上君の研究は前以て人々に与える警告の基礎となつた。もしこの警告が/なかつたら、登山者中に犠牲者が生じたかも知れないのである。
と云うのは、事実に反します。但し、10月2日付(03)に紹介した「朝日新聞」8月15日付記事の冒頭「危険の状態をつゞけていた」というのは、水上氏の観測に基づく警告であったのでしょう。「当日登山者は相当あつたが、午前中に下山し」というのも、既に示したところですが10月3日付(04)に紹介した「朝日新聞」8月16日付記事に見える「爆発直前下山した小諸署員」によって直接登山客に呼び掛けがなされたからだろうと思うのですが、それでも10名が死亡してしまったのです。それはどうしてなのか、体験した人々が証言を残す時期としては、もうそろそろ(戦争体験談とともに)リミットに近付きつつあります。私にはその取材をする余裕はありませんが、ここに当時の資料を提示して、何かのきっかけになればと云うくらいの気持ちでいるのです。(以下続稿)