瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(31)

 昭和30年(1955)春、正岡氏が宝塚若手落語会を見に来た折のことは、2月17日付(24)に引いた、本書の続編に当たる『風流艷色寄席』の記述*1、そして2月20日付(27)に引いた『桂米朝座談2』のために新収録された桂米朝(1925.11.6〜2015.3.19)の、大西信行(1929.5.8〜2016.1.10)との対談での回想に見えていることに注意して置いた。この対談は『桂米朝座談2』37頁8行めに「(平成十七年八月十一日、大阪・美々卯本店、写真=後藤清)」とあって、平成17年(2005)8月、桂米朝満80歳9ヶ月の折のものである。
 さて、この辺りのことを2月23日付「宇井無愁の上方落語研究(08)」に挙げた戸田学上方落語の戦後史』と照合して見るに、もちろん記述があるのだが、読んでいてどうも、妙な気分にさせられるのである。
 『上方落語の戦後史』の内容については、差当りカバー表紙折返しの紹介文を引いて置こう。

昭和に入ってからの上方落語は、漫才の台頭に押され、衰退の一途をたどって/いた。追い討ちをかけるように、戦後間もなく、古老の落語家が相次いで死去。/「上方落語は滅びた」といわれる危機的状況を迎える。
そのとき立ち上がったのが、四人の若手落語家――後に四天王と称される六代目/笑福亭松鶴桂米朝、五代目桂文枝、三代目桂春団治であった。
彼らは切磋琢磨して芸を磨き、落語会を開くため奔走する。古老たちに頼みこん/で稽古をつけてもらうなど、古典落語を継承する努力も怠らなかった。やがて、/実力を身に付けた彼らは人気を博し、弟子入りする若者も次第にふえていく――。
戦後の上方落語復興への努力と苦難、今日の隆盛への道のりを、四天王を軸に周/辺の落語家・興行師らも絡めて丹念に綴る。落語資料をひもときながら、六十年/の歩みを活き活きと描き上げた、著者渾身の落語通史。


 1頁19行、1行46字で549頁と云う大著で、547〜549頁「あとがき」の冒頭、547頁2〜4行めに、

 本書は、『読売新聞』大阪本社版に、平成十八(二〇〇六)年四月七日〜平成二十三(二〇一一)年十月三/日まで二百十三回連載された「戦後上方落語の60年」に、大幅に加筆訂正を施し一冊にまとめたもので/ある。

とその由来が述べてある。続いて連載企画を立てて戸田氏に執筆を慫慂した読売新聞の担当記者や、協力を快諾した桂米朝笑福亭仁鶴、そして『桂米朝集成』『桂米朝座談』の共編者である豊田善敬、連載中に反応を寄せた芸能関係者、そして前付v〜vi頁「序」を寄せた肥田晧三、vii〜viii頁「序に代えて」を寄せた大西信行、帯の紹介文(私は未見)を寄せた上岡龍太郎、そして岩波書店の編集者と校正者への謝辞が述べられている。(以下続稿)

*1:発行日と書影は2月18日付(25)に示した。――従って、本来ならこの辺りのことは『風流艷色寄席』の記事として別に立てるべきなのだが『風流艷色寄席』を未だ見ていないことと、2015年8月7日付(22)に見たように、同じ連載に由来するものであることから、『艷色落語講談鑑賞』のまま続けることにした。