ここ数日記事を準備しながら、昭和末年の学校のことや、美術の授業のことなどを思い出していました。
それから、女子の美大生と云って思い出すのは、女子高非常勤講師時代に、何人か美術系大学を志望する生徒を教えたことです。そのとき、ふと、或いは、彼女らの先輩になっていたかも知れないんだな、と思ったものでした。――10代の頃に私に美術を専攻するよう勧めた人がいたからで、しかし今、何者にもなっていないように、結局そちらに進んだところでどうにもならなかった可能性の方が高いとは思うのですけれども。
2016年4月1日付「万城目学『鹿男あをによし』(1)」に述べたように、幼稚園児の頃に仏像に心惹かれるようになって、奈良・京都の古仏(国宝)のある寺院を小学校低学年までにあらかた廻りました。鎌倉にも連れて行かれましたが、あまり好きになれませんでした。
その低学年の頃、市の水彩画のコンクールで入選したことがあります。「雲の上ふわりふわり」だか「ぷかりぷかり」だか云う題で、これは指定されたテーマだったのか私が付けたのか覚えていませんが、朝礼か何かで賞状を貰ったことは記憶しています。雲の上で無重力状態のような按配で下駄履きで野球をしている、と云う変な絵で、その変なところが審査員の心を捉えたらしいのです。
しかしその後は、私の興味は仏像から何故か火山に移り、図画の作品が褒められると云ったこともなく過ごしていました。絵を描くようなこともなかったのですが、横浜市立中学時代、私はまた突如として彫像に目覚めてしまうのです。2016年2月23日付「松葉杖・セーラー服・お面・鬘(15)」に、自転車で三浦半島の付け根辺りを乗り回していたと書きましたが、これは実は庚申塔の調査をしていたのです。1:25000地形図で古道らしき道を察しては辿り、昔ながら辻に建っているのや、道路拡幅や住宅地造成のため寺社に移されたものを見付け、銘文を読んで、最初の頃はスケッチし、後期には写真を撮りました。何処がそんなに良かったのか、と聞かれても困るのですが、このときに古道の付けられ方や村落の立地、そして石造物の様式の変化や材質、文字の刻み方(これは後に国文学専攻となって若干役に立ちました)など、もう今は全くこういうものを探して歩いたりしませんが、身体に叩き込んでしまいました。一日で行ける範囲の見当を付けて、夕食までに帰らないと閉め出されますから、どの道が楽で短時間で済むか、なども地形図を見ながらすぐに読み取れるようになり、これは高校の山岳部時代に役に立ちました。副部長として先頭を歩いて、山岳地図には標準踏破時間が示してあるのですが、実際に歩いて見て計画よりも1本前のバスに間に合いそうだからペースを上げるとか、そういう見当を付けられるようになったのは中学時代の毎週の遠乗りに拠るところ大だったのです。
しかし、これも中学卒業後、兵庫県に移ると庚申塔をあまり見掛けなくなり*1、山岳部に入って高校1年生のときはそれで疲れ切ってしまいましたから、そのまま庚申塔熱も冷めてしまいました。そして学校での美術との縁もなくなって今に至るのです。
しかし、その前の中学時代、2人、私に美的センスがあると見抜いた人がいました。
2017年3月13日付「赤川次郎『早春物語』(1)」に書いた中学2年のときの「鎌倉まつり」かその前年の「鎌倉まつり」の少し前に、父と朝比奈切通しを抜けての帰途、バスで鎌倉駅に出たときに、運転手の後ろの板に「鎌倉まつり」期間中の本覚寺の寺宝展の広告があり、素木の豊頬の菩薩像の顔だけの写真だったのですが、見たいと思って「鎌倉まつり」期間の日曜、本覚寺に出掛けてみたのです。しかし、鎌倉の日蓮宗寺院は臨済宗寺院以上に彫刻に乏しくて掛幅が多く、正直拍子抜けしつつ、かなり奥に進んで漸く目当ての菩薩像に逢着したのですが、平等院の雲中供養菩薩の一躯を模したもので、驚いたことに胸が膨らんでいるのです。仏像の「八」の字型の厚い胸板とは違う、半円の乳首のある胸なのです。日本の仏像にはセクシーな像もありますが、直接的にセックスを感じさせるような描写はしません。乳首があるのは仁王像などの天部くらいなので、このような作りになっているのはすなわち現代の作品なのです。しかし、胸以外は雲中供養菩薩を端正に模してありましたから、人も殆どいませんでしたし、しばらく像の前にいて眺めていたところ、和服の太宰治みたいな恰好の小柄な中年男性が現れたのです。そこで私は初めて同年輩の美少女の裸体を垣間見てそのまま見入ってしまった現場を押さえられたような恥ずかしさを覚えたのですが、慌てて立つのも変だと思ってそのままやり過ごそうと思っていたら、何とその太宰みたいな人が、私に「良いか?」と訊いて来たのです。まさか知らぬ人から声を掛けられるとは思わなかったので、吃驚しつつ、
「いえ……。200円払ってますから、良く見とかないと、損かと思って……」
と言い訳がましく答えると、その太宰は「違うな」と言って、ふふんと笑ったのでした*2。――まぁ違うには違いないのですけれども、今にして思うに、あれは作者だったんだろうか、と、そんな気もするのです。(以下続稿)