さて、7月13日付「北杜夫『楡家の人びと』(07)」に引いた「創作余話」等にあるように、北氏は執筆に際して東京大学史料編纂所と国会図書館で、新聞を大正7年(1918)から「敗戦の年」まで調べたというのですが、それが「朝日新聞」と「都新聞」であった訳です。「都新聞」は昭和17年(1942)10月1日に「國民新聞」と合併して「東京新聞」に、「朝日新聞」は昭和15年(1940)8月31日までは「東京朝日新聞」だったのですが、とにかく昭和20年(1945)まで「必要なことをメモした」というのです。
そうすると、北氏は2013年10月26日付(05)で見たように『楡家の人びと』に赤マントを、時期を過たずに取り上げているのですが、これは国会図書館での「都新聞」閲覧の成果ではないか、と思われるのです。
「東京朝日新聞」には赤マントの記事は全くない(らしい)のですが、「都新聞」には2013年11月8日付(18)で見た昭和14年2月19日夕刊から2013年12月10日付(50)で見た昭和14年2月27日夕刊まで、連日記事が出ており、決して小さい扱いではありません。
もう1つ、北氏は、この流言は広まっていた頃、直接この流言に恐怖する立場になかったことが、その理由です。(以下続稿)