・北区史編纂調査会 編集『北区史 資料編 現代別冊/新聞記事目録』(2)
昨日の続きで、「解説」1頁め20〜25行め、「國民新聞」に関する段落を抜いて置こう。
②『国民新聞』の記事を収録したのは、日常生活のなかに「戦争」が入り込んできた時期の市制や/地域の生活にかかわる記事が豊富であったためである。これは同紙の場合、王子区・滝野川区も含ま/れる地域版―昭和16年8月までは東京市制版、8月以降は城北版(東京城北版)、翌年4月から東京版/―が充実していたことによる。青年欄や国防婦人欄といった欄も設けられ、地域における青年団や婦/人団体などの組織化の状況や日常生活の統制など、興味深い記事が多く掲載されている。なお『国民/新聞』は昭和17(1942)年11月、『都新聞』と合併して『東京新聞』となり、現在にいたっている。
私は昭和14年(1939)2月から3月辺りしか「國民新聞」を見ていないから、この評価に対して十分な根拠を挙げて論評することが出来ないのだけれども、しかし、――大正5年(1916)以来縮刷版を刊行して来た「朝日新聞」が記事索引の土台になるのは当然として、もう1紙選ぶとすれば、2014年7月14日付(140)に取り上げた北杜夫(1927.5.1〜2011.10.24)がそうしていたように、やはり「都新聞」なのではないか。そこが、実際当時東京市で生活していた北氏と、平成初年の北区史編纂調査会との、違いということになる、そんな気がするのである*1。実際、赤マントについても「國民新聞」は2013年11月9日付(19)で紹介した記事1つだけであるが、「都新聞」は2013年11月8日付(18)に紹介した昭和14年2月20日付(19日夕刊)「飛鳥山の不良狩/傴僂恐怖の副産卅七名」以来連日記事にしていた。このうち、2013年11月5日付(15)に紹介した昭和14年2月24日付(23日夕刊)「〈流/言〉「吸血の傴僂男」/今夜AKから鎭靜放送」や2013年11月30日付(40)に紹介した昭和14年2月24日付「令孃までが"捕へてよ/苦笑と溜息の江副課長"流言犯人は嚴罰だゾ"/妖説"赤マント"調伏係り大クサリ」もこの『新聞記事目録』に採録出来たであろうし、北区飛鳥山博物館 編集「北区飛鳥山博物館研究報告」に論文が出たかも知れない*2。
ここで『新聞記事目録』の当該箇所を抜いて置こう。124〜135頁「1939(昭和14)年」の125頁、1行めに[月 日| 新 聞 名 | 見 出 し | 内 容 ]とあって、以下2月8日付から3月5日付までの記事が並ぶが、16行めに、
とある。先に当ブログにこの記事を紹介したとき、私はこれを「夕刊」としていなかった。もし「夕刊」であることを見落としたのだとすれば、これまでの記事も(若干ではあるけれども)修正する必要が出て来るが、なかなか閲覧にも行けないので今は、いづれ果たすことを約して置く。
さて、「國民新聞」の記事には「赤マント」の呼称は出て来ないので、これを見ただけでは、これが実は東京中を席捲し大阪から京城にまで伝播した赤マントの“走り”を報じたものだとは気付けない。(以下続稿)
*1:同様の残念な感じは、2014年7月15日付「中島京子『小さいおうち』(38)」に取り上げたように、世評の高い小説にも指摘されるところである。
*2:どうせなら私に書かせて欲しい。