瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(44)

 当時の「都新聞」の朝刊(一)面トップはこの「讀者と記者」欄で、毎日掲載されています。
 昨日見たように昭和14年(1939)2月26日付「都新聞」では「流言と取締/愼重な態度で」で、匿名ということもありましょうが忌憚なく当局の「取締方法」の「間違」いを批判しております。ところでこの欄の左にあった「文藝」欄の長谷川時雨「かの子の訃報」は『〈新聞/集成〉昭和史の証言』第十三巻*1(昭和六十年十二月一日発行・定価15,000円・本邦書籍・7+14+559頁)の101頁1段め〜3段め26行め(1段33行)に〔二・二六 都〕*2として、掲載されておりますが、新たに新漢字に組み直してあります。しかしながら、この前後の「都新聞」に多々出ていた「赤マント」の記事は、他紙に出ているものも含めて『昭和史の証言』シリーズには、残念ながら採録されていないようです。
 さて、投稿者SS生は、巡査が巡回して来てこの噂を知らなかった妻にデマの詳細を説明したことをまず問題にしています。学校を中心に広まったらしいので、子供のいない、いても小学生や女学生でない家庭には入っていなかったかも知れません。「都新聞」が吸血セムシ男を伝えたのは11月8日付(18)で見たように2月19日(日曜日)夕刊でしたがこれは飛鳥山など瀧野川署管内限定の話題のようでした。赤マントが出てくるのは11月5日付(15)で見たようにラジオ放送直前の2月23日(木曜日)夕刊です。投稿者宅に来たのはラジオの注意の前、というのですから、「都新聞」では報じられていなかった段階です。或いは投稿者の住む「市の一隅」はまさに「板橋辺」であったのではないか、という気もするのです、取締に躍起になっている、まさに「板橋辺」なのではないか、と。時期が早ければその可能性が高いでしょう。市の南部に住んでいた岩佐氏はラジオ放送までに巡査の訪問を受けていないようですから。……違うかも知れませんが。
 それから投稿者はラジオでの注意が噂の拡大に役立ったというふうに見ています。一方で11月6日付(16)で見た岩佐氏や11月25日付(35)で見た大宅氏、それから11月19日付(29)で見た「東京だより」はラジオ・ニュースに鎮静化の効果を認めているようですが、実際には、もうしばらくこの赤マントをめぐる当局の対策は続くのでした。もちろん自然に鎮静化には向かったでしょうけれども。(以下続稿)

*1:扉による。続けて「 第二次世界大戦・暗い青春」とある。奥付には「第十三 第二次世界大戦・暗い青春」とある。背表紙には「13」のみ。

*2:月は全角、日付は半角。