瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

水上勉『湖の琴』(2)

 昨日の続き。
田坂具隆監督『湖の琴』(2)
 二代目中村鴈治郎は、坊主でありながら『破戒』で藤村志保(1939.1.3生)を襲ったり『炎上』で芸者遊びをしたり(ともに市川崑監督)していたのと比べてしまったので、関係を結ぶまで随分我慢している(!)印象であった。尤も、そこまでの諸々の出来事も、今だったら途中で逃げているところだが、とにかく師匠の権威が絶大だった時代で、しかも紋左衛門は言葉遣いも丁寧で、強制は、していない。だから尚のこと、佐久間良子は逆らえない、と云うか、強制していないからこそ、逆らったら悪いような気持ちにさせられて、結局最後のところまで持って行かれてしまうのである*1
 ネット上には登場人物の考え方や行動について、現代的な観点から批判している人が少なくないが、真面目で従順な人間の発想は今でもそう変わっていないのではないか。話の展開も『人間の証明』や『君の名は。』を見たばかりだったので、特に違和感を覚えなかった。

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 さて、「予告篇」を見るに、毛筆体の白文字で説明が被るのだが、その初めの方を抜いて置く。場面ごとに仮に番号を附した。

①美しい/故郷
余呉/だけが知る*2
伝説
④全国の/佐久間ファンに/贈る――


 ①〜③は余呉湖畔の佐久間良子、④は京都で許嫁の作った三味線の糸を愛しそうに眺める佐久間良子。以下略。
 前回述べたように、さく(佐久間良子)の故郷は「余呉の湖」の辺りではないので、余呉湖を「美しい故郷」と云うのはおかしい。――こうした、映画本篇と予告篇との齟齬については、2013年3月15日付「松本清張『鬼畜』(2)」に述べたように、野村芳太郎監督の映画『鬼畜』にて、作品全体を把握しているはずの監督や脚本家とは無関係に作られたとしか思えない、との見当を示して置いたが、これは2016年5月22日付「松本清張『鬼畜』(11)」に引いた『鬼畜』の助監督の証言によって確認出来た。本作の予告篇もやはり、同じように作られたもののようである。
 さく(佐久間良子)は加代(悠木千帆)と同郷、百瀬喜太夫千秋実)が日誌に書き込んだように「若狭栗柄の在」の出身であるが、若狭(福井県)に栗柄と云う村はないようだ。近江國高島郡から若狭國三方郡へ抜ける峠道の一つに「栗柄越」がある。大正末から昭和初年当時で云えば滋賀県高島郡海津村(現・高島市マキノ町)から福井県三方郡耳村(現・美浜町)、耳村は耳川流域の大半を占めており、その、栗柄越を越えた辺りの山間部を想定しているのであろう。佐久間良子の方が悠木千帆(樹木希林)より約4歳年長なのだが、樹木希林の方が同郷の姉貴分を演じているのである。許嫁になる松宮宇吉(中村賀津雄)もやはり若狭の「常神」の出身で当時は福井県三方郡西田村、現在の三方上中郡若狭町常神、徴兵検査は耳村の中心部・河原市で受けることになっており、さくと、そのことでも話が弾んでいる。
 しかし「全国の佐久間ファンに贈る――」って凄いな。(以下続稿)

*1:強者が純情のようなものも示しつつ下手に出ることで、事を荒立てずに弱者を従わせる技巧と云えなくもない。いや、そこを全く意識せずに迫っているようには見えないから、厄介なのである。

*2:振り仮名「よご」。