瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(34)

戸田学上方落語の戦後史』(4)
 昭和30年(1955)春の、正岡氏の宝塚若手落語会訪問について、豊田善敬・戸田学 編『桂米朝座談2』と戸田学上方落語の戦後史』の記述の齟齬について。
 『桂米朝座談2』は晩年であるが正岡氏の応対をした桂米朝本人の回想である。『上方落語の戦後史』は客の入り、正岡氏の観覧場所、そして落語会の後について、全く異なっているのだが、依拠した資料は示されていない。
 『上方落語の戦後史』の依拠した資料は、2月25日付(31)に引いた「あとがき」の前、537〜545頁「参考文献 一覧(刊行年順)」に列挙されている。537頁2行め【書籍等】は543頁16行めまで、非売品やCD解説書まで137点、1行空けて543頁17行め【雑誌】は544頁11行めまで15点、1行空けて12行め以下を抜いて置く。

桂米之助スクラップ帖(昭和二十年〜三十二年、全三冊)
桂米之助日記
牧村史陽新聞きりぬき帖(昭和二十年〜五十二年、全九冊)
 
その他、各新聞、落語会パンフレット、機関紙・誌、会報類多数――。


 これらのうち「その他」に当たるものは、本文中の括弧に記入されている。しかし【書籍等】は必ずしもその限りではないようだ。それから、戸田氏が直接取材して得た芸人・関係者の証言も引かれているが、その場合、既に書籍等に発表されているものであってもその書名を示していない*1。まぁもとが新聞連載であるから、当然、一々典拠を示さないのは分かる。
 しかし、書籍化に際してはこれを表示して欲しかった。――列挙されているものの中には、余所ではちょっと閲覧出来ない、大阪にいても公共機関等では間に合わないと思われる資料も少なくない。面倒な作業だとは思うが、資料に番号を附して、頁数は入れなくとも良いから、とにかく番号によって、どの資料に拠って記述したのかを、明らかにして欲しかったのである。――前回引いた「親父痛」のAmazonレビューに「何に基づいて書いたか参考文献も詳述して欲しい」とあるのは、すなわち本文中の個々の記述ごとに依拠資料の明示を求めたものだと思われる。
 この宝塚若手落語会で云えば、もっと早い時期の資料に、桂米朝の晩年の証言を覆す記述があるのなら、話は簡単である。桂米朝の記憶違いで済む。しかしそれが分からない。参考文献の中には、この会に参加していた桂米之助の日記まで挙がっている。日記にあるのなら納得出来そうだが、2月26日付(32)に引いた戸田氏の記述は、日記そのままではなさそうである。
 そうすると、2月25日付(31)に引いた「あとがき」で戸田氏は、読売新聞社大阪本社文化部の佐藤浩記者からの連載企画の提案を承けて、547頁7〜11行め、

 非常に荷の重い企画ゆえ、まず私は、桂米朝師に相談した。すると、
「そういう仕事は今はうちにやっとかないかん。何かあったらいつでも連絡ください」
 とのお言葉をいただいた。
 この一言があってこそ、五年半にもおよぶ長期連載を書き続けることができた。米朝師には心より感/謝申し上げたい。

と、新聞連載に際して桂米朝の慫慂と協力があったことを明かしているのが気になる。――戸田氏は、例えば「桂米之助日記」のような決定的な証拠を元に、『桂米朝座談2』の発言が誤りであることを指摘し、新たな証言を引き出したのであろうか。しかしそれが分からないから判断出来ないし『上方落語の戦後史』に全幅の信頼を置いて使用するには躊躇を覚える、ような按配になってしまいそうなのである。(以下続稿)

*1:その発言に至る流れや関連するエピソード等、割愛された部分に参考になる内容があることが多いので、やはり書名を示して欲しいところなのである。