瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(58)

高橋源一郎『武藏野歴史地理』第四册(昭和七年九月五日印刷・昭和七年九月十日發行・定價二、五〇・目次二六+六八二頁・四六判上製本
 装幀や内容、それから復刻版との異同などは昨日予告した通り夏にでも果たすことにして、今回は馬場喜信が、5月17日付(55)及び4月10日付(29)に見たように処女著作『八王子片倉台の地誌』及び論文「浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」にて引用もしくは現代語訳して引いていた、本書の道了堂に関する記述を眺めて置こう。
 一~三八八頁「第 七 篇 多摩川北岸地方北多摩郡南部」、三八九~六八二頁「第 八 篇 多摩川南岸地方=〈橘樹郡北西部南多摩郡東部〉」はまづ三八九頁2行め~三九八頁「多摩川南岸地方略説」があって、三九九~四八六頁「橘樹郡北西部」、四八七~六八二頁「南多摩郡東部」その最後、六四六~六八一頁2行めが「由木村」である。六六三~六六四頁「鑓 水」はまづ位置、江戸時代の領主と石高、戸数を述べ、六六四頁4行め「*」を7つ散らして仕切りにして5~12行め、以下の記述がある。なお、句読点は半角で入力したが、実際には字間に挟んでいるので0字分である。

鑓水大塚山道了堂は、此附近に於ける最高地點で、臺地の上に築きたて/たる古塚の如き丘上にある。大塚山といふも此丘の形によれる名であ/らう。此丘上は海拔正に二百十三メートル六、眺望の勝はいふまでもな/い。昔より此處から十二州の山川が見えるといはれて居る。十二州は兎/まれ、西南は近くは大山、丹澤、遠くは富士、西北は關東山系の山々一々指/呼の間にある。相模平野、八王子平野も勿論脚下に開展して居る。晴れた/日には相模灘も見られるといふ。明治十四年二月十九日明治天皇が御/兎狩をなされたる宇津貫御殿峠邊も此近くにある。


 六八二頁と奥付の間に折込まれている3色刷(黒で地名・道路・人家集落、淡い茶色で等高線、水色で河川)の「圖方地岸沿川摩多」は上部(北)に日野町・府中町・調布町、下部(南)に相原村・鶴川村・柿生村、右(東)に神代村・稻田村・生田村、左(西)は七生村・由木村の範囲を収める。但し由木村は下柚木と南大澤までで中山や鑓水は残念ながら範囲外である。(以下続稿)